人魚の祠
泉鏡太郎
一
「いまの、あの
婦人が
抱いて
居た
嬰兒ですが、
鯉か、
鼈ででも
有りさうでならないんですがね。」
「
············」
私は、
默つて
工學士の
其の
顏を
視た。
「まさかとは
思ひますが。」
赤坂の
見附に
近い、
唯ある
珈琲店の
端近な
卓子で、
工學士は
麥酒の
硝子杯を
控へて
云つた。
私は
卷莨を
點けながら、
「あゝ、
結構。
私は、それが
石地藏で、
今のが
姑護鳥でも
構ひません。けれども、それぢや、
貴方が
世間へ
濟まないでせう。」
六
月の
末であつた。
府下澁谷邊に
或茶話會があつて、
斯の
工學士が
其の
席に
臨むのに、
私は
誘はれて
一日出向いた。
談話の
聽人は
皆婦人で、
綺麗な
人が
大分見えた、と
云ふ
質のであるから、
羊羹、
苺、
念入に
紫袱紗で
薄茶の
饗應まであつたが
||辛抱をなさい
||酒と
云ふものは
全然ない。が、
豫ての
覺悟である。それがために
意地汚く、
歸途に
恁うした
場所へ
立寄つた
次第ではない。
本來なら
其の
席で、
工學士が
話した
或種の
講述を、こゝに
筆記でもした
方が、
讀まるゝ
方々の
利益なのであらうけれども、それは
殊更に
御海容を
願ふとして
置く。
實は
往路にも
同伴立つた。
指す
方へ、
煉瓦塀板塀續きの
細い
路を
通る、とやがて
其の
會場に
當る
家の
生垣で、
其處で
三つの
外圍が
三方へ
岐れて
三辻に
成る
······曲角の
窪地で、
日蔭の
泥濘の
處が
||空は
曇つて
居た
||殘ンの
雪かと
思ふ、
散敷いた
花で
眞白であつた。
下へ
行くと
學士の
背廣が
明いくらゐ、
今を
盛と
空に
咲く。
枝も
梢も
撓に
滿ちて、
仰向いて
見上げると
屋根よりは
丈伸びた
樹が、
對に
並んで
二株あつた。
李の
時節でなし、
卯木に
非ず。そして、
木犀のやうな
甘い
匂が、
燻したやうに
薫る。
楕圓形の
葉は、
羽状複葉と
云ふのが
眞蒼に
上から
可愛い
花をはら/\と
包んで、
鷺が
緑なす
蓑を
被いで、
彳みつゝ、
颯と
開いて、
雙方から
翼を
交した、
比翼連理の
風情がある。
私は
固よりである。
······學士にも、
此の
香木の
名が
分らなかつた。
當日、
席でも
聞合せたが、
居合はせた
婦人連が
亦誰も
知らぬ。
其の
癖、
佳薫のする
花だと
云つて、
小さな
枝ながら
硝子杯に
插して
居たのがあつた。
九州の
猿が
狙ふやうな
褄の
媚かしい
姿をしても、
下枝までも
屆くまい。
小鳥の
啄んで
落したのを
通りがかりに
拾つて
來たものであらう。
「お
乳のやうですわ。」
一人の
處女が
然う
云つた。
成程、
近々と
見ると、
白い
小さな
花の、
薄りと
色着いたのが
一ツ
一ツ、
美い
乳首のやうな
形に
見えた。
却説、
日が
暮れて、
其の
歸途である。
私たちは
七丁目の
終點から
乘つて
赤坂の
方へ
歸つて
來た
······あの
間の
電車は
然して
込合ふ
程では
無いのに、
空怪しく
雲脚が
低く
下つて、
今にも
一降來さうだつたので、
人通りが
慌しく、
一町場二町場、
近處へ
用たしの
分も
便つたらしい、
停留場毎に
乘人の
數が
多かつた。
で、
何時何處から
乘組んだか、つい、それは
知らなかつたが、
丁ど
私たちの
並んで
掛けた
向う
側||墓地とは
反對||の
處に、二十三四の
色の
白い
婦人が
居る
······ 先づ、
色の
白い
婦と
云はう、が、
雪なす
白さ、
冷さではない。
薄櫻の
影がさす、
