一
予が寄宿生となりて
松川私塾に
入りたりしは、英語を学ばむためにあらず、数学を修めむためにあらず、なほ漢籍を学ばむことにもあらで、
他に
密に期することのありけるなり。
加州金沢市
古寺町に
両隣無き
一宇の
大廈は、松山
某が、英、漢、数学の塾舎となれり。
旧は
旗野と
謂へりし
千石取の
館にして、邸内に三件の不思議あり、
血天井、
不開室、庭の竹藪
是なり。
事の
原由を尋ぬるに、旗野の先住に、
何某とかや
謂ひし
武士のありけるが、
過まてることありて改易となり、
邸を追はれて
国境よりぞ放たれし。
其室は当時
家中に
聞えし美人なりしが、
女心の
思詰めて一途に家を明渡すが
口惜く、
我は
永世此処に
留まりて、外へは
出でじと、
其居間に
閉籠り、内より
鎖を
下せし
後は、
如何かしけむ、影も形も見えずなりき。
其後旗野は
此家に
住ひつ。先住の
室が自ら
其身を封じたる一室は、不開室と
称へて、開くことを許さず、はた覗くことをも禁じたりけり。
然るからに執念の留まれるゆゑにや、常には
然せる
怪無きも、
後住なる旗野の家に
吉事ある
毎に、
啾々たる
婦人の
泣声、不開室の内に聞えて、
不祥ある時は、さも
心地好げに笑ひしとかや。
旗野に
一人の
妾あり。名を
村といひて寵愛
限無かりき。
一年夏の
半、
驟雨後の月影
冴かに
照して、
北向の庭なる竹藪に
名残の
雫、
白玉のそよ吹く風に
溢るゝ
風情、またあるまじき
観なりければ、旗野は村に酌を取らして、
夜更るを覚えざりき。
お村も
少しく
なる口なるに、
其夜は心
爽ぎ、
興も
亦深かりければ、
飲過して
太く
酔ひぬ。
人静まりて月の色の
物凄くなりける頃、
漸く
盃を納めしが、
臥戸に
入るに先立ちて、お村は
厠に
上らむとて、腰元に
扶けられて廊下伝ひに
彼不開室の前を過ぎけるが、酔心地の
胆太く、ほと/\と板戸を
敲き、「この執念深き奥方、何とて
今宵に泣きたまはざる」と
打笑ひけるほどこそあれ、
生温き風一陣吹出で、腰元の
携へたる
手燭を消したり。何物にか驚かされけむ、お村は一声きやつと叫びて、右側なる部屋の障子を外して
僵れ入ると共に、気を失ひてぞ伏したりける。腰元は驚き恐れつゝ
件の部屋を覗けば、内には暗く
行灯点りて、お村は
脛も
露に
横はれる
傍に、
一人の男ありて正体も無く眠れるは、
蓋此家の用人なるが、
先刻酒席に一座して、
酔過して
寝ねたるなれば、今お村が僵れ込みて、
己が
傍に気を失ひ枕をならべて伏したりとも、
心着かざる
状になむ。
此腰元は
春といひて、もとお村とは朋輩なりしに、お村は
寵を得てお部屋と
成済し、常に
頤以て召使はるゝを
口惜くてありけるにぞ、今
斯く偶然に枕を並べたる
二人が
態を見るより、悪心むらむらと
起り、介抱もせず、呼びも
活けで、
故と
灯火を
微にし、「かくては
誰が眼にも
······」と
北叟笑みつゝ、
忍やかに
立出で、
主人の
閨に
走行きて、
酔臥したるを
揺覚まし、「お村殿には御用人何某と人目を忍ばれ
候[#「候」は底本では「侯」]」と
欺きければ、短慮無謀の
平素を、酒に
弥暴く、怒気烈火の
如く心頭に発して、
