一
秋の宵であった。どこかで題目太鼓の
「七偏人が百物語をしたのは、こんな晩でしょうね」と、わたしは云い出した。
「そうでしょうよ」と、半七老人は笑っていた。「あれは勿論つくり話ですけれど、百物語なんていうものは、昔はほんとうにやったもんですよ。なにしろ江戸時代には馬鹿に怪談が
「あなたの御商売の畑にもずいぶん怪談がありましょうね」
「随分ありますが、わたくし共の方の怪談にはどうもほんとうの怪談が少なくって、しまいへ行くとだんだんに種の割れるのが多くって困りますよ。あなたにはまだ津の国屋のお話はしませんでしたっけね」
「いいえ、伺いません。怪談ですか」
「怪談です」と、老人はまじめにうなずいた。「しかもこの赤坂にあったことなんです。これはわたくしが正面から掛り合った事件じゃありません。桐畑の常吉という若い奴が働いた仕事で、わたくしはその親父の幸右衛門という男の世話になったことがあった関係上、蔭へまわって若い者の片棒をかついでやったわけですから、いくらか聞き落しもあるかも知れません。なにしろ随分入り組んでいる話で、ちょいと聴くと何だか嘘らしいようですが、まがいなしの実録、そのつもりで聴いて下さい。昔と云っても、たった三四十年前ですけれども、それでも世界がまるで違っていて、今の人には思いも付かないようなことが時々ありました」
赤坂
甲州街道の砂を浴びて、気味のわるい襟元の汗をふきながら、文字春は四谷の大通りをまっすぐに急いでくる途中で、彼女は自分のあとに付いてくる十六七の娘を見かえった。
「
この娘は、さっきから文字春のあとになり先になって、影のように付きまとって来るのであった。うす暗がりでよくは判らないが、
唯それだけなら別に仔細もないのであるが、彼女はとかくに文字春のそばを離れないで、あたかも道連れであるかのようにこすり付いて歩いてくる。それがうるさくもあったが、おそらく若い娘の心寂しいので、ただ何がなしに人のあとを追って来るのであろうと思って、初めは格別に気にも止めなかったが、あまりしつこく付きまとって来るので、文字春もしまいには
しかし相手は
「はい。赤坂の方へ······」
「赤坂はどこです」
「裏伝馬町というところへ······」
文字春はまたぎょっとした。本来ならば丁度いい道連れともいうべきであるが、この場合に彼女はとてもそんなことを考えてはいられなかった。彼女はどうして此の娘が自分のゆく先を知っているのであろうと怪しみ恐れた。彼女は左右を見かえりながら又訊いた。
「おまえさんは裏伝馬町のなんという
「津の国屋という酒屋へ······」
「そうして、おまえさんは何処から来たの」
「八王子の方から」
「そう」
とは云ったが、文字春はいよいよおかしく思った。近いところと云っても、八王子から江戸の赤坂まで辿って来るのは、この時代では一つの旅である。しかも見たところでは、この娘はなんの旅支度もしていない。笠もなく、手荷物もなく、
「津の国屋に誰か知っている人でもあるの」
「はい。逢いにいく人があります」
「なんという人」
「お雪さんという
お雪というのは津の国屋の秘蔵娘で、文字春のところへ常磐津の稽古に来るのであった。怪しい娘が自分の弟子をたずねてゆく||文字春は更に不安の種をました。お雪は今年十七で、町内でも評判の
「そのお雪さんを前から識っているの」
「いいえ」と、娘は微かに答えた。
「一度も逢ったことはないの」
「逢ったことはありません。姉さんには逢いましたけれど······」
文字春はなんだか忌な心持になった。お雪の姉のお清は、今から十年前に急病で死んだのである。それにしても此の娘がどうしてそのお清を識っているのかを、彼女は更に詮議しなければならなかった。
「死んだお清さんはお前さんのお友達なの」
娘は黙っていた。
「おまえさんの名は」
娘はやはり
四谷の大通りを行き尽すと、どうしても暗い寂しい御堀端を通らなければならない。文字春は云い知れない不安に襲われながら、明るい両側の灯をうしろに見て、御堀端を右に切れると、娘はやはり俯向いて彼女について来た。松平佐渡守の屋敷前をゆき過ぎて、
「おい、師匠。どうした」
声をかけられてよく視ると、それは同町内に住んでいる大工の兼吉であった。
「あ、
「どうした。ひどく息を切って、何かいたずら者にでも出っ食わしたのかえ」
「え。そうじゃないけれど······」と、文字春は息をはずませながら云った。「おまえさん、町内へ帰るんでしょう」
「そうさ。友達のところへ行って、将棋をさしていて遅くなっちまったのさ。師匠は一体どっちの方角へ行くんだ。[#「。」はママ]」
「あたしも家へ帰るの。
兼吉はもう五十ばかりであるが、男でもあり、職人でもあり、こういう時の道連れには
「あたしは最初からなんだか気味が悪くってしようがなかったんですよ。別にこうということもないんですけれど、唯なんだか忌な心持で······。そうすると、とうとう途中でふいと消えてしまうんですもの。あたしは夢中で四谷の方へ逃げだして、これからどうしようかと思っているところへ丁度棟梁が来てくれたので、あたしも生きかえったような心持になったんですよ」
「そりゃあ少し変だ」と、兼吉も暗いなかで声を低めた。「師匠。その娘は十六七で、島田に
「そうよ。よく判らなかったけれど、色の白い、ちょいといい
「なんで津の国屋へ行くんだろう」
「お雪さんに逢いに行くんだって······。お雪さんには初めて逢うんだけれど、死んだ姉さんには逢ったことがあるようなことを云っていました」
「むむう。そりゃあいけねえ」と、兼吉は溜息をついた。「又来たのか」
文字春は飛び上がって、兼吉の手をしっかりと掴んだ。彼女は唇をふるわせて訊いた。
「じゃあ、棟梁。おまえさん、あの娘を知っているのかえ」
「むむ。可哀そうに、お雪さんも長いことはあるめえ」
