「速達!」
三月三日の
拝啓。春雪
まずは右御案内まで、早々、
三月三日朝
青蛙堂主人
話の順序として、まずこの差出人の青蛙堂主人について少し語らなければならない。
梅沢君は四、五年前に、支那から帰った人のみやげとして広東製の竹細工を貰った。それは日本ではとても見られないような巨大な竹の根をくりぬいて、一匹の大きい
「それは普通のがまではない。青蛙というものだ。」
その人は
それにはこういうことが漢文で書いてあった。
||杭州に金華将軍なるものあり。けだし青蛙の二字の訛りにして、その物はきわめて蛙に類す。ただ三足なるのみ。そのあらわるるは、多く夏秋の

これで三本足のがまの由来はわかった。それのみならず更に梅沢君をよろこばせたのは、その霊あるがまが金華将軍と呼ばれることであった。梅沢君の俳号を金華というのに、あたかもそこへ金華将軍の青蛙が這い込んで来たのは、まことに不思議な因縁であるというので、梅沢君はその以来大いにこのがまを珍重することになって、ある書家にたのんで青蛙堂という額を書いてもらった。自分自身も青蛙堂主人と号するようになった。
その青蛙堂からの案内をうけて、わたしは躊躇した。案内状にも書いてある通り、きょうは朝から細かい雪が降っている。主人はこの雪をみて俄かに今夜の会合を思い立ったのであろうが、青蛙堂は小石川の切支丹坂をのぼって、昼でも薄暗いような木立ちの奥にある。こういう日のゆう方からそこへ出かけるのは、往きはともあれ、
午後四時頃からそろそろと出る支度をはじめると、あいにくに雪はまたはげしく降り出して来た。その景色を見てわたしはまた躊躇したが、ええ構わずにゆけと度胸を据えて、とうとう真っ白な道を踏んで出た。小石川の竹早町で電車にわかれて、藤坂を降りる、切支丹坂をのぼる、この雪の日にはかなりに難儀な道中をつづけて、ともかくも青蛙堂まで無事にたどり着くと、もう七、八人の先客があつまっていた。
「それでも皆んな
二階へ案内されて、十畳と八畳をぶちぬきの座敷へ通されて、さて先客の人々を見わたすと、そのなかの三人ほどを除いては、みな私の見識らない人たちばかりであった。学者らしい人もある。実業家らしい人もある。切髪の上品なお婆さんもいた。そうかと思うと、まだ若い学生のような人もある。なんだか
やがて主人から、この天気にようこそというような挨拶があって、それから一座の人々を順々に紹介した。それが済んで、酒が出る、料理の膳が出る。雪はすこし衰えたが、それでも休みなしに白い影を飛ばしているのが、二階の硝子戸越しにうかがわれた。あまりに酒を好む人がないとみえて酒宴は案外に早く片付いて、さらに下座敷の広間へ案内されて、煙草をすって、あついレモン茶をすすって、しばらく休息していると、主人は勿体らしく
「実はこのような晩にわざわざお越しを願いましたのは
主人が指さす床の間の正面には、かの竹細工の三本足のがまが大きくうずくまっていて、その前には支那焼らしい酒壺が供えてある。欄間には青蛙堂と大きく書いた額が掛かっている。主人のほかに、この青蛙を聴き手として、われわれはこれから怪談を一席ずつ弁じなければならないことになったのである。雛祭りの夜に怪談会を催すも変っているが、その聴き手には三本足の金華将軍が控えているなどは、いよいよ奇抜である。主人の注文に対して、どの人も無言のうちに承諾の色目をみせたが、さて自分からまず進んでその皮切りを勤めようという者もない。たがいに顔をみあわせて譲り合っているような形であるので、主人の方から催促するように第一番に出る人を指名することになった。
「星崎さん。いかがでしょう。あなたからまず何かお話し下さるわけには······。この青蛙をわたくしに教えて下すったのはあなたですから、その御縁であなたからまず願いましょう。今晩は特殊の催しですから、そういう材料をたくさんお持ちあわせの方々ばかりを選んでお招き申したのですが、誰か一番に口を切るかたがないと、やはり遠慮勝になってお話が進行しませんようですから。」
真っ先に引き出された星崎さんというのは、五十ぐらいの紳士である。かれは薄白くなっている
「なるほどそう言われると、この床の間の置物にはわたしが縁のふかい方かも知れません。わたしは商売の都合で、若いときには五年ほども上海の支店に勤めていたことがあります。その後にも二年に一度ぐらいは必ず支那へゆくことがあるので、支那の南北は大抵遍歴しました。そういうわけで支那の事情もすこしは知っています。御主人が唯今おっしゃった通り、その青蛙の説明をいたしたのも私です。」
「それですから、今夜のお話はどうしてもあなたからお始めください。」と、主人はかさねて促した。
「では、皆さまを差措いて、失礼ながら私が前座を勤めることにしましょう。一体この青蛙に対する伝説は杭州地方ばかりでなく、広東地方でも青蛙神といって尊崇しているようです。したがって、昔から青蛙についてはいろいろの伝説が残っています。勿論、その多くは怪談ですから、ちょうど今夜の席上にはふさわしいかも知れません。その伝説のなかでも成るべく風変わりのものをちょっとお話し申しましょう。」
星崎さんはひと膝ゆすり出て、まず一座の人々の顔をしずかに見まわした。その態度がよほど場馴れているらしいので、わたしも一種の興味をそそられて、思わずその人の方に向き直った。
支那の地名や人名は皆さんにお馴染みが薄くて、却って話の興をそぐかと思いますから、なるべく固有名詞は省略して申上げることにしましょう。と、星崎さんは
時代は
「将軍も一度にたくさんの扇をかいたので、きっと書き落したに相違ない。それがあいにくにおれに当ったのだ。とんだ貧乏くじをひいたものだ。」
詰まらなそうに溜息をついていると、妻も一旦は顔の色を陰らせた。妻はことし十九で三年前から張と夫婦になったもので、小作りで色の白い、右の眉のはずれに大きいほくろのある、まことに可愛らしい女であったが、夫の話をきいて少し考えているうちに、まただんだんにいつもの晴れやかな可愛らしい顔に戻って、かれは夫を慰めるように言った。
「それはあなたのおっしゃる通り、将軍は別に悪意があってなされた事ではなく、たくさんのなかですから、きっとお書き落しになったに相違ありません。あとで気がつけば取換えて下さるでしょう。いいえ、きっと取換えてくださいます。」
「しかし気がつくかしら。」
「なにかの
「むむ。」
夫は気のない返事をして、その晩はまずそのままで寝てしまった。それから二日ほど経つと、張訓は将軍の前によび出された。
「おい、このあいだの晩、おまえにやった扇には何が書いてあったな。」
こう訊かれて、張訓は正直に答えた。
「実は頂戴の扇面には何も書いてございませんでした。」
「なにも書いてない。」と、将軍はしばらく考えていたが、やがて、しずかにうなずいた。「なるほど、そうだったかも知れない。それは気の毒なことをした。では、その代りにこれを上げよう。」
前に貰ったのよりも遥かに上等な扇子に、将軍が手ずから
「それだから、わたくしが言ったのです。将軍はなかなか物覚えのいいかたですから。」
「そうだ、まったく物覚えがいい。大勢のなかで、どうして白扇がおれの手にはいったことを知っていたのかな。」
そうは言っても、別に深く
「こんなものが、大事のときの役に立つものか。いっそ紙の鎧を着た方がましだ。」
すると、妻はまた慰めるように言った。
「それは将軍が一々あらためて渡したわけでもないでしょうから、あとで気がつけばきっと取換えて下さるでしょう。」
「そうかも知れないな。いつかの扇子の例もあるから。」
そう言っていると、果して二、三日の後に、張訓は将軍のまえに呼び出されて、この間の鎧はどうであったかと、また
「おまえの家では何かの神を祭っているか。」
「いえ、一向に不信心でございまして、なんの神ほとけも祭っておりません。」
「どうも不思議だな。」
将軍のひたいの皺はいよいよ深くなった。そのうちに何を思い付いたか、かれはまた訊いた。
「おまえの妻はどんな女だ。」
突然の問いに、張訓はいささか面喰らったが、これは隠すべき筋でもないので、正直に自分の妻の年頃や人相などを申立てると、将軍は更に訊いた。
「そうして、右の眉の下に大きいほくろはないか。」
「よく御存じで······。」と、張訓もおどろいた。
「むむ、知っている。」と、将軍は大きくうなずいた。「おまえの妻はこれまで、二度もおれの枕もとへ来た。」
驚いて、呆れて、張訓はしばらく相手の顔をぼんやりと見つめていると、将軍も不思議そうにその子細を説明して聞かせた。
「実は半年ほど前に、おまえ達を呼んでおれの扇子をやったことがある。その明くる晩のことだ。ひとりの女がおれの枕もとへ来て、昨日張訓に下さいました扇子は白扇でございました。どうぞ御直筆のものとお取換えをねがいますと、言うかと思うと夢がさめた。そこで、念のためにお前をよんで訊いてみると、果してその通りだという。そのときにも少し不思議に思ったが、まずそのままにしておくと、またぞろその女がゆうべも来て、先日張訓に下さいました鎧は朽ち破れていて物の用にも立ちません。どうぞしかるべき品とお取換えをねがいますと言う。そこで、おまえに訊いてみると、今度もまたその通りだ。あまりに不思議がつづくので、もしやと思って詮議すると、その女はまさしくお前の妻だ。年ごろといい、人相といい、眉の下のほくろまでが寸分
子細をきいて、張訓もいよいよ呆れた。
「まったく不思議でございます。よく詮議をいたしてみましょう。」
「いずれにしても鎧は換えてやる。これを持ってゆけ。」
将軍から立派な鎧をわたされて、張訓はそれをかかえて退出したが、頭はぼんやりして半分は夢のような心持であった。三年越し連れ添って、なんの変ったこともない貞淑な妻が、どうしてそんな事をしたのか。さりとて将軍の詞に嘘があろうとは思われない。家へ帰る途中でいろいろ考えてみると、なるほど思い当ることがある。半年前の扇子の時にも、今度の鎧の問題にも、妻はいつでも先を見越したようなことを言って自分を慰めてくれる。それがどうもおかしい。たしかに不思議だ。これは一と詮議しなければならないと、張訓は急いで帰ってくると、妻はその鎧を眼早く見つけてにっこり笑った。
その可愛らしい笑い顔は鬼とも魔とも
「いつかの扇子のときも、今度の鎧についても、あなたは大層心もちを悪くしておいでのようでしたから、どうかしてお心持の直るようにして上げたいと、わたくしも心から念じていました。その真心が天に通じて、自然にそんな不思議があらわれたのかも知れません。わたくしも自分の念がとどいて嬉しゅうございます。」
そう言われてみると、夫もその上に踏み込んで詮議の仕様もない。唯わが妻のまごころを感謝するほかはないので、結局その場はうやむやに済んでしまったが、張訓はどうも気が済まない。その後も注意して妻の挙動をうかがっているうちに、前にも言う通りのわけで世の中はだんだんに騒がしくなる。将軍も軍務に忙しいので、張訓の妻のことなどを詮議してもいられなくなった。張訓もまた自分の務めが忙しいので、朝は早く出て、夕はおそく帰る。こうして半月あまりを暮らしていると、五月にはいって梅雨が毎日ふり続く。それも今日はめずらしく午後から小やみになって、夕方には薄青い空の色がみえて来た。
張訓も今日はめずらしく自分の仕事が早く片付いて、まだ日の暮れ切らないうちに帰ってくると、いつもはすぐに出迎えをする妻がどうしてか姿をみせない。内へはいって庭の方をふとみると、庭の隅には大きい
それが例の青蛙であることを知っていたら、何事もなしに済んだかも知れなかったが、張訓は武人で、青蛙神も金華将軍もなんにも知らなかった。かれの眼に映ったのは自分の妻が奇怪な三本足のがまを拝している姿だけである。このあいだからの疑いが初めて解けたような心持で、かれはたちまちに自分の剣をぬいたかと思うと、若い妻は背中から胸を突き透されて、ほとんど声を立てる間もなしに柘榴の木の下に倒れた。その死骸の上に紅い花がはらはらと散った。
張訓はしばらく夢のように突っ立っていたが、やがて気がついて見まわすと、三本足のがまはどこへか姿を隠してしまって、自分の足もとにころげているのは妻の死骸ばかりである。それをじっと眺めているうちに、かれは自分の短慮を悔むような気にもなった。妻の挙動は確かに奇怪なものに相違なかったが、ともかくも一応の詮議をした上で、生かすとも殺すとも相当の処置を取るべきであったのに、
「おまえの妻はやはり一種の鬼であったのだ。」
それから張訓の周囲にはいろいろの奇怪な出来事が続いてあらわれた。かれの周囲にはかならず三本足のがまが付きまとっているのである。室内にいれば、その
その怪しいがまの群れは、かれに対して別に何事をするのでもない。唯のそのそと付いて来るだけのことであるが、何分にも気味がよくない。もちろん、それは張訓の眼にみえるだけで、ほかの者にはなんにも見えないのである。かれも堪らなくなって、ときどきに剣をぬいて斬り払おうとするが、一向に手ごたえがない。ただ自分の前にいたがまがうしろに位置をかえ、左にいたのが右に移るに過ぎないので、どうにもこうにもそれを駆逐する方法がなかった。
そのうちに彼らはいろいろの仕事をはじめて来た。張訓が夜寝ていると大きいがまがその胸のうえに這いあがって、息が止るかと思うほどに強く押し付けるのである。食卓にむかって飯を食おうとすると、小さい青いがまが無数にあらわれて、皿や椀のなかへ片っ端から飛込むのである。それがために夜もおちおちは眠られず、飯も碌々には食えないので、張訓も次第に痩せおとろえて半病人のようになってしまった。それが人の目に立つようにもなったので、かれの親友の羊得というのが心配して、だんだんその事情を聞きただした上で、ある道士をたのんで祈祷を行なってもらったが、やはりその効はみえないで、がまは絶えず張訓の周囲に付きまとっていた。
一方、かの
その一隊は長江を渡って、北へ進んでゆく途中、ある小さい村落に泊ることになったが、人家が少ないので、大部分は野営した。柳の多い村で、張訓も羊得も柳の大樹の下に休息していると、初秋の月のひかりが
「どうだ。例のがまはまだ出て来るか。」
「いや、江を渡ってからは消えるように見えなくなった。」
「それはいいあんばいだ。」と、羊得もよろこばしそうに言った。
「こっちの気が張っているので、妖怪も付け込むすきがなくなったのかも知れない。やっぱり出陣した方がよかったな。」
そんなことを言っているうちに、張訓は俄かに耳をかたむけた。
「あ、琵琶の
それが羊得にはちっともきこえないので、大方おまえの空耳であろうと打ち消したが、張訓はどうしても聞えると言い張った。しかもそれは自分の妻の
「これは唯事でないらしい。」
羊得は引っ返して三、四人の朋輩を誘って、明るい月をたよりにそこらを尋ねあるくと、村を出たところに古い廟があった。あたりは秋草に掩われて、廟の軒も扉もおびただしく荒れ朽ちているのが月の光りに明らかに見られた。虫の声は雨のようにきこえる。もしやと思って草むらを掻きわけて、その廟のまえまで辿りつくと、さきに立っている羊得があっと声をあげた。
廟の前にはがまのような形をした大きい石が
張訓は廟のなかに冷たい体を横たえて、眠ったように死んでいた。おどろいて介抱したが、かれはもうその眠りから醒めなかった。よんどころなくその死骸を運んで帰って、一体あの廟には何を祭ってあるのかと村のものに訊くと、単に青蛙神の廟であると言い伝えられているばかりで、誰もその由来を知らなかった。廟内はまったく空虚で何物を祭ってあるらしい様子もなく、この土地でも近年は参詣する者もなく、ただ荒れるがままに打ち捨ててあるのだということであった。青蛙神||それが何であるかを羊得らも知らなかったが、大勢の兵卒のうちに杭州出身の者があって、その説明によって初めてその子細が判った。張訓の妻が杭州の生れであることは羊得も知っていた。
「これで、このお話はおしまいです。そういうわけですから、皆さんもこの青蛙神に十分の敬意を払って、怖るべき祟りをうけないよう御用心をねがいます。」
こう言い終って、星崎さんはハンカチーフで口のまわりを拭きながら、床の間の大きいがまを見かえった。
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星崎さんの話のすむあいだに、また三、四人の客が来たので座敷はほとんどいっぱいになった。星崎さんを皮切りにして、これらの人々が代る代るに一席ずつの話をすることになったのであるから、まったく怪談の
しかし初対面の人が多いので、一度その名を聞かされただけでは、どの人が誰であったやら
そこで、第二の男は語る。
座頭が利根川の岸に立っている。||ただそれだけのことならば格別の問題にもならないかも知れない。かれは年のころ三十前後で、顔色の蒼黒い、口のすこしゆがんだ、痩形の中背の男で、夏でも冬でも浅黄の
相手が盲人であるから、船頭は渡し賃を取らず渡してやろうと言っても、彼は寂しく笑いながら黙って
こうなると、船頭どもも見のがすわけにはいかない。一体なんのために毎日ここへ出てくるのかと、しばしば聞きただしたが、座頭はやはり寂しく笑っているばかりで、さらに要領を得るような返事をあたえなかった。しかし彼の目的は自然に覚られた。
奥州や日光の方面から来る旅びとはここから渡し船に乗ってゆく。江戸の方面から来る旅びとは栗橋から渡し船に乗り込んでここに着く。その乗り降りの旅人を座頭は一々に詮議しているのである。
「もし、このなかに野村彦右衛門というお人はおいでなされぬか。」
野村彦右衛門||侍らしい苗字であるが、そういう人はかつて通り合せないとみえて、どの人もみな答えずに行き過ぎてしまうのである。それでも座頭は毎日この渡し場にあらわれて、野村彦右衛門をたずねている。それが前にもいう通り、幾年という長い月日のあいだ一日もかかさないのであるから、誰でもその根気のよいのに驚かされずにはいられなかった。
「座頭さんは何でその人をたずねるのだ。」
こうした質問も船頭どもからしばしばくり返されたが、彼はただいつもの通り、笑っているばかりで、決してその口を開こうとはしなかった。彼は元来無口の男らしく、毎日この渡し場に立ち暮らしていながら、顔は見えずとも声だけはもう聞き慣れているはずの船頭どもに対しても、かつて馴れなれしい
いったい彼はどこに住んで、どういう生活をしているのかそれも判らない。どこから出て来て、どこへ帰るのか、わざわざそのあとを付けて行った者もないので、誰にもよく判らなかった。ここの渡しは明け六つに始まって、ゆう七つに終る。彼はそのあいだここに立ち暮らして、渡しの止まるのを合図にどこへか消えるように立去ってしまうのである。朝から晩までこうしていても、別に弁当の用意をして来るらしくもみえない。渡し小屋に寝起きをしている平助という
それが例となって、平助の小屋では毎日大きい握り飯を一つこしらえてやると、彼はきっと一文の銭を置いて行く。いくら物価の
往来のはげしい街道であるから、渡し船は幾艘も出る。しかし他の船頭どもは夕方から皆めいめいの家へ引揚げてしまって、この小屋に寝泊りをしているのは平助じいさんだけであるので、ある時彼は座頭に言った。
「お前さんはどこから来るのか知らないが、眼の不自由な身で毎日往ったり来たりするのは難儀だろう。いっそ、この小屋に泊ることにしたらどうだ。わたしのほかには誰もいないのだから遠慮することはない。」
座頭はしばらく考えた後に、それではここに泊らせてくれと言った。平助はひとり者であるから、たとい盲目でも話し相手の出来たのを喜んで、その晩から自分の小屋に泊らせて、出来るだけの面倒をみてやることにした。こうして、利根の
それでも唯一度、なにかの夜話のついでに、平助は彼に
「お前さんはかたき討かえ。」
座頭はいつもの通りにさびしく笑って
平助じいさんが彼を引取ったのは、盲人に対する同情から出発していたには相違なかったが、そのほかに幾分かの好奇心も忍んでいたので、彼は同宿者の行動に対してひそかに注意の眼をそそいでいたが、別に変ったこともないようであった。座頭は朝から夕まで渡し場へ出て、
平助は毎晩一合の寝酒で正体もなく寝入ってしまうので、
その様子がただならないようにみえたので、平助は素知らぬ顔をして再び眠ってしまったが、その夜半にかの盲人がそっと這い起きて来て、自分の寝ている上に乗りかかって、かの針のようなものを左の眼に突き透すとみて、夢が醒めた。そのうなされる声に座頭も眼をさまして、探りながらに介抱してくれた。平助はその夢についてなんにも語らなかったが、その以来なんとなくかの座頭が怖ろしくなって来た。
彼はなんのために針のようなものを持っているのか、盲人の商売道具であるといえばそれまでであるが、あれほどに太い針を隠し持っているのは少しく不似合いのことである。あるいは