岸破と
蹶起き、
枕刀押取りて、一文字に
馳出で、障子を
蹴放して
驀地に
躍込めば、
人畜相戯れて
形の如き不体裁。前後の分別に
遑無く、用人の
素頭、
抜手も見せず、ころりと
落しぬ。
二
旗野の
主人は
血刀提げ、「やをれ
婦人、
疾く覚めよ」とお村の
肋を
蹴返せしが、
活の
法にや
合ひけむ、うむと
一声呼吸出でて、あれと驚き
起返る。
主人はハツタと
睨附け、「畜生よ、男は一刀に
斬棄てたれど、
汝には
未だ
為むやうあり」と
罵り狂ひ、
呆れ惑ふお村の黒髪を
把りて、廊下を
引摺り縁側に
連行きて、有無を謂はせず衣服を
剥取り、腰に
纏へる布ばかりを許して、手足を堅く
縛めけり。
お村は夢の心地ながら、痛さ、苦しさ、
恥しさに、涙に
咽び、声を震はせ、「こは殿にはものに狂はせ
給ふか、
何故ありての
御折檻ぞ」と繰返しては
聞ゆれども、
此方は
憤恚に逆上して、お村の
言も耳にも入らず、無二無三に
哮立ち、お春を召して酒を取寄せ、
己が両手に
滴らしては、お村の腹に塗り、背に塗り、全身余さず
酒漬にして、其まゝ庭に
突出だし、竹藪の中に投入れて、
虫責にこそしたりけれ。
深夜の出来事なりしかば、内の者ども皆眠りて知れるは絶えてあらざりき。「かまへて人に語るべからず。
執成立せば面倒なり」と主人はお春を
警めぬ。お村が苦痛はいかばかりなりけむ、「あら苦し、
堪難や、あれよ/\」と叫びたりしが、次第にものも
得謂はずなりて、夜も明方に到りては、
唯泣く声の聞えしのみ、されば家内の
誰彼は藪の中とは
心着かで、
彼の
不開室の怪異とばかり想ひなし、
且恐れ且
怪みながら、元来泣声ある時は、
目出度きことの
兆候なり、と
言伝へたりければ、「いづれも吉兆に
候ひなむ」と主人を祝せしぞ
愚なりける。
午前少しく前のほど、用人の死骸を
発見したる者ありて、上を下へとかへせしが、主人は少しも騒ぐ色なく、「
手討にしたり」とばかりにて、
手続を経てこと果てぬ。お村は
昨夜の夜半より、藪の
真中に
打込まれ、身動きだにもならざるに、酒の
香を
慕ひて
寄来る
蚊の群は謂ふも
更なり、何十年を経たりけむ、
天日を
蔽隠して昼
猶闇き大藪なれば、湿地に生ずる虫どもの、幾万とも知れず
群り出でて、手足に取着き、
這懸り、顔とも謂はず、胸とも謂はず、むず/\と往来しつ、肌を
嘗められ、血を吸はるゝ苦痛は云ふべくもあらざれば、
悶え
苦み、泣き叫びて、死なれぬ
業を
歎きけるが、
漸次に
精尽き、
根疲れて、気の遠くなり行くにぞ、
渠が最も
忌嫌へる
蛇の
蜿蜒も知らざりしは、せめてもの
僥倖なり、されば
玉の
緒の絶えしにあらねば、
現に
号泣する糸より細き
婦人の声は、
終日休む
間なかりしとぞ。
其日も暮れ、
夜に入りて
四辺の
静になるにつれ、お村が
悲喚の声
冴えて眠り
難きに、旗野の主人も
堪兼ね、「あら
煩悩し、いで息の根を止めむず」と藪の中に
走入り、半死半生の
婦人を
引出だせば、
総身赤く
腫れたるに、
紫斑々の
痕を印し、眼も
中てられぬ
惨状なり。
かくても
未だ
怒は解けず、お村の
後手に
縛りたる縄の
端を
承塵に
潜らせ、天井より
釣下げて、一太刀
