一
「いつかは弁天娘のお話をしましたから、きょうは鬼むすめのお話をしましょうか」と、半七老人は云った。
「お早うございます」
「やあ、お早う」と、裏庭の縁側で朝顔の鉢をながめていた半七は見かえった。「たいへん早いな、めずらしいぜ」
「なに、この頃はいつも早いのさ」
「そうでもあるめえ。朝顔の盛りは御存じねえ方だろう。だが、朝顔ももういけねえ、この通り
「そうですねえ」と、庄太は首をのばして
「なにが流行る、
「そんなことじゃあねえので······」と、庄太はまじめにささやいた。「実はわっしの隣りの家のお作という娘がゆうべ死んでね」
「どんな娘で、いくつになる」
「子供のような顔をしていたが、もう十九か
それが普通の死でないことは半七にもすぐに覚られた。かれはすぐに起ちあがって、茶の間へ庄太を連れ込んだ。
「そこで、その娘がどうした。殺されたか」
「殺されたには相違ねえんだが······。そいつが
「化け猫にか」と、半七は笑った。「いや、冗談じゃあねえ。ほんとうに啖い殺されたのか」
「ほんとうですよ。なにしろわっしの隣りですからね。こればかりは間違い無しです」
庄太の報告はこうであった。
今から半月ほどまえの宵に、
それから又五、六日経つと、更におそろしい出来事が起った。やはり同じ町内の酒屋の下女で、今年二十一になるお伝というのが、裏手の物置へ何か取り出しにゆくと、やがてきゃっという声をあげて倒れた。その悲鳴を聞きつけて、内から大勢が駈け出してみたが、薄暗い灯ともし頃で、そこらに物の影もみえなかった。お伝は何者にか喉笛を
それはこの晩、かの鼻緒屋のお
それでも鬼女の奇怪な事実はまだ一般には信じられなかった。ある人々はそれを臆病者の噂と聞き流して、いわゆる
諸人の不安がだんだん募って来た時、鬼娘は更に第三の
お作が啖い殺されたのは、ゆうべの六ツ半(午後七時)を過ぎた頃であった。いつもの通りに奥山の店から帰って来て、かれは台所で
「なにを覗いているのよ、おまえさんは······」
その声が終らないうちにお作はきゃっと叫んだ。おどろいてお伊勢は台所へ駈け付けてみると、
近所の人達もすぐに駈け付けた。町内の医者もすぐに来たが、お作は何者にか喉笛を啖い破られているので、もう手当てを加える
「その時におめえは
「ところが、親分。その時わっしは表の足袋屋の店へ行って、縁台で将棋をさしていたんですよ。この騒ぎにおどろいて帰って来た時には、長屋の者が唯わあわあ云っているばかりで、ほかには誰もいませんでした。白地の浴衣を着た女なんぞは影も形も見えませんでした」
「あの露路は抜け裏か」
「以前は通りぬけが出来たんですが、もともと広い露路でもなし、第一無用心だというので、おととし頃から奥の出口へ垣根を結ってしまったんですが、もういい加減に古くなったのと、近所の子供がいたずらをするのとで、竹はばらばらに毀れていますから、通りぬけをすれば出来ますよ」
「むむ」と、半七は考えていた。「無論、検視もあったんだろうが、なんにも手がかりは無しか」
「どうも判らねえようですね。今も
「喉笛へ
「さあ」と、庄太も少し考えていた。「わっしも死骸をみましたがね。喉笛はたしかに啖い切られていたようでしたよ。医者もそう云い、検視でもそう決まったんですが······。お前さんには何かほかの見込みがありますかえ」
「いや、おれにもまだ見当はつかねえが、どうにも腑に落ちねえようだな。それにしても、その鬼娘というのは何者だろう」
「それも判りませんよ」
「わからねえじゃあ困る。おれも考えてみるから、おめえも考えてくれ」
云いかけて、半七はふと何事かを思い出したらしく、持っている
「だが、なにしろ一度は行ってみよう。家にばかり涼んでいちゃあ埒があかねえ。重兵衛の縄張りをあらすようだが、おめえも土地に住んでいるんだ。おれが手伝って、おめえの顔を好くしてやろうか」
「ありがたい。何分ねがいます」
親分を案内して、庄太が出ようとすると、半七の女房がうしろから声をかけた。