朧に
香ふ
裝である。
······こんなのこそ、
膚と
云ふより、
不躾ながら
肉と
言はう。
其胸は、
合歡の
花が
雫しさうにほんのりと
露である。
藍地に
紺の
立絞の
浴衣を
唯一重、
絲ばかりの
紅も
見せず
素膚に
着た。
襟をなぞへに
膨りと
乳を
劃つて、
衣が
青い。
青いのが
葉に
見えて、
先刻の
白い
花が
俤立つ
······撫肩をたゆげに
落して、すらりと
長く
膝の
上へ、
和々と
重量を
持たして、
二の
腕を
撓やかに
抱いたのが、
其が
嬰兒で、
仰向けに
寢た
顏へ、
白い
帽子を
掛けてある。
寢顏に
電燈を
厭つたものであらう。
嬰兒の
顏は
見えなかつた、だけ
其だけ、
懸念と
云へば
懸念なので、
工學士が
||鯉か
鼈か、と
云つたのは
此であるが
······ 此の
媚めいた
胸のぬしは、
顏立ちも
際立つて
美しかつた。
鼻筋の
象牙彫のやうにつんとしたのが
難を
言へば
強過ぎる
······かはりには
目を
恍惚と、
何か
物思ふ
體に
仰向いた、
細面が
引緊つて、
口許とともに
人品を
崩さないで
且つ
威がある
······其の
顏だちが
帶よりも、きりゝと
細腰を
緊めて
居た。
面で
緊めた
姿である。
皓齒の
一つも
莞爾と
綻びたら、はらりと
解けて、
帶も
浴衣も
其のまゝ
消えて、
膚の
白い
色が
颯と
簇つて
咲かう。
霞は
花を
包むと
云ふが、
此の
婦は
花が
霞を
包むのである。
膚が
衣を
消すばかり、
其の
浴衣の
青いのにも、
胸襟のほのめく
色はうつろはぬ、
然も
湯上りかと
思ふ
温さを
全身に
漲らして、
髮の
艶さへ
滴るばかり
濡々として、
其がそよいで、
硝子窓の
風に
額に
絡はる、
汗ばんでさへ
居たらしい。
ふと
明いた
窓へ
横向きに
成つて、ほつれ
毛を
白々とした
指で
掻くと、あの
花の
香が
強く
薫つた、と
思ふと
緑の
黒髮に、
同じ
白い
花の
小枝を
活きたる
蕚、
湧立つ
蕊を
搖がして、
鬢に
插して
居たのである。
唯、
見た
時、
工學士の
手が、
確と
私の
手を
握つた。
「
下りませう。
是非、
談話があります。」
立つて
見送れば、
其の
婦を
乘せた
電車は、
見附の
谷の
窪んだ
廣場へ、すら/\と
降りて、
一度暗く
成つて
停まつたが、
忽ち
風に
乘つたやうに
地盤を
空ざまに
颯と
坂へ
辷つて、
青い
火花がちらちらと、
櫻の
街樹に
搦んだなり、
暗夜の
梢に
消えた。
小雨がしと/\と
町へかゝつた。
其處で
珈琲店へ
連立つて
入つたのである。
こゝに、
一寸斷つておくのは、
工學士は
嘗て
苦學生で、
其當時は、
近縣に
賣藥の
行商をした
事である。
二
「
利根川の
流が
汎濫して、
田に、
畠に、
村里に、
其の
水が
引殘つて、
月を
經、
年を
過ぎても
涸れないで、
其のまゝ
溜水に
成つたのがあります。
······ 小さなのは、
河骨の
點々黄色に
咲いた
花の
中を、
小兒が
徒に
猫を
乘せて
盥を
漕いで
居る。
大きなのは
汀の
蘆を
積んだ
船が、
棹さして
波を
分けるのがある。
千葉、
埼玉、あの
大河の
流域を
辿る
旅人は、
時々、
否、
毎日一ツ
二ツは
度々此の
水に
出會します。
此を
利根の
忘れ
沼、
忘れ
水と
呼んで
居る。
中には
又、あの
流を
邸内へ
引いて、
用水ぐるみ
庭の
池にして、
筑波の
影を
矜りとする、
豪農、
大百姓などがあるのです。
唯今お
話をする、
······私が
出會ひましたのは、
何うも
庭に
