一
まず
「江戸時代にも、ズウフルというのが本当だと云っている人もありました」と、半七老人は云った。「しかし普通にはズウフラと云っていました。博士のお説によると、ルウフルが
あなた方は無論御承知でしょうが、江戸時代の滑稽本に『八笑人』『和合人』『七偏人』などというのがあります。そのなかの『和合人』······
安政四年九月のことである。駒込富士前
ここら一円はすべて百姓地で、田畑のあいだに農家が散在していた。植木屋の多いのもここの特色であった。そればかりでなく、ここらは寺の多いところで、お富士様を祀った真光寺を始めとして、例の駒込吉祥寺、目赤の不動、大観音の光源寺、そのほか大小の寺々が隣りから隣りへと続いていて、表通りの町々も大抵は寺門前であるから、怪談などを
舞台は富士裏附近、時候は旧暦の秋の末、そこに伝えられた怪談は、闇夜にそこらを往来する者があると、誰とも知らず「おうい、おうい」と呼ぶのである。時には其の人の名を呼ぶこともある。その声が哀れにさびしく、この世の人とは思われないので、気の弱い者は耳をふさいで
「貴公たちはこの噂をなんと思う」
こう云って一座の若者らを見渡したのは、
江戸末期の世はだんだんに
「先生はちっと困るが、御新造がいいので助かる」
これが門弟らの
いかに師匠とはいいながら、あまりに稽古が
今夜その道場で、かの富士裏の怪談の噂が出たのである。左内もその噂はかねて聴いていたので、一座の門弟らにむかって「貴公たちはこの噂をなんと思う」という質問を提出したが、その席にある十七、八人のうちに確かに答える者がなかった。あいまいな返事をすると、師匠に叱り付けられる。それが恐ろしいので、一同はただ顔を見合わせているばかりであった。
「怪談などと仔細らしく云うが、世に妖怪
一同はやはり顔を見合わせているばかりで、進んでその役目を引き受けるという者もなかった。左内は例の気性で、堪えかねたように呶鳴った。
「さりとは無念な。わしが不断から武芸を指南するのも、こういう時の用心ではないか。よしよし、貴公らが臆病に
彼は帯を締め直して立ち上がった。これに励まされてばらばらと立ち上がったのは、旗本の次男池田喜平次、酒屋のせがれ伊太郎の二人であった。
「先生。わたくし共もお供いたします」
「むむ、誰でも勝手に来い」
左内はあとをも見返らずに、大刀を腰にさして出て行った。こういう場合、留めても留まらないのを知っているので、御新造のお常は黙って見送った。喜平次と伊太郎も袴の紐をむすび直しながら続いて出た。
九月末の暗い夜で、
二
綱が立って綱が噂の雨夜かな||
「先生は遅いな」と、一人が云い出したのは、今夜ももう四ツ(午後十時)に近い頃であった。
「そうですねえ」と、お常もやや不安そうに云った。
鰻縄手から富士裏まではさのみの
「どうしたのでしょうねえ。まさか間違いはあるまいと思いますけれど······」と、お常は又もや不安らしく云った。
こうなると、御新造の手前、人々も落ち着いてはいられなくなったので、念のために様子を見て来ようと、七、八人がつながって出た。表は暗いので、お常は提灯を貸してやった。
御新造の手前ばかりでなく、人々もなんだか一種の不安を感じて来たので、提灯持ちの一人を先に立てて、足早にあるき出した。どこという目あても無いが、ともかくも富士裏のあたりを探してみる事にして、高林寺門前から吉祥寺門前にさしかかると、細道から出て来た二人連れが提灯の
「道場から来たのか」
それは池田喜平次と伊太郎の声であった。こちらでも声を揃えて答えた。
「そうだ、そうだ。先生はどうした」
「先生は······。途中で
「先生にはぐれた······」
「どこを探しても見えないのだ」
