1
真夜中に、第九工場の
大鉄骨が、キーッと声を立てて泣く
|| という噂が、チラリと、
わしの耳に、入った。
「そんな、
莫迦な話が、あるもんか!」
わしは、検査ハンマーを振る手を停めて、カラカラと笑った。
「そう笑いなさるけどナ、組長さん」その噂を持ってきた職工は、
慄えた眼を、
わしの方に向けて云った。「昨夜のことなんだよ、それは
······。火の番の、
常爺が、両方の耳で、たしかに、そいつを聴いたよッて、
蒼い顔をして、
此の
おいらに話したんだ。
満更、
偽りを云っているんだたァ、思えねぇ」
いつの間にか、わし達の
周りには、大勢の職工が、集ってきた。
「組長さん、それァ本当なんだ」別の声が叫んだ。
「なんだとォ
||」おれは、その声のする方を見た。「
てめえは、
雲的だな。雲的ともあろうものが、
軽卒なことを
喋って、後で
笑れンな」
「大丈夫ですよ
||」
雲的は大いに自信ありげに、言葉をかえした。「それについちゃ、ちィっとばかり、
手前の恥も、
曝けださにゃならねえが、もう五日ほど前のことでさァ。
徹夜勝負のそれが、十二時を過ぎたばかりに、スッカラカンでヨ、場に貸してやろうてえ親切者もなしサ、やむなく、工場の
宿直、たあさんのところへ、真夜中というのに、
無心に来たというわけ。さ、その無心を
叶えて貰っての帰りさ、通り
懸ったのが今話しの第九工場の横手。だしぬけに、キーイッという
軋るような物音を聴いた。(オヤ、何処だろう)と、
あっしは
立停った。
暫くは、何にも音がしねえ。(
空耳かな?)と思って、歩きだそうとすると、そこへ、キーイッとな、又聞えたじゃねえか。物音のする場所は、たしかに判った。第九工場の内部からだッ。(何の音だろう?
夜業をやってんのかな)そう思ったので
あっしは、顔をあげて、
硝子の貼ってある工場の高窓を見上げたんだが、内部は
真暗と見えて、なんの光もうつらない。(こりゃ、変だ!)
俄に背筋が、ゾクゾクと寒くなってきた。そこへ又その怪しい物音が
······。
恐いとなると、
尚聴きたい。重い
鉄扉に
耳朶をおっつけて、
あっしァ、たしかに聴いた。キーイッ、カンカンカン、硬い金属が、
軋み合い、噛み合うような、鋭い悲鳴だった」
「大方、工場に、
鼠が暴れてるんだろう」
わしは、不機嫌に云い放った。
「どうして、組長!」
雲的はハッキリ
軽蔑の色を見せて、叫びかえした。「
あっしにァ、あの物音が、どこから起るのか、ちゃんと見当がついてるのでサ」
「ンじゃ、早く
喋れッてことよ」
「こう、みんなも聴けよ」彼は、
周囲の
南瓜面を、ずーッと
睨めまわした。「ありゃナ、クレーンが、動いている音さ!」
「なに、クレーンが

」
一同が、思わず声を合わせて、叫んだ。
クレーンというのは、
格納庫のように巨大な、あの第九工場の内部へ入って、高さが百尺近い天井を見上げると判るのだが、そこには
逞しい鉄骨で組立てられた大きな
橋梁のような形の
起重車が、南北の方向に渡しかけられている。それが、クレーンだった。その橋梁の下には、重い物体をひっかける
化物のように
でっかい鈎が、太い
撚り
鋼線で
吊ってあり、また橋梁の
一隅には、
鉄板で囲った小屋が
載っていて、その中には、このクレーンを動かすモートルと其の制動機とが
据えてあった。制動機を動かすと、この鉄橋は、あたかも川の中で
箸を横に流すように、広い第九工場の
東端から
西端まで、ゴーッと音をたてて横に動くのだった。
「おい、
政ッ!」
わしは、クレーンの運転手をやっている男を、人垣の中に呼んだ。
「へえ
||」政は、紙のように、白い顔をして、おずおずと、前へ出てきた。
「クレーンが、真夜中に動き出すてのは、本当かな」
「わたしは、ナなんにも、
存じませんです。しかし、クレーンのスウィッチは、必ず切って帰りますで、真夜中に、ヒョロヒョロ動き出すなんて、そんな妙なことが
······」
そこまで云った政は、
発作みたいな様子となり、言葉のあとをブツブツ口の中で
呟いて、それから急に気がついたかのように、ワナワナ慄える両手を、
周章てて背後に隠したのだった。
「よォし。今夜は、一つ
正体を確かめてやろう。いいか、みんな夜中の十二時を廻ったら、裏門前に集るんだ!」
2
合宿所の、三階の、廊下を、パタパタと音をさせて、近づいてくる
跫音があった。
「組長さん、おいでですか
||」
その跫音は、「
舎監居間」と書いた
木札を、釘で打ちつけてある
わしの室の入口の前で停るが早いか、そう、声をかけたのだった。
「おう。誰かい」
「
栗原です。
倉庫係の栗原ですて」
「栗原? 栗原が、なんの用だッ」
「へえ、ちょっと工場の用なんで
······」
「なにッ。工場の用て、どんなことだか云ってみろ」