この日は昼から薄寒い雨がふりつづいて、渡しを越える人も少なかったが、暮れてはまったく人通りも絶えた。河原には水が増したらしく、そこらの石を打つ音が例よりも凄まじく響いた。小屋の前の川柳に降りそそぐ雨の音も寂しくきこえて、馴れている平助もおのずと佗しい思いを誘い出されるような夜であった。肌寒いので炉の火を強く焚いて、平助は宵から例の一合の酒をちびりちびりと飲みはじめると、ふだんから下戸だといっている座頭は黙って炉の前に坐っていた。
「あ。」
座頭はやがて口のうちで言った。それに驚かされて、平助も思わず顔をあげると、小屋の外には何かぴちゃぴちゃいう音が雨のなかにきこえた。
「何かな。魚かな。」と、座頭は言った。
「そうだ。魚だ。」と、平助は
平助はそこにかけてある
「ああ、
鱸は強い魚であることを知っているので、平助も用心して抑えにかかったが、魚は予想以上に大きく、どうしても三尺を越えているらしいので、小さい網では
その物音を聞きつけて座頭も表へ出て来たが、盲目の彼は暗いなかを恐れるはずはなかった。彼は魚の跳ねる音をたよりに探り寄ったかと思うと、難なくそれを取抑えてしまったので、盲人として余りに
「針は魚の眼に刺さっていますか。」と、座頭は訊いた。
「刺さっているよ。」と、平助は答えた。
「刺さりましたか、確かに、眼玉のまん中に······。」
見えない眼をむき出すようにして、座頭はにやりと笑ったので、平助はまたぞっとした。
盲人は
「とんだ者を引摺り込んでしまった。」
平助は今さら後悔したが、さりとて思い切って彼を追い出すほどの勇気もなかった。却ってその後は万事に気をつけて、その御機嫌を取るように努めているくらいであった。
座頭がこの渡し場にあらわれてから足かけ三年、平助の小屋に引取られてから足かけ二年、あわせて丸四年ほどの年月が過ぎたのちに、彼は春二月のはじめ頃から
そんなからだでありながら、座頭は杖にすがって渡し場へ出てゆくことを怠らなかった。
「この寒いのに、朝から晩まで吹きさらされていては
平助は見かねて注意したが、座頭はどうしても
「それだから言わないことではない。まだ若いのに、からだを大事にしなさい。」と、平助じいさんは親切に看病してやったが、彼の病気はいよいよ重くなって行くらしかった。
渡し場へ出られなくなってから、座頭は平助にたのんで毎日一
一日に一尾、生きた魚の眼を突き潰しているばかりでなく、さらに平助をおどろかしたのは、座頭がその魚を買う代金として五枚の小判を彼に渡したことである。
旧暦の二月、あしたは彼岸の入りというのに、ことしの春の寒さは身にこたえて、朝から吹き続けている
その小屋の隅に寝ている座頭は弱い声で言った。
「風が吹きますね。」
「毎日吹くので困るよ。」と、平助は炉の火で病人の薬を煎じながら言った。「おまけに今日はすこし雪が降る。どうも不順な陽気だから、お前さんなんぞは尚さら気をつけなければいけないぞ。」
「ああ、雪が降りますか。雪が······。」と、座頭は溜息をついた。「気をつけるまでもなく、わたしはもうお別れです。」
「そんな弱いことを言ってはいけない。もう少し持ちこたえれば陽気もきっと春めいて来る。暖かにさえなれば、お前さんのからだも、自然に癒るにきまっている。せいぜい今月いっぱいの辛抱だよ。」
「いえ、なんと言って下すっても、わたしの寿命はもう尽きています。しょせん癒るはずはありません。どういう御縁か、お前さんにはいろいろのお世話になりました。つきましては、わたしの死にぎわに少し聴いておいてもらいたいことがあるのですが······。」
「まあ、待ちなさい。薬がもう出来た時分だ。これを飲んでからゆっくり話しなさい。」
平助に薬をのませてもらって、座頭は風の音に耳をかたむけた。
「雪はまだ降っていますか。」
「降っているようだよ。」と、平助は戸の隙間から暗い表をのぞきながら答えた。
「雪のふるたびに、むかしのことがひとしお身にしみて思い出されます。」と、座頭はしずかに話し出した。
「今まで自分の名をいったこともありませんでしたが、わたしは治平といって、以前は奥州筋のある藩中に
死にかかっている座頭の口から、こんな色めいた話を聞かされて、平助じいさんも意外に思った。
座頭はまた語りつづけた。
「わたしはこの
今もその眼から血のなみだが流れ出すように、座頭は痩せた指で両方の眼をおさえた。平助もこのむごたらしい
「それからどうしなすった。」
「にわか盲にされて放逐されて、わたしは城下の親類の家へ引渡されました。命には別条なく、疵の療治も済みましたが、にわか盲ではどうすることも出来ません。宇都宮に知りびとがあるので、そこへ頼って行って按摩の弟子になりまして、それからまた江戸へ出て、ある
言うだけのことを言ってしまって、彼はにわかに疲労したらく、そのまま横向きになって木枕に顔を押し付けた。平助も黙って自分の寝床にはいった。
夜半から雪もやみ、風もだんだんに吹きやんで、この一軒家をおどろかすものもなかった。利根の川水も凍ったように、流れの音を立てなかった。
河原の朝は早く明けて、平助はいつもの通りに眼をさますと、病人はしずかに眠っているらしかった。あまり静かなので、すこし不安に思って覗いてみると、座頭はかの針で自分の
他の船頭どもにも手伝ってもらって、平助は座頭の死骸を近所の寺へ葬った。勿論、かの針も一緒にうずめた。平助は正直者であるので、座頭が形見の小判五枚には手を触れず、すべて
それから六年、かの座頭がこの渡し場に初めてその姿をあらわしてから十一年目の秋である。八月の末に
「あぶねえぞ、気をつけろよ。水はまだほんとうに引いていねえのに、どの船もみんないっぱいだからな。」
平助じいさんは岸に立ってしきりに注意していると、古河の方から漕ぎ出した一艘の船はまだ幾間も進まないうちに、強い横波のあおりをうけて、あれという間に転覆した。平助のいう通り水はまだほんとうに引いていないので、船頭どものほかにも村々の若い者らが用心のために
供の者はいずれも無事で、その二人の口から、かの溺死者の身の上が説明された。かれは奥州の或る藩中の野村彦右衛門という侍で、六年以前から眼病にかかって、この頃ではほとんど盲目同様になった。江戸に眼科の名医があるというのを聞いて、主君へも届け済みの上で、その療治のために江戸へのぼる途中、ここで測らずも
それとはまたすこし違った意味で、平助じいさんは彼の死を怪しんだ。ほかの乗合いがみんな救われた中で、野村彦右衛門という盲目の侍だけがどうして溺れ死んだか、それを思うと、平助はまたにわかにぞっとした。彼は供の家来にむかって、このお方には奥さまがあるかとひそかに訊くと、御新造さまは遠いむかしに御離縁になったと答えた。いつの頃にどういうことで離縁になったのか、そこまでは平助も押して訊くわけにはいかなかった。
旅先のことであるから、家来どもは主人のなきがらを火葬にして、遺骨を国許へ持ち帰ると言っていた。平助は近所の寺へまいって、かの座頭の墓にあき草の花をそなえて帰った。
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第三の男は語る。
これは僕自身が
赤座は名を朔郎といって、僕と同時に学校を出た男だ。卒業の後は東京で働くつもりであったが、卒業の半年ほど前に郷里の父が突然死んだので、彼はどうしても郷里へ帰って、実家の仕事を引嗣がなければならない事情ができて、学校を出るとすぐに郷里へ帰った。赤座の郷里は越後のある小さい町で、彼の父は○○教の講師というものを勤めていて、その支社にあつまって来る信徒たちに向ってその教義を講釈していたのであった。○○教の組織は僕もよく知らない。素人の彼が突然に郷里へ帰ってすぐに父の跡目を受嗣ぐことが出来るものかどうか、その辺の事情はくわしく判らなかったが、ともかくも彼が郷里へ帰ってから僕のところへよこした手紙によると、彼はとどこおりなく父のあとを襲って、○○教の講師というものになったらしい。
もっとも、彼は僕とおなじく文科の出身で、そういう家の伜だけに、ふだんから宗教についても相当の研究を積んでいたらしいから、まず故障なしに父の跡目相続が出来たのであろう。しかし彼はその仕事をあまり好んでいないらしく、仲のいい友だち七、八人が催した送別会の席上でも、どうしても一旦は帰らなければならない面倒な事情を話して、しきりに不平や愚痴をならべていた。
「なに、二、三年のうちに何とか解決をつけて、また出て来るよ。雪のなかに一生うずめられて堪るものか。」
こんなことを彼は言っていた。郷里へ帰った後もわれわれのところへ、手紙をしばしばよこして、いろいろの事情から容易に現在の職をなげうつことが出来ないなどと、ひどく悲観したようなことを書いて来た。
赤座の実家には老母と妹がある。このふたりの女は無論に○○教の信仰者で、右ひだりから無理に彼をおさえつけて、どうしてもその職を去ることを許さないらしい。それに対して、彼にも非常の
赤座の手紙は、毎月一度ぐらいずつ必ず僕の手にとどいた。僕もその
彼が郷里へ帰ってから三年目に母は死んだ。その後も妹と二人暮らしで、支社につづいた社宅のような家に住んでいることを僕は知っていた。それからまた二年目の三月に、彼は妹を連れて上京した。勿論、それは突然なことではなく、来年の春は教社の用向きでぜひ上京する。妹もまだ一度も東京を知らないから、見物ながら一緒につれてゆくということは、前の年の末から前触れがあったので、僕は心待ちに待っていると、果して三月の末に赤座の
○○教の講師を幾年も勤めているというのであるから、定めて
「やあ。」
「やあ。」
こんな簡単な挨拶が交換された後に、彼は自分のそばに立っている小柄の娘を僕に紹介した。それが彼の妹の伊佐子というので、年は十九であるそうだが、いかにも雪国の女を代表したような色白のむすめで、可愛らしい小さい眼と細い眉とをもっていた。
「いい妹さんだね。」
「むむ。母がいなくなってから、
一緒に電車に乗って僕の家まで来るあいだにも、この兄妹が特別の親しみをもっているらしいことは僕にもよく想像された。それから約一カ月も僕の家に滞在して、教社の用向きや東京見物に春の日を暮らしていたが、たしか四月の十日と記憶している。僕は兄妹を誘って向島の花見に出かけると、それほどの強い降りでもなかったが、その途中から俄雨に出逢ったので、よんどころなしに或る料理屋へ飛び込んで、二時間ばかり雨やみを待っているあいだに、赤座は妹の身の上についてこんなことを話した。
「こんな者でも相応なところから嫁に貰いたいと申込んで来るが、何しろ
彼は最初の煩悶からまったく
それぎりで、僕はこの兄妹に出逢うことが出来なかったのか、それとも重ねて出逢っているのか、いまだに消えないその疑問が、この話の種だと思ってもらいたい。
郷里へ帰ると、赤座はすぐに長い礼状を書いてよこした。妹からも丁寧な礼状が来た。妹の方が赤座よりもずっと巧い字をかいているのを僕はおかしくも思った。その後も相変らず毎月一度ぐらいの
九月のはじめに僕は一度東京へ帰ったが、妙義の宿がなんとなく気に入ったのと、東京の残暑はまだ烈しいのとで、いっそ紅葉の頃まで妙義にゆっくり滞在して、やりかけた仕事をみんな仕上げてしまおうと思い直して、僕はその準備をして再び妙義の宿へ引揚げた。妙義へ戻った
十月のはじめに、僕は三たび赤座のところへ絵葉書を送ったが、これも返事を受取ることが出来なかった。赤座は教務でどこへか出張しているのかも知れない。それにしても、妹の伊佐子から何とか言って来そうなものだと思ったが、別に深くも気にとめないで、僕は自分の仕事の
「お客さまがおいでになりました。」
宿の女中がこう言って来たのは、十月ももう終りに近い日の午後五時頃であった。その日は朝から陰っていて、霧だか
「やあ。よく来たね。さあ、はいりたまえ。」
僕は片膝を立てながら声をかけると、赤座は懐かしそうな眼をして僕の方をじっと見ながら、そのまま引っ返して表の方へ出てゆくらしい。連れでも待たせてあるのかと思ったが、どうもそうではないらしいので、僕はすこし変に思ってすぐに
「おい、赤座君。どこへ行くんだ。おい、おい、赤座君。」
赤座は返事もしないで、やはり足を早めてゆく。僕は彼の名を呼びながら続いて追ってゆくと、妙義の
「寒い、寒い。」と、彼は口の中で言った。
「寒いとも······。日が暮れたら急に寒くなる。早く宿へ来て炉の火にあたりたまえ。それとも先にお詣りをして行くのか。」
それには答えないで、彼は無言で右の手を僕のまえにつき出した。薄暗いなかで透かしてみると、その人差指と中指とに
「まあ、ともかくもこれで押さえておいて、早く宿へ来たまえよ。」
彼はやはりなんにも言わないで、僕の手からその原稿紙を受取って、自分の右の手の甲を掩ったかと思うと、またそのまますたすたあるき出した。あと戻りをするのではなく、どこまでも山の上を目ざして登るらしい。僕はおどろいてまた呼び止めた。
「おい、君。これから山へ登ってどうするんだ。山へはあした案内する。きょうはもう帰る方がいいよ。途中で暗くなったら大変だ。」
こんな注意を耳にもかけないように、赤座は強情に登ってゆく。僕はいよいよ不安になって、幾たびか呼び返しながらそのあとを追って行った。八月以来ここらの山路には歩き馴れているので、僕もかなりに足が早いつもりであるが、彼の歩みはさらに早い。わずかのうちに二間離れ、三間離れてゆくので、僕は息を切って登っても、なかなか追い付けそうもない。あたりはだんだんに暗くなって、寒い雨がしとしとと降って来る。勿論、ほかに往来の人などのあろうはずもないので、僕は誰の加勢を頼むわけにもいかない。薄暗いなかで彼のうしろ姿を見失うまいと、
「赤座君。赤座君。」
僕の声はそこらの森に
路はいよいよ暗くなったので、僕は顔なじみの茶屋から提灯を借りて、雨のなかを下山した。雨具をつけていない僕は頭からびしょ濡れになって、宿へ帰りつく頃には骨まで凍りそうになってしまった。宿でも僕の帰りの遅いのを心配して、そこらまで迎えに出ようかと言っているところであったので、みんなも安心してすぐに炉のそばへ連れて行ってくれた。ぬれた身体を焚火にあたためて、僕は初めてほっとしたが、赤座に対する不安は大きい石のように僕の胸を重くした。僕の話をきいて宿の者も顔をしかめたが、その中には、こんな解釈をくだすものもあった。
「そういうお宗旨の人ならば、なにかの
二月の大雪のなかを第二の石門まで登って行った行者のあったことを宿の者は話した。しかしさっき出逢ったときの赤座の様子から考えると、彼はそんな行者のような難行苦行をする人間らしくも思われなかった。夜がふけても彼は帰って来なかった。彼は宿の者が言うように、どこかの石門の下でこの寒い雨の夜にお
そんなことを考えつづけながら、僕はその一夜をおちおち眠らずに明かしてしまった。夜があけると雨はやんでいた。あさ飯を食ってしまうと、僕は宿の者ふたりと案内者一人とを連れて、赤座のゆくえを探しに出た。
ゆうべの一本杉の茶屋まで行きつく間、我れわれは木立ちの奥まで隈なく探してあるいたが、どこにも彼の姿は見付からなかった。ゆうべ無暗に駈け歩いたせいか、けさは妙に足がすくんで思うように歩かれないので、僕はこの茶屋でしばらく休息することにして、他の三人は石門をくぐって登った。それから三十分と経たないうちに、そのひとりが引っ返して来て、蝋燭岩から谷間へころげ落ちている男の姿を発見したと、僕に報告してくれた。僕は跳ねあがるように
茶屋の者は僕の宿へその出来事をしらせに行った。
宿からも手伝いの男が駈けつけて来て、ともかくも赤座の死体を宿まで運んで来たのは、午前十一時にちかい頃であった。雨あがりの初冬の日はあかるく美しくかがやいて、杉の木立ちのなかでは小鳥のさえずる声がきこえた。
「あ。」
こう言ったままで、僕はしばらくその死体を見つめていた。男の死体は岩石で額を打たれて半面に血を浴びているのと、泥や木の葉がねばり着いているのとで、今まではその人相をよくも見とどけずに、その服装によって
「どういう訳だろう。」
僕は夢のような心持で、その死体をぼんやり眺めていた。勿論、きのうはもう薄暗い時刻であったが、僕をたずねて来た赤座の服装はたしかにこれであった。死体は洋服をきて、靴下に
原稿紙||それは妙義神社の前で、赤座の指の傷をおさえるために、僕の袂から出してやった原稿紙ではないか。しかも初めの二、三行には僕のペンの痕がありありと残っているではないか。僕は更に死体の手先をあらためると、右の人差指と中指には、摺りむいたような傷のあとが残っている。原稿紙にも血のあとがにじんでいる。こういう証拠が揃っている以上は、ゆうべの男はたしかにこの死体に相違ない。それを赤座だと思ったのは僕のあやまりであろうか。しかし彼は僕をたずねて来たのである。うす暗がりではあったが、僕もたしかに彼を赤座と認めた。それがいつの間にか別人に変っている。どう考えてもその理屈がわからないので、僕はいよいよ夢のような心持で、手に握った原稿紙と死体の顔とをいつまでもぼんやりと見くらべていた。
駐在所の巡査も宿屋の者も、僕の説明を聴いて不思議そうに首をかしげていた。たしかに不思議に相違ない。この奇怪な死人は蟇口に二円あまりの金を入れているだけで、ほかには何の手がかりとなるような物も持っていなかった。彼は身許不明の死亡者として町役場へ引渡された。
これでこの事件はひとまず解決したのであるが、僕の胸に大きく横たわっている疑問は決して解決しなかった。僕はすぐに越後へ手紙を送って、赤座の安否を聞き合せると、兄からも妹からも何の返事もなかった。
疑いはますます大きくなるばかりで、僕はなんだか落着いていられないので、とうとう思い切って彼の郷里までたずねて行こうと決心した。幸いにここからはさのみ遠いところではないので、僕は妙義の山を降って松井田から汽車に乗って、信州を越えて越後へはいった。○○教の支社をたずねて、赤座朔郎に逢いたいと申入れると、世話役のような男が出て来て、講師の赤座はもう死んだというのであった。いや、赤座ばかりでない、妹の伊佐子もこの世にはいないというのを聞かされて、僕は頭がぼうとする程に驚かされた。
赤座の兄妹はどうして死んだか。その事情については、世話役らしい男もとかくに言い渋っていたが、僕があくまでも斬り込んで詮議するので、彼もとうとう包み切れないでその事情をくわしく教えてくれた。
この春、赤座が僕に話した通り、彼は妻を迎えようとしても適当な女が見あたらない。妹も兄が妻帯するまでは他へ嫁入りするのを見あわせて、兄の世話をしているという決心であった。こうして、兄妹は仲よく暮らしていた。そのうちに、町の或る銀行に勤めている内田という男がやはりおなじ信者である関係から、伊佐子を自分の妻に貰いたいと申込んだが、赤座はその人物をあまり好まなかったとみえて
兄にも妹にも
信徒の多数はそれを信じなかったが、ともかくもこんな噂を伝えられるということは非常な迷惑であった。ひいては布教の上にも直接間接の影響をあたえるのは判り切っていた。支社の方では新聞社に交渉して、まずその記事の出所を確かめようとしたが、これは新聞の習いとして原稿の出所を明白に説明することを
それから幾日かの後に、その新聞紙上に五、六行の取消し記事が掲載されたが、そんな形式的の事では赤座は満足できなかった。しかし彼は決して人を怨まなかった。彼はそれを自分の信ずる神の罰だと思った。自分の信仰が至らないために○○教の神から大いなる刑罰を下されたのであると信じていた。彼は堪えがたい
彼はいつも神前に礼拝する時に着用する白い
他の人々がおどろいて駈けつけた時はいよいよ遅かった。兄はもう焼けただれて息がなかった。妹は全身に
その凄惨の出来事は前の記事以上に世間をおどろかして、赤座の死因についてはいろいろの想像説が伝えられたが、
「その内田という男の居処はまだ知れませんか。」と、僕は訊いた。
「知れません。」と、それを話した世話役は答えた。「銀行の方には別に不都合はなかったようですから、まったく世間の評判が怖ろしかったのであろうと思われます。」
「内田はいくつぐらいの男ですか。」
「二十八九です。」
「家出をした時には、どんな服装をしていたか判りませんか。」と、僕はまた訊いた。
「銀行から家へ帰らずに、すぐに東京行きの汽車に乗り込んだらしいのですが、銀行を出た時には鼠色の洋服を着て、中折帽子をかぶっていたそうです。」
僕の
「そうすると、妙義へ君をたずねて行ったのは、その内田という男なのかね。」
青蛙堂の主人はその話のとぎれるのを待ちかねたようにたずねると、第三の男は大きい溜息をつきながらうなずいた。
「そうだ。僕の話を聴いて、彼の親戚と銀行の者とが僕と一緒に妙義へ来てみると、蝋燭谷の谷底に横たわっていた死体は、たしかに内田に相違ないということが判った。しかし彼がなぜ僕をたずねて来たのか、それは誰にも判らない。僕にも無論わからなかった。それが怖ろしい秘密だよ。赤座兄妹の身の上にそんな変事があろうとは僕は夢にも知らないでいた。そこへ赤座||僕の眼には確かにそう見えた||が不意にたずねて来た。しかもそれは赤座自身ではない、却って赤座の
