1
この
奇怪極まる探偵事件に、主人公を勤める「
赤外線男」なるものは、一体全体何者であるか? それはまたどうした風変りの人間なのであるか? 恐らくこの世に
於て、いまだ
曾て認識されたことのなかった「赤外線男」という不思議な存在
||それを説明する前に筆者は
是非とも、ついこのあいだ
東都に起って、もう既に市民の記憶から消えようとしている一
迷宮事件について述べなければならない。
これは事件というには、実にあまりに単純すぎるために、もう忘れてしまった人が多いようであるが、しかし知る人ぞ知るで、
識っている人にとっては、これ又奇怪な事件であることに、この迷宮事件が後になって、例の
摩訶不思議な「赤外線男」事件を
解く一つの重大なる鍵の役目を演じたことを思えば、
尚更逸することのできない話である。
なんかと云って
筆者は、話の最初に於て、
安薬の
効能のような
台辞をあまりクドクドと述べたてている
厚顔さに、自分自身でも
夙くに気付いているのではあるが、しかしそれも「赤外線男」事件が本当に解決され、その主人公がマスクをかなぐり捨てたときの
彼の大きな
駭きと奇妙な感激とを思えば、一見思わせたっぷりなこの
言草も、結局大した罪にならないと考えられる。
|| さてその日は四月六日で、月曜日だった。
ところは
大東京で一番乗り降りの客の多いといわれる新宿駅の、品川方面ゆきの六番線プラットホームで、一つの事件が発生した。
それは
丁度午前十時半ごろだった。この時刻には、
流石の新宿駅もヒッソリ
閑として、プラットホームに立ち並ぶ人影も
疎らであった。
あの六番線のホームには、中央あたりに荷物
上げ
下げ用のエレヴェーターがあって、その周囲は厳重な
囲いが仕切られて居り、その背面には、青いペンキを塗った大きな木の箱があって、これにはバケツだとかボロ
布などの雑品が入っているのだが、その箱の上を利用して新聞雑誌が一杯拡げられ、
傍に青い帽子を
被った駅の売子が、この間に合わせながら毎日規則正しく開かれる店の番をしている。
このエレヴェーターとレールとの間のホームの
幅は、やっと人がすれちがえるほどの狭さであるが、その通路にはエレヴェーターを背にして駅の
明いているうちは不思議にもきまって、必ず一人の若い婦人が
凭れているのだ。その婦人は電車の発着に従って人は変るけれど、
其の美しさと、何となく物淋しそうな横顔については、どの女性についても共通なのであった。この神秘を知っている若いサラリーマン達の間には、このエレヴェーター附近を「
佐用媛の
巌」と呼び慣わしていた。かの
松浦佐用媛が、帰りくる人の姿を
海原遠くに求めて得ず、遂に
巌に化したという
故事から名付けたもので、その佐用媛に似た美しさと淋しさを持った若い婦人がいつも必ず一人は居るというのであった。
その午前十時半にも確かに一人の佐用媛が巌ならぬエレヴェーターの蔭に立っていた。
鶯色のコートに、お定りの
狐の
襟巻をして、
真赤なハンドバッグをクリーム色の手袋の
嵌った優雅な両手でジッと押さえていた。コートの下には
小紋らしい
紫がかった訪問着がしなやかに婦人の脚を包み、
白足袋にはフェルト
草履のこれも鶯色の
合わせ
鼻緒がギュッと
噛みついていた
||それほど鮮かな佐用媛なのに、そのひとの顔の特徴を記憶している者が殆んど無いという全くおかしな話だった。
尤もホームは至って
閑散で、そんなことには超人的な記憶力をもっている若い男たちが、幸か不幸かその近所に居合わさなかったせいにもよるだろう。そこへ上りの
品川廻り東京行きの電車がサッと六番線ホームへ入って来た。運転台の
硝子窓の中には、まだ昨夜の夢の
醒めきらぬらしい、運転手の寝不足の顔があった。
「
呀ッ!!」
運転手は
弾かれたように、座席から立ちあがった。彼の
面はサッと青ざめた。反射的にブレーキを掛けたが、もう駄目だった。
ゴトリ。
······ゴトリ。
······ 車輪とレールとの間に、確かな
手応があった。あのたまらなくハッキリした
轢音が
······。佐用媛がいきなりホームからレール
目懸けて飛びこんだのだ!
それから後の騒ぎは、場所柄だけに、大変なものであった。
現場の
落花狼藉は、ここに記すに忍びない。その代り検視の係官が、電話口で本庁へ報告をしているのを、横から聴いていよう。
「
······というような
着衣の上等な点から云いましても、またハンドバッグの中に手の切れるような十円
札で九十円もの大金があるところから考えましても、相当な家庭の婦人だと思います。
······ああ、
年齢ですか。それがどうも
明瞭でありませぬ。
何しろ、
顔面を
滅茶滅茶にやられてしまったものですからネ。しかし着物の
柄や、
四肢の発達ぶりから考えますと、まず二十五歳前後というところでしょうナ」
係官は何を思い出したものか、ここでゴクリと唾を
嚥みこんだ。
やがて鶯色のコートを着た
轢死婦人の
屍体は、その
最期を遂げた
砂利場から動かされ、警察の屍体収容室に移された。いつもの例によれば、ここへ誰か遺族が顔色をかえて駈けこんでくるのが
筋書だったが、どうしたものか
何時まで
経っても
引取人が現れない。
告知板に
掲示をしてある
外、午後一時のラジオで「
行路病者」の仲間に入れて放送もしたのであるが、
更に引取人の現れる模様がなかった。これだけの大した身なりの婦人で、引取人の無いのは不思議
千万だと署員が
噂さし合っているところへ、待ちに待った引取人が現れた。それは
轢死後、
丁度十四時間ほど経った其の日の真夜中だった。
それは
隅田乙吉と名乗る東京市中野区の
某料理店主だった。彼はそんな商売に似合わぬインテリのように見うけた。警察の
卓子の上に
拡げられた数々の
遺留品を一つ一つ手にとりあげながら、彼はコンパクト一つにもかなり明瞭な説明をつけ加えた。轢死人は彼の
末の妹だったのだ。
「このコンパクトですがネ、
梅子||これは死んだ妹の名前なのです、梅子はもう五年もこのコティのものを使っていましたよ。ごらんなさい。
蓋をあけてみると、この乱暴な使い方はどうです。あいつの性格そのものですよ。妹は今年二十四になりますが、どっちかというと
不良の方でしてネ、それも梅子自身のせいというよりも私達
同胞もいけなかったんです。
何しろ兄や姉が、合わせて八人も居るのです。皆、相当楽に暮しているんです。梅子は
末ッ子でした。兄や姉のところをズーッと廻ると、あっちでもこっちでも「梅ちゃん」「梅ちゃん」とチヤホヤされ、「ほら、お
小遣いヨ」と貰う金も、十七八の少女には余りに多すぎる
嵩でした。梅子は純真な子供心の向うままに、好きなことをやっているうちに、とうとう不良になっちまったんです。このごろでは
流石の同胞たちも、梅子から持ちこまれる
尻拭いに
耐えきれなくなって、何でもかんでも断ることにしていたのです。轢死をする前の晩も私のところへ来ましたが、
又金の
無心です。これが最後だというので百円
呉れてやったところ、素直に帰ってゆきました。そのときは、よもやこんな
惨らしいことになろうとは思いませんでした。
······なんですって、警察へ来ようが大変遅かったって、それはこうですよ。ちょっと私は商売のことで午後から出て居りまして帰りが遅かったものですから
······」
顔面は判らぬが、髪かたちに、それから又身のまわりの品物などを一々
肯定したので、轢死婦人は隅田乙吉の妹うめ子であると断定された。乙吉は幾度も係官の前に迷惑をかけたことを
謝し、屍体は
持参の
棺桶に
収め所持品は
風呂敷に包んで帰りかけた。
「オイ隅田君、ちょっと待ち給え」
司法係の
熊岡という警官が席から立ち上って来た。
「はいッ」隅田乙吉は、手にしていた風呂敷包みを又
卓子の上に置いて振りかえった。
「君はこんなものを知らんか」
警官は
掌の上に、ヨーヨーを横に寝かしたような
紙函を載せて、乙吉の方にさしだした。
「これは
······?」乙吉の受取ったのは、よく
鉱物の
標本を入れるのに使う平べったい
円形のボール
函で、上が
硝子になっていた。硝子の窓から
内部を
覗いてみると、底にはふくよかな
脱脂綿の
褥があって、その上に茶っぽい硝子
屑のようなものが散らばっている。
「判らんかネ」と警官は再び
尋ねた。「これはセルロイドの屑なんだ。そして燃え屑なんだがネ」
「どこに御座いましたのですか」
「これは、君が今引取ってゆこうという轢死婦人のハンドバッグの
隅からゴミと一緒に拾い出したのだ」
「さあ、どうも
見当がつきませんが
······」
どうやら隅田乙吉は、本当に心当りがないらしかった。で、熊岡警官はそれ以上
追究したり、また今とりつつある
上官の処置に
異議を
挿もうという風でもなく、事実その問答はそこで終ったのであった。
隅田乙吉が屍体を守って中野の家へ帰ってゆくと、入れ違いに新聞社の一団が
殺到して来た。
「とうとう、新宿の
轢死美人の
身許が判ったてじゃありませんか。誰だったんです」
「自殺の原因は何です」
「全然
素人じゃないという
噂さもありましたが
······」
当直は、記者に囲まれたなり、ふかぶかと椅子の中に背を落とした。そして帽子を脱いで机の上に置くと、ボリボリと
禿げ頭を
掻いた。
「書きたてるほどの種じゃないよ。それに轢死美人でも顔が見えなくちゃなア」
本気か冗談か判らぬようなことを云って、アーアと
大欠伸した。
記者連もこんな真夜中に自動車を飛ばして駈けつけたことが、のっけからそもそもの
誤りだったような気がして、一緒に欠伸を
催したほどだった。
しかし、それから二十四時間後に、彼等は同じこの場所に、
互に
血相をかえて「怪事件発生」を
喚きあわねばならないなどとは、夢にも思っていなかったのである。
2
それから二十四時間ほど経った。
同じ警察署の
夜更けである。今夜は事件もなく、署内はヒッソリ
閑としていた。
そのとき署の玄関の重い扉を、外から静かに押すものがあった。
ギーッ、ギーッという音に、
不図気がついたのは例の熊岡警官だった。彼は
部厚な
犯罪文献らしいものから、顔をあげて入口を見た。
「だッ誰かッ」
夜勤の署員たちは、熊岡の声に、
一斉に入口の方を見た。しかし今しがたまでギーッ、ギーッと動いていた重い扉はピタリと停って
巌のように動かない。
「うぬッ」
熊岡警官は席を離れると、ズカズカと入口の方へ飛んでいった。そして
扉に手をかけると、グッと手前へ開いた。そこには
外面の
黒手のような
暗闇ばかりが眼に
映った。
「オヤー」
熊岡警官は、何を見たのか扉の間からヒラリと戸外に
躍り出た。バタンと扉はひとり手に閉まる。一秒、二秒、三秒
······。空間も時間も
化石した。
風船がパンクするように戸口がサッと開いた。
「さア、こっちへ
這入れ!」
熊岡警官の
怒号と
諸共、黒インバネスを着た一人の男が転げこんできた。署員は総立ちになった。「何だ、何だッ」
昨夜とは違った当直の前にその男はひき据えられた。帽子を脱いだその男の顔を見て、
駭いたのは熊岡警官だった。
「なあーンだ。君は妹の
轢死体を引取って行った男じゃないか」
「うん、隅田乙吉だな」
見識り越しの刑事も呻った。「どうしたのか」
たしかにそれは、隅田乙吉だった。昨夜の
悠然たる態度に似ず、非常に落着かない。何事か云いだしかねている
様子だった。
「何故、僕を見て逃げようとしたのだ。署の
戸口を覗うなんて、何事かッ」
「いや申します、申上げます」熊岡警官の
追窮に隅田はとうとう声をあげた。「実は大変な間違いをやっちまったんです」
「うむ」
「昨夜この警察へ出まして、妹梅子の轢死体を
頂戴いたして帰りましたが、まあこのような世間様に顔向けの出来ない
死に
様でございますから、お
通夜も身内だけとし、今日の
夕刻、
先祖代々
伝わって居ります
永正寺の
墓地へ持って参り
葬ったのでございます」
「それから
······」
「
葬いもすみまして、自宅の
仏壇の前に、
同胞をはじめ一家のものが、
仏の噂さをしあっていますと、