「庄さん。どこへ」
「親分を引っ張り出して浅草へ······」と、庄太は笑った。「方角が悪いが、朝っぱらだから大丈夫ですよ」
「朝っぱらからでも昼っぱらからでも、おまえさんじゃあ油断が出来ない。おかみさんがお盆に来て愚痴を云っていたよ」
女房に笑われて、庄太は頭をかいていた。
二
「どうも暑いな」
「ことしは残暑が強うござんすね。これで九月に
「ちげえねえ。九月に
二人は笑いながら浅草の仲見世の方へ来かかると、そこらの店から大勢の人がばらばら駈け出した。往来の人達も何かわやわや云いながら駈け出して行った。
「なんだろう」と、半七は境内の方を見た。
「みんなお堂の方へ駈けて行くようですね。喧嘩か
「そんなことかも知れねえ。江戸は相変らず物見高けえな」
さのみ気にも留めないで、二人はやはりぶらぶらあるいてゆくと、駈けあつまる人の群れはだんだん多くなった。それに誘われて、二人もおのずと早足に仁王門をくぐると、観音堂前の大きい
それを遠巻きに見物している人達をかきわけて、半七と庄太は前へ出た。庄太は土地の者だけに、そのなかには顔なじみの者もあるらしく、一人の男に声をかけた。
「もし、どうしたんですえ、その中間は」
「鶏をぬすんで絞めたんですよ。しかも真っ昼間、ずうずうしい奴です」
観音の境内には鶏を奉納するものがある。それは誰も知っていることであるが、その鶏がこの頃たびたび紛失するので、土地の者も内々注意していると、
その挙動が怪しいので、気の早い者はすぐに彼を引っ捕えて詮議すると、中間は奉納の鶏に餌をあたえているのだと云った。鳩に豆をやると同じわけで、勿論それだけならば仔細はない。却って
「馬鹿な奴だな、若けえ者のくせに飛んだ
「これからどうするんですね」と、半七は訊いた。
鶏をぬすんだ罪人の仕置は、まだこれだけでは済まない。彼は
「そりゃあちっとむご過ぎるようだね。いくら寺内でしたことでも、土地の人達がそんなに勝手の仕置をするのはよくないだろう。なぜすぐ自身番へでも連れて行かないんですえ」
かれらは半七の顔を識らなかったが、それでも庄太の連れであるので、薄々はその身分を覚ったらしく、余計な世話を焼くなというような反抗の顔色も見せなかった。鶏をかかえている男は丁寧に答えた。
「それがおまえさん。今も云う通り、けさ初めてじゃあない。これまでにも度々盗んでいるんですからね。いや、まだここばかりじゃあない、この頃この近所でも、たびたび飼い鶏を取られるんですよ」
寺内の鶏をぬすみ、人家の鶏を盗み、その悪事重々の奴であるから、そのくらいの仕置は当然であるというような彼の口ぶりであったが、それならば猶更のこと、土地の者がわたくしの刑罰を加えるのはよくないと半七は思った。それを聴くと、今まで俯向いていた中間は俄かに顔をあげた。
「やい、やい、こいつら。さっきからおとなしくしていれば、図に乗って何を云やあがるんだ」と、かれは呶鳴った。「おれが取ったのはその鶏一羽だ。これまでに一度だって取った覚えはねえ。まして手前たちの飼い鶏なんぞは誰が知るもんか。きょうはおれ一人だから、こうして手籠めに遭っているんだ。部屋へ帰ったら、みんなを狩りあつめて来て片っ端から手前たちの頸を絞めて、骨は叩きにしてやるからそう思え」
「なにを云やあがるんだ。この狐野郎め」
二、三人が又なぐりに行こうとするのを、半七は制した。
「まあ、待ちなせえ。疵でも付けると面倒だ。そこでお中間、おめえはまったくこの一羽を取っただけかえ」
「あたりめえよ。部屋へ持って帰って、みんなで鍋焼きにしようと思っただけよ」と、中間は大きい眼をひからせて云った。「一羽でよせばよかったのを、もう一羽と長追いをしたのが運の尽きだ。おれは
かれは吐き出すように罵った。
「まあ、いい」と、半七はまた制した。「たとい一羽でも取った以上はおめえが悪い。まあ我慢するがいいぜ。わたしもここへ来たのが係り合いだ。まあ、なんとかみんなと話し合いをつけてみよう」