「兄妹の魂がかれを誘い出して来たとでもいうのかね。」と、主人は考えながら言った。
「まずそうだ。僕もそう解釈していた。それにしても、赤座は僕に一度逢いたいので、そのたましいが彼のからだに乗りうつって来たのか。あるいは自分たちの死を報告するために、彼を使いによこしたのか。内田という男がどうして僕の居どころを知っていたのか。僕にはどうもはっきり判らないので、その後もいろいろの学者たちに逢ってその説明を求めたが、どの人も僕に十分の満足をあたえるほどの解答を示してくれない。
しかし大体の意見はこういうことに一致しているらしい。すなわち内田という人間は一種の自己催眠にかかって、そういう不思議の行動を取ったのであろう、というのだ。内田は一旦の出来ごころで、赤座の兄妹を傷つけようと企てたが、その結果が予想以上に大きくなって、兄妹があまりに物凄い死に方をしたので、彼も急におそろしくなった。彼もおなじ宗教の信者であるだけに、いよいよその罪をおそろしく感じたかも知れない。そうして、兄妹の怨恨がかならず自分の上に
||と、こういうことになっているんだが、僕は催眠術をくわしく研究していないから、果してどうだか判らない。外国へ行ったときに心霊専門に研究している学者たちにも訊いてみたが、その意見はまちまちで、やはり正確な判断を下すまでに至らなかったのは残念だ。しかし学者の意見はどうであろうとも、実際、かの内田が自己催眠に
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第四の女は語る。
わたくしは
まことにお恥かしいことでございますが、その頃わたくしの家は吉原の
祖父はわたくしが三つの年に歿しまして、明治元年、江戸が東京と変りましたときには、当主の父は三十二で、名は市兵衛と申しました。それが代々の主人の名だそうでございます。なにしろ急に世の中が引っくり返ったような騒ぎですから、世間一統がひどい不景気で、芝居町や吉原やすべての遊び場所がみんな火の消えたような始末。おまけに新富町には新島原の廓が新しく出来ましたので、その方へお客を引かれる。わたくしの父なぞは、いっそもう商売をやめてしまおうかなぞと言ったくらいでしたが、母や同商売の人にも意見されて、もう少し世の成行きを見ていようといううちに、京橋のまん中に遊廓なぞを置くのはよくないというので、新島原は間もなくお取潰しになりまして、妓楼はみんな吉原へ移されることになりました。
これで少しは息がつけるかと思っていると、明治五年には前に申した通りの切解きで······。今までの遊女や芸妓は人身売買であるからよろしくないというので、一度にみんな解放を命ぜられました。こんにちでは
しかしその時代のことですから、何事もお
父は若いときから俳諧が好きでして、下手か上手か知りませんが、三代目夜雪庵の門人で羅香と呼んでおりまして、すでに
御承知でもございましょうが、明治初年の書画骨董ときたらほんとうの捨て売りで、菊池容斎や渡辺崋山の名画が一円五十銭か二円ぐらいで古道具屋の
その骨董類は、床の置物とか花生けとか文台とかいうたぐいの物でしたが、そのなかに一つ、木彫りの猿の
その頃にはそういう夜店商人がいくらも出ていましたので、これも落ちぶれた士族さんが家の道具を持出して来たのであろうと、父はすぐに推量して、気の毒に思いながらその店をのぞいて見ると、目ぼしい品はもう大抵売尽してしまったとみえて、店には碌な物も
「これはお払いになるのでございますか。」
相手が普通の夜店商人でないとみて、父も丁寧にこう
「失礼ながらおいくらでございますか。」
「いえ、いくらでもよろしゅうございます。」
まことに士族の
いよいよ売買の掛合いが済んでから、父は相手に
「このお面は古くからお持ち伝えになっているのでございますか。」
「さあ、いつの頃に手に入れたものか判りません。実はこんなものが手前方に伝わっていることも存じませんでしたが、御覧の通りに
「箱にでもはいっておりましたか。」
「箱はありません。ただ
売る人はあくまでも正直で、なにもかも打ち明けて話しました。
それだけのことを聞かされて、その仮面を受取って、父は吉原の家へ帰って来ましたが、あくる日になってよく見ると、ゆうべ薄暗いところで見たのとは余ほど違っていて、かなりに古いものには相違ないのですが、刀の使い方もずいぶん不器用で、さのみの上作とは思われません。これが三歩では少し買いかぶったと今さら後悔するような心持になったのですが、むこうが二歩でいいと言うのをこちらから無理に買上げたのですから、苦情の言いようもありません。「こんなものは仕方がない。まあ、困っている士族さんに恵んであげたと思えばいいのだ。」
こう諦めて、父はその仮面を戸棚の奥へ押込んでおいたままで、自分でももう忘れてしまったくらいでしたが、今度いよいよ吉原の店をしまうという段になって、いろいろの書画骨董類を整理するときに、ふと見つけ出したのが
そこで、これはまあこのままに残しておこうと言って、前に申した通り、五、六点の骨董のうちに加えて持ち出すことになったのでした。なぜそれが急に惜しくなったのか、自分にもその時の心持はよく判らないと、父は後になって話しました。
とにかくそういう訳で、わたくし共の一家が多年住みなれた吉原の廓を立退きましたのは明治六年の四月、新しい暦では花見月の中頃でございました。今度引移りましたのは今戸の小さい家で、間かずは
それから
父は今まで世間の附合いを広くしていたせいでございましょう、今戸へ引移りましてからも尋ねて来る人がたくさんあります。俳諧のお友だちも大勢みえます。吉原を立退いたらばさぞ寂しいことだろうと、わたくしも子供心に悲しく思っていたのですが、そういうわけで人出入りもなかなか多く、思ったほどには寂しいこともないので、母もわたくしも内々よろこんでおりますうちに、こんな事件が
前にも申した通り、今度の家は四間で、玄関の寄付きが三畳、女中部屋が四畳半、茶の間が六畳、座敷が八畳という間取りでございまして、その八畳の間に両親とわたくしが一緒に寝ることになっていました。そこへ一人の泊り客が出来ましたので、まさかに玄関へ寝かすわけにもいかず、茶の間へも寝かされず、父が机を控えている離れの四畳半が夜は明いているので、そこへ泊めることにしたのでございます。
その泊り客は四谷の井田さんという質屋の息子で、これも俳諧に
女中に案内されて、井田さんは離れの四畳半に寝る。わたくし共はいつもの通りに八畳に寝る。女中ふたりは台所のとなりの四畳半に寝る。雨には風がまじって来たとみえて、雨戸をゆするような音も聞えます。場所が今戸の
「井田さんはどうかしたんでしょうか。」と、母が不安らしく言いますと、「なんだかうなっているようだな。」と、父も不審そうに言っています。
それを聴いて、わたくしはまたにわかに怖くなりました。夜がふけて、雨や風や浪の音はいよいよ高くきこえます。
「ともかくも行ってみよう。」
父は枕もとの
「井田さんも若いな。何かあの座敷に
「まあ、どうしたんでしょう。」
母は半信半疑のように考えていると、父はまた笑いました。
「若いといっても、もう二十二だ。子供じゃあない。つまらないことを言って、夜なかに人騒がせをしちゃあ困るよ。」
父も母もそれぎり寝てしまったようですが、わたくしはいよいよ怖くなって寝られませんでした。ほんとうにお化けが出たのかしら。こんな晩だからお化けが出ないとも限らない。そう思うと眼が冴えて、小さい胸に動悸を打って、とても再び眠ることは出来ません。
早く夜が明けてくれればいいと祈っていると、浅草の鐘が二時を撞く。その途端に離れの方では、何かどたばたいうような音がまた聞えたので、わたくしははっと思って、髪のこわれるのもいとわずに、あたまから夜具を引っかぶって小さくなっていますと、父も母もこの物音で眼をさましたようです。
「また何か騒ぎ出したのか。どうも困るな。」
父は
井田さんは、真っ蒼になって、ただ黙っているのですが、離れから庭へころげ落ちたとみえて、
「おまえ達はもういいから、あっちへ行ってお休み。」
父は女中たちを部屋へさがらせて、それから井田さんにむかって一体どうしたのかと訊きますと、井田さんは低い声で言い出しました。
「どうもたびたび、お騒がせ申しまして相済みません。さっきも申した通り、あの四畳半の離れに寝かしていただいて、枕についてうとうと眠ったかと思いますと、急になんだか寝苦しくなって、誰かが髪の毛をつかんで引抜くように思われるので、夢中で声をあげますと、それがあなた方にも聞えまして、宗匠がわざわざ起きて来て下さいました。宗匠は夢でも見たのだろうとおっしゃいましたが、夢か
井田さんの話が嘘でないらしいことは、その顔色を見ても知れます。
洒落や冗談にそんな人騒がせをするような人でないこともふだんから判っているので、父も不思議そうに聴いていましたが、ともかくも念のために見届けようと言って
「どうも不思議だな。」
わたくしはまたぎょっとしました。父がそういう以上、それがいよいよ本当であるに相違ありません。母も井田さんも黙って父の顔をながめているようでした。
仮面は戸棚の奥にしまい込んでおいたのを、今度初めて離れの柱にかけたのですが、誰も四畳半に寝る者はないので、その眼が光るかどうだか、小ひと月のあいだも知らずに済んでいたのですが、今夜この井田さんを寝かしたために、初めてその不思議を見つけ出したというわけです。木彫りの猿の眼が鬼火のように青く光るとは、聞いただけでも気味のわるい話です。
なにしろ夜が明けたらばもう一度よく調べてみようということになって、井田さんを茶の間の六畳に寝かし付けて、その晩はそれぎり無事にすみましたが、東が白んで、雨風の音もやんで、八幡さまの森に明鴉の声がきこえる頃まで、わたくしはおちおち眠られませんでした。
夜が明けると、きょうは近頃にないくらいのいいお天気で、隅田川の濁った水の上に青々した大空が広くみえました。夏の初めの晴れた朝は、まことに気分のさわやかなものでございます。
ゆうべろくろく寝ませんので、わたくしはなんだか頭が重いようでございましたが、座敷の窓から川を見晴らして、涼しい朝風にそよそよ吹かれていますと、次第に気分もはっきりとなって来ました。そのうちに朝のお膳の支度が出来まして、父と井田さんとは差向いで御飯をたべる。わたくしがそのお給仕をすることになりました。
御飯のあいだにもゆうべの話が出まして、父はあの猿の仮面を手に入れた由来をくわしく井田さんに話していました。
「あなた一人でなく、現にわたくしも見たのですから、心の迷いとか、眼のせいだとかいう訳にはいきません。」と、父は箸をやすめて言いました。「それで思いあたることは、あの面を売った士族の人が、いつの頃に誰がしたのか知らないが、猿の面には白布をきせて目隠しをしてあったと言いました。そのときには別になんとも思いませんでしたが、今になって考えると、あの猿の眼には何かの不思議があるので、それで目隠しをしておいたのかも知れません。」
「はあ、そんな事がありましたか。」と、井田さんも箸をやすめて考えていました。「そういう訳では、売った人の居どころはわかりますまいね。」
「判りません。なにしろおとどしの暮れのことですから、その後にも広小路をたびたび通りましたが、そんな古道具屋のすがたを再び見かけたことはありませんでした。商売の場所をかえたか、それとも在所へでも引っ込んだかでしょうね。」
御飯が済んでから、父と井田さんは離れへ行って、明るい所で猿の仮面の正体を見届けることになりましたので、母もわたくしも女中たちも怖いもの見たさに、あとからそっと付いて行って遠くから覗いておりますと、父も井田さんも声をそろえて、どうも不思議だ不思議だと言っています。
どうしたのかと訊いてみると、その仮面がどこへか消えてなくなったというのです。井田さんが戸をこじ開けてころげ出してから、夜のあけるまで誰もその離れへ行った者はないのですから、こっちのどさくさまぎれに何者かが忍び込んで盗んで行ったのかとも思われますが、ほかの物はみんな無事で、ただその仮面一つだけが紛失したのは、どうもおかしいと父は首をかしげていました。しかしいくら詮議しても、評議しても、無いものはないのですから、どうも仕方がございません。ただ不思議ふしぎを繰返すばかりで、なんにも判らずじまいになってしまいました。
けさになっても井田さんは、気分がまだほんとうに好くないらしく、蒼い顔をして早々に帰りましたので、父も母も気の毒そうに見送っていました。
それが
「辞世にまで猿の眼を詠むようでは、やっぱり猿の一件が
そうは言っても、父は相変らず離れの四畳半に机をひかえて、好きな俳諧に日を送っているうちに、お弟子もだんだんに出来ました。どうにかこうにか一人前の宗匠株になりましたのでございます。
それから三年ほどは無事に済みまして、明治十年、御承知の西南戦争のあった年でございます。その時に父は四十一、わたくしは十七になっておりましたが、その年の三月末に孝平という男がぶらりと尋ねてまいりました。以前は吉原の幇間であったのですが、師匠に破門されて
「これはさるお旗本のお屋敷から出ましたもので、箱書には大野
紐を解いて、蓋をあけて取出した
孝平はそれをどこかで手に入れて、大野出目の作なぞといういい加減の箱をこしらえて、高い値に売込もうというたくらみと見えました。そんなことは骨董屋商売として珍しくもないことですから、父もさのみに驚きもしませんでしたが、ただおどろいたのは、その仮面がどこをどう廻りまわって、再びこの家へ来たかということです。
その出所をきびしく詮議されて、孝平の化けの皮もだんだんにはげて来て、実は四谷通りの夜店で買ったのだと白状に及びました。その売手はどんな人だと訊きますと、年ごろは四十六七、やがて五十近いかと思われる士族らしい男だというのです。男の児を連れていたかと訊くと、自分ひとりで筵の上に坐っていたという。その人相などをいろいろ聞きただすと、どうも上野に夜店を出していた男らしく思われるのです。いくらで買ったと訊きますと、十五銭で買ったということでした。十五銭で買った仮面を箱に入れて、大野出目の作でございなぞは、なんぼこの時代でもずいぶんひどいことをする男で、これだから師匠に破門されたのかも知れません。
なんにしても、そんなものはすぐに突き戻してしまえばよかったのですが、その猿の仮面がほんとうに光るかどうか、父はもう一度ためしてみたいような気になったので、ともかくも二、三日あずけておいてくれと言いますと、孝平は二つ返事で承知して、その仮面を父にわたして帰りました。
母はそのとき少し加減が悪くて、寝たり起きたりしていたのですが、あとでその話を聞いていやな顔をしました。
「あなた、なぜそんな物をまた引取ったのです。」
「引取ったわけじやない。まったく不思議があるかないか、試して見るだけのことだ。」と、父は平気でいました。
以前と違って、わたくしももう十七になっていましたから、ただむやみに怖い怖いばかりでもありませんでしたが、井田さんの死んだことなぞを考えると、やっぱり気味が悪くてなりませんでした。父は以前の通りその仮面を離れの四畳半にかけておいて、夜なかに様子を見にゆくことにしまして、母と二人で八畳の間に床をならべて寝ました。わたくしはもう大きくなっているので、この頃は茶の間の六畳に寝ることにしていました。
旧暦では何日にあたるか知りませんが、その晩は
そうして四畳半の戸をしずかに開けたかと思う途端に、次の間であっという母の声がきこえたので、思わず飛び起きて襖をあけて見ましたが、行燈は消えているのでよく判りません。あわてて手探りで火をとぼしますと、母は寝床から半分ほどもからだを這い出させて、畳の上に
「おっかさん、おっかさん。どうしたんですよ。」
その声におどろいて女中たちも起きて来ました。父も庭口から戻って来ました。水や薬をのませて介抱して、母はやがて正気にかえりましたが、その話によると誰かが不意に母の丸髷を引っ掴んで、ぐいぐいと寝床から引摺り出したということです。
「むむう。」と、父は溜息をつきました。「どうも不思議だ。猿の眼はやっぱり青く光っていた。」
わたくしはまたぞっとしました。
あくる日、父は孝平を呼んでその事を話しますと、孝平も青くなって
「それにしても、その古道具屋というのは変な奴ですね。あなたに面を売ったのと同じ人間だかどうだか、念のために調べて見ようじゃありませんか。」
孝平は父を誘い出して、その晩わざわざ山の手まで登って行きましたが、四谷の大通りにそんな古道具屋の夜店は出ていませんでした。ここの処に出ていたと孝平の教えた場所は、丁度かの井田さんの質屋のそばであったので、さすがの父もなんだかいやな心持になったそうです。母はその後どうということもありませんでしたが、だんだんにからだが弱くなりまして、それから三年目に亡くなりました。
「お話はこれだけでございます。その猿の眼には何か薬でも塗ってあったのではないかと言う人もありましたが、それにしても、その仮面が消えたり出たりしたのが判りません。井田さんの髪の毛を掻きむしったり、母の
「まったく判りませんな。」
青蛙堂主人も溜息まじりに答えた。
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第五の男は語る。
わたしの郷里には蛇に関する一種の怪談が伝えられている。勿論、蛇と怪談とは離れられない因縁になっていて、蛇に
わたしの郷里は九州の
その有害無害は別として、誰にでも嫌われるのは蛇である。ここらの人間は子供のときから見馴れているので、他国の者ほどにはそれを嫌いもせず、恐れもしないのであるが、それでも蝮とうわばみだけは恐れずにはいられない。蝮は毒蛇であるから、誰でも恐れるのは当然であるが、しかしここらでは蝮のために命をうしなったとか、
蝮は山ばかりでなく、里にもたくさん棲んでいるが、馴れている者は手拭をしごいて二つ折りにして、わざとその前に突きつけると、蝮は怒ってたちまちにその手拭にかみつく。その途端にぐいと引くと
しかし、かのうわばみにいたっては、蝮と
それがために、いつの代から始まったのか知らないが、ここらの村では旧暦の四月のはじめ、かのうわばみがそろそろ活動を始めようとする頃に、蛇祭りというのを執行するのが年々の例で、長い青竹を胴にしてそれに草の葉を編みつけた大蛇の
そのなかでただひとり、かのうわばみをちっとも恐れない人間||むしろうわばみの方から恐れられているかも知れない、と思われるような人間がこの村に棲んでいた。彼は本名を吉次郎というのであるが、一般の人のあいだにはその
その吉次郎は既に世を去って、そのせがれの吉次郎がやはり父のあとを継いで屋根屋とうわばみ退治とを兼業にしていたが、その手腕はむしろ先代をしのぐというので、二代目の蛇吉は大いに村の人々から信頼されていた。かれは六十に近い老母と二人暮らしで、ここらの人間としてはまず普通の生活をしていたが、いつか本職の屋根屋を廃業して、うわばみ退治専門になった。彼は夏の間だけ働いて、冬のあいだは寝て暮らした。
彼はどういう手段でうわばみを退治するかというと、それには二つの方法があるらしい。その一つは、うわばみの出没しそうな場所を選んで、そこに深い穴をほり、そのなかで一種の薬を焼くのである。うわばみはその匂いをかぎ付けて、どこからか這い出して来て、そのおとし穴の底にのたり込むと、穴が深いので再び這いあがることが出来ないばかりか、その薬の香に酔わされて遂に麻痺したようになる。そうなれば生かそうと殺そうと彼の自由である。ただしその薬がどんなものであるか、彼は堅く秘して人に洩らさなかった。
単にこれだけのことであれば、その秘密の薬さえ手に入れば誰にでも出来そうなことで、特に蛇吉の手腕を認めるわけにはいかないが、第二の方法は彼でなければ殆んど不可能のことであった。たとえばうわばみが村のある場所にあらわれたという急報に接して、今更にわかにおとし穴を作ったり、例の秘薬を焼いたりしているような余裕のない場合にはどうするかというと、彼は一挺の
「おれはきっと二本目でくい止めてみせる。三本目を越して来るようでは、おれの命があぶない。」
かれは常にこう言っていた。そうして、かの手斧を持って、第一線を前にして立っていると、うわばみは眼をいからせて向って来るが、第一線の前に来てすこし躊躇する。その隙をみて、かれは猶予なく飛びかかって敵の真っ向をうち砕くのである。もし第一線を躊躇せずに進んで来ると、彼は後ろ向きのままで蛇よりも早くするすると引下がって、更に第二線を守るのである。第一線を乗り越えた敵も、第二線に来るとさすがに躊躇する。躊躇したが最後、蛇吉の斧はその頭の上に打ちおろされるのである。彼の言う通り、大抵のうわばみは第一線にほろぼされ、たとい頑固にそれを乗り越えて来ても、第二線の前にはかならずその頭をうしなうのであった。