文字春はもう声が出なくなった。かれは兼吉の手に
二
自分の
「ほんとうに今夜はおかげさまで助かりました。信心まいりも
彼女は兼吉を無理に呼び込んだのも、実はこの恐ろしそうな秘密を聞き出したいためであった。兼吉も初めはいい加減に
「出入り場の噂をするようで良くねえが、師匠はおいらから見ると半分も年が違うんだから、なんにも知らねえ筈だ。その
「いいえ。こっちで訊いても黙っているんです。おかしいじゃありませんか」
「むむ。おかしい。その娘の名はお安というんだろうと思う。八王子の方で死んだ筈だ」
文字春はいよいよ[#「いよいよ」は底本では「よいよい」]身を固くして、ひと膝のり出した。
「そうです、そうですよ。八王子の方から来たと云っていましたよ。じゃあ、あの娘は八王子の方で死んだんですか」
「なんでも井戸へ身を投げて死んだという噂だが、遠いところの事だから確かには判らねえ。身を投げたか首をくくったか、どっちにしても変死には違げえねえんだ」
「まあ」と、文字春は真っ蒼になった。「一体どうして死んだんでしょうね」
「こんなことは津の国屋でも隠しているし、おいら達も知らねえ顔をしているんだが、おめえは今夜その道連れになって来たというから、まんざら係り合いのねえこともねえから」
「あら、棟梁、
「まあさ。ともかくも其の娘と一緒に来たんだから、まんざら因縁のねえことはねえ。それだから
文字春は黙ってうなずいた。
「おいらも遠い昔のことはよく知らねえが、親父なんぞの話を聞くと、あの津の国屋という
「ほんとうにねえ」と、文字春も溜息をついた。「いっそ貰い子が男だと、
「それだから困る。いっそ其のわけを云って、貰い娘は八王子の里へ戻してしまったらよさそうなものだったが、そうもゆかねえ訳があると見えて、その貰い娘のお安ちゃんが十七になった時に、とうとう追い出してしまった。勿論、ただ追い出すという訳にゃゆかねえ。店へ出入りの屋根屋の職人と
「そんなことは嘘なんですか」
「どうも嘘らしい」と、兼吉は首をふった。「その職人は竹と云って、年も若し、
「まあ、可哀そうだわねえ」と、文字春も眼をうるませた。「それからどうしたの」
「それから八王子へ帰って、間もなく死んでしまったという噂だ。今もいう通り、身を投げたか首をくくったか知らねえが、なにしろ津の国屋を恨んで死んだに相違ねえ。娘はまあそれとして、その相手と決められた屋根屋の竹の野郎がおとなしく黙っているのがおかしいと思っていると、それからふた月ばかり
「怖いわねえ。悪いことは出来ないわねえ」と、文字春は今更のように溜息をついた。
「どっちにしてもお安という娘は死ぬ、その相手だという竹の野郎もつづいて死ぬ。それでまあ
「棟梁」
「いや、おどかす訳じゃあねえ」と、兼吉はわざと笑ってみせた。「実はね、津の国屋の惣領娘がわずらいつく二、三日まえの晩に、近所の者が外へ出ると、町内の角で一人の娘に逢った。娘は
「もう止してください。わかりましたよ」と、文字春はもう身動きが出来なくなったらしく、片手を畳に突いたままで眼を据えていた。
「いや、もうちっとだ。その娘がどうしても津の国屋の貰い娘のお安ちゃんに相違ねえので、思わず声をかけようとすると、娘の姿は消えてしまったという話だ。おいらもその話をかねて聞いていたが、なにを云うのかと思って碌に気にも留めずにいたが、今夜の師匠の話を聴いてみると、成程それも嘘じゃなかったらしい。そのお安ちゃんが又お迎いにやって来たんだ。津の国屋のお雪ちゃんは今年十七になったからね」
台所でかたりという音がきこえたので、文字春はまたぎょっとした。菓子を買いに行った小女が今ようやく帰って来たのであった。
三
文字春はその晩おちおち眠られなかった。撫子の浴衣を着た若い女が
近所の娘たちはいつもの通りに稽古に来た。津の国屋のお雪も来た。お雪の無事な顔をみて、文字春はまずほっと安心したが、そのうしろには眼にみえないお安の影が付きまとっているのではないかと思うと、彼女はお雪と向い合うのがなんだか薄気味悪かった。稽古が済むと、お雪はこんなことを云い出した。
「お
文字春は胸をおどらせた。
「かれこれ五ツ半(午後九時)頃でしたろう」と、お雪は話した。「あたしが店の前の縁台に腰をかけて涼んでいると、白地の浴衣を着た······丁度あたしと同い年くらいの娘が家の前に立って、なんだか仔細ありそうに家の中をいつまでも覗いているんです。どうもおかしな人だと思っていると、店の長太郎も気がついて、なにか御用ですかと声をかけると、その娘は黙ってすうと行ってしまったんです。それから少し経つと、知らない駕籠屋が来て駕籠賃をくれと云いますから、それは間違いだろう、ここの家で駕籠なんかに乗った者はないと云うと、いいえ、四谷見附のそばから娘さんを乗せて来ました。その娘さんは町内の角で降りて、駕籠賃は津の国屋へ行って貰ってくれと云ったから、それでここへ受け取りに来たんだと云って、どうしても
「それから、どうして······」
「それでも、こっちじゃ全く覚えがないんですもの」と、お雪は不平らしく云った。「番頭も帳場から出て来て、一体その娘はどんな女だと訊くと、年ごろは十七八で撫子の模様の浴衣を着ていたと云うんです。してみると、たった今ここの店を覗いていた娘に相違ない。そんないい加減なことを云って、駕籠賃を踏み倒して逃げたんだろうと云っていると、奥からお父っさんが出て来て、たとい嘘にもしろ、津の国屋の暖簾を
「そりゃ全くですわね」
なにげなく
慾得ずくばかりでなく、かれは弟子師匠の人情から考えても、久しい
重ねがさね忌な話ばかり聞かされるのと、ゆうべ碌々に眠らなかった疲れとで、文字春はいよいよ気分が悪くなって、
