「今ではすっかり埋められてしまって跡方も残っていませんが、ここが昔の帯取りの池というんですよ。江戸の時代にはまだちゃんと残っていました。御覧なさい。これですよ」
半七老人は万延版の江戸絵図をひろげて見せてくれた。市ヶ谷の月桂寺の西、尾州家の中屋敷の下におびとりの池という、かなり大きそうな池が水色に染められてあった。
「京都の近所にも同じような故蹟があるそうですが、江戸の絵図にもこの通り
「大きい錦蛇でも棲んでいたんでしょう」と、わたしは学者めかして云った。
「そんなことかも知れませんよ」と、半七老人は
それは安政六年の三月はじめであった。その年は余寒が割合に長かったせいか、池の岸にも葦の青い芽がまだ見えなかった。ある時、近所のものが通りかかると、岸の浅いところに女の派手な帯が長く尾をひいて、まん中の水の方まで流れているのを発見した。これが普通の池でも相当の問題になるべき発見であるのに、まして昔から帯取りの池という奇怪な伝説をもっている此の池に女の美しい帯が浮かんでいるのであるから、その噂はそれからそれへと伝わって、勿ち近所の大評判となったが、うっかり近寄ったらどんなに恐ろしい目に遇うかも知れないという不安があるので、臆病な見物人はただ遠いほうから眺めているばかりで、たれも進んでその帯の正体を見とどける者がなかった。
そのうちに尾州家から侍が二、三人出て来た。かれらは袴の
「誰がこんなところへ捨てて行ったんだろう」
それが第二の疑問であった。帯はまだ新しい綺麗なもので、この時代でも売れば相当の値になるものを、誰が惜し気もなく投げ込んで行ったものか、それに就いてはいろいろの想像説があらわれた。ある者は盗賊の
併しその盗賊は判らなかった。その被害者もあらわれて来なかった。疑問の帯は辻番所にひとまず保管されることになって、そのまま
おみよは今年十八で、おちかという
帯取りの池におみよの帯が浮かんでいた其の前の日の朝、この母子は練馬の方の親類に不幸があって、泊りがけでその手伝いに行かなければならないと云って、近所の人達に留守を頼んで出て行った。表の戸には錠をおろして行ったので、誰も内を覗いて見る人もなかったが、それからあしかけ四日目に阿母が一人で帰って来た。両隣りの人に挨拶して、やがて格子をあけてはいったかと思うと、たちまち泣き声をあげて
「おみよが死んでいます。皆さん、早く来てください」
近所の人達もおどろいて駈け付けると、娘のおみよは奥の六畳間に仰向けさまに倒れていた。それを聞いて家主も駈け付けた。やがて医師も来た。医師の診断によると、おみよは何者かに絞め殺されたのであった。更に不思議なことは、おみよは阿母と一緒に家を出た時と同じ
「おみよさんがいつの間に帰って来たんだろう」
それが第一に判らなかった。おちかの説明によると、その日練馬へゆく途中で、娘のすがたが急に見えなくなった。勿論その前から練馬へゆくのをひどく
「何がなにやら一向に判りません。わたくしはまるで夢のようでございます」と、おちかは正体もなく泣き崩れていた。
近所の人達も夢のようであった。おみよがいつの間に帰って来て、いつの間に殺されたか、両隣りの者すらも気がつかなかった。それにしてもおみよの帯を誰が解いて行ったかと詮議の末に、それがおとといの朝、かの帯取りの池に浮かんでいたということが初めて判った。おちかもその帯を見て、これは娘の物に相違ないと泣きながら証明した。して見ると、何者かがおみよを絞め殺して、その帯を解いて抱え出して、わざわざ帯取りの池へ投げ込んだものであろう。しかし、なんの為に彼女の帯を解いたか、慾の為ならばこの家内にもっと金目の品は幾らもある。彼女の帯ばかりでなく、着物をも
こうなると近所迷惑で、長屋中のものはみな自身番の取り調べをうけた。取り分けて母のおちかは、自分が娘を絞め殺して置いて、わざと家を留守にしていたのではないかという疑いをうけて、そのなかでも一番厳重に吟味されたが、おちかは全くなんにも知らないと云い張った。近所の人達も母子が二人づれで出て行くところを見とどけたと証明した。ことにこの母子はふだんから仲好しで、おふくろが娘を殺すような理由は誰の眼にも発見されなかった。帯取りの池の秘密はそのおそろしい伝説と同じように、いつまでも疑問のままで残されていた。
