雪の翼
泉鏡花
柏崎海軍少尉の
夫人に、
民子といつて、
一昨年故郷なる、
福井で
結婚の
式をあげて、
佐世保に
移住んだのが、
今度少尉が
出征に
就き、
親里の
福井に
歸り、
神佛を
祈り、
影膳据ゑつつ
座にある
如く、
家を
守つて
居るのがあつた。
旅順の
吉報傳はるとともに
幾干の
猛將勇士、
或は
士卒||或は
傷つき
骨も
皮も
散々に、
影も
留めぬさへある
中に
夫は
天晴の
功名して、
唯纔に
左の
手に
微傷を
受けたばかりと
聞いた
時、
且つ
其の
乘組んだ
艦の
帆柱に、
夕陽の
光を
浴びて、一
羽雪の
如き
鷹の
來り
留つた
報を
受け
取つた
時、
連添ふ
身の
民子は
如何に
感じたらう。あはれ
新婚の
式を
擧げて、
一年の
衾暖かならず、
戰地に
向つて
出立つた
折には、
忍んで
泣かなかつたのも、
嬉涙に
暮れたのであつた。
あゝ、
其のよろこびの
涙も、
夜は
片敷いて
帶も
解かぬ
留守の
袖に
乾きもあへず、
飛報は
鎭守府の
病院より、
一家の
魂を
消しに
來た。
少尉が
病んで、
豫後不良とのことである。
此の
急信は××
年××
月××
日、
午後三
時に
屆いたので、
民子は
蒼くなつて
衝と
立つと、
不斷着に
繻子の
帶引緊めて、つか/\と
玄關へ。
父親が
佛壇に
御明を
點ずる
間に、
母親は、
財布の
紐を
結へながら、
駈けて
出て
之を
懷中に
入れさせる、
女中がシヨオルをきせかける、
隣の
女房が、
急いで
腕車を
仕立に
行く、とかうする
内、お
供に
立つべき
與曾平といふ
親仁、
身支度をするといふ
始末。さて、
取るものも
取りあへず
福井の
市を
出發した。これが
鎭守府の
病院に、
夫を
見舞ふ
首途であつた。
冬の
日の、
山國の、
名にしおふ
越路なり、
其日は
空も
曇りたれば、
漸く
町をはづれると、
九頭龍川の
川面に、
早や
夕暮の
色を
籠めて、
暗くなりゆく
水蒼く、
早瀬亂れて
鳴る
音も、
千々に
碎けて
立つ
波も、
雪や!
其の
雪の
思ひ
遣らるゝ
空模樣。
近江の
國へ
山越に、
出づるまでには、
中の
河内、
木の
芽峠が、
尤も
近きは
目の
前に、
春日野峠を
控へたれば、
頂の
雲眉を
蔽うて、
道のほど五
里あまり、
武生の
宿に
着いた
頃、
日はとつぷりと
暮れ
果てた。
長旅は
抱へたり、
前に
峠を
望んだれば、
夜を
籠めてなど
思ひも
寄らず、
柳屋といふに
宿を
取る。
路すがら
手も
足も
冷え
凍り、
火鉢の
上へ
突伏しても、
身ぶるひやまぬ
寒さであつたが、
枕に
就いて
初夜過ぐる
頃ほひより、
少し
氣候がゆるんだと
思ふと、
凡そ
手掌ほどあらうといふ、
俗に
牡丹となづくる
雪が、しと/\と
果しもあらず
降出して、
夜中頃には
武生の
町を
笠のやうに
押被せた、
御嶽といふ
一座の
峰、
根こそぎ
一搖れ、
搖れたかと
思ふ
氣勢がして、
風さへ
颯と
吹き
添つた。
一の
谷、
二の
谷、
三の
谷、
四の
谷かけて、
山々峰々縱横に、
荒れに
荒るゝが
手に
取るやう、
大波の
寄せては
返すに
齊しく、
此の
一夜に
北國空にあらゆる
雪を、
震ひ
落すこと、
凄まじい。
民子は
一炊の
夢も
結ばず。あけ
方に
風は
凪いだ。
昨夜雇つた
腕車が二
臺、
雪の
門を
叩いたので、
主從は、
朝餉の
支度も
々に、
身ごしらへして、
戸外に
出ると、
東雲の
色とも
分かず
黄昏の
空とも
見えず、
溟々濛々として、
天地唯一白。
不意に
積つた
雪なれば、
雪車と
申しても
間に
合ず、ともかくもお
車を。
帳場から
此處へ
參る
内も、
此の
通りの
大汗と、
四人の
車夫は
口を
揃へ、
精一杯、
後押で、お
供はいたして
見まするけれども、
前途のお
請合はいたされず。
何はしかれ
車の
齒の
埋まりますまで、
遣るとしませう。
其上は、三
人がかり五