あくる日も朝から暑かった。お雪は相変らず稽古に来たので、文字春はまず安心した。こうして二日も三日も無事につづいたので、彼女が恐怖の念も少し薄らいできて、夜もはじめて眠られるようになった。しかし撫子の浴衣を着たお安の亡霊がたしかに自分と道連れになって来たことを考えると、まだ滅多に油断はできないと危ぶんでいると、それから五日目になって、お雪は稽古に来た時にこんなことを又話した。
「
「どうしたんです」と、文字春は又ひやりとした。
「きのうの夕方もう六ツ過ぎでしたろう。阿母さんが二階へなにか取りに行くと、
「足を挫いたのですか」
「お医者はひどく挫いたんじゃないと云いますけれど、なんだか骨がずきずき痛むと云って、けさもやっぱり横になっているんです。いつもは女中をやるんですけれど、ゆうべに限って自分が二階へあがって行って、どうしたはずみか、そんな
「そりゃほんとうに飛んだ御災難でしたね。いずれお見舞にうかがいますから、どうぞ宜しく」
お安の
「お稽古でお忙がしい処をわざわざありがとうございました[#「ございました」は底本では「ごさいました」]。どうも思いもよらない災難で飛んだ目に逢いました」と、お藤は眉をしかめながら云った。「なに、二階の物干へ洗濯物を取込みに上がったんです。いつも女中がするんですけれど、その女中が怪我をしましてね。井戸端で水を汲んでいるうちに、手桶をさげたまますべって転んで、これも膝っ小僧を擦り剥いたと云って
それからそれへと
津の国屋の女房はその後
かれは程近い円通寺のお祖師様へ
四
津の国屋の女房お藤の怪我はどうもはかばかしく癒らなかった。何分にも足の痛みどころであるから、それを悪くこじらせて打ち身のようになっても困るという心配から、そのころ浅草の
七月の初め、むかしの暦でいえばもう秋であるが、残暑はなかなか強いのと、その医者は非常に繁昌で、少し遅く行くといつまでも玄関に待たされるおそれがあるのとで、お藤は努めて
僧は四十前後で、まず普通の托鉢僧という姿であった。托鉢の僧が店のさきに立つ||それは別にめずらしいことでもなかったが、ここらでかつて見馴れない出家であるのと、気のせいか彼の様子が何となく普通とは変って見えるので、お藤は駕籠によりかかったままでしばらく眺めていると、僧はやがて店の前を立ち去って、お藤の駕籠のそばを通りすぎる時に、口のうちでつぶやくように云うのが聞えた。
「凶宅じゃ。南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ」
「あ、もし」と、お藤は思わず彼をよび止めた。「御出家様にちょいと伺いますが、何かこの家に悪いことでもございますか」
「死霊の祟りがある。お気の毒じゃが、この家は絶えるかも知れぬ」
こう云い捨てて彼は
「坊主なんぞは兎角そんなことを云いたがるものだ。ここの家に怪我人がつづいたということを何処からか聞き込んで来て、こっちの弱味に付け込んでなにか
「そうですかねえ」
夫の云うことにも成程とうなずかれる節があるので、お藤は半信半疑でそのままに駕籠に乗った。しかも其の僧の姿が眼先にちら付いて、彼女は浅草へゆく途中も
勿論、店の者どもにも固く口止めをして置いたのであるが、小僧の巳之助が町内の湯屋でうっかりそれをしゃべったので、その噂はすぐに近所にひろまった。文字春の耳にもはいった。さなきだに此の間からおびえている彼女は、その噂を聞いていよいよ恐ろしくなった。彼女は往来で大工の兼吉に逢ったときにささやいた。
「ねえ、棟梁。どうかしようはないもんでしょうかね。お安さんの祟りで、津の国屋さんは今に
「どうも困ったもんだ」
出入り場の禍いをむなしく眺めているのは、いかにも不人情のようではあるが、問題が問題であるだけに、差し当りどうすることも出来ないと、兼吉も顔をしかめながら云った。彼は文字春にむかって、いっそお前が津の国屋へ行って、お安の幽霊と道連れになったことを正直に話したらどうだと勧めたが、文字春は身ぶるいをして
こんなわけで、文字春は津の国屋の運命を危ぶむばかりでなく、自分の身の上までが不安でならなかった。彼女は毎日稽古に通ってくるお雪を見るのさえ薄気味悪くて、いつも其のうしろにはお安の亡霊が影のように付きまとっているのではないかと恐れられてならなかった。そのうちにこんな噂が又もや町内の女湯から伝わった。
津の国屋の女中でお松という、ことし
「早く暇をお取んなさいよ。津の国屋は潰れるから」
びっくりして見返ると、その女の姿はもう見えなかった。お松は急に怖くなって息を切って逃げて帰った。主人にむかって
いつの代にも、すべてのことが
あしたが
「お
文字春はなんと返事をしていいか、少しゆき詰まったが、どうも正直なことを云いにくいので、彼女はわざと空とぼけていた。
「へえ。そんなことを誰か云うものがあるんですか。まあ、けしからない。どういうわけでしょうかねえ」
「方々でそんなことを云うもんですから、お父っさんや
「なぜでしょうね」と、文字春は胸をどきつかせながら訊いた。
「なぜだか知りませんけれど」と、お雪も顔を曇らせていた。「お父っさんや阿母さんも其の噂をひどく気に病んで、丁度お盆前にそんな噂をされると何だか心持がよくないと云っているんですの。誰が云い出したんだか知りませんけれど、まったく気になりますわ。津の国屋の前には女の幽霊が毎晩立っているなんて、飛んでもないことを云われると、嘘だと思っても気味が悪うござんす」
文字春はお雪が可哀そうでならなかった。お雪はなんにも知らないに相違ない。知らなければこそ平気でそんなことを云っているのであろう。むしろ正直に何もかも打ち明けて、なんとか用心するように注意してやりたいとは思ったが、どうも思い切ってそれを云い出すほどの勇気がなかった。かれはいい加減の返事をして其の場を済ませてしまった。
盆休みが過ぎてから、お雪は師匠のところへ来て又こんなことを云った。