造つた
大池で
有つたらしい。
尤も、
居周圍に
柱の
跡らしい
礎も
見當りません。が、
其とても
埋れたのかも
知れません。
一面に
草が
茂つて、
曠野と
云つた
場所で、
何故に
一度は
人家の
庭だつたか、と
思はれたと
云ふのに、
其の
沼の
眞中に
拵へたやうな
中島の
洲が
一つ
有つたからです。
で、
此の
沼は、
話を
聞いて、お
考へに
成るほど
大なものではないのです。
然うかと
云つて、
向う
岸とさし
向つて
聲が
屆くほどは
小さくない。それぢや
餘程廣いのか、と
云ふのに、
又然うでもない、ものの十四五
分も
歩行いたら、
容易く
一周り
出來さうなんです。
但し十四五
分で
一周と
云つて、すぐに
思ふほど、
狹いのでもないのです。
と、
恁う
言ひます
内にも、
其の
沼が
伸びたり
縮んだり、すぼまつたり、
擴がつたり、
動いて
居るやうでせう。
||居ますか、
結構です
||其のつもりでお
聞き
下さい。
一體、
水と
云ふものは、
一雫の
中にも
河童が
一個居て
住むと
云ふ
國が
有りますくらゐ、
氣心の
知れないものです。
分けて
底澄んで
少し
白味を
帶びて、とろ/\と
然も
岸とすれ/″\に
滿々と
湛へた
古沼ですもの。
丁ど、
其の
日の
空模樣、
雲と
同一に
淀りとして、
雲の
動く
方へ、
一所に
動いて、
時々、てら/\と
天に
薄日が
映すと、
其の
光を
受けて、
晃々と
光るのが、
沼の
面に
眼があつて、
薄目に
白く
人を
窺ふやうでした。
此では、
其の
沼が、
何だか
不氣味なやうですが、
何、
一寸の
間の
事で、
||四
時下り、五
時前と
云ふ
時刻||暑い
日で、
大層疲れて、
汀にぐつたりと
成つて
一息吐いて
居る
中には、
雲が、なだらかに
流れて、
薄いけれども
平に
日を
包むと、
沼の
水は
靜に
成つて、そして、
少し
薄暗い
影が
渡りました。
風はそよりともない。が、
濡れない
袖も
何となく
冷いのです。
風情は
一段で、
汀には、
所々、
丈の
低い
燕子花の、
紫の
花に
交つて、あち
此方に
又一
輪づゝ、
言交はしたやうに、
白い
花が
交つて
咲く
······ あの
中島は、
簇つた
卯の
花で
雪を
被いで
居るのです。
岸に、
葉と
花の
影の
映る
處は、
松葉が
流れるやうに、ちら/\と
水が
搖れます。
小魚が
泳ぐのでせう。
差渡し、
池の
最も
廣い、
向うの
汀に、こんもりと一
本の
柳が
茂つて、
其の
緑の
色を
際立てて、
背後に
一叢の
森がある、
中へ
横雲を
白くたなびかせて、もう
一叢、
一段高く
森が
見える。うしろは、
遠里の
淡い
靄を
曳いた、なだらかな
山なんです。
||柳の
奧に、
葉を
掛けて、
小さな
葭簀張の
茶店が
見えて、
横が
街道、すぐに
水田で、
水田のへりの
流にも、はら/\
燕子花が
咲いて
居ます。
此の
方は、
薄碧い、
眉毛のやうな
遠山でした。
唯、
沼が
呼吸を
吐くやうに、
柳の
根から
森の
裾、
紫の
花の
上かけて、
霞の
如き
夕靄がまはりへ
一面に
白く
渡つて
來ると、
同じ
雲が
空から
捲き
下して、
汀に
濃く、
梢に
淡く、
中ほどの
枝を
透かして
靡きました。
私の
居た、
草にも、しつとりと
其の
靄が
這ふやうでしたが、
袖には
掛らず、
肩にも
卷かず、
目なんぞは
水晶を
透して
見るやうに
透明で。
詰り、
上下が
白く
曇つて、五六
尺水の
上が、
却つて
透通る
程なので
······ あゝ、あの
柳に、
美い
虹が