それから七日ばかりの後の夜であった。手先の松吉が神田三河町の半七の家へ威勢よく駈け込んで来た。
「親分、知れましたよ。あの帯取りの一件が······。近所の評判に嘘はねえ、おみよという女はやっぱり旦那取りをしていたんですよ。相手はなんでも旗本の隠居で、こっちから時々にそっと通っていたんです。おふくろは頻りに隠していたんですけれど、わっしがいろいろ嚇しつけて、とうとうそれだけの泥を吐かせて来たんですが、どうでしょう、それが何かの手がかりになりますまいか」
「むむ、それだけでも判ると、だいぶ見当がつく」と、半七はうなずいた。「おふくろを嚇かして来たんじゃあ、あんまり手柄にもならねえが······。ひょろ松、まあ手前にしちゃあ上出来のほうだ。おとなしそうに見えていても、旦那取りをするような女じゃあ、ほかにも又いろいろの
「さあ、それが判らねえから相談に来たんです。まさかその旗本の隠居が殺したんじゃありますめえ。親分はどう思います」
「おれもまさかと思うが······」と、半七は首をひねった。「だが、世間には案外なことがあるからな。なかなか油断はできねえ。その旗本はなんという屋敷で、隠居の下屋敷はどこにあるんだ」
「屋敷は大久保式部という千石取りで、その隠居の下屋敷は雑司ヶ谷にあるそうです」
「じゃあ、なにしろその雑司ヶ谷というのへ行って見ようじゃあねえか。飛んでもねえものに突き当るかも知れねえ」
あくる朝、松吉の誘いに来るのを待って、半七は二人づれで神田を出た。きょうは三月なかばの花見
「まるで一軒家ですね」と、松吉は云った。
なるほど背中合わせに一軒の屋敷があるだけで、右も左も広い畑地であった。近所で訊くと、この下屋敷には六十ばかりの御隠居が住んでいて、ほかには用人と若党と
「屋敷の奴が
「そうでしょうか」
「これだけの広い屋敷だ。おまけに近所に遠い一軒家も同様だ。妾をやっつける気があるなら、屋敷の中でやっつけるか、帰る途中をやっつけるか、何もわざわざ当人の家まで押し掛けて行くには及ばねえ。誰が考えてもそうじゃねえか」
「そうですねえ。じゃあ、きょうは無駄足でしたか」と、松吉は詰まらなそうな顔をしていた。
「だが、まあいいや、久し振りでこっちへ登って来たから、
二人は
「親分、なかなか御参詣があるねえ」
「花どきだ。おれたちのような浮気参りもあるんだろう。折角来たもんだ。よく拝んでいけ」
松吉もまじめになって拝んだ。
「あら、三河町の親分さん」と、女は立ち停まって愛想のいい笑顔をみせた。
「御信心だね」と、半七も笑って
「お前たちもお
「ほんとうに残念でございますね」と、女も笑った。「妹と二人で家をあけちゃあ困るんですけれど、きょうはよんどころない御代参を頼まれたもんですからね。一人で二つ願っちゃあ、あんまり慾張っているようで
「これが病気とでもいうのかえ」
松吉は親指を出してみせると、女は肩を少しそらせて笑った。
「ほほ、御冗談でしょう。可哀そうにこれでもまだお嫁入り前でさあね。御代参をたのまれたのは、町内の古着屋のおっかさんに······。と云い訳をするのも野暮ですが、そこの妹があたしのところへお稽古に来るもんですから」
「じゃあ、そのおっかさんも御信心なんだね」と、半七は何の気もつかずに云った。
「御信心も御信心ですけれど、すこし心配事がありましてね。そこの息子さんが十日ばかりも前から、どこへ行ってしまったか判らないんですよ。方々の
女は内藤新宿の北裏に住んでいる
「なにしろ、おっかさんが可哀そうですからね」と、お登久は同情するように云った。「妹はまだ子供ですし、稼ぎ人にいなくなられちゃあ、どうにもしようがないんです」
「そりゃあ気の毒だね。一体その息子はなんという男で、年は幾つぐらいだね」
半七に訊かれて、お登久は詳しくその息子の身の上を話した。彼は千次郎といって九つの春から市ヶ谷
