1
赤沢博士の経営する空気工場は海抜一千三百メートルの高原にある
ずいぶん永いことになるので、多分もう誰も生きていないだろうと云われているが、ここに一つの不思議な噂があった。それは彼の雇人が失踪する日には、必ず強い西風が吹くというのである、だから雇人たちは、西風を極度に恐れた。
丁度この話の始まる日も、晩秋の高原一帯に風速十メートル内外の大西風が吹き始めたから、雇人たちは、
後に残されたのは、工場主の赤沢博士と、
青谷技師も午後八時にはいつものように、トラックを運転して帰っていった。赤沢博士の自室には、まだ永く灯りがついていた。しかし十時半になると、その灯りも消えて、本館の方は全く暗闇の中に沈んでしまった。門衛も小屋の中に
その夜も余程更けた。
この空気工場から国道を西へ一キロメートルばかり行ったところに、例の
丁度午後十一時半を打ったときに交番の前を、工夫体の一人の男がトコトコと来かかった。彼の男は、立番の巡査の姿を認めると足早やにスタスタと通りすぎようとした。
「コラ、待てッ||」
と巡査は叫んで、怪漢めがけて駆けだした。
長身の痩せ型の男は、巡査の
「お前は今ごろ何処へゆくのか。ちょっと交番まで一緒に来い」
男は素直に腕を取られたまま、駐在所の方へ引張られた。巡査は帽子の下から光る一癖ありげな怪漢の眼から視線を
血! 血!
怪漢の帽子といわず、
「神妙にしろッ。この人殺し奴!」
腕力に秀でた巡査は、怪漢の手を逆にねじあげると、
「乱暴をするな、なぜ縛るんだ」
と怪漢は眉をピリピリ動かして云った。
「白っぱくれるな。なぜ縛られるんだか、云うよりも見るが早いだろう」
そういった巡査は、壁の鏡を外すと、見えるようにその怪漢の前に差出した。怪漢はハッと顔色をかえて、唇を噛んだ。
大獲物だった。西風の夜のこの獲物は、
かの巡査は、だんだん、昂奮してくる自分自身を感じながら、所轄のK町警察署へ、深夜の非常電話のベルを鳴らした。
2
殺人鬼捕わる!
庄内村はひっくりかえるような騒ぎだった。中にも一番
丘署長は、リューマチの気味で痛い
正面の本館というのを入って、応接室に待っていると、そこへ二人の人物が入ってきた。
「やあ、これはどうも······」
と、先に立った
「私が技師の青谷二郎です。||」
続いて後に立っていたのが、こんな風に名乗りをあげたが、これは工場主とはちがって、すこし
「一体どうしたのかネ」と署長は無遠慮な声を出した。
「こう再三失踪者を出すということについては、君の責任を問わにゃならん」
そういわれた赤沢博士は、眼玉をギョロつかせて署長を
「三年来の失踪者が判らんのでは、わし達も警察の存在を疑いたくなりますよ。早く家内を探し出して下さい」
青谷技師は、その後方で一人気をもんでいる様子だった。
署長は「では何もかも言うのですぞ」と
「わしは昨夜十時頃まで工場にいました」と博士は口だけを動かした。「わしは調べものがあったから、本館二階の自室で読書をしていたのです。十時を打ったので灯を消し、本館を出て、別館へ帰りました。そこはわしと家内との
「君は夫人がどうしていると思っていたのか」
と丘署長が尋ねた。
「はい、多分ベッドに寝ていることと思いました。しかしベッドはキチンとしていまして別に入った様子もありません」
「灯りは
「いいえ、点いていませんでした」
「お手伝いさんかなんかは居ないのかネ」
「一人いたのですが、前々日に親類に不幸があるというので、暇を取って
「何という名かネ。もっと
「峰花子といいます。別に特徴もありませんが、この
「君は夜中に夫人の失踪に気付きながら、なぜ人を呼ばなかったのだ」
「わしは青谷技師以外の[#「以外の」は底本では「意外の」]者を頼みにしていません。それでこれを呼びたかったのですが、技師の家は湖水の南岸を一キロあまり、つまり
丘署長はフーンと大きな息をして、赤沢博士の顔を見つめていたが、今度は青谷技師のほうへ向き直った。
「君は昨日、何時ごろ帰っていったのかネ」
「八時ごろです」
「トラックに乗ってかネ」
「そうです」
「どこかへ寄ったかネ」
「どこへも寄りません。家へ