そのなかで重立っているらしい三、四人を、すこし
「こいつら、おぼえていろ」
睨みまわして立ち去ろうとする中間を、半七は呼び止めた。
「おめえ、それがおとなしくねえ。悪いことをして威張る奴があるもんか。まあ、黙って引き取りなせえ」
云いながら彼は中間の手に二朱の金をそっと握らせた。
「どうも済まねえ。いろいろ御厄介になりました」と、中間は顔の色を直して立ち去った。
「はは、これでいい。ついでと云っちゃあ済まねえが、ここまで来たからお詣りをして行こうよ」
大勢の挨拶をうしろに聞きながら、半七は観音堂の段をのぼって行った。参詣も済んで、横手の随身門を出ると、庄太があとから追って来た。
「親分。つまらねえ散財をしましたね。みんなもよろしく云ってくれと云っていましたよ。だが、だんだん聞いてみると、まったく今朝ばかりじゃあねえ、この頃はたびたび鶏を取っていく奴があるそうですよ。それだもんだからみんなも余計に憎しみをかけて、あんな仕置をするようにもなったんだから、親分にもよくその訳を云ってくれと頼んでいました」
「むむ」と、半七は笑いながらうなずいた。「あの中間はとんだ
「そうでしょうか」
「一朱や二朱は惜しくねえ。これで大抵あたりも付いたようだ」
「あたりが付きましたかえ」
「だが、もう少し考えてみよう」と、半七はまた笑った。「まだほんとうにお膳立てが出来ねえからな」
庄太に案内させて、半七はまず馬道の鼻緒屋をたずねた。娘のお捨に逢って、このあいだの晩彼女が嚇されたという若い女の年頃や風俗についていろいろ詮議したが、お捨はまだ十五六の小娘で殊に
ここの詮議はそれだけにして、半七は更に同町内の酒屋をたずねた。
三
酒屋で帳場に居あわせた亭主が庄太の顔をみて丁寧に挨拶した。ふたりは店に腰をかけて、下女のお伝が何者にか啖い殺された当夜のありさまを聞きただしたが、これも薄暗がりの時刻であり、且は不意の出来事であるので、亭主は二人が満足するような詳しい説明をあたえることは出来なかった。しかしお伝は二年越しここに奉公している正直者で、今までに浮いた噂などは勿論なかったと亭主は証明した。
二人はここを出て、山の宿の小間物屋をたずねたが、これは誰も知らないあいだの出来事であるので、そこの女房がどうして殺されたのか、まるで判らなかった。
「親分。しようがありませんねえ」と、庄太はそこの店を出て、汗をふきながら舌打ちした。
「まあ、あせるな。これでも眼鼻はだんだんに付いて行く。これからおめえの隣りへ行こう」
庄太は自分の住んでいる露路のなかへ半七を案内すると、となりのお作の家には近所の人達があつまっていた。庄太の女房も手伝いに行っていたが、半七の来たのを知ってあわただしく帰って来た。お作のとむらいは今日の夕方に出るはずだと彼女は話した。
半七は更に庄太に案内させて、露路の奥を見まわった。庄太の云った通り、ぬけ裏のゆき止りを竹垣でふさいであったが、その古い竹はもうばらばらに
「お作のおふくろを呼んで来ましょうか」
「そうさなあ、こっちへ来て貰った方が静かでいいな」と、半七は云った。
お作の母はすぐに隣りから呼ばれて来た。ひとり娘をうしなったお伊勢は眼を泣き
「どうも飛んだことだったね」と、半七は一と通りの悔みを云った上で、あらためて訊いた。「そこで早速だが、ゆうべのことに就いてなんにも心あたりはねえのかえ」
お伊勢は鼻をすすりながら昨夜の
「その女の人相というのはちっとも判らなかったかえ」
その女が白地の手拭をかぶって、白地の浴衣を着ていたのは、お伊勢もたしかに認めたが、そのほかのことは夜目遠目でやはりはっきりとは判らなかった。しかしそれが若い女であるらしいことは、彼女もお捨の申し立てと一致していた。
「その女は
「はい、どうもそうらしゅうございました」と、お伊勢は思い出したように云った。
