彼はまたいつとなくだん/\と場末へ追ひ込まれてゐた。
四月の末であつた。空にはもや/\と
靄のやうな雲がつまつて、日光がチカ/\桜の青葉に降りそゝいで、
雀の子がヂユク/\
啼きくさつてゐた。どこかで朝から晩まで
地形ならしのヤートコセが始まつてゐた
······。
彼は疲れて、青い顔をして、眼色は病んだ
獣のやうに鈍く光つてゐる。不眠の夜が続く。ぢつとしてゐても
動悸がひどく感じられて
鎮めようとすると、
尚ほ襲はれたやうに激しくなつて行くのであつた。
今度の下宿は、小官吏の後家さんでもあらうと思はれる四十五六の
上さんが、ゐなか者の女中相手につましくやつてゐるのであつた。樹木の多い場末の、軒の低い平家建の薄暗くじめ/\した小さな家であつた。彼の所有物と云つては、夜具と、机と、何にもはひつてない
桐の
小箪笥だけである。桐の小箪笥だけが、彼の永い貧乏な生活の間に売残された、たつたひとつの
哀しい思ひ出の物なのであつた。
彼は
剥げた
一閑張の小机を、竹垣ごしに狭い通りに向いた
窓際に
据ゑた。その低い、
朽つて白く
黴の生えた
窓庇とすれ/\に、育ちのわるい
梧桐がひよろ/\と植つてゐる。そして黒い毛虫がひとつ、毎日その幹をはひ下りたり、まだ延び切らない葉裏を歩いたりしてゐるのであつたが、孤独な引込み勝な彼はいつかその毛虫に注意させられるやうになつてゐた。そして常にこまかい物事に対しても、ある宿命的な暗示をおもふことに慣らされて居る彼には、その毛虫の動静で自然と天候の変化が予想されるやうにも思はれて行くのであつた。
孤独な彼の生活はどこへ行つても変りなく、
淋しく、なやましくあつた。そしてまた彼はひとりの哀しき父なのであつた。哀しき父
||彼は
斯う自分を呼んでゐる。
彼にはこれから入梅へかけての間が、一年中での一番
堪へ難い季節になつてゐた。彼は
此頃の気候の圧迫を軽くしよう為めに、例年のやうに、午後からそこらを出歩くことにしようと思つた。けれども、それを続ける事はつらいことでもある。カーキ色の兵隊を載せた板橋火薬庫の汚ない自動車がガタ/\と乱暴な音を立てて続いて来るのに会ふこともあつた。
吊台の中の病人の延びた
頭髪が眼に入ることもあつた。
欅の若葉をそよがす
軟い風、輝く空気の波、ほしいまゝな小鳥の啼声
······しかし彼は、それらのものに
慄へあがり、めまひを感じ、身うちをうづかせられる苦しさよりも、
尚堪へ難く思はれることは町で金魚を見ねばならぬことであつた。
金魚と子供とは、いつか彼には離して考へることの出来ないものになつてゐた。
彼はまだ若いのであつた。けれども彼の子供は四つになつてゐるのである。そして遠い彼の郷里に、彼の年よつたひとりの母に
護られて成長して居るのであつた。
彼等は
||彼と、子と、子の母との三人で
||昨年の夏前までは郊外に小さな家を持つていつしよに
棲んでゐたのである。世の中からまつたく
隠遁したやうな、貧しい、しかし静かな生活であつた。子供は丁度ラシャの靴をはいてチヨコ/\と
駈け歩くやうになつてゐたが、孤独な詩人のためには唯一の友であり兄弟であつた。
彼等は縁日で買つて来た粗末な
胡弓をひいたり、鉛筆で絵を描いたり、鬼ごつこなぞして遊んだ。
棄てられた小犬と、数匹の金魚と亀の子も飼つてゐた。そして彼等の楽しい日課のひとつとして、晴れた日の午後には子供の手をひいて、小犬をつれて、そこらの
田圃の
溝に
餌をとりに行くことになつてゐた。けれども丁度彼等のさうした生活も、迫りに迫つて来てゐたのであつた。従順な細君の
溜息がだん/\と力無く、深くなつて行つた。ながく掃除を怠つてゐた庭には草が延び放題に延びてゐた。
金魚は亀の子といつしよに、白い洗面器に入れられて縁側に出されてあつた。彼等の運命は一日々々と追つて来てゐるのであつたが、子供の為めの日課はやはり続けられてゐた。それが
