一
「
小使、小ウ使。」
程もあらせず、
······廊下を急いで、もっとも授業中の遠慮、
静に教員控所の板戸の前へ敷居越に
髯面······というが
頤頬などに貯えたわけではない。不精で
剃刀を当てないから、むじゃむじゃとして黒い。
胡麻塩頭で、眉の迫った渋色の
真正面を出したのは、苦虫と
渾名の
古物、但し人の
好い
漢である。
「へい。」
とただ云ったばかり、
素気なく口を引結んで、
真直に立っている。
「おお、源助か。」
その職員室
真中の
大卓子、向側の
椅子に
凭った先生は、
縞の
布子、
小倉の
袴、羽織は
袖に白墨
摺のあるのを
背後の壁に
遣放しに
更紗の裏を
捩ってぶらり。髪の薄い
天窓を
真俯向けにして、土瓶やら、茶碗やら、
解かけた風呂敷包、
混雑に職員のが
散ばったが、その控えた前だけ整然として、
硯箱を
右手へ引附け、一冊覚書らしいのを
熟と
視めていたのが、抜上った額の広い、鼻のすっと
隆い、髯の無い、
頤の細い、眉のくっきりした顔を上げた、
雑所という
教頭心得。何か落着かぬ色で、
「こっちへ入れ。」
と胸を張って袴の膝へちゃんと手を置く。
意味ありげな
体なり。茶碗を洗え、土瓶に湯を
注せ、では無さそうな処から、小使もその
気構で、
卓子の
角へ進んで、太い眉をもじゃもじゃと動かしながら、
「御用で?」
「何は、
三右衛門は。」と聞いた。
これは背の抜群に高い、
年紀は源助より大分
少いが、
仔細も無かろう、けれども発心をしたように頭髪をすっぺりと
剃附けた
青道心の、いつも
莞爾々々した
滑稽けた男で、やっぱり学校に居る、もう一人の小使である。
「同役(といつも云う、
士の
果か、
仲間の上りらしい。)は番でござりまして、
唯今水瓶へ水を
汲込んでおりまするが。」
「水を汲込んで、水瓶へ
······むむ、この風で。」
と云う。
閉込んだ
硝子窓がびりびりと鳴って、青空へ
灰汁を
湛えて、上から
揺って沸立たせるような
凄まじい風が吹く。
その窓を見向いた
片頬に、
颯と
砂埃を
捲く影がさして、雑所は眉を
顰めた。
「この風が、
······何か、風
······が
烈しいから火の用心か。」
と
唐突に妙な事を言出した。が、成程、聞く方もその風なれば、さまで不思議とは思わぬ。
「いえ、かねてお諭しでもござりますし、不断十分に注意はしまするが、差当り、火の用心と申すではござりませぬ。
······やがて、」
と例の渋い顔で、横手の柱に
掛ったボンボン時計を
睨むようにじろり。ト十一時
······ちょうど半。
||小使の心持では、時間がもうちっと
経っていそうに思ったので、止まってはおらぬか、とさて
瞻めたもので。
||風に紛れて針の音が全く聞えぬ。
そう言えば、全校の二階、
下階、どの教場からも、声一つ、
咳半分響いて来ぬ、一日中、またこの
正午になる一時間ほど、
寂寞とするのは無い。
||それは
小児たちが一心不乱、目まじろぎもせずにお弁当の時を待構えて、無駄な足踏みもせぬからで。
静なほど、組々の、人一人の声も澄渡って手に取るようだし、広い職員室のこの時計のカチカチなどは、居ながら小使部屋でもよく聞えるのが例の処、ト
瞻めても針はソッとも響かぬ。
羅馬数字も風の硝子窓のぶるぶると震うのに釣られて、波を
揺って見える。が、分銅だけは、調子を違えず、とうんとうんと打つ
||時計は止まったのではない。
「もう、これ
午餉になりまするで、生徒方が湯を呑みに、どやどやと見えますで。湯は
沸らせましたが
||いや、どの
小児衆も性急で、渇かし切ってござって、
突然がぶりと
喫りまするで、気を着けて進ぜませぬと、直きに
火傷を。」
「火傷を
···うむ。」
と長い顔を傾ける。
二
「同役とも申合わせまする事で。」
と
対向いの、可なり年配のその先生さえ