「へえ、実は
||」栗原は、言い
淀んでいる風だった。「
先日お持ちになりました
乙型スウィッチが、急に入用になりましたんで、いただきに参ったんですが
······」
「スウィッチなんか、明日にしろ」
「ところが
生憎、工場で至急使うことになったんで、直ぐ持って行かないと困るんでして、実にその
······」
「よォし、いま入口を開けるから、ちょっと待て」
暫くして、
わしは、入口の
扉を、サッと開けた。
「どうも
相済みません」栗原は、
わしの顔を見るなり、ペコリと頭を下げた。
「お前、この間、そう云ったじゃねえか。このスウィッチは、
当分不用だから、いつまでもお使いなさい、とな」
「申訳がありませんです」栗原は、ひどく
恐縮している
態で、ペコペコ頭を下げた。「組長さんは、スウィッチの図面を書きたいから御持ちになるというので、そんな簡単な御用ならと、栗原は帳簿に書かないで、御貸ししたんです。ところが、今急に、
拡張工事係の方から、
在庫になっている
乙型スウィッチは全部数を揃えて出せという命令なんで。どうも
已むを得ず、ソノ
······」
「文句はいいや。さア、早く持ってゆけ」
わしは、
抱えていた乙型スウィッチを、彼の前に、さしだした。
乙型スウィッチというのは、長さ一尺五寸、
幅七寸の、細長い
木箱に収められた大きなスウィッチで、
硝子蓋を開くと、
大理石の
底盤の上に幅の広い
銅リボンでできた電気
断続用の
刃がテカテカ光り、エボナイト製の、しっかりした
把手がついていた。このスウィッチ一つで、
鳥渡したモートルの開閉は充分できるのであった。
「栗原さん、俺が持ってゆくよ」
横の方から、思いがけない、違った声がして、
頭髪をモシャモシャにした若い男が、姿を現した。
「だッ、誰だ。
手前は
······」
わしは、戸口の蔭から、イキナリ飛び出した男に、
駭いた。
「こいつは、
横瀬といいましてネ」若い男の代りに栗原が弁解した。「この栗原の
遠縁のものです」
「何故ひっぱってきたんだ」
「いまお願いして、倉庫で、私の下を働かせて、いただいてるのです。というのは、
下町の
薬種屋で働いていたのが、
馘首になりましてナ、栗原のところへ、
転りこんできたのです」
「ふウん、お前さん、薬屋かア」
珍らしそうに、スウィッチの表や裏を、眺めている若い男に、
わしは、声をかけた。
「薬屋だったんです」その横瀬は、ぶっきら棒の返事をした。
「どうだろうな。
わしは、お前さんに、ちょっと頼みたいことがあるんだが」
「骨の折れねえことなら、手伝いますよ」
「これッ
||」栗原が
駭いて、横瀬の汚い職工服を、ひっぱった。
「骨は折れねえことだ。じゃ、栗原、お前の若い衆を、ちょいと借りたぜ」
「へえ、ようがす」
栗原は、若い横瀬から、スウィッチの箱をうけとると一人で帰って行ったのだった。
「さあ、こっちへ、入んねえ」
「はあ
||」
「
わしは、
鳥渡、お前さんに、見て貰いてえものがあるんだ」
「俺に、判るかなァ」
「
ものは、これなんだ」
わしは、机の
抽斗しの奥から、新聞紙にくるんだものを、出してきた。
「この
硝子で出来たものはなんだね」
わしは、それを横瀬に手渡した。
「これは、注射器の一部分ですよ」
「注射器? そうだろうな、
わしも、そう思った。それで、何の注射器か、お前さんに判らないかい」
「さァ
||」横瀬は、モシャモシャ
頭髪を、指でゴシゴシ
掻いた。「注射器は判るが、
尖端についている針が無いから、
見当がつかねえ」
「じゃ、
此処んとこを見て呉れ。この注射器の底に、ほんのり茶っぽいものが附いているが、これは、なんて薬かい」
「うん、なんか附いてはいるが
||」若い男は注射器を、明り窓の方に
透かして、その茶色の
汚点に眺め入った。「電灯は
点きませんか」
「
生憎、この合宿じゃ、六時にならないと、点かないんだ。まだ三十分も間があるよ」
初夏の夕方は、五時半を廻っても、まだ大分明るかった。
「さあ、わかりませんね。こんなに分量が少くちゃ見当がつかない。薬品のようでもあり、
血痕のようでもあり
······」
わしは、グッと
唾を呑みこんだ。
「もう一つ、見て貰いたいものがある」
わしは、新聞紙包みの中から、もう一つの品物をとりだした。「これは何かね」
「こんなもの、どっから持って来たんです」横瀬は、ピカピカ光る、その外科道具のようなものを手に取上げ、ニヤニヤ笑いだした。
「何に使う品物かね」
わしは、横瀬の質問には答えようとせず、同じことを、聞きかえしたのだった。
「一口に云えば
||」と、
わしの顔をジロリと見て、「
子宮鏡という、産婦人科の道具だね」
「よし、判った」
わしは、ピカピカするそれを、横瀬の手から、ひったくるようにして、元の新聞紙の中に、包んでしまった。