丁度今から三十分ほど前に、表がガラリと明いて
······仏が帰って来たのでございます」
「なにーッ、仏が帰って来た?」警官の顔がサッと緊張した。いやな顔をして背中の方に首を廻した刑事もあった。
「死んだ
筈の梅子が帰ってきたんです。こりゃ、てっきり化けて出たのだと思い、一同しばらくは
寄りつきませんでしたが、いろいろ観察したり
押問答をしているうちに、どうやら生きている梅子らしい気がして来ました。そこで寄ってたかって聞いてみますと、梅子のやつ
情夫と
熱海へ行っていたというのです。それを聞いて同胞は、夢のように喜び合ったわけでございますが、一方に
於きまして、
真にどうも
······」と隅田乙吉は下を向いて
恐れ
入った。
「
莫迦な奴ッ」と宿直が
呶鳴った。「では昨夜本署から引取っていった若い女の轢死体というのは、お前の妹ではなかったというのだな」
「どうも何ともはや
······」
「何ともはやで、
済むと思うかッ」宿直はあとでジロリと一座の署員を
睨みまわした。昨夜の当直の名を大声で云って、(馬鹿野郎)と叩きつけたい位だった。他人の死骸を引取って行った奴も奴なら、引取らした奴も奴である。
「昨夜この男がデスナ」と
側らの刑事が弁解らしく口を
挿んだ。「轢死婦人の衣類や所持品を一々
点検しまして、これは全部妹の持ち物に違いない。このコンパクトがどうの、この帯どめがどうのと本当らしいことを云っていったのです。ですから昨夜の当直も信じられたのだと思います」
「イヤ
全く、あれは本当なのです」と隅田乙吉がたまりかねて声をあげた。「あれは
出鱈目でなくて間違いないのです。妹のものに違いないのですが、さっき
漂然と帰宅した本物の妹も、あれと同じ衣類を着、同じハンドバッグや、コンパクトなどを持っているのです。つまり同じ服装をし、同じ持ち物をした婦人が二人あったという事になるので、これは私どもには不思議というより
外、説明のつかないことなのです」
これを聞いていた一座は、ギクリと胸に
釘をうたれたように感じた。どうやらこれは単純な轢死事件ばかりとは云えぬらしい。
「しかし隅田」と当直は口を開いた。「
兎に
角、お前は他人の屍体を処分してしまったことになるネ。あの轢死婦人の骨は持ってきたか」
「いや、それがです。実は火葬にしなかったのです」
「火葬にしなかった?」
「はい。私どもの墓地は相当広大でございまして、先祖代々
土葬ということにして居ります。で、あの間違えたご婦人の
遺骸も、
白木の
棺に
納めまして、そのまま土葬してございますような
次第です」
「ううん、土葬か」当直は、なあンだというような顔をした。「では直ぐに掘り出して、本署へ
搬んで来い。警官を立ち合わせるから、その
指揮を
仰ぐのだ。よいか」
熊岡警官は、隅田乙吉について
現場へ出張することを命ぜられた。
どうも、
粗忽にも
程があるというものだ。いくら
独り
歩きをさせてある妹だからといって、
顔面が
粉砕してはいるが、身体の其の他の部分に何か見覚えの特徴があったろうし、また衣類や所持品が同じだといっても、そんなに厳密に同じものがあろう筈がない。これは警察の方でも屍体を持てあまし、早く処分したいと考えていたので、よくも
検べず
下げ
渡したもので、引取人の乙吉が生れつきの粗忽者であることを知らなかったせいであると、
当直は断定した。そして熊岡警官が、婦人の屍体を掘りだしてくれば、再検査をすることによって、どこの誰だか判明するだろうと考えた。
皆が出ていってから時間が相当経った。もう今頃は、
隅田家の墓地へ着いて暗闇の中に警察の
提灯をふっているころだろう。掘りだした屍体がここへ帰ってくるまでには、まだ
暇があった。今のうちに喰べるものは喰べて置かないと、たとい若い婦人にしても、顔面のない屍体を見ると食慾がなくなるだろうと考えて、当直は
夜食の
親子丼の
蓋をとった。
二箸、
三箸つけたところへ、署外からジリジリと電話がかかって来た。
「当直へ電話です」と電話口へ出た
見習警官が云った。
「おお」当直は急いでもう一と箸、口の中に押しこむと、立って
卓子電話機をとりあげた。
「はアはア。
······うん、熊岡君か。どうした
······ええッ、なッなんだって? 墓地を掘ったところ白木の棺が出た。そして棺の蓋を開いてみると、中は
藻抜けの
殻で、あの轢死婦人の屍体が無くなっているッて! ウン、そりゃ本当か。
······君、気は確かだろうネ。
······イヤ怒らすつもりは無かったけれど、あまり意外なのでねェ
······じゃ署員を
増派する。しっかり頼むぞッ」
ガチャリと電話機を掛けると、当直は
慌ただしくホールを見廻した。そこには
一大事勃発とばかりに、
一斉にこっちを向いている夜勤署員の顔とぶっつかった。
「署員の
非常召集だッ」
ピーッと
警笛を吹いた。
ドヤドヤと階段を踏みならして、署員の
下りて来る
跫音が聞えてきた。
当直は気がついて、喰べかけの親子丼に蓋をした。
||とうとう、本当の事件になってしまった。隅田乙吉の妹梅子に間違えられた轢死婦人は一体、どこの誰であるか。どうして、地下に葬った筈の屍体が棺の中から消え失せてしまったか。
熊岡警官が保管している「茶っぽい
硝子の
破片のようなもの」は何であるか。何故それが、轢死婦人のハンドバッグの底から発見されたか。
さて筆者は、この辺でプロローグの筆を
擱いて、いよいよ「
赤外線男」を紹介しなければならない。
3
Z大学に附属している
研究所に
深山楢彦という理学士が居る。この理学士は大学の方の講座を持ってはいないが、研究所内では有名の人物である。専攻しているのは
光学であるが、事務的手腕もあるというので、この方の
人材乏しい研究所の会計方面も見ているという働き手であった。色は白い方で、背丈も高からず、肉附もふくらかであったので、何となく女性めき、この頃もてはやされるスポーツマンとは
凡そ正反対の男であった。
深山理学士が目下研究しているものは、赤外線であった。
赤外線というのは、一種の光線である。人間は紫、
藍、青、緑、黄、
橙、赤の色や、これ等の
交った透明な光を見ることが出来る。この赤だの青だのは、ラジオと同じような電波であるが、ラジオの電波よりも大変波長が小さい。そのうちでも紫は一番短く、赤は比較的波長が長い。長いといっても一センチメートルの千分の一よりもまだ短い。ラジオの波は三百メートルも四百メートルもあって
較べものにならない。
ところで光線と
名付けられるものは、この紫から赤までだけではない。紫よりももっと波長の短い波があって、これを
紫外線とよんでいる。紫外線
療法といって、紫外線を皮膚にあてると、人体の活力はメキメキと
増進することは誰も知っている。一方、赤よりも波長の長い光線があって、これを
赤外線と呼んでいる。赤外線写真というのが発達して軍事を助けているが、山の頂上から向うの峠を
目懸けて写真をうつすにしても、普通の写真だとあまり
明瞭にうつらないが、普通の光線は
遮り、その風景から出ている赤外線だけで写真をとると、人間の眼では
到底見透しができない遠方までアリアリと写真にうつる。人間が飛行機に乗って、
千葉県の
霞ヶ
浦の上空から
西南を望んだとすると、東京湾が見え、その先に
伊豆半島が見える位が関の山だが、赤外線写真で撮すと、雲のあなたに隠れて見えなかった
静岡湾を始め
伊勢湾あたりまでが手にとるように
明瞭に出る。
この紫外線も赤外線も、同じ光線でありながら、
普通、人間の眼には感じない。つまり人間の
網膜にある
視神経は、紫から赤までの色を認識することが出来るが、紫外線や赤外線は見えないといえる。
見えないといえば、色盲という眼の病気がある。これは赤が見えなくて、赤い日の丸も青い日の丸としか感じない人達がいる。それは視神経の
疾患で、生れつきのものが多い。ひどいのになると、七つの色のどれもが色として見えず、世の中がスクリーンにうつる映画のように黒と灰色と白の濃淡にしか見えない気の毒な人がいて、これを
全色盲と呼んでいる。軽い色盲でも、赤と青とが判別出来ないのであるから、うっかり円タクの運転をしていても、「進め」の青印と、「止れ」の赤印とをとりちがえ、大事故を発生する
虞がある。現に十年ほど前
英国で、
列車大衝突の
大椿事をひきおこしたことがあったが、そのときのぶっつけた方の運転士は、
色盲だったことが後に判明して、無期懲役の判決をうけたのが無罪になった。人間の視力なんて、まことに不思議なものであり、又デリケートなものである。そして紫から赤までしか見えないなんて、貧弱きわまる視力ではある。
話が色盲の方へ道草をしてしまったが、この赤外線という光線は、人間の眼に感じないとされているだけに、秘密の用をつとめるとて、
重宝されている。
甲賀三郎氏の探偵小説に「
妖光殺人事件」というのがあるが、それに赤外線を用いた殺人法が
述べられている。それは赤外線警報器を変形したもので、殺そうという人の通路に赤外線を左の壁から右の壁へ、
噴水を横にとばしたように通して置くのだ。右の壁の中には光電管といって赤外線を感ずる真空管のようなものが秘密に仕掛けてある。人の通らぬときは、赤外線がこの光電管に入って電気を起こし、ピストルの引金をひっぱろうとするバネを動かないように止めている。ところがもしこの廊下に人が通って赤外線を
遮ると、どうなるかというのに、赤外線は人体で遮られ、光電管には今まで流れていた電気がハタと止るから、従ってピストルの引金を動かないように
圧えていた力がぬけ、
即座にズドンとピストルが発射され、その人間を
斃す
······という中々面白い方法だ。赤外線だから、その被害者の眼に見えなかったので、仕方がない。
満洲の重要な
橋梁の東
橋脚から西橋脚の方へ向け、この赤外線を通し、西の方に光電管をとりつけ、光電管から出る電気で
電鈴の鳴る
仕掛けを
圧えておく。
若し
匪賊が出て、この橋脚に近づき、赤外線を
遮ると、直ちに光電管の電気が停るから、電鈴を圧えていた力は抜け、電鈴はけたたましく匪賊
襲来を鳴り告げる。これも赤外線が見えないところを利用したものである。
深山理学士の研究問題は、この
不可視光線と呼ばれる赤外線が人間にも見える装置を作ることにあった。彼は、これを近頃流行のテレヴィジョンに組合わすことに眼をつけた。
テレヴィジョンは、実験室に居て、その映写幕の上へ、例えば
銀座街頭に唯今現に通行している人の顔を見ることが出来るという器械だ。これが室内の様子を見るとなると、写真撮影場で使うような
眩しい電灯を点じ、マネキン嬢の顔を
強照明することによって、実験室でその顔を見ることが出来る。これが普通のテレヴィジョンであるが、それを赤外線で照らすことにし、この実験室にうつし出そうというのである。
深山理学士は、あの奇怪な
轢死婦人事件のあった日と前後して、この装置の製作にとりかかった。
それは
丁度新学期であった。この研究所内も上級の大学生や、大学院学生、さては助手などの配属の変更があって、ゴッタがえしをしていた。
赤外線研究の彼の仕事も、従来は助手も置かず唯一人でやっていたが、今度は赤外線テレヴィジョン装置を作ったり、ロケーションにゆかねばならなくなることも判り切っていたので、助手が一人欲しいと予算を出したところ、
元来経済難のZ大学なので、助手案は一も二もなく
蹴飛ばされたが、その代り大学部三年の学生で、
是非赤外線研究をやりたいというひとがいるから、助手がわりにそれを廻そう、当分我慢して、それを使えという所長からの話であった。
それは四月のたしか十日か十一日の午前九時ごろだった。深山理学士の研究室を外からコツコツとノックするものがあった。
「ちょっと待って下さい」
学士は室内から声をかけた。
五分ほど経って、学士はやっと戸口に近づいた。
「まだ居ますか?」
と
妙な、そしてどっちかというと失礼きわまる質問の言葉を、
扉を
距てて向うへ投げかけた。
||学士の出てくるのに
痺れをきらして帰ってゆく人も多かったので、こういうのが学士の習慣だった。人を待たすことに一向