少く見えるくらい、老実な
語。
「加減をして、うめて進ぜまする。その
貴方様、水をフト失念いたしましたから、
精々と汲込んでおりまするが、何か、別して
三右衛門にお使でもござりますか、手前ではお間には合い兼ね
······」
と言懸けるのを、遮って、傾けたまま
頭を
掉った。
「いや、三右衛門でなくってちょうど
可いのだ、あれは
剽軽だからな。
······源助、実は年上のお前を見掛けて、ちと話があるがな。」
出方が出方で、源助は一倍まじりとする。
先生も少し
極って、
「もっとこれへ寄らんかい。」
と椅子をかたり。
卓子の隅を座取って、
身体を
斜に、
袴をゆらりと踏開いて腰を落しつける。その前へ、小使はもっそり進む。
「卓子の向う前でも、
砂埃に
掠れるようで、話がよく分らん、
喋舌るのに骨が折れる。ええん。」と
咳をする下から、
煙草を
填めて、吸口をト頬へ当てて、
「
酷い風だな。」
「はい、屋根も
憂慮われまする
······この二三年と申しとうござりまするが、どうでござりましょうぞ。五月も半ば、と申すに、
北風のこう
烈しい事は、十年
以来にも、ついぞ覚えませぬ。いくら雪国でも、
貴下様、もうこれ布子から
単衣と飛びまする処を、
今日あたりはどういたして、また
襯衣に
股引などを貴下様、下女の宿下り見まするように、
古葛籠を
引覆しますような事でござりまして、ちょっと
戸外へ出て
御覧じませ。鼻も耳も吹切られそうで、何とも
凌ぎ切れませんではござりますまいか。
三右衛門なども、鼻の
尖を
真赤に致して、えらい
猿田彦にござります。はは。」
と変哲もない
愛想笑。が、そう云う源助の鼻も赤し、これはいかな事、雑所先生の小鼻のあたりも
紅が
染む。
「実際、
厳いな。」
と
卓子の上へ、
煙管を持ったまま長く
露出した火鉢へ
翳した、鼠色の
襯衣の腕を、先生ぶるぶると震わすと、歯をくいしばって、
引立てるようにぐいと
擡げて、床板へ火鉢をどさり。で、足を
踏張り、両腕をずいと
扱いて、
「御免を
被れ、行儀も作法も云っちゃおられん、遠慮は
不沙汰だ。源助、当れ。」
「はい、同役とも相談をいたしまして、
昨日にも
塞ごうと思いました、部屋(と
溜の事を云う)の
炉にまた
噛りつきますような次第にござります。」と中腰になって、
鉄火箸で炭を
開けて、五徳を
摺って
引傾がった銅の
大薬鑵の肌を、毛深い手の甲でむずと
撫でる。
「一杯
沸ったのを
注しましょうで、
||やがてお弁当でござりましょう。貴下様組は、この時間御休憩で?」
「源助、その事だ。」
「はい。」
と
獅噛面を後へ
引込めて目を据える。
雑所は前のめりに
俯向いて、一服吸った後を、口でふっふっと吹落して、
雁首を取って返して、吸殻を丁寧に灰に
突込み、
「閉込んでおいても風が
揺って、吸殻一つも吹飛ばしそうでならん。危いよ、こんな日は。」
とまた一つ灰を
浴せた。
瞳を返して、壁の黒い、廊下を
視め、
「
可い
塩梅に、そっちからは吹通さんな。」
「でも、貴方様まるで野原でござります。お
児達の
歩行いた跡は、
平一面の足跡でござりまするが。」
「むむ、まるで野原
······」
と陰気な顔をして、伸上って透かしながら、
「源助、時に、何、今
小児を一人、少し都合があって、お前達の何だ、
小使溜へ
遣ったっけが、何は、
······部屋に居るか。」
「
居りまするで、しょんぼりとしましてな。はい、
······あの、嬢ちゃん坊ちゃんの事でござりましょう、部屋に居りますでございますよ。」
三
「嬢ちゃん坊ちゃん。」
と先生はちょっと口の
裡で繰返したが、直ぐにその
意味を知って
頷いた。今年
九歳になる、校内第一の
綺麗な少年、宮浜浪吉といって、名まで優しい。色の白い、髪の美しいので、源助はじめ、嬢ちゃん坊ちゃん、と呼ぶのであろう?