年のわかい、白地の浴衣を着た跣足の女、それだけのことはもう疑う余地がなかった。半七はその上にもう少し何かの手がかりを得たかったが、相手はとかくに涙が先に立つので、しどろもどろのその口から何も聞き出せそうもないと諦めて、半七はそのままお伊勢を帰してやることにした。
「どうぞ娘のかたきをお取りください」
お伊勢はくり返して頼んで帰った。やがてもう
「どうですえ、親分。お調べはもうこんなものですか」と、庄太は酌をしながら小声で訊いた。
「どうも仕方がねえ。差し当りはこのくらいかな」と、半七も小声で云った。「そこで、おれの考えじゃあ、この一件は二つの筋が一つにこぐらかっているらしい。まず人を啖い殺すやつは
「そうでしょうか」
「人を啖うばかりじゃあねえ。そこらで鶏がたびたびなくなるという。勿論、鬼娘が見あたり次第に相手を取っ捉まえて、人間でも鳥でも構わずに、その
半七は袂をさぐって、鼻紙にひねったものを出すと、庄太は大事そうにあけて見た。
「こんなものをどこで見付けたんですえ」
「それは露路の奥の垣根に引っかかっていたのよ。勿論、あすこらのことだから何がくぐるめえものでもねえが、なにしろそれは
「そうですね」と、庄太は丁寧に紙をひろげて、その上にうず巻いているような五、六本の黒い毛を透かすように眺めていた。
「まだそればかりじゃあねえ。垣根の近所には
半七は彼の耳に口をよせてささやくと、庄太は幾たびかうなずいた。
「そうかも知れませんね。ところで、鬼娘の方はなんでしょう。やっぱり気ちがいでしょうかね」
「気ちがいかなあ」と、半七は相手をじらすように笑っていた。
「だって、おまえさん。猫じゃ猫じゃでも踊りゃあしめえし、手拭をかぶって、浴衣を着て、跣足でそこらをうろうろしているところは、どうしても正気の人間の
「それもそうだが、まあ聴け」
半七は再び彼にささやくと、庄太はだんだんに顔を崩して笑い出した。
「なるほど、なるほど、いや、どうも恐れ入りました。きっとそれです、それに相違ありませんよ」
「ところで、それについて何か心あたりはねえかな」
庄太は更に顔をしかめて考えていたが、やがて両手をぽんと打った。
「あります、あります」
「あるかえ」
「もし、親分。こういうお誂え向きのがありますぜ」
今度は庄太がささやくと、半七はほほえんだ。
「もう考えることはねえ。それだ、それだ」
二人は手筈をしめし合わせて一旦別れた。半七はそれから小梅の
「もう帰ったのか」
云いながら半七は
「さっき帰って来て、待っていましたよ」と、庄太は誇るように云った。「まったく親分の眼は高けえ、
「そりゃあお手柄だ。やっぱりおれの鑑定通りだな」
「そうです、そうです」
かれが摺り寄ってささやくのを、半七は一々うなずきながら聴いていた。
「そうすると、さっきの約束通りにするかな」
「そうするよりほかにしようがありますまい」と、庄太も云った。「なにしろ確かな証拠を握らないじゃあ、あとが面倒ですからね」
「まったくだ。あとで世話を焼かされるのも困るからな。じゃあ、仕方がねえ。いよいよ一と汗かくかな」
「それほどのこともありますめえ」
「そうでねえ。むこうには怖ろしい味方が付いているからな」と、半七は笑った。「だが、まだ早い。隣りのとむらいの
「ええ、暗くなるにはまだ
「ちげえねえ。戦場だからな」
「鰻でも取りますか」
「それがよかろう」
鰻の蒲焼を註文して、二人は早い夕飯を済ませると、七月の日もかたむいて来た。露路のなかはひとしきり騒がしくなって、となりの
「庄太の奴め、そそくさして、蚊いぶしを忘れて出て行きゃあがった。とてもやりきれねえ。そこらに道具があるだろう」
半七は台所へ行って、土焼きの豚をさがし出して来た。更にそこらを捜しまわって、ようやく蚊いぶしの支度をしたところへ、一人の男がたずねて来た。
「庄太さん。内ですかえ」
「あい、あい」と、半七はすぐに起って出た。「おまえさんは庄太にたのまれて来なすったんじゃあねえかね。わたしは半七ですよ」
「親分さんですか」と、男は