人がかり、
三井寺の
鐘をかつぐ
力づくでは、とても
一寸も
動きはしませぬ。お
約束なれば
當柳屋の
顏立に
參つたまで、と、しり
込すること
一方ならず。
唯急ぎに
急がれて、こゝに
心なき
主從よりも、
御機嫌ようと
門に
立つて、
一曳ひけば
降る
雪に、
母衣の
形も
早や
隱れて、
殷々として
沈み
行く
客を
見送る
宿のものが、
却つて
心細い
限りであつた。
酒代は
惜まぬ
客人なり、
然も
美人を
載せたれば、
屈竟の
壯佼勇をなし、
曳々聲を
懸け
合はせ、
畷、
畦道、
村の
徑、
揉みに
揉んで、三
里の
路に八九
時間、
正午といふのに、
峠の
麓、
春日野村に
着いたので、
先づ一
軒の
茶店に
休んで、
一行は
吻と
呼吸。
茶店のものも
爐を
圍んで、ぼんやりとして
居るばかり。いふまでもなく
極月かけて
三月彼岸の
雪どけまでは、
毎年こんな
中に
起伏するから、
雪を
驚くやうな
者は
忘れても
無い
土地柄ながら、
今年は
意外に
早い
上に、
今時恁くまで
積るべしとは、七八十になつた
老人も
思ひ
懸けないのであつたと
謂ふから。
來る
道でも、
村を
拔けて、
藪の
前など
通る
折は、
兩側から
倒れ
伏して、
竹も三
尺の
雪を
被いで、
或は五
間、
或は十
間、
恰も
眞綿の
隧道のやうであつたを、
手で
拂ひ
笠で
拂ひ、
辛うじて
腕車を
潛らしたれば、
網の
目にかゝつたやうに、
彼方此方を、
雀がばら/\、
洞に
蝙蝠の
居るやうだつた、と
車夫同士語りなどして、しばらく
澁茶に
市が
榮える。
聲の
中に
噫と
一聲、
床几から
轉げ
落ちさう、
脾腹を
抱へて
呻いたのは、
民子が
供の
與曾平親仁。
這は
便なし、
心を
冷した
老の
癪、
其の
惱輕からず。
一體誰彼といふ
中に、さし
急いだ
旅なれば、
註文は
間に
合ず、
殊に
少い
婦人なり。うつかりしたものも
連れられねば、
供さして
遣られもせぬ。
與曾平は、
三十年餘りも
律儀に
事へて、
飼殺のやうにして
置く
者の
氣質は
知れたり、
今の
世の
道中に、
雲助、
白波の
恐れなんど、あるべくも
思はれねば、
力はなくても
怪しうはあらず、
最も
便よきは
年こそ
取つたれ、
大根も
引く、
屋根も
葺く、
水も
汲めば
米も
搗く、
達者なればと、この
老僕を
擇んだのが、
大なる
過失になつた。
いかに
息災でも
既に五十九、あけて六十にならうといふのが、
内でこそはくる/\

れ、
近頃は
遠路の
要もなく、
父親が
本を
見る、
炬燵の
端を
拜借し、
母親が
看經するうしろから、
如來樣を
拜む
身分、
血の
氣の
少ないのか、とやかくと、
心遣ひに
胸を
騷がせ、
寒さに
骨を
冷したれば、
忘れて
居た
持病がこゝで、
生憎此時。
雪は
小止もなく
降るのである、
見る/\
内に
積るのである。
大勢が
寄つて
集り、
民子は
取縋るやうにして、
介抱するにも、
藥にも、ありあはせの
熊膽位、
其でも
心は
通じたか、
少しは
落着いたから
一刻も
疾くと、
再び
腕車を
立てようとすれば、
泥除に
噛りつくまでもなく、
與曾平は
腰を
折つて、
礑と
倒れて、
顏の
色も
次第に
變り、
之では
却つて
足手絡ひ、
一式の
御恩報じ、
此のお
供をと
想ひましたに、
最う
叶はぬ、
皆で
首を
縊めてくれ、
奧樣私を
刺殺して、お
心懸のないやうに
願ひまする。おのれやれ、
死んで
鬼となり、
無事に
道中はさせませう、
魂が
附添つて、と
血狂ふばかりに
急るほど、
弱るは
老の
身體にこそ。
口々に
押宥め、
民子も
切に
慰めて、お
前の
病氣を
看護ると
謂つて
此處に
足は
留められぬ。
棄てゝ
行くには
忍びぬけれども、
鎭守府の
旦那樣が、
呼吸のある
内一目逢ひたい、
私の
心は
察しておくれ、とかういふ
間も
心は
急く、
峠は
前に
控へて
居るし、
爺や!