「いや、御苦労だった」と、
わしは
挨拶をした。「ところで、もう一つだけ、お前さんに見て貰いたいものがあるんだが」
「あるんなら、早く出しなせえ」
横瀬は、面倒くさそうに、云った。
「ここには、無いんだ。ちょっと、近所まで附合ってくれ」
「ようがす。ドッコイショ」
横瀬は、「ひびき」を一本、
衣嚢から出して口に
銜えると、火も点けないで、室内をジロジロと、眺めまわした。
「何を見てるんだ」
わしは、
訊いた。
「マッチは無いのかね」と彼は云った。
3
合宿の門を出ると、
溝くさい
露路に、夕方の、気ぜわしい人の
往来があった。初夏とは云っても、
遅れた
梅雨の、
湿りがトップリ、
長坂塀に
浸みこんで、そこを毎日通っている工場街の人々の心を、いよいよ重くして行った。
道では、逢う
誰彼が、挨拶をして行った。
向うから、見覚えのある若い女が、小さい風呂敷包みを
抱えてやってきた。
「お前さん」と其の女は、
わしの連れを、チラリと
睨みながら、云った。「これから、何処へゆくんだい」
「お前こそ、どこへ行くんだい」
「ふン、見れば判るじゃないか。今夜は、徹夜作業があるんだよ」
「夜業か。まァしっかり、やんねえ」
「お前さんの方は、どこへ行くのさァ」その女は、一歩近よって、云った。
「ちょいと、この
仁と、
用達しに」
「そうかい、あのネ」女は、口を、
わしの耳に近づけて、連れに聞かせたくない言葉を
囁いた。
「
······」
わしは、黙って、
肯いた。
女に別れると、後から、附いてくる横瀬が
わしに声をかけた。
「今の若い
ひとは、なかなか、
美い女ですネ」
「そうかね」
「何て名前です」
「おせい」
「大将の、なにに当るんです」
「馬鹿!」
露路を二三度、曲った末に、
わし達は、目的の家の前へ来たのだった。
わしは、雨戸を引かれた、表の
格子窓に近づいて、家の内部の様子を
窺った。
幸いこのところは、露路裏の、そのまた裏になっている
袋小路のこととて、人通りも無く、この
怪しげな
振舞も、人に
咎められることがなかった。とにかく、家は留守と見えて、なんの物音もしなかった。
わしは、
連れを
促して、裏手に廻った。
勝手元の
引戸に、家の割には、たいへん
頑丈で大きい
錠前が、
懸っていた。
わしは、
懐中を探って、一つの鍵をとり出すと、
鍵孔にさしこんで、ぐッとねじった。錠前は、カチャリと、もの高い音をたてて、外れたのだった。
わしは、後を見て、横瀬に、家の中へ入るように、目くばせをした。
障子と
襖とを、一つ一つ開けて行ったが、果して、誰も居なかった。若い女の
体臭が、プーンと
漂っていた。壁にかけてあるセルの
単衣に、合わせてある桃色の
襦袢の
襟が、重苦しく
艶めいて見えた。
「いいのかね。こう上りこんでいても」
横瀬は、さすがに、気が引けているらしかった。
「
叱ッ
||」
わしは、
睨みつけた。
わしは、
逡巡するところなく、押入をあけた。上の段に入っている
蒲団を、静かに下ろすと、その段の上に登った。そして、一番端の天井の板を、ソッと横に滑らせた。そこには、幅一尺ほどの、長方形の、真暗な
窖がポッカリ明いた。そこで
わしは、両手を差入れて、天井裏を
探ぐったが、思うものは、直ぐ手先に触れた。
手文庫らしい古ぼけた
函を一つ
抱え下ろしてきたときには、横瀬は
呆気にとられたような顔をしていた。
わしは、急製の薄っぺらな鍵を、紙入の中から取出すと、その手文庫を、何なく開くことに、成功したのだった。その中には、貯金帳や、
戸籍謄本らしいものや、
黴の生えた写真や、
其他二三冊の絵本などが入っていたが、
わしが横瀬の前へ取出したものは、手文庫の
一隅に立ててあった
二〇
入の
硝子壜だった。それには、底の方に、三分の一ばかりの黒い液体が残っていた。
「さァ、こいつだ」
わしはソッと壜を横瀬に渡した。「最後に、お前さんから、教えて貰いたいのは」
「そうだね、これは
||」横瀬は、十
燭の電灯の光の下に、小さい薬壜を、ふってみながら、いつまでも、後を云わなかった。
「判らねえのかい」
「うんにゃ、判らねえことも、ねえけれど」
「じゃ、何て薬だい」
「そいつは、云うのを
憚る
||」
「教えねえというのだな」
「仕方が無い。これァ薬屋仲間で、
御法度の薬品なんだ」
「御法度であろうと無かろうと、
わしは、
訊かにゃ、
唯では置かねえ」
「脅かしっこなしにしましょうぜ、組長さん。そんなら云うが、この薬の働きはねえ、人間の柔い皮膚を
浸蝕する力がある」
「そうか、柔い皮膚を、
抉りとるのだな」
「それ以上は、言えねえ」
「ンじゃ、先刻みせた注射器の底に残っていた茶色の
附着物は、この薬じゃなかったかい」