斬附くれば、お村ははツと我に返りて、「殿、覚えておはせ、
御身が命を取らむまで、
妾は死なじ」と謂はせも果てず、はたと
首を
討落せば、
骸は中心を失ひて、
真逆様になりけるにぞ、
踵を天井に着けたりしが、
血汐は
先刻脛を伝ひて足の裏を染めたれば、
其が天井に着くとともに、
怨恨の
血判二つをぞ
捺したりける。
此一念の
遺物拭ふに消えず、今に伝へて血天井と謂ふ。
人を殺すにも法こそあれ、旗野がお村を
屠りし如きは、実に惨中の惨なるものなり。家に
仕ふる者ども、其物音に
駈附けしも、主人が血相に
恐をなして、
留めむとする者無く、
遠巻にして打騒ぎしのみ。
殺尽せしお村の死骸は、竹藪の中に
埋棄てて、
跡弔もせざりけり。
三
はじめお村を
讒ししお春は、素知らぬ顔にもてなしつゝ
此家に勤め続けたり。人には奇癖のあるものにて、
此婦人太く
蜘蛛を恐れ、蜘蛛といふ名を聞きてだに、絶叫するほどなりければ、
況して
其物を見る時は、顔の色さへ
蒼ざめて死せるが
如くなりしとかや。
お村が
虐殺に遭ひしより、
七々日にあたる
夜半なりき。お春は
厠に
起出でつ、
帰には
寝惚けたる眼の
戸惑ひして、
彼血天井の部屋へ
入りにき。それと
遽に
心着けば、
天窓より爪先まで氷を浴ぶる心地して、歯の根も合はず
戦きつゝ、不気味に
堪へぬ顔を
擡げて、
手燭の影
幽に血の
足痕を
仰見る時しも、天井より糸を引きて
一疋の蜘蛛
垂下り、お春の頬に
取着くにぞ、あと叫びて
立竦める、
咽喉を伝ひ胸に入り、腹より
背に
這廻れば、声をも
得立てず身を
悶え
虚空を
掴みて
苦みしが、はたと
僵れて前後を失ひけり。
夜更の事とて
誰も知らず、
朝になりて
見着けたる、お春の
身体は冷たかりき、蜘蛛の
這へりし跡やらむ、縄にて
縊りし如く青き
条をぞ
画きし。
眼前お春が
最期を見てしより、旗野の神経
狂出し、あらぬことのみ口走りて、
一月余も悩みけるが、
一夜月の
明かなりしに、
外方に何やらむ姿ありて、旗野をおびき
出すが如く、
主人は
居室を
迷出でて、
漫ろに庭を


ひしが、恐しき声を発して、おのれ! といひさま刀を抜き、竹藪に
躍蒐りて、えいと
殺ぎたる竹の
切口、
斜に
尖れる
切先に
転べる胸を貫きて、其場に命を落せしとぞ。
仏家の因果は
是ならむかし。
旗野の主人果てて
後、
代を
襲ぐ子とても無かりければ、やがて
其家は
断絶にけり。
数歳の星霜を経て、今松川の塾となれるまで、
種々人の
住替りしが、
一月居しは皆無にて、多きも半月を過ぐるは無し。
甚だしきに到りては、
一夜を超えて引越せしもあり。松川
彼処に
住ひてより、別に
変りしこともなく、
二月余も
落着けるは、いと珍しきことなりと、
近隣の人は
噂せり。さりながらはじめの内は
十幾人の塾生ありて、
教場太く賑ひしも、
二人三人と去りて、
果は
一人もあらずなりて、
後にはたゞ
昼の
間通学生の来るのみにて、塾生は
我一人なりき。
前段
既に説けるが如く、予が此塾に入りたりしは、学問すべきためにはあらで、いかなる不思議のあらむかを
窺見むと思ひしなり。我には許せ。
性として奇怪なる事とし謂へば、見たさ、聞きたさに
堪へざれども、