口でいうとこの通りであるが、なにしろ正面から向って来る蛇に対してまず第一線で支え、もし危いと見ればすぐに退いて第二線を守るというのであるから、飛鳥といおうか、走蛇といおうか、すこぶる敏捷に立廻らなければならない。蛇吉の蛇吉たるところはここにあると言ってよい。
ところが、ある時、その第二線をも平気で乗り越えて来た大蛇があったので、見物している人々は手に汗を握った。蛇吉も顔の色を変えた。彼はあわてて退いて第三線を守ると、敵は更に進んで乗り越えた。
「ああ、駄目だ。」
人々は思わず溜息をついた。
蛇吉が退治に出るときは、いつでも
その以来、人々はいよいよ蛇吉を畏敬するようになった。彼が振りまく粉薬も一種の秘薬で、蛇を毒するものに相違ない。その毒に弱るところを撃ち殺すという、その理屈は今までにも大抵判っていたが、今度のことは何とも判断が付かなかった。九死一生の場になって、彼がなにかの呪文を唱えながら自分の股引を二つに引裂くと、蛇もまた二つに引裂かれて死んだ。
こうなると、一種の魔法といってもよい。もちろん、彼に訊いたところで、その説明をあたえないのは知れ切っているので、誰もあらためて詮議する者もなかったが、彼はどうもただの人間ではないらしいという噂が、諸人の口から耳へとささやかれた。
「蛇吉は人間でない。あれは蛇の精だ。」
こんなことを言う者も出て来た。
人間でも、蛇の精でも、蛇吉の存在はこの村の幸いであるから、誰も彼に対して反感や敵意をいだく者もなかった。万一彼の感情を害したら、どんな祟りをうけるかも知れないという恐怖もまじって、人々はいよいよ彼を尊敬するようになった。かの股引の一件があってから半年ほどの後に、蛇吉の母は頓死のように死んで、村じゅうの人々からねんごろに
母のないあとは蛇吉ひとりである。かれはもう三十を一つ二つ越えている。本来ならばとうに嫁を貰っているはずであるが、なにぶんにも蛇吉という名がわずらいをなして、村内はもちろん、近村からも進んで縁談を申込む者はなかった。彼は村の者からも尊敬されている。うわばみの種の尽きない限りは、その生活も保証されている。しかも彼と縁組をするということになると、さすがに二の足を踏むものが多いので、彼はこの年になるまで独身であった。
「今まではおふくろがいましたから何とも思わなかったが、自分ひとりになるとどうもさびしい。第一に朝晩の煮炊きにも困ります。誰か相当の嫁をお世話下さいませんか。」と、彼はあるとき庄屋の家へ来て頼んだ。
庄屋も気の毒に思った。なんのかのと
「まったくあの男も気の毒だがなあ。」
気の毒だとは言いながら、さて自分の娘をやろうとも、妹をくれようともいう者はないので、庄屋も始末に困っていると、そのなかで小利口な一人がこんなことを言い出した。
「では、どうだろう。このあいだから重助の家に遠縁の者だとかいって、三十五六の女がころげ込んでいる。なんでもどこかのだるま茶屋に奉公していたとかいうのだが、重助に相談してあの女を世話してやることにしては······。」
「だが、あの女には悪い病いがあるので、重助も困っているようだぞ。」と、またひとりが言った。
「しかし、ともかくもそういう心あたりがあるなら、重助をよんで訊いてみよう。」
庄屋はすぐに重助を呼んだ。彼は、水呑み百姓で、一家内四人の暮らしさえも細ぼそであるところへ、この間から自分の
「半病人では困るな。」と、庄屋も顔をしかめた。「実は嫁の相談があるのだが······。」
「あんな奴を嫁に貰う人がありますかしら。」と、重助は不思議そうに訊いた。
「きっと貰うかどうかは判らないが、あの吉次郎が嫁を探しているのだ。」
「はあ、あの蛇吉ですか。」
蛇吉でも何でも構わない。あんな奴を引取ってくれる者があるならば、どうぞお世話をねがいたいと重助はしきりに頼んだ。しかし半病人ではどうにもならないから、いずれ達者な体になってからの相談にしようと、庄屋は彼に言い聞かせて帰した。
それから半月ほど経って、重助は再び庄屋の家へ来て、女の病気はもう癒ったからこのあいだの話をどうぞまとめてくれと言った。彼は余程その女の始末に困っているらしい。したがってその病気全快というのもなんだか疑わしいので、庄屋もその返事に渋っているところへ、あたかもかの蛇吉が催促に来て、まだなんにも心当りはないかと言った。
嫁にやりたいという人、嫁を貰いたいという人、それが同時に落ち合ったのは何かの縁かも知れないと思ったので、庄屋はともかくもその話を切出してみると、蛇吉は二つ返事で何分よろしく頼むと答えた。女は三十七で自分よりも五つ年上であること、女は茶屋奉公のあがりで悪い病気のあること、それらをすべて承知の上で自分の嫁に貰いたいと彼は言った。
こうなれば、もう子細はない。話はすべるように進行して、それから更に半月とは過ぎないうちに、蛇吉の家には
庄屋の疑っていた通り、お年はまだほんとうに全快しているのではなかった。無理に起きてはいるものの、お年は真っ蒼な顔をして幽霊のように痩せ衰えていた。よんどころない羽目で世話をしたものの、あれで無事に納まってくれればいいがと、庄屋も内々心配していると、不思議なことには、それからまた半月と過ぎ、ひと月と過ぎてゆくうちに、お年はめきめきと元気が付いて来て、顔の色も見ちがえるように
「蛇吉が蛇の黒焼でも食わしたのかも知れねえぞ。」と、陰では噂をする者もあった。
それはどうだか判らないが、お年が健康を回復したのは事実であった。そうして、年下の亭主と仲よく暮らしているのを見て、庄屋もまず安心した。実際、かれらの夫婦仲は他人の想像以上にむつまじかった。多年大勢の男を翻弄して来た
彼の家のうしろには屋根の低い小屋がある。北向きに建てられて、あたりには樹木が繁っているので、昼でも薄暗く、年中じめじめしている。その小屋の隅に見なれない
夫婦の仲もむつまじく、生活に困るのでもなく、一家はまことに円満に暮らしているのであるが、なぜかこの頃は蛇吉の元気がだんだんに衰えて来たようにも見られた。彼は時々にひとりで溜息をついていることもあった。お年もなんだか不安に思って、どこか悪いのではないかと訊いても、夫は別に何事もないと答えた。しかし、ある時こんな事を問わず語りに言い出した。
「おれもこんなことを長くはやっていられそうもないよ。」
お年は別に現在の職業を嫌ってもいなかったが、老人になったらばこんな商売も出来ないであろうとは察していた。今のうちから覚悟して、ほかの商売をはじめる元手でも稼ぎためるか、廉い田地でも買うことにするか、なんとかして老後の
「おれはどうでもいいが、お前が困るようなことがあってはならない。そのつもりで今のうちに精々かせいでおくかな。」
彼はまた、こんなことを話した。
「村の人はみんな知っていることだが、
何につけても自分を思ってくれる夫の親切を、お年は身にしみて嬉しく感じた。
ふたりが同棲してから四度目の夏が来た。ことしは隣り村に大きいうわばみが出て、田畑をあらし廻るので、男も女もみな恐れをなして、
隣り村ではよくよく困ったとみえて、さらに庄屋のところへ頼んで来て、お前さんから何とか蛇吉を説得してもらいたいと言い込んだ。隣り村の難儀を庄屋も気の毒に思って、あらためて自分から蛇吉に言い聞かせると、彼はやはり断った。今度の仕事はどうも気乗りがしないから勘弁してくれと言ったが、庄屋はそれを許さなかった。
「おまえも商売ではないか。金一両に米三俵をくれるという仕事をなぜ断る。第一に隣り同士の
こう言われると、蛇吉もあくまで強情を張っているわけにもいかなくなった。彼はとうとう無理往生に承知させられることになったが、家へ帰っても何だか沈み勝であった。あくる朝、身支度をして出てゆく時にも、なみだを含んで妻に別れた。
隣り村ではよろこんで彼を迎えた。彼は庄屋の家へ案内されていろいろの馳走になった上で、いつもの通り、うわばみ退治の用意に取りかかったが、彼がこの村へ足を踏み込んでから、かのうわばみは一度もその姿をみせなくなった。蛇吉の来たのを知って、さすがのうわばみも遠く隠れたのではあるまいかなどと言う者もあったが、相手が姿をみせない以上、それを釣り出すよりほかはないので、蛇吉は蛇の出そうな場所を見立てて、そこに例のおとし穴をこしらえて、例の秘密の一薬を焼いた。しかもそれは何の効もなかった。小蛇一匹すらもその穴には墜ちなかった。
折角来たものであるから、もう少し辛抱してくれと引留められて、蛇吉はここに幾日かを暮らしたが、うわばみは遂にその姿をあらわさなかった。おとし穴にもかからなかった。
「あまり遅くなると、家の方でも案じましょうから、わたしはもう帰ります。」と、彼は十一日目の朝になって、どうしても帰ると言い出した。
相手の方でもいつまで引留めておくわけにはいかないので、それではまたあらためてお願い申すということになって、村方から彼に二歩の礼金をくれた。うわばみ退治に成功しなかったが、ともかくも彼がここへ来てから、その姿を見せなくなったのは事実である。殊に十日以上の暇をつぶさせては、このまま
「なんの役にも立たないでお気の毒ですが、折角のお志だから頂きます。」
彼はその金を貰って出ようとする時、村の者の一人があわただしく駈けて来て、山つづきの藪ぎわに大きいうわばみが姿をあらわしたと注進したので、一同はにわかに色めいた。
「もう一と足で吉さんを帰してしまうところであった。さあ、どうぞ頼みます。」
もともとそれがため来たのであるから、蛇吉も猶予することは出来なかった。彼はすぐに身ごしらえをして、案内者と一緒にその場へ駈けつけると、果して大蛇は藪から半身をあらわして眠ったように腹這っていた。
蛇吉は用意の粉薬を取出して、川という字を横にしたような三本の線を地上に描いた。彼は第一線を前にして突っ立ちながら、なにか大きな叫び声をあげると、今まで眠っていたようなうわばみは眼をひからせて頭をあげた。と思うと、たちまちに
蛇吉は先度のように呪文を唱えなかった。股引も脱がなかつた。彼は持っている手斧をふりあげて正面から敵の真っ向を撃った。その狙いは狂わなかったが、敵はこの一と撃ちに弱らないらしく、その強い尾を働かせて彼の左の足から腰へ、腰から胸へと巻きついて、人の顔と蛇の首とが摺れ合うほどに向い合った。もうこうなっては組討のほかはない。蛇吉は手斧をなげ捨てて、両手で力まかせに蛇の喉首を絞めつけると、敵も満身の力をこめて彼のからだを締め付けた。
この怖ろしい格闘を諸人は息をのんで見物していると、敵の急所を掴んでいるだけに、この闘いは蛇吉の方が有利であった。さすがの大蛇も喉の骨を挫かれて、次第々々に弱って来た。
「こいつの
大勢のなかから気の強い若者が駈け出して行って、鋭い鎌の刃で蛇の尾を斬り裂いた。尾を斬られ頸を傷められて、
それと同時に、蛇吉も正気をうしなって大地に倒れた。
彼は庄屋の
蛇吉は戸板にのせて送り帰されたときに、お年は声をあげて泣いた。村の者もおどろいて駈け付けて来た。自分が無理にすすめて出してやって、こんなことになったのであるから、庄屋はとりわけて胸を痛めて、お年をなぐさめ、蛇吉を介抱していると、彼は
「もういいから、みんな行ってくれ、行ってくれ。」
彼は続けてそれを叫ぶので、病人に逆らうのもよくないから一とまずここを引取ろうではないかと庄屋は言い出した。親類の重助をひとりあとに残して、なにか変ったことがあったらばすぐに知らせるようにお年にも言い聞かせて、一同は帰った。
朝のうちは晴れていたが、午後から陰って蒸し暑く、六月なかばの宵は雨になった。お年と重助はだまって病人の枕もとに坐っていた。雨の宵はだんだんにさびしく更けて、雨の音にまじって蛙の声もきこえた。
「重助も帰ってくれ。」と、蛇吉はうなるように言った。
ふたりは顔を見合せていると、病人はまたうなった。
「お年も行ってくれ。」
「どこへ行くんです。」と、お年は訊いた。
「どこでもいい。重助と一緒に行け。いつまでもおれを苦しませるな。」
「じゃあ、行きますよ。」
ふたりはうなずき合ってそこを
それがまた村じゅうの騒ぎになって、大勢は手分けをしてそこらを探し廻ったが、蛇吉のすがたはどこにも見いだされなかった。彼は住み馴れた家を捨て、最愛の妻を捨て、永久にこの村から消え失せてしまったのであった。
彼が妻にむかって、この商売を長くはやっていられないと言ったことや、隣り村へゆくことをひどく嫌ったことや、それらの事情を綜合して考えると、あるいは自分の運命を予覚していたのではないかとも思われるが、彼は果して死んでしまったのか、それともどこかに隠れて生きているのか、それはいつまでも一種の謎として残されていた。
しかし村人の多数は、彼の死を信じていた。そうして、こういう風に解釈していた。
「あれはやっぱりただの人間ではない。蛇だ、蛇の精だ。死ぬときの姿をみせまいと思って、山奥へ隠れてしまったのだ。」
彼が蛇の精であるとすれば、その父や母もおなじく蛇でなければならない。そんなことのあろうはずがないと、お年は絶対にそれを否認していた。しかも、なぜ自分の夫が周囲の人々を遠ざけて、その留守のあいだに姿を隠したのか。その子細は彼女にも判らなかった。
これは江戸の末期、文久年間の話であるそうだ。
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第六の男は語る。
唯今は九州のお話が出たが、僕の郷里もやはり九州で、あの辺にはいわゆる平家伝説というものがたくさん残っている。伝説にはとかく怪奇のローマンスが付きまとっているものであるが、これなどもその一つだ。ただしこれは最近の出来事ではない。なんでも今から九十年ほども昔の
僕の郷里の町から十三里ほども離れたところに杉堂という村がある。そこから更にまた三里あまり引っ込んだところだというから、
そんなわけで、百姓とはいうものの一種の郷士のような形で、主人が外出する時には大小を差し、その屋敷には武具や馬具なども飾ってあるという半士半農の生活を営んでいて、男の雇人ばかりでも三四十人も使って、大きい屋敷のまわりには竹藪をめぐらし、またその外には自然の小川を利用して小さい
由井吉左衛門にふたりの娘があって、姉はおそよ、妹はおつぎといった。この
おそよは十八、おつぎは十六、どっちも
そうすると、親たちにもいろいろの迷いが出る。土地の者もいろいろのことを言いふらすようになる。由井の家の娘には何かの
その下男は
下男の密告は単にそれだけに過ぎないが、考えてみると、不審は
こういう不思議な挙動がふた晩もつづいた以上、親たちももう打ち捨てておくわけにはいかなくなった。しかし姉妹ふたりを一緒に詮議してはかえって
その白状がまた奇怪なものであった。おそよとおつぎは奥の八畳の間に毎夜の寝床をならべるのを例としていたが、八月はじめのある夜のことである。おつぎが
それから毎晩注意していると、おそよの同じ行動は四日も五日も続いて繰返された。おつぎはそれを両親に密告しようかとも思ったが、ふだんから仲好しの姉の秘密をむやみに訴えるのは好くないと考えて、ある晩、姉がいつものように出てゆくところを呼びとめて、一体なんのためにそんなことをするのかと聞きただすと、おそよは心願があるのだと言った。それがどうも疑わしいので、おつぎは更に根掘り葉ほり詮議すると、おそよもとうとう包み切れなくなって、初めてその秘密を妹に打明けた。
今から一と月ほど前の
しかし薄気味の悪かったのは単にその一刹那だけで、おそよは再びその美しい男の顔が見たくなった。かれは左右を窺いながら、抜足をして井戸のそばへ立ち寄って、そっと水の上を覗いてみたが、男の顔はもう浮かんでいなかった。おそよは言い知れない強い失望を感じて、すごすごとそこを立去ったが、あくる日ふたたびその井戸端を通ると、かれは今日もその上にふたつの蝶のもつれて飛んでいるのを見た。蝶はどこへか姿を隠してしまったが、おそよはその蝶のゆくえを追うようにきょうも井戸のなかを覗いてみると、二つの顔はまたあらわれた。おそよはいつまでも飽かずにその顔を見つめていた。
それが始まりで、おそよは一日のうちに幾たびかその古井戸をのぞきに行った。そうしているうちに、明るい真昼には男の顔が見えなくなって、彼らの美しい顔は夜でなければ水の上に浮かばないようになった。夜ならば月夜はもちろん、闇の夜でも男の顔ははっきりと見えて、宵のうちよりも真夜中の方が一層あざやかに浮き出していた。
おそよがこのごろ夜ふけに寝床を抜け出してゆく子細はそれで判ったが、妹のおつぎにはまだ十分に信じられなかったので、かれは姉にたのんで一緒に連れて行ってもらうことになった。古井戸の水の上には果して二つの白い顔が映っていて、いずれも絵にかいたお
井戸の水に映る顔は二つで、今までは姉ひとりがそれを眺めていたのであるが、その後は二つの顔に向いあう女の顔も二つになつた。姉妹は毎夜誘いあわせて、その井戸端へ通いつづけていたのである。勿論、その顔を覗くだけのことで、ほかにはどうにも仕様がないのであるが、かの
吉左衛門夫婦はさらに姉娘のおそよを呼出して詮議すると、妹がもういっさいを白状してしまったのであるから、姉も今更つつみ隠すことは出来なかった。おそよも親たちの前で正直に何もかも打明けたが、その申口はおつぎとちっとも変らないので、吉左衛門夫婦ももう疑う余地はなかった。念のために夫婦はその夜ふけに井戸をのぞきに行ったが、姉妹の父母の眼にはなんにも映らなかった。
「この井戸の底に何か怪しい物が棲んでいて、娘たちをまどわすに相違ない。底をさらってあらためてみろ。」と、吉左衛門は命令した。
師走のなかばではあるが、きょうは朝からうららかに晴れた日で、どこかで笹鳴きのうぐいすの声もきこえた。男女の奉公人がほとんど総がかりで、朝の五つ(午前八時)頃から井戸さらいをはじめたが、水はなかなか汲みほせそうもなかった。
由井の屋敷内には幾カ所の井戸があるが、この井戸はそのなかでも最も古いもので、由井の先祖が初めてここに移住した頃から、すでに井戸の形をなしていたというのであるから、遠い昔の人が掘ったものに相違ない。しかしこの井戸が最も深く、水もまた最も清冽で、どんな
その井戸を汲みほそうとするのであるから、容易なことでないのは判り切っていた。汲んでも、汲んでも、あとから湧き出してくる水の多いのに、奉公人どももほとほと持て余してしまったが、それでも大勢の力で、水嵩はふだんよりも余ほど減って来た。
底にはどんな怪物がひそんでいるか、池の
「
鉄の熊手は太い綱をつけて井戸の底へ繰下げられた。なにか引っかかる物はないかと、幾たびか引っ掻きまわしているうちに、小さい割には重いものが熊手にかかって引揚げられたので、明るい日光の
そのほかにはもうなんにも掘出し物はないらしいので、その日の井戸さらいはまず中止になって、さらにその二つの鏡の詮議に取りかかったが、単に古い物であろうというばかりで、いつの時代に誰が沈めたものか、ほとんど想像が付かなかった。しかし水に映る顔が二つで、今や二つの鏡を引揚げた以上、その顔の
吉左衛門は
その鏡を引揚げて以来、井戸のなかには男の影が映らなくなった。それから考えても、その鏡には何かの秘密がひそんでいるに相違ないと信じられたので、吉左衛門は隣国まで手をまわして、いろいろに
娘が元のからだに返って、その後なんの変事もない以上、もうそのままに打捨てておいてもよいのであるが、吉左衛門はまだ気がすまなかった。彼は金と時間とを惜しまずに幾年かかっても構わないから、どうしてもその鏡の由緒を探りきわめようと決心して、熊本はもちろん、佐賀、小倉、長崎、博多からいろいろの学者を招きよせて、自分の屋敷内に一種の研究所のようなものを作って、熱心にその研究をつづけていると、その年の暮れ、その鏡が世にあらわれてから丁度一年目に、いっさいの秘密がはじめて明白になった。
その発見の手つづきはまずこうであった。由井の家に集まった人々が協議の上で、鏡の由来その他の詮索よりも、まずその井戸がいつの時代に掘られたのか、また由井の先祖がここに移住する前には、何者が住んでいたのかということを詮索する方針を取ったのである。
それもまた容易に判らなかったのであるが、古い記録や故老の口碑をたずねて、南北朝の初め頃まではここに
それから博多の巴屋について、越智の家に関する古い記録を詮議すると、巴屋にも別に記録のようなものは何にも残っていなかった。しかし遠い先祖のことについて、こういう一種の伝説があるといって、当代の主人が話してくれた。
それが何代目であるか判らないが、源平時代に越智の家は最も繁昌していたらしい。その越智の屋敷へ或る年の春の夕ぐれに、二人連れの若い美しい女がたずねて来た。主人の七郎左衛門に逢って、どういう話をしたか知らないが、その女たちはその夜からここに足をとどめて、屋敷内の人になってしまった。主人は一家の者に堅く口止めをして、かの女たちを秘密に養っておいたのである。女たちも人目を避けて、めったに外へ出なかった。