喜平次らの報告によると、彼らは師匠の左内にしたがって、まず富士裏のあたりを一巡したが、怪しい声は聞えなかった。まだ時刻が早いせいかも知れないと云いながら田畑のあいだを歩き廻って、
しかしここまで踏み出して来た以上、詮議に詮議を重ねなければならないというので、左内はふたたび富士裏の方角へ向って引っ返すことにした。暗い
どうやら木立のあたりへたどり着いた頃には、怪しい声も止んでしまった。こうなると、
喜平次と伊太郎は気味が悪くなって来た。世間で噂する通り、その声が普通の人間とは違っているばかりか、近いような、遠いような、悲しんで泣くような、
「貴様たちに正体を見とどけられるような俺だと思うか。おれはここらに年
「畜生、よく名乗った。この古狐め」
左内は刀をぬいてまっしぐらに追ってゆくと、声はそれっきりで絶えた。左内の足音もやがて聞えなくなった。師匠を見失っては申し訳がないと、喜平次と伊太郎はふたたび勇気を振い起して、つづいて其のあとを追って行ったが、左内の姿は闇に埋められてしまった。二人は先生先生と呼びつづけながら、木立のあいだは勿論、草原や畑道をむやみに駈けまわったが、どこからも左内の返事は聞かれなかった。
「もう仕方が無い。道場へ帰って提灯を持って来て、手分けをして探そう」
よんどころなく引っ返して来る途中、あたかも吉祥寺門前で迎えの人々に出逢ったのである。その報告を聞いて、人々は俄かに騒ぎ立った。提灯ひとつでは不足だというので、家の近い者は引っ返して自分の家から提灯を持って来た。その一人は道場へも知らせに行ったので、残っている者もみんな駈け出した。喜平次と伊太郎を案内者にして、都合十七、八人が五つ六つの提灯を振り照らしながら、ふた組に分かれて捜索にむかった。
江戸の絵図を見ても判るが、ここらの百姓地はなかなか広い、しかも人家は少ない。その大部分は田畑と森と草原である。二組の捜索隊は先生を呼びながら、闇の夜道をたずねて歩いているうちに、伊太郎を先立ちのひと組が路ばたに倒れている師匠の死骸を発見した。そこには一本の大きい
それから五日の後である。この頃は朝夕が肌寒くなって、きょうも
「ねえ、親分。わっしにゃあまだ判らねえ。
「神田から駒込まで登って来るあいだに、まだ考え付かねえのか」と、半七は笑った。「おれにゃあちゃんと判っている。それはズウフラだ」
「ズウフラ······。ああ、判った、判った」と、亀吉も笑い出した。「
「おれも或る屋敷でたった一度見せて貰っただけだが、今度の一件を聞いてすぐにそれだろうと鑑定した。だが、判らねえのは、なぜ其のズウフラで往来の人間を
そこらをひと廻りした後、半七はある植木屋の
「おい。じいさんはいるかえ」
「やあ、親分······。唯今まいります」
柿の木の上で返事をして、五十四五の男が
「柿はよく
「いえ、もう遅いので······。ことしは二百十日の
嘉兵衛は先に立って二人を内へ案内すると、女房は煙草盆などを持ち出して来たので、半七らは縁に腰をかけて煙草を吸いはじめた。
「どうだね。この頃はここらで変な声が聞えるというじゃあねえか。狐か狸のいたずらだろう」と、半七は何げなく云った。
「そうですよ」と、嘉兵衛はうなずいた。「なんでもここらに棲んでいる古狐の
「ここらに悪い狐が棲んでいるのかえ」
「今までそんな噂を聞いたこともありませんが、このあいだの晩、自分から名乗ったそうで······。おれはここらに年経る狐だとか云ったそうで、それは確かに聞いた人が二人もあるのですから、まあ本当でしょう」
その二人は池田の次男喜平次と、岡崎屋という酒屋のせがれ伊太郎であると、嘉兵衛は説明した。
「だが、狐が人を斬り殺す筈はあるめえ、狐ならば喰い殺すだろう」と、亀吉はあざけるように云った。「世間にゃあいろいろの狐や狸がいるからな」