固より頼む腕力ありて、
妖怪を退治せむとにはあらず、胸に
蓄ふる学識ありて、怪異を研究せむとにもあらず。俗に恐いもの見たさといふ
好事心のみなり。
さて松川に入塾して、
直ちに
不開室を探検せんとせしが、不開室は密閉したるが上に板戸を
釘付にしたれば開くこと無し。
僅に板戸の隙間より内の模様を窺ふに、畳二三十も敷かるべく、柱は
参差と
立ならべり。日中なれども
暗澹として日の光
幽に、陰々たる
中に
異形なる
雨漏の壁に染みたるが
仄見えて、鬼気人に
逼るの感あり。
即ち
隙見したる眼の無事なるを取柄にして、
何等の発見せし事なく、
踵を返して血天井を見る。こゝも用無き部屋なれば、掃除せしこともあらずと見えて、
塵埃床を埋め、
鼠の
糞梁に
堆く、障子
襖も
煤果てたり。そこぞと思ふ天井も、一面に黒み渡りて、
年経る血の痕の
何処か弁じがたし、
更科の月四角でもなかりけり、名所多くは失望の種となる。されどなほ余すところの竹藪あり、
蓋し土地の人は
八幡に比し、恐れて奥を探る者無く、見るから
物凄き
白日闇の別天地、お村の死骸も
其処に
埋めつと聞くほどに、うかとは足を
入難し、予は
先づ
支度に
取懸れり。
誰にか棄てられけむ、
一頭流浪の犬の、予が入塾の初より、
数々庭前に
入来り、そこはかと
餌を

るあり。予は少しく思ふよしあれば、其
頭を
撫で、
背を
摩りなどして
馴近け、
賄の幾分を
割きて与ふること
両三日、早くも我に
臣事して、犬は命令を聞くべくなれり。
四
水曜日は諸学校に授業あるに
関らず、私塾
大抵は休暇なり。予は
閑に乗じ、庭に
出でて
彼の竹藪に赴けり。
然るに
予てより
斥候の用に
充てむため
馴し
置きたる犬の
此時折よく
来りければ、
彼を真先に立たしめて予は
大胆にも藪に
入れり。
行くこと
未だ
幾干ならず、予に先むじて
駈込みたる犬は奥深く進みて見えずなりしが、
呀何事の
起りしぞ、
乳虎一声高く吠えて
藪中俄に
物騒がし、
其響に動揺せる
満藪の
竹葉相触れてざわ/\/\と
音したり。予はひやりとして
立停まりぬ。
稍ありて犬は奥より
駈来り、予が立てる前を
閃過して藪の
外へ
飛出だせり。其
剣幕に驚きまどひて予も
慌たゞしく
逃出だし、
只見れば犬は何やらむ口に
銜へて躍り狂ふ、こは怪し口に銜へたるは
一尾の
魚なり、そも何ぞと見むと欲して近寄れば、
獲物を奪ふとや思ひけむ、犬は
逸散に
逃去りぬ。予は
茫然として立ちたりけるが、想ふに藪の中に
住居へるは、狐か狸か其
類ならむ。
渠奴犬の為に
劫かされ、
近鄰より
盗来れる
午飯を奪はれしに
極まりたり、
然らば何ほどのことやある、と
爰に勇気を回復して再び藪に侵入せり。
畳翠滋蔓繁茂せる、竹と竹との隙間を行くは、
篠突く雨の間を
潜りて濡れまじとするの
難きに
肖たり。進退
頗る困難なるに、払ふ物無き
蜘蛛の巣は、前途を
羅して煙の
如し。
蛇も
閃きぬ、
蜥蜴も見えぬ、其他の
湿虫群をなして、
縦横交馳し奔走せる
状、
一眼見るだに胸悪きに、手足を
縛され衣服を
剥がれ若き
婦人の
肥肉を
酒塩に味付けられて、虫の膳部に
佳肴となりしお村が当時を
憶遣りて、予は思はずも