その人柄や風俗から察すると、かれらは都の人々で、おそらく平家の官女が壇の浦から落ちて来て、ここに隠れ家を求めたのであろうと、屋敷内の者はひそかに鑑定していた。主人の七郎左衛門はその当時二十二三歳で、まだ独身であった。そのふところへ都生れの若い女が迷い込んで来たのであるから、その成行きも想像するに難くない。やがてその二人の女は主人と寝食をともにするようになって、三年あまりをむつまじく暮らしていた。どっちが妻だかわからないが、家来らはその一人を梅殿といい、他のひとりを桜殿と呼んで尊敬していた。
そうしているうちに、ここに一つの事件が起った。それは近郷の滝沢という武士から七郎左衛門に結婚を申込んで来たのである。滝沢もここらでは有力の武士で、それと縁を組むことは越智の家に取っても都合がよかった。ことに滝沢の娘というのはことし十七の美人であるので、七郎左衛門のこころは動いた。実際はたといどういう関係であろうとも、梅殿と桜殿とは
主人の七郎左衛門はその寝床で刺し殺されていたのである。彼は刃物で左右の胸を突き透されて仰向けになって死んでいた。ひとつ部屋に寝ているはずの梅殿も桜殿もその姿をみせなかった。屋敷じゅうではおどろき騒いで、そこらを隈なく詮索すると、ふたりの女の
しかもその二つの亡骸を井戸から引揚げたときに、家来らはまたもや意外の事実におどろかされた、今まで都の官女とのみ一
梅と桜とが身を沈めたのは、かの清水の井戸であった。二つの鏡はおそらくこの二人の胸に抱かれていたのを、引揚げる時にあやまって沈めてしまったのか、あるいは家来らが取って投げ込んだものであろう。主人の七郎左衛門をうしなったのち、越智の家は親戚の子によって相続された。そうして、前にもいう通り南北朝時代に至って滅亡した。それから幾十年のあいだは草ぶかい野原になっていた跡へ、由井の家の先祖が来たり住んだのである。後住者が木を伐り、草を刈って、新しい住み家を作るときに、測らずもここに埋もれたる古井戸のあるのを発見して、水の清いのを喜んでそのままに用い来たったものらしい。
源平時代からこの天保初年までは六百余年を経過している。その間、平家の公達のたましいを宿した二つの鏡は、古井戸の底に眠ったように沈んでいたのであろう。それがどうして長い眠りから醒めて、なんの
その鏡はなんとかいう寺の宝物のようになっていて、明治以後にも
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第七の男は語る。
明治三十七年八月二十九日の夕方である。僕はその当時、日露戦争の従軍新聞記者として満洲の戦地にあって、この日は午後三時ごろに
僕たちは毎晩つづいて野宿同様の苦をしのいで来たので、今夜は人家をたずねて休息することにして、二、三人あるいは四、五人ずつ別れ別れになって今夜のやどりを探してあるいた。楊家店は文字通りに柳の多い村である。その柳のあいだをくぐり抜けて、僕たち四人の一組は石の古井戸を前にした、相当に大きい家をみつけた。
井戸のほとりには十八九ぐらいの若い男がバケツに綱を付けたのを繰りさげて、
今夜はここの家に泊めてもらうつもりであると僕たちが答えると、彼は再び頭をふり、手を振って、それはいけないというらしいのである。しかし僕たちは支那語によく通じていない上に、相手は満洲なまりが強いと来ているので、その言うことがはっきりと判らない。彼は何か我れわれをおどすような表情や手真似をして、そこへ泊るのは止せというらしいのであるが、その意味がどうも十分に呑み込めないので、僕たちも
「まあ、いい。なんでも構わないから、内へはいって交渉して見よう。」
気の早い三人は先に立って門内にはいり込んだ。僕も続いてはいろうとすると、かの男は僕の腰につけている
門はあいたが、内には人のいるらしい様子もみえない。四人は声をそろえて呼んだが、誰も答える者はなかった。
「あき家かしら。」
四人は顔をみあわせて、さらにあたりを見廻すと、門をはいった右側に小さい一棟の建物がある。正面の奥にも立木のあいだに
僕たちはもう疲れ切っているので、なにしろここで休もうということになって、破れたアンペラを敷いてある
僕が水をくれと言うと、彼は快くバケツの水を水筒に入れてくれたが、やはり何か口早にささやくのである。それが僕にはどうしても呑み込めないので、彼も焦れて来たらしく、再び木の枝を取って、「家有妖」と土に書いた。それで僕にも大抵は想像が付いた。僕は「鬼」という字を土に書いて見せると、それは知らない。しかしあの家には妖があると彼は答えた。この場合、鬼と妖とはどう違うのか判らなかったが、この家はなにか一種の化物屋敷とでもいうものであるらしいことだけはまず判った。要するに、あの家には妖があるから、うかつに入り込むのはよせというのである。僕は彼に礼をいって別れた。
引っ返してみると、僕の出たあとへ一人の老人が来て、しずかに他の人たちと話していた。四人のうちでは比較的支那語をよくするT君がその通訳にあたっていて、僕たちに説明してくれた。
「この老人はこの家に三十年も奉公している男で、ほかにも四、五人の奉公人がいるそうだ。このあいだから眼のまえで戦争がはじまっているので、家内の者はみな奥にかくれている。したがって、別段おかまい申すことは出来ないが、茶と砂糖はある。裏の畑に野菜がある。泊りたければここへ自由にお泊りなさいと、ひどく親切に言ってくれるのだ。泊めてもらおうじゃないか。」
「もちろんだ。
老人は笑いながら立去った。あとでT君は畑にどんなものがあるか見て来ようと言って出たが、やがて五、六本の見事な唐もろこしをかかえ込んで来た。それはいいものがあると喜んで、M君がまた駈け出して取りに行った。家の土間には
僕たちは代るがわるに畑からそれを取って来てむさぼり食らっていると、かの老人は十五六の少年に湯わかしを持たせて、自分は紙につつんだ砂糖と茶を持って来てくれたので、僕たちは再び
実は主人夫婦のあいだにことし十七になる娘があって、それが先頃から病気にかかっている。ここらでは遼陽の城内まで薬を買いに行かなければならないのであるが、この頃は戦争のために城内と城外との交通が絶えてしまったので、薬を求める法がない。日本の
彼が我れわれに厚意を見せたのは、そういう下ごころがあったためであることが判ってみると、我れわれの感謝も幾分か割引をしなければならないことになるが、その事情をきけば全く気の毒でもある。由来、ここらの人は日本人をみな医者か薬屋とでも心得ているのか、僕たちの顔を見ると、とかくに病気を診察してくれとか、薬をくれとか言う。今までにもその例はたびたびあるので、この老人の無心も別にめずらしいとは思わなかったが、病人の容体をよく聴かないで無暗に薬をやることは困る。現に海城の宿舎にいたときにも、胃腸病の患者に眼薬の

T君はその事情を彼に話して、ともかくもその病人に一度逢わせてもらいたいと言うと、老人はすこぶる難儀らしい顔をして、しばらく思い
僕たちはもちろん医者ではないが、それでもでたらめに薬をやるよりは、一応その本人の様子を見て、親しくその容体をきいた上で、それに相当しそうな薬をあたえた方が安全である。殊にその当時は僕たちもまだ若かったから、その病人が十七の娘であるというので、どんな女か見てやりたいというような一種の興味も伴っていたのであった。
「どんな女だろう。まだ若いんだぜ。」
「一体なんの病気だろう。」
「婦人病だと困るぜ。そんな薬は誰も用意して来なかったからな。」
「悪くすると肺病だぜ。支那では
そんな噂をしているうちに、僕はかの「家有妖」の一件を思い出した。
「門の前の井戸で水を汲んでいた男······あの男の話によると、ここの
「むむう。」と、ほかの三人も首をかしげた。
「それじゃあ、その娘というのも何かに
「そうなると、我れわれの薬じゃあ療治は届かないぞ。」とM君は笑い出した。
僕たちも一緒に笑った。ふだんならばともかくも、いわゆる
「それにしても、娘は遅いな。」
「支那の女はめったに外人に顔をみせないというから、出て来るのを渋っているのかも知れない。」
「ことに相手が我れわれでは、いよいよ渋っているのだろう。」
前面には砲声が絶えずとどろいているが、この頃の僕たちはもうそれに馴れ切ってしまったので、重砲のひびきも
「敵もいい加減にしないかな。早く遼陽へ行ってみたいものだ。」
むすめの噂も飽きて来て、さらにいつもの戦争のうわさに移ったときに、足音をぬすむようにしてかの老人が再びここへ姿をあらわして、主人の娘を今ここへ連れて来るから何分よろしくおねがい申すと言った。それを聴いて、僕たちは待ちかねたように
やがて奥の木立ちの間に一つの燈籠の
老女はむすめの母でない。画燈をさげた若い女と共にこの家の召使であるらしいことは、その風俗を見てすぐに覚られたので、僕たちはかれらふたりを問題にはしないで、一斉に注意の眼をまん中の娘にあつめると、娘は十七というにしては頗るおとなびていた。痩せてはいるが背も高い方で、うすい桃色地に
画燈に照らされた三つの影がひと株の柳の下にとどまると、かの老人は静かに近寄って老女に何事かをささやいた。老女は彼の妻であるらしい。老人はさらに僕たちに向って、病人の娘が来ましたから、御診察をねがいたいと丁寧に言った。さあ、こうなると四人のうちで誰が進んで病人を診察するかと、僕たちも今更すこしく躊躇したが、なんといってもT君が比較的に支那語に通じているのであるから、これがお医者さまになるよりほかはない。T君も覚悟して進み出て、いよいよ病人の脈を取ることになった。T君は病人の顔を見せろと言うと、老人はあたかもそれを通訳するように老女にささやいて、青い袖の影に隠されている娘の顔を画燈の下にさらさせた。その娘は僕がひそかに想像していた通り、色の蒼白い、まったく幽霊のような美しい女であった。剪燈新話の女鬼||それが再び僕の頭にひらめいた。
T君は娘の顔をながめ、脈を取り、さらに体温器でその熱度をはかった。そのあいだにも娘は時どきに血を吐きそうな強い咳をして、老女に介抱されていた。T君は僕たちを見返って小声で言った。
「君。どうしても肺病だね。」
「むむ。」と、僕たちは一度にうなずいた。かれが呼吸器病の患者であることは、我れわれの素人眼にも殆んど疑うの余地がなかった。
「熱は八度七分ぐらいある。」と、T君はさらに説明した。「軍医部が近いところにあれば、その容体をいって薬を貰って来てやるのだが、今はどうすることも出来ない。まあ気休めに
「まあ、そんなことだな。」と、僕も言った。
T君は雑嚢から解熱剤の白い
「夜風に長く吹かれない方がいい。」
T君から注意されて、娘たちはうやうやしく黙礼して引っ返して行った。女三人は、初めから一度も口を利かなかったが、画燈のかげが遠く微かに消えて行くあいだに、娘の咳の声ばかりは時どきにひびいた。それを見送って、老人も僕たちに敬礼して立去った。
「可哀そうだな。あの娘も長くは生きられないぜ。」
今までは、どんな娘だろうなどと一種の興味をもって待ち受けていたのであるが、さてその本人の悼ましい姿をみせられると、僕たちももう笑ってはいられなくなった。四人は顔を見合せて一度に溜息をついた。竈の下の高粱もたいてい燃え尽してしまったので、再びそれを折りくべていると、門の外で何か笑う声がきこえて、ここへはいって来る足音がひびいたので、誰が来たのかと表をのぞいて見ると、ひとりの男が戸の外に立っていた。
「従軍記者諸君はおいでですか。」
「はあ。」と、僕は答えた。「わたしです。」
それが通訳のS君であることを知って、僕たちは愛想よく迎えた。
「Sさんですか。どうぞおはいりください。」
S君は
「ある家の若い支那人が、今夜この村の徐という家に泊った日本人がある。わたしが注意したけれども、
「若い支那人が······。」と、僕はすぐに思い出した。「では、家に妖ありと言うのじゃありませんか。」
「そうです。」と、S君はうなずいた。「支那人はしきりに止めたそうですが······。」
「止めたには止めたが、家に妖ありだけでは訳が判らないので、僕たちも取合わなかったのですが、その妖というのはどんな訳なのですかね。」と、僕は訊いた。
「では、その子細は御承知ないのですね。」
「彼はしきりにしゃべるのですが、僕たちは支那語が不十分の上に、相手は満洲なまりが強いと来ているので、なにを言っているのか一向わからないのです。要するに、ここの家には何か怪しいことがあるから泊るなと言うらしいのですが······。」
「そうです、そうです。」と、S君がまたうなずいた。「実はわたしも家に妖ありだけでは、なんのことだかよく判らなかったのです。それに、あなたの言う通り、あの若い支那人は訛りが強くて、わたしにもはっきりとは聴き取れなかったのですが、幸いにその祖父だという老人がいて、それがよく話してくれたので、その妖の子細が初めて判ったのです。」
夜になっても戦闘は継続しているらしい。天をつんざくような砲弾の音と、豆を煎るような小銃弾のひびきが、前方には遠く近くきこえている。それをよそにして、S君はこの暗い家のなかで妖を説くのである。我れわれ四人も彼を取巻いて、高粱の火の前でその怪談に耳をかたむけた。
「ここの家の姓は徐といいます。今から五代前、というと大変に遠い昔話のようですが、四十年ほど前のことだといいますから、日本では元治か慶応の初年、支那では同治三年か四年頃にあたるでしょう。丁度かの長髪賊の
S君はさすがに支那の歴史をそらんじていて、まずその年代を明らかにした。
「ここの
巡警らは家内を残らず捜索したが、どこにも人の姿が見あたらない。竈には火がかかっているので、まさかそのなかに人間が隠してあろうとは思わない。結局不審ながらに引揚げたので、主人はまずほっとしたが、さて気にかかるのは竈のなかの人間です。
瓦と同じように焼かれては堪らない。どうもひどい事をしたものだと言うと、せがれ達の言うには、あの二人は、なにか重い罪を犯したものに相違ない。それを隠まったということが露顕すれば、我れわれ親子も重い罰をうけなければならない。こうなったら仕方がないから、彼らを焼き殺して、我れわれの禍いを逃がれるよりほかはない。彼らとても追手に捕われて、苦しい拷問やむごたらしい処刑をうけるよりも、いっそ一と思いに焼き殺された方がましかも知れない。我れわれが早くに竈へ火をかけたればこそ、追手も油断して帰ったが、さもなければ真っ先に竈の中をあらためて、彼らは勿論、我れわれも今ごろは
それを聞くと主人も伜たちの残酷を責める気にもなれなくなって、そんなら思い切って十分に焼いてしまえというので、自分も手伝って、焚き物をたくさんに入れて、哀れな旅びとふたりを火葬にしてしまったのです。旅びとは何者だか判りませんが、おそらく長髪賊の余類だろうということです。江南の賊が満洲へ逃げ込んで来るのもおかしいように思われますが、ここらではそう言っているのです。
いずれにしても、旅びとは死んで金袋は残った。無事旅びとを助けてやれば、その半分を貰うはずでしたが、相手がみな死んでしまったので、その金は丸取りです。金高はいくらだか知りませんが、徐の家がにわかに
まず第一は瓦が満足に焼けないで、とかくに焼けくずれが出来てしまうことですが、さらに奇怪なのは
それがまた近所の噂になって、徐のうちの窯変には何かの子細があるらしいと噂されているうちに、或る日その若いせがれが竈の中で焼け死んでいるのを発見した。弟が竈にはいっているのを知らないで、兄が外から戸をしめて火をかけたとかいうのです。つづいてその兄も発狂して死ぬというわけで、不幸に不幸が重なって来ました。
それでも主人は強情に商売をつづけていたが、相変らずの窯変がつづくのでどうすることも出来ない。結局根負けがして瓦屋を廃業して、土地や畑を買って農業を営むこととなったが、その後は別に異変もなく、むしろ
兄弟のせがれは父よりも早く死んだので、徐の家では女の子を貰ってそれに婿を取ったのですが、それも主人が死んでから二、三年の後には夫婦ともに死ぬ。つづいて養子、つづいて養女、それがみな七、八年とは続かないでばたばたと倒れてしまって、僅かのあいだに今の主人が六代目というわけだそうです。
今の主人もやはり養子で、年も若いので、三十年奉公している王という男が、万事の世話をしている。これはなかなかの忠義者で、家に妖ある事を知りながら、引きつづく不幸の中に立って、徐の一家を忠実に守護しているのだそうです。そういう次第で、近所でも王の忠義には同情しているが、家に妖ありとして徐の一家をひどく恐れ嫌っている。諸君はなんにも知らないで、うかうかその門をくぐろうとするのを見て、かの若い支那人は親切に注意したが、
「ははあ、そういうわけですか。実はもうその妖に逢いましたよ。」と、T君はまじめで言った。
「妖に逢った······。どんなことがあったのです。」と、S君もまじめで訊きかえした。
「いや、冗談ですよ。」と、僕は気の毒になって打消した。「なに、ここの家のむすめの病気を
「はあ、そうでしたか。」と、S君も微笑した。「娘というのはおそらく嫁でしょう。私はその娘のことを聴きました。徐の家は呪われているというので、近い処からは誰も嫁に来るものがない。忠僕の王が山東省まで出かけて行って、美人の娘をさがして来た。といっても、実は高い金を出して買って来たのでしょう。ところが、ここへ来るとすぐに病人になって、いつまでも癒らないので困っているということです。よその人に対しては、主人の妻というのを憚って、主人の娘といったのでしょう。病気はなんです。」
「たしかに肺病ですね。」と、T君は答えた。
「可哀そうですな。」と、S君も顔をしかめた。「まさかに、ここの家へ貰われて来たせいでもないでしょうが、遅かれ速かれ、家に妖ありの材料がまたひとつ殖えるわけですな。いや、どうも長話をしました。諸君はここにお泊りでしょうから、まあ注意して妖に祟られない方がいいですよ。女妖というのはなお怖ろしいですから。」
まじめな顔で冗談を言いながら、S君が我れわれのまどいを離れた頃には、高粱の
「寒い、寒い。もう一度、高粱を焚こう。」
S君を見送ると僕たちは早々に内へはいった。
あくる朝ここを出るときに、かの老人は再び湯と茶と砂糖とを持って来てくれた。彼は愛想よく我れわれに挨拶していたが、気のせいかその顔には暗い影が宿っていた。ゆうべの薬をのませたら、病人もけさは非常に気分がいいと言って、彼は繰返して礼をいっていた。
前方の銃声がけさは取分けて烈しくきこえるので、僕たちもそれにうながされるように急いで身支度をした。S君のゆうべの話を再び考えるひまもなしに、僕たちは所属師団司令部の所在地へ駈けて行った。老人は門前まで送って来て、あわただしく出て行く我れわれに対して、いちいち
我れわれが遼陽の城外にゆき着いたのは、それから三日の後である。その後、僕は徐の家を訪問する機会がなかったが、かの老人はどうしたか、病める娘はどうしたか。妖ある家は遂にほろびたか、あるいは依然として栄えているか。今ときどきに思い出さずにはいられない。
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第八の女は語る。
これはわたくしの祖母から聴きましたお話でございます。わたくの郷里は越後の柏崎で、祖父の代までは
祖母は震災の前年に七十六歳で歿しましたが、
このお話の時分にも、やはりふたりの客が逗留していました。ひとりは名古屋の俳諧師で
呼ばれた四人は近所の人たちで、暮れ六つごろにみな集まって来ました。お膳を据える前に、まずお茶やお菓子を出して、七人がいろいろの世間話などをしているところへ、ぶらりとたずねて来たのは坂部
御承知でもございましょうが、江戸時代にはそこらは桑名藩の
兄さんの与茂四郎は早くから家を出て、京都へのぼって或る人相見のお弟子になっていたのですが、それがだんだんに上達して、今では一本立ちの先生になって諸国をめぐりあるいている。人相を見るばかりでなく、占いもたいそう上手だということで、この時は年ごろ三十二三、やはり普通の侍のように刀をさしていて、
その人が諸国をめぐって信州から越後路へはいって、自分の弟が柏崎の陣屋にいるのをたずねて来て、しばらくそこに足をとめている。曽祖父の増右衛門もふだんから与五郎という人とは懇意にしていましたので、その縁故から兄の与茂四郎とも自然懇意になりまして、時どきはこちらの家へも遊びに来ることがありました。今夜も突然にたずねて来たのです。こちらから案内したのではありませんが、丁度よいところへ来てくれたといって、増右衛門はよろこんで奥へ通しました。
「これはお客来の折柄、とんだお邪魔をいたした。」と与茂四郎は気の毒そうに座に着きました。