「夫人の失踪について心あたりは?」
「一向にありません」
署長はジッと青谷技師を見下ろしていたが、
「君は昨日からその靴を履いていたのかネ」といった。その靴には、生々しい赤土がついていた。この辺には珍らしい土だった。
「はあ······今朝工場の内外を探しに廻りましたので······」
丘署長はそれから二人に案内させて、工場内の主なる室を案内させた。大きな機械のある仕事場も動力室も
「どうも相変らず工場の方は苦が手だ」と署長は痛む腰骨を叩きながら云った。これは帰って、昨夜捕えた血まみれ男を調べる方が
一行は自動車で引揚げていった。
3
「村尾某の陳述||」
と冒頭して鉛筆で乱雑に書きならべてある警察手帖をソッと開きながら、署長席の廻転椅子にお尻を
「村尾六蔵、三十歳か、なるほど······中々面白い名前をつけたものだ。さてその日の足取りは······まず第一が······」
こんな風に、ゆっくり読みかえしてゆく丘署長の遅いスピードにはとてもついてゆけないから次にその要点を述べる。血まみれの怪漢のこの足取り陳述の中には、この事件を解く重大な鍵が秘められてあったことは、後に至って思い合わされたことだった。
(一)村尾某は
(二)午後七時半ごろ、かなり湖水近くまで来たと思ったときに、一つの墓地に迷いこんだ。そこには、真新しい
(三)墓の側にはトラックの跡がついていたので、それについて行けば本道に出るだろうと思って
(四)湖水を渡るつもりで舟を探したところ小さいのが一
(五)湖尻に上ったのが十時半ごろだった。空気工場の横を通ったがなんだか辺に白いものが見えるので、懐中電灯で照らしてみると、構内に気球が三個、巨体を地上の
(六)それから工場を後にし、大西ヶ原を横断して、庄内村の家つづきまで来たところで、駐在所の巡査に捕えられたこと。
「······なるほど、こいつは面白い」
と署長は一人で
「なにが面白いものか」
と署長の頭の上で、
「手帖を
「オイ貴様、
田熊は咳払いと共に向うへスタスタ歩いていった。
「どうも
と署長は、周到に手帖を畳んで
「報告に参りました」
「ああ、君か。いや御苦労だった。あれはどうだったネ」
その巡査は、署長の命令によって、今朝から
「御命令によりまして、第一に空気工場へ参りました。午前八時でしたが、気球は地面に四基だけ結んでありました」
「四個?」署長は手帖を拡げて首をかしげた。
「陳述によると、懐中電灯ニヨリ三個ノ気球ヲ認メタ||とある。すると君の報告の方が一つ多いね」
署長は鉛筆を
「第二の、
「舟が見当らぬ? そうか。湖水の中を探ってみるんだネ」
「それからトラックの跡で、墓場から青谷二郎の家までついていたという話でしたが、これはハッキリ見えませんでした。誰かが
「フン、フン」と署長はまた手帖へ書きこんで「それからあと、どうした」
「次は新仏のことですが、あれは確かにございました。
「ホホウ、そうか」と署長はまた鉛筆を嘗めた。「その次は······」
「もうそれきりです」
「うん、これは御苦労だった。では適宜に引取ってよろしい」
巡査は署長の方へ向いてペコンとお辞儀した後、側を向いてもう一つお辞儀をし、廻れ右をして帰っていった。
「さあ、これだけ材料が揃えば、まずわしの面目も立つというものだ」
と署長は呟いた。途端にその背後で例のエヘンという咳払いが聞えたので、署長は急に
「なんじゃ、これは一体」
とベタ一面に鉛筆を走らせた
「こんなまどろこしいことはやめろ。これでは殺人事件は何年たっても解けないぞ。号外だって
田熊は云うだけのことを云うと、またスタスタと向うへ行った。
「智恵のない奴は、哀れなものだ」そう云ってニッと意味深い笑いを浮べた署長は、また村尾某の陳述書を読みだしたが、
「そうそうこれを頼まれていた」
彼は電話機をひきよせると、番号を云ってK町の測候所を呼び出した。
「ああ、こっちはK署ですが。あのウ、右足湖を中心とする一帯の風速と風向きとを伺いたいのですが、昨夕から今朝にかけてです。······なるほど、······なるほど」としきりに感心していたが「そうですか、昨夜九時半ごろまでは西風、そこで風向きが一変して南西風に変った。ああそうですか」
