去にし
年秋のはじめ、
汽船加能丸の
百餘の
乘客を
搭載して、
加州金石に
向ひて、
越前敦賀港を
發するや、
一天麗朗に
微風船首を
撫でて、
海路の
平穩を
極めたるにも
關はらず、
乘客の
面上に
一片暗愁の
雲は
懸れり。
蓋し
薄弱なる
人間は、
如何なる
場合にも
多くは
己を
恃む
能はざるものなるが、
其の
最も
不安心と
感ずるは
海上ならむ。
然れば
平日然までに
臆病ならざる
輩も、
船出の
際は
兎や
角と
縁起を
祝ひ、
御幣を
擔ぐも
多かり。「
一人女」「
一人坊主」は、
暴風か、
火災か、
難破か、いづれにもせよ
危險ありて、
船を
襲ふの
兆なりと
言傳へて、
船頭は
太く
之を
忌めり。
其日の
加能丸は
偶然一
人の
旅僧を
乘せたり。
乘客の
暗愁とは
他なし、
此の
不祥を
氣遣ふにぞありける。
旅僧は
年紀四十二三、
全身黒く
痩せて、
鼻隆く、
眉濃く、
耳許より
頤、
頤より
鼻の
下まで、
短き
髭は
斑に
生ひたり。
懸けたる
袈裟の
色は
褪せて、
法衣の
袖も
破れたるが、
服裝を
見れば
法華宗なり。
甲板の
片隅に
寂寞として、
死灰の
如く
趺坐せり。
加越地方は
殊に
門徒眞宗、
歸依者多ければ、
船中の
客も
又門徒七八
分を
占めたるにぞ、
然らぬだに
忌はしき
此の「
一人坊主」の、
別けて
氷炭相容れざる
宗敵なりと
思ふより、
乞食の
如き
法華僧は、
恰も
加能丸の
滅亡を
宣告せむとて、
惡魔の
遣はしたる
使者としも
見えたりけむ、
乘客等は二
人三
人、
彼方此方に
額を
鳩めて
呶々しつゝ、
時々法華僧を
流眄に
懸けたり。
旅僧は
冷々然として、
聞えよがしに
風説して
惡樣に
罵る
聲を
耳にも
入れざりき。
せめては
四邊に
心を
置きて、
肩身を
狹くすくみ
居たらば、
聊か
恕する
方もあらむ、
遠慮もなく
席を
占めて、
落着き
澄したるが
憎しとて、
乘客の一
人は
衝と
其の
前に
進みて、
「
御出家、
今日の
御天氣は
如何でせうな。」
旅僧は
半眼に
閉ぎたる
眼を
開きて、
「さればさ、
先刻から
降らぬから、お
天氣でござらう。」と
言ひつゝ
空を
打仰ぎて、
「はゝあ、
是はまた
結構なお
天氣で、
日本晴と
謂ふのでござる。」
此の
暢氣なる
答を
聞きて、
渠は
呆れながら、
「そりや、
誰だつて
知つてまさ、
私は
唯急に
天氣模樣が
變つて、
風でも
吹きやしまいかと、
其をお
聞き
申すんでさあ。」
「
那樣事は
知らぬな。
私は
目下の
空模樣さへお
前さんに
聞かれたので、やつと
氣が
着いたくらゐぢやもの。いや
又雨が
降らうが、
風が
吹かうが、そりや
何もお
天氣次第ぢや、
此方の
構ふこツちや
無いてな。」
「
飛んだ
事を。
風が
吹いて
耐るもんか。
船だ、もし、
私等御同樣に
船に
乘つて
居るんですぜ。」
と
渠は
良怒を
帶びて
聲高になりぬ。
旅僧は
少しも
騷がず、
「
成程、
船に
居て
暴風雨に
逢へば、
船が
覆るとでも
謂ふ
事かの。」
「
知れたこツたわ。
馬鹿々々しい。」
渠の
次第に
急込むほど、
旅僧は
益す
落着きぬ。
「して
又、
船が
覆れば
生命を
落さうかと
云ふ、
其の
心配かな。いや
詰らぬ
心配ぢや。お
前さんは
何か(
人相見)に、
水難の
相があるとでも
言はれたことがありますかい。まづ/\
聞きなさい。さも
無ければ