「いや、お気の毒どころではない。実はお招き申したいくらいであったが、御迷惑であろうと存じて差控えておりましたところへ、折よくお越しくだされて有難いことでございます。」と、増右衛門は丁寧に挨拶して、一座の人々をも与茂四郎に紹介しました。勿論、そのなかには、前々から顔なじみの人もありますので、一同うちとけて話しはじめました。
よいところへよい客が来てくれたと主人は喜んでいるのですが、不意に飛入りのお客がひとり殖えたので、台所の方では少し慌てました。前に申上げた祖母のお初はまだ十八の娘で、今夜のお給仕役を勤めるはずになっているので、なにかの手落ちがあってはならないと台所の方へ見まわりに行きますと、お料理はお杉という
「お客さまが急にふえて困りました。」
「間に合わないのかえ。」と、祖母も眉をよせながら訊きました。
「いえ、ほかのお料理はどうにでもなりますが、ただ困るのは蟹でございますよ。」
増右衛門はふだんから蟹が大好きで、今夜の御馳走にも大きい蟹が出るはずになっているのですが、主人と客をあわせて七人前のつもりですから、蟹は七匹しか用意してないところへ、不意にひとりのお客がふえたのでどうすることも出来ない。
出入りの
「まったく困るねえ。」と、祖母もいよいよ眉をよせました。ほかにも相当の料理が幾品も揃っているのですから、いっそ蟹だけをはぶいたらどうかとも思ったのですが、なにしろ父の増右衛門が大好きの物ですから、迂濶にはぶいたら機嫌を悪くするに決まっているので、祖母もしばらく考えていますと、奥の座敷で手を鳴らす声がきこえました。
祖母は引っ返して奥へゆきますと、増右衛門は待ちかねたように廊下に出て来ました。
「おい、なにをしているのだ。早くお膳を出さないか。」
催促されたのを幸いに、祖母は蟹の一件をそっと訴えますと、増右衛門はちっとも取合いませんでした。
「なに、一匹や二匹の蟹が間に合わないということがあるものか。町になければ浜じゅうをさがしてみろ、今夜はうまい蟹を御馳走いたしますと、お客さまたちに
こう言われると、もう取付く島もないので、祖母もよんどころなしに台所へまた引っ返して来ると、台所の者はいよいよ心配して、かの半兵衛が帰って来るのを今か今かと首をのばして待っているうちに、時刻はだんだん過ぎてゆく。奥では
誰も彼も気が気でなく、ただうろうろしているところへ、半兵衛が息を切って帰ってきました。それ帰ったというので、みんながあわてて駈け出してみると、半兵衛はひとりの見馴れない小僧を連れていました。小僧は十五六で、膝っきりの短い汚れた筒袖を着て、古い
その魚籠のなかには、三匹の蟹が入れてあったので、こっちに準備してある七匹の蟹と引合せて、それに似寄りの大きさのを一匹買おうとしたところが、その小僧は遠いところからわざわざ連れて来られたのだから、三匹をみんな買ってくれというのです。
何分こっちも急いでいる場合、かれこれと押問答をしてもいられないので、その言う通りにみな買ってやることにして、値段もその言う通りに渡してやると、小僧は
「まずこれでいい。」
みなも急に元気が出て、すぐにその蟹を
お酒が出る、お料理がだんだんに出る。主人も客もうちくつろいで、いい心持そうに飲んでいるうちに、かの蟹が大きい皿の上に盛られて、めいめいの前に運び出されました。
「さっきも申上げた通り、今夜の御馳走はこれだけです。どうぞ召上がってください。」
こう言って、増右衛門は一座の人たちにすすめました。わたくしの郷里の方で普通に取れます蟹は、俗にいばら蟹といいまして、甲の形がやや三角形になっていて、その甲や足に
なにしろ今夜はこの蟹を御馳走するのが主人側の自慢なのですから、増右衛門は人にもすすめ自分も箸を着けようとしますと、上座に控えていましたかの坂部与茂四郎という人が急に声をかけました。
「御主人、しばらく。」
その声がいかにも子細ありげにきこえましたので、増右衛門も思わず箸をやめて、声をかけた人の方をみかえると、与茂四郎はひたいに皺をよせてまず主人の顔をじっと見つめました。それから片手に燭台をとって、一座の人たちの顔を順々に照らしてみた後に、ふところから小さい鏡をとり出して自分の顔をも照らして見ました。そうして、しばらく溜息をついて考えていましたが、やがてこんなことを言い出しました。
「はて、不思議なことがござる。この座にある人々のうちで、その顔に死相のあらわれている人がある。」
一座の人たちは
すると、与茂四郎は急に気がついたように、祖母の方へ向き直りました。この人は今まで主人と客との顔だけを見まわして、この席でたった一人の若い女の顔を見落していたのです。それに気がついて、さらに燭台を祖母の顔の方へ差向けられたときには、祖母はまったく死んだような心持であったそうです。それでも祖母には別に変ったこともないらしく、与茂四郎も黙ってうなずきました。そうして、またしずかに言い出しました。
「折角の御馳走ではあるが、この蟹にはどなたも箸をおつけにならぬ方がよろしかろう。そのままでお下げください。」
してみると、この蟹に子細があるに相違ありません。死相のあらわれている人は誰であるか。あらわにその名は指しませんけれども、主人の増右衛門らしく思われます。殊に祖母には思い当ることがあります。というのは、前から準備してあった七匹の蟹は七人の客の前に出して、あとから買った一匹を主人の膳に付けたのですから、その蟹に何かの毒でもあるのではないかとは、誰でも考え付くことです。
主人もそれを聴いて、すぐにその蟹を下げるように言付けましたので、祖母も心得てその皿をのせたお膳を片付けはじめると、与茂四郎はまた注意しました。
「その蟹は台所の人たちにも食わせてはならぬ。みなお取捨てなさい。」
「かしこまりました。」
祖母は台所へ行ってその話をしますと、そこにいる者もみな顔の色を変えました。とりわけて半兵衛は、その蟹を自分が探して来たのですから、いよいよ驚きました。そこで念のために家の飼犬を呼んで来て、主人の前に持出した蟹を食わせてみると、たちまちに苦しんで死んでしまったので、みなもぞっとしました。それから近所の犬を連れて来て、試しにほかの蟹を食わせてみると、これはみな別条がない。こうなると、もう疑うまでもありません。あとから買った一匹の蟹に毒があって、それを食おうとした主人の顔に死相があらわれたのです。
与茂四郎という人のおかげで、主人は危ういところを助かって、こんな目出たいことはないのですが、なにしろこういうことがあったので、一座もなんとなく白けてしまって、酒も興も醒めたという形、折角の御馳走もさんざんになって、どの人もそこそこに座を
お客に対して気の毒は勿論ですが、怪しい蟹を食わされて、あぶなく命を取られようとした主人のおどろきと怒りは一と通りでありません。台所の者一同はすぐに呼びつけられて、きびしい詮議をうけることになりましたが、前に言ったようなわけですから、誰も彼もただ不思議に思うばかりです。ともかくも半兵衛は当の責任者ですから、あしたは早朝からその怪しい小僧を探しあるいて、一体その蟹をどこから捕って来たかということを詮議するはずで、その晩はそのまま寝てしまいました。
小僧は三匹の蟹を無理に売付けて行ったのですから、まだ二匹は残っています。これにも毒があるかないかを試してみなければならないのですが、もう夜もふけたので、それもあしたのことにしようといって、台所の土間の隅にほうり出しておきますと、夜の明けないうちに二匹ながら姿を隠してしまいました。死んでいると思っていた蟹が実はまだ生きていて、いつの間にか這い出したのか、それとも犬か猫がくわえ出したのか、それも結局わかりませんでした。
一体、
半兵衛は勿論、台所に居あわせた者のうちで誰もその小僧の顔を見知っている者がないのです。浜の漁師の子供ならば、誰かがその顔を見知っていそうなはずであるから、あるいはほかの土地から来た者ではないかというのです。こんな事があろうとは思いもよらず、暗い時ではあり、こっちも無暗に急いでいたので、実はその小僧の人相や風体を確かに見届けてはいないのですから、こうなると探し出すのが余ほどの難儀です。
その難儀を覚悟で、ふたりは早々に出てゆくと、そのあとで主人の増右衛門は陣屋へ行って、坂部与五郎という人の屋敷をたずねました。兄さんの与茂四郎に逢って、ゆうべはお蔭さまで命拾いをしたという礼をあつく述べますと、与茂四郎は更にこう言ったそうです。
「まずまず御無事で
増右衛門はまたぎょっとしました。なんとかしてその禍いを
大好きの蟹を封じられて、増右衛門もすこし困ったのですが、この場合、とてもそんな事をいってはいられないので、蟹はもう一生たべませんと、与茂四郎の前で誓って帰ったのですが、どうも安心が出来ません。といって、どうすればよいということも判らないのですから、家内の者に向ってどういう注意を与えることも出来ない。それでも祖母だけには与茂四郎から注意されたことをささやいて、当分は万事に気をつけろと言い聞かせたそうです。
一方の半兵衛と伊助は早朝に出て行ったままで、
ぼんやりしている伊助を取巻いて、大勢がだんだん詮議すると、出先でこういう事件が
半兵衛はゆうべ家をかけ出して、ふだんから懇意にしている漁師の家をたずねたのですが、どこの家にも、蟹がない。いばら蟹や高足蟹があっても、かざみがない。それからそれへと聞きあるいて、だんだんに北の方へ行って、路ばたに立っている小僧を見つけたのでした。
それですから、きょうも伊助と二人連れで、ともかくも北の方角||出雲崎の方角でございます||を指して尋ねて行きましたが、ゆうべの小僧らしい者の姿を見ない。知らず識らずに進んで
一方は海、一方は川ですから、ほかに逃げ道もないと
それをみて、伊助もびっくりして、これも慌ててその場へ駈け付けましたが、半兵衛も小僧も、水に呑まれたらしく、もうその姿がみえないのです。いよいよ驚いてうろたえて、近所の漁師の家へ駈け込んで、こういうわけで山形屋の店の者が沈んだから早く引揚げてくれと頼みますと、わたくしの店の名はここらでも皆知っていますので、すぐに七、八人の者を呼び集めて、水のなかを探してくれたのですが、二人ともに見付からない。なにしろ川の落ち口で流れの早いところですから、あるいは海の方へ押しやられてしまったかも知れないというので、伊助も途方に暮れてしまいましたが、今更どうすることも出来ません。ともかくも出来るだけは探してくれと頼んでおいて、そのことを注進するために引っ返して来たというわけです。
家の者もそれを聴いて驚きました。取分けて主人の増右衛門はかの与茂四郎から注意されたこともありますので、いよいよ胸を痛めて、早速ひとりの番頭に店の者五、六人を付けて、伊助と一緒に出してやりました。画家の文阿も出て行きました。
前にも申上げた通り、わたくしの家には俳諧師の野水と画家の文阿が逗留していまして、野水はそのとき近所へ出ていて、留守でした。文阿は自分の座敷にあてられた八畳の間で絵をかいていました。文阿は
主人は蟹が好きなので、逗留中に百蟹の図をかいてくれと頼んだところが、文阿は自分の未熟の腕前ではどうも百蟹はおぼつかない。せめて十蟹の図をかいてみましょうというので、このあいだからその座敷に閉じ籠って、いろいろの蟹を標本にして一心にかいているのでした。その九匹はもう出来あがって、残りの一匹をかいている最中にこの事件が
「先生もお出でになるのですか。」と、増右衛門は止めるように言いました。
「はあ。どうも気になりますから。」
そう言い捨てて、文阿は大勢と一緒に出て行ってしまいました。しいて止めるにも及ばないので、そのまま出してやりますと、それを聞き伝えて近所からも、また大勢の人がどやどやと付いてゆく。漁師町からも加勢の者が出てゆく。どうも大変な騒ぎになりましたが、主人はまさかに出てゆくわけにもまいりません。家にいてただ心配しているばかりです。
祖母をはじめ、ほかの者はみな店先に出て、そのたよりを待ちわびていますと、そこへかの坂部与茂四郎という人が来ました。途中でその噂を聴いたとみえまして、半兵衛の一件をもう知っているらしいのです。
「どうも飛んだことでござった。御主人はお出かけになりはしまいな。」
「はい、父は宅におります。」と、祖母は答えました。
それでまず安心したというような顔をして、与茂四郎は祖母の案内で奥へ通されました。
「どうも飛んだことで······。」と、与茂四郎はかさねて言いました。「しかし、たといどんなことがあろうとも、御主人はお出かけになってはなりませぬぞ。」
「かしこまりました。」と、増右衛門は謹んで答えました。「家内に何かの禍いがあるというお
「お店からはどなたがお出でになりましたな。」
「番頭の久右衛門に店の者五、六人を付けて出しました。」
「ほかには誰もまいりませぬな。」と、与茂四郎は念を押すようにまた訊きました。
「ほかには絵かきの文阿先生が······。」
「あ。」と、与茂四郎は小声で叫びました。「誰かを走らせて、あの人だけはすぐに呼び戻すがよろしい。」
「はい、はい。」
おびえ切っている増右衛門はあわてて店へ飛んで出て、すぐに文阿先生を呼び戻して来い、早く連れて来いと言い付けているところへ、店の者のひとりが顔の色をかえて駈けて帰りました。
「文阿先生が······。」
「え、文阿先生が······。」
あとを聴かないで、増右衛門はそのまま気が遠くなってしまいました。
そこで、一方の文阿先生はどうしたかというと、大勢と一緒に鯖石川の岸へ行って、漁師たちが死体捜索に働いているのを見ているうちに、どうしたはずみか、自分の足もとの土がにわかに崩れ落ちて、あっという間もなしに文阿は水のなかへ転げ込んでしまったのです。
ここでもまたひと騒ぎ出来して、漁師たちはすぐにそれを引揚げようとしたのですが、もうその形が見えなくなりました。半兵衛のときはともかくも、今度はそこに大勢の漁師や船頭も働いていたのですが、文阿はどこに沈んだか、どこへ流されたか、どうしてもその形を見付けることが出来ないので、大勢も不思議がっているばかりでした。その報告をきいて、与茂四郎は深い溜息をつきました。
「ああ、手前がもう少し早くまいればよかった。それでも御主人の出向かれなかったのが、せめてもの仕合せであった。」
そう言ったぎりで、与茂四郎は帰ってしまいました。主人の方はそれから
野水という人はもう少し前に帰って来て、自分の留守のあいだにいろいろの事件が出来しているのに驚かされて、その見舞ながら奥へ行って主人の増右衛門と何か話していたのです。それがあわただしく駈け出して来たので、大勢はまたびっくりしてその子細を訊きますと、ただいま御主人と奥座敷で話しているうちに、何か庭先でがさがさという音がきこえたので、なに心なく覗いてみると、二匹の大きい蟹が縁の下から這い出して、こっちへ向って鋏をあげた。それを一と目みると、御主人は気をうしなって倒れたというのです。
それは大変だと騒ぎ出して、またもや医師を呼びにやる。それからそれへといろいろの騒動が降って湧くので、どの人の魂も不安と恐怖とに強くおびやかされて、なんだか生きている空もないようになってしまいました。それは薄ら寒い秋の宵で、その時のことを考えると今でもぞっとすると、祖母は常々言っていました。
まったくそうだろうと思いやられます。増右衛門は医師の手当で再び正気に戻りましたが、一日のうちに二度も卒倒したのですから、医者はあとの養生が大切だと言い、本人も気分が悪いと言って、その後は半月ほども床に就いていました。
二匹の蟹はほんとうに姿をあらわしたのか、それとも増右衛門のおびえている眼に一種の幻影をみたのか、それは判りません。しかし本人ばかりでなく、野水も確かに見たというのです。ゆうべからゆくえ不明になっている二匹の蟹が、あるいは縁の下に隠れていたのではないかと、大勢が手分けをして詮索しましたが、庭の内にはそれらしい姿を見いだしませんでした。家が大きいので、縁の下はとても探し切れませんでしたから、あるいは奥の方へ逃げ込んでしまったのかも知れません。
今日の我れわれから考えますと、どうもそれは主人と野水の幻覚らしく思われるのですが、一概にそうとも断定のできないのは、ここにまた一つの事件があるのです。前にも申した通り、文阿は十蟹の図をかきかけて出て行ったので、その座敷はそのままになっていたのですが、あとであらためてみると、絵具皿は片端から引っくり返されて、九匹の蟹をかいてある大幅の上には墨や朱や
それから一週間ほど過ぎて、文阿と半兵衛の死骸が浮きあがりました。ふたりともに顔や身体の内を何かに
これでともかくも二人の死骸は見付かりましたが、かの小僧だけは遂にゆくえが判りません。誰に訊いても、ここらでそんな小僧の姿を見た者はないから、多分ほかの土地の者であろうというのです。大方そんなことかも知れません。まさかに川や海の中から出て来たわけでもありますまい。
増右衛門はその以来、決して蟹を食わないばかりか、掛軸でも屏風でも、床の間の置物でも、
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第九の男は語る。
わたしは千葉の者であるが、
大久保相模守
馬琴の口真似をすると、
当代の忠義に仕えている家来のうちに、百石取りの侍に大滝庄兵衛というのがあった。百石といっても、実際は百俵であったそうだが、この百石取りが百人あって、それを安房の百人衆と唱え、里見の部下ではなかなか幅が利いたものであるという。その庄兵衛が夫婦と
少女は乞食であるらしく、夫婦がここへ通りかかったのを見て、無言で土に頭を下げると、夫婦も思わず立ちどまった。仏参の帰りに乞食をみて、夫婦はいくらかの
少女はまだ八つか九つぐらいで、袖のせまい
「まあ、可愛らしい。」と、庄兵衛の妻はひとりごとのように言った。
「むむ。」と、夫も溜息をついた。
物を恵むとか恵まないとかいうのは二の次として、夫婦はこの可憐な少女を見捨てて行くのに忍びないような気がしたので、妻は立寄ってその
「生れたところは。」
「知りません。」
「両親の名は。」
「知りません。」
こういう身の上の少女が
「まあ、可哀そうに······。」と、庄兵衛の妻は涙ぐんだ。「おまえのような可愛らしい子が、なぜ行く先ざきで捨てられるのか。」
「それはわたくしが
かれは年よりもませた口ぶりで言った。しかし見たところでは、人並すぐれた
土に坐っているので今までは気が付かなかったが、少女は一本足であった。かれは左の足をもっているだけで、右の足は膝の上から切断されているのであった。生れ落ちるとからの不具ではない。さりとて何かの病いのために切断したのでもない。おそらく何かの子細で路ばたに捨てられていたところを、野良犬か狼のような
こうなると、夫婦はいよいよ不憫が増して来て、どうしてもこのままに見捨ててゆく気にはなれなくなった。こういう美しい、いじらしい少女を乞食にしておくということが不憫であるばかりでなく、前にもいう通りのお触れが出ている以上、かれは
「おまえは乞食に物をやるなというお触れの出ているのを知らないのか。」
「知りません。」と、かれはまったく何にも知らないように答えた。
庄兵衛の妻はまた泣かされた。かれは夫を小蔭へまねいて、なんとかしてかの少女を救ってやろうではないかとささやくと、庄兵衛にも異存はなかった。しかし自分も里見家につかえる身の上で、この際おもて向きに乞食を保護するなどは穏かでないと思ったので、彼はきょうの供に連れて来た中間の与市を呼んで相談した。
与市は館山の城下から遠くない
「それではすぐに連れて行ってくれ。」
主人の命令にそむかない与市は、一本足の乞食の少女を背負って、すぐに自分の実家へ運んで行った。まずこれで安心して庄兵衛夫婦もそのまま自分の屋敷へ帰ると、日の暮れるころに与市は戻って来て、かれを確かに母や兄に頼んでまいりましたと報告した。
それから半月ほどの後に、庄兵衛の妻はその様子を見届けながらに西岬の家へたずねてゆくと、少女はつつがなく暮らしていた。与市の母や兄も律義者で、主人の指図を大事に心得ているばかりでなく、彼らは不具の少女に
それからふた月か三月ほど過ぎて、その年の暮れになると、更におどろくべき命令が領主の忠義から下された。さきに触れ渡して、乞食どもにはいっさい施すなと言い聞かせてあるのに、乞食どもはやはり城下や近在にうろうろと立ち迷っているのは、
この厳重な触れ渡しにおびやかされて、乞食どもはみな早々に逃げ散ったが、中にはその触れ渡しを知らないで居残っていた者や、あるいは逃げおくれて捕われた者や、それらは法のごとくに打殺されるのもあった。生き埋めにされるのもあった。こうして、里見の領内の乞食や宿無しのたぐいは一掃された。
「早くにあの娘を助けてよかった。」と、庄兵衛夫婦はひそかに語り合った。
歩行も自由でない一本足の少女などは、この場合おそらく逃げおくれて最初の
幸運の少女は与市の実家で親切に養われていた。庄兵衛の妻も時どきにそっと