······「しょんぼりしている。
小使溜に。」
「時ならぬ時分に、部屋へぼんやりと入って来て、お腹が痛むのかと言うて聞いたでござりますが、雑所先生が小使溜へ行っているように
仰有ったとばかりで、
悄れ返っておりまする。はてな、
他のものなら珍らしゅうござりませぬ。この
児に限って、
悪戯をして、課業中、席から追出されるような事はあるまいが、どうしたものじゃ。
······寒いで、まあ、当りなさいと、炉の縁へ坐らせまして、手前も
胡坐を
掻いて、火をほじりほじり、
仔細を聞きましても、何も言わずに、
恍惚したように
鬱込みまして、あの可愛げに
掻合せた美しい襟に、白う、そのふっくらとした
顋を
附着けて、
頻りとその
懐中を
覗込みますのを、じろじろ見ますと、
浅葱の
襦袢が
開けまするまで、
艶々露も垂れるげな、
紅を溶いて玉にしたようなものを、
溢れまするほど、な、
貴方様。」
「むむそう。」
と考えるようにして、雑所はまた頷く。
「手前、御存じの少々
近視眼で。それへこう、
霞が
掛りました
工合に、薄い綺麗な紙に包んで持っているのを、何か干菓子ででもあろうかと存じました処。」
「
茱萸だ。」と云って雑所は居直る。話がここへ運ぶのを待構えた
体であった。
「で、ござりまするな。目覚める木の実で、いや、
小児が夢中になるのも道理でござります。」と感心した様子に源助は云うのであった。
青梅もまだ苦い頃、やがて、
李でも色づかぬ
中は、実際
苺と聞けば、
小蕪のように
干乾びた青い葉を束ねて売る、黄色な実だ、と思っている、こうした雪国では、
蒼空の下に、白い日で暖く蒸す茱萸の実の、枝も
撓々な処など、大人さえ、火の燃ゆるがごとく目に着くのである。
「
家から持ってござったか。教場へ出て何の事じゃ、大方そのせいで雑所様に叱られたものであろう。まあ、大人しくしていなさい、とそう云うてやりまして、実は何でござります。
······あの
児のお
詫を、と間を見ておりました処を、ちょうどお召でござりまして、
······はい。何も小児でござります。日頃が日頃で、ついぞ世話を焼かした事の無い、評判の児でござりまするから、
今日の処は、源助、あの児になりかわりまして御訴訟。はい、気が小さいかいたして、口も利けずに、とぼんとして、
可哀や、病気にでもなりそうに見えまするがい。」と
揉手をする。
「どうだい、吹く事は。
酷いぞ。」
と窓と一所に、肩をぶるぶると
揺って、
卓子の上へ
煙管を
棄てた。
「源助。」
と再度
更って、
「
小児が
懐中の果物なんか、
袂へ入れさせれば済む事よ。
どうも変に、気に
懸る事があってな、小児どころか、お互に、大人が、とぼんとならなければ
可いが、と思うんだ。
昨日夢を見た。」
と
注いで置きの茶碗に残った、
冷い茶をがぶりと飲んで、
「昨日な、
······昨夜とは言わん。が、昼寝をしていて見たのじゃない。日の暮れようという、そちこち、暗くなった山道だ。」
「山道の夢でござりまするな。」
「
否、実際山を
歩行いたんだ。それ、日曜さ、昨日は
||源助、お前は
自から得ている。私は本と
首引きだが、
本草が好物でな、知ってる通り。で、昨日ちと山を奥まで入った。つい
浮々と谷々へ釣込まれて。
こりゃ途中で暗くならなければ
可いが、と山の陰がちと
憂慮われるような日ざしになった。それから急いで引返したのよ。」
四
「山時分じゃないから人ッ子に
逢わず。また
茸狩にだって、あんなに奥まで
行くものはない。随分
路でもない処を潜ったからな。三ツばかり谷へ下りては
攀上り、下りては攀上りした時は、ちと心細くなった。
昨夜は野宿かと思ったぞ。
でもな、秋とは違って、日の
入が遅いから、まあ、
可かった。やっと旧道に
繞って出たのよ。
今日とは違った嘘のような上天気で、風なんか薬にしたくもなかったが、薄着で出たから晩方は寒い。それでも汗の出るまで、
脚絆掛で、すたすた来ると、
幽に城が見えて来た。城の方にな、
可厭な色の雲が出ていたには出ていたよ
||この風になったんだろう。
その内に、物見の松の
梢の
尖が目に着いた。もう目の前の峰を越すと、あの
見霽しの丘へ出る。
······後は
一雪崩にずるずると屋敷町の私の内へ、
辷り込まれるんだ、と
吻と息をした。ところがまた、知ってる通り、あの
一町場が、一方谷、一方
覆被さった雑木林で、妙に
真昼間も薄暗い、
可厭な処じゃないか。」
「
名代な魔所でござります。」