偶ま
訪ねて来たいたづらな酒飲みの友達が、彼等の知らぬ間に亀の子を庭の草なかに放してなくなしてしまつた。彼は云ひやうのない
憂鬱な溜息を感じた。「はア、カメない、カメノコない
······」子供も幾日もそれを忘れなかつた。それからして彼等の日課も自然と廃せられることになり、間もなく、彼等の哀しき離散の日が来てゐたのであつた。
|| 彼は気の進まない自分を
強ひて、午後の散歩を続けてゐる。そしていつか、彼は彼の散歩する範囲内では、どこのランプ屋では金魚を置いてる、置いてないかが大概わかるやうになつてゐた。彼は都会から、生活から、
朋友から、あらゆる色彩、あらゆる音楽、その種のすべてから
執拗に自己を封じて、ぢつと自分の小さな世界に黙想してるやうな冷たい暗い詩人なのであつた。それが、金魚を見ることは、彼の小さな世界へ
焼鏝をさし入れるものであらねばならない。彼は金魚を見ることを恐れた。そして彼はなるべく金魚の見えない通りを/\と
避けて歩くのであつたが、うつかりして、立止つて、ガラスの箱なんかにしな/\と泳いでゐるのに見入つてゐることがあつた。そして気がついて、日のカン/\照つた往来を、涙を
呑んで歩いてゐるのであつた。けれども、彼もだん/\とそれに慣れては行つた。が、彼は今年になつてはじめて、どこかの場末の町の
木陰に荷を下し休んでゐた金魚売を見た時の、その最初の感傷を忘れることが出来ない。
······ いつか、
梅雨前のじめ/\した、そして窒息させるやうに
気紛れに照りつけるやうな、日が来てゐた。
彼は
此頃午後からきまつたやうに出る不快な熱の為めに、終日閉ぢこもつて、堪へ難い気分の
腐触と不安とになやまされて居る。寝たり起きたりして、
喘ぐやうな一日々々を送つてゐるのであつた。
陰気な、昼も夜も笑声ひとつ聞えないやうな家である。が、湿つぽい
匂ひの
泌みこんだ同じやうに汚ならしい六つ七つの
室は、みんなふさがつてゐた。おとなしい貧乏な学生達と、彼の隣室には、若い夫婦者とむかひ合つた室には無職の予備士官がはひつてゐた。そしていつも執拗に子供のことや、暗い
瞑想に
耽つてぐづ/\と日を送つてゐる彼には、最初この家の陰気で静かなのが
却つて気安く感じられたのであつたが、それもだん/\と暗い、なやましい圧迫に変つてゐるのであつた。
予備士官は三十二三の、北国から出て来たばかりの人であつた。終日まつたく日のさゝない暗い室にとぢこもつてゐて、何をしてるのとも想像がつかなかつた。大きな
不格好な髪の薄い頭をして、
訛音のひどい言葉でブツ/\と女中に何か云つてることもあつた。時々汚ない
服装の、ひとのおかみさんとも見える若い女が訪ねて来ることがあつたが、それが近所の
安淫売だつたと云ふことが、後になつて無口の女中から
漏らされてゐた。
それがつい
······まだ幾日も
経つてゐないのであつた。ある朝女中が声をひそめて「腸がねぢれたんださうですよ
······」と軍人の三四日床に
就き切りであることを話してゐた。それから一両日も経つた夕方、
吊台が玄関前につけられて、そして病院にかつぎこまれて、手術をして、丁度八日目に死んだのである。腸の閉鎖と、悪性の梅毒に
脊髄をもをかされてゐたのであつた。
また隣室の若い細君は、力無く見ひらいた眼の美しい、透き通るやうな青白い顔をして、彼がこの家へ来てから
幾んど起きてゐた日がないやうであつた。細君孝行な若い勤め人の夫は、朝早く出て晩遅く帰るのであつたが、朝晩に何かといたはつてゐるのが手に取るやうに聞こえるのであつた。細君の軽い
咳音もまじつて、コソ/\と一晩中語りあかしてゐるやうなこともあつた。
彼は此頃の自分の健康と思ひ合はして、払ひ
退けやうのない不吉な、不安なかんがへになやまされてゐる。病人の絶えない家のやうにも思はれるのであつた。裏は低い