「お師匠さん。
「坊主に······」と、文字春もおどろいた。「旦那が坊主になるなんて、一体どうなすったんでしょうねえ」
十二日の朝、菩提寺の住職が津の国屋へ来た。
それでもやはり心あたりはないと云い切って、夫婦は相当の御経料を贈って、住職を帰してやったが、その夕方からお藤の足はまた強く痛み出した。次郎兵衛も気分が悪いと云って宵から寝てしまった。夜なかに夫婦が交る交るに唸り出したので、
十五の送り火を焚いてしまってから、次郎兵衛は女房と番頭とを奥の間へ呼んで、自分はもう隠居すると突然云い出した。女房は勿論おどろいたが、番頭の金兵衛もびっくりして、主人にその仔細を聞き糺したが、次郎兵衛はくわしい説明をあたえなかった。しかしそれが十三日の午すぎに寺まいりに行って、住職となにか相談の結果であるらしいことは想像された。主人が突然の隠居に対して、金兵衛はあくまでも反対であった。女房のお藤もやはり不同意で、たとい隠居するにしても、娘に相当の婿をとって

「お父っさんがああ云うのも無理はないけれど、今だしぬけにそんなことをされちゃあ、この津の国屋の店もどうなるか判らないからねえ」と、お藤はあくる朝、むすめのお雪にそっと話した。
この話をきかされて、文字春は
五
それから五、六日経つと、津の国屋の女中のお
「津の国屋は今に
お松の話を聴いているので、お米は急に怖くなった。かれは思わずきゃっと叫んで、持っていた足駄をほうり出して、片足の足駄も脱いでしまって、跣足で自分の店へ逃げて帰ったが、年のわかいかれは店へかけ込むと同時にばったり倒れて気を失った。水や薬の騒ぎでようように息を吹きかえしたが、お米はその夜なかから大熱を発して、取り留めもない
「津の国屋は今に潰れるよ」
かれは時々にこんなことも云った。主人夫婦は勿論、店の者共も気味を悪がって、病人のお米を宿へ下げてしまった。その駕籠の出るのをみて、近所の者はまたいろいろの噂を立てた。こんなことが長く続いていれば、店は次第にさびれるに決まっているので、番頭の金兵衛もひどく心配していたが、幸いにお藤の足の痛みはだんだんに薄らいで、もう此の頃では馬道へ通わないでも済むようになった。次郎兵衛は店の商売などはどうでもいいというようなふうで、毎日かならず朝と晩とには仏壇の前に座って念仏を唱えていた。
それらの事はお雪の口からみな文字春の耳にはいるので、彼女はいよいよ暗い心持になって、津の国屋は遅かれ早かれどうしても潰れるのではあるまいかと危ぶまれた。
八月になって、津の国屋にもしばらく変ったこともなかったが、十二日の宵に奥の間の仏壇から火が出て、代々の位牌も過去帳も残らず焼けてしまった。宵の口のことであるから、大勢がすぐに消し止めて幸いに大事にはならなかったが、場所もあろうに仏壇から火が出たということが家内の人々を又おびやかした。
「お燈明の火が風にあおられたのです」と、番頭の金兵衛は云った。
この矢先に又こんなことが世間に聞えてはよくないと、金兵衛は努めてそれを
「この頃は
そういうわけであるから当分は稽古にも来られまいとお雪はしおれた。稽古はともかくも、今まで大きな店で育っているお雪が毎日の水仕事は定めて辛かろうと、文字春も涙ぐまれるような心持で、不運な若い娘の顔を眺めていると、お雪はまた云った。
「お父っさんは隠居するのも、坊さんになるのも、まあ一旦は思い止まったんですけれど、この頃になって又どうしても家には居られないと云い出して、ともかくも広徳寺前のお寺へ当分行っていることになったんです。阿母さんや番頭が今度もいろいろに止めたんですけれど、お父っさんはどうしても
「坊さんになるんじゃないんでしょう」
「坊さんになる訳じゃないんですけれど、なにしろ当分はお寺の御厄介になっていて、ほかの坊さん達が暇な時には、御経を教えて貰うことになるんですって。なんと云っても肯かないんだから、阿母さんももうあきらめているようです」
「でも、当分はお寺へ行っていて、気が少し落ち着いたら却っていいかも知れませんね」と、文字春は慰めるように云った。「その方がお家の為かも知れませんよ。そうなると、あとは阿母さんと番頭さんとで御商売の方をやって行くことになるんですね。それでも番頭さんが帳場に坐っていなされば大丈夫ですわ」
「ほんとうに金兵衛がいなかったら、家は闇です。あとは若い者ばかりですから」
番頭の金兵衛は十一の年から津の国屋へ奉公に来て、二十五年間も無事に勤め通して今年三十五になるが、まだ
「それでも小僧さんが少しは手伝ってくれるでしょう」
「ええ。勇吉だけはよく働いてくれます」と、お雪は云った。「ほかの小僧はなんにも役に立ちません。暇さえあれば表へ出て、犬にからかったりなんかしているばかりで······」
「なるほど勇どんはよく働くようですね」
勇吉は金兵衛の遠縁の者で、やはり十一の年から奉公に来て、まだ六年にしかならないが、年の割にはからだも大きく人間も
それから二日の後に、津の国屋の主人は下谷広徳寺前の菩提寺へ引き移った。主人は寺のひと間を借りて当分はそこに引き籠っているのであると、津の国屋では世間に披露していたが、近所では又いろいろの噂をたてて、津の国屋の主人はとうとう坊主になったとか、少し気が触れたとか、思い思いの想像説を伝えていた。
九月も十日をすぎて、朝晩はもう薄ら寒くなって来た。文字春は
「あの、お
狭い家でその声はすぐにこっちへも聞えたので、文字春はあわてて帯をむすびながら出た。
「おまえさんがお師匠さんでございますか」と、女は改めて会釈した。「だしぬけにこんなことを願いに出ますのも何でございますが、お師匠さんはあの津の国屋さんとお心安くしておいでなさるそうでございますね」
「はあ、津の国屋さんとは御懇意にしています」