「何か知らんが。」
と両手で
頤を
扱くと、げっそり
瘠せたような
顔色で、
「
一ッきり、
洞穴を
潜るようで、それまで、ちらちら城下が見えた、大川の細い
靄も、大橋の小さな灯も、何も見えぬ。
ざわざわざわざわと音がする。
······樹の枝じゃ無い、右のな、その
崖の中腹ぐらいな処を、
熊笹の上へむくむくと赤いものが
湧いて出た。
幾疋となく、やがて五六十、夕焼がそこいらを
胡乱つくように
······皆猿だ。
丘の隅にゃ、荒れたが、それ
山王の
社がある。時々山奥から猿が出て来るという処だから、その数の多いにはぎょっとしたが
||別に猿というに驚くこともなし、また猿の
面の赤いのに不思議はないがな、源助。
どれもこれも、どうだ、その総身の毛が
真赤だろう。
しかも数が、そこへ来た五六十疋という、そればかりじゃない。後へ後へと
群り続いて、裏山の峰へ尾を
曳いて、
遥かに高い処から、赤い滝を落し懸けたのが、岩に
潜ってまた流れる、その末の開いた処が、目の下に見える数よ。最も遠くの方は中絶えして、一ツ二ツずつ続いたんだが、限りが知れん、幾百居るか。
で、何の事はない、虫眼鏡で
赤蟻の行列を山へ投懸けて
視めるようだ。それが一ツも鳴かず、静まり返って、さっさっさっと動く、熊笹がざわつくばかりだ。
夢だろう、夢でなくって。夢だと思って、源助、まあ、聞け。
······実は夢じゃないんだが、現在見たと云ってもほんとにはしまい。」
源助はこれを聞くと、いよいよ渋って、
頤の毛をすくすくと立てた。
「はあ。」
と息を内へ引きながら、
「随分、ほんとうにいたします。場所がらでござりまするで。雑所様、なかなか源助は疑いませぬ。」
「疑わん、ほんとに思う。そこでだ、源助、ついでにもう一ツほんとにしてもらいたい事がある。
そこへな、
背後の、暗い路をすっと来て、私に、ト並んだと思う内に、
大跨に前へ
抜越したものがある。
······ 山遊びの時分には、女も
駕籠も通る。狭くはないから、
肩摺れるほどではないが、まざまざと足が並んで、はっと不意に、こっちが
立停まる処を、抜けた。
下闇ながら
||こっちももう、
僅かの処だけれど、赤い猿が
夥しいので、人恋しい。
で透かして見ると、
判然とよく分った。
それも夢かな、源助、暗いのに。
|| 裸体に
赤合羽を着た、大きな坊主だ。」
「へい。」と源助は声を詰めた。
「
真黒な円い
天窓を
露出でな、耳元を離した処へ、その赤合羽の袖を
鯱子張らせる形に、
大な
肱を、ト
鍵形に曲げて、柄の短い赤い旗を
飜々と見せて、しゃんと構えて、ずんずん通る。
······ 旗は
真赤に宙を
煽つ。
まさかとは思う
······ことにその言った通り人恋しい折からなり、
対手の
僧形にも
何分か気が許されて、
(御坊、御坊。)
と二声ほど
背後で呼んだ。」
五
「
物凄さも
前に立つ。さあ、呼んだつもりの自分の声が、口へ出たか出んか分らないが、一も二もない、呼んだと思うと振向いた。
顔は覚えぬが、
頤も額も赤いように思った。
(どちらへ?)
と直ぐに聞いた。
ト竹を
破るような声で、
(城下を焼きに参るのじゃ。)と言う。ぬいと出て
脚許へ、五つ六つの猿が届いた。赤い雲を
捲いたようにな、源助。」
「
············」小使は口も利かず。
「その時、旗を
衝と上げて、
(物見からちと見物なされ。)と云うと、上げたその旗を横に、
飜然と返して、指したと思えば、峰に並んだ向うの丘の、松の
梢へ
颯と飛移ったかと思う、旗の
煽つような火が
松明を投附けたように
※[#「火+發」、463-5]と燃え上る。顔も
真赤に一面の火になったが、
遥かに小さく、ちらちらと、ただやっぱり物見の松の梢の処に、
丁子頭が揺れるように見て、気が
静ると、坊主も猿も影も無い。赤い旗も、花火が落ちる
状になくなったんだ。
小児が転んで泣くようだ、他愛がないじゃないか。さてそうなってから、急に我ながら、世にも
怯えた声を出して、
(わっ。)と云ってな、三反ばかり
山路の方へ宙を飛んで
遁出したと思え。
はじめて夢が覚めた気になって、寒いぞ、今度は。がちがち震えながら、
傍目も
触らず、坊主が立ったと思う処は
爪立足をして、それから、お前、前の峰を
引掻くように
駆上って、
······ましぐらにまた
摺落ちて、
見霽しへ出ると、どうだ。夜が明けたように広々として、崖のはずれから高い処を、乗出して、城下を一人で、月の客と澄まして