崖になつて、その上が墓地の
藪になつてゐるが、この家の地所もやはり寺の所有なのであつた。ワクの
朽つた赤土の崖下の
蓋のない掘井戸から、ガタ/\とポンプで
汲み揚げられるやうになつてゐて、その上が寺の湯殿になつてゐた。若い女の笑ひ声なども漏れてゐることがあつた。そして崖上の暗い藪におつかぶされてゐるこの家では、もう、いやに目まぐるしい手足を動かして襲つて来る
斑らの黒い大きな藪蚊が、朝夕にふえて行くのであつた。
彼は飲みつけない強い酒を
呷つて、それでやう/\不定な睡眠をとることにしてゐる。そして病的に過敏になつた彼の神経は、そこらを
嗅ぎ廻るやうに
閃めき動いて、女中を通して、自分のこの室にも病人がゐて、それが彼のはひる少し前に不治の身体になつて帰郷したのだと云ふことや、こゝの主人も丁度昨年の今頃
亡くなつたのだと云ふことなど、断片的にきゝ出し得たのであつた。
彼は毎晩いやな重苦しい夢になやまされた。
······彼の子供は
裸体になつてゐた。ムク/\と堅く肥え太つて、腹部が健康さうにゆるやかな線に波打つてゐる。そして彼にはいつか二三人の弟妹が出来てゐるのであつた。室は広くあけ放してあつて、青青とした畳は涼しさうに見える。そこには子供の祖父も、祖母も弟妹もゐるのだが、みんなはゴロ/\寝ころんでゐる。
唯彼ひとりが、ムクムクと堅く肥え太つて、ゆるやかに張つたお腹を突き出して、非常に威張つた姿勢をして、手を振つて
大股に室の中を歩いてゐるのであつた。
ふと、ペラ/\な黒紋附を着た若い男がはひつて来て、坐つて何か云つてるやうであつた。すると子供は歩くのを
止めて、ちよつと突立つて、
「さうか。それではお前はおれの
抱へ
医者になるか
||」
斯う、万事を呑込んでゐるやうな
鷹揚な態度で云ふのであつた。それを
傍から見てゐた父は、わが子のその態度やものの云ひぶりに、覚えず微笑させられたのである。
······ それが夢なのである。彼には幾日かその夢の場の印象がはつきりと浮かべられてゐた。それは非常に大きなユーモアのやうにも考へられるのである。また子供といふものの
如何にさかんなる
矜りに生きて居るかと云ふことを思はしめるのである。それからまた、辛うじて医薬によつて
支へられてゐた彼の父の三十幾年と云ふ短い生涯から彼自身の健康状態から考へて、子供の未来に、暗い運命の陰影を予想しないわけに行かないのであつた。
久しぶりで郷里の母から手紙があつた。母は彼女の孫をつれて、ひと月余り山の温泉に行つてて、帰つて来たばかりのところなのである。
彼女は彼女の一粒の子と、一粒の孫とを保護するためにこの世に生れて来、
活きてゐるやうな女であつた。そして月に幾度となく彼女の不幸な孫の消息について、こま/″\と書き送りもし、またわが子の我まゝな手紙を読むことに、
慰藉を感じてゐた。
彼等の行つてゐた温泉は、汽車から下りて、谷あひの川に沿うて五六里も馬車に揺られて山にはひるのであつた。温泉の近くには、彼女の信仰してゐる古い山寺があつて、そこの
蓴菜の生える池の
渚に
端銭をうかべて、その沈み具合によつて今年の作柄や運勢が占はれると云ふことが、その地方では一般に信じられてゐた。彼女もまた何十年となく、毎年今頃に
参詣することにしてゐて、その占ひを信じてゐるのであつた。
母の手紙では今年の占ひが思はしくないので気がかりだと云ふこと、互ひに気をつけるやうにせねばならぬと云ふこと、孫のたいへん元気であること、そして都合がついたら孫の洋服をひとつ送るやうにと云ふのであつた。孫は洋服を着たいと云つてきかない、そしてお父さんはいやだ、何にも送つてくれないからいやだと云ふのであつた。彼女はそんなことは云ふものでないと孫を
叱つてゐる。そして靴と靴下だけは買つてやつたが、洋服は都合して送るやうにと云ふのであつた。
それは朝からのひどい雨の日であつた。彼は