もし
奧樣。
と
土間の
端までゐざり
出でて、
膝をついて、
手を
合すのを、
振返つて、
母衣は
下りた。
一
臺の
腕車二
人の
車夫は、
此の
茶店に
留まつて、
人々とともに
手當をし、
些とでもあがきが
着いたら、
早速武生までも
其日の
内に
引返すことにしたのである。
民子の
腕車も
二人がかり、それから三
里半だら/\のぼりに、
中空に
聳えたる、
春日野峠にさしかゝる。
ものの
半道とは
上らないのに、
車の
齒の
軋り
強く、
平地でさへ、
分けて
坂、一
分間に一
寸づゝ、
次第に
雪が
嵩増すので、
呼吸を
切つても、もがいても、
腕車は一
歩も
進まずなりぬ。
前なるは
梶棒を
下して
坐り、
後なるは
尻餅ついて、
御新造さん、
とてもと
謂ふ。
大方は
恁くあらむと、
期したることとて、
民子も
豫め
覺悟したから、
茶店で
草鞋を
穿いて
來たので、
此處で
母衣から
姿を
顯し、
山路の
雪に
下立つと、
早や
其の
爪先は
白うなる。
下坂は、
動が
取れると、一
名の
車夫は
空車を
曳いて、
直ぐに
引返す
事になり、
梶棒を
取つて
居たのが、
旅鞄を
一個背負つて、
之が
路案内で
峠まで
供をすることになつた。
其の
鐵の
如き
健脚も、
雪を
踏んではとぼ/\しながら、
前へ
立つて
足あとを
印して
上る、
民子はあとから
傍目も
觸らず、
攀ぢ
上る
心細さ。
千山萬岳疊々と、
北に
走り、
西に
分れ、
南より
迫り、
東より
襲ふ
四圍たゞ
高き
白妙なり。
さるほどに、
山又山、
上れば
峰は
益累り、
頂は
愈々聳えて、
見渡せば、
見渡せば、
此處ばかり
日の
本を、
雪が
封ずる
光景かな。
幸に
風が
無く、
雪路に
譬ひ
山中でも、
然までには
寒くない、
踏みしめるに
力の
入るだけ、
却つて
汗するばかりであつたが、
裾も
袂も
硬ばるやうに、ぞつと
寒さが
身に
迫ると、
山々の
影がさして、
忽ち
暮なむとする
景色。あはよく
峠に
戸を
鎖した一
軒の
山家の
軒に
辿り
着いた。
さて
奧樣、
目當にいたして
參つたは
此の
小家、
忰は
武生に
勞働に
行つて
居り、
留守は
山の
主のやうな、
爺と
婆二人ぐらし、
此處にお
泊りとなさいまし、
戸を
叩いてあけさせませう。また
彼方此方五六
軒立場茶屋もござりますが、
美しい
貴女さま、
唯お
一人、
預けまして、
安心なは、
此の
外にござりませぬ。
武生の
富藏が
受合ひました、
何にしろお
泊んなすつて、
今夜の
樣子を
御覽じまし。
此の
雪の
止むか
止まぬかが
勝負でござります。もし
留みませぬと、
迚も
路は
通じません、
降やんでくれさへすれば、
雪車の
出ます
便宜もあります、
御存じでもありませうが、
此の
邊では、
雪籠といつて、
山の
中で
一夜の
内に、
不意に
雪に
會ひますると、
時節の
來るまで
何方へも
出られぬことになりますから、
私は
稼人、
家に四五
人も
抱へて
居ります、
萬に
一つも、もし、
然やうな
目に
逢ひますると、
媽々や
小兒が

を
釣らねばなりませぬで、
此の
上お
供は
出來かねまする。お
別れといたしまして、
其處らの
茶店をあけさせて、
茶碗酒をぎうとあふり、
其の
勢で、
暗雲に、とんぼを
切つて
轉げるまでも、
今日の
内に
麓まで
歸ります、とこれから
雪の
伏家を
叩くと、
老人夫婦が
出迎へて、
富藏に
仔細を
聞くと、お
可哀相のいひつゞけ。
行先が
案じられて、
我にもあらずしよんぼりと、
門に