慄然たり。
こゝはや藪の中央ならむと
旧来し
方を
振返れば、真昼は藪に寸断されて点々星に
髣髴たり。なほ
何程の奥やあると、及び腰に
前途を
視む。
時其時、
玄々不可思議奇絶怪絶、
紅きものちらりと見えて、
背向の婦人
一人、我を去る十歩の内に、立ちしは夢か、幻か、我はた
現心になりて思はず
一歩引退れる、とたんに
此方を振返りし、
眼口鼻眉如何で見分けむ、
唯、丸顔の
真白き輪郭ぬつと
出でしと覚えしまで、予が絶叫せる声は
聞えで婦人が
言は耳に入りぬ、「こや人に
説ふ
勿れ、
妾が
此処にあることを」一種異様の語気音調、
耳朶にぶんと響き、脳にぐわら/\と
浸み
渡れば、
眼眩み、
心消え、気も
空になり足
漾ひ、魂ふら/\と抜出でて
藻脱となりし五尺の
殻の縁側まで逃げたるは、一秒を経ざる瞬間なりき。
腋下に
颯と冷汗流れて、
襦袢の
背はしとゞ濡れたり。
馳せて書斎に
引籠り机に身をば
投懸けてほつと
吐く息太く長く、
多時観念の
眼を閉ぢしが、「さても見まじきものを見たり」と声を
発して
呟きける。「忍ぶれど色に
出にけり我恋は」と謂ひしは
粋なる
物思ひ、予はまた野暮なる
物思に臆病の色
頬に出でて
蒼くなりつゝ
結ぼれ
返るを、物や思ふと松川はじめ通学生等に問はるゝ
度に、口の
端むず/\するまで
言出だしたさに
堪ざれども、怪しき婦人が予を
戒め、人に
勿謂ひそと謂へりしが
耳許に残り
居りて、
語出でむと欲する
都度、おのれ忘れしか、秘密を漏らさば、
活けては置かじと
囁く
様にて、心済まねば謂ひも出でず、もしそれ胸中の
疑
を吐きて智識の
教を
請けむには、
胸襟乃ち
春開けて臆病
疾に
癒えむと思へど、無形の
猿轡を
食まされて腹のふくるゝ苦しさよ、
斯くて幽玄の
裡に
数日を
閲せり。
一夕、松川の
誕辰なりとて奥座敷に予を招き、
杯盤を排し
酒肴を
薦む、
献酬数回予は酒といふ
大胆者に、幾分の力を得て
積日の屈託
稍散じぬ。
談話の
次手に松川が塾の荒涼たるを
歎ちしより、予は前日藪を
検せし
一切を物語らむと、「実は
······」と
僅に
言懸けける、
正に其時、
啾々たる女の
泣声、針の穴をも通らむず糸より細く聞えにき。予は
其を聞くと
整しく口をつぐみて
悄気返れば、
春雨恰も窓外に囁き至る、
瀟々の音に和し、
長吁短歎絶えてまた続く、婦人の
泣音怪むに堪へたり。
五
「あれは何が泣くのでせう」と松川に問へば苦い顔して、
談話を
傍へそらしたるにぞ
推しては問はで黙して
休めり。ために
折角の
酔は
醒めたれども、酔うて席に
堪へずといひなし、予は寝室に
退きつ。思へば
好事には泣くとぞ
謂ふなる
密閉室の一件が、今宵
誕辰の祝宴に
悠々歓を
尽すを
嫉み、不快なる声を発して
其快楽を乱せるならむか、あはれ
忌むべしと
夜着を
被りぬ。眼は眠れども
神は覚めたり。
寝られぬまゝに
夜は更けぬ。時計一点を聞きて
後、
漸く少しく
眠気ざし、精神
朦々として
我我を
弁ぜず、
所謂無現の
境にあり。
時に予が
寝ねたる
室の
襖の、スツとばかりに開く音せり。
否唯音のしたりと思へるのみ、別に
誰そやと問ひもせず、はた