寝衣の
乾かしやうのないのに困つて、ぼんやりと
窓外を
眺めて居た。
梧桐の毛虫はもうよほど大きくなつてゐるのだが、こんな日にはどこかに隠れてゐて姿を見せない、彼は早くこの不吉な家を出て海岸へでも行つて静養しようと、金の
工面を考へてゐたのであつた。
疲れた彼の胸には、母の手紙は重い響であつた。彼は
兎に
角小箪笥を売つて、洋服を送つてやることにした。そして、
「
······どうか、そんなことを云はさないやうにして下さい。私はあれをたいへんえらい人間にしようと思つて居るのです。私はいろ/\だめなのです
······。どうか卑しいことは云はさないやうにして下さい。卑しい心を起させないやうにして下さい。身体さへ丈夫であれば、今のうちは何もいらないのです
······」
彼は子供がいつの間にそんなことを云ふまでになつたかを信じられないやうな、また
怖ろしいやうな気持で母への返事を書いた。そして彼がこの正月に苦しい間から書物など売払つて送つてやつた、毛糸の
足袋や、マントや、
玩具の自動車や、絵本や、霜やけの薬などを子供はどんなに
悦んで「これもお父さんから、これもお父さんから」と云つて近所の人達に並べて見せたと云ふことや、彼の手紙をお父さんからの手紙と云つて持ち歩くと云ふことなどを思ひ合して、別れてわづか一年足らずに過ぎない子供の現在を想像することの困難を感ずるのであつた。
霧のやうな小雨が都会をかなしく降りこめて居る。彼は夜遅くなつて、疲れて、草の
衾にも安息をおもふ旅人のやる瀬ない気持になつて、電車を下りて暗い場末の下宿へ帰るのであつた。
彼は海岸行きの金をつくる為に、図書館通ひを始めてゐる。
······ 彼の胸にも霧のやうな冷たい悲哀が満ち
溢れてゐる。執着と云ふことの際限もないと云ふこと、世の中にはいかに気に入らぬことの多いかと云ふこと、暗い宿命の影のやうに
何処まで避けてもつき
纏うて来る生活と云ふこと、また大きな
黴菌のやうに彼の心に喰ひ入らうとし、もう喰ひ入つてゐる子供と云ふこと、さう云ふことどもが、流れる霧のやうに、冷たい悲哀を彼の疲れた胸に吹きこむのであつた。彼は
幾度か子供の
許に帰らうと、心が動いた。彼は最も高い貴族の心を待つて、最も元始の生活を送つて、真実なる子供の友となり、兄弟となり、教育者となりたいとも思ふのであつた。
けれども偉大なる子は、決して直接の父を要しないであらう。彼は
寧ろどこまでも自分の道を求めて、追うて、やがて
斃るゝべきである。そしてまた彼の子供もやがては彼の年代に達するであらう、さうして彼の死から沢山の真実を学び得るであらう
|| 苦しい図書館通ひが四五日も続いた、その朝であつた。彼はいつものやうに、
暁方過ぎからうと/\と重苦しい眠りにはひつて、十時少し前に気色のわるい寝床を出たのであつた。
日が、
燻べられたやうな色の雨戸の
隙間から流れ入つて、室の中はむし/\してゐた。彼は雨戸を開けて、ビシヨ/\の寝衣を
窓庇の
釘に下げて、それから洗面器を出さうとして押入れの
唐紙を開けた。見なれた洗面器の中のうがひのコップや、
石鹸箱や、歯磨の袋が目に入つた。
と、彼は軽く
咳き入つた、フラ/\となつた、しまつた!
斯う思つた時には、もうそれが彼の
咽喉まで押し寄せてゐた
||。
熱は三十七八度の辺を昇降してゐる。堪へ難いことではない。彼の精神は
却つて安静を感じてゐる。
「自分もこれでライフの洗礼も済んだ、これからはすこしおとなになるだらう
······」
孤独な彼は、気まゝに寝たり起きたりしてゐる。そしていつか、育ちのわるい梧桐の葉も延び切つて、黒い毛虫もみえなくなつてゐる。彼の使つた
氷嚢はカラ/\になつて壁にかゝつてゐる。窓際の小机の上には、
数疋の金魚がガラスの
鉢にしな/\泳いでゐる。
彼は静かに詩作を続けようとしてゐる。
(大正元年八月)