あめ風にさらされ、砂ほこりにまみれて、往来の土の上に這いつくばっていた頃ですらも、庄兵衛夫婦の眼をひいた程の少女は、だんだん生長するに連れて、玉の光りがいよいよ輝くようになった。子どもの時から馴れているので、杖にすがれば近所をあるくには差支えもなかった。人間も利口で、
「これで足さえ揃っていれば申分はないのだが······。」と、与市の母や兄も一層かれの不幸をあわれんだ。
不具にもよるが、一本足というのではまず嫁入りの口もむずかしい。殊にここらはみな農家で、男も女も働かなければならないのであるから、いかに
庄兵衛夫婦には子供がない。かれらが不具の少女を拾いあげたのも、勿論その不幸をあわれむ心から出たには相違ないが、子のない夫婦の子供好きということも半分はまじっていたので、妻は一面に暗い思いをしながらも、また一面にはだんだんに美しく生長してゆくお冬の顔をみるのを楽しみに、時どきに忍んで逢いに行くのであった。そうしていくらかの
こうして、また一年二年と送るうちに、お冬はいよいよ美しい娘盛りとなって、いつも近所の若い男どもの噂にのぼった。中にはいたずら半分にその袖をひく者もあったが、利口なお冬は振向きもしなかった。かれは与市の母や兄を主人とも敬い、親兄弟とも慕って、おとなしくつつましやかに暮らしていた。
慶長十九年、お冬が十八の春には、その大恩人たる大滝庄兵衛の主人の家に、暗い雲が掩いかかって来た。かの大久保相模守忠隣が幕府の命令によって突然に小田原領五万石を召上げられ、あわせて小田原城を破却されたのである。
その子細は知らず、なにしろ青天の
庄兵衛もその不安を感じた一人であるらしく、このごろは
神社は西岬村のはずれにあるので、庄兵衛はその途中、与市の実家へ久振りで立寄った。彼は娘盛りのお冬をみて、年毎にその美しくなりまさって行くのに驚かされた。その以来、彼は参詣の
彼の夜詣りは三月から始まって五月までつづいた。当番その他のよんどころない差支えでない限り、ひと晩でも参詣を怠らなかった。主家を案じるのは
「庄兵衛殿がこの頃の様子、どうも腑に落ちないことがあるので、きょうはそっとそのあとを付けてみようと思います。おまえ案内してくれないか。」
与市は承知して主人の妻を案内することになった。近いといっても相当の
「どうしようか。」と、妻は立止まって思案した。
「ともかくも洲先まで行って御覧なされてはいかが。」と、与市は言った。
「そうしましょう。」
まったくそれよりほかに仕様がないので、妻は思い切ってまた歩き出したが、なにぶんにも暗いので、かれは当惑した。与市は男ではあり、土地の勝手もよく知っているので、さのみ困ることもなかったが、庄兵衛の妻は足許のあぶないのに
「与市。手をひいてくれぬか。」
与市はすこし躊躇したらしかったが、主人の妻から重ねて声をかけられて、彼はもう辞退するわけにもゆかなくなった。かれは片手に主人の妻の手を取って、暗いなかを探るようにして歩き出した。そうして、まだ十間とは行かないうちに、路ばたの木のかげから何者か現われ出て、忍びの者などが持つ
「与市か。主人の妻の手を引いて、どこへゆく。」
それは主人の庄兵衛の声であった。庄兵衛はつづけて言った。
「おのれらが不義の証拠、たしかに見届けたぞ。覚悟しろ。」
「あれ、飛んでもないことを······。」と、妻はおどろいて叫んだ。
「ええ、若い下郎めと手に手を取って、闇夜をさまよいあるくのが何より証拠だ。」
もう問答のいとまもない。庄兵衛の刀は闇にひらめいたかと思うと、片手なぐりに妻の肩先から斬り下げた。
あっと叫んで逃げようとする与市も、おなじく
あくる朝になって、庄兵衛から表向きの届けが出た。妻は中間の与市と不義を働いて、与市の実家へ身を隠そうとするところを、途中で追いとめて二人ともに成敗いたしたというのである。妻の里方ではそれを疑った。与市の母や兄はもちろん不承知であった。しかし里方としても確かに不義でないという反証を提出することは出来なかった。与市の母や兄は身分ちがいの悲しさに、しょせんは泣き寝入りにするのほかはなかった。
それと同時に、与市の家へは庄兵衛の使が来て、左様な
何分にも主人の家が潰れるか立つか、自分たちも生きるか死ぬか、それさえも判らぬという危急存亡の場合であるから、誰もそんなことを問題にする者はなかった。
不安と動揺のうちに一年を送って、あくれば
主人の家がほろびて、里見の家来はみな俄浪人となった。そのなかで大滝庄兵衛は夫婦のほかに家族もなく、平生から心がけもよかったので、家には多少の蓄財もある。浪人しても差しあたり困るようなこともないので、僅かの家来どもには暇を出して、庄兵衛は館山の城下を退散した。しかし、彼は自分ひとりというわけにはゆかなかった。彼にはお冬という女が付きまとっていた。庄兵衛もそれを振捨てて行こうとは思わないので、歩行の不自由な女を介抱しながら、ともかくも江戸の方角へ向うことにして、
それは庄兵衛が不義者として妻と中間とを成敗してから一年の後で、庄兵衛は四十六歳、お冬は十九歳の夏であった。
かれらはもう公然の夫婦で、
あまりに奉公人がたびたび代るので、近所の人たちも不思議に思って、暇を取って出てゆく一人の女にそっと
「若い
親子ほども年の違う夫婦が仲よく暮らしていることは近所の者も認めていたが、傍で見ているに堪えられないで奉公人らがみな立去るほどにむつまじいというのは、すこしく案外であった。
それから注意して窺うと、庄兵衛夫婦のむつまじいことは想像以上で、弟子のうちでも少しく大きい子どもは顔を
「わたくしはもともと乞食ですから、ふたたび元の身の上にかえると思えばよいのです。」
お冬は平気でいるらしかったが、庄兵衛は最愛の妻を伴って乞食をする気にはなれなかった。元和二年の
「この師走に差迫って、浪人の身で難渋いたす。
一種の追剥ぎとみて、相手も油断しなかった。彼は何の返事もせずに、だしぬけに自分の穿いている草履をとって、庄兵衛の顔を強くうった。そうして、こっちの慌てる隙をみて、かれは一目散に逃げ去ろうとしたのである。
泥草履で真っこうをうたれて、庄兵衛は
「こればかりのことで飛んだ罪を作った。」と、彼はいよいよ後悔した。
しかし今の身の上では二貫文の
「もし、それは人の血ではござりませぬか。」
「むむ、途中で追剥ぎに出逢ったので、一太刀斬って追い払った」と、庄兵衛は自分のことを逆に話した。
お冬はうなずいて眺めていたが、やがてその刀の血を
その夜の
「これは人の血ではござりませぬ。犬の血でござります。」
庄兵衛は一言もなかった。そればかりでなく、それが男の血であるか女の血であるか、あるいは子供の血であるかということまでも、お冬はいちいちに鑑別して庄兵衛をおどろかした。それがだんだんに
彼はその惨虐な行為に対して、時どきに良心の
しかしこの時代でも、こうした悪鬼の
牢屋につながれて三日五日を送っているあいだに、狂える心は次第に鎮まって、庄兵衛は夢から醒めた人のようになった。彼は役人の吟味に対して、いっさいの罪を正直に白状した。安房にいるときに、妻と中間とを無体に成敗したことまで隠さずに申立てた。
「なぜこのように罪をかさねましたか。我れながら夢のようでござります。」
彼もいちいち記憶していないが、元和二年の冬から翌年の夏にかけておよそ五十人ほどを斬ったらしいと言った。そうして、今になって考えると、かのお冬という一本足の女はどうもただの人間ではないかも知れないとも言った。その証拠として、かれは幾カ条かの怪しむべき事実をかぞえ立てたそうであるが、それは秘密に付せられて世に伝わらない。
いずれにしても、お冬という女も一応は吟味の必要があると認められて、捕り方の者四、五人が庄兵衛の留守宅にむかった。女ひとりを引っ立てて来るのに四、五人の
それは六月の末のゆうぐれで、お冬は竹縁に出て蚊やり火を焚いていたが、その煙りのあいだから捕り方のすがたを一と目みると、お冬は忽ちに起ちあがって庭へ飛び降りたかと思う間もなく、まばらな生け垣をかき破って表へ逃げ出した。捕り方はつづいて追って行った。
一本足でありながら、お冬は男の足も及ばないほどに早く走った。その頃はここらに
「早く舟を出せ。」
捕り方は岸につないである小舟に乗って漕ぎ出すと、お冬のすがたは一旦沈んでまた浮き出した。川の底で自分から脱いだのか、あるいは自然に脱げたものか、浮き上がった時のお冬は一糸もつけない赤裸で、一本足で浪を蹴ってゆく女の白い姿がまだ暮れ切らない水の上にあきらかに見えた。
それを目がけて漕いで行くと、あまり急いで棹を損じたためか、まだ中流まで行き着かないうちに、その小舟は横浪に煽られてたちまち転覆した。捕り方は水練の心得があったので、いずれも幸いに無事であったが、その騒ぎのあいだにお冬のゆくえを見失ってしまった。ともかくも向う岸の
牢屋のなかでその話を聴いて、庄兵衛はいよいよ思い当ったように嘆息した。
「まったくあの女は
それから
その望みの通りに、彼はそれから二日の後、千住で
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第十の女は語る。
近年はコレラなどというものもめったに流行しなくなったのは、まことに結構なことでございます。たとえ流行したと申したところで、予防も消毒も十分に行きとどきますから、一度の流行期間に百人か二百人の患者が出るのが精々でございます。ところが、以前はなかなかそういう訳にはまいりません。
わたくしは明治元年の生れで丁度十九の夏でございましたから、その頃のことはよく知っておりますが、そのときの流行はひどいもので、東京市内だけでも一日に百五十人とか二百人とかいう患者が続々出るというありさまで、まったく怖ろしいことでした。これから申上げるのはその時のお話でございます。
わたくしの家は
御承知でもありましょうが、新宿も今では四谷区に編入されて、見ちがえるように繁昌の土地になりましたが、そのころの新宿、殊に番衆町のあたりは全く田舎といってもよいくらいで、人家こそ建ち続いておりますけれども、それはそれは寂しいところでございました。
わたくしの父の買いました家は昔の武家屋敷で、門の左右は大きい竹藪に囲まれて、その奥に七
番衆町へ来てから足かけ三年目が明治十九年、すなわち大コレラの年でございます。暑さも暑し、
八月の末の夕方でございました。母とわたくしが広い縁側へ出て、市内のコレラの噂をして、もういい加減におしまいになりそうなものだなどと言っておりますと、縁に腰をかけていたお富がこんなことを言い出しました。
「でも、奥さん、ここらにはコレラになりたいと言っている人があるそうでございますよ。」
「まあ、馬鹿なことを······。」と、母は思わず笑い出しました。「誰がコレラになりたいなんて······。冗談にも程がある。」
「いいえ、それが本当らしいのでございますよ。この右の横町の飯田という
と、お富はまじめで言いました。「あの家の
この時代には江戸のなごりで、
「なぜまた、あの御新造がそんなことを言うのかしら、やっぱり冗談だろう。」と、母はやはり笑っていました。
わたくしも、むろん冗談だと思っておりました。ところが、お富の言うところを聴きますと、それがどうも冗談ではないらしいというのでございます。
飯田さんというのは、わたくしの横町をはいりますと、その中ほどにまた右の方へ曲る横町がありまして、その横町の南側にある大きい家で、門の両わきは杉の生け垣になっておりますが、裏手にはやはり大きい竹藪がございまして、門も建物も近年手入れをしたらしく、わたくしどもの
なぜだか知りませんけれど、御新造さんはこのごろ口癖のようにコレラになりたいと言う。どうしたらコレラになれるだろうなぞと言う。それがだんだんに
その話をきいて、母もわたくしもいやな心持になりました。
「あすこの
「そうですね。なんだか変ですねえ。」と、わたくしも言いました。まったく正気の沙汰とは思われないからでございます。
「ところが、お仲さんの話では、別に気がおかしいような様子はみえないということです。」と、お富は言いました。「なんでも浅草の方に大層えらい
「でも、自分がコレラになりたいと言うのはおかしいじゃないか。」
母はそれを疑っているようでございました。わたくしにもその理屈がよく呑み込めませんでした。いずれにしても、同町内のすぐ近所にコレラになりたいと願っている人が住んでいるなぞというのは、どうも薄気味の悪いことでございます。
「なにしろ、いやだねえ。」と、母は再び顔をしかめていました。
「まったくいやでございます。お仲さんはどうしても今月いっぱいでお暇をもらうと言っておりましたが、御主人が承知しますかしら。」と、お富も不安らしい顔をしていました。
そのうちに父が風呂から上がってまいりましたので、母からその話をしますと、父はすぐに笑い出しました。
「あの女中は何か自分にしくじりがあって、急に暇を出されるような事になったので、そのごまかしにいい加減なでたらめを言うのだ。嘘ももう少しほんとうらしいことを考えればいいのに······。やっぱり年が若いからな。」
父は頭から問題にもしないので、話もまずそれぎりになってしまいました。
成程そういえばそんな事がないとも言われません。自分に落度があって暇を出されても、主人の方が悪いように言い触らすのは奉公人の習いですから、飯田の御新造のコレラ話もどこまでが本当だかわからない。こう思うと、わたくし共もそれについてあまり深く考えないようになりました。
それから三日目の夕方に、わたくしはお富を連れて新宿の大通りまで買物に出ました。夕方といってもまだ明るい時分で、暑い日の暮れるのを鳴き惜しむような
横町をもう五、六間で出ぬけようとする時に、むこうから二人づれの女がはいって来ました。お富が小声で注意するように、お嬢さんと呼びますので、わたくしも気がついてよく見ますと、それはかの飯田の御新造と女中のお仲です。
近所に住んでいながら、特別に親しく附合いもしておりませんので、わたくし共はただ無言で
「お嬢さん。ごらんなさい。あの御新造の顔を······。」と、お富はふりかえりながら小声でまた言いました。
まったくお富の言う通り、飯田の御新造の
「もうコレラになっているのじゃありますまいか。」と、お富は言いました。
「まさか。」
とは言いましたが、飯田の御新造の身の上について、わたくしも一種の不安を感ぜずにはいられませんでした。コレラは嘘にしても、なにかの重い病気に罹っているに相違ないとわたくしは想像しました。婦人病か肺病ではあるまいかなぞとも考えました。
そういうたぐいの病気で容易に癒りそうもないところから、いっそ死んでしまいたい、コレラにでもなって死んでしまいたいというような愚痴が出たのを、女中たちが一途に
九月になってもコレラはなかなかおしまいになりませんので、大抵の学校は九月一日からの授業開始を当分延期するような始末でした。おまけに今までは山の手方面には比較的少なかったコレラ患者がだんだんにふえて来まして、四谷から新宿の方にも黄いろい紙を貼つけた家が目につくようになってまいりました。
その当時は、コレラ患者の出た家には丁度かし家札のような形に黄いろい紙を貼り付けておくことになっておりましたので、往来をあるいていて、黄いろい紙の貼ってある家の前を通るのは、まことにいやな心持でございました。そういうわけで、怖ろしいコレラがだんだんに眼と鼻のあいだへ押寄せて来ましたので、気の弱いわたくし共はまったくびくびくもので、早く寒くなってくれればいいと、ただそればかりを念じておりました。
「飯田さんのお仲さんはやっぱり勤めていることになったそうです。」
ある日、お富がわたくしに報告しました。お仲はどうしても八月かぎりで暇を取るつもりでいたところが、御新造がお仲にむかって、お前はどうしてもこの家を出てゆく気か、わたしももう長いことはないのだからどうぞ辛抱していてくれ。これほど頼むのを無理に振切って出てゆくというなら、わたしはきっとおまえを怨むからそう思っているがいいと、たいへんに怖い顔をして睨まれたので、お仲はぞっとしてしまって、仕方なしにまた辛抱することになったというのでございます。
お富はまたこんなことを話しました。
「あの御新造はゆうべ
「むじなを······。どうして······。」と、わたくしは訊きました。
「なんでもきのうの夕方、もう薄暗くなった時分に、どこからかむじなが······。もっとも小さい子だそうですが、庭先へひょろひょろ這い出して来たのを、御新造がみつけて、ばあやさんとお仲さんに早く
「そうかも知れないねえ。」
飯田の御新造は病気が
忘れもしない、九月十二日の午前八時頃でございました。使に出たお富が顔の色をかえて帰って来まして、息を切ってわたくし共にまた報告しました。
「飯田さんの御新造がとうとうコレラになりました。ゆうべの夜半から吐いたり下したりして······。嘘じゃありません。警察や役場の人たちが来て大騒ぎです。」
「まあ。大変······。」
わたくしも驚いて門の外まで出て見ますと、狭い横町の入口には大勢の人が集まって騒いでおりまして、石炭酸の
飯田の御新造は真症コレラで避病院へ運び込まれましたが、その晩の十時ごろに死んだそうでございます。御本人はそれで本望かも知れませんが、交通遮断やら消毒やらで近所は大迷惑でございました。それも自然に発病したというのならば、おたがいの災難で仕方もないことですが、この御新造は自分から病気になるのを願っていたらしいという噂が世間にひろまって、近所からひどく怨まれたり、憎まれたりしました。
「飛んでもない気ちがいだ。」と、わたくしの父も言いました。
ところが、その後にお仲という女中の口からこういう事実が伝えられて、わたくしどもを不思議がらせました。前にも申す通り、その当時は黄いろい紙にコレラと黒く書いて、新患者の出た家の
何を言うのかとも思ったのですが、警察の方から念のために柳橋へ聞合せると、果してその家にもコレラの新患者が出たというので、警察でもびっくりしたそうでございます。その新患者は柳橋の芸妓だということでした。
お仲は飯田の御新造が番衆町へ引っ越して来てからの奉公人で、むかしの事はなんにも知らないのでしたが、お元というばあやはその以前から長く奉公していた女で、いっさいの事情を承知していたのでございます。なにしろ病気が病気ですから誰も悔みに来る者もなく、お元とお仲との二人ぎりで寂しい葬式をすませたのですが、そのお通夜の晩にお元が初めて御新造の秘密をお仲に打明けたそうでございます。
御新造は世間の噂の通り、以前は柳橋の芸妓であったということで、ある立派な官員さんの御贔屓になって、とうとう引かされることになったのです。その官員さんという方は、その後だんだん偉くなって、明治の末年まで生きておいででして、そのお
それで四、五年は無事であったのですが、この春ごろから旦那様の車がだんだんに遠ざかって、六月頃からはぱったりと足が止まってしまいました。飯田の御新造も心配していろいろ探索してみると、旦那様は柳橋の芸妓に新しいお馴染が出来たということが判りました。しかもその芸妓は、御新造が勤めをしているころに妹分同様にして引立ててやった若い女だと判ったので、御新造は歯がみをして
もっとも旦那様から月々のお手当はやはり欠かさずに届けて来るので、生活に困るというようなことはなかったのですが、妹分の女に旦那を取られたのが無暗に口惜しかったらしい。それは無理もないことですが、この御新造は人一倍に嫉妬ぶかい
旦那様が番衆町の方から遠のいたのは、わたくしの想像した通り、御新造に頑固な婦人病があったからで、これまでにもいろいろの療治をしたのですが、どうしても癒らないばかりか、年々に重ってゆくという始末なので、旦那様もふたたび元地の柳橋へ行って新しいお馴染をこしらえたような訳で、旦那様の方にもまあ無理のないところもあるのでございましょう。それでも月々のお手当はとどこおりなく呉れて、ちっとも不自由はさせていないのですから、御新造も旦那様を怨もうとはしなかったのですが、どう考えても相手の女が憎い、怨めしい。そのうちに一方の病気はだんだんに重って来る。御新造はいよいよ
むじなの子の首を鎌でむごたらしく斬ったなどというのも、やはり神経が狂っているせいでしたろうが、むじながその芸妓にでも見えたのか、それともむじなをその芸妓になぞらえて
いずれにしても、御新造はその本望通りコレラになってしまったのでございます。浅草の偉い行者というのはどんな人か、またどんなお祈りをするのか知りませんが、御新造はその行者に秘密のお祷りでも頼んで、自分の死ぬときには相手の女も一緒に連れて行くことが出来るという事を信じていたらしいのです。
それで、あらかじめ黄いろい紙を二枚用意しておいて、いざというときには、一枚を柳橋のこうこういう家の
お元というばあやは御新造の