署長はまた何やら手帖の中に丹念に書こんだ。それから立ち上ると側の主任に自動車を命じた。
「わしは一寸庄内まで行って、村尾某に会って、それから都合によって、空気工場へ廻るぞ」といって出かけた。
後で署員たちは、あの老衰署長が、こんどに限って、どうしてあのように威勢がよかったり、味な調べ方をやるのか不思議がった。
4
気短の田熊社長は、彼の社長室の床をドンドン踏み鳴らしていた。彼の脚のすぐそばには、
「オイ何時まで
「もう直ぐです······」
丁度いい塩梅に、そのとき工事が完成した。工夫は受話器に耳を懸けて、ラジオのような器械の目盛盤をいじっていたが、やがてニッコリ笑うと、受話器を外して社長へ
「これで聞えるのだナ。よオし、皆はやく部屋を出てゆけッ」
一同は足を宙に浮かせて、室を出ていった。
「さあ、これでアノ庄内村の調室の模様がすっかり
間もなく、待ちに待った調べ室の会話が、低音ながら聞えてきた。
(どうも失礼しました)と聞きなれぬ声がした。
(いえ、なに······)といったのは、どうやら丘署長らしい。
(······そんな訳ですから······)と始めの声が伝った。
なんでも前からの話の続きらしい。(私の推理はですナ、九分どおり実証の上に立っているのですが、惜しいかな後の一分のところが解らないために、結局仮定を出でないのです。その不満足なままで申上げますと、さっきも説明しましたとおり、犯人はその夜強い西風が吹くということを確めた上で、かの粉砕した屍体を
田熊社長は、右足湖の位置の話がでたので
(······この右足湖の縦の中心線が、正しく東西に走っていることからして、気球を湖水の真中に掲げるには、西風の吹く日を選ぶより外に仕方がなかったのです。さてそれから、程よいところで、彼の犯人は灰のようになった人体の粉末を、気球の上から湖上に向って撒いたのです。西風にしたがって、この人間灰は水面に落ちますが、今申したように気球は中心線上にいるので、灰が多少南北に拡がっても、また東に流れても、うまく湖面の中に落ち、陸地には落ちないのです。
(なるほど、これア卓越した方法ですネ)
と丘署長の声が感嘆した。
(この方法で、六人の犠牲者はうまく片づけられたのです。当夜強い西風が吹いていたことは、署長のお持ちになった測候所の風速及び風向きの報告で証明されます。七人目の犠牲者も、同様に気球に載せられ天空高く揚げられたのでした。そして同様にして粉砕屍体は気球の上から湖面へ向けて撒かれたのです。しかし前の六回のときとは違って、二つばかりの誤算が入ってきました。それは犯人のために、実に不幸な出来ごとでありました。
二つの誤算||その一つは、撒いているうちに、それまで吹いていた西風が急に向きを南西に変えたことです。それがためどんなことが起ったかと云いますと、今まで真東へ飛んでいた人間灰は改めて北東へ流され、遂にその一部は、右足湖の北岸に墜落したのです。ごらんなさい。この壜に入っている異様な赤黒い物こそ、今日私が北岸へでかけて採集してきた七人目の犠牲者の
田熊社長は、電話で話は盗めても、その
(もう一つの誤算は······)と例の声は云ったが、そのとき思いがけない「
田熊社長は、惜しいところで盗聴器が聞えなくなったので、顔を真赤にして口惜がった。すぐさま、再び工夫を呼んで直させたが、五分ばかりして彼等は、
「社長さん、もういけません。向うの方で秘密送話器を切ってしまいました。この方法じゃ盗み聴きはもう駄目です」
社長は万事を悟って、苦が笑いをした。
「じゃこれから、空気工場へ出かける」
道々田熊社長は腕組をしながら、あの盗聴から得たさまざまの興味ある疑問について考えた。
「丘署長と、話をしていたのは一体誰だろう。大分腕利きらしいが、あんな男がK署に
どう考えても、そんな気の利いた人物は考え出せなかった。その疑問は
「話によると、どうやら犠牲者の屍体を粉々に砕いて、気球の上から撒くいう仮定を考えているようじゃったが、一体そんなことは出来るのかしら?」