「うけたまわりますと、あの店では女中さんが無くって困っているとか申すことですが······。わたくしは青山に居ります者で、どこへか御奉公に出たいと存じて居りますところへ、そんなお噂をうかがいましたもんですから、わたくしのような者で宜しければ、その津の国屋さんで使って頂きたいと存じまして······。けれども、桂庵の手にかかるのは
「ああ、そうですか」
文字春も少しかんがえた。だんだんに寒空にむかって、津の国屋で奉公人に困っているのは判り切っている。年は少し
「だしぬけに出ましてこんなことを申すのですから、定めて
「じゃあ、少しここに待っていてください。ともかくも向うへ行って訊いて来ますから」
出先でちょうど着物を着かえているのを幸いに、文字春はすぐに津の国屋へ駈けて行った。女房に逢ってその話をすると、津の国屋では困り切っている最中であるので、すぐにその奉公人を連れて来てくれと云った。
「お師匠さんのおかげで助かります」と、お雪もしきりに礼を云った。
文字春は皆から礼を云われて、善いことをしたと喜びながら家へ帰って、すぐにその女を津の国屋へ連れて行った。女はお
六
三日の
お角も礼に来た。それが縁になって、お角は使に出たついでなどに文字春のところへ顔を出した。そうして、やがて一と月ほども無事にすぎた時に、お角はいつものように
「お師匠さんにもいろいろ御厄介になったんですが、わたくしは津の国屋に長く辛抱できればいいがと思っていますが······」
「でも、大変におかみさんの気に入っているというじゃありませんか」と、文字春は不思議そうに訊いた。
「全くおかみさんは目にかけて下さいますし、お雪さんも善い人ですから、なにも不足はないのでございますが······」
云いかけて彼女は口をつぐんだ。それを押し詰めて詮議すると、津の国屋の女房お藤は番頭の金兵衛と不義を働いているというのであった。金兵衛は男盛りの
「併しそんなことがいつまでも知れずには居りますまい」と、お角は溜息をついた。「もし何かの面倒が起りました時に、わたくしが手引きでも致したように思われましては大変でございます」
主人の女房と家来とが密通の手引きをした者は、その時代の法としては死罪である。お角が津の国屋に奉公をしているのを恐れるのも無理はなかった。お角は暇をとれば、それで済むが、済まないのは女房と番頭との問題で、万一それが本当であるとすれば、津の国屋が潰れるような大騒動が
しかし彼女はまだ
よもやとは思いながら、文字春も幾らかの疑いを懐かないわけには行かなかった。お雪は父が自分から進んで菩提寺へ出て行ったように話していたが、あるいは女房と番頭とが
お安という女の執念はいろいろの祟りをなして、結局、津の国屋をほろぼすのではあるまいかとも思われた。併しこればかりは、文字春は誰に話すことも出来なかった。お雪にかまをかけて聞き出すことも出来なかった。
「いくら願っても、お暇をくださらないので困ります」
お角はその後にも来て文字春に話した。この間からお暇を願っているが、おかみさんがどうしても肯いてくれない。お給金が不足ならば望み通りにやる。年の暮には着物も買ってやる。こっちでは十分に眼をかけてやるから、せめて来年の暖くなるまで辛抱してくれと云われるので、こっちもさすがにそれを振り切って出ることも出来ないので困っていると、お角はしきりに愚痴をこぼしていた。かれが暇を願っているのは事実であるらしく、お雪も文字春のところへ来てそんなことを話した。お角はいい奉公人であるから、なんとかして引き留めて置きたいと阿母さんもふだんから云っていると、彼女はなんの秘密も知らないように話していた。
自分が世話をした奉公人が評判がいいのは結構であるが、もし津の国屋の
「おい、師匠。もう起きたかえ」
師走の四日の朝、もう五ツ(午前八時)を過ぎたころに、大工の兼吉が文字春の家の格子をあけた。
「あら、棟梁。なんぼあたしだって······。もうこのとおり、朝のお稽古を二人も片付けたんですよ。
「そんなに早起きをしているなら知っているのかえ。津の国屋の一件を······」
「津の国屋の······。どうしたんです。何かあったんですか」と、文字春は長火鉢の上へ首を伸ばした。
「とんでもねえことが出来てしまって、ほんとうに驚いたよ」と、兼吉も火鉢の前に坐って、まず一服すった。
「おかみさんと番頭さんが土蔵のなかで首をくくったんだ」
「まあ······」
「全くびっくりするじゃねえか。何ということだ。
兼吉は罵るように云いながら、火鉢の
「どうしたんでしょうねえ、心中でしょうか」と、彼女は小声で訊いた。
「まあ、そうらしい。別に書置らしいものも見当らねえようだが、男と女が一緒に死んでいりゃ先ずお定まりの心中だろうよ」
「だって、あんまり年が違うじゃありませんか」
「そこが思案のほかとでもいうんだろう。出入り場のことを悪く云いたかねえが、あのおかみさんも一体よくねえからね。いつかも話した通り、お安という貰い
「そうでしょうねえ」
お角の話が今更のように思い合わされて、文字春は深い溜息をついた。
「それで御検視はもう済んだんですか」
「いや、御検視は今来たところだ。そんなところにうろついていると面倒だから、おいらはちょいとはずして来て、御検視の引き揚げた頃に又出かけようと思っているんだ」
「それじゃあ、あたしももう少し後に行きましょう。そんな訳じゃあお悔みというのも変だけれど、まんざら知らない顔も出来ませんからね」
「そりゃあそうさ。まして師匠はあすこの家まで幽霊を案内して来たんだもの」
「いやですよ」と、文字春は泣き声を出した。「

「おい、師匠。御近所がちっと騒々しいね」