そうなると、世間では碌なことは言いません。あすこの家は、飯田の御新造の幽霊が出るの何のと取留めもないことを言い触らす者がございます。しかしその後に引移って来た藤岡さんという方の奥さんが、五年目の明治二十四年にインフルエンザでなくなり、またそのあとへ来た陸軍中佐の方が明治二十七年の日清戦争で戦死し、その次に来た松沢という人が株の失敗で自殺したのは事実でございます。
わたくしも二十年ほど前にそこを立退きましたので、その後のことは存じません。近年はあの辺がめっきり開けましたので、飯田さんの家というのも今はどこらになっているのか、まるで見当が付かなくなってしまいました。おそらく竹藪が伐り払われると共に取毀されたのでございましょう。
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第十一の男は語る。
僕は北国の者だが、僕の藩中にこういう怪談が伝えられている。いや、それを話す前に、かの江戸の名奉行根岸肥前守のかいた随筆「
「耳袋」のうちにはこういう話が書いてある。
僕の国では謡曲や能狂言がむかしから流行する。したがって、謡曲や狂言の師匠もたくさんある。やはりそれらからの関係であろう、武士のうちにも謡曲はもちろん、
前にいったような国風であるので、喜兵衛も前髪のころから笛を吹き習っていた。他藩であったら或いは柔弱のそしりを受けたかも知れないが、ここの藩中では全然無芸の者よりも、こうした
むかしから
自分の笛が水にひびくのではない、どこかで別に吹く人があるに相違ないと思って、しばらく耳をすましていると、その笛の音が夜の河原に遠く冴えてきこえる。吹く人も下手ではないが、その笛がよほどの名笛であるらしいことを喜兵衛はさとって、彼はその笛の持主を知りたくなった。
笛の音に寄るのは秋の鹿ばかりではない。喜兵衛も好きの道にたましいを奪われて、その笛の方へ吸い寄せられてゆくと、笛は河しもに茂る芒のあいだから洩れて来るのであった。自分とおなじように今夜の月に浮かれて出て、夜露にぬれながら吹き楽しむ者があるのか、さりとは心憎いことであると、喜兵衛はぬき足をして
そこからこういう音色の洩れて来ようとは頗る意外に感じられたので、喜兵衛は不審そうに立停まった。
「まさかに狐や狸めがおれをだますのでもあるまい。」
こっちの好きに付け込んで、狐か
「これ、これ。」
声をかけられて、男は笛を吹きやめた。そうして、油断しないような身構えをして、そこに立っている喜兵衛をみあげた。
月のひかりに照らされた彼の風俗はまぎれもない乞食のすがたであるが、年のころは二十七八で、その人柄がここらに巣を組んでいる普通の宿無しや乞食のたぐいとはどうも違っているらしいと喜兵衛はひと目に見たので、おのずと詞もあらたまった。
「そこに笛を吹いてござるのか。」
「はい。」と、笛をふく男は低い声で答えた。
「あまりに音色が冴えてきこえるので、それを慕ってここまでまいった。」と、喜兵衛は笑みを含んで言った。
その手にも笛を持っているのを、男の方でも眼早く見て、すこしく心が解けたらしい、彼の詞も打解けてきこえた。
「まことにつたない調べで、お恥かしゅうござります。」
「いや、そうでない。せんこくから聴くところ、なかなか稽古を積んだものと相見える。勝手ながらその笛をみせてくれまいか。」
「わたくし共のもてあそびに吹くものでござります。とてもお前さま方の御覧に入るるようなものではござりませぬ。」
とは言ったが、別に
その態度が、どうしてただの乞食でない。おそらく武家の浪人が何かの子細で落ちぶれたのであろうと喜兵衛は推量したので、いよいよ行儀よく挨拶した。
「しからば拝見。」
彼はその笛を受取って、月のひかりに透かしてみた。それから一応断った上で、試みにそれを吹いてみると、その音律がなみなみのものでない、世にも稀なる
「おまえはいつ頃からここに来ている。」
「半月ほど前からまいりました。」
「それまではどこにいた。」と、喜兵衛はかさねて訊いた。
「このような身の上でござりますから、どこという定めもござりませぬ。中国から京大坂、
「お手前は武家でござろうな。」と、喜兵衛は突然に訊いた。
男はだまっていた。この場合、なんらの打消しの返事をあたえないのは、それを承認したものと見られるので、喜兵衛は更にすり寄って訊いた。
「それほどの名笛を持ちながら、こうして流浪していらるるには、定めて子細がござろう。御差支えがなくばお聴かせ下さらぬか。」
男はやはり黙っていたが、喜兵衛から再三その返事をうながされて、彼は渋りながらに口を開いた。
「拙者はこの笛に祟られているのでござる。」
男は
弥次右衛門が十九歳の春のゆうぐれである。彼は菩提寺に参詣して帰る途中、往来のすくない
彼は弥次右衛門の親切を非常に感謝して、見ず知らずのお武家さまが我れわれをこれほどにいたわってくだされた。その有難い御恩のほどは何ともお礼の申上げようがない。ついては甚だ失礼であるが、これはお礼のおしるしまでに差上げたいと言って、自分の腰から袋入りの笛をとり出して弥次右衛門にささげた。
「これは世にたぐいなき物でござる。しかし、くれぐれも
彼は謎のような一句を残して死んだ。弥次右衛門はその
身許不明の四国遍路が
「御貴殿は石見弥次右衛門殿でござるか。」と、若侍は近寄って声をかけた。
左様でござると答えると、かれは更に進み寄って、噂にきけば御貴殿は先日このところにおいて四国遍路の病人を介抱して、その形見として袋入りの笛を受取られたということであるが、その四国遍路はそれがしの仇でござる。それがしは彼の首と彼の所持する笛とを取るために、はるばると尋ねてまいったのであるが、かたきの本人は既に病死したとあれば致し方がない、せめてはその笛だけでも所望いたしたいと存じて、先刻からここにお待ち受け申していたのでござると言った。
藪から棒にこんなことを言いかけられて、弥次右衛門の方でも素直に渡すはずがない。彼は若侍にむかって、お身はいずこのいかなる
こうなると弥次右衛門の方には、いよいよ疑いが起って、彼はこんなことを言いこしらえて大切の笛を
この上はそれがしにも覚悟があると言って、彼は刀の柄に手をかけた。問答
「その笛は貴様に祟るぞ。」
言い終って彼は死んだ。訳もわからずに相手を殺してしまって、弥次右衛門はしばらく夢のような心持であったが、取りあえずその次第を届け出ると、右の通りの事情であるから弥次右衛門に咎めはなく、相手は殺され損で
相手を斬ったことはまずそれで落着したが、ここに一つの難儀が起った。というのは、この事件が藩中の評判となり、主君の耳にもきこえて、その笛というのを一度みせてくれという上意が
こうなると、ほかに仕様はない。年の若い彼はその笛をかかえて屋敷を出奔した。一管の笛に対する執着のために、彼は先祖伝来の家禄を捨てたのである。
むかしと違って、そのころの諸大名はいずれも内証が
そのあいだに彼は大小までも手放したが、その笛だけは手放そうとはしなかった。そうして、今やこの北国にさまよって来て、今夜の月に吹き楽しむその音色を、
ここまで話して来て、弥次右衛門は溜息をついた。
「さきに四国遍路が申残した通り、この笛には何かの祟りがあるらしく思われます。むかしの持主は何者か存ぜぬが、手前の知っているだけでも、これを持っていた四国遍路は路ばたで死ぬ。これを取ろうとして来た旅の侍は手前に討たれて死ぬ。手前もまたこの笛のために、かような身の上と相成りました。それを思えば身の行く末もおそろしく、いっそこの笛を売放すか、折って捨てるか、二つに一つと覚悟したことも幾たびでござったが、むざむざと売放すも惜しく、折って捨つるはなおさら惜しく、身の禍いと知りつつも身を放さずに持っております。」
喜兵衛も溜息をつかずには聴いていられなかった。むかしから刀についてはこんな奇怪な因縁話を聴かないでもないが、笛についてもこんな不思議があろうとは思わなかったのである。
しかし年のわかい彼はすぐにそれを否定した。おそらくこの乞食の浪人は、自分にその笛を所望されるのを恐れて、わざと不思議そうな作り話を聞かせたので、実際そんな事件があったのではあるまいと思った。
「いかに惜しい物であろうとも、身の禍いと知りながら、それを手放さぬというのは判らぬ。」
と、かれは
「それは手前にも判りませぬ。」と、弥次右衛門は言った。「捨てようとしても捨てられぬ。それが身の禍いとも祟りともいうのでござろうか。手前もあしかけ十年、これには絶えず苦しめられております。」
「絶えず苦しめられる······。」
「それは余人にはお話のならぬこと。またお話し申しても、
それぎりで弥次右衛門は
「もう夜がふけました。」と、弥次右衛門はやがて空を仰ぎながら言った。
「もう夜がふけた。」
喜兵衛も
浪人に別れて帰った喜兵衛は、それから一
喜兵衛はかの笛が欲しくて堪らないのである。しかし浪人の口ぶりでは、所詮それを素直に譲ってくれそうもないので、いっそ彼を闇討にして奪い取るのほかはないと決心したのである。勿論、その決心をかためるまでには、彼もいくたびか躊躇したのであるが、どう考えてもかの笛がほしい。浪人とはいえ、相手は宿無しの乞食である。人知れずに斬ってしまえば、格別にむずかしい詮議もなくてすむ。こう思うと、彼はいよいよ悪魔になりすまして、一旦わが屋敷へ引っ返して身支度をして、夜のふけるのを待って、再びここへ襲ってきたのであった。
嘘かほんとうか判らないが、さっきの話によると、かの弥次右衛門は相当の手利きであるらしい。別に武器らしいものを持っている様子もないが、それでも油断はならないと喜兵衛は思った。自分もひと通りの剣術は修業しているが、なんといっても年が若い。真剣の勝負などをした経験は勿論ない。卑怯な闇討をするにしても、相当の準備が必要であると思ったので、彼は途中の竹藪から一本の竹を切出して竹槍をこしらえて、それを掻い込んで窺い寄ったのである、葉ずれの音をさせないように、彼はそっと芒をかきわけて、まず小屋のうちの様子をうかがうと、笛の音はやんでいる。小屋の入口には筵をおろして内はひっそりとしている。
と思うと、内では低い
息をこらしてうかがっていると、内ではいよいよ苦しみもがくような声が激しくなって、弥次右衛門は入口の筵をかきむしるようにはねのけて、小屋の外へころげ出して来た。そうして、その怖ろしい夢はもう醒めたらしく、彼はほっと息をついてあたりを見まわした。
喜兵衛は身をかくす暇がなかった。今夜の月は、あいにく冴え渡っているので、竹槍をかい込んで突っ立っている彼の姿は、浪人の眼の前にありありと照らし出された。
こうなると、喜兵衛はあわてた。見つけられたが最後、もう猶予は出来ない。彼は持っている槍を取直してただひと突きと繰出すと、弥次右衛門は早くも身をかわして、その槍の穂をつかんで強く曳いたので、喜兵衛は思わずよろめいて草の上に小膝をついた。
相手が予想以上に手剛いので、喜兵衛はますます慌てた。彼は槍を捨てて刀に手をかけようとすると、弥次右衛門はすぐに声をかけた。
「いや、しばらく······。御貴殿は手前の笛に御執心か。」
星をさされて、喜兵衛は一言もない。抜きかけた手を控えて暫く躊躇していると、弥次右衛門はしずかに言った。
「それほど御執心ならば、おゆずり申す。」
弥次右衛門は小屋へはいって、かの笛を取出して来て、そこに黙ってひざまずいている喜兵衛の手に渡した。
「先刻の話をお忘れなさるな。身に禍いのないように精々お心を配りなされ。」
「ありがとうござる。」と、喜兵衛はどもりながら言った。
「人の見ぬ間に早くお帰りなされ。」と、弥次右衛門は注意するように言った。
もうこうなっては相手の命令に従うよりほかはない。喜兵衛はその笛を押しいただいて殆んど
屋敷へ戻る途中、喜兵衛は一種の
夜があけたならば、もう一度かの浪人をたずねて今夜の無礼をわび、あわせてこの笛に対する何かの謝礼をしなければならないと決心して、彼は足を早めて屋敷へ戻ったが、その夜はなんだか眼が冴えておちおちと眠られなかった。
夜のあけるのを待ちかねて、喜兵衛は早々にゆうべの場所へたずねて行った。その懐中には小判三枚を入れていた。河原には秋のあさ霧がまだ立ち迷っていて、どこやらで
芒をかきわけて小屋に近寄ると、喜兵衛はにわかにおどろかされた。石見弥次右衛門は小屋の前に死んでいたのである。彼は喜兵衛が捨てて行った竹槍を両手に持って、我れとわが
そのあくる年の春、喜兵衛は妻を迎えて、夫婦の仲もむつまじく、男の子ふたりを儲けた。そうして何事もなく暮らしていたが、前の出来事から七年目の秋に、彼は勤め向きの失策から切腹しなければならないことになった。彼は自宅の屋敷で
笛は石見弥次右衛門から譲られたものである。喜兵衛は心しずかに吹きすましていると、あたかも一曲を終ろうとするときに、その笛は、怪しい音を立てて突然ふたつに裂けた。不思議に思ってあらためると、笛のなかにはこんな文字が刻みつけられていた。
九百九十年 終 浜主
喜兵衛はさらに不思議なのは、九百九十年にして終るという、その九百九十年目があたかも今年に相当するらしいことである。浜主はみずからその笛を作って、みずからその命数を定めたのであろうか。今にして考えると、かの石見弥次右衛門の因縁話も嘘ではなかったらしい。怪しい因縁を持ったこの笛は、それからそれへとその持主に禍いして、最後の持主のほろぶる時に、笛もまた九百九十年の命数を終ったらしい。
喜兵衛は、あまりの不思議におどろかされると同時に、自分がこの笛と運命を共にするのも逃れがたき因縁であることを覚った。彼は見届けの役人にむかって、この笛に関する過去の秘密を一切うち明けた上で、尋常に切腹した。
それが役人の口から伝えられて、いずれも奇異の感に打たれた。喜兵衛と生前親しくしていた藩中の誰かれがその遺族らと相談の上で、二つに裂けたかの笛をつぎあわせて、さきに石見弥次右衛門が自殺したと思われる場所にうずめ、
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第十二の男は語る。
わたしは写真道楽で||といっても、下手の横好きのお仲間なのですが、ともかく道楽となると、東京市内や近郊でばかりパチリパチリやっているのではどうしても満足が出来ないので、忙しい仕事の暇をぬすんで各地方を随分めぐり歩きました。そのあいだにはいろいろの失策談や冒険談もあるのですが、今夜の話題にふさわしいお話というのは、今から四年ほど前の秋、福島県の方面へ写真旅行を企てたときの事です。
そのときに自分ひとりで出かけたのですが、
日が暮れてから横田君はわたしの座敷へ来て、夜のふけるまで話していましたが、そのうちに横田君はこんなことを言い出しました。
「どうもこの近所には写真の題になるようないい景色のところもありません。しかし折角おいでになったのですから、何か変ったところへ御案内したい。これから五里半以上、やがて六里ほどもはいったところに龍馬の池というのがあります。少し遠方ですが、途中までは乗合馬車がかよっていますから、歩くところはまず半分ぐらいでしょう。どうです、一度行って御覧になりませんか。」
「わたしは旅行馴れていますから、少しぐらい遠いのは驚きません。そこで、その龍馬の池というのは景色のいいところなんですか。」
「景色がいいというよりも、大きい木が一面に繁っていて、なんだか薄暗いような、物凄いところです。昔は非常に大きい池だったそうですが、今ではまあ東京の
「いえ、わたしは夜ふかしをすることは平気です。その奇怪な伝説というのはどんなことですか。」と、わたしも好奇心をそそられて訊きました。
「さあ、それをお話し申しておかないと、御案内の価値がないようなことにもなりますから、一応はお耳に入れておきたいと思います。」
今夜も十時を過ぎて、庭には鳴き弱ったこおろぎの声がきこえる。九月の末でも、ここらでは火鉢を引寄せたいくらいの
「なんでも奥州の
ところがその木馬がある時どこへか姿を隠してしまった。前の伝説がありますから、おそらくどこへか出て行って、再び戻って来るものと思っていると、それが三月たっても半年たっても再び姿をみせない。元来が小さい社で神官も別当もいるわけではないのですから、馬がどうして見えなくなったか、その事情は勿論わからない。まさか盗まれたわけでもあるまい。盗んだところでどうにもなりそうもない。霊ある木馬はこの池の底へ沈んでしまったのではあるまいか、という説が多数を占めて、まずそのままになっていると、その年の秋には暴風雨があって、池の水が溢れ出して近村がことごとく水にひたされる。そのほかにも悪い病いが
とりわけて心配したのはかの黒太夫で、なにぶんにも所有の土地も広く、家族も多いのですから、なにかの災厄のおこるたびに、その被害が最も大きい。そこで村の者どもとも相談して、黒太夫の一手でかの木馬を新しく作って、龍神の社前に供えるということになりました。しかしその頃の奥州にはとてもそれだけの彫刻師はいない。もちろん
これには黒太夫も困っていると、ある晩にひとりの山伏が来て一夜のやどりを求めたので、黒太夫もこころよく泊めてやる。そうして、なにかの話からかの木馬の話をすると、山伏のいうには、それにはいいことがある。今度奥州の平泉に金色堂というものが出来るについて、都から大勢の仏師や
それをきいて黒太夫は非常によろこびました。山伏はあくる朝、ここを立ってしまいましたが、黒太夫はすぐに支度をして、家内の者四、五人を供につれて、街道筋へ出張って待ちうけていると、果してその祐慶という人が通りかかりました。黒太夫が想像していたのとは違って、まだ二十四五の若い男で、これがそれほど偉い人かと少しく疑われるくらいでしたが、ともかくも呼びとめて木馬の彫刻をたのみますと、祐慶は、先をいそぐからというので断りました。それをいろいろに口説いて、なにしろその場所を一度見てくれといって、無理に自分の屋敷まで連れて来ることになったのです。
祐慶は案内されて、かの龍神の社へ行って、龍の池のあたりを暫く眺めていましたが、それほどお頼みならば作ってもよろしい。しかし馬ばかり作ったのでは再び立去るおそれがあるから、どうしてもその
もちろん、差支えはないと言うほかないので、万事よろしく頼むことになりますと、祐慶は彫刻をするために生きた人間と生きた馬を手本に貸してくれという。つまり
捨松はことし十五の少年で、赤児のときに龍神の社の前に捨ててあったのを黒太夫の家で拾いあげて、捨て子であるから捨松という名をつけて、今日まで育てて来たので、ほんとうの子飼いの奉公人です。そういうわけで、親もわからない、身許も判らない人間ですから、黒太夫も不憫を加えて召使っている。当人も一生懸命に働いている。また不思議にこの捨松は馬をあつかうことが上手で、まだ年もいかない癖に、どんな
「祐慶がどういう風にして製作に従事したかという事は詳しく伝わっていませんが、屋敷内の森のなかに新しく細工場を作らせて、モデルの捨松と白鹿毛のほかには誰も立入ることを許しませんでした。主人の黒太夫も覗くことは出来ない。こうして七、八、九、十、十一と、あしかけ五カ月の後に、人間と馬との彫刻が出来あがりました。時によると夜通しで仕事をつづけている事もあるらしく、夜ふけに
いよいよ製作が
黒太夫も大層よろこんで手厚い
そこで、吉日を選んでかの木馬を社前に据えつける事になったのは十二月の初めで、近村の者もみな集まるはずにしていると、その前夜の夜半からにわかに雪がふり出しました。ここらで十二月に雪の降るのは珍しくもないのですが、暁け方からそれがいよいよ激しくなって、眼もあけないような大吹雪となったので、黒太夫の家でもどうしようかと躊躇していると、ここらの人たちは雪に馴れているのか、それとも信仰心が強いのか、この吹雪をも恐れないで近村はもちろん、遠いところからも続々あつまって来るので、もう猶予してもいられない。
人々も驚いて、あれあれというところへ、かの捨松が追って来ました。馬は龍の池の方へ向ってまっしぐらに駈けてゆく。捨松もつづいて追ってゆく。雪はまたひとしきり激しくなって、人も馬も白い渦のなかに巻き込まれて、時どきに見えたり隠れたりする。捨松は途中で手綱を掴んだらしいのですが、きょうは容易に取鎮めることが出来ず、狂い立つ奔馬に引きずられて吹雪のなかを転んだり起きたりして駈けてゆく。ほかの馬飼も捨松に加勢するつもりで、あとから続いて追いかけたのですが、雪が激しいのと、馬が早いのとで、誰も追い付くことが出来ない。ただうしろの方から、おういおうい、と声をかけるばかりでした。
そのうちに吹雪はいよいよ激しくなって、白い大浪が馬と人とを巻き込んだかと思うと、二つながら忽ちにその影を見失った。どうも池のなかへ吹き込まれたらしいのです。騒ぎはますます大きくなって、大勢がいろいろに詮議したのですが、捨松も白鹿毛も、結局ゆくえ不明に終りました。
やはり以前の木馬と同じように池の底に沈んだのであろうと諦めて、新しく作られた木像と木馬を龍神の社前に据えつけて、ともかくもきょうの式を終りましたが、もしやこれもまた抜け出すようなことはないかと、黒太夫の家からは朝に