彳んで
入りもやらぬ、
媚しい
最明寺殿を、
手を
採つて
招じ
入れて、
舁据ゑるやうに
圍爐裏の
前。
お
前まあ
些と
休んでと、
深切にほだされて、
懷しさうに
民子がいふのを、いゝえ、さうしては
居られませぬ、お
荷物は
此處へ、もし
御遠慮はござりませぬ、
足を
投出して、
裾の
方からお
温りなされませ、
忘れても
無理な
路はなされますな。それぢやとつさん
頼んだぜ、
婆さん、いたはつて
上げてくんなせい。
富藏さんとやら、といつて、
民子は
思はず
涙ぐむ。
へい、
奧さま
御機嫌よう、へい、
又通りがかりにも、お
供の
御病人に
氣をつけます。あゝ、いかい
難儀をして、おいでなさるさきの
旦那樣も
御大病さうな、
唯の
時なら
橋の
上も、
欄干の
方は
避けてお
通りなさらうのに、おいたはしい。お
天道樣、
何分お
頼み
申しますぜ、やあお
天道樣といや
降ることは/\。
あとに
頼むは
老人夫婦、
之が
又、
補陀落山から
假にこゝへ、
庵を
結んで、
南無大悲民子のために
觀世音。
其の
情で、
饑ゑず、
凍えず、
然も
安心して
寢床に
入ることが
出來た。
佗しさは、
食べるものも、
着るものも、こゝに
斷るまでもない、
薄い
蒲團も、
眞心には
暖く、
殊に
些は
便りにならうと、
故と
佛間の
佛壇の
前に、
枕を
置いてくれたのである。
心靜に
枕には
就いたが、
民子は
何うして
眠られよう、
晝の
疲勞を
覺ゆるにつけても、
思ひ
遣らるゝ
後の
旅。
更け
行く
閨に
聲もなく、
凉しい
目ばかりぱち/\させて、
鐘の
音も
聞えぬのを、
徒に
指を
折る、
寂々とした
板戸の
外に、ばさりと
物音。
民子は
樹を
辷つた
雪のかたまりであらうと
思つた。
しばらくして
又ばさりと
障つた、
恁る
時、
恁る
山家に
雪の
夜半、
此の
音に
恐氣だつた、
婦人氣はどんなであらう。
富藏は
疑はないでも、
老夫婦の
心は
分つて
居ても、
孤家である、この
孤家なる
言は、
昔語にも、お
伽話にも、
淨瑠璃にも、ものの
本にも、
年紀今年二十になるまで、
民子の
耳に
入つた
響きに、
一ツとして、
悲慘悽愴の
趣を
今爰に
囁き
告ぐる、
材料でないのはない。
呼吸を
詰めて、なほ
鈴のやうな
瞳を
凝せば、
薄暗い
行燈の
灯の
外、
壁も
襖も
天井も
暗りでないものはなく、
雪に
眩めいた
目には
一しほで、ほのかに
白いは
我とわが、
俤に
立つ
頬の
邊を、
確乎とおさへて
枕ながら
幽にわなゝく
小指であつた。
あなわびし、うたてくもかゝる
際に、
小用がたしたくなつたのである。
もし。ふるへ
聲で
又、
もし/\と、
二聲三聲呼んで
見たが、
目ざとい
老人も
寐入ばな、
分けて、
罪も
屈託も、
山も
町も
何にもないから、
雪の
夜に
靜まり
返つて
一層寐心の
好ささうに、
鼾も
聞えずひツそりして
居る。
堪りかねて、
民子は
密と
起き
直つたが、
世話になる
身の
遠慮深く、
氣味が
惡いぐらゐには
家のぬし
起されず、
其まゝ
突臥して
居たけれども、さてあるべきにあらざれば、
恐々行燈を
引提げて、
勝手は
寢しなに
聞いて
置いた、
縁側について
出ようとすると、
途絶えて
居たのが、ばたりと
當ツて、二三
度續けさまにばさ、ばさ、ばさ。
はツと
唾をのみ、
胸を
反して
退つたが、やがて
思切つて
用を
達して
出るまでは、まづ
何事もなかつた
處。
手を
洗はうとする
時は、
民子は
殺されると
思つたのである。
雨戸を一
枚ツト