声をかけられて見返ると、それはここらを縄張りにしている岡っ引の常吉であった。桐畑の幸右衛門はこのごろ隠居同様になって、伜の常吉が専ら御用を勤めている。彼はまだ二十五六の若い男で、こんな稼業には似合わないおとなしやかな色白の、人形のような顔かたちが人の眼について、人形常という
人に可愛がられない商売でも、男は男、しかも人形の常吉に声をかけられて文字春は思わず顔をうすく染めた。かれは袖口で口を掩いながら
「親分さん。お寒うございます」
「ひどく冷えるね。冷えるのも仕方がねえが、また困ったことが出来たぜ」
「そうですってね。もう御検視は済みましたか」
「旦那方は今引き揚げるところだ。就いては師匠、おめえにちっと訊きてえことがあるんだが、後に来るよ」
「はあ、どうぞ、お待ち申しております」
常吉はそのまま津の国屋の方へ行ってしまった。文字春はあわてて内へはいって、別の着物を出して着換えた。帯も締めかえた。そうして、長火鉢へたくさんの炭をついだ。かれは津の国屋の一件について、なにかの係り合いになるのを恐れながら、一方には常吉の来るのを迷惑には思っていなかった。
七
「師匠。内かえ」
常吉が文字春の家の格子をくぐったのは、それから一

「さきほどは失礼。きたないところですが、どうぞこちらへ······」
「じゃあ、ちっと邪魔をするぜ」
若い岡っ引が草履をぬいで内へあがると、文字春は小女に耳打ちをして、近所の仕出し屋へ走らせた。
「ところで、師匠。早速だが、少しおめえに訊きてえことがある。あの津の国屋の娘はおめえの弟子だというじゃあねえか。師匠も津の国屋へときどき出這入りすることもあるんだろう」
「はあ。時々には······」と、文字春はうなずいた。「ですから、きょうも後にちょいと顔出しをしようと思っているんです」
「ところで、
「そうですねえ。親分も御承知でしょう。なんだか津の国屋にいやな噂のあることは······」
「いやな噂······」と、常吉もうなずいた。「なにかあの店が潰れるとかいうんじゃねえか」
「そうですよ。あたしはよく知りませんけれど、津の国屋にはお安さんとかいう娘の死霊が祟っているとかという噂ですが······」
「娘の死霊······。そりゃあおいらも初耳だ。そうして、その娘はどうしたんだ」
相手が乗り気になって耳を引き立てるので、文字春は自然に釣り出されたのと、もう一つには常吉に手柄をさせてやりたいというような
「むむ。こりゃあいいことを聞かしてくれた。師匠、あらためて礼をいうぜ、そんなことはちっとも知らなかった」
仕出し屋から誂えの肴を持ち込んで来たので、文字春はすぐに酒の支度をした。
「こりゃあ気の毒だな。こんな厄介になっちゃあいけねえ」と、常吉はこころから気の毒そうに云った。
「いいえ、ほんの寒さしのぎにひと口、なんにもございませんけれど、あがってください」
「じゃあ、折角だから御馳走になろう」
二人は差し向いで飲みはじめた。その間に、文字春は津の国屋の一件について、自分の知っているだけのことを残らずしゃべってしまった。女中のお角は自分が世話をしたんだということも打ち明けた。これも常吉の注意を惹いたらしく、彼はときどきに

「まだ御用がたくさんある。いい心持に酔っちゃあいられねえ。また来るよ」
彼は幾らかの金をつつんで、文字春が辞退するのを無理に押しつけるようにして置いて行った。霰はまだ時々にばらばらと降っていた。常吉はその足で再び津の国屋へ引っ返して、なにかの手伝いをしている大工の兼吉を表へ呼び出して、お安のことをもう一度訊きただした。それから女中のお角をよび出して、女房と番頭との関係についても一応詮議すると、お角は文字春にも話した通り、たしかに二人が密会しているらしい証跡を見とどけたと云った。しかし自分は新参者で、それにはなんにも関係のないということを繰り返して弁解していた。常吉はそれだけの調べを終って、更に八丁堀へ顔を出すと、同心たちの意見も心中に一致していて、もう詮議の必要を認めないような口ぶりであった。それでも此の時代に於いては、主人と奉公人との密通は重大事件であるから、なにか新しく聞き込んだことがあったならば、油断なく更に詮議しろとのことであった。常吉はお安の幽霊一件を同心らの前ではまだ発表しなかった。ただ自分には少し腑に落ちないところがあるから、もう一と足踏み込んで詮議してみたいというだけのことを断わって帰って来た。彼はそれからすぐに神田三河町の半七をたずねて、何かしばらく相談して別れた。
その次の日の午過ぎに津の国屋から女房お藤の
女房も番頭も同時に世を去って、あとは若い娘のお雪ひとりである。その上に主人が寺へ帰ってしまったらば、誰が店を取り締って行くであろう、と近所では専ら噂していた。文字春も不安でならなかった。死霊の祟りで津の国屋はとうとう潰れてしまうのかと、彼女はいよいよおそろしく思った。
そのうちに初七日も過ぎたが、次郎兵衛はやはり津の国屋を立ち退かなかった。彼はあまりに意外の出来事におどろかされて、葬式の出たあくる日から病気になって、どっと床に就いているのだと伝えられた。店の方は休みも同様で、二、三人の親類が来て家内の世話しているらしかった。
津の国屋の初七日が過ぎて三日の夜であった。文字春は芝のおなじ稼業の家に不幸があって、その悔みに行った帰り途に、溜池の
避ける間もなしに両方が突き当ったので、文字春はぎょっとして立ちすくむと、相手はあわただしく声をかけた。
「早く来てください。大変です」
それは若い女、しかも津の国屋のお雪の声らしいので、文字春はまた驚かされた。
「あの、お雪さんじゃありませんか」
「あら、お師匠さん。いいところへ······。早く来てください」
「一体どうしたの」と、文字春は胸を躍らせながら訊いた。
「店の長太郎と勇吉が······」
「長どんと勇どんが······。どうかしたんですか」
「出刃庖丁で······」
「まあ、喧嘩でもしたんですか」
