公園の片隅に通りがかりの人を相手に演説をしている者がある。向うから来た
釜形の
尖った帽子を
被ずいて古ぼけた
外套を
猫背に着た
爺さんがそこへ歩みを
佇めて演説者を見る。演説者はぴたりと演説をやめてつかつかとこの
村夫子のたたずめる前に出て来る。二人の視線がひたと行き当る。演説者は濁りたる
田舎調子にて御前はカーライルじゃないかと問う。いかにもわしはカーライルじゃと村夫子が答える。チェルシーの
哲人と人が
言囃すのは御前の事かと問う。なるほど世間ではわしの事をチェルシーの
哲人と云うようじゃ。セージと云うは鳥の名だに、人間のセージとは珍らしいなと演説者はからからと笑う。村夫子はなるほど猫も
杓子も同じ人間じゃのにことさらに
哲人などと
異名をつけるのは、あれは鳥じゃと
渾名すると同じようなものだのう。人間はやはり当り前の人間で
善かりそうなものだのに。と答えてこれもからからと笑う。
余は晩餐前に公園を散歩するたびに
川縁の
椅子に腰を卸して向側を
眺める。
倫敦に固有なる濃霧はことに岸辺に多い。余が桜の杖に
頤を
支えて真正面を見ていると、
遥かに対岸の
往来を
這い廻る霧の影は次第に濃くなって五階
立の町続きの下からぜんぜんこの
揺曳くものの
裏に薄れ去って来る。しまいには遠き未来の世を眼前に引き
出したるように
窈然たる空の
中にとりとめのつかぬ
鳶色の影が残る。その時この鳶色の奥にぽたりぽたりと鈍き光りが
滴るように見え初める。三層四層五層
共に
瓦斯を点じたのである。余は桜の杖をついて下宿の方へ帰る。帰る時必ずカーライルと演説使いの話しを思いだす。かの
溟濛たる瓦斯の霧に混ずる所が往時この
村夫子の住んでおったチェルシーなのである。
カーライルはおらぬ。演説者も死んだであろう。しかしチェルシーは以前のごとく存在している。
否彼の多年住み古した家屋敷さえ今なお
儼然と保存せられてある。千七百八年チェイン・ロウが出来てより以来幾多の主人を迎え幾多の主人を送ったかは知らぬがとにかく
今日まで昔のままで残っている。カーライルの歿後は有志家の
発起で彼の生前使用したる器物調度図書典籍を
蒐めてこれを各室に
按排し
好事のものにはいつでも
縦覧せしむる
便宜さえ
謀られた。
文学者でチェルシーに縁故のあるものを
挙げると
昔しはトマス・モア、
下ってスモレット、なお下ってカーライルと同時代にはリ・ハントなどがもっとも著名である。ハントの家はカーライルの
直近傍で、現にカーライルがこの
家に引き移った晩尋ねて来たという事がカーライルの記録に書いてある。またハントがカーライルの細君にシェレーの
塑像を贈ったという事も知れている。このほかにエリオットのおった家とロセッチの住んだ
邸がすぐ
傍の川端に向いた通りにある。しかしこれらは皆すでに
代がかわって現に人が
這入っているから見物は出来ぬ。ただカーライルの
旧廬のみは六ペンスを払えば
何人でもまた
何時でも随意に観覧が出来る。
チェイン・ローは
河岸端の往来を南に折れる小路でカーライルの家はその右側の中頃に
在る。番地は二十四番地だ。
毎日のように川を
隔てて霧の中にチェルシーを
眺めた余はある朝ついに橋を渡ってその有名なる
庵りを
叩いた。
庵りというと
物寂びた感じがある。少なくとも
瀟洒とか風流とかいう念と
伴う。しかしカーライルの
庵はそんな
脂っこい
華奢なものではない。
往来から
直ちに戸が
敲けるほどの
道傍に建てられた四階
造の真四角な家である。
出張った所も引き込んだ所もないのべつに
真直に立っている。まるで大製造場の煙突の根本を切ってきてこれに天井を張って窓をつけたように見える。
これが彼が北の
田舎から始めて
倫敦へ出て来て探しに探し抜いて
漸々の事で探し
宛てた家である。彼は西を探し南を探しハンプステッドの北まで探してついに
恰好の家を探し出す事が出来ず、最後にチェイン・ローへ来てこの家を見てもまだすぐに
取きめるほどの勇気はなかったのである。四千万の
愚物と天下を
罵った彼も
住家には閉口したと見えて、その愚物の中に当然勘定せらるべき妻君へ向けて委細を報知してその意向を確めた。細君の答に「御申越の
借家は二軒共不都合もなき様