「さァ、どうかね。これは元々茶褐色の液体なんだ。ほら、振ってみると、硝子のところに、茶っぽい色が見えるだろう」
「それとも、やっぱりあれは、血のあとか。いや大きに、御苦労だった。こいつは、少ないが、
当座のお礼だ」
そう云って、
わしは、十円
紙幣を、横瀬の手に握らせ、今日のことは、堅く
口止めだということを、云いきかせたのだった。
4
いよいよ、夜は
更けわたった。
月のない、真暗な夜だった。風も無い、死んだように
寂しい
真夜中だった。
かねて
手筈のとおり、工場の門衛番所に、柱時計が十二の
濁音を、ボーン、ボーンと鳴り終るころ、
組下の若者が、十名あまり、集ってきた。
わしは、一と通りの探険注意を与えると、一行の先頭に立ち、静かに、
構内を、第九工場に向って、行進を始めたのだった。地上を
匍うレールの上には、既に、冷い
夜露が、しっとりと、下りていた。
「
電纜工場は、夜業をやってるぜ」
「満洲へ至急に納めるので、忙しいのじゃ」
誰かの声に、そっちを見ると、電纜工場だけが、睡り男の心臓のように、生きていた。高い、真黒な大屋根の上へ、
鉛を
鎔かす
炉の
熱火が、
赫々と反射していた。赤ともつかず、黄ともつかぬ
其の
凄まじい色彩は、湯のように
沸っている
熔融炉の、高温度を、警告しているかのようであった。
「組長さん」組下の源太が云った。「おせいさんは、もう身体は、いいのですかい」
おせいは、実は、
わしの
妾だった、だが、世の中の妾とは違って、昼間は、この工場で働かせ、
わしの顔で、
電纜の紙捲きという軽い仕事をやらせ、日給は、女性として最高に近いものを、会社から払わせてあった。夜になると、
身粧いをして、合宿から抜け出してくる
わしを迎えて、普通の妾となった。
「うん、もういいようだ。今夜も、あの
電纜工場で、
稼いでいる位だァ」
「うふ。組長は、
万事ぬかりが、ねえな」
「なんだとォ
||」
わしは、ピリピリする神経を、やっとのことで
抑えつけた。「ちょっと
電纜工場へ寄ってくるから、五分間ほど、ここで待っていて
呉れ」
わしは、間もなく出てきた。
電纜工場を通りすぎると、その先は、文字どおりに、無人郷であった。
漆黒の夜空の下に、巨大な建物が、
黙々として、立ち並んでいた。
饐えくさい
錆鉄の匂いが、プーンと鼻を刺戟した。いつとはなしに、一行は、ぴったりと寄り添い、足音を忍ばせて歩いていた。
「うわッ!」
建物の軒下を伝い歩いていた男が、悲鳴をあげた。皆は、ギョッと、立ち停った。
「な、な、なんだッ」
「工場に、
蟇がえるが出るなんて、知らなかったもんで
······」
きまりわるそうな、低い声だった、
「ドーン」
二三間先の、
鉄扉が、鈍い音を立てて鳴った。
「ウウ、出たッ!」
「や、
喧しいやい!」
わしは
呶鳴った。蟇がえるを蹴飛ばした先生は、黙っていた。
ひイ、ふウ、みッつ!
やっと、第九工場の、入口が見える。
ぼッと、丸い懐中電灯の光の輪がぶっつかった。
錠前には、異常がない。門衛から借りてきた鍵で、それを
外させた。ガチャリと、錠の開いたのが、骨の崩れる音のようだった。
「さァ皆、懐中電灯を消すんだ」
わしは
扉の前に突立って云った。「静かに、中へもぐりこんだら、たとえ、どんな
吃驚するようなことが起ろうと、声を立てちゃ、ならねえ。よしかッ。懐中電灯も、
わしが命令するまでは、どんなことがあっても、
点けるなよッ。
折角の化物を、
遁がしちまうからな。いいかッ」
一同は、それぞれ、
肯いた。
重い鉄扉を、細目にあけて、ブルブル
慄えている組下連中を、一人一人、押込んだ。最後に
わしが入って、扉をソッと閉めた。
工場の中は、油の匂いが、プンプンしていた。そして、鼻をつままれても判らぬほど、
絶対暗黒であった。何かしら、闇の中から、大きな手が出てきて、
喉首をグッと締めつけられるような気味の悪い圧力を感じたのだった。
誰もが、黙っていた。番号をかけるわけにもゆかない。
わしは、戸口のところから、手さぐりに、一人、二人と、人間の身体を
数えて行った。彼等は、
わしの手が
触る
度に、非常に
驚愕している様子であった。そして、申し合わせたように、隣り同士がピタリと身体を寄せ、手を
繋ぎ合わせていた。
「十三人!」たしかに、全員が、入口に近い
壁際に、
鮃のように、ピッタリ、附着しているのであった。
それから、
時が軸の上を、静かに移ってゆくのが、誰にもハッキリと感ぜられた。時の経つのに
随って、一秒また一秒と、恐怖の
水準線が、グイグイと昇ってくるのだった。
二分、三分、四分、五分
|| 夢中で、隣りの男の手を、握りしめた。冷い汗が、
腋の下に
滲み出して、
軈てタラリと
肋骨を、駆け下りた。
「キィーッ」
一同は、はッと、
呼吸をつめた。