視めている物見の松の、ちょうど、赤い旗が飛移った、と、今見る処に、五日頃の月が出て
蒼白い中に、松の樹はお前、
大蟹が
海松房を
引被いて山へ
這出た形に、しっとりと濡れて
薄靄が
絡っている。遥かに下だが、私の町内と思うあたりを
······場末で遅廻りの豆腐屋の声が、
幽に聞えようというのじゃないか。
話にならん。いやしくも
小児を預って教育の手伝もしようというものが、まるで狐に
魅まれたような気持で、
······家内にさえ、話も出来ん。
帰って湯に入って、寝たが、
綿のように疲れていながら、何か、それでも
寝苦くって時々早鐘を
撞くような音が聞えて、
吃驚して目が覚める、と寝汗でぐっちょり、それも半分は夢心地さ。
明方からこの風さな。」
「
正寅の刻からでござりました、
海嘯のように、どっと
一時に吹出しましたに因って存じておりまする。」と源助の
言つき、あたかも口上。何か、恐入っている
体がある。
「夜があけると、この
砂煙。でも人間、雲霧を払った気持だ。そして、赤合羽の坊主の形もちらつかぬ。やがて忘れてな、八時、九時、十時と何事もなく課業を済まして、この十一時が
読本の課目なんだ。
な、源助。
授業に
掛って、読出した処が、
怪訝い。消火器の説明がしてある、火事に対する
種々の設備のな。しかしもうそれさえ気にならずに業をはじめて、ものの十分も
経ったと思うと、入口の扉を開けて、ふらりと、あの
児が入って来たんだ。」
「へい、嬢ちゃん坊ちゃんが。」
「そう。宮浜がな。おや、と思った。あの児は、それ、墨の中に雪だから一番目に着く。
······朝、一二時間ともちゃんと席に着いて授業を受けたんだ。
||この
硝子窓の並びの、運動場のやっぱり窓際に席があって、
······もっとも二人並んだ内側の方だが。さっぱり気が着かずにいた。
······成程、その席が一ツ穴になっている。
また、
箸の倒れた事でも、
沸返って騒立つ連中が、一人それまで居なかったのを、誰もいッつけ口をしなかったも
怪いよ。
ふらりと廊下から、時ならない授業中に入って来たので、さすがに、わっと
動揺めいたが、その音も
戸外の風に
吹攫われて、どっと遠くへ、山へ
打つかるように持って
行かれる。口や目ばかり、ばらばらと、動いて、騒いで、
小児等の声は
幽に響いた。
······」
六
「
私も不意だから、変に気を抜かれたようになって、とぼんと、あの可愛らしい綺麗な
児を見たよ。
密と椅子の
傍へ来て、
愛嬌づいた
莞爾した顔をして、
(先生、姉さんが。)
と云う。
||姉さんが来て、今日は火が燃える、大火事があって危ないから、
早仕舞にしてお帰りなさい。先生にそうお願いして、と言いますから
······家へ帰らして下さい、と云うんです。
含羞む児だから、小さな声して。
風はこれだ。
聞えないで
僥倖。ちょっとでも生徒の耳に入ろうものなら、壁を
打抜く騒動だろう。
もうな、火事と、聞くと頭から、ぐらぐらと胸へ響いた。
騒がぬ顔して、
皆には、宮浜が急に病気になったから今手当をして来る。かねて言う通り
静にしているように、と言聞かしておいて、精々落着いて、まず、あの児をこの控所へ連れ出して来たんだ。
処で、気を静めて、と思うが、何分、この風が、時々、かっと赤くなったり、黒くなったりする。な源助どうだ。こりゃ。」
と云う時、言葉が途切れた。二人とも目を据えて
瞻るばかり、
一時、屋根を取って
挫ぐがごとく吹き
撲る。
「気が騒いでならんが。」
と雑所は、しっかと腕組をして、椅子の
凭りに、背中を
摺着けるばかり、びたりと構えて、
「よく、宮浜に聞いた処が、本人にも何だか分らん、姉さんというのが見知らぬ女で、何も自分の姉という意味では無いとよ。
はじめて逢ったのかと、尋ねる、とそうではない。この
七日ばかり前だそうだ。
授業が済んで帰るとなる、大勢列を造って、それな、門まで出る。足並を正さして、私が一二と送り出す
······ すると、この頃塗直した、あの
蒼い門の柱の裏に、袖口を口へ当てて、
小児の事で形は知らん。
頭髪の房々とあるのが、美しい水晶のような目を、こう、
俯目ながら
清しゅう

って、列を一人一人
見遁すまいとするようだっけ。
物見の松はここからも見える
······雲のようなはそればかりで、よくよく晴れた暖い日だったと云う
······この十四五日、お天気続きだ。