被存候えば私倫敦へ
上り
候迄双方共御明け
置願度若し又それ迄に取極め
候必要相生じ
候節は御一存にて
如何とも御取計らい
被下度候とあった。カーライルは書物の上でこそ自分
独りわかったような事をいうが、家をきめるには細君の助けに依らなくては駄目と覚悟をしたものと見えて、夫人の上京するまで手を
束ねて待っていた。
四五日すると夫人が来る。そこで今度は二人してまた東西南北を
馳け廻った揚句の
果やはりチェイン・ローが
善いという事になった。
両人がここに引き越したのは千八百三十四年の六月十日で、引越の途中に下女の持っていたカナリヤが
籠の中で
囀ったという事まで知れている。夫人がこの
家を
撰んだのは
大に気に入ったものかほかに相当なのがなくてやむをえなんだのか、いずれにもせよこの煙突のごとく四角な家は年に三百五十円の家賃をもってこの新世帯の夫婦を迎えたのである。カーライルはこのクロムウェルのごときフレデリック大王のごときまた製造場の煙突のごとき家の中でクロムウェルを著わしフレデリック大王を著わしディスレリーの
周旋にかかる年給を
擯けて四角四面に暮したのである。
余は今この四角な家の石階の上に立って鬼の面のノッカーをコツコツと
敲く。しばらくすると内から五十
恰好の肥った婆さんが出て来て
御這入りと云う。最初から見物人と思っているらしい。婆さんはやがて名簿のようなものを出して御名前をと云う。余は倫敦滞留中四たびこの家に入り四たびこの名簿に余が名を記録した覚えがある。この時は実に余の名の
記入初であった。なるべく丁寧に書くつもりであったが例に
因ってはなはだ見苦しい字が出来上った。前の方を繰りひろげて見ると日本人の姓名は一人もない。して見ると日本人でここへ来たのは余が始めてだなと下らぬ事が嬉しく感ぜられる。婆さんがこちらへと云うから左手の戸をあけて町に向いた部屋に這入る。これは昔し客間であったそうだ。色々なものが並べてある。壁に
画やら写真やらがある。大概はカーライル夫婦の肖像のようだ。
後ろの部屋にカーライルの意匠に成ったという書棚がある。それに書物が沢山詰まっている。むずかしい本がある。下らぬ本がある。古びた本がある。読めそうもない本がある。そのほかにカーライルの八十の誕生日の記念のために
鋳たという
銀牌と
銅牌がある。
金牌は一つもなかったようだ。すべての
牌と名のつくものがむやみにかちかちしていつまでも平気に残っているのを、もろうた者の煙のごとき寿命と対照して考えると妙な感じがする。それから二階へ上る。ここにまた大きな本棚があって本が例のごとくいっぱい詰まっている。やはり読めそうもない本、聞いた事のなさそうな本、入りそうもない本が多い。勘定をしたら百三十五部あった。この部屋も一時は客間になっておったそうだ。ビスマークがカーライルに送った手紙と
普露西の勲章がある。フレデリック大王伝の御蔭と見える。細君の用いた
寝台がある。すこぶる不器用な
飾り
気のないものである。
案内者はいずれの国でも同じものと見える。
先っきから婆さんは室内の絵画器具について一々説明を与える。五十年間案内者を専門に修業したものでもあるまいが非常に熟練したものである。何年何月何日にどうしたこうしたとあたかも口から
出任せに
喋舌っているようである。しかもその
流暢な弁舌に抑揚があり
節奏がある。調子が面白いからその方ばかり聴いていると何を言っているのか分らなくなる。始めのうちは聞き返したり問い返したりして見たがしまいには面倒になったから御前は御前で勝手に口上を述べなさい、わしはわしで自由に見物するからという態度をとった。婆さんは人が聞こうが聞くまいが口上だけは必ず述べますという風で別段
厭きた
景色もなく
怠る様子もなく何年何月何日をやっている。
余は東側の窓から首を出してちょっと近所を見渡した。眼の下に十坪ほどの庭がある。右も左もまた向うも石の
高塀で仕切られてその形はやはり四角である。四角はどこまでもこの家の附属物かと思う。カーライルの顔は決して四角ではなかった。彼はむしろ
懸崖の中途が陥落して草原の上に伏しかかったような
容貌であった。細君は上出来の
辣韮のように見受けらるる。今余の案内をしている婆さんはあんぱんのごとく