頓着しないのも有名なる学士の習慣だった。
「はア
||」
というような
返辞と、カタリと靴の鳴る音が、
扉の
彼方でした。
学士はそこで
渋々とポケットから鍵を出すと戸口の
鍵孔に入れ、ガチャリと廻して扉を開いた。そこには思いがけなくもピンク色のワン・ピースを着た背の高い若い婦人が立っていた。
「あ
||」
「深山先生でいらっしゃいましょうか」若き女性は云った。
「そうです、深山ですが
······」
「あたくし、理科三年の
白丘ダリアです。先生のところで実習するようにと、
科長の御命令で、上りましたのですけれど」
「ああ、実習生。
||実習生は、君だったんですか。じゃ入りなさい」
男の学生だと思っていたのに、やって来たのは、意外にも女学生だった。しかし何という
逞ましい女性なんだろう。近代の女性は、スポーツと洋装とのお蔭で、背も高くなり、
四肢も豊かに発達し、まるで外国婦人に劣らぬ優秀な体格の持ち主になったという話だったが、それにしてもこの健康さはどうだ。これが女性というものなんだろうか。深山理学士は早くもこのピンク色の物体が
発散するものに
当惑を感じた。
「ダリアという名前だが」と学士は
訊ねた。
「失礼ながら君は混血児なのかい」
「まあ、いやな先生!」彼女は
仰山に
臂を曲げ腰をゆがめてカラカラと笑った。「これでも日本人としては、
純種ですわヨ」
「
純種か! イヤ僕は、君があまりにデカイもので、もしやと思ったんだよ」
「先生は、小さくて可愛いいんですのネ」彼女は肥った
露な二の腕を並行にあげて、取って喰うような
恰好をしてみせた。
そんなことから、先生の深山理学士と生徒の白丘ダリアとは、何でもずかずかと云い合う
間柄になった。しかしこの少女が、まだ十八歳であるとは、学士の容易に信じかねるところであった。
赤外線研究室は、この先生と生徒とによって、昼といわず夜といわず、乱雑にひっかきまわされた。精密な部分品が、さまざまの実験を
経て一つ又一つと組立てられていった。二人の熱心さは大変なものだった。入口の
扉にはいつものように鍵がかかっていた。食事を
搬んでくるときと、白丘ダリアが
夜更けて自分の住居へ帰るときの外は、
滅多に
開かれはしなかった。深山理学士は独り者の気楽さで、いつもこの研究室に寝泊りしていた。
「アラ先生、まあ面白いことを発見しましたわ」ネジ廻しを握って、器械のパネルに木ネジをねじこんでいたダリアが、
頓狂な声を張りあげた。
「どうしたんだい」深山学士は
増幅器の向うから顔を出した。
「とても面白いですわ。先生のお顔を右の眼で見たときと左の眼で見たときと、先生のお顔の色が違うんですわ」
「変なことを云い出したネ」学士は自分の顔色のことを云われたので
鳥渡いやな顔をした。
「右の眼で見たときよりも、左の眼で見たときの方が、先生のお顔が青っぽく見えますのよ」
「なアーんだ、君。色盲じゃないのか。ちょっとこっちへ来て、これを見給え」
学士はダリアを引っぱって、色盲検査図の前につれて来た。それは七色の
水珠が、
円形に寄りあっているのだが、色の配列具合によって、普通の視力をもっているものには「1」という数字が見える場合にも、色盲には「4」と見えたりするという簡単な検査図だった。ダリアの眼を、片っぽずつ
閉じさせて、沢山ある検査図を色々とめくって調べてみた。しかし結果はどういうことになったかというのに、ダリアは色盲ではないということが判明したのだった。
「色盲でも無いようだが
······気のせいじゃないか」
「いいえ、気のせいじゃないわ。先生がどうかしてらっしゃるんじゃなくって?」
「
莫迦云っちゃいかん。君の眼が悪いのだよ。説明をつけるとこうだ。いいかい。君の右の眼と左の眼との色の感度がちがうのだ。今の話だと、君の左の眼は、青の色によく感じ、右の眼は赤の色によく感ずる。両方の眼の色に対する感覚がかたよっているんだ。それも一つの
眼病だよ」
「そうでしょうか、あたし困ったわ」と白丘ダリアは一向困ったらしい様子も見せずに云った。「ンじゃ先生、あたしが今
視ている右の眼の風景と、左の眼の風景と、どっちの色の風景が本当の風景なんでしょうか。どっちかの眼が本当のものを見て、どっちかの眼が嘘を視ているのですね」
「そりゃ困った質問だ」と今度は深山理学士の方が本当に弱ってしまった。「どうも君の
網膜のうしろに僕の眼をやってみることも出来ないからネ」
そういって理学士は考え込んだ。
こんな調子で、二人はいつの間にか十年の
知己のようになってしまった。
白丘ダリアの
入所後はやくも五日のちには、赤外線テレヴィジョン装置がもう一と息で出来上るというところまで
漕ぎつけた。
ところが
其の朝に限って、いつもなら午前七時には必ず出てくる
筈の白丘ダリアが、十時になっても姿を現わさなかった。学士は一人でコツコツと組立を急いでいたけれど、十一時になると、もう
気力が無くなったと見え、ペンチを機械台の上に
抛り出してしまった。
(どうして、白丘は出てこないんだろう?)
いろいろなことが、
追懐された。何か本気で怒り出したのであろうか。それとも病気にでもなったのであろうか。考えているうちに、自分があの女学生に、あまりに
頼りすぎていたことに気がついた。ひょっとすると、自分はもうあの少女の魔術にひっかかって、恋をしているのかも知れない。
(
莫迦なッ。あんな小娘に
······)
彼は身体を一とゆすりゆすると、実験衣のポケットへ、両手をつっこんだ。ポケットの底に、堅いものが触れた。
「ああ、
桃枝から手紙が来ていたっけ」
今朝、用務員が門のところで手渡してくれた四角い洋封筒をとりだした。発信人は「
岡見桃助」と男名前であるが、それは桃枝の変名であることは、学校内で学士だけが知っていた。開いてみると、どうやらそれは彼女の勤めているカフェ・ドランの丸
卓子の上で書いたものらしく、洋酒の匂いがしていた。文面は想像のとおり、彼の訪ねて来ないことを大変
寂しがっていること、今夜にでも店の方にでも、それともどっかで電話をかけて呼んで呉れれば直ぐ飛んでゆくからというような、当人達でなければ読んでいるに
耐えないような文句が
縷々として続いていた。桃枝は学士の
内妻に等しい
情人だった。彼は手紙を
畳むと、ポケットへねじこんだ。
(今日はいっそのこと、仕事をよして、これから桃枝を引張り出しにゆこう)
深山理学士が実験衣を脱いで、
卓子の上へポーンと
抛り出したときに、廊下にコツコツと聞き覚えた
跫音がして、白丘ダリアがやって来た。
「先生、先生」
扉をあけてやると、ダリアは
兎のように飛びこんできた。
「先生
済みませんでした。急用が出来たものですから
······」
「一体どうしたというのです」深山理学士は桃枝のことなんか一時に吹きとばすように忘れてしまって、真剣な
面持で聞いた。
「警視庁から呼ばれて、ちょっと行ったんですけれど
······」
「なに、警視庁へ」
「あたしのことじゃないんですけど、伯父が呼ばれたんで、あたしも附いてこいというので行ってたんです。
伯母さんが一週間ほど前に行方不明になったんで、そのことで行ったんですよ。
随分この事件、面白いのよ。ひとには云えないことなんです、ですけれど
······」
ひとには云えないといいながら、白丘ダリアは、それこそ油紙に火がついたようにベラベラ事件を
喋り出した。
簡単に云うと、
失踪した伯母さんというのは二十六歳になるひとだった。伯父との仲も大層よかったのに、一週間ほど前に急に行方不明になってしまった。遺書でもないかと調べたが、何一つ書きのこされていなかった。全く原因が不明だった。
例の
身許の知れぬ
轢死婦人のことも、一度は問題になったが、着衣も所持品も違っていた。といって
外に年齢の点で似合わしき自殺者もなかった。生か死かも判然しなかった。伯父は捜索につかれ切って半病人になってしまった。そこへ警視庁から
重ねての呼び出しが来たので今朝、
姪のダリアを
介添えに
桜田門へ行ったというのだ。
本庁では、伯父に対して、どんな
些細なことでもよいから、夫人について
腑に落ちかねることが今までにあったならそれを話してみろということだった。
伯父は暫く考えていたが、ポンと膝を打った。
「そういえば思い出しましたが、
妻の居るときに、妙な質問を私にしたことがありましたよ。
江戸川乱歩さんの有名な小説に『
陰獣』というのがありますが、あの
内容に
紳商小山田夫人静子が、
平田一郎という男から
脅迫状を毎日のように受けとる件があります。その脅迫状の内容というのは、小山田氏と静子夫人の夫婦としての夜の生活を、非常に
詳細に書き
綴ってあるのです。それは夫妻ならでは絶対に知ることのない
内緒ごとでした。それにも
係らず、平田一郎という
陰険な男は、一体どこから見ているのか、実に
詳しく、実に正確に、夫婦間の
秘事を手紙の上に
暴露してある。
||この脅迫状のことを、私の妻が突然話題にしたのです。江戸川さんの小説では、この気味の悪い手紙の主は、実は平田とかいう男ではなくて、小山田夫人静子その人だった。夫人の
変態性がこの手紙を書かせ、夫との夜の秘事に異常な
刺戟を与えたというのでした。
||私の
妻は、最後にこんなことを
訊いたことを覚えています。『このような脅迫状が、静子さん自身の手によって書かれたわけなら、静子さんは別に何とも恐ろしくはなかった
筈です。しかしもしあの手紙が、本当に見も知らない人の手によって書かれたものだったとしたら、静子夫人の
駭きは、どんなだったでしょうね』と、まアこんな意味のことを云ったことがあります。私は
莫迦なことを云いだす奴じゃのうと、笑ってやったんです。しかし今となって思えば、あれも失踪の謎をとく一つの鍵のような気がしてなりません」
係官は、伯父の話に大変興味を持ったようだった。二人がもう席を立とうというときに一人の警官が
円い
小箱をもって来て、これに何か見覚えがないかと差し出した。それは茶色の
硝子屑のようなものであった。
勿論二人には思いもよらぬ品物だった。
「こんなになっているから判らないかもしれないが」と其の警官が云った。「これは映画のフィルムなんですよ。しかもそのフィルムが
燃焼を始めたのを急にもみ消したとでも云いましょうか、フィルムの燃え屑なのです。それでも心当りがありませんか」
それは二人にとって
更に
見当のつかないことだった。話はそれまでとなって、白丘ダリアと伯父とは、警視庁を
辞去した、というのであった。
「一体その伯父さんというのは、何という方なのかネ」学士が
尋ねた。
「
黒河内尚網という
是れでも
子爵なのですよ。伯母の子爵夫人というのは、京子といいました」
「黒河内京子
||君の伯母さんか」
「先生、伯母をご存知ですの」
「なアに、知るものかネ」学士は強く首を左右に振った。「さあ、今日は遅れたから、急いで組立てにとりかかろう」
そういって深山理学士は実験衣を拾いあげると、洋服の
袖をとおした。そのときポケットから、四角い封筒がパラリと床の上に落ちたのを、学士は気付かなかった。
ダリアの眼は
悪戯者らしく
爛々と輝いた。太い腕が、その封筒の方へニューッと延びていった。
4
「
赤外線男というものが
棲んでいる!」
途方もない「赤外線男」の存在を云い出したのは、
外ならぬ
深山理学士だった。それは苦心の赤外線テレヴィジョン装置が組上ってから二日ほど後のことだった。
大胆といおうか、気が変になったといおうか、深山理学士の発表に
駭いたのは、学界の人達ばかりだけではなかった。
逸早く帝都の諸新聞紙はこの発表をデカデカの活字で報道したものだから、知ると
識らざるとを問わず、どこからどこの
隅々まで、一大センセイションが
颶風の如く
捲きあがった。
「赤外線男というものが
棲んでいるそうだ」
「そいつは、わし等の眼には見えぬというではないか」
「深山理学士の何とかという器械で見ると、確かに見えたというではないか」
などと、人の噂は千里を走った。
なにが「赤外線男」だ?