暗い中でよく判らないが、お雪はふるえて息をはずませているらしく、もう碌々に返事もしないで、師匠の足もとにべったりと坐ってしまった。
「しっかりおしなさいよ」と、文字春は彼女を抱き起しながら云った。「そうして、その二人はどこにいるんです」
「なんでもそこらに······」
なにしろ暗いので、文字春にはちっとも見当が付かなかった。水明かりでそこらを透かしてみたが、近いところでは二人の人間があらそっている様子も見えなかった。仕方がなしに彼女は声をあげて呼んだ。
「もし、長さん、勇さん······。そこらにいますか。長さん······、勇さん······」
どこからも返事の声はきこえなかった。暗さは暗し、不安はいよいよ募ってくるので、文字春はお雪の手を引いて、明るい灯の見える方角へ一生懸命にかけ出した。
八
半分は夢中で自分の家のまえまで駈けて来て、文字春は初めてほっと息をついた。よく見ると、お雪も真っ蒼になって、今にも再び倒れそうにも思われたので、ともかくも家の中へ連れ込んで、ありあわせの薬や水を飲ませた。すこし落ち着くのを待って今夜の出来事を聞きただすと、それは又意外のことであった。
今夜お雪が店先へ出ると、あとから若い者の長太郎がついて来て、少し話があるから表までちょいと出てくれというので、なに心なく一緒に出ると、長太郎は突然に短刀を抜いて彼女の眼の先に突きつけた。そうして、そこまで黙って一緒に来いとおどした。相手が鋭い刃物を持っているのにおびやかされて、お雪は声を立てることが出来なかった。両隣りにも人家がありながら、声を立てたら命がないとおどされているので、彼女は身をすくめたままで溜池のふちまで連れて行かれた。
長太郎はあたりに往来のないのを見て、自分の女房になってくれとお雪に迫った。おどろいて返答に躊躇していると、長太郎はいよいよ迫って、もし自分の云うことを肯かなければ、おまえを殺してこの池へ投げ込んで、自分もあとから身を投げて、世間へは心中と
そう判って見ると、いよいよ捨てては置かれないので、文字春はすぐに津の国屋へ知らせに行った。店でもその報告に驚かされたらしく、若い者二人と小僧二人とが提灯を持って其の場へ駈け付けると、果たして長太郎と勇吉とが血だらけになって枯蘆の中に倒れているのを発見した。どっちも二、三ヵ所の浅手を負った後に、刃物を捨てて組討ちになったらしく、二人は堅く引っ組んだままで池の中へころげ落ちていた。刃物の傷はみな浅手で命にかかわるようなことはなかったが、池へころげ落ちた時に、長太郎は運悪く泥深いところへ顔を突っ込んだので、そのまま息が止まってしまった。勇吉は半死半生の
お雪を無事に送りとどけて貰ったので、津の国屋では文字春にあつく礼を云った。しかし津の国屋よりもほかに礼を云ってもらいたい人があるので、文字春はさらに桐畑の常吉の家へと
「どうせ一人死んだことですから、そちらの耳へも無論はいりましょうが、なるべく早い方がいいかと思いまして······」
「いや、それはありがてえ」と、ちょうど居合わせた常吉がすぐに出て来た。「よく知らせてくれた。じゃあ、これから出かけるとしよう。これでこの一件もたいがい眼鼻が付いたようだ。師匠、今にお礼をするよ」
思い通りに礼を云われて、文字春は満足して帰った。かれはもう死霊の怖いことなどは忘れていた。ちっとぐらい祟られてもいいから、自分も立ち入ってこの事件のために働いて見たいような気にもなった。
常吉はすぐに津の国屋へ行ってみると、勇吉の傷は右の手に二ヵ所と、左の肩に一ヵ所であったが、どれも手重いものではなかった。それでもよほど弱っているらしいのを常吉はいたわりながら、町内の自身番へ連れて行った。
「おい、小僧。おめえはえれえことをやったな。命がけで主人の娘の難儀を救ったんだ。お上から御褒美が出るかも知れねえぞ。しかしおめえはどうして刃物を持って長太郎のあとから追っかけて行ったんだ。あいつが娘を連れ出すところを見ていたのか」
弱ってはいたが、勇吉は案外はっきりと答えた。
「はい、見ていました。長太郎が刃物でお雪さんをおどかして、無理にどこへか連れて行こうとするのを見ましたから、
「よし、判った。だが、まだ一つ判らねえことがある。おめえはそれを見つけたら、なぜほかの者に知らせねえ。自分一人で刃物を持ち出して行くというのはおかしいじゃねえか」
勇吉は黙っていた。
「ここが大事のところだ」と、常吉は
勇吉はやはり黙っていた。
「じゃあ、おれの方から云うが、おめえは何か長太郎を怨んでいるな。娘を助ける料簡も無論だが、まだ其のほかに、いっそここで長太郎をやっつけてしまおうという料簡がありゃあしなかったか、どうだ。はっきり云え」
「恐れ入りました」と、勇吉は素直に手をついた。
「むむ、そうか」と、常吉はうなずいた。「よく素直に申し立てた。そこで、なぜ長太郎をやっつける気になった。長太郎になにか遺恨でもあるのか」
「どうも
「かたき······。むむ、おめえは津の国屋の番頭の親類だということだな」
「はい。金兵衛の縁で津の国屋へ奉公にまいりました」
「その金兵衛の仇······。長太郎が金兵衛を殺したのか」と、常吉は念を押した。
「どうもそう思われてなりません」と、勇吉は眼をふいた。
それには何か証拠があるかと常吉が押し返してきくと、勇吉は別に確かな証拠はないと云った。併しどうもそう思われてならない。金兵衛は自分の親類であるが、決して主人と不義密通を働くような人間ではない。かれの死骸を土蔵の中で発見した時から、これは自分で首をくくったのではない、誰かが彼を絞め殺してその死骸を土蔵の中へ運び込んだのに相違ないと判断したが、何分にも確かな証拠がないので、自分はよんどころなしに今まで黙っていたのであると、勇吉は申し立てた。それにしても、数ある奉公人の中でどうして長太郎一人を下手人と疑ったのかと、常吉はかさねて詮議すると、その前日の