丸るい。余が婆さんの顔を見てなるほど丸いなと思うとき婆さんはまた何年何月何日を
誦し出した。余は再び窓から首を出した。
カーライル云う。裏の窓より見渡せば見ゆるものは茂る葉の木株、
碧りなる野原、及びその間に
点綴する
勾配の急なる赤き屋根のみ。西風の吹くこの頃の
眺めはいと晴れやかに心地よし。
余は茂る葉を見ようと思い、青き野を
眺めようと思うて実は裏の窓から首を出したのである。首はすでに二
返ばかり出したが青いものも何にも見えぬ。右に家が見える。
左りに家が見える。
向にも家が見える。その上には
鉛色の空が一面に胃病やみのように
不精無精に垂れかかっているのみである。余は首を縮めて窓より中へ引き込めた。案内者はまだ何年何月何日の続きを朗らかに
読誦している。
カーライルまた云う
倫敦の
方を見れば眼に入るものはウェストミンスター・アベーとセント・ポールズの高塔の
頂きのみ。その他
幻のごとき
殿宇は
煤を含む雲の影の去るに任せて隠見す。
「倫敦の方」とはすでに時代後れの話である。
今日チェルシーに来て倫敦の方を見るのは家の
中に坐って家の
方を見ると同じ
理窟で、自分の眼で自分の
見当を眺めると云うのと大した差違はない。しかしカーライルは
自ら倫敦に住んでいるとは思わなかったのである。彼は
田舎に閑居して都の中央にある
大伽藍を
遥かに眺めたつもりであった。余は
三度び首を出した。そして彼のいわゆる「倫敦の方」へと視線を延ばした。しかしウェストミンスターも見えぬ、セント・ポールズも見えぬ。数万の家、数十万の人、数百万の物音は余と堂宇との間に立ちつつある、
漾いつつある、動きつつある。千八百三十四年のチェルシーと今日のチェルシーとはまるで別物である。余はまた首を引き込めた。婆さんは
黙然として余の背後に
佇立している。
三階に
上る。部屋の隅を見ると冷やかにカーライルの
寝台が
横わっている。青き
戸帳が物静かに垂れて
空しき
臥床の
裡は
寂然として薄暗い。木は何の木か知らぬが
細工はただ無器用で素朴であるというほかに何らの特色もない。その上に身を横えた人の身の上も思い合わさるる。
傍らには彼が平生使用した
風呂桶が
九鼎のごとく尊げに置かれてある。
風呂桶とはいうもののバケツの大きいものに過ぎぬ。彼がこの
大鍋の中で倫敦の
煤を洗い落したかと思うとますますその人となりが
偲ばるる。ふと首を上げると壁の上に彼が
往生した時に取ったという
漆喰製の
面型がある。この顔だなと思う。この
炬燵櫓ぐらいの高さの風呂に
入ってこの質素な寝台の上に寝て四十年間やかましい
小言を吐き続けに吐いた顔はこれだなと思う。婆さんの
淀みなき口上が電話口で横浜の人の挨拶を聞くように聞える。
宜しければ上りましょうと婆さんがいう。余はすでに倫敦の
塵と音を
遥かの下界に残して五重の塔の
天辺に独坐するような気分がしているのに耳の元で「上りましょう」という催促を受けたから、まだ上があるのかなと不思議に思った。さあ上ろうと同意する。上れば上るほど怪しい心持が起りそうであるから。
四階へ来た時は
縹渺として何事とも知らず嬉しかった。嬉しいというよりはどことなく妙であった。ここは屋根裏である。天井を見ると左右は低く中央が高く馬の
鬣のごとき
形ちをしてその一番高い
背筋を通して
硝子張りの明り取りが着いている。このアチックに
洩れて来る光線は皆頭の上から
真直に
這入る。そうしてその頭の上は硝子一枚を隔てて全世界に通ずる大空である。眼に
遮るものは
微塵もない。カーライルは自分の経営でこの
室を作った。作ってこれを書斎とした。書斎としてここに
立籠った。立籠って見て始めてわが計画の非なる事を悟った。夏は暑くておりにくく、冬は寒くておりにくい。案内者は朗読的にここまで述べて余を
顧りみた。
真丸な顔の底に笑の影が見える。余は無言のままうなずく。
カーライルは何のためにこの天に近き一室の経営に苦心したか。彼は彼の文章の示すごとく電光的の人であった。彼の
癇癖は彼の身辺を
囲繞して無遠慮に起る音響を無心に聞き流して著作に
耽るの余裕を与えなかったと見える。
洋琴の声、犬の声、鶏の声、
鸚鵡の声、いっさいの声はことごとく彼の鋭敏なる神経を刺激して