那樣ことを
恐がると
云ふ
理窟がないて。
一體お
前さんに
限らず、
乘合の
方々も
又然うぢや、
初手から
然ほど
生命が
危險だと
思ツたら、
船なんぞに
乘らぬが
可いて。また
生命を
介はずに
乘ツた
衆なら、
風が
吹かうが、
船が
覆らうが、
那樣事に
頓着は
無い
筈ぢやが、
恁う
見渡した
處では、
誰方も
怯氣々々もので
居らるゝ
樣子ぢやが、さて/\
笑止千萬な、
水に
溺れやせぬかと、
心配する
樣な
者は、
何の
道はや
平生から、
後生の
善い
人ではあるまい。
先づ
人に
天氣を
問はうより、
自分の
胸に
聞いて
見るぢやて。
(
己は
難船に
會ふやうなものか、
何うぢや。)と、
其處で
胸が、(お
前は
隨分罪を
造つて
居るから
何うだか
知れぬ。)と
恁う
答へられた
日にや、
覺悟もせずばなるまい。もし(
否、
惡い
事をした
覺もないから、
那樣氣遣は
些とも
無い。)と
恁うありや、
何の
雨風ござらばござれぢや。
喃、
那樣ものではあるまいか。
して
見るとお
前さん
方のおど/\するのは、
心に
覺束ない
處があるからで、
罪を
造つた
者と
見える。
懺悔さつしやい、
發心して
坊主にでもならつしやい。(
一人坊主)だと
言うて
騷いでござるから
丁度可い、
誰か
私の
弟子になりなさらんか、
而して二三
人坊主が
出來りや、もう(
一人坊主)ではなくなるから、
頓と
氣が
濟んで
可くござらう。」
斯く
言ひつゝ
法華僧は
哄然と
大笑して、
其まゝ
其處に
肱枕して、
乘客等がいかに
怒りしか、いかに
罵りしかを、
渠は
眠りて
知らざりしなり。
恁て、
數時間を
經たりし
後、
身邊の
人聲の
騷がしきに、
旅僧は
夢破られて、
唯見れば
變り
易き
秋の
空の、
何時しか
一面掻曇りて、
暗澹たる
雲の
形の、
凄じき
飛天夜叉の
如きが
縱横無盡に
馳せ

るは、
暴風雨の
軍を
催すならむ、
其一團は
早く
既に
沿岸の
山の
頂に
屯せり。
風一陣吹き
出でて、
船の
動搖良激しくなりぬ。
恁の
如き
風雲は、
加能丸既往の
航海史上珍しからぬ
現象なれども、(
一人坊主)の
前兆に
因りて
臆測せる
乘客は、
恁る
現象を
以て
推すべき、
風雨の
程度よりも、
寧ろ
幾十倍の
恐を
抱きて、
渠さへあらずば
無事なるべきにと、
各々我命を
惜む
餘に、
其死を
欲するに
至るまで、
怨恨骨髓に
徹して、
此の
法華僧を
憎み
合へり。
不幸の
僧はつく/″\
此状を

し、
慨然として、
「あゝ、
末世だ、
情ない。
皆が
皆で、
恁う
又信仰の
弱いといふは
何うしたものぢやな。
此處で
死ぬものか、
死なないものか、
自分で
判斷をして、
活きると
思へば
平氣で
可し、
死ぬと
思や
靜に
未來を
考へて、
念佛の
一つも
唱へたら
何うぢや、
何方にした
處が、わい/\
騷ぐことはない。はて、
見苦しいわい。
然し
私も
出家の
身で、
人に
心配を
懸けては
濟むまい。
可し、
可し。」
と
渠は
獨り
頷きつゝ、
從容として
立上り、
甲板の
欄干に
凭りて、
犇き
合へる
乘客等を
顧みて、
「いや、
誰方もお
騷ぎなさるな。もう
斯うなつちや
神佛の
信心では
皆の
衆に
埒があきさうもないに
依つて、
唯私が
居なければ
大丈夫だと、
一生懸命に
信仰なさい、
然うすれば
屹度助かる。
宜しいか/\。