「どうも御苦労さん。おまえさんに少し手を貸して貰わなけりゃあならねえことが出来たんでね。まあ、おかけなせえ」
この男にも何かささやくと、かれは笑いながらうなずいた。
「大丈夫かね」と、半七は念を押した。
「まあ、うまくやりましょう」
「ここにいて藪蚊に責められているのも知恵がねえ。おまえさんが丁度来たから、もうそろそろ出かけるとしようか」
形ばかりに戸をひき立てて、内は留守だからと隣りの人にことわって、半七はかの男と共に露路を出ると、表通りはもう夜になっていた。かねて打ち合わせがしてあるので、半七はなるべく往来の少ないところを
吉原通いらしい鼻唄の声を聴きながら、二人はここに半刻ほども待ち暮らしていると、暗いなかから人の来るような足音が低くきこえた。勿論、今までに幾人も通ったが、北の方からきこえて来るその足音がどうも待っているものであるらしく直覚されたので、半七は
北から来る足音はだんたん近づいて、それは素足で土を踏んでいるようで、極めて低い
「もし、姐さん」
人はなんにも答えなかったが、暗い底で俄かに
逃げようとする女は、半七に曳き戻されて、寺の門前に捻じ伏せられた。人と獣との闘いもやがて終ったらしく、寺町の闇は元の静けさにかえった。
「どうした」と、半七は声をかけた。「
「大丈夫です」
それは庄太の声であった。
四
灯のあかるい往来へ引き摺ってゆかれたのは、白地の浴衣を着た
自身番へ引っ立てられた時、かれは狂女を
彼女はお紺という
お紺はよんどころなく商売をやめて、そこらを流れ渡っているうちに、吉原の或る女郎屋の
こうなると、かれの悪い癖はいよいよ増長して来た。お紺は方々の店先で手あたり次第に品物を掻っさらった。しかも或るところでそれを見つけられて、店の者に袋叩きにして追い払われたことがあったので、その
彼女はこういうことに一種の興味をもっているので、更に自分の顔を怪しくみせることを考えた。それは自分が仕事をする場合に、ひとを
鼻緒屋のお捨はそれに嚇されたのであったが、時刻は宵で、しかも往来のまん中であったので、彼女は単にその弱い魂をおびやかされたに過ぎなかったが、酒屋のお伝は若い命をうしなったのである。お紺が酒屋の裏口をうかがって、その物置から何か持ち出そうとするところへ、あたかもお伝が来あわせて、かれを怪しんで取り押えようとしたので、忠実な犬はたちまち相手に飛びかかって主人を救った。犬がその敵に噛みつくのは、いつも喉笛の急所であるべく教えられていた。第二の
そのほかにもお紺は所々で盗みを働いていたが、幸いに人にも見咎められなかったのである。そこらで鶏をぬすんだのも、やはり彼女の仕業であった。その申し立てによると、お紺も最初は鶏に眼をつけていなかったが、ある時にその犬が一羽の鶏を咬んだのをみて、なんでも盗むことに興味を持っている彼女は、その以来、犬をつかって鶏を捕らせることをも思い付いたのである。その鶏は自分も食ったが、多くは千住あたりの鳥屋へ売ったと白状した。かれは更にその犬をつかって、猫を捕らせることをも考えているうちに、自分が半七の手に捕えられてしまった。
お紺は引きまわしの上で、千住で獄門にかけられた。三人までも人の命をほろぼしているのであるが、ひとりも自分が手をおろしたのではない。いずれも犬を使ったのであるということが諸人の好奇心をそそって、それが江戸じゅうの評判になった。江戸の町奉行所が開かれて以来、こんな人殺しの記録はかつてなかった。
かれが引きまわしになる時に、一匹の犬も頑丈な口輪をはめられて、その馬のあとから
「まあ、こういう訳なんです」と、半七老人は一と息ついた。「わたくしも初めは何がなんだか見当が付かなかったんですが、浅草へ出かけての鶏の一件にぶつかってから、どうもその鶏の一件と鬼娘の一件とが何かの糸を引いているらしいと思い付いたんです。それからだんだん調べて行った挙げ句に、なんでも人間が犬を使ってやる仕事だろうと睨んだので、庄太にそれを相談すると、吉原の堤下にお紺という