深山理学士の言うところによれば
斯うだ。
「
予はかねて学界に予告して置いた赤外線テレヴィジョン装置の組立てを、
此の
程完成した。これは普通のテレヴィジョンと殆んど同じものだが、変っている点は、赤外線だけに感ずるテレヴィジョンで、可視光線は装置の入口の黒い
吸収硝子で除いて、装置の中には入れない。だから
徹頭徹尾、赤外線しか映らないテレヴィジョンである。
「予はこの装置の完成するや、永い間の欲望を何よりも早く達したいものと思い、装置を使って、研究所の運動場の方向を
覗くことにした。折から夕刻だった。肉眼では人の顔も
仄暗くハッキリ見別けのつかぬような状態であったが、この赤外線テレヴィジョンに映るものは、殆んど
白昼と変らない明るさであった。それは太陽の
残光が多量の赤外線を含んで、運動場を照しているせいに違いなかった。勿論画面の調子から云って、
吾人が既に充分に知っている赤外線写真と同じで、たとえば樹々の青い葉などは雪のように
真白にうつって見えた。なんという驚くべき器械の
魅力であるか。
「しかしこれは真の驚きではなかった。後になって予を発病に近いまでに
驚倒せしめるものがあろうとは、今日の今日まで考えたことがなかった。それは実に、吾人がいまだ肉眼で見たことのなかった不思議な生物が、この器械によって発見されたことである。それは確かに運動場の上をゴソゴソと
匍いまわっていた。予は眼のせいではないかと、器械から眼を離し、肉眼でもって運動場を見たが、そこにはその影もない。これはと思って、赤外線テレヴィジョン装置を
覗いてみると、確かに運動場のテニスコートの棒ぐいの傍に、動いているものがあるのだ。その内に、
彼の生き物は
直立した。それを見ると驚くべし、人間である。しかも日本人の顔をした男である。背は相当に高い。がっちり
肥えている。なんか真黒な洋服を着ているようだ。
鳥渡悪魔のような、また工場の隅から飛び出してきた職工のような恰好である。それほどアリアリと
眺められる人の姿でありながら、一度元の
肉眼にかえると、
薩張り見えない。赤外線でないと一向に姿の見えない男
||というところから、予はこの生物に『赤外線男』なる名称をつけたいと思う。
しかし残念なことに、やがてこの『赤外線男』はこっちに気がついたものと見え、キッと歯をむいて怒ったような顔をしたかと思うと、ツツーっと
逸走を始めた。そしてアレヨアレヨと云う
裡に、視界の外に出てしまった。
駭いてテレヴィジョン装置のレンズを向け直したが、
最早駄目だった。しかし
兎も
角も、予は初めて『赤外線男』の
棲んでいることを知った。われ等人間の肉眼では見えない人間が
棲んでいるとは、何という
駭くべきことだ。そしてまア、何という恐ろしいことだ」
深山理学士の発表は、大体こんな風の意味のものだった。
「赤外線男」という名詞で、一つの流行語になってしまった。帝都の市民は、この「赤外線男」が今にも自分の
身近かに現われるかと思って
戦々恟々としていた。
そのうちに、ボツボツ「赤外線男」の
仕業と思われることが、警視庁へ報告されて来るようになった。
郊外の文化住宅の
卓子の上に、温く
湯気の立ち昇る紅茶のコップを置かせてあったが、主人公がさア飲もうと思ってその方へ手を出すと、これは不思議、紅茶が半分ばかり減っていた。これはきっと「赤外線男」が忍びこんでいて、グーッとやったんだろうというような話もあった。
ギンザ、ダンスホールの
夜更け。ジャズに
囃されて若き男と女とが踊り狂っている。そのときアブれて、
壁際の椅子にしょんぼり腰をかけていた
稍々年増のダンサーが、キャーッと悲鳴をあげると何ものかを払いのけるような恰好をし、
駭いてダンスを
止めて駈けよる人々の腕も待たず、パッタリ床の上に
仆れてしまった。ブランデーを与えて元気をつけさせ、さてどうしたのかと
尋ねてみると、彼女が椅子にかけているとき、何者とも知れず急にギュッと身体を抱きすくめた者があったというのだ。目を
瞠っているが、人影も見えない。それなのに、ヒシヒシと肉体の上に圧力がかかってくる。これは赤外線男に抱きつかれたんだと思うと急に恐ろしくなって、あとは
無我夢中だったという。
||何が
幸になるか判らないもので、「赤外線男」に抱きつかれたダンサーというので、いままでアブれ
勝ちだったのが急に
流行っ
児になって、シートがぐんぐん上へ昇っていった。
こうなると何事も、
暗闇だからといって安心してするわけにはゆかなかった。
何時赤外線男にアリアリと
覗かれてしまうか知れなかったのである。
これに類する報告は、日一日と
殖えていった。しかし赤外線男のすることが、この辺の程度なら、それは
悪戯小僧又は軽い
痴漢みたいなもので、迷惑ではあるけれど、大して恐ろしいものではない。いやひょいとすると、それ等の小事件は赤外線男に対する
疑心暗鬼から出たことで、本当の赤外線男の仕業ではないのじゃないか。或いは赤外線男といわれるものも、深山理学士の
錯覚であって始めから赤外線男なんて、居ないのじゃないか。こんな風に、赤外線男に対する期待
外れを口にする人も少くはなかった。
だがしかし「赤外線男」否定党が大きな顔をしていられるのも、永い時間ではなかった。ここに
突如として赤外線男の
魔手は伸び、帝都全市民の
面は紙のように色を
喪って、「赤外線男」
恐怖症に
罹らなければならなくなった。
||それは赤外線男発見者の深山理学士の研究室が不可解な
襲撃をうけたことだった。
これは午前二時前後の出来ごとだったけれど、警視庁へ報告されたのはもう夜明けの五時頃だった。場所が場所であるし、赤外線男の
噂さの高い
折柄でもあったので、
直ちに
幾野捜査課長、
雁金検事、
中河予審判事等、係官一行が急行した。
取調べの結果、判明した被害は、深山研究室の
扉が破壊せられ、あの有名なる赤外線テレヴィジョン装置が滅茶滅茶に
壊されているばかりか、室内のあらゆる
戸棚や引出しが乱雑に
掻き
廻され、あの装置に関する研究記録などが一枚のこらず引裂かれているというひどい
有様だった。
襲撃されたところは、もう一ヶ所あった。それは深山研究室に程近い研究所の事務室だった。ここでも同じ様な
狼藉が行われているのみか、壁の中に仕掛けられた
額のうしろの
隠し金庫が開かれ、現金千二百円というものが盗まれてしまった。
さて当の深山理学士は、
当夜例のとおり、研究室内に泊っていた筈だが、どうしていたかと云うと、赤外線男のために、もろくも
猿轡をはめられ両手を
後に
縛られて、室内にあった背の高い変圧器のてっぺんに
抛りあげられて、パジャマ一枚で
震えていた。これを発見したのは係官の一行だった。
「この事件を
真先に発見したのは、誰かネ」
と幾野捜査課長は、
走せ集った研究所の一同を
見廻わしていった。
「
儂でございます」年寄の用務員が云った。「儂は毎晩研究所を見廻わっている役でございます」
「発見当時のことを残らず
述べてみなさい」
「あれは午前二時頃だったかと思いますが、見廻わりの時間になりましたので、懐中電灯をもって、
夜番の室から外に出ようとしますと、気のせいか、どっかで物を壊すようなゴトゴトバリバリという音がします。どうやら深山研究室の方向のように思いました。これは火事でも起ったのかと思い、戸口を開けて
闇の
戸外へ一歩踏み出した
途端に、
脾腹をドスンと一つきやられて、その
儘何もかも判らなくなりました。大変寒いので気がついてみますと、もう夜は明けかかり、
儂は元の室の
土間の上に
転がっているという
始末。それから
駭いて窓から外へ飛び出すと、
門衛のいますところまで駈けつけて、大変だと
喚きましたようなわけです」
「すると、お前が脾腹をやられたとき、何か人の形は見なかったか」
「それが何にも見えませんでございました」
「
序に聞くが、お前は赤外線男というのを聞いたことがあるか」
「存じて居ります。昨夜のあれは、赤外線男でございましたでしょうか」老人は急に
臆気がついてブルブル
慄え出した。
課長は、用務員を下げると、今度は深山理学士を呼び出した。
「昨夜、貴方の襲撃された模様をお話し下さい」
「どうも
面目次第もないことですが」と学士はまず頭を
掻いて「何時頃だったか存じませぬが、研究室のベッドに寝ていた私は、ガタリというかなり高い物音に
不図眼を
醒してみますと、どうでしょうか。室の入口の
扉の上半分がポッカリ
大孔が明いています。これは
枕許のスタンドを
点けて寝るものですから、それで判ったのです。私は
吃驚して跳ね起きました。すると、あの赤外線テレヴィジョン装置がグラグラと
独り
手に
揺れ始めました。オヤと思う間もなく、装置の
蓋が
呀ッという間もなく宙に舞い上り、ガタンと床の上に落ちました。私が
呆然としていますと、今度はガチャーンと
物凄い音がして、あの装置が破裂したんです。
真空管の
破片が飛んできました。大きな廻転盤が半分ばかりもげて飛んでしまう。つづいてガチャンガチャンと大きなレンズが
壊れて、
頑丈なケースが、
薪でも割るようにメリメリと引裂かれる。私は
胆を
潰しましたが、ひょっとすると、これはこの装置で見たことのある赤外線男ではないかしらと考えると、ゾーッとしました。見る
可からざるものを視た私への
復讐なのではないかしらと思いました。私はソッと逃げ出し、室の隅ッこにでも隠れるつもりで、
寝床から
滑り
下りようとするところを、ギュッと抱きすくめられてしまいました。それでいて身の
周りには何の異変もないのです。しかし身体の自由は失われて、恐ろしい力がヒシヒシと加わり、骨が折れそうになるので、思わず『痛い、助けて
呉れ』と
怒鳴りました。ところがイキナリ、ガーンと頭へ一撃くってその場へ
昏倒してしまったのです。それから途中、全然記憶が
欠けているのですが、イヤというほど
横ッ
腹に
疼痛を覚えたので、ハッと気がついてみますと、私は妙なところに
載っているのです。それが
先刻、皆さんから降ろしていただいたあの背の高い変圧器の上です。口には
猿轡を
噛ませられ、手は後に縛られ、立ち上ることも出来ない有様です。下を見ると、これはどうでしょう。奇々怪々な光景が
悪夢のように眼に映ります。実験戸棚の
扉が、風にあおられたように、パターンと開く、すると
棚に並べてあった沢山の
原書が生き物のようにポーンポンと飛び出してきては、床の上に落ちる。引出しが一つ一つ、ヒョコヒョコ脱け出して飛行機の操縦のようなことをすると、中に入っていた
洋紙や薬品の
小壜などが、花火のように空中に乱舞する。いやその化物屋敷のような物凄い光景は、
正視するのが恐ろしく、思わず眼を閉じて、日頃
唱えたこともなかったお
念仏を
口誦んだほどでした」
理学士は、そこで一座の顔を見廻わしたが、
憐愍を求めるように見えた。
「それから、どうしたです」課長は
尚も先を
促した。
「それからです。室内の騒ぎが少し静まると、こんどは、
壊れた戸口がガタガタと鳴りました。何だか廊下に
跫音がして、それが遠のいてゆくように聞えました。すると間もなく、向うの方で大きな
響がしはじめました。
掛矢でもって扉を叩き割るような恐ろしい物音です。それは今から考えてみますと、どうも事務室の入口のように思われました。その物音もいつしか消えて、こんどは又別の、ゴトンゴトンという音にかわり、何となく小さい物を投げつけているように思いましたが、それも五分、十分と