南無、」
と
一聲、
高らかに
題目を
唱へも
敢へず、
法華僧は
身を
躍らして
海に
投ぜり。
「
身投だ、
助けろ。」
船長の
命の
下に、
水夫は
一躍して
難に
赴き、
辛うじて
法華僧を
救ひ
得たり。
然りし
後、
此の(
一人坊主)は、
前とは
正反對の
位置に
立ちて、
乘合をして
却りて
我あるがために
船の
安全なるを
確めしめぬ。
如何となれば、
乘客等は
爾く
身を
殺して
仁を
爲さむとせし、
此大聖人の
徳の
宏大なる、
天は
其の
報酬として
渠に
水難を
與ふべき
理由のあらざるを
斷じ、
恁る
聖僧と
與にある
者は、
此結縁に
因りて、
必ず
安全なる
航行をなし
得べしと
信じたればなり。
良時を
經て
乘客は、
活佛||今新たに
然か
思へる
||の
周圍に
集りて、
一條の
法話を
聞かむことを
希へり。
漸く
健康を
囘復したる
法華僧は、
喜んで
之を
諾し、
打咳きつゝ
語出しぬ。
「
私は
一體京都の
者で、
毎度此の
金澤から
越中の
方へ
出懸けるが、一
度ある
事は二
度とやら、
船で(
一人坊主)になつて、
乘合の
衆に
嫌はれるのは
今度がこれで二
度目でござる。
今から二三
年前のこと、
其時は、
船の
出懸けから
暴風雨模樣でな、
風も
吹く、
雨も
降る。
敦賀の
宿で
逡巡して、
逗留した
者が七
分あつて、
乘つたのはまあ三
分ぢやつた。
私も
其時分は
果敢ない
者で、
然云ふ
天氣に
船に
乘るのは、
實は
二の
足の
方であつたが。
出家の
身で
生命を
惜むかと、
人の
思はくも
恥かしくて、
怯氣々々もので
乘込みましたぢや。さて
段々船の
進むほど、
風は
荒くなる、
波は
荒れる、
船は
搖れる。
其又搖れ
方と
謂うたら
一通でなかつたので、
吐くやら、
呻くやら、
大苦みで
正體ない
者が
却つて
可羨しいくらゐ、と
云ふのは、
氣の
確なものほど、
生命が
案じられるでな、
船が
恁うぐつと
傾く
度に、はツ/\と
冷い
汗が
出る。さてはや、
念佛、
題目、
大聲に
鯨波の
聲を
揚げて
唸つて
居たが、やがて
其も
蚊の
鳴くやうに
弱つてしまふ。
取亂さぬ
者は
一人もない。
恁云ふ
私が
矢張その、おい/\
泣いた
連中でな、
面目もないこと。
昔彼の
文覺と
云ふ
荒法師は、
佐渡へ
流される
船路で、
暴風雨に
會つたが、
船頭水夫共が
目の
色を
變へて
騷ぐにも
頓着なく、
大の
字なりに
寢そべつて、
雷の
如き
高鼾ぢや。
すると
船頭共が、「
恁
惡僧が
乘つて
居るから
龍神が
祟るのに
違ひない、
疾く
海の
中へ
投込んで、
此方人等は
助からう。」と
寄つて
集つて
文覺を
手籠にしようとする。
其時荒坊主岸破と
起上り、
舳に
突立ツて、はつたと
睨め
付け、「いかに
龍神不禮をすな、
此船には
文覺と
云ふ
法華の
行者が
乘つて
居るぞ!」と
大音に
叱り
付けたと
謂ふ。
何と
難有い
信仰ではないか。
強い
信仰を
持つて
居る
法師であつたから、
到底龍神如きがこの
俺を
沈めることは
出來ない、
波浪不能沒だ、と
信じて
疑はぬぢやから、
其處でそれ
自若として
居られる。
又死んでも
極樂へ
確に
行かれる
身ぢやと
固く
信じて
居る
者は、
恁云ふ
時には
驚かぬ。
まあ
那樣事は
措いて、
其時船の
中で、
些とも
騷がぬ、いやも
頓と
平氣な
人が
二人あつた。