開けると、
直ちに、
東西南北へ五
里十
里の
眞白な
山であるから。
如何なることがあらうも
知れずと、
目を
瞑つて、
行燈をうしろに
差置き、わなゝき/\
柄杓を
取つて、
埋もれた
雪を
拂ひながら、カチリとあたる
水を
灌いで、
投げるやうに
放したトタン、
颯とばかり
雪をまいて、ばつさり
飛込んだ
一個の
怪物。
民子は
思はずあツといつた。
夫婦はこれに
刎起きたが、
左右から
民子を
圍つて、
三人六の
目を
注ぐと、
小暗き
方に
蹲つたのは、
何ものかこれ
唯一
羽の
雁なのである。
老人は
口をあいて
笑ひ、いや
珍しくもない、まゝあること、
俄の
雪に
降籠められると、
朋に
離れ、
塒に
迷ひ、
行方を
失ひ、
食に
饑ゑて、
却つて
人に
懷き
寄る、これは
獵師も
憐んで、
生命を
取らず、
稗、
粟を
與へて
養ふ
習と、
仔細を
聞けば、
所謂窮鳥懷に
入つたるもの。
翌日も
降り
止まず、
民子は
心も
心ならねど、
神佛とも
思はるゝ
老の
言に
逆らはず、
二日三日は
宿を
重ねた。
其夜の
雁も
立去らず、
餌にかはれた
飼鳥のやう、よくなつき、
分けて
民子に
慕ひ
寄つて、
膳の
傍に
羽を
休めるやうになると、はじめに
生命がけ
恐しく
思ひしだけ、
可愛さは
一入なり。つれ/″\には
名を
呼んで、
翼を
撫でもし、
膝に
抱きもし、
頬もあて、
夜は
衾に
懷を
開いて、
暖い
玉の
乳房の
間に
嘴を
置かせて、すや/\と
寐ることさへあつたが、
一夜、
凄じき
寒威を
覺えた。あけると
凍てて
雪車が
出る、
直に
發足。
老人夫婦に
別を
告げつつ、
民子は
雁にも
殘惜しいまで
不便であつたなごりを
惜んだ。
神の
使であつたらう、この
鳥がないと、
民子は
夫にも
逢へず、
其の
看護も
出來ず、
且つやがて
大尉に
昇進した
少尉の
榮を
見ることもならず、
與曾平の
喜顏にも、
再會することが
出來なかつたのである。
民子をのせて
出た
雪車は、
路を
辷つて、十三
谷といふ
難所を、
大切な
客ばかりを
千尋の
谷底へ
振り
落した、
雪ゆゑ
怪我はなかつたが、
落込んだのは
炭燒の
小屋の
中。
五助。
權九郎。
といふ、
兩名の
炭燒が、
同一雪籠に
會つて
封じ
込められたやうになり、
二日三日は
貯蓄もあつたが、
四日目から、
粟一粒も
口にしないで、
熊の
如き
荒漢等、
山狗かとばかり
痩せ
衰へ、
目を
光らせて、
舌を
噛んで、
背中合せに
倒れたまゝ、
唸く
聲さへ
幽な
處、
何、
人間なりとて
容赦すべき。
帶を
解き、
衣を
剥ぎ、
板戸の
上に
縛めた、
其のありさまは、こゝに
謂ふまい。
立處其の
手足を
炙るべく、
炎々たる
炭火を
熾して、やがて、
猛獸を
拒ぐ
用意の、
山刀と
斧を
揮つて、あはや、
其胸を
開かむとなしたる
處へ、
神の
御手の
翼を
擴げて、
其膝、
其手、
其肩、
其脛、
狂ひまつはり、
搦まつて、
民子の
膚を
蔽うたのは、
鳥ながらも
心ありけむ、
民子の
雪車のあとを
慕うて、
大空を
渡つて
來た
雁であつた。
瞬く
間に、
雁は
炭燒に
屠られたが、
民子は
微傷も
受けないで、
完き
璧の
泰らかに
雪の
膚は
繩から
拔けた。
渠等は
敢て
鬼ではない、
食を
得たれば
人心地になつて、
恰も
可し、
谷間から、いたはつて、
負つて
世に
出た。
●表記について
- このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。