起直りて見むともせず、うつら/\となし
居れり。
然るにまた畳を
摺来る
跫音聞えて、物あり、予が
枕頭に近寄る
気勢す、はてなと思ふ内に
引返せり。
少時してまた
来る、再び引返せり、三たびせり。
此に於て予は猛然と心覚めて、寝返りしつゝ
眼を

き、
不図一見して
蒼くなりぬ。予は
殆ど
絶せむとせり、そも何者の見えしとするぞ、雪もて築ける
裸体の
婦人、あるが
如く無きが如き
灯の蔭に
朦朧と乳房のあたりほの見えて描ける如く
彳めり。
予は叫ばむとするに声
出でず、
蹶起きて逃げむと
急るに、
磐石一座夜着を圧して、身動きさへも
得ならねば、我あることを気取らるまじと、
愚や
一縷の
鼻息だもせず、心中に仏の
御名を
唱へながら、
戦く手足は夜着を
煽りて、波の如くに揺らめいたり。
婦人は予を
凝視むるやらむ、一種の電気を
身体に感じて
一際毛穴の
弥立てる時、彼は得もいはれぬ声を
以て「藪にて見しは
此人なり、テモ暖かに寝たる事よ」と
呟けるが、まざ/\と
聞ゆるにぞ、気も魂も身に添はで、予は
一竦に縮みたり。
斯くて婦人が無体にも予が寝し
衾をかゝげつゝ、
衝と身を入るゝに絶叫して、
護謨球の如く
飛上り、
室の
外に
転出でて
畢生の力を
籠め、
艶魔を封ずるかの如く、襖を
圧へて立ちけるまでは、
自分なせし
業とは思はず、
祈念を
凝せる
神仏がしかなさしめしを信ずるなり。
寒さは寒し恐しさにがた/\
震[#「がた/\震」は底本では「がた/\震 ぶるひ」]少しも
止まず、
遂に
東雲まで
立竦みつ、
四辺のしらむに心を安んじ、圧へたる戸を引開くれば、
臥戸には
藻脱の殻のみ残りて我も婦人も見えざりけり。
其夜の感情、よく筆に写すを得ず、いかむとなれば予は余りの恐しさに前後忘却したればなり。
然らでも前日の竹藪以来、
怖気の
附きたる我なるに、
昨夜の怪異に
胆を消し、もはや
斯塾に
堪らずなりぬ。其日の
中に
逃帰らむかと
已に心を決せしが、さりとては余り
本意無し、
今夜一夜辛抱して、もし再び
昨夜の如く婦人の
来ることもあらば度胸を
据ゑて
其の容貌と
其姿態とを観察せむ、あはよくば勇を震ひて言葉を
交し試むべきなり。よしや執着の
留りて
怨を
後世に訴ふるとも、罪なき我を何かせむ、手にも立たざる幻影にさまで恐るゝことはあらじ、と白昼は
何人も
爾く英雄になるぞかし。
逢魔が
時の薄暗がりより
漸次に元気衰へつ、
夜に入りて雨の降り出づるに薄ら淋しくなり
増りぬ。
漫に
昨夜を
憶起して、
転た恐怖の念に
堪へず、斯くと知らば日の
中に辞して斯塾を去るべかりし、よしなき好奇心に駆られし身は臆病神の犠牲となれり。
只管洋灯を
明くする、これせめてもの
附元気、机の前に端坐して石の如くに身を固め、心細くも
唯一人更け行く鐘を数へつゝ「
早一時か」と呟く時、陰々として響き
来る、怨むが如き婦人の泣声、柱を
回り襖を
潜り、壁に
浸入る如くなり。
南無三膝を
立直し、立ちもやらず坐りも果てで、
魂宙に浮く
処に、沈んで聞こゆる婦人の声、「
山田山田」と我が名を呼ぶ、
呀と
頭を
掉傾け、聞けば聞くほど判然と
疑も無き我が名の山田「山田山田」と呼立つるが、囁く如く近くなり、叫ぶが如くまた遠くなる、南無阿弥陀仏コハ