「まあ、余計なことを云うなよ」と、半七はたしなめるように云った。「そこで、爺さん、その池田の次男と岡崎屋の伜というのは、どんな男だか知らねえかえ」
それに就いて、嘉兵衛はこう答えた。池田の屋敷は小石川
「いや、有難う。それで大抵は判った」と、半七はうなずいた。「爺さん。おめえはその声を聞いたことがあるかえ」
「ありませんよ。話のたねに一度聞いて置きたいと思うのですが、運が無いのか、まだ聞いたことがありませんよ」
「聞いたところで、運がいいと云うわけでもあるめえ」と、半七は笑った。「そこで、その声はまだ聞えるのかえ」
「道場の先生が殺された晩から、ぱったり聞えなくなりましたが、ゆうべは又きこえたという噂です。いや、噂どころじゃあない、現に怪我をしたという者があるのです」
「怪我をした者······。そりゃあ誰だね」と、亀吉は顔を突き出した。
「わたくしと同商売で、吉祥寺裏に六蔵というのがあります。そこの若い者の長助という奴が、ゆうべ血だらけになって帰って来たので、大かた喧嘩でもしたのだろうと思って、だんだんに訊きただしてみると、やっぱり何かにやられたので······。なんでも暗い道を通って来ると、うしろから哀れな声で呼ぶ奴がある。こいつ、例の一件だなと思ったので、こっちも若い勢いで誰だ誰だと云いながら、声のする方へむやみに向って行くと、いきなり

剣術の師匠は殺され、植木屋の職人はなぐられ、とかくに気味の悪いことが続くので困ると、嘉兵衛は顔をしかめて話した。
三
植木屋を出ると、空はいよいよ陰って来た。
「親分、これからどっちへ廻ります」と、亀吉は空を仰ぎながら
「おめえは吉祥寺裏の植木屋へ行って、長助という若い奴に逢って、ゆうべ確かにその声を聞いたかどうだか突き留めて来てくれ。
「あい、ようがす」
「おれは白山前から指ヶ谷町へまわって来る」
「どこで逢いますね」
「白山町に笹屋という小料理屋がある。そこで待ち合わせることにしよう」
吉祥寺門前で亀吉に別れて、半七は
それから五、六間ゆき過ぎると、若い町人ふうの男が半七に摺れちがって通った。振り返って見送ると、男は道場の門をあけてはいった。半七の眼に映った若い男は、年のころ二十三四で、色の小白い、
岡崎屋は相当の店がまえで、店には三人の若い者と二人の小僧が何か忙がしそうに働いていた。八丁味噌の古い看板なども見えた。帳場には四十四五の女房が坐っていた。それが伊太郎の母のお国であろうと、半七は想像した。さらに引っ返して指ヶ谷町へゆくと、そこには伊丹屋という酒屋の
「もし、お前さんは旦那ですかえ、番頭さんですかえ」と、半七は帳場にいる四十前後の男に声をかけた。
「はい。わたしは番頭でございます」と、男は帳面の筆をおいて答えた。
「旦那はお内ですかえ」
「いえ、こちらは女あるじで······」
「じゃあ、岡崎屋と同じことだね」
「左様で······」と、番頭はやや不審らしく半七の顔をみつめた。
「息子さんは無いのかね」
「息子はございますが、まだ肩揚げが取れませんので······」
「娘さんは
「二人でございます」
「いや、こりゃあわたしが悪かった」と、半七は笑いながら云った。「だしぬけに押し掛けて来て、よその家の
御用聞きと名乗られて、番頭も俄かに態度をあらためた。すぐに立って奥へ行ったが、やがて又出て来て、丁寧に半七を案内した。中庭にむかった八畳の座敷で、先代の主人の好みであろう、床の間や違い棚の造作もなかなか念入りに出来ていた。屋台骨のしっかりしている家らしいと、半七はひそかに思った。
やがて女あるじというお勝が出て来て、これも丁寧に挨拶した。番頭もそばに控えていた。
「いや、別むずかしいことを訊くのじゃあありません。立ち話でも済むことですが、店さきではちっと