「キィーッ、キィーッ」
呀ッ、いよいよ、泣きだしたのだ。彼等はそれを
鼓膜の底に聴いた瞬間、板のように全身を硬直させた。
「キィーッ、キィーッ、ぐうッ、ぐうッ」
彼等は、見えない眼を閉じた。
「キ、キ、キ、キ、キィーッ」
もう
堪りかねたものか、一行のうちから、サッと、懐中電灯の
光芒が、射るように、高い天井を照した。
「がーッ、がーッ
······」
一同は、その怪音のする方を、
等しく見上げた。
「
呀ッ!」
「ク、クレーンが
······」
懐中電灯の薄ら明りに、はじめて照し出された怪物は何であったろうか。それはあの巨大な鉄骨で組立てられたクレーンが、
物凄じい響きをあげて、呀ッという間に、全速力で一同の頭上を通り過ぎたのであった。
「ひえーッ」
というなり、彼等は、
折角手にした懐中電灯も
其場に
抛り出して、云いあわせたように、ペタペタと、地上に尻餅をついてしまった。
「電灯を、点けろッ」
わしは、クレーンがまだ動いている
裡だったが、決心をして、号令をかけた。そして真先に、懐中電灯を照して、一同の方へ向けた。彼等の顔は、いずれも、泣かんばかりの表情をして見えた。
「しっかりしろ、探険は、これからだッ」
わしは、一同を
激励した。
皆の懐中電灯が、揃って点くと、
大分場内が明るくなって、元気がついたようだった。
「クレーンを動かすスウィッチが、入っているかどうかを調べるんだ。オイ、
政はいるかッ」
わしは、クレーン係の、若い男を呼んだ。
「へええ」と政は、死人のような顔を、こっちへ向けた。「どうか、その役割は、勘弁しとくんなさい」そう云って、彼は、手を合わせて、こっちを
拝んだ。
「
莫迦いうな」
わしは叱りつけた。「
手前が、調べねえじゃ、係りで無えコチトラには訳が判らねえじゃねえか」
尻込みする政を、
両脇から引立てて、捜査に取懸った。
「このスウィッチは、開いている」一同が入った入口の側の壁上で、その入口から六、七間奥まったところに大きいスウィッチが取附けられてあった。その
硝子蓋の上から
指しながら、クレーン係の政が
呻った。「このスウィッチが、開いているなら、クレーンの上へ、電気が行きっこ無いんです」
「だが
可怪しいぞ」と
わしは云った。「クレーンは確かに動いたんだ。クレーンはモートルでしか動けないんだ。このスウィッチが開いていて動く筈はない。開いているようでも何処か、電気が通うようになってるんじゃないか。よく中を開けて調べて見ろ」
カチャカチャと音をさせて、スウィッチの硝子蓋を開いてみたが、それは普通のスウィッチが、明らかに開かれた状態になっていて、外にインチキな接続は発見せられなかった。
「たしかに、このスウィッチは開いています」政は泣き声で云った。
「よし、では念のために、クレーンの上へ昇ってみよう」
わしは云った。
「なに、クレーンへ昇る
||」
一同は、
互に顔を見合わせて、恐怖の色を
濃くした。
「政、昇れ!」
「いやァ、
救けて下さい」政は、ポロポロ
泪を出して、
喚くのであった。
「じゃ、
わしが
先登に昇るから、直ぐうしろから、ついて来い。いいかッ」
わしはそういうなり、壁際へ進んで、クレーンに
攀じ
昇る冷い
鉄梯子へ、手をかけた。
5
「矢張り、クレーンのスウィッチも、開いています」
三人の男にさんざん世話をやかせ、
漸く
わしのあとから、クレーンの上まで
担ぎあげられた政は、モートルの横の、配電盤をひと目見ると、
恐ろしそうに、そう云った。
「そうか。
確に、それと
間違いが無けりゃ、降りることにしよう」
わし達は、また困難な
鉄梯子を、永い時間かかって、一段一段と、下りて行った。
下まで降りきらない
裡から、残っていた連中は、クレーンの上のスウィッチが開いていたか、どうかについて、
尋ねるのであった。
「政に見て
貰ったがな」
わしは一同の顔を、ずッと
見廻した。
「クレーンのスウィッチも開いていたよ」
「それじゃ、いよいよあのクレーンは
······」そこまで云った職工の一人は、自ら
恐ろしくなって、言葉を切ってしまった。
「
······電気の力で動いたのでは無い、ということになる」と
わしは、代りに、云った。
「誰が、動かしたんだッ」
「上って、
四方に気をつけて見たが、隠れてる人間も居なかった。なァ、
源太、
友三、
雲的」
「そうだ、そうだ」
「もっとも、人間一人で動くようなクレーンじゃない」
「ああ、すると誰が動かしたんだ」
「組長さん。もう我慢が出来なくなった。どうか、ここから出して下せえ」
「俺も、出るッ」
「いや、出ることならぬ」
わしは
呶鳴った。「クレーンを動かした者が、判らぬ限り」
「組長さん、そりゃ無理だよ」源太が泣き声を出した。「ありゃ、生きてる人間のせいじゃないんだ」