経つうちに段々静かになり、
軈て何にも聞えなくなりました。私は赤外線男がまだ此の室へ引返してくるのではないかと、気も
魂も消し飛ばしてガタガタ
慄えていましたが、
幸にもその後、別に異変も起らず、やっと我れに返ったようなわけでした。いや何と申してよいか、あのように恐ろしいと思ったことはありませんでした」
そういって深山理学士は、大きい
溜息をついたのであった。
「君は、そのとき、何か
扉の閉るような物音をききはしなかったかネ」と課長が
尋ねた。
「そうです。そういえば、
跫音らしいものが空虚な
反響をあげて、トントンと遠のくように思いましたが、別に扉がギーッと閉まる音は気がつきませんでした」
「ふふん、それはどうも
······」課長は低く
呻った。
「どうでしょうか、ちょっとお
尋ねしますが」と事務員の一人がオズオズと進み出でた。「今の
深山先生のお話では、赤外線男が、この建物から扉を閉めて出て行った様子がございませんが、そうしますと、赤外線男はまだこの建物の中でウロついているのでございましょうか」
「そりゃ判らんね」と太った刑事が云った。「この辺にウロウロしているかも知れないが、また一方から考えると、赤外線男が建物から出てゆくときにゃ、別に所長さんに叱られるわけではないから、君のように必ず扉をガタンと閉めてゆくとは限らないからナ」
そのとき一人の刑事と何か
囁き合っていた雁金検事が、捜査課長の肩をつっついた。
「君、一つ発見したよ。この
室の戸棚の隅に大きな靴の跡があったよ」
「靴の跡ですか」
「そうだ。これはちょっと変っている大足だ。無論、深山理学士のでもないし、またこれは男の靴だから、この
室のダリア嬢のものでもない。寸法から背丈を計算して出すと、どうしても五尺七寸はある。それからゴムの
踵の
摩滅具合から云ってこれは
血気盛んな青年のものだと思うよ」
「検事さん、待って下さい」と捜査課長は
慌て
気味に云った。
「その足跡は果して犯人のでしょうか、どうでしょうか」
「それは
勿論、いまのところ戸棚の隅にあったというだけのことさ」
「それにですな、赤外線男というのは、眼に見えない人間なんじゃないですか。その見えない人間が、足跡を残すというのは
滑稽じゃないでしょうか」
「しかし君」と検事も中々負けてはいなかった。「深山君の報告によると、赤外線男はこの運動場を人間のような恰好して歩いていたというぞ。してみれば、赤外線男とて、地球の
重力をうけて歩いているので、空中を飛行しているわけではない。だから身体は見えなくても、
大地に接するところには、赤外線男の足跡が残らにゃならんと思うよ」
「足跡が見えるなら、靴も見えたっていいでしょう。すくなくとも、靴の裏は見えたっていいわけです。そこには我々の眼に見える泥がついているのですからネ」
課長と検事とは喋っていながらも、この難問題が自分たちの
畠ではないことに気がついた。
「ねえ、君」と検事が鼻に
小皺をよせて
囁くように云った。「これはどうも俺たちの手にはおえないようだよ。第一、知識が足りない」
「そうですヨ」と課長も苦笑した。
「仕方がないから、これは一つ例の男を頼むことにしてはどうかネ。
帆村荘六をサ」
「帆村君ですか。実は私も前からそれを考えていたのです」
二人の意見は直ぐに
纏った。そして
新に呼び出されるべき帆村荘六という男。これはご存知の方も少くはないと思うが、素人探偵として近頃売り出して来た青年で、科学の方面にも相当明るいという人物だった。
こうして取調べも一と通り終り、報告書も作られたけれど、直接の被害の中にとうとう
洩れてしまった一つの重大なる品物があった。それは深山理学士が戸棚の中に
秘蔵していた或る品物だったが、彼はそれを係官に報告しなかった。それは決して忘れたわけではなくて、
故意に学士の心に
秘めたものと思われる。一体、その品物はどんなものだったか。
とにかく深山学士研究室の襲撃事件によりて、赤外線男の
生態というものが、大分はっきりしてきた。
5
帆村探偵を
交ぜた係官の一行が、深山理学士の研究室を訪ねたのは、新しい赤外線テレヴィジョン装置が出来上ったという
其の日の夕刻のことだった。
折角作った一台は、
無惨にも赤外線男の破壊するところとなり、学士も助手の
白丘ダリアも大いに失望したが、その
筋の希望もあって、二人は
更に設計をやり直し、新しい装置を
昼夜兼行で組立てたのだった。白丘ダリアは、この事件以来というものは、
住居にしている
伯父黒河内子爵のところへ帰ってゆくことをやめ、深山研究室の中にベッドを一つ置き、学士と共に寝起きすることとなった。
碌に睡眠時間もとらないで、この組立に急いだ結果、四日という短い
日数のうちに、新しい第二装置ができあがった。しかし学士はあの事件以来、何とはなく大変疲れているようであった。その一方、白丘ダリアは
益々健康に輝き
頸から胸へかけての曲線といい、腰から下の飛び出したような
肉塊といい、まるで張りきった太い
腸詰を
連想させる程だった。従って第二装置の素晴らしい進行速度も、ダリアの
精力に負うところが多かった。
研究室の
扉をコツコツと叩くと、直ぐに
応えがあった。入口が奥へ開かれると、そこへ顔を出したのは、頭に一杯
繃帯をして、大きな黒眼鏡をかけた若い女だった。
先登に立っていた課長は、
(これは部屋が違ったかナ)
と思った位だった。
「さあ、皆さんどうぞ」
そういう声は、
紛れもなく白丘ダリアに違いなかった。どうしてこんな繃帯をしているのだろう。それに
黒眼鏡なんか掛けて
······と不思議に思った。
一行中の
新顔である帆村探偵が、
深山理学士と白丘ダリアとに、
先ず紹介された。
「いや、ダリアさんですか、始めまして」と帆村は
慇懃に挨拶をして「その繃帯はどうしたんです」と
尋ねた。
課長はこの場の様子を見て、いつもながら帆村の手廻しのよいのに
呆れ顔だった。
「これですか」少女はちょっと暗い顔をしたが「すこしばかり
怪我をしたんですの。繃帯をしていますので大変にみえますけれど、それほどでもないのです」
「どうして怪我をしたんですか」
「いいえ、アノ
一昨晩、この部屋で寝ていますと、水素乾燥用の
硫酸の壜が破裂をしたのです。その
拍子に、
棚が落ちて、上に
載っていたものが
墜落して来て、頭を切ったのです」
「そりゃ大変でしたネ。眼にも飛んで来たわけですか」
「何しろ疲れていたもので、
直ぐ起きようと思っても起き上れないのです。先生は直ぐ駈けつけて下さいましたけれど、あたくしが、
愚図愚図しているうちに、
頭髪についていた硫酸らしいものが眼の中へ流れこんだのです。直ぐ洗ったんですが、大変痛んで、左の眼は殆んど見えなくなり、右の眼も大変弱っています」
ダリアは黒眼鏡を
外して見たが、
左眼はまるで
茹でたように白くなり、そうでないところは真赤に充血していた。右の眼はやや
充血している位でまず無事な方であった。
「全く危いところでしたよ。
連日の努力で、もう身体も
頭脳も疲れ切っているのです。神経ばかり、
高ぶりましてネ」と理学士も
側へよって来て
述懐した。彼の眼の色も、そういえば
尋常でないように見えた。
「もすこしで、どうかなるところでしたわ。そうだったら、今日は実験を御覧に入れられませんでしたでしょう」
ダリアは
独り
言のように云った。
一同は此の室に何だか
唯ならぬ
妖気が
漂っているような気がした。
「じゃ、いよいよ働かせて見ます」と深山学士は立ち上った。「白丘さん。カーテンを閉めてすっかり
暗室にして
呉れ
給え」
「はい、
畏りました」
ダリアは
割合に元気に窓のところに歩みよっては、パタンパタンと
蝶番式にとりつけてある
雨戸を合わせてピチンと
止め
金を
下ろし、その内側に二重の黒カーテンを引いていった。窓という窓がすっかり閉ってしまうと、室内には桃色のネオン
灯が一つ、薄ボンヤリと器械の上を照らしていた。
隅によっていた幾野捜査課長、雁金検事、中河予審判事、帆村探偵、それから本庁の警部一名と刑事が二名、もう一人、事件の最初に出て来た警察署の熊岡警官と、これだけの人間が
灯の下へゾロゾロと集ってきた。
「これは君、暗いネ」課長はすこし暗さを気にしていた。
「何だか、頭の上から
圧えられるようだ」そういったのは
白髪の多い中河予審判事だった。
「このネオン
灯も消します。そうしないと
巧く見えないのです」深山が云った。「しかしスウィッチは、ここにありますから、
仰有って下されば、いつでも
点けます」
「待ってくれ、待ってくれ」と雁金検事が
悲鳴に近い声をあげた。「どこに誰がいるやら判らないじゃないか。よオし、諸君はとりあえずこっちに立っていて呉れ給え。僕たちは、この椅子に腰をかけていることにしよう」
幹部だけが、スクリーンを
包囲して、椅子に席をとった。
「いいですか」
「いいよ」
パッとネオン灯は消えた。すると一尺四角ばかりのスクリーンの上に、
朧気な映像があらわれた。
「馬鹿に暗いネ」と課長が云った。
「ピントが
外れているのです。
増幅器もまだうまいところへ調整がいっていません。直ぐ直ってきますよ」
なるほど映像はすこし
明瞭度を加えた。テニスコートの棒くいや審判台らしいものが見える。そこへ人影らしいものが。
「人間が通っているぞ」課長が叫んだ。「早く肉眼で運動場を見せ給え」
「これは、こっちのレンズからお
覗き遊ばして
······」捜査課長の
耳許でダリアの声がした。
「
呀ッ」と課長は
慌てたが「いやなるほど、よく見えます。
||なあーンだ、例の用務員が本当に通ってやがる」
まず赤外線男ではなかったので安心した。
「この
辺のところですから、さあ
誰方も変りあってスクリーンを覗いて下さい」理学士が器械から離れながら云った。
「さあ順番に見ようじゃないか」検事が後の方から声をあげた。
ゴトリゴトリと靴音がして、スクリーンの前に観察者が入れ代っているようだった。
「どうも赤外線写真というものは、色の具合が、死人の世界を覗いているようだな」判事さんが
呟きながら
視ている。
そのとき
真暗だった室内へ、急に
煌々たる
白光がさし込んだ。
「
呀ッ!」
「どッどうしたんだ」理学士が叫んだ。
一つの窓のカーテンが、サーッとまくられたのだった。皆の眼は、この
眩しい光に会ってクラクラとした。
「いいえ、何でもないのです。失礼しました」と、窓のところでダリアの声がした。
「困るじゃないか」深山は云った。
「アノちょっと何だか、あたしの身体になんだか
触りましたのよ。
吃驚して、窓をあけたんですの」
「ああ、もう出たかッ
||」
「赤外線男!」
「窓を皆、明けろッ!」
そのとき白丘ダリアは
朗らかな声で云った。
「いいえ、大丈夫ですわ。カーテンを明けてみましたら、帆村さんのお
臀でしたわ。ホホホ」
「なあーンだ」
一座はホッと
溜息をついた。
「じゃ早くカーテンを下ろしなさい」
「
済みません」
カーテンはパタリと下りた。元の暗闇が帰って来たけれど、皆の
網膜には白光が深く
浸みこんでいて、
闇黒がぼんやり薄明るく感じた。スクリーンの前では雁金検事が、しきりに眼をしばたたいていた。
ウームというような低い
呻り声が聞えたと思った。ドタリ
······と、大きな
林檎の箱を
仆したような音が、それに続いて起った。
素破、異変だ!