「そこで、師匠。云うまでもねえこったが、その千次郎という息子は早く探し出さなけりゃあ困るんだろうね」
「ええ。一日でも早い方がいいんです。くどくも申す通り、おっかさんがひどく心配しているんですから」と、お登久はすがるように頼んだ。うす化粧をした彼女の顔に、不安の暗い影がありありと浮かんでいた。
「じゃあ、もう少し深入りして訊きてえことがあるんだが、師匠はどうせここへはいるつもりなんだろうから、おれ達も附き合ってもう一度引っ返そうじゃあねえか」
「でも、それじゃあんまりお気の毒ですから」
「なに、構わねえ。さあ、おれが案内者になるぜ」
半七は先に立って、茗荷屋へ再びはいった。好い加減に酒や肴をあつらえて、お登久と妹に飯を食わせてやったが、やがて時分を見て彼はお登久を別の小座敷へ連れて行った。
「ほかじゃあねえが、今の古着屋の息子の一件だが······。おめえも俺にたのむ以上は、なにもかも打明けてくれねえじゃあ、どうも水っぽくて仕事がしにくいんだが······」
にやにや笑いながらその顔をのぞき込まれて、お登久は少し酔っている顔をいよいよ紅くした。彼女は小菊の紙でくちびるのあたりを掩いながら俯向いていた。
「おい、師匠。野暮に堅くなっているじゃあねえか。さっきからの口ぶりで大抵判っているが、おめえは行く行くその古着屋の店へ坐り込んで、一緒に
「どうも相済みません」
「済むも済まねえもあるもんか。そりゃあそっち同士の芝居だ」と、半七は相変らず笑っていた。
「そこで、その千次郎という男は、無論に師匠ひとりを大切に守っているんだろうね。無暗に食い散らしをするような浮気者じゃあるめえね」
「それがどうも判りませんの」と、お登久は
千次郎は夜泊りなどをする様子はない。商売用のほかに方々遊びあるく様子もない。合羽坂にいるときから鬼子母神様が信仰で、月に二、三度はかならず参詣に来る。その以外には何の怪しい
「そうか。そいつあいけねえな」と、半七もまじめにうなずいた。「だが、師匠。おふくろに苦労させるのが可哀そうだからなんて、うまくおれを
お登久は真っ紅になって、
お登久の
「やい、ひょろ松。犬もあるけば棒にあたるとはこの事だ。雑司ヶ谷へ来たのも無駄にゃあならねえ。合羽坂の手がかりが少し付いたようだ。女中をちょいと呼んでくれ」
松吉が手を鳴らすと、
「どうもお構い申しませんで、済みません」
「なに、少しお前に訊きたいことがある。もとは市ヶ谷の質屋の番頭さんをしていた千ちゃんという人が、時々ここへ遊びに来やあしねえかね」
「はあ。お出でになります」
「月に二、三度は来るだろう」
「よく御存じでございますね」
「いつも一人で来るかえ」と、半七は笑いながら訊いた。「若い綺麗な娘と一緒にじゃあねえか」
女中は黙って笑っていた。併しだんだんに問いつめられて、彼女はこんなことをしゃべった。千次郎は三年ほど前から、毎月二、三度ずつその若い綺麗な娘と連れ立って来る。昼間来ることもあれば、夕方に来ることもある。現に
「十日ばかり前に来たときに、その娘は麻の葉絞りの紅い帯を締めていなかったかね」と、半七は訊いた。
「はあ、たしかにそうでございましたよ」
「いや、ありがとう。
幾らか包んだものを女中にやって、半七は茗荷屋の
「親分、なるほどちっとは当りが付いて来たようですね。なにしろ、その千次郎という野郎を引き挙げなけりゃあいけますめえ」
「そうだ」と、半七もうなずいた。「だが、
「ようがす。きっと受け合いました」
松吉に別れて、半七はまっすぐに神田へ帰ろうと思ったが、自分はまだ一度もその現場を見とどけたことがないので、念のために
「御苦労さまでございます。なにか御用でございますか」
「この裏の娘の家には、その後なんにも変ったことはありませんかね」
「けさほども長五郎親分が見えましたので、ちょっとお話をいたして置きましたが······」
長五郎というのは四谷から此の辺を縄張りにしている山の手の岡っ引である。長五郎がもう手をつけているところへ割り込んではいるのも良くないと思ったが、折角来たものであるから、ともかくも聞くだけのことは聞いて行こうと思った。