私も、毎日門外まで一同を連出すんだが、七日前にも二日こっちも、ついぞ、そんな娘を見掛けた事はない。しかもお前、その娘が、ちらちらと白い指でめんない千鳥をするように、手招きで引着けるから、うっかり列を抜けて、その
傍へ寄ったそうよ。それを私は何も知らん。
(宮浜の浪ちゃんだねえ。)
とこの国じゃない、本で読むような
言で聞くとさ。
頷くと、
(
好いものを上げますから私と一所に、さあ、
行きましょう、
皆に構わないで。)
と、私等を構わぬ分に扱ったは
酷い! なあ、源助。
で、手を取られるから、ついて
行くと、どこか、学校からさまで遠くはなかったそうだ。荒れには荒れたが、大きな背戸へ裏木戸から連込んで、
茱萸の樹の林のような中へ連れて入った。目の

も赤らむまで、ほかほかとしたと云う。で、自分にも取れば、あの児にも取らせて、そして言う事が妙ではないか。
(
沢山お
食んなさいよ。
皆、
貴下の
阿母さんのような美しい血になるから。)
と言ったんだそうだ。土産にもくれた。帰って誰が下すった、と
父にそう言いましょうと、聞くと、
(貴下のお
亡なんなすった
阿母のお友だちです。)
と言ったってな。あの児の母親はなくなった
筈だ。
が、ここまではとにかく無事だ、源助。
その婦人が、今朝また、この学校へ来たんだとな。」
源助は、びくりとして
退る。
「今度は運動場。で、十時の算術が済んだ放課の時だ。風にもめげずに
皆駆出すが、ああいう児だから、一人で、それでも遊戯さな
······石盤へこう
姉様の顔を
描いていると、
硝子戸越に
······夢にも忘れない
······その美しい顔を見せて、外へ出るよう目で教える
······一度逢ったばかりだけれども、小児は一目顔を見ると、もうその心が通じたそうよ。」
七
「宮浜はな、今日は、その婦人が
紅い
木の実の
簪を挿していた、やっぱり
茱萸だろうと云うが、果物の簪は無かろう
······小児の目だもの、
珊瑚かも知れん。
そんな事はとにかくだ。
直ぐに、
嬉々と廊下から大廻りに、ちょうど自分の席の窓の外。その婦人の待っている処へ出ると、それ、散々に吹散らされながら、小児が一杯、ふらふらしているだろう。
源助、それ、近々に学校で
||やがて暑さにはなるし
||余り
青苔が生えて、石垣も崩れたというので、
井戸側を取替えるに、石の
大輪が門の内にあったのを、小児だちが
悪戯に庭へ転がし出したのがある。
||あれだ。
大人なら知らず、円くて
辷るにせい、小児が三人や五人ではちょっと動かぬ。そいつだが、婦人が、あの
児を連れて、すっと通ると、むくりと脈を打ったように見えて、ころころと芝の上を
斜違いに転がり出した。
(やあい、井戸側が風で飛ばい。)か、何か、
哄と
吶喊を上げて、小児が
皆それを追懸けて、
一団に黒くなって駆出すと、その反対の方へ、誰にも見着けられないで、澄まして、すっと行ったと云うが、どうだ、これも変だろう。
横手の土塀際の、あの
棕櫚の樹の、ばらばらと葉が鳴る蔭へ入って、黙って
背を
撫でなぞしてな。
そこで言聞かされたと云うんだ。
(今に火事がありますから、早く
家へお帰んなさい、先生にそう云って。でも学校の教師さん、そんな事がありますかッて
肯きなさらないかも知れません。黙ってずんずん帰って
可うござんす。
怪我には替えられません。けれども、後で叱られると
不可ませんから、なりたけお許しをうけてからになさいましよ。
時刻はまだ大丈夫だとは思いますが、そんな、こんなで帰りが遅れて、途中、もしもの事があったら、これをめしあがれよ。そうすると
烟に
捲かれませんから。)
とそう云ってな。
······そこで、
袂から紙包みのを出して
懐中へ入れて、
圧えて、こう抱寄せるようにして、そして襟を
掻合せてくれたのが、その
茱萸なんだ。
(私がついていられると
可いんだけれど、姉さんは、今日は大事な日ですから。)
と云う
中にも、風のなぐれで、すっと黒髪を吹いて、まるで顔が隠れるまで、むらむらと
懸る、と黒雲が走るようで、はらりと吹分ける、と月が出たように白い頬が見えたと云う
······ けれども、見えもせぬ火事があると、そんな事は先生には
言憎い、と宮浜が
頭を振ったそうだ。
(では、浪ちゃんは、教師さんのおっしゃる事と、私の言う事と、どっちをほんとうだと思います。
||)
こりゃ
小児に返事が出来なかったそうだが、そうだろう
······なあ、無理はない、源助。
(先生のお
言に嘘はありません。けれども私の言う事はほんとうです