堪らじ。
六
今はハヤ
須臾の
間も忍び
難し、臆病者と笑はば笑へ、恥も外聞も
要らばこそ、予は
慌しく書斎を出でて奥座敷の
方に
駈行きぬ。
蓋し松川の
臥戸に身を投じて、味方を得ばやと
欲ひしなり。
既にして、松川が
閨に到れば、こはそもいかに
彼の
泣声は
正に
此室の
裡よりす、予は
入るにも
入られず
愕然として
襖の外に
戦きながら
突立てり。
然るに松川は
未だ眠らでぞある。
鬱し
怒れる音調
以て、「
愛想の
尽きた
獣だな、
汝、
苟くも諸生を教へる松川の妹でありながら、十二にもなつて何の事だ、
何うしたらまたそんなに学校が
嫌なのだ。これまで
幾度と数知れず
根競と思つて意見をしても少しも
料簡が直らない、道で遊んで居ては人眼に立つと思ふかして途方も無い学校へ行くてつちやあ
家を出て、
此頃は庭の竹藪に隠れて居る。
此間見着けた時には、腹は立たないで涙が出たぞ」と
切歯をなして
憤る。
傍より老いたる
婦人の声として「これお
長、
母様のいふ事も
兄様のおつしやる事もお前は
合点が
行かないかい、
狂気の
様な娘を持つた
私や
何といふ因果であらうね。
其癖、犬に吠えられた時、お弁当のお
菜を
遣つて
口塞をした気転なんぞ、
満更の馬鹿でも無いに」と
愚痴を
零す
[#ルビの「こぼ(す)」は底本では「にぼ(す)」]は母親ならむ。
松川は腹立たしげに「
其が馬鹿智慧と謂ふもんだ、馬鹿に
小才のあるのはまるつきりの馬鹿よりなほ
不可い。
彼の時藪の中から
引摺出して押入の中へ入れて置くと、死ぬ様な声を出して泣くもんだから
||何時だつけ、むゝ俺が誕生の晩だ
||山田に何が泣いてるのだと問はれて冷汗を
掻いたぞ。貴様が法外な
白痴だから
己に妹があると謂ふことは人に
秘して
居る
位、山田の知らないのも
道理だが、これ/\で意見をするとは恥かしくつて言はれもしない。それでも親の慈悲や兄の
情で
何うかして学校へも
行く様に真人間にして
遣りたいと思へばこそ
性懲を
附けよう為に、
昨夜だつて
左様だ、一晩裸にして
夜着も
被せずに
打棄つて置いたのだ。すると何うだ、
己にお
謝罪をすれば
未しも
可愛気があるけれど、いくら寒いたつて
余りな、山田の寝床へ
潜込みに
行きをつた。
彼が
妖怪と思違ひをして居るのも
否とは謂はれぬ。妖怪より
余程怖い馬鹿だもの、今夜はもう意見をするんぢやあないから
謝罪たつて承知はしない、
撲殺すのだから左様思へ」と
笞の音ひうと鳴りて肉を
鞭つ
響せり。
女はひい/\と泣きながら、「姉様
謝罪をして頂戴よう、あいたゝ、姉様よう」と、
哀なる声にて
助を呼ぶ。
今姉さんと呼ばれしは松川の細君なり。「これまで幾度謝罪をして
進げましても、お前様の料簡が直らないから、もうもう何と謂つたつて
御肯入れなさらない、
妾が謂つたつて
所詮駄目です、あゝ、余り
酷うございますよ。少し
御手柔に遊ばせ、あれ/\それぢやあ
真個に死んでしまひますわね、母様、もし旦那つてば、御二人で御折檻なさるから
仕様が無い、えゝ
何うせうね、
一寸来て
下さい」と声震はし「山田さん、山田さん」我を呼びしは、さては
是か。