「はい。姉は下谷の方に縁付いて居ります」と、お勝は答えた。「妹は近所へ一旦片付きましたが······」
「じゃあ、それがおそよさんといって、白山前町の岡崎屋へ片付いたのですね。そこで、そのおそよさんが岡崎屋を不縁になったのは、同商売の
なんと返事をしていいかと云うように、お勝はそっと番頭をみかえると、番頭は引き取って答えた。
「まあまあ、そんなような訳でございまして······。御承知の通り、商売
その口ぶりと、女房の顔色とを見くらべながら、半七はしずかに云った。
「ねえ、番頭さん。わたしも御用で来たのだから、隠し立てをされちゃあ困る。決してお前さん達に迷惑は掛けねえから、みんな正直に云って貰おうじゃあありませんか。岡崎屋を不縁になったのは、何かほかに訳があるだろう。わたしはそれを訊きに来たのだ」
「お前さんのお言葉ですが、まったく同商売の
「親たちばかりでなく、当人同士の夫婦仲もなにぶん丸く参りませんので······」と、お勝もその尾に付いて云った。
おそよは去年の五月、十八で岡崎屋へ嫁に行って、その当座はまず無事であったが、半年ほど過ぎると、とかくに折り合いが悪く、とうとう此の三月に別れることになったので、ほかに仔細も無いと、母は説明した。
同商売の顧客争いから、親たちが不和になるというのは、随分ありそうなことである。当人同士の夫婦仲が悪いというのも珍らしくない。それで一応は離縁の理窟が立っているようであったが、半七はまだ不得心であった。
「どうもお前さん達じゃあ判らねえ。そのおそよという娘をここへ呼んでおくんなせえ。本人に逢って訊くとしましょう」
「いえ、その娘は唯今留守でございまして······」と、番頭はあわてて断わった。
「嘘をついちゃあいけねえ」と、半七は叱り付けるように云った。「それじゃあ仕方がねえから、わたしの方から口を切ろう。岡崎屋の息子には別に女がある。それが
お勝と番頭はぎょっとしたように顔を見あわせた。半七は黙ってその返事を待っていると、うしろの襖の外で何かの声がきこえた。それは女のすすり泣きの声であるらしいので、半七は
四
半七が伊丹屋を出て白山前へ引っ返したのは、その日ももう暮れかかる頃で、途中から秋時雨がさらさらと降り出して来た。
傘を買う程でもないと思ったので、半七は手拭をかぶって笹屋という小料理屋へ駈け込むと、亀吉はひと足さきに来て
「とうとうぱら付いて来ましたね」
「この頃の癖で仕方がねえ」と、半七は先に立って二階へあがった。
座敷は狭い四畳半である。註文の酒肴が来るあいだに、亀吉は小声で話し出した。
「あれから吉祥寺裏へ行くと、親方は留守でしたが、長助という若い奴が鉢巻をしていましたよ。取っ捉まえて訊いてみると、どっかへ小博奕か何かに行って、ゆうべの四ツ過ぎころに富士裏を帰って来ると、例の声で呼ばれたそうです。おうい、おういじゃあねえ。女のような声で、もしもしと呼んだと云うのです。確かに女の声かと念を押すと、どうも女のようだったと云うのですが······。野郎、何だかおどおどしていて、どうもはっきりした事を云わねえのです。なにしろ、誰だと云いながら向って行くと、石のようなもので額をがんとやられて、暫くは気が遠くなってしまったと云うだけで、詳しいことは自分でも覚えていねえと云うのです。
「そうか」と、半七はうなずいた。「その長助という野郎も、唯は置かれねえ奴らしいが、そんな意気地なしならあと廻しでよかろう。おれは岡崎屋の嫁の里へ行って調べて来たが、岡崎屋の伊太郎は師匠の女房と不義を働いていて、それがために嫁のおそよは離縁になったのだ。おそよは亭主に未練があると見えて、可哀そうに泣いていたよ」
「すると、伊太郎が師匠を