「どッどうした」
「まッ窓だ窓だ窓だッ」
「ランプ、ランプ、ランプ!」
さーッと、窓から
白光が流れこんだ。ネオン灯もいつの間にか点いた。
「キャーッ」と
喚いてカーテンに
縋りついたのは、窓のところへ駈けよったばかりの白丘ダリアだった。床の上には、幾野捜査課長が土のような顔色をし、
両眼を
剥きだし、口を大きく開けて仆れていた。
もう赤外線テレヴィジョンも何もなかった。窓という窓は明け放された。室内の一同の顔には
生色がなかった。
「赤外線男!」
「ああ、あいつの
仕業だ」
いまにも自分の身体に、赤外線男の
猿臂[#ルビの「えんぴ」は底本では「えんび」]がムズと
触れはしないかと思うと、恐ろしい
戦慄が電気のように全身を走った。眼に見えない敵! そいつをどう防げばいいのだ。どうして
其の
魔手から
遁れればいいのだ。
そのとき帆村探偵は、一人進み出て、捜査課長を
抱え起した。課長の頭は、ガックリ前へ垂れた。
「
呀ッ、こりゃ
非道い!」
帆村は
呟いた。幾野課長の
頸の
真うしろに一本の
銀鍼がプスリと刺さっていた。
一同は
吾れにかえると、赤外線男のことを
鳥渡忘れて、課長の
死骸の周囲に駈けあつまった。
「
延髄を一と
突きにやられている
······」
「太い
鍼だッ」
「指紋を消さないように、
手帛でも
被せて抜けッ」
「これは抜けますまい」と帆村が云った。
なるほど、力の強い刑事が引張っても抜けなかった。鍼に筋肉が
搦みついてしまったものらしい。
「一体これは、どうして
検べようか」判事が
当惑の色をアリアリと現わして云った。
「どうも、相手が悪い」と検事が呟いた。
「赤外線男はそれとして置いて、普通の事件どおり、この部屋の中にいる者は、すっかり取調べることにして下さい」と帆村が云った。
そこで係官が代りあって係官自身と、帆村、深山理学士、白丘ダリアとを調べてみたが、別に
怪しい点は何一つ発見されなかった。
結局、赤外線男の仕業ということが
裏書きされたようなものだった。
流石の帆村探偵も手も足も出せなかった。
6
捜査課長の
殺害事件は、
俄然日本全国の新聞紙を
賑わした。それと共に、赤外線男の噂が一段と高まった。警視庁の無能が、新聞の論説となり、投書の機関銃となり、総監をはじめ各部長の
面目はまるつぶれだった。
四谷に赤外線男が出た。
三河島にも赤外線男が現われたと、時間と場所とを
弁えぬ出現ぶりだった。
尤もそれは皆が皆、本当の赤外線男とは思えず、
一寸話を聞いただけで
偽赤外線男だと
看破出来るようなものもあった。
帆村探偵は、直接に攻撃されはしなかったけれど、内心大いに安からぬものがあった。彼は書斎のソファに身を
埋めると細巻のハバナに火を点けて、ウットリと紫の煙をはいた。彼は元々赤外線男などという不思議な生物があるとは信じていなかった。しかしそれには別に根拠があるわけではなかったのだ。捜査課長の
故幾野氏の
惨死事件を考えてみるのに、あれは赤外線男なら
勿論出来ることであるが、それと同時にあの部屋にいた人間にも出来ることではないかと思いかえしてみた。
雁金検事、中河判事
||この二人は、まず犯人ではないであろう。彼等の本庁に於ける歴史も功績も古く大きいものだ。
警部、刑事も疑えば疑えないこともないが、日頃知っている仲だから先ず大丈夫。
熊岡警官はどうだ。これは始めて会った人ではあるが、Y署では模範警官といわれているから大丈夫だろう。
但しいろいろと探偵眼のあるところが、
平警官として多少気に入らないこともないが、一々疑ってはきりがない。
残るは
深山理学士だ。これは確かに
怪しくてもいい人物だ。しかし彼は赤外線男を見たという。赤外線男が二人もあるなら格別、一人なら彼の
嫌疑は薄い。ことに彼は赤外線男に襲撃され、変圧器の上へ
抛り上げられていた被害者ででもある。感心しない。
然らば白丘ダリア嬢はどうだ。「赤外線男」というからには、ダリア嬢では性別が違っている。男が女装しているものとはあの
溌溂たる肉体美から云って信じられない。
殊に課長がやられた日には、眼を悪くしていた。あのように視力の弱っているのに、延髄を刺すというような精密正確を要することが出来るであろうか。
いや
凡そ、あの部屋にいた連中は皆、
闇黒の中に
沈澱していたのだ。誰も視力を奪われていた。暗闇で
延髄を刺すということは、誰にも出来ない筈だ。
残る
嫌疑者は自分であるが、これとても同じことが云える。
然らば、誰が課長を殺したか?
ああ、赤外線男! 貴様はやっぱり存在するのか。貴様でなければ、あの殺人は出来ないことにはなるが、貴様は一体何者だッ。
帆村は
呻りながらも、まだ何か忘れているものがありはしないかと、痛む
頭脳をふり絞った。
有るには有る。あの
延髄を刺した
鍼だ。調べてみると指紋はあった。しかし細い
鍼の上にのった
幅のない指紋なんて何になるのだ。
それから、深山理学士の室で発見された大きい靴跡だ。あれが赤外線男のものとして、背丈を出すと五尺七寸位。これはいい。
次に事務室で盗まれた千二百円だ。赤外線男に金が
要るとは
可笑しい。しかし靴を
履いていたり、黒い洋服のようなものを着ているというからには、
矢張り金が要るのかしら。しかし、その金をどうして使うのだ。彼自身が握っていたのでは、金は他人の眼に見えないだろうし、第一洋服店の前に立って、洋服を注文したところで、
背丈肉付もわからなければ、店の方でも声ばかりするのでは驚いて、不思議な噂話がパッと
拡がらねばならぬ。それも聞えてこないというのは、
若しや赤外線男に
手下があるのではあるまいか。
世間では、新宿のホームから飛びこんで
轢死した婦人の
身許もわからないし、地下に
葬った
筈の死骸が
紛失した不思議さを、今も
尚覚えていて、あれも赤外線男の仕業だろうと云っているようだ。死骸を奪ったのが赤外線男だとすると、それは何のためだ。外国の小説には、火星人が地球の人間を
捕虜にし、その皮を
剥いで自分がスッポリ被り、人間らしく仮装して吾れ等の社会に
紛れこんでくるのがある。しかしあの婦人の
顔面は
滅茶滅茶だった筈だ。婦人に化けたとしても、あの顔をどうするのだ。顔をかくしている婦人なんて
印度や
土耳古なら知らぬこと、この日の本にありはしない。婦人の死骸の行方が判らない限りこの問題は解決がつかない。
それから熊岡警官が轢死婦人のハンドバッグから探し出したフィルムの
焼け
屑だ。あれは一体何だ。あれが判明すると、婦人の死因は勿論、身許まで解ることだろう。
赤外線男に関係あるかどうかは二段として、この婦人の問題を解いて置くことは、あまり困難でもない。その上に、
隅田梅子という婦人と轢死婦人とが同じ衣類所持品をもっていたという暗合、それから
黒河内子爵夫人が、行方不明で、今も
尚生死が知れぬが、あの少し前に、
乱歩氏の「
陰獣」のことを言い出したという事
||よし、明日から、この方面を徹底的に調べてみよう。
帆村は、こう考えると、静かに椅子から立ち上って
卓子の灰皿へ長くなった白い葉巻の灰をポトンと落した。
そのとき卓上電話がジリジリと鳴った。帆村はキラリと眼を輝かすと、電話機を取上げた。
「帆村君を願います」
性急な声が聞えた。
「帆村は私ですが、貴方は?」
「ああ、帆村君。私です。捜査課長の大江山警部ですよ」それは故幾野課長の後を襲った
新進の警部だった。
「大江山さんですか。また何かありましたか」
「ええ、あったどころじゃないです。
唯今総監閣下が
殺害されました」
「ナニ総監閣下が
······? 本当ですか」
「困ったことですが、本当です」
「一体どうしたのです。どこでやられたのです」
「今日は御案内したとおり、深山理学士の赤外線テレヴィジョン装置を、本庁の一室にとりつけたのです。それは警戒を充分にして、この装置で
丹念に赤外線男を探しあてようというのです。深山さんに白丘さんと、お二人に来て貰って取付けました。実験は午後三時から開始するつもりで、
貴方にもお出で願うよう申上げて置きましたが、
先刻総監閣下が急に見たいと
仰有るので
到頭ご覧に入れちまったのです」
「そりゃ
拙かったですネ」と帆村は腹立たしそうに云った。
「私ども始めはお
止めしたのです。しかし閣下は
他出される約束があって、その日の三時にはご
覧になれないのです。それで
強いてというお話ですし、一方例の用意もありまして大丈夫だと思ったのです」
例の用意というのは、深山理学士と白丘ダリア嬢には秘密で、この室内の一隅に小さい赤外線
発生灯を点じ、隠し穴を通じて隣室からこの室内を活動写真に
撮る。つまり肉眼で見えぬ光線を室内に送って置いて、室内の人々の
動静を赤外線映画に収めてしまう。
斯うすれば、その中で
怪し
気な行動をする者がフィルムの上に
映った筈だから、後で現像すればそれと判る
||こんな仕掛けを
予め作って置いたのである。しかし総監閣下が
犠牲になられたのでは、何にもならない。本庁の連中の
愚鈍さに、帆村は
呆れる
外なかった。
「で、閣下がお入りになってから、フィルムを廻したのですネ」
「そうです。うまく撮ったつもりです。
||だが閣下は殺害されました。
兇器は鍼で、同じように延髄を刺しつらぬいています」
「現像は
······」
「今やっています。
直ぐこれからおいで願いたいのです」
「ええ、参ります」
帆村は
憂鬱な
返辞をした。
駆けつけてみると、本庁は上を下への大騒ぎだった。
殺られる人に
事欠いて、総監閣下が
苟めの機会から
非業の死を
遂げたというのだから、これは大変なことである。
「どうです。フィルムの現像は出来ましたか」帆村は課長に会うと、
真先に
訊いた。
「出来たのですが
······」
「どうしたんです?」
「駄目でした。赤外線灯の前に、どういうものかドヤドヤと人が立って、
肝心のところは真暗で、何にも写ってやしません」
課長は、
面目なげに
下俯いた。
「深山氏とダリア嬢は、調べましたか」
「今度こそはというのでよく調べました。身体検査も百二十パーセントにやりました。ダリア嬢も気の毒でしたが、婦人警官に渡して少しひどいところまで、残る
隈なく調べ、
繃帯もすっかり
取外させるし、眼鏡もとられて
眼瞼もひっくりかえしてみるというところまでやったんですが、何の
得るところもありません」
「ダリア嬢の眼はどうです」
「ますますひどいようですよ。
左眼は永久に失明するかも知れません。右眼も充血がひどくなっているそうです」
「ダリア嬢は眼のわるい点でいいとして、深山氏の行動に不審はなかったんですか」
「ところが深山氏は閣下にいろいろと
詳しく説明していた
最中なのです。深山氏が
喋っているのに、閣下はウーンといって
仆れられたのです。深山氏を疑うとなれば、喋っていながら手を動かして
鍼を突き立てるということになりますが、これは実行の出来ないことですよ」
「すると二人の嫌疑は晴れたのですか」
「まあ、そうなりますネ。二人もこれに
懲りて、今後はどんなことがあっても、あの装置を働かす
暗室内へは行かないと云っていますよ」
「では犯人は一体誰なんです」
「赤外線男
||でしょうナ」
「課長さんは、赤外線男だといって満足していられるんですか」
「今となっては満足しています。昨日までは
稍信じなかったですが、今日という今日は、赤外線男の
仕業と信じました。この上は、私どもの手で、あの装置を二十四時間ぶっ通しに運転して、赤外線男を発見せずには置きません」
「しかし、レンズは室内を
睨ませたがいいですよ。あの室内に赤外線男がウロウロしているのではネ」
帆村は、課長の勇猛心に顔負けがして、ちょっと
皮肉を飛ばした。
7
その次の朝のことだった。
帆村荘六は早く起き出ると、どうした
気紛れか、洋服箪笥からニッカーと鳥打帽子とを取り出して、ゴルフでもやりそうな
扮装になった。
しかし別にクラブ・バッグを
引張り出すわけでもなく、細い
節竹のステッキを軽く手にもつと、外へ飛び出した。
忌わしい第一、第二の犠牲者を、昨日一昨日に送ったとは思えないほど、
麗かな陽春の空だった。
彼は先ず、警視庁の大きな石段をテクテク登っていった。
「どうです。何か見付かりましたか」彼は捜査課長の不眠に
脹れぼったくなった顔を見ると、
斯う声をかけた。
「駄目です」と課長は不機嫌に
喚いてから、「だが、昨夜また犠牲が出たんです。今朝がた
報せて来ました」