「なんだとォ
||」
「あのクレーンには、何か
怨霊が
憑いていて、そいつがクレーンの上で、泣いたり、クレーンを動かしたりするんだ」
「ああッ
||」
それを聞くと、誰もが、痛いところへ
触られたように、
跳び上って
駭いた。
「おお、組長」
雲的が云った。「誰かが、外で喚いているようですぜ」
「なに、外で喚いているッ」
わしは、予期しないことに
吃驚して云った。なるほど、多勢の声で、何やら喚いているのが、
遥かに聞こえるのであった。「じゃ、みんな、外へ出よう」
一同は、ワッといって、入口の
扉の方へ、先を争って駆けだした。ガラガラと、重い
鉄扉が、
遠慮会釈なく、引き開けられる物音がした。
「おう、組長、大変だア」
疳高い声で叫ぶものがある。
わしは、ギクリとした。
「組長」
わしの
胸倉に
縋りついたのは、
電纜工場の
伍長をしている男だった。「おせいさんが、大変だッ」
「なに、おせいが、一体どうしたというんだ」
「おせいさんが
||」伍長は、苦しそうに言い
澱んだ。「おせいさんが、
熔融炉へ、
真逆に、飛びこんでしまった」
「熔融炉へ、飛びこんだ、というのかッ」
わしは、それを聞くなり、おせいの働いていた電纜工場めがけて、矢のように駆け出した。
わしのあとには、組下のものや、
惨事を
報せに来た連中が、バタバタと追いついて来るのであった。
電纜工場の入口を一歩入ると、
凄惨極まりなき事件の、息詰まるような
雰囲気が、感ぜられるのだった。
皎々たる水銀灯の光の下で仕事をする人々は、技師といわず、職工といわず、場内の
一隅に据えられた、高さ五十尺の太い
熔融炉の
周囲を取巻いて、一斉に上を見上げていた。熔融炉の側には、松の樹を
仆したような
大電纜が、長々と
横わっていたが、これは忘れられたように誰一人ついているものは無かった。
「駄目だァ、何にも
見えねえ」
「着物の端も、残っていねえよ」
そんなことを叫びながら、熔融炉の頂上に昇っていたらしい
男工達が、悲痛な面持をして降りて来た。白い手術着を着て駈けつけた
医務部の連中も、形のない
怪我人に対して、策の
施しようも無く、皆と一緒に、まごまごしているだけだった。
「どうも、お気の毒でしたが」工場長が、
わしの傍へ近づくと、興奮した語調で云った。「気がついたときは、おせいさんが、もう
熔融炉の、殆んど頂上まで、昇っていたんです。でも、それと気がついて、(停めろ、下りろ)と、下から叫びましたが、何も聞えない風で、アレヨ、アレヨと云っているうちに、
火焔の中へ飛びこまれたようなわけで
······」
わしは、云うべき言葉もなかった。
「おせいさんは、覚悟の自殺を、やったらしいですよ。どうした訳か判りませんが」この工場の組長が、続いて口を
挟んだ。
そこへ、ドヤドヤと
皆を
掻きわけて、前へ、飛び出した者があった。
「ああ、死んじまった。おせいさん、俺を残して、何故死んでしまったのだ」
気が変になったように喚いているのは、クレーン係の政だった。
「オイ、政。どこへ行くんだ」政に追い
縋っているのは、
雲的や源太だった。
「おお、おせいちゃん。おれも、直ぐ行くよォ
||」
「おい、待てと云ったら」
政は、恐ろしい力を出して、源太を投げとばすと、
呀ッという間に、
熔融炉の梯子の上へ、ヒラリと飛び上った。
工場の人々は、まだ
生々しい惨事のあとに続いて、どんなことが起ろうとしているかを、早くも
悟って、
戦慄の悲鳴をあげた。
「早く、あの男を
捉えろ!」
「引ずり下ろせ、あいつは死ぬつもりだぞ!」
「誰か、助けてえ
||」
わしは、身体を動かした。邪魔になる人を押しのけて、
熔融炉の梯子の下まで来たときに、一足早く、雲的の奴が、
梯子に手をかけていた。
「うぬッ」
わしは、雲的を、つきとばした。
「
わしが助ける」
鉄梯子に
掴って、上を見ると、政は、
気息奄々たる形であるが、早くも半分ばかりの高さまで登っていた。
わしは、
ウンと、腰骨に力を入れると、トントンと、手拍子と足拍子と合わせて、梯子をスルスルと
攀っていった。見る見る政と
わしとの距離は、短縮されて行った。もう一息で、政の身体に手が届くというところで、
わしはツルリと、左足を滑らせた。ワッという
溜息が、下の方から、聞えてきた。もう余すところは、五六尺しかない。ワンワン、ガヤガヤと、
焦燥そうな群衆の声が聞える。
わしは、
速力をグッと速めた。
気が気じゃなく、上を見ると、政はすでに
熔融炉の
縁から上へ、上半身を出している。
機会は、今を
措いて、絶対に無い。しかし
わしの手は、まだ三尺下にしか届かない。
ワンワン、ガヤガヤの声も、耳に入らなくなった。
政は身体を、くの字なりに、ぐっと曲げていよいよ飛びこむ用意をした。
「やッ!」