「そうだろうな。だが、伊太郎一人の仕業じゃああるめえ。その晩一緒に出て行ったという池田の次男······喜平次という奴も手伝ったのだろう」
「そいつも伊太郎に抱き込まれたのかね」
「池田の屋敷はひどく
「ひどい奴らだ」と、亀吉は溜息をついた。「どうも世が悪くなったな」
「人殺しもいろいろあるが、親殺しは勿論、主殺しや師匠殺しと来ちゃあ重罪だ。だんだんに事が大きくなって来た。それにしても、ズウフラの一件はどういうのかな」
「ズウフラで師匠を誘い出したのじゃあねえかね」
「そうすると、もう一人の同類が無けりゃあならねえ」と、半七は薄く眼を
「ズウフラの方はまあ別として、ともかくもこれだけのことを寺社の方へ届けて、岡崎屋の伊太郎を引き挙げてしまおうじゃありませんか」
「だが、まだ確かな証拠はねえ。ほかの事と違って重罪だ。むやみなことが出来るものか。まあ、もうちっと考えよう」
註文の酒肴を運んで来たので、二人は黙って飲みはじめた。
「今夜は殺された師匠の逮夜で、岩下の道場は昼間からごたごたしていたようだ。弟子たちも相当に集まるだろう。あの辺へ行って網を張っていたら、なにか引っかかる鴨があるかも知れねえ」
「そうしましょう」
二人は
「おい、亀。おれもだんだん考えたが、あのズウフラというものは筒にどんな仕掛けがあるか知らねえが、遠くの人を呼ぶ以上、相当に大きな声を出さなけりゃあならねえ筈だ。いくら人通りの少ねえ畑や田圃路だといって、道のまん中に突っ立って呶鳴っていちゃあ、すぐに種が知れてしまうから、少し
「まったくお前さんの云う通り、そんなに遠いところから呼ぶのじゃああるめえ。今夜ひとつ張り込んで見ましょうか」
「むむ。道場の模様次第で、張り込んでみてもいいな」
そんなことを云いながら、二人は岩下の道場の近所まで引っ返して来た。縁の無い者がむやみに表門からはいるわけにも行かないので、杉の生垣のあいだから覗いてみると、座敷には障子が閉めてあるので好くは判らないが、その障子に映る影を見ても、相当に大勢の人々が集まっているらしく、僧侶の
「成程ごたごた押し合っているようですね」と、亀吉はささやいた。
「むむ。押し合っているだけじゃあ仕様がねえが、今になにか始まらねえとも限らねえ。まあ、もう少し我慢しよう」
半七の言葉が終らないうちに、果たして一つの不思議が始まったのである。どこからとも知れず、怪しい低い声が座敷の障子にむかって呼びかけた。
「御新造さん······。岩下の御新造さん······。お経なんぞを上げるのはお止しなさい」
その声に、おどろかされて、二人は俄かにあたりを見まわしたが、夜は暗いので見当が付かなかった。内でもそれに驚かされたらしく、二、三人の男が障子をあけて縁側に出て来たが、やはり正体を見とどけ得ないで、何かこそこそ云いながら引っ込んでしまった。半七らは耳をすましていると、闇の中で怪しい声が又きこえた。
「御新造さん······。御新造さん······。仏さまは浮かびませんよ。今に幽霊になって出ますよ」
座敷の障子をあけて、今度は七、八人がどやどやと出て来た。彼らは暗い庭さきを透かし視て、怪しい声の方角を聞き定めようとするらしく、その二、三人は庭へ出て、そこらの隅々を探し歩いた。
「なんだろう」
「どこだろう」
彼らは口々に罵り騒いでいた。内から仏前の蝋燭を持ち出して、庭さきを照らしているのもあった。しかも怪しい物の姿はみえず、怪しい声もそれぎりで止んでしまったので、彼らも
「御新造さん······。御新造さん······」
さっきから耳を澄ましていた半七は、小声で亀吉に教えた。
「判った。あの屋根へ石を叩きつけろ」
東どなりには少しばかり
二人は探りながらに足もとの小石を拾って、隣りの屋根を目がけて投げ付けた。いわゆる闇夜の
「それ、逃がすな」
