図書カード:真景累ヶ淵

作品名: 真景累ヶ淵
作品名読み: しんけいかさねがふち
著者名:
三遊亭 円朝 

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作品データ

分類: NDC 779 913
作品について: 真景累ヶ淵は圓朝21歳(1859(安政6)年)の作といわれる。当初の演題は「累ヶ淵後日(ごにち)の怪談」と題し、道具仕立ての大掛かりな噺であったらしい。
しかし、明治維新を経て、1872(明治5)年より素噺(すばなし)に転向した圓朝は、「文明開化に怪談は通用しない」という言を容れて、演題を「真景累ヶ淵」と改めた。「真景」すなわち「神経」、幽霊というものはこの世にあるかないか分からないけれども、あると思うのは「神経」の為せるわざである、というのである。これが新奇を求める人々に大いにうけたらしい。確かに全編を通じて、いわゆる幽霊らしきものが出てくるのは、死んだはずの豐志賀が新吉を訪れる場面だけである。
話は、金貸しの宗悦が深見新左衞門に斬り殺されるところから始まる。時を経て、宗悦の娘園は新左衞門の長兄新五郎に殺され、宗悦のもう一人の娘豐志賀も父の仇の息子とは知らず、新五郎の弟新吉と深い仲になり、嫉妬に身を焦がし、ついには自害する。
ここまでが端緒で、以後、複雑に因果が絡み合った因縁噺となっていく。次第に噺が冗漫になっていく感は否めないし、最終的に因果応報噺になってしまうことにご不満の向きもあろうと思うが、これだけの大作にまとめ上げた圓朝の力量は、誰もが認めるところではなかろうか。
累ヶ淵は、現在CDで故林家正蔵のものが聴ける。また、故三遊亭円生のものもあるようだ。(以前、ラジオのNHK第一で放送していた)本来の話芸としての累ヶ淵を知るよすがとして、こちらもあわせて聴いていただけたらと思う。(小林繁雄)
wikipediaアイコン真景累ヶ淵
文字遣い種別: 新字新仮名
備考: この作品には、今日からみれば、不適切と受け取られる可能性のある表現がみられます。その旨をここに記載した上で、そのままの形で作品を公開します。(青空文庫)

作家データ

分類: 著者
作家名: 三遊亭 円朝
作家名読み: さんゆうてい えんちょう
ローマ字表記: San’yutei Encho
生年: 1839-05-13
没年: 1900-08-11
人物について: 江戸から明治への転換期にあって、伝統的な話芸に新たな可能性を開いた落語家。本名は出淵次郎吉(いずぶちじろきち)。二代三遊亭圓生門下の音曲師、橘屋圓太郎(出淵長藏)の子として江戸湯島に生まれ、7歳の時、子圓太を名乗って見よう見まねの芸で高座にあがる。後にあらためて、父の師の圓生に入門。母と義兄の反対にあっていったんは落語を離れ、商家に奉公し、転じて歌川国芳のもとで画家の修行を積むなどしたが、後に芸界に復帰。17歳で芸名を圓朝に改め、真打ちとなる。まずは派手な衣装や道具を使い、歌舞伎の雰囲気を盛り込んだ芝居噺で人気を博すが、援助出演を乞うた師匠に準備していた演目を先にかける仕打ちを受けたのを機に、「人のする話は決してなすまじ」と心に決める。以降、自作自演の怪談噺や、取材にもとづいた実録人情噺で独自の境地を開き、海外文学作品の翻案にも取り組んだ。生まれて間もない日本語速記術によって、圓朝の噺は速記本に仕立てられ、新聞に連載されるなどして人気を博す。これが二葉亭四迷らに影響を与え、文芸における言文一致の台頭を促した。大看板となった圓朝は、朝野の名士の知遇を得、禅を通じて山岡鉄舟に師事した。
wikipediaアイコン三遊亭圓朝
分類: 校訂者
作家名: 鈴木 行三
作家名読み: すずき こうぞう
ローマ字表記: Suzuki Kozo
没年: 1962-02-03

底本データ

底本: 定本 圓朝全集 巻の一
出版社: 近代文芸・資料複刻叢書、世界文庫
初版発行日: 1963(昭和38)年6月10日
入力に使用: 1963(昭和38)年6月10日
校正に使用: 1963(昭和38)年6月10日
底本の親本: 圓朝全集卷の一
出版社: 春陽堂
初版発行日: 1926(大正15)年9月3日

工作員データ

入力: 小林繁雄
校正: かとうかおり