懸声諸共、
わしは、身体を宙に浮かせて、
左手をウンと、さしのべると、ここぞと思う空間を、グッと掴んだ。
|| 手応えはあった。
工場の屋根が、吹きとぶほど大きな歓声が、ドッと下の方から湧きあがった。
だが、こっちは、右手一本で、熔融炉の鉄梯子を握りしめ、全身を宙に跳ねあげたもんだから、
左手に政の足首を握った
儘、どどッと、下へ
墜ちていった。右手を放しては、こっちが、たまらない。ガンと、
横腹を、
鉄梯子に打ちつけたがそのとき、幸運にも右脚が、ヒョイと梯子に引懸った。
(しめたッ)
と思った瞬間、頭の上からバッサリ、熱くて重いものが、
わしを、突き
墜すように、落ちてきた。そして、
呀ッという間に、ヌラヌラと、顔や腕を撫でて、下へ墜落していった。それは、政の身体だった。辛うじて
わしが掴んだ政の身体だった。(これを離しては
······)と私は懸命に
怺えたが、その恐ろしい重力に勝つことが出来ず、
遂にツルリと、
わしの指の間から脱けて、
あいつの身体は、ヒラヒラと風呂敷のように、コンクリートの床を目懸けて、落ちていった。いや、
全く、政の身体は風呂敷のように、舞いながら、墜ちて行ったのだった。
わしは、どうしたものか、急に笑いたくなって、クッ、クッ、ウフウフと、鉄梯子に、しがみついた
儘、暫くは、動くことが出来ない程だった。
6
「これは横瀬さん。珍らしいね。さァ、こっちへ入ったり、入ったり」
わしは、珍客の来訪にあって、だだっ広い、合宿の
舎監居間の一室へ
招じ入れた。
「今日は、何の御用かな」
わしは
尋ねた。
「実は一つ聴いていただきたいことがあるのでして
······」横瀬は、例のモジャモジャ
頭髪に五本の指を突込むと、ゴシゴシと
掻いた。
「どんな話かしらぬが、言ってごらんなせえな」
わしはチラリと、置時計の方を見たが、もう午後十時に近かった。
「じゃ、聴いて貰いますか」そう云って横瀬は、
莨を一本、口に
銜えた。「これは、
俺の知っている、或る男の、素晴らしい計画なんだ。ねえ、その男は、自分の
情婦を、若い男に失敬されちまったんだ。いや、おまけに、情婦というのが、若い男の
胤を宿しちまった。いいですか。これが普通の場合だったら、旦那どの胤だと、
胡魔化せるんだが、
生憎と、その旦那どのというのは、女に子を産ませる力がないことが医学的に判っているのだ。それで、
胎の子を、胡魔化しようもないので、若い二人は
秘かに会って泣きながら相談した。いい智恵も見付からぬ
裡に、女の身体はだんだんと隠せない程、変ってくる。とうとう仕方なしに、胎の子には罪なことだが、
堕胎をすることに決心をした。若い男は、堕胎道具と、薬品を、さるところで手に入れて、女を呼びだした。二人は非常に人目を忍ぶ事情にあるというのが、これが
鳥渡でも、旦那どのの耳に入れば、二人とも殺されてしまうに、きまってる。そこで誰にも知られぬ秘密の
逢い場所というのが必要だったが、それは、たった一つあった。どこだと云うと、若い男の
勤めている工場の、クレーンの上だった。若い男は、クレーンの運転手なんだ。工場が引けてしまうと、あの広い内部が、がらん
胴だ。幸い女も、工場の案内を知っていた。というのが、その女も工場に働いていたのだ。女は恋しい男に逢いたいばっかりに、
真暗な工場に忍び入り、非常に高い鉄
梯子を女の力で昇ったり、降りたりしたのだ。さて堕胎手術も、
勿論その高いクレーンの上で、やることになった。若い男は教わって来たとおり、道具を女の身体に、
挿し入れて、或る薬液を注入した。それは或る時間の後になって、成功したことが始めて判った。しかし女は、暫くの間、工場を休み、
病臥しなければならなかった。だが
折角の二人の苦心も水の泡だった。というのが、旦那どのが、女の様子から、疑惑を生じたためだった。その男は非常に
嫉妬深い
奴だったが、人一倍、利口な男なので、それと色には出さず、さまざまの苦心をして、
情婦をめぐる
疑雲について、発見につとめた。
鬼神のような
其の男は、なにもかも知ってしまった。二人の
身辺から、歴然たる証拠も
掴んだのだった。それより、ずっと前、旦那どのは、大体の
輪廓を知ったので、憎むべき二人に対して、どんな
復讐をしようかと、
画策した。その結果、考え出したのは、世にも恐ろしい二人の
自滅計画だった。彼は、二人が堕胎を計った第九工場というのに、(
夜泣き
鉄骨)という怪談を
植えつけた。その実、彼がコッソリ、夜中になると、工場へ忍びこみ、自分で、クレーンをキィキィ云わせたのだ。最後に、彼自身が、化物探険隊の
先登に立って、
真偽を
確めたが、上と下とのスウィッチが、どっちも
開いているのに、クレーンが、
轟々と動いたというので、これはいよいよ、
怨霊の
仕業ということに