美しい
娘と
可愛らしい
男の
兒ぢや。
※弟[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、U+59CA、9-3]と
見えてな、
似て
居ました。
最初から
二人對坐で、
人交もせぬで
何か
睦まじさうに
話をして
居たが、
皆がわい/\
言つて
立騷ぐのを
見ようともせず、まるで
別世界に
居るといふ
顏色での。
但金石間近になつた
時、
甲板の
方に
何か
知らん
恐しい
音がして、
皆が、きやツ!と
叫んだ
時ばかり、
少し
顏色を
變へたぢや。
別に
仔細もなかつたと
見えて、
其内靜まつたが、
※弟[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、U+59CA、9-7]は
立ちさうにもせず、まことに
常の
通りに、
澄して
居たに
因つて、
餘り
不思議に
思うたから、
其日難なく
港に
着いて、
※弟[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、U+59CA、9-8]が
建場の
茶屋に
腕車を
雇ひながら
休んで
居る
處へ
行つて、
言葉を
懸けて
見ようとしたが、
其子達の
氣高さ!
貴さ!
思はず
此の
天窓が
下つたぢや。
そこで
土間へ
手を
支へて、「
何ういふ
御修行が
積んで、あのやうに
生死の
場合に
平氣でお
在なされた」と、
恐入つて
尋ねました。
すると
答には、「
否、
私等は
東京へ
修行に
參つて
居るものでござるが、
今度國許に
父が
急病と
申す
電報が
懸つて、
其で
歸るのでござるが、
急いで
見舞はんければなりませんので、
止むを
得ず
船にしました。しかし
父樣には
私達二人の
外に、
子と
云ふものはござらぬ、
二人にもしもの
事がありますれば、
家は
絶えてしまひまする。
父樣は
善いお
方で、
其きり
跡の
斷えるやうな
惡い
事爲置かれた
方ではありませんから、
私どもは
甚
危い
恐い
目に
出會ひましても、
安心でございます。それに
私が
危ければ、
此の
弟が
助けてくれます、
私もまた
弟一人は
殺しません。
其で
二人とも
大丈夫と
思ひますから。
少しも
恐くはござらぬ。」と
恁う
云ふぢや。
私にはこれまで
讀んだ
御經より、
餘程難有くて
涙が
出た。まことに
善知識、そのお
庇で
大きに
悟りました。
乘合の
衆も
何がなしに、
自分で
自分を
信仰なさい。
船が
大丈夫と
信じたら
乘つて
出る、
出た
上では
甚
颶風が
來ようが、
船が
沈まうが、
體が
溺れようが、なに、
大丈夫だと
思つてござれば、
些とも
驚くことはない。こりやよし
死んでも
生返る。もし
又船が
危いと
信じたらば、
乘らぬことでござるぞ。
何でも
あやふやだと
安心がならぬ、
人を
恃むより
神佛を
信ずるより、
自分を
信仰なさるが
一番ぢや。」
船の
港に
着きけるまで
懇に
説聞かして、
此殺身爲仁の
高僧は、
飄然として
其名も
告げず
立去りにけり。
●表記について
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「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「姉」の正字」、U+59CA | | 9-3、9-7、9-8 |