人間の死体をバラバラにした事件や、またコマ切れにした事件というのは聞いたことがあるがこの話のように、吹けば飛ぶ位のメリケン粉か灰のようにするという事件は
「||うん、これだナ」
と田熊社長は手を打った。あの男が、九分までは解けたが、一分だけ解けぬ問題があるといったのは、このことだと気がついた。あの男にも、どうして人間灰が出来るか、それが判っていないのだ。そう
「それから、もう一つ電話を切られたところで、||二つの誤算のうち、一つは西風が途端に南西風に変ったという話だったが、もう一つの誤算は······というところで話が切れた。あれは一体どんなことを云うつもりだったろう?」
||こいつも考えたが判らない。しかしこの方は、何だかモヤモヤと明るいとでも云ったように、なんだか大変判りそうであった。なんだか既に気がついていることがらの癖に、そいつが一寸胴忘れをして思い出せないという形だった。そのうちに彼の乗った自動車は空気工場の前に来ていた。
5
彼は車を降りると、門を入り、玄関からズカズカ中へ入っていった。いつも行きつけているので、玄関脇の大きな応接室へ飛び込むと、そこには一隊の警察官を率いた先客の丘署長が居て、
「いよオ||」と社長は一と声かけた。「いかんじゃないか。折角ひとが聴いとるものを途中で切ってしまうなんて男らしくないぞ」
また
そこへ工場主の赤沢金弥と、青谷技師とが入ってきた。
「やあ、これは······」
と赤沢氏は、元気のない声で署長に挨拶をした。
「署長さんが必ずここへお出でになると思っていましたよ」
と、青谷技師の方は愛想よく云った。
「今日は実は······」と署長は苦が手の方を気にしながら、来意を述べにかかった。「液体空気を一壜貰いにやってきたのです」
赤沢氏はますます泣き出しそうになりながら、幾度も
「丘さん」と署長の方に向いた、「どうですか、あの事件は。どの位お判りになりましたナ」とオズオズ尋ねた。
「いや、奥さんの敵は、もうすぐ
「ああ、そうですか、」と工場主はブルブル
「それはまだ
「オイ出鱈目もいい加減にせんか」と社長がのさばり出た。
「このボンクラ署長に何が判っているものか。誰かに散々教授をうけていたくせに。つまらんことを
それを見ていた青谷技師は笑いながら、署長たちを工場の方へ誘った。
工場はたいへん広く、器械は巨人の家の道具のように大きかった。強力なる圧搾器でもって空気を圧し、パイプとチェンバーの間を何遍も通していると、装置の一隅から、美しい空色の液体空気が、ほの白い蒸気をあげながら
一方では、液体空気をボイラーに入れて、微熱を加えてゆくと、別々のパイプから、酸素ガスやネオンやアルゴンなどの高価なガスがドンドン出てきて、圧力計の針を動かしながら
工場はあまりに広すぎた。署長の腰骨が他人のものとしか考えられなくなった頃、液体空気貯蔵室へ来た。
「君は幽霊じゃあるまいな」と早や道をしてその室に待っていた田熊社長が署長の顔を見ると皮肉を飛ばした。
「わしはもう
丘署長はやりかえしたいのを、青谷技師の前だというので、懸命に我慢をした。
「さあ、液体空気を
「それから
青谷技師は、側の棚から、大きい二重
「どうです、綺麗なものでしょう。
丘署長も田熊氏も感心して
「なにしろこの液体空気は氷点下百九十度という冷寒なものですから、これに
技師は赤い林檎を箸の先に突きさして、液体空気の中にズブリと漬けた。ミシミシという音がして、液体空気が
「さあこの冷え切った林檎は、相当堅くなりましたよ。小さい釘ぐらいなら、この林檎を
技師は小さな釘をみつけて、台の上につきさすと、その頭を凍った林檎で槌がわりにコンコンと叩いた。釘は案にたがわず、打たれるたびに台の中へめりこんでいった。見物の一同は、
「さあそこで、こんな堅い林檎ですが、これが如何に
そういって技師はハンマーをとると、台上の冷凍林檎を
「エエイッ」
ポカーンと音がして、ハンマーは見事に林檎を打ち砕いた。あーら不思議、林檎はグチャリとなるかと思いの外、一陣の赤白い霧となって四方に飛び散り跡片もなくなった!
