うめき出す、といふのがダミアの唄ひ方の本当の感じであらう。そして彼女はうめくべく唄の一句毎の前には必らず鼻と咽喉の間へ「フン」といつた自嘲風な力声を突上げる。
「フン」「セ・モン・ジゴロ············」である。
これに不思議な魅力がある。運命に叩き伏せられたその絶望を支へてじり/\下から逆に
彼女の売出しごろには舞台の背景に巴里の場末の魔窟を使ひ相手役はジゴロ(パリの遊び女の情人)に扮した俳優を使ひ彼女自身も赤い肩巻に格子縞の Basque といふ
女は娘時代から年増の風格を備へてゐるものがある。ダミアはそれだ。しかもダミアは今は年齢からいつても大年増だ、牛のやうな大年増だ。頬骨の張つた顔。つり合ふがつしりした顎。鼻は目立たない。その鼻の位置を狙つて両側から皺み込む底の深い鼻唇線は彼女の顔の中央に髑髏の凄惨な感じを与へる。だが、眼はこれ等すべてを裏切る憂鬱な大きな眼だ。よく見るとごく軽微に
彼女が唄ふところのものはジゴロ、マクロの小意気さである。私窩子のやるせない憂さ晴しである。あざれた恋の火傷の痕である。死と戯れの凄惨である。暗い場末の横町がそこに哀しくなすり出される。燐花のやうに無気味な青い瓦斯の洩れ灯が投げられる。凍る深夜の白い
彼女はもちろん巴里の芸人の大立物だ。しかし彼女の芸質がルンペン性を通じて人間を把握してゐるものだけに彼女の顧客の範囲は割合に狭い。狭いが深い。
ミスタンゲットを取り去つてもミスタンゲットの顧客は他に慰む手段もあらう。ダミアを取り去るときダミアの顧客に慰む術は無い。同じ意味からいつて彼女の芸は巴里の哀れさ寂しさをしみじみ秘めた小さいもろけた小屋ほど適する。ルウロップ館ではまだ晴やかで広すぎる。矢張りモンパルナス裏のしよんぼりした寄席のボビノで聞くべきであらう。これを誤算したフランスの一映画会社が彼女をスターにして大仕掛けのフィルム一巻をこしらへた。しかしダミアはどうにも栄えなかつた。