「長五郎にどんな話をしなすったんだ」
「あのおみよは人に殺されたんじゃないんです」と、亭主は云った。「おふくろもその当座は気が転倒しているもんですから、なんにも気が付かなかったんですが、きのうの朝、長火鉢のまん中の
「そりゃあ案外な事になったね。そうして、長五郎はなんと云いましたえ」と、半七は訊いた。
「親分も首をかしげていましたが、自滅じゃあどうも仕方がないと······」
「そうさ。自滅じゃあ詮議にもならねえ」
それからおみよが
「親分、どうもいけませんよ。あれから毎日張り込んでいるんですけれど、野郎は影も形も見せないんです。草鞋を穿いたんじゃありますめえか」
松吉の報告によると、その古着屋も師匠の家もみな平屋の狭い間取りで、どこにも隠れているような場所がありそうもない。古着屋の店にもおふくろが毎日坐っている。師匠の家でも毎日稽古をしている。ほかには何も変ったことはないと云った。
「師匠の家じゃあ相変わらず稽古をしているんだな。あそこの家の
「毎月
「二十日というとおとといだな」と、半七は少しかんがえた。「あの師匠、どんなものを食っている。魚屋も八百屋も出入りするんだろう。この二、三日の間、どんなものを買った」
それは松吉も一々調べていなかったが、自分の知っているだけのことを話した。そうして、おとといの
「それだけのことが判っていりゃあ申し分はねえじゃあねえか」と、半七は叱るように云った。「野郎は師匠の家に隠れているんだ。あたりめえよ。いくら新宿をそばに控えているからといって、今どきの場末の稽古師匠が毎日
師匠の家は四畳半と六畳の二間で、奥の横六畳に二間の床があると松吉は云った。床の下は戸棚になっているのが普通である。その戸棚のなかに男を隠まってあるものと半七は鑑定した。
「さあ、松。すぐ一緒に行こう。彼らは銭がなくなると、また何をしでかすか判ったもんじゃあねえ」
二人は新宿の北裏へ行った。
「おや、三河町の親分さん。先日はどうも御厄介になりました。その後まだお礼にも伺いませんで、なにしろ貧乏暇無しの上に、少し身体が悪かったもんでございますから。ほほほほほ」
杵屋お登久はべんべら物の
「妹はどうしたね」
「あの、きょうも御参詣にまいりました」
「鬼子母神様かえ」と、半七はお登久の持って来た桜湯をのみながら苦笑いをした。「なかなか御信心だねえ。だが、鬼子母神様を拝むより俺を拝んだ方がいいかも知れねえ。千次郎のたよりはすっかり判ったぜ」
お登久は眉を少し動かしたが、やがて調子をあわせるように、
「ほんとうにそうでございますね。親分さんにお願い申して置けば、それでもう安心なんでございますけれど······」
「冗談じゃねえ。ほんとうにたよりが判ったんだ。それを教えてやろうと思って、わざわざ下町からのぼって来たんだぜ。師匠、だれもほかにいやあしめえね」
「はあ」と、お登久はからだを固くして半七の顔を見つめていた。
「師匠の前じゃあちっと云いにくいことだが、千次郎は市ヶ谷合羽坂下の酒屋の裏にいるおみよという若い女と、近所の質屋に奉公している時分から引っからんでいたんだ。お前がふだんから気をまわしている相手というのはその女だ。ところで、そこにどういう因縁があったか知らねえが、千次郎とおみよは心中することになって、男はまず女を絞め殺した」
「まあ」と、お登久の顔は真っ蒼になった。「ほんとうに二人で死ぬ気だったんでしょうか」
「ほんとうも嘘もねえ。真剣に死ぬ気だったんだろう。だが、女の死ぬのを見ると、男は薄情なものさ。急に気が変って逃げ出して、それから何処かに隠れてしまったんだ。死んだ女は好い
「二人が心中だという確かな証拠があるんでしょうか」
「女の書置が見付かったから間違いもあるめえ」
云いかけてふと気がつくと、お登久の涼しい眼には涙がいっぱいに溜っていた。
「その女と心中までする位じゃあ、つまり私は欺されていたんですね」
「師匠にゃあ気の毒だが、煎じつめると、まあそんな理窟にもなるようだね」