極まった。その実、その旦那先生が、先に立って、一々スウィッチを
外して置いたのだ。怨霊の仕業ということになると、一番
戦慄を感じたのは、若い男と、例の女だ。二人とも大いに思い当るところがある。というのは、自分達が手を下して闇から闇へ送ってしまった
胎児の怨霊のせいに違いないと思いこんでしまう。さァ、こうなると、旦那どのの計画は、いよいよ思う
壺に
嵌っていったというわけだ。探険の結果、これは怨霊の
外に、理由がつかないと決定した夜のこと、旦那どのは、
夜業をしている
情婦のところへ行って、遂に
引導の言葉を渡してきた。それは、のっぴきならぬ証拠を手に入れたので、明日になったら、警察へ告発するぞと
脅したのだ。情婦は、思い
余って、自殺の意を決し、自分の働いている工場の
熔融炉に飛びこんで、ドロドロに
熔けた
鉛の湯の中に
跡方もなく死んでしまった。こんどは、若い男の番だった。旦那どのは、探険隊の中に、その男を入れることを忘れなかった。若い男を、ジリジリと苦しめてゆくのが、たまらなく快感を
唆ったのだった。若い男は、クレーンが
独りで動き出す
大恐怖の前に、永い間、ひき
据えられていた。
更に、
戦慄を
禁じ
得ないクレーンの上へ、引張り上げられたり、又降ろされたりした。そこへ、突如として、女の自殺を聞いた。それには旦那どのも
遽てた位だ。若い男は、女の飛込んだ熔融炉目懸けて、駈け出して行った。彼も女の跡を追って、この炉の中で死のうと決心した。そう思うと、彼は
脱兎のように熔融炉の鉄梯子を、かけ上ったのだ。友人の一人が助けようとして、後から上ろうとすると、そこへ旦那どのが、飛び出して、彼をつきとばした。そして、旦那どのは、
恨み重なる男のあとにつづいて梯子を上って行ったのだ。これを見ていた人々は
喝采した。それもそうだろう。いやたった一人を除いてはネ。そいつは、工場の
隅から、コッソリこの場の光景を眺めていた俺によく似た男さ、はッはッはッ。だが、その男にも、旦那どのの復讐が、どのように行われるのか、見当がつかなかった。ひょっとすると、旦那どのは、わざと梯子昇りの
速力を落として、(残念ながら、追いつけなくて、若い男を殺してしまった!)と云いわけするのかと思っていたが、見ていると、どうやら、そうではない。いや、それは、鬼のように恐ろしい計画だった。旦那どのの考えは若い男が一旦飛び込んで、
熱鉛のため
赤爛れに
爛れたところで若い男の死骸をひっぱり出すことにあった。俺は旦那どのが、梯子の上で嬉しそうに笑っているのに感付いた
唯一の人間だったかも知れない。若い男は、彼の手を離れて、コンクリートの床の上に叩きつけられたが、二た眼と見られた
態じゃなかった。旦那どのは、別に
咎められもしなかった」
「面白い話だなァ、
若けえの」
わしは、静かに云った。「だが一つ
腑に落ちねえことがあるから尋ねるが、探険隊が工場の暗闇の中にいたとき、クレーンが
轟々と動いた。直ぐ
灯をつけたが、下のスウィッチは
外れていた。いくら其の悪人が器用でも、電気なしで、あのクレーンは動かせないだろうぜ」
「そんなトリックに気がつかない俺ではないよ。その旦那どのは、クレーンを動かすスウィッチと、同じ型の、ソレ
乙型スウィッチよ、あれを工場の栗原さんから借りて、暗闇で音をたてずスウィッチの開閉をすることを練習したんだ」
「
出鱈目を云うな」
「出鱈目ではない。では、証拠を出そうかね。その旦那どのは、工場の入口と、スウィッチまでの距離と、その取付けの高さとを正確に測って来て、この舎監居間の前の廊下に、それと同じ
遠近に、借りて来たスウィッチをひっかけ、真夜中になると、暗闇の中で、練習をしたのだ。嘘と思うなら、舎監居間の戸口から六間先き、廊下から六尺の高さのところに、二本の
釘跡があるが、その寸法と、工場のスウィッチの位置とを較べて見ねえ。ぴったりと同じことだ。それから二本の釘の距離は、その旦那どのが借りていたスウィッチの二つの
孔の
間隔と同じことだが、実はそのスウィッチは製作の際に間違えて、孔の間隔を広くしすぎたので、この廊下の釘の距離も、普通のスウィッチには見られない特別の
間隔になっている
筈だ。ここらも、
宿命的な証拠といえば言えるだろう。ウン、ぎゃーッ」
わしの手には、お
喋り探偵の
脳天を叩き破ったハンマーが、血にまみれて、握られていた。それは、彼氏がお喋りに夢中になっている間に、
卓子の蔭から、コッソリ取出したものだった。だが、
此の男を殺してしまったお蔭で、
隠忍十年、
殺人癖から遠去かっていた
此の
わしの身体には、久しく眠っていた
悪血が、一時に
飢えに目覚めて、
湧きあがってきたようだ。
わしの名か? 「片眼の
岩」と云やァ、ちっとは人に知られた
吾儘者だなア。