6
「林檎が消え失せた!」
と署長が叫んだ。
「イヤ今に見えてきます。ほら、この台の上をごらんなさい。赤い灰のようなものが、だんだん
丘署長はこのとき棒のように突っ立った。
「ああ判ったぞ。ああ、判ったぞ」
彼は胸を
「ああ、
そう署長が叫んだとき、卓上の電話がチリンチリンと鳴った。青谷技師がそれを取上げようとするのを、
「モシモシ。誰か来て下さい」
と、上ずった悲鳴が聞えた。
「君は誰だ。名乗り給え」
「ああ、近づいて来る。妻の幽霊だ。助けて
異様な叫びと共に、電話は切れた、署長の顔は、赤くなったり
「赤沢氏が幽霊に襲われ、救いを求めている。赤沢氏の室へ案内し給え、早く早く」
「えッ、先生がッ。||」
青谷技師を
扉を開いてみると、居ると思った筈の、赤沢博士の姿はどこにも見えなかった。しかし受話器の
一同は顔を見合わせて、沈黙した。
「オイしっかりしろ署長」と田熊社長が叫んだ。「なんか変な音がするじゃないか」
「変な音?」
なるほどどこやらから、ピシピシプツプツと、異様な音響が聴えてくるのであった。
「うん、見付けたぞ」
青谷技師が室の一隅へ飛びこんで行った。そこには青いカーテンが掛けてあった。技師はカーテンをサッと引いた。すると衣装室と見えたカーテンの蔭には、洋服は一着もなかった代りに、白いタンクが現れた。そこにある一つのハンドルに飛びついて、それをグングン右へ廻した。
「それは何だ」と署長が叫んだ。
「これは液体空気のタンクです」と技師は云って、一同の方へ
「ナニ、生命がないとは······」
恐いもの見たさに、一同は首を伸べて、大机の後方を
「いま明けてみますから······」
青谷技師は
「これは面白いことになってきた」K新報社長は
丘署長は、この激しい
「さあもう欺されんぞ。君を殺人犯の容疑者として逮捕する!」
「これは怪しからん」
青谷技師は激しく抵抗したが、署長の忠実なる部下の腕力のために
「おうおう、派手なことをやったな。但し君はまさか気が変になったんじゃなかろうネ」とK新報社長がやっと一と声あげた。
丘署長はそれに構わず、技師を引立てた。
「署長さん||」と青谷は
「理由?||それは調室へ行ってから、こっちで言わせてやるよ」
7
青谷技師は調室の真中に引きだされ、署長以下の
「······判らなきゃ、こっちで言ってやる」と署長は卓を叩いた。「これは簡単な問題じゃないか。あの特別研究室に入るのは、博士と君だけだ。床をドンデン返しにして置いて、その下へ西洋浴槽のようなものを
「署長さん、それは貴下の
「ウン、まだそんなことを云うか。······夫人殺害のことでも、君のやったことはよく判っているぞ。君はあの夜八時に帰ったということだが、それは確かとしても、工場の門は一度六時に出ているじゃないか。わしが知るまいと思ってもこれは門衛が証明している。そうしたと思ったら、忘れ物をしたというので、七時半ごろ再びトラックに乗って引返してきた。そしてまた八時ごろになって、本当に帰ってしまった。君が引返してきたときには、工場の中には自室で読書に夢中の博士と、別館には婦人が居ることだけで外に誰も居ないと知っていたのだ。そして約三十分の間に、実に器用な夫人殺害と、屍体の空中
「それはこじつけです。私はそんなことをしません」
「夫人を殺害しないと云っても、それを証明することができんじゃないか。君に味方するものはおらん」
「そんなに云うなら、私は云いたいことがあります。これは貴下の恥になると思って云わなかったことですが······」
「ナニ恥とは何だ」署長は眼の色を変えた。
「恥に違いありませんよ。貴下方はあの晩湖水の上空から撒かれた人間灰が、珠江夫人のだと思いこんでいるようですが、それは大間違いですよ。湖畔で採取した人肉の
「ウム。||」
署長はその瞬間フラフラと、脳貧血に
「どうです署長さん」なおも青谷は
そのとき、背面の扉がバタンと明いた。そして青谷の知らない男の声がした。
「怪しいとは僕のことですか」
ヌックリと青谷の前に立ったのは、長身の
「僕こそ無罪ですよ。署長さんの云ったように貴下には手錠が懸るのが本当です。しかしすこし事実の違っている点がありましたから、訂正して置きましょう。この話の方が青谷君の
「君は誰です?」
「私ですか。人間灰が湖上へ降り注いでいる真下を舟で渡った男です。やがて帽子から顔から肩先から、
髭男はニヤリと笑った。
「全くお気の毒でしたネ。人肉散華から再び帰って、貴下は土饅頭を作り、トラックの跡を消したが、それはもう遅すぎました。なぜこんなことをやったか。貴下はその夜かねての手筈で夫人に姿を隠させて、
「なぜ大不利か? 手錠をかけられていることが永いほど、純潔らしい貴下の顔形が曇ってゆくからです。これまで六回に亘って貴下が犯してきた変態殺人がそのまま露見せずに終るとは貴下も考えないでしょう。貴下は全く許すべからざる趣味の人です。貴下は神を忘れている。科学者が神を忘れたときは、いつまでも貴下のようになりやすいものです。こうしているうちにも、湖底に
一座の駭きの中に、青谷は眼を閉じた。しかし暫くするとまた頭を上げて云った。
「すると貴下は一体誰ですか」
「僕ですか」と髭男が云った。「僕はこの右足湖畔の怪を調べるために、東京から派遣されたこういう者です。犯人を捜す
そういって、青谷技師の手錠の上へ一枚の名刺を置いた。それには「私立探偵