半七と亀吉は駈け寄った。
五
「まず怪談はここら迄でしょうね」と、半七老人は笑った。
「屋根から落ちた奴は何者です」と、わたしはすぐに
「それは近所の質屋のせがれで辰次郎という奴です。年は十九ですが、一人前には通用しない薄馬鹿で······。こいつがどうしてズウフラなんぞを持っていたかと云うと、自分の店で
「じゃあ、その辰公はおもしろ半分にやっていたんですね」
「まあ、そうです。辰公も長助も別に深い料簡もなく、ただ面白半分に往来の人を嚇かしていただけの事だったのですが、そのいたずらから枝が咲いて、師匠殺しという大事件が
嫁の方はそれで片付いたにしても、済まないのはお常と伊太郎との関係で、こんな事がいつまで隠しおおせるものじゃあありません。弟子のうちで真っ先にそれを覚ったのが池田喜平次で、ひそかに伊太郎を嚇し付けて小遣い銭をいたぶっていたんです。この喜平次は貧乏旗本の次男で、二十四五になるまで実家の厄介になっていたんですが、武芸はなかなかよく出来るので、行く行くは自分も道場でも開く積りで勉強していた······。ここまでは好かったんですが、ふいと魔がさした。と云うのは、辰公のズウフラ一件です。
岩下左内も悪い弟子を二人持ったのでした。一方の伊太郎は、万一自分たちの不義が露顕したら、日ごろの師匠の気質として捨て置く筈がない。
「そうすると、喜平次と伊太郎はその怪談を利用したわけなんですね」
「うまく師匠をばらしてしまえば、道場を乗っ取った上に、伊太郎からも相当の礼金が貰えるというわけで、喜平次はすっかり悪人になってしまったんです。そこで、二人は打ち合わせをして置いて、師匠の前で富士裏の怪談をはじめると、左内は例の気質ですから其の正体を見とどけに行くという。二人はそれに付いて出る。すべてが思う壺にはまって、左内は闇討ち······。手をおろしたのは喜平次でした。ほかの弟子たちの手前はいい加減に誤魔化して、検視も済み、葬式も済み、あしたは初七日の墓参り、今夜は逮夜というところまで漕ぎ着けると、その逮夜の晩に怪しい声が又きこえたんです。
なぜ辰公がそんないたずらをしたかと云うと、辰公は左内の殺された晩も、例のズウフラを持って富士裏のあたりを徘徊していて、喜平次らの闇討ちを木の蔭か何かで窺っていたんです。暗い中だから誰だか判りそうも無いもんですが、やっぱり悪いことは出来ないもので、左内を仕留めてから喜平次と伊太郎とが何か話していた。おまけに、用意の袂提灯を出して喜平次は血の付いた手を田川の水で洗った。そんなことで、
「長助をなぐったのは誰ですか。辰公じゃあないんですか」
「お察しの通りですよ。長助は係り合いになるのを怖がって、闇討ち以来もうズウフラを持ち出すなと辰公に云い聞かせたので、その当座は止めていたんですが、根が薄馬鹿の辰公ですから、三日四日経つと又持ち出した。そこへ丁度に長助が通り合わせて、この馬鹿野郎めと散々叱り付けた上に、そのズウフラを取り上げようとすると、辰公も承知しない。いきなりズウフラを振り上げて、相手の額を力まかせに殴り付けたんです。なにしろ長さは三尺あまりで、銅でこしらえた
そこで、一方の辰公、いかに薄馬鹿の人間でも、見す見す闇討ちの一件を知っていながら、口を結んでいるということは、さすがに気が咎めてならない。そこで逮夜の晩、岩下の道場に大勢が集まっているのを知って、隣りの屋根からズウフラで呼びかけた。
「喜平次も伊太郎もお常も、みんな挙げられたんですね」
「岡崎屋は白山前町にあるので、寺社の方へもことわって伊太郎を召し捕りました。お常も召し捕られました。お常は伊太郎との不義を白状しただけで、闇討ちのことは知らないと強情を張っていましたが、相手の伊太郎がべらべらしゃべってしまったので、どちらも引き廻しの上で