懊悩やむ
能わざらしめたる
極ついに彼をして天に最も近く人にもっとも遠ざかれる住居をこの四階の天井裏に求めしめたのである。
彼のエイトキン夫人に与えたる
書翰にいう「此
夏中は開け放ちたる窓より聞ゆる物音に悩まされ
候事一方ならず色々修繕も試み候えども
寸毫も
利目無之夫より
篤と熟考の末家の真上に二十尺四方の部屋を建築致す事に取極め申
候是は壁を二重に致し光線は天井より取り風通しは一種の工夫をもって
差支なき様致す仕掛に候えば出来上り
候上は
仮令天下の鶏共一時に
鬨の声を揚げ
候とも閉口
仕らざる
積に御座
候」
かくのごとく予期せられたる書斎は二千円の費用にてまずまず思い通りに落成を告げて予期通りの功果を奏したがこれと同時に思い掛けなき障害がまたも主人公の
耳辺に起った。なるほど
洋琴の
音もやみ、犬の声もやみ、鶏の声、鸚鵡の声も案のごとく聞えなくなったが下層にいるときは考だに及ばなかった寺の鐘、汽車の
笛さては何とも知れず遠きより
来る下界の声が
呪のごとく彼を追いかけて旧のごとくに彼の神経を苦しめた。
声。英国においてカーライルを苦しめたる声は
独逸においてショペンハウアを苦しめたる声である。ショペンハウア云う。「カントは活力論を
著せり、余は
反って活力を
弔う文を草せんとす。物を打つ音、物を
敲く音、物の
転がる音は皆活力の濫用にして余はこれがために日々苦痛を受くればなり。音響を聞きて何らの感をも起さざる多数の人
我説をきかば笑うべし。されど世に
理窟をも感ぜず思想をも感ぜず
詩歌をも感ぜず美術をも感ぜざるものあらば、そは正にこの
輩なる事を忘るるなかれ。彼らの頭脳の組織は
麁
にして
覚り鈍き事その源因たるは疑うべからず」カーライルとショペンハウアとは実は十九世紀の
好一対である。余がかくのごとく回想しつつあった時に例の婆さんがどうです下りましょうかと
促がす。
一層を
下るごとに下界に近づくような心持ちがする。
冥想の皮が
剥げるごとく感ぜらるる。階段を降り切って最下の欄干に
倚って通りを
眺めた時にはついに依然たる一個の俗人となり
了ってしまった。案内者は平気な顔をして
厨を御覧なさいという。厨は
往来よりも下にある。今余が立ちつつある所よりまた五六段の階を下らねばならぬ。これは今案内をしている婆さんの
住居になっている。隅に大きな
竈がある。婆さんは例の朗読調をもって「千八百四十四年十月十二日有名なる詩人テニソンが初めてカーライルを訪問した時彼ら両人はこの竈の前に対坐して互に
煙草を
燻らすのみにて二時間の間
一言も
交えなかったのであります」という。天上に
在って音響を
厭いたる彼は地下に入っても沈黙を愛したるものか。
最後に勝手口から庭に案内される。例の四角な平地を見廻して見ると木らしい木、草らしい草は少しも見えぬ。婆さんの話しによると昔は桜もあった、
葡萄もあった。
胡桃もあったそうだ。カーライルの細君はある年二十五銭ばかりの胡桃を得たそうだ。婆さん云う「庭の東南の隅を去る五尺余の地下にはカーライルの愛犬ニロが葬むられております。ニロは千八百六十年二月一日に死にました。墓標も当時は存しておりましたが惜しいかなその後取払われました」と中々
精しい。
カーライルが
麦藁帽を
阿弥陀に
被って寝巻姿のまま
啣え
煙管で
逍遥したのはこの庭園である。夏の
最中には蔭深き敷石の上にささやかなる
天幕を張りその下に机をさえ出して余念もなく述作に従事したのはこの庭園である。星
明かなる
夜最後の一ぷくをのみ終りたる後、彼が空を仰いで「
嗚呼余が最後に
汝を見るの時は瞬刻の
後ならん。全能の神が造れる無辺大の劇場、眼に
入る無限、手に
触るる無限、これもまた我が眉目を
掠めて去らん。しかして余はついにそを見るを得ざらん。わが力を致せるや虚ならず、知らんと欲するや切なり。しかもわが知識はただかくのごとく
微なり」と叫んだのもこの庭園である。
余は婆さんの労に
酬ゆるために婆さんの
掌の上に
一片の銀貨を
載せた。ありがとうと云う声さえも朗読的であった。一時間の後
倫敦の
塵と
煤と車馬の音とテームス河とはカーライルの家を別世界のごとく遠き
方へと
隔てた。