「なに、又誰かやられたんですか」
「こうなると、私は君まで
軽蔑したくなるよ」
「そりゃ、一体どうしたというのです」帆村は自分でもなにかハッと思いあたることがあるらしく、激しく息を
弾ませながら問いかえした。
「浅草の
石浜というところで、昨夜の一時ごろ、男と女とが刺し殺された。方法は同じことです。女は
岡見桃枝という女で、男というのが
······」
「男というのが?」
「
深山理学士なんだッ。これで何もかも判らなくなってしまった」
課長は
余程口惜しいものと見えて、帆村の前も構わず、子供のような
泪をポロポロ
滾した。
「そうですか」帆村も泪を
誘われそうになった。「じゃ貴方も深山理学士は大丈夫といいながら、一面では大いに疑っていたんですネ」
「そりゃそうだ。今となって云っても仕方が無いが、ひょっとすると、赤外線男というものは、深山理学士の創作じゃないかと思っていた」
「大いに同感ですな」
「
視えもせぬものを視えたといって彼が騒いだと考えても筋道が立つ。
||ところが
其の本人が殺されてしまったんだから、これはいよいよ大変なことになった」
「僕は
兎に
角、見に行って来ます。あれは
日本堤署の
管内ですね」
課長は黙って
肯いた。
警察へ行ってみると、
現場はまだそのままにしてあるということだった。場所を教えて
貰うと、彼は直ぐ警察の門を飛び出した。
そこから、桃枝の家までは五丁ほどで、大した
道程ではなかった。彼は
捷径をして歩いてゆくつもりで、通りに出ると、直ぐ左に折れて、
田中町の方へ足を向けた。
震災前には、この辺は帆村の
縄張りだったが、今ではすっかり
町並が
一新してどこを歩いているものやら見当がつかなかった。どこから金を見つけて来たかと思うような堂々たる五階建のアパートなどが目の前にスックと立って、
行く
手を見えなくした。彼は
忌々しそうに舌打ちをして、
大田中アパートにぶつかると、その横をすりぬけようとした。そしてハッと気がついた。
見ると、アパートの高い
非常梯子に、近所の人らしいのが十四五人も
載って、何ごとか上と下とで
喚きあっているのだ。
「どうしたんです」
帆村は
道傍に立っている人のよさそうな
内儀さんに
訊ねた。
「なんですか、どうも気味の悪い話なんでござんすよ」と内儀さんは細い
眉を
顰めると、赤い裏のついた
前垂を両手で顔の上へ持っていった。「あのアパートの五階に人が死んでいるんだって云いますよ。そういえば、このごろ、近所の方が、何だか
莫迦に
臭い
臭いと云ってましたが、その
死骸のせいなんですよ。まあ、いやだ」
内儀さんは、ゲッゲーッと地面へ
唾をはいた。
「じゃ、よっぽど永く
経った死骸なんですネ」
「そうなんだそうですよ。開けてみると、押入れの中にそれがありましてネ、もう肉も皮も崩れちゃって、まッ大変なんですって。着物を一枚着ているところから、女の、それも若いひとだってぇことが判ったって云いますよ」
「ナニ、若い女の屍体?」帆村はドキンと胸を打たれた。そうだ、今日は探しに歩こうと思っていたあの女の屍体かも知れない。日数が経っているところから云っても、これは
見遁せないぞと、心の中で叫んだ。
「そこは、その女の人の借りている室なんですか」
「いいえ、そうじゃないですよ。あすこは
潮さんという若い学生さんが一人で借りているんです。ところが潮さん、この頃ずっと見えないそうで
······」
「その潮さんというのは、
若しや背丈の大きい、そうだ、五尺七寸位もある人でしょう」
「よく知ってますね」と内儀さんは、はだけた胸を
掻き
合わせながら云った。「ちょいといい男ですわヨ、ホッホッホ」
帆村は苦笑した。
「あらッ、向うから潮さんが帰ってきちゃったわ」
「えッ」と帆村は
駭いて、内儀さんの視線の彼方を見た。
「まア大変顔色がわるいけれど、あの人に違いない
······」
その言葉の終らないうちに、帆村は向うから
飄々とやってくる潮らしき人物の
袂を
抑えていた。
「潮君」
「
呀ッ」
青年は帆村の手をヒラリと払って、とッとと逃げ出した。帆村はもう必死で、このコンパスの長い
韋駄天を
追駈けた。そして横丁を曲ったところで追付いて、
遂に組打ちが始まった。そのとき青年の
懐中から、コロコロと平べったい
丸缶のようなものが転げ出て、
溝の方へ動いていった。
「ああ
||それは
······」
と青年の腕が伸びようとするところを、帆村は懸命に抑えて、うまく自分の手の内に収めた。そこへバラバラと警官と刑事とが駈けつけたので、帆村は間違われて二つ三つ蹴られ
損をしただけで助かった。彼が手に入れたものは一巻のフィルムだった。それも十六ミリの小さいものだった。
ああ、フィルムといえば、身許不明の
轢死婦人のハンドバッグに、フィルムの
焼け
屑があったではないか。
帆村は、深山理学士と情婦の桃枝との殺害場所を点検すると、大急ぎで日本堤署へ引かえした。その頃には、本庁からも予審判事が駈けつけていたが、もう何事も観念したものと見え、潮十吉という青年は、墓場から婦人の死骸を掘りだして
遁げたことを白状していた。しかし婦人が何者であるか、彼との関係はどうなのであるかについては中々口を
緘んで語らなかった。フィルムのことは意外にも、深山理学士の室から奪ったものだと告白したが、事務室から千二百円の大金を盗んだことは
極力否定した。
あとは本庁で調べることとし、
意気昂然たる老判事は、潮十吉と帆村とを
伴って、警視庁へ引上げた。
今朝の不機嫌をどこかへ落してしまった大江山捜査課長の前に、帆村探偵は手に入れた一巻のフィルムを置いて、いろいろと打合わせをした。
「じゃ、午後の五時に、本庁の第四映画
検閲室で試写ということにするのですね」
「そう決めましょう。じゃ
万事よろしく」捜査課長は、何が嬉しいのか、帆村の手をギュッと握った。
8
帆村は一名の警官と連れ立って、
黒河内子爵を訊ねた。子爵の代りに、例の白丘ダリアが出て、子爵は
重態で、看護婦が二人もついている騒ぎだからと云った。
「実は、失踪された子爵夫人のことに関し、是非ご覧願いたい映画の試写があるのですが、それは困りましたネ」と帆村は長くもない
頤を指先でつまんだ。
「映画ですか。あたし、代りに行きましょうか」
「そうですか。じゃ子爵の
御了解を得て来て下さい。よかったら御一緒に参りましょう」
「ええ、いくわ」
ダリアは、まだ繃帯のとれぬ大きな頭を振り振り奥に引きかえしたが、
直ぐコートと帽子とを持ってあらわれた。
「さあ、お伴しますわ」
三人が警視庁についたのは、すこし早すぎた。
「ねえ、ダリアさん。まだ四十分もありますよ」
「退屈ですわネ」
「ちょっと永いですネ」と帆村は云った。「そうそう、この中に面白いものがありますよ。警官に射撃を訓練させるために、室内
射的場がつくってあります。僕たちが行っても構わないのです。行ってみませんか」
「射的ですって? あたし、これでも射撃は上手なのよ」
「じゃいい。行ってみましょう」
呑気千万にも帆村は、ダリアを引張って、警官の射的室へ連れて来た。そこは矢場のように細長い室だが、手前の方に、
拳銃を並べてある高い台があって、
遥か向うの壁には、大きな
掛図のような
的がかかっていた。その的というのは、白い紙の上に、
水珠を寄せたように、
茶椀ほどの大きさの、青だの、赤だの、黄だの
円が、べた一面に描いてあって、その上に5とか3とかいう点数が記してあった。
「僕やってみましょうか」帆村は気軽に
拳銃をとって、
覘いを
定めると、ドーンと一発やった。3点と書いた大きな
赤円に、小さい穴がプスリと明いた。
「どうです。相当なものでしょう」
そういいながら、彼は次から次へと、あまり点数の多くない色とりどりの円を、撃ちぬいていった。
「今度は、ダリアさん、やってごらんなさい」帆村は拳銃を彼女の方に
薦めた。
「エエ
||」とダリアは答えたが、「あたし、よすわ」とハッキリ云った。
「そんなことを云わないで、やってごらんなさいな」
「だってあたし
······あたし、眼が悪くて駄目なんですわ」
そういってダリアは、カラカラと男のような声で笑った。
まだ時間はあったから、二人は食堂へ行った。そこでオレンジ・エードを注文して、
麦藁の
管でチュウチュウ吸った。
「警視庁なんてところ、
随分開けてんのネ」ダリアは、帆村をすっかり友達扱いにしていた。
「それはそうですよ。
貴女みたいな方をお招きすることもありますのでネ」
「だけど、このオレンジ・エード、なんだか石鹸くさいのネ。あたし、よすッ」
半分ばかり吸ったところで、ダリアは
吸管を置いた。
そんなことをしている
裡に時間が経って、警官がわざわざ二人を探しに来た程だった。
階段を地下へ降りて、長い廊下をグルグル廻ってゆくと、大変天井の低い暗いところへ出た。例の赤外線男が出て来そうな
気配だったが、しかし
仄暗いながら電灯がついているから停電でもしない限り
先ず大丈夫だろう。
映画検閲用の試写室は、思いの
外、広かった。壁は一様にチョコレート色に塗ってあり、まるで講堂のような座席が並んでいた。正面には二メートル平方位のスクリーンがあった。
もう七八人の人が入っていた。雁金検事、中河判事、大江山捜査課長の顔も見えた。
そこへ別の入口から、警官に護られて、
潮十吉が
手錠をガチャガチャ云わせながら入って来て、
最前列に席をとった。そこは、帆村探偵と白丘ダリアとが並んである
丁度その横だった。
「もうこれで皆さん全部お揃いですか」
警官の映写技師が、一番後方から声をかけた。
「うん、揃ったぞ。もう始めて貰おうか」
帆村のうしろにいた捜査課長が声をかけた。
「じゃ始めます。あれを
演る前に、一つ調子をつけるために、
実写ものを一巻写してみます。ウィーンの牢獄です」
スクリーンの上へ、サッと白い光が躍ると、室内の電灯がパッと消された。一座はハッと緊張した。まずスクリーンの明るさで、室の中は暗闇だというほどではないが、しかし椅子の下、後方の両脇などには、
小暗い蔭があった。それにこうして平然と、画面に
見入っていていいものかしら、赤外線男の出てくるには
屈強な地下室ではないか。
しかし一巻の映画は、極めて短いものであった。そしてまだ映画がうつっているのに、早くも電灯がパッと明るく室内を照らした。
「さあ、いよいよこの次だ」
「一体どんな映画なのだろう」
人々は胸のうちに、あれやこれやと想像をめぐらせた。
「私を外へ出して下さい」潮十吉は隣りに遊んでいる警官に訴えた。
「いや、ならん」
警官の声はあっけなかった。
さあ、いよいよ問題の映画が写し出されようとしている。潮十吉が、深山理学士のところから奪って来たフィルムはこれだ。そして
身許不明の
轢死婦人のハンドバッグの底に発見せられたのも、
矢張り同じフィルムだった。この映画が写し出されたが最後、意外なことが起るのではないか。既に靴の跡によって
嫌疑の深い潮十吉であるが、この一巻の映画によって、彼の正体が
暴露するのではあるまいか。赤外線男は潮十吉か。或いは赤外線男の
合棒でもあるか。
カタリと音がして、スクリーンの上に、青白い
光芒が走った。こんどは十六ミリであるから、画面はスクリーンの
真中に小さくうつった。
「ああ、これは
······」
「ウム
······」
画面の展開につれ、人々は苦しそうに
呻った。誰かが、いやらしい
咳払いをした。
いまスクリーンに写っている画面には二人の人物が出ている。
「ああ、こっちは、潮十吉だな」帆村は、あえぐように叫んだ。
「ああ、あれは
伯母様ですわ。伯母様に違いないわ。だけど、ホホ
······まッ
······」
といったきり、白丘ダリアは口を
噤んだ。
さて画面に、それから如何なる
情景が展開していったか、その内容についてはここに
記すことが許されぬ。しかしそれは密閉されたる室のうちで演じられている怪しげなる
戯れだった。
斯かる情景は人目のつかぬ真夜中に行うべきものだと思うのに、それがまことに明るい光の下に於て行われている。そのいぶかしさは、
尚も仔細に画面を点検すれば、次第に
明瞭だった。それは赤外線で撮影した活動写真であったのだ。
恐らく場面は、真夜中であったろう。真暗な室の中に、この場のことは演ぜられたのに違いない。それにも
係らず、この室にどこからか赤外線を当て、それを赤外線の活動写真に撮影したのだった。そして人物は
子爵夫人黒河内京子と青年潮十吉!