······今度の火事も私の気でどうにもなる。
||私があるものに身を任せれば、火は燃えません。そのものが、
思の
叶わない
仇に、私が心一つから、沢山の家も、人も、なくなるように
面当てにしますんだから。
まあ、これだって、浪ちゃんが先生にお聞きなされば、自分の
身体はどうなってなりとも、人も家も焼けないようにするのが道だ、とおっしゃるでしょう。
殿方の
生命は知らず、女の操というものは、人にも家にもかえられぬ。
······と私はそう思うんです。そう私が思う上は、火事がなければなりません。今云う通り、私へ面当てに焼くのだから。
まだ私たち女の心は、
貴下の年では得心が
行かないで、やっぱり先生がおっしゃるように、我身を棄てても、人を救うが道理のように思うでしょう。
いいえ、違います
······殿方の生命は知らず。)
と繰返して、
(女の操というものは。)と
熟と顔を
凝視めながら、
(人にも家にも代えられない、と浪ちゃん忘れないでおいでなさい。今に分ります
······紅い木の実を
沢山食べて、血の美しく綺麗な
児には、そのかわり、火の粉も桜の露となって、美しく降るばかりですよ。さ、いらっしゃい、早く。気を着けて、私の
身体も大切な日ですから。)
と云う
中にも、
裾も袂も取って、空へ
頭髪ながら吹上げそうだったってな。これだ、源助、
窓硝子が波を打つ、あれ見い。」
八
雑所先生は一息
吐いて、
「私が問うのに答えてな、あの宮浜はかねて記憶の
可い処を、母のない
児だ。
||優しい人の言う事は、よくよく身に染みて覚えたと見えて、まるで口移しに
諳誦をするようにここで私に告げたんだ。が、一々、ぞくぞく
膚に
粟が立った。けれども、その婦人の言う、謎のような事は分らん。
そりゃ分らんが、しかし
詮ずるに火事がある一条だ。
(まるで嘘とも思わんが、全く事実じゃなかろう、ともかく、
小使溜へ行って落着いていなさい、ちっと熱もある。)
額を
撫でて見ると熱いから、そこで、あの児をそららへ
遣ってよ。
さあ、気になるのは
昨夜の山道の一件だ。
······赤い猿、赤い旗な、赤合羽を着た黒坊主よ。」
「
緋、緋の
法衣を着たでござります、赤合羽ではござりません。魔、魔の人でござりますが。」とガタガタ胴震いをしながら、
躾めるように言う。
「さあ、何か分らぬが、あの、雪に折れる竹のように、バシリとした声して
······何と云った。
(城下を焼きに参るのじゃ。)
源助、宮浜の児を遣ったあとで、
天窓を
引抱えて、こう、風の音を忘れるように
沈と考えると、ひょい、と火を
磨るばかりに、目に赤く映ったのが、これなんだ。」
と両手で控帳の端を取って、斜めに見せると、
楷書で
細字に
認めたのが、輝くごとく、もそりと出した源助の顔に
赫ッと照って見えたのは、朱で濃く、一面の
文字である。
「へい。」
「な、何からはじまった事だか知らんが、ちょうど一週間前から、ふと朱でもって書き続けた、こりゃ学校での、私の日記だ。
昨日は日曜で抜けている。一週間。」
と
颯と紙が
刎ねて、小口をばらばらと繰返すと、
戸外の風の渦巻に、一ちぎれの赤い雲が
卓子を飛ぶ
気勢する。
「この前の時間にも、(暴風)に書いて消して(烈風)をまた消して(
颶風)なり、と書いた、やっぱり朱で、見な
······ しかも変な事には、何を
狼狽たか、一枚半だけ、
罫紙で残して、明日の分を、ここへ、これ(火曜)としたぜ。」
と指す指が、ひッつりのように、びくりとした。
「読本が火の処
······源助、どう思う。
他の先生方は
皆な私より偉いには偉いが年下だ。校長さんもずッとお
少い。
こんな相談は、
故老に限ると思って呼んだ。どうだろう。万一の事があるとなら、あえて宮浜の児一人でない。
······どれも大事な
小児たち
||その
過失で、私が学校を
止めるまでも、
地
を踏んでなりと直ぐに生徒を帰したい。が、何でもない事のようで、これがまた一大事だ。いやしくも父兄が信頼して、子弟の教育を
委ねる学校の分として、
婦、
小児や、
茱萸ぐらいの事で、臨時休業は
沙汰の限りだ。
私一人の
間抜で済まん。
第一そような迷信は、
任として、私等が破って棄ててやらなけりゃならんのだろう。そうかッてな、もしやの事があるとすると、何より恐ろしいのはこの風だよ。ジャンと来て見ろ、全市
瓦は数えるほど、
板葺屋根が半月の上も照込んで、
焚附同様。
||何と私等が高台の町では、時ならぬ