渡る、と
見ると、
薄靄に、
中が
分れて、
三つに
切れて、
友染に、
鹿の
子絞の
菖蒲を
被けた、
派手に
涼しい
裝の
婦が三
人。
白い
手が、ちら/\と
動いた、と
思ふと、
鉛を
曳いた
絲が
三條、
三處へ
棹が
下りた。
(あゝ、
鯉が
居る
······)
一
尺、
金鱗を
重く
輝かして、
水の
上へ
飜然と
飛ぶ。」
三
「それよりも、
見事なのは、
釣竿の
上下に、
縺るゝ
袂、
飜る
袖で、
翡翠が
六つ、十二の
翼を
飜すやうなんです。
唯、
其の
白い
手も
見える、
莞爾笑ふ
面影さへ、
俯向くのも、
仰ぐのも、
手に
手を
重ねるのも
其の
微笑む
時、
一人の
肩をたゝくのも
······莟がひら/\
開くやうに
見えながら、
厚い
硝子窓を
隔てたやうに、まるつ
切、
聲が
······否、
四邊は
寂然して、ものの
音も
聞えない。
向つて
左の
端に
居た、
中でも
小柄なのが
下して
居る、
棹が
滿月の
如くに
撓つた、と
思ふと、
上へ
絞つた
絲が
眞直に
伸びて、するりと
水の
空へ
掛つた
鯉が
||」
||理學士は
言掛けて、
私の
顏を
視て、
而して
四邊を
見た。
恁うした
店の
端近は、
奧より、
二階より、
却つて
椅子は
閑であつた
||「
鯉は、
其は
鯉でせう。が、
玉のやうな
眞白な、あの
森を
背景にして、
宙に
浮いたのが、すつと
合せた
白脛を
流す
······凡そ
人形ぐらゐな
白身の
女子の
姿です。
釣られたのぢやありません。
釣針をね、
恁う、
兩手で
抱いた
形。
御覽なさい。
釣濟ました
當の
美人が、
釣棹を
突離して、
柳の
根へ
靄を
枕に
横倒しに
成つたが
疾いか、
起るが
否や、三
人ともに
手鞠のやうに
衝と
遁げた。が、
遁げるのが、
其の
靄を
踏むのです。
鈍な、はずみの
無い、
崩れる
綿を
踏越し
踏越しするやうに、
褄が
縺れる、
裳が
亂れる
······其が、やゝ
少時の
間見えました。
其の
後から、
茶店の
婆さんが
手を
泳がせて、
此も
走る
······ 一體あの
邊には、
自動車か
何かで、
美人が
一日がけと
云ふ
遊山宿、
乃至、
温泉のやうなものでも
有るのか、
何うか、
其の
後まだ
尋ねて
見ません。
其が
有ればですが、それにした
處で、
近所の
遊山宿へ
來て
居たのが、
此の
沼へ
來て
釣をしたのか、それとも、
何の
國、
何の
里、
何の
池で
釣つたのが、
一種の
蜃氣樓の
如き
作用で
此處へ
映つたのかも
分りません。
餘り
靜な、もの
音のしない
樣子が、
夢と
云ふよりか
其の
海市に
似て
居ました。
沼の
色は、やゝ
蒼味を
帶びた。
けれども、
其の
茶店の
婆さんは
正のものです。
現に、
私が
通り
掛りに
沼の
汀の
祠をさして、(あれは
何樣の
社でせう。)と
尋ねた
時に、(
賽の
神樣だ。)と
云つて
教へたものです。
今其の
祠は
沼に
向つて
草に
憩つた
背後に、なぞへに
道芝の
小高く
成つた
小さな
森の
前にある。
鳥居が
一基、
其の
傍に
大な
棕櫚の
樹が、五
株まで、一
列に
並んで、
蓬々とした
形で
居る。
······さあ、
此も
邸あとと
思はれる
一條で、
其の
小高いのは、
大きな
築山だつたかも
知れません。
處で、一
錢たりとも
茶代を
置いてなんぞ、
憩む
餘裕の
無かつた
私ですが、
······然うやつて
賣藥の
行商に
歩行きます
時分は、
世に
無い
兩親へせめてもの
供養のため、と
思つて、
殊勝らしく
聞えて