さてこの呪うべき撮影者は、一体誰であるか。
潮はこの映画の写っている間は、頭を下げ顔を
掩うたまま、一度も首をあげようとはしなかった。映画が終って、一座の深い
溜息と共に、パッと電灯がついた。
「潮」大江山課長は声をかけた。「この撮影者は誰か」
「あいつです」青年はグッと首をもちあげた。「あいつです。
深山楢彦||彼奴がやったんです。子爵夫人と僕とは間違ったことをしていました。深山は
而も夫人に恋をしていたのです。
彼奴は私達の深夜の室をひそかに
窺って暗黒の中にあの赤外線映画をとってしまったんです。深山はそれをもって
可憐なる子爵夫人を幾度となく
脅迫しました。一度は夫人があのフィルムの
一端を奪ったのですが、それは焼いてしまいました。バッグの底にのこっているフィルムの焼け屑は、あれだったんです。鬼のような深山は、赤外線利用の技術を悪用して、それまでにも、人の寝室を
密かに写真にとっては、打ち興じていたという
痴漢です。しかし
飽くまで夫人に
未練をもつ彼は、夫人が意に従わないときはあの映画を公開するといって
脅かしたのです。夫人は
凡てを観念し、とうとう新宿のプラットホームからとびこまれたのです。これも皆、深山の仕業です。夫人は
身許のわかることを恐れて、いつもあのような服装を持って居られました。あれは最も平凡な、世間にザラにある持ちものを集められたのです。いわば
月並の衣類なり所持品です。それがうまく
効を奏して
隅田氏の妹と間違えられたのです。顔面の
諸に
砕けたのは、神も夫人の
心根を
哀み給いてのことでしょう。僕は復讐を誓いました。そして深山の室に
闖入して、あのフィルムを
奪回したのです。
彼奴を探しましたが、どうしたものかベッドはあっても姿はありません。早くも風を喰らって逃げてしまった後だったのです。それから僕は
······」
このとき白丘ダリアは、
先刻から耐えていた
尿意が、どうにももう持ちきれなくなった。その激しさは、いまだ経験したことが無い位だった。彼女は
慌てて試写室を出ると、薄暗い廊下に飛び出した。見ると、直ぐ
間近かに、赤い
灯火が
点っていて、それに「便所」という文字が読めた。
彼女は、飛び立つ想いで、そこの
扉を押した。扉があくと、そこには清潔な便器が並んでいる
洋風厠だった。ダリアはその一つに飛びこんで、パタリと戸を寄せると、気持のよい程、充分に用を足した。
大きい鏡があったので、ダリアはそこで
繃帯を気にしながら、
硫酸の焼け跡のある顔へ
粉白粉を叩いた。そして入口の扉を押して、廊下に出た。その
途端にダリアはハッと
駭いて、
「
呀ッ」
と声をあげた。
そこには思いがけなくも、帆村を始め、捜査課長、検事、判事など十四五人が、ダリアの方に
身構えをしていた。
「まア、どうしたんです。帆村さん」
ダリアの救いを求めた帆村は、
最早、先刻、
射的で遊んだ帆村とは
別人のようであった。
「白丘ダリアさん。それは今大江山捜査課長から説明して下さるでしょう」
言下に大江山課長はヌッと前へ出た。
「白丘ダリア。いま
汝を逮捕する」
「あたしを逮捕するって、冗談はよして下さい」
「まだ白っぱくれているな。吾々の眼はもう
胡魔化されんぞ。白丘ダリアが嫌いだったら、『赤外線男』として汝を
捕縛する。それッ」
ワッと
喚いて、
選りぬきの腕に覚えのある刑事が、ダリアの上に折り重なった。もう
遁げる道もなければ、方法もなかった。
「赤外線男」は、それっきり自由を奪われてしまった。
* * *
事件が一
段落ついた後の或る日、
筆者は
南伊豆の温泉場で、はからずも帆村探偵に
巡りあった。彼は
丁度事件で疲れた頭脳を
鳥渡やすめに来ていたところだった。
仄かに
硫黄の
香の残っている
浴後の
膚を
懐しみながら、二人きりで冷いビールを
酌み
交わした。そのとき彼の口から、この事件の一切の
顛末を聞くことが出来たのだった。彼は中学校で同級だったときのあの飾り気のない
口調で、こんな風に最後の解決を語った。
「『赤外線男』が白丘ダリアといったんでは、警官の中にも本気にしない人があった位だよ。しかし要点を云うとネ、元々『赤外線男』という名称は、殺された深山理学士がつけたものなのだ。彼は『赤外線男』を見たといって、いろいろな話をしたが、本当は一度も見たわけじゃなかったのだ。それは彼が
便宜上拵えた創作的観念であって、実在ではなかった。
何故そんなことをやったかというと、始めはあの新説で世間を
呀ッと云わせて
虚名を博しよう位のところだったらしいが、いよいよというときには事務室の金庫から彼が
消費こんだ
大金の
穴埋めに、『赤外線男』を利用したわけだった。研究室が潮に襲われると、
逸早く彼は避難したのだったが、そのチャンスを巧くとらえて、潮のかえった後の自室や事務室を散々自分で破壊してあるき、自ら変圧器の上にあがると、自分の身体を縛ったのだ。智恵のある人間には訳のないことだ。
しかしこの犯行の裏には三人の女が隠れているんだ。そういうと不思議に思うだろうが、一人は
情婦という評判の女・桃枝だ。この女には秘密に大分
貢いだものらしい。金庫の金に手をかけたのも、この女のためだ。
もう一人の女は子爵夫人京子だ。これには潮が云ってたように色ばかりではなく、むしろ慾の方が多かったのだ。夫人と潮との
秘交を赤外線映画にうつしたのは、夫人に
挑むことよりも
莫大な金にしたかったのだ。もし夫人が相当の金を出したとしたら、深山は事務室の金庫を破る必要もなく、『赤外線男』をひねり出す苦労もしないで
済んだことだろう。しかし京子夫人にそんな莫大の金の都合はつかなかった。夫人は死を選んだのだ。
そこへ、もう一人の女性、白丘ダリアという女がいけなかった。これは先天的に異常性を備えた人間だった。左の眼と、右の眼と、視る物の色が大変違うなんて、ほんの一つのあらわれだ。あの
狒々のような大女は、自分と反対に真珠のように小さい深山先生に食慾を感じていろいろと
唆かしたのだ。『赤外線男』も、ダリアから出たアイデアだったかも知れない。
しかしダリアの
使嗾に乗った理学士も、金庫の金を盗んだり、それからダリアの喜びそうもない
情婦桃枝のことを手紙から知られると、すっかりダリアに秘密を握られてしまった
恰好になった。
其の
後に来るもの
||それを考えると彼は
安閑としていられなかった。そこで深山は、思い切って、ダリアが同じ室に寝泊りしているのを
幸い、水素
瓦斯を使って睡っている彼女を殺そうとしたが、水素乾燥用の硫酸の壜が爆発してダリアに目を
醒まされ、不成功に終ってしまったのだ。
ダリアはこの事を
勿論感づいた。しかしだネ、彼女は悪魔だけに賢明だった。事を
荒立てる代りに、
一層深山の弱点を抑えて、徹底的にこれを
牛耳ってしまう考えだった。ところがあの騒ぎによって彼女の身体に大きな異変が起った。それは飛んで来た硫酸に眼を犯され、
右眼は大した
損傷もなかったが、
左眼はまるで駄目になった。結局右眼一つというようなことになってしまった。しかし左眼が
潰れたことが異変というのじゃない。左眼が潰れたために、残る一眼が急に機能が鋭くなったんだ。左右の肺の一つが結核菌に
侵されて駄目になると、のこりの一方の肺が
代償として急に強くなり、一つで二つの肺臓の働きをするなどということは、医学上よく聞くことだ。それと似て、ダリアは左眼の
明を失うと同時に、右眼の視力が急に異常な鋭敏さを増加した。元々ダリアの右眼は、左眼よりも物が赤く見えるといっていたが、赤い光線を感ずる神経が発達していたんだ。そんなわけだから、
一眼になって異常な視神経の発達により、普通の人には
到底見えない赤外線までが、アリアリと彼女の
網膜には
映ずるようになったのだ。普通の人が暗闇と思うところでも、ハッキリ
視える。
||この異常な感覚を自覚したときのダリアの
狂喜ぶりは、大変なものだったろう。しかしその狂喜は、同時に彼女の破滅を予約したものでもあった。ダリアは悪魔になりきってしまった。
殺人淫楽者という恐ろしい犯罪者に
堕ちたのだ。そして赤外線が視えるということが、彼女を裏切って
秘密曝露の鍵にまでなってしまった。それは後の話だがネ」
そういって帆村は、何か恐ろしいことでも思い出したらしく、大きい溜息をつくと、ビールを口にもっていって、
琥珀色の液体をグーッと
呑み
乾した。
筆者は
壜をとりあげると、静かに
酌いでやった。
「それからあの殺人騒ぎだ。暗闇の中に、次から次へ起る恐ろしい殺人事件。疑いは一応もってみても、眼のわるいお嬢さんに、そんな芸当が出来ようとは誰も思っていなかった。一方『赤外線男』という『男』の観念がすっかり普及していてお嬢さんに眼をつけることが
阻害された。誰があの
暗黒のなかで、
選りに
選って非常に正確を要する
延髄の真中に
鍼を刺しこむことが出来るだろうか。『赤外線男』という
超人でなければ、
到底想像し得られないことだった。ダリア嬢は、
然りその超人的視力をもつ『赤外線女』だったんだ。これはあとで判ったことだけれど、彼女はあの
銀鍼をシャープペンシルの
軸の中に隠して持っていたのだった。
これに対して僕の探偵力は、全く
貧弱なものだった。どう考えていっても、『赤外線男』という超人を肯定するより
外に仕方がなくなるのだ。僕はそんな
莫迦気たことがと
排斥していたのが、そもそも大間違いではなかったかと考え直し、それからもう一度一切の整理をやり返すと、始めてすこし事情が判って来た。
『赤外線男』が殺人をやるようになったのは
極く最近のことだ。以前に
於ては『赤外線男』の呼び声は高かったにしろ、殺人事件はなかった。そこに何物かがひそんでいると気が付いた僕は、殺人事件の発生が、ダリアの一眼失明を機会にして其の以後に連続して行われたということを発見した。同時に
探索の結果、ダリアの両眼の視力異常についても聞きこむことが出来た。よし、それなれば、何としても
化けの皮を
剥いでみせるぞ。そういう意気ごみで、僕はダリアに近づくと、大変心安くなった。折しも幸運なことに深山の写した子爵夫人と潮との
秘交の赤外線映画が手に入ったので、そこにチャンスを
掴む計画を
樹てた。僕は手筈をきめて、ダリア嬢を警視庁に呼び出したわけだった。
最初の計画は、残念ながら失敗に近かった。それは庁内の警官射的場で、青赤黄いろとりどりの
水珠のように
円い
標的を二人で射つことだった。僕はドンドン気軽に撃って、彼女にも撃たせようとしたが、ダリアは早くも危険を
悟って
拳銃をとりあげようとはしなかった。
若しあの場合、彼女も射撃を始めたとしたら、必ずのっぴきならぬ証拠が出来る筈だった。それはあの色とりどりの円い標的の間に残る白い余白には、あの裏面から赤外線で照明している
深山の別個の標的があったのだ。彼女は赤外線も赤い色も判別する力はない。それは赤外線も、吾々が赤を識別できると同様、アリアリと眼に
映るからだ。しかし彼女は危険を感じて、吾々の眼には見えない赤外線標的を撃つことから
脱がれた。しかし射撃を
拒んだということが、僕の予想を大いに力づけて呉れる
効能はあった。
さて、最後のトリック
||それには
鬼才ダリア嬢も見事に引っ懸ってしまった。それはすこし
下卑た話だ。けれども、あの便所の一件だ。例のフィルムの映写中に彼女は激しい
尿意を
催したのだった。それは勿論、すこし前に食堂で彼女が飲んだオレンジ・エードに、一服盛ってあったというわけサ。映画が終るや
否やダリア嬢は気が気でなく廊下へ飛び出した。もうこれ以上我慢をすると、女の身にとって顔から火の出るような
粗相を演ずることになる。彼女は極度に
狼狽していたのだ。暗い廊下の向うを見ると、嬉しやそこには『便所』と書いた赤い
灯がついている。彼女は
扉を押して飛びこんだ。果してそこには奥深く便器が並んでいた。彼女は用を足した。しかし
茲に彼女は、とりかえしのつかない大失敗をしたのだった。
それは、この『便所』と書いた赤い
灯は、普通の視力をもった人間には、
到底発見することの出来ない光だったのだ。つまり赤外線灯で『便所』という文字を照していたのだ。吾々のようなものならば、その前を
無造作に通りすぎてしまう筈だった。赤外線の見える女の悲しさに、ダリア嬢はついそのような灯の下をくぐってしまったのだ。その場の光景は
予て張番をさせて置いた監視員によって、すっかり見とどけられてしまった。とうとう異常な視力の持ち主は化の皮を剥がれてしまったのだ。
流石のダリア嬢もこうなっては策の
施しようもなく、とうとう一切を白状してしまった。『赤外線男』
||いや『赤外線女』の事件は、ざっとこんな風だった」