水切がしていようという場合ではないか。土の底まで
焼抜けるぞ。小児たちが無事に家へ帰るのは十人に一人もむずかしい。
思案に余った、源助。気が気でないのは、時が
後れて
驚破と言ったら、赤い実を吸え、と言ったは心細い
||一時半時を争うんだ。もし、ひょんな事があるとすると
||どう思う、どう思う、源助、
考慮は。」
「
尋常、尋常ごとではござりません。」と、かッと
卓子に
拳を
掴んで、
「城下の家の、寿命が来たんでござりましょう、争われぬ、争われぬ。」
と半分目を眠って、
盲目がするように、
白眼で首を据えて、天井を恐ろしげに
視めながら、
「ものはあるげにござりまして
······旧藩頃の先主人が、夜学の端に承わります。昔その
唐の都の大道を、
一時、その何でござりまして、怪しげな道人が、髪を
捌いて、何と、骨だらけな
蒼い胸を
岸破々々と開けました
真中へ、
人、
人という字を書いたのを
掻開けて往来中駆廻ったげでござります。いつかも同役にも話した事でござりまするが、何の事か分りません。唐の都でも、
皆なが不思議がっておりますると、その日から三日目に、年代記にもないほどな大火事が起りまして。」
「源助、源助。」
と雑所大きに
急いて、
「何だ、それは。胸へ人という字を書いたのは。」とかかる折から、自分で考えるのがまだるこしそうであった。
「へい、まあ、ちょいとした処、早いが
可うございます。ここへ、人と書いて御覧じゃりまし。」
風の、その
慌しい中でも、
対手が教頭心得の先生だけ、もの
問れた心の
矜に、話を咲せたい源助が、薄汚れた
襯衣の
鈕をはずして、ひくひくとした胸を出す。
雑所も
急心に、ものをも言わず有合わせた
朱筆を取って、乳を分けて
朱い人。と引かれて、カチカチと、何か、歯をくいしめて
堪えたが、突込む筆の朱が
刎ねて、
勢で、ぱっと胸毛に
懸ると、火を
曳くように毛が動いた。
「あ
熱々!」
と
唐突に躍り上って、とんと尻餅を
支くと、血声を絞って、
「火事だ! 同役、三右衛門、火事だ。」と
喚く。
「何だ。」
と、雑所も棒立ちになったが、物狂わしげに、
「なぜ、投げる。なぜ
茱萸を投附ける。宮浜。」
と声を揚げた。廊下をばらばらと赤く飛ぶのを、浪吉が茱萸を
擲つと一目見たのは、矢を射るごとく
窓硝子を
映す火の粉であった。
途端に十二時、
鈴を打つのが、ブンブンと風に響くや、一つずつ十二ヶ所、一時に起る
摺半鉦、早鐘。
早や廊下にも
烟が入って、暗い中から火の空を透かすと、学校の
蒼い門が、真紫に
物凄い。
この日の大火は、物見の松と差向う、市の高台の野にあった、本願寺末寺の
巨刹の本堂床下から炎を上げた怪し火で、ただ
三時が間に市の約全部を焼払った。
烟は風よりも
疾く、火は鳥よりも
迅く飛んだ。
人畜の死傷少からず。
火事の最中、雑所先生、
袴の
股立を、高く取ったは
効々しいが、羽織も着ず
······布子の片袖
引断れたなりで、
足袋跣足で、
据眼の
面藍のごとく、火と烟の走る大道を、
蹌踉と
歩行いていた。
屋根から屋根へ、
||樹の
梢から、二階三階が黒烟りに
漾う上へ、
飜々と千鳥に飛交う、
真赤な猿の数を、
行く行く幾度も見た。
足許には、人も車も倒れている。
とある十字街へ
懸った時、横からひょこりと出て、
斜に曲り角へ切れて
行く、
昨夜の坊主に逢った。同じ裸に、赤合羽を着たが、こればかりは風をも踏固めて通るように
確とした足取であった。
が、赤旗を
捲いて、袖へ抱くようにして、いささか
逡巡の
体して、
「焼け過ぎる、これは、焼け過ぎる。」
と口の
裡で
呟いた、と思うともう見えぬ。顔を見られたら、雑所は灰になろう。
垣も、隔ても、跡はないが、倒れた
石燈籠の
大なのがある。
何某の
邸の庭らしい中へ、烟に追われて入ると、枯木に夕焼のしたような、火の幹、火の枝になった大樹の
下に、小さな足を投出して、横坐りになった、浪吉の無事な姿を見た。
学校は、便宜に隊を組んで避難したが、皆ちりちりになったのである。
と見ると、
恍惚した美しい顔を仰向けて、枝からばらばらと
降懸る火の粉を、
霰は
五合と
掬うように、綺麗な
袂で受けながら、
「先生、沢山に茱萸が。」
と云って、
長けるまで
莞爾した。
雑所は
諸膝を折って、倒れるように、その
傍で息を
吐いた。が、そこではもう、火の粉は雪のように、袖へ
掛っても、払えば濡れもしないで消えるのであった。
明治四十四(一九一一)年一月