如何ですけれども、
道中、
宮、
社、
祠のある
處へは、
屹と
持合せた
藥の
中の、
何種のか、
一包づゝを
備へました。
||詣づる
人があつて
神佛から
授かつたものと
思へば、
屹と
病氣が
治りませう。
私も
幸福なんです。
丁度私の
居た
汀に、
朽木のやうに
成つて、
沼に
沈んで、
裂目に
燕子花の
影が
映し、
破れた
底を
中空の
雲の
往來する
小舟の
形が
見えました。
其を
見棄てて、
御堂に
向つて
起ちました。
談話の
要領をお
急ぎでせう。
早く
申しませう。
······其の
狐格子を
開けますとね、
何うです
······(まあ、
此は
珍しい。)
几帳とも、
垂幕とも
言ひたいのに、
然うではない、
萌黄と
青と
段染に
成つた
綸子か
何ぞ、
唐繪の
浮模樣を
織込んだのが
窓帷と
云つた
工合に、
格天井から
床へ
引いて
蔽うてある。
此に
蔽はれて、
其の
中は
見えません。
此が、もつと
奧へ
詰めて
張つてあれば、
絹一重の
裡は、すぐに、
御廚子、
神棚と
云ふのでせうから、
誓つて、
私は、
覗くのではなかつたのです。が、
堂の
内の、
寧ろ
格子へ
寄つた
方に
掛つて
居ました。
何心なく、
端を、キリ/\と、
手許へ、
絞ると、
蜘蛛の
巣のかはりに
幻の
綾を
織つて、
脈々として、
顏を
撫でたのは、
薔薇か
菫かと
思ふ、いや、それよりも、
唯今思へば、
先刻の
花の
匂です、
何とも
言へない、
甘い、
媚いた
薫が、
芬と
薫つた。」
||學士は
手巾で、
口を
蔽うて、
一寸額を
壓へた
||「
||其處が
閨で、
洋式の
寢臺があります。
二人寢の
寛りとした
立派なもので、
一面に、
光を
持つた、
滑らかに
艶々した、
絖か、
羽二重か、と
思ふ
淡い
朱鷺色なのを
敷詰めた、
聊か
古びては
見えました。が、それは
空が
曇つて
居た
所爲でせう。
同じ
色の
薄掻卷を
掛けたのが、すんなりとした
寢姿の、
少し
肉附を
肥くして
見せるくらゐ。
膚を
蔽うたとも
見えないで、
美い
女の
顏がはらはらと
黒髮を、
矢張り、
同じ
絹の
枕にひつたりと
着けて、
此方むきに
少し
仰向けに
成つて
寢て
居ます。のですが、
其が、
黒目勝な
雙の
瞳をぱつちりと
開けて
居る
······此の
目に、
此處で
殺されるのだらう、と
餘りの
事に
然う
思ひましたから、
此方も
熟と
凝視ました。
少し
高過ぎるくらゐに
鼻筋がツンとして、
彫刻か、
練ものか、
眉、
口許、はつきりした
輪郭と
云ひ、
第一櫻色の、あの、
色艶が、
||其が
||今の、あの
電車の
婦人に
瓜二つと
言つても
可い。
時に、
毛一筋でも
動いたら、
其の、
枕、
蒲團、
掻卷の
朱鷺色にも
紛ふ
莟とも
云つた
顏の
女は、
芳香を
放つて、
乳房から
蕊を
湧かせて、
爛漫として
咲くだらうと
思はれた。」
四
「
私の
目か
眩んだんでせうか、
婦は
瞬をしません。五
分か
一時と、
此方が
呼吸をも
詰めて
見ます
間||で、
餘り
調つた
顏容といひ、
果して
此は
白像彩塑で、
何う
云ふ
事か、
仔細あつて、
此の
廟の
本尊なのであらう、と
思つたのです。
床の
下······板縁の
裏の
處で、がさ/\がさ/\と
音が
發出した
······彼方へ、
此方へ、
鼠が、ものでも
引摺るやうで、
床へ
響く、と
其の
音が、
變に、
恁う
上に
立つてる
私の
足の
裏を
擽ると
云つた
形で、むづ
痒くつて
堪らないので、もさ/\
身體を
搖りました。
||本尊は、まだ