併しそれだけのことでは表向きの証拠にならないので、勇吉は口惜しいのを我慢していると、今夜の事件が測らずも
「よし、よし、よく申し立てた」と、常吉は満足したようにうなずいた。「傷養生をして
「ありがとうございます」と、勇吉は再び眼を拭いた。
勇吉をいたわって、あとから津の国屋へ送ってやるようにと
「お角、御用だ」
御用の声を聞くと、女は掴まれた腕を一生懸命に振りはなして、もとの露路の奥へ引っ返して駈け込んだ。常吉はつづいて追ってゆくと、逃げ場を失ったものか但しは初めから覚悟の上か、かれはそこにある井戸側に手をかけたと思うと、身をひるがえして真っ
長屋じゅうの手を借りて常吉はすぐに井戸の中から女を引き揚げさせたが、かれはもう息が絶えていた。それが文字春の世話で津の国屋へ奉公に行ったお角であることは、常吉も初めから知っていた。文字春の話によると、たった今その水口の戸をそっとたたいて師匠に逢いたいという者がある。この夜更けに誰か知らんと思いながら、文字春は
「大方そんなことだろうと思った。だが、まあ、怪我がなくてよかった」と、常吉は云った。
女房と番頭と二人の死人を出した津の国屋では、それから十日も経たないうちに、又もや長太郎とお角と二人の死人を出した。しかし、これで丁度差し引きが付いたのであるということが後に判った。
九
津の国屋のお藤を絞め殺したのは、女中のお角であった。金兵衛を絞め殺したのは、勇吉の想像の通りに若い者の長太郎であった。かれらは女房と番頭が熟睡しているところを絞め殺して、二つの死骸をそっと土蔵の中へ運び込んで、あたかも二人が自分で
津の国屋の親戚で、下谷に店を持っている池田屋十右衛門、浅草に店を持っている大桝屋弥平次、無宿のならず者熊吉と源助、矢場女お兼、以上の五人は神田の半七と桐畑の常吉の手であげられた。津の国屋の菩提寺の住職と無宿の托鉢僧とは寺社方の手に捕えられた。これでこの一件は
これまで書けば、もう改めてくわしく註するまでもあるまい。池田屋十右衛門と大桝屋弥平次と菩提寺の住職と、この三人が共謀して、かねて内福の聞えのある津の国屋の身代を横領しようと巧んだのであった。津の国屋の主人次郎兵衛は貰い
今日から考えると、頗る廻り遠い手段のようではあるが、その時代の彼等としては余ほど巧妙な手段をめぐらそうとしたのかも知れない。かれらはまず死霊の祟りということを云い触らさせて、津の国屋一家に恐れを懐かせ、さらに菩提寺の住職から次郎兵衛をおどして、
お安の幽霊に化けたのは、浅草のお兼という矢場女で、見かけは十七八の
それでどうにかこうにか次郎兵衛だけはこっちへ
これまでは先ず彼等の思いのままに進行したが、その秘密を桐畑の常吉に嗅ぎ付けられたらしいのが、彼等におびただしい不安をあたえた。常吉は文字春から
たとい白状しても、白状しないでも、徒党の一人が引き揚げられたと聞いて、かれらは俄かにうろたえ始めた。源助はあわてて何処へか姿をかくした。それが津の国屋の方へもきこえたので、お角も長太郎もぎょっとした。お角は文字春の家の小女をだまして、師匠の口から常吉にいろいろのことを訴えられたらしいことを探り知ったが、大胆な彼女はわざと平気で澄ましていた。しかし年の若い長太郎はなかなか落ち着いていられなかった。彼は破れかぶれの度胸を据えて、いっそお雪を脅迫して何処へか誘拐して行こうと企てたが、それを勇吉に妨げられて、自分は溜池の泥水を飲んで死んだ。
こうなると、お角もさすがに平気ではいられなくなった。そのまますぐに姿を隠してしまえば、或いはもう少し生き延びられたかも知れなかったが、こうした女の習いとして彼女は文字春をひどく憎んだ。何をしゃべったか知らないが、男のいい岡っ引を引っ張り込んで、酒を飲ませてふざけながら、自分たちの秘密を洩らしたかと思うと、お角はむやみに文字春が憎らしくなって、行きがけの駄賃に殺すつもりか、それとも顔にでも傷をつけるつもりか、ともかくも彼女の家へ押掛けて行ったのが運の尽きで、お角はわが身を井戸へ沈めることとなったのである。勿論、死人に口なしで、お角がほんとうの料簡はよく判らない。事情の成行きで唯こう想像するだけのことであった。
徒党の者はすべてその罪状を白状した。源助は一旦その姿を
これでこの怪談は終ったが、ついでに付け加えて置きたいのは、その明くる年に桐畑と津の国屋とに二組の縁談の
「どうです。かなり入り組んでいるでしょう」と、半七老人は笑いながら云った。「くどくもいう通り、随分廻り遠い計略で、今日の人達から考えると、あんまり馬鹿々々しいように思われるかも知れませんが、第一には何といっても昔の人間は気が長い。もう一つには金儲けということがなかなかむずかしかったからですね。津の国屋||津国屋と書くのがほんとうだそうですが、暖簾にはやはり津の国屋と、のの字を入れてありました。読みいいためでしょう||は何でも地所家作を合わせて二、三千両の身代だったそうです。その頃の二、三千両と云えばこの頃の十万円ぐらいに当るでしょうから、それだけのものをただ取るには並大抵のことではむずかしい。大勢の人間が知恵をしぼって、暇をつぶしても二、三千両の身代を乗っ取れば、まず大出来だったんでしょうよ。今日のようにボロ会社を押っ立てて新聞へ大きな広告をして、ぬれ手で何十万円を掻き込むなんていう、そんな器用な芸当をむかしの人間は知りませんからね。十万円の金を儲けるにも、これほど手数がかかった芝居をしたんです。それを思うと、むかしの悪党は今の善人よりも馬鹿正直だったかも知れませんね。あははははは」
これもやはりほんとうの怪談ではなかった。わたしは何だか一杯食わされたような心持で、老人の笑い顔をうっかりと眺めていた。