「あたしはなぜこんなに馬鹿なんでしょうね」
もう堪まらなくなったらしい。お登久はじれるように身をふるわせて、襦袢の袖口を眼にあてた。裏口で犬が頻りに吠え付くのを、松吉は小声で追っているらしかったが、そんなことはお登久の耳にはちっともはいらないらしかった。彼女はやがて眼を拭きながら訊いた。
「それで、千さんの居どこが判ったらどうなるんでしょう」
「相手が死んだ以上は無事に済むわけのものでねえ」
「親分が見つけたら
「いやな役だが仕方がねえ」
「じゃあ、すぐに捉まえてください」
お登久はいきなり起ちあがって、床の下の戸棚をがらりとあけると、戸棚の隅には若い男の蒼ざめた顔が見えた。案の通りここに隠れていたなと思う間もなく、お登久は男の手をつかんで戸棚からぐいぐいと引き摺り出した。
「千ちゃん。お前さん、よくもあたしをだましたね。商売上で少し筋の悪い品を買って、飛んだ引き合いを食いそうになったから、ちっとの間どこかへ姿を隠すんだと云うから、
くやし涙の眼を
「もうこうなったら仕方がねえ」と、半七は
「恐れ入れました」と、千次郎はもう生きているような顔色はなかった。
「お前はあのおみよという女と心中したんだろう。女はおめえが絞めたのか」
「親分、それは違います。おみよはわたくしが殺したのじゃございません」
「嘘をつけ。女をだますのとは訳が違うぞ。天下の御用聞きの前で嘘八百をならべ立てると、飛んでもねえことになるぞ。人を見て物をいえ。現におみよの書置があるじゃあねえか」
「おみよの書置には心中とは書いてございません。おみよは自分ひとりで死んだのでございます」と、千次郎はふるえながら訴えた。
半七も少しゆき詰まった。心中というのは自分だけの鑑定で、成程おみよの書置に心中ということは書いてないらしかった。併しおみよとこの千次郎とがどうしても無関係とは思われなかった。
「それじゃあ、てめえはどうしておみよの書置の文句を知っている。おみよの死んだそばにいねえで、それが判る筈がねえ。第一に、おみよが自分一人で死んだということをどうして知っている。訳を云え」と、半七は
「正直に申し上げます」
「むむ。早く申し立てろ」
そばにはお登久が執念深そうな眼をして睨みつけているので、千次郎も少しためらっているらしかったが、半七に催促されて彼はとうとう思い切って白状した。かれは市ヶ谷の質屋に奉公している時から、近所のおみよと
これだけでもやがては面倒の種となりそうなところへ、さらにおそろしい面倒が湧き出しそうになって来た。それは千次郎とおみよとが雑司ヶ谷の茶屋で逢っているところを、大久保の屋敷の者に見つけられたのであった。この前の妾はなにか不埒をはたらいて主人の手討ちに逢ったとかいう噂を聞いているおみよは、根がおとなしい女だけに、もう生きている空もないようにふるえ上がってしまった。彼女は母と一緒に練馬へゆく途中から逃げて帰って、約束の茶屋で千次郎に逢って、自分の秘密が屋敷に知れた以上は、もう生きてはいられないと嘆いた。
その話を聞いて気の小さい千次郎はおびえた。おみよばかりでなく、不義の相手の自分とても或いは屋敷へ引っ立てられて、どんなわざわいに逢うかも知れないと恐れた。しかし彼は女と一緒に死ぬ気にもなれなかった。おみよから心中の話をほのめかされたのを、彼はいろいろに
あまりの驚きと悲しみとに、千次郎は
しかし彼は一種の不安に付きまとわれて、すぐに自分の家へ帰ることも出来なかった。たとい自分が手をおろして殺したのでないにもせよ、おみよの死について何かの
母に対しても、お登久に対しても、かれは正直に打ちあける勇気がないので、ここでもまた好い加減の嘘を作って、筋の悪い品物を買った為にその引き合いを受けるのが迷惑だから、当分は世間に顔を出したくないと云った。お登久は母と相談の上で、可愛い男を自分の家に隠まって置いた。その秘密は半七に
「それからどうしました」と、わたしは半七老人に訊いた。
「どうと云ってしようがありませんや」と、老人は笑っていた。「それが心中の片相手ならば