瞬もしなかつた。
||其の
内に、
右の
音が、
壁でも
攀ぢるか、
這上つたらしく
思ふと、
寢臺の
脚の
片隅に
羽目の
破れた
處がある。
其の
透間へ
鼬がちよろりと
覗くやうに、
茶色の
偏平い
顏を
出したと
窺はれるのが、もぞり、がさりと
少しづゝ
入つて、ばさ/\と
出る、と
大きさやがて
三俵法師、
形も
似たもの、
毛だらけの
凝團、
足も、
顏も
有るのぢやない。
成程、
鼠でも
中に
潛つて
居るのでせう。
其奴が、がさ/\と
寢臺の
下へ
入つて、
床の
上をずる/\と
引摺つたと
見ると、
婦が
掻卷から
二の
腕を
白く
拔いて、
私の
居る
方へぐたりと
投げた。
寢亂れて
乳も
見える。
其を
片手で
祕したけれども、
足のあたりを
震はすと、あゝ、と
云つて
其の
手も
兩方、
空を
掴むと
裙を
上げて、
弓形に
身を
反らして、
掻卷を
蹴て、
轉がるやうに
衾を
拔けた。
······ 私は
飛出した
······ 壇を
落ちるやうに
下りた
時、
黒い
狐格子を
背後にして、
婦は
斜違に
其處に
立つたが、
呀、
足許に、
早やあの
毛むくぢやらの
三俵法師だ。
白い
踵を
揚げました、
階段を
辷り
下りる、と、
後から、ころ/\と
轉げて
附着く。さあ、それからは、
宛然人魂の
憑ものがしたやうに、
毛が
赫と
赤く
成つて、
草の
中を
彼方へ、
此方へ、たゞ、
伊達卷で
身についたばかりのしどけない
媚かしい
寢着の
婦を
追
す。
婦はあとびつしやりをする、
脊筋を
捩らす。
三俵法師は、
裳にまつはる、
踵を
嘗める、
刎上る、
身震する。
やがて、
沼の
縁へ
追迫られる、と
足の
甲へ
這上る
三俵法師に、わな/\
身悶する
白い
足が、あの、
釣竿を
持つた三
人の
手のやうに、ちら/\と
宙に
浮いたが、するりと
音して、
帶が
辷ると、
衣ものが
脱げて
草に
落ちた。
「
沈んだ
船||」と、
思はず
私が
聲を
掛けた。
隙も
無しに、
陰氣な
水音が、だぶん、と
響いた
······ しかし、
綺麗に
泳いで
行く。
美い
肉の
脊筋を
掛けて
左右へ
開く
水の
姿は、
輕い
羅を
捌くやうです。
其の
膚の
白い
事、あの
合歡花をぼかした
色なのは、
豫て
此の
時のために
用意されたのかと
思ふほどでした。
動止んだ
赤茶けた
三俵法師が、
私の
目の
前に、
惰力で、
毛筋を、ざわ/\とざわつかせて、うツぷうツぷ
喘いで
居る。
見ると
驚いた。ものは
棕櫚の
毛を
引束ねたに
相違はありません。が、
人が
寄る
途端に、ぱちぱち
豆を
燒く
音がして、ばら/\と
飛着いた、
棕櫚の
赤いのは、
幾千萬とも
數の
知れない
蚤の
集團であつたのです。
早や、
兩脚が、むづ/\、
脊筋がぴち/\、
頸首へぴちんと
來る、
私は
七顛八倒して
身體を
振つて
振飛ばした。
唯、
何と、
其の
棕櫚の
毛の
蚤の
巣の
處に、
一人、
頭の
小さい、
眦と
頬の
垂下つた、
青膨れの、
土袋で、
肥張な
五十恰好の、
頤鬚を
生した、
漢が
立つて
居るぢやありませんか。
何ものとも
知れない。
越中褌と
云ふ
······あいつ
一つで、
眞裸で
汚い
尻です。
婦は
沼の
洲へ
泳ぎ
着いて、
卯の
花の
茂にかくれました。
が、
其の
姿が、
水に
流れて、
柳を
翠の
姿見にして、ぽつと
映つたやうに、
人の
影らしいものが、
水の
向うに、
岸の
其の
柳の
根に
薄墨色に
立つて
居る
······或は
又······此處の
土袋と
同一やうな
男が、
其處へも
出て
來て、
白身の
婦人を
見て
居るのかも
知れません。
私も
其の
一人でせうね
······(や、
待てい。)
青膨れが、
痰の
搦んだ、ぶやけた
聲して、
早や
行掛つた
私を
留めた
······(
見て
貰えたいものがあるで、
最う
直ぢやぞ。)と、
首をぐたりと
遣りながら、
横柄に
言ふ。
······何と、
其の
兩足から、
下腹へ
掛けて、
棕櫚の
毛の
蚤が、うよ/\ぞろ/\
······赤蟻の
列を
造つてる
······私は
立窘みました。
ひら/\、と
夕空の
雲を
泳ぐやうに
柳の
根から
舞上つた、あゝ、
其は
五位鷺です。
中島の
上へ
舞上つた、と
見ると
輪を
掛けて
颯と
落した。
(ひい。)と
引く
婦の
聲。
鷺は
舞上りました。
翼の
風に、
卯の
花のさら/\と
亂るゝのが、
婦が
手足を
畝らして、
身を

くに
宛然である。
今考へると、それが
矢張り、あの
先刻の
樹だつたかも
知れません。
同じ
薫が
風のやうに
吹亂れた
花の
中へ、
雪の
姿が
素直に
立つた。が、
滑かな
胸の
衝と
張る
乳の
下に、
星の
血なるが
如き
一雫の
鮮紅。
絲を
亂して、
卯の
花が
眞赤に
散る、と
其の
淡紅の
波の
中へ、
白く
眞倒に
成つて
沼に
沈んだ。
汀を
廣くするらしい
寂かな
水の
輪が
浮いて、
血汐の
綿がすら/\と
碧を
曳いて
漾ひ
流れる
······(あれを
見い、
血の
形が
字ぢやらうが、
何と
讀むかい。)
||私が
息を
切つて、
頭を
掉ると、
(
分らんかい、
白痴めが。)と、ドンと
胸を
突いて、
突倒す。
重い
力は、
磐石であつた。
(
又······遣直しぢや。)と
呟きながら、
其の
蚤の
巣をぶら
下げると、
私が
茫然とした
間に、のそのそ、と
越中褌の
灸のあとの
有る
尻を
見せて、そして、やがて、
及腰の
祠の
狐格子を
覗くのが
見えた。
(
奧さんや、
奧さんや
||蚤が、
蚤が
||)
と
腹をだぶ/\、
身悶えをしつゝ、
後退りに
成つた。
唯、どしん、と
尻餅をついた。が、
其の
頭へ、
棕櫚の
毛をずぼりと
被る、と
梟が
化けたやうな
形に
成つて、
其のまゝ、べた/\と
草を
這つて、
縁の
下へ
這込んだ。
|| 蝙蝠傘を
杖にして、
私がひよろ/\として
立去る
時、
沼は
暗うございました。そして
生ぬるい
雨が
降出した
······(
奧さんや、
奧さんや。)
と
云つたが、
其の
土袋の
細君ださうです。
土地の
豪農何某が、
内證の
逼迫した
華族の
令孃を
金子にかへて
娶つたと
言ひます。
御殿づくりでかしづいた、が、
其の
姫君は
可恐い
蚤嫌ひで、
唯一
匹にも、
夜も
晝も
悲鳴を
上げる。
其の
悲しさに、
別室の
閨を
造つて
防いだけれども、
防ぎ
切れない。で、
果は
亭主が、
蚤を
除けるための
蚤の
巣に
成つて、
棕櫚の
毛を
全身に
纏つて、
素裸で、
寢室の
縁の
下へ
潛り
潛り、
一夏のうちに
狂死をした。
||(まだ、
迷つて
居さつしやるかなう、
二人とも
||旅の
人がの、あの
忘れ
沼では、
同じ
事を
度々見ます。)
旅籠屋での
談話であつた。」
工學士は
附けたして、
「
······祠の
其の
縁の
下を
見ましたがね、
······御存じですか
······異類異形な
石がね。」
日を
經て
工學士から
音信して、あれは、
乳香の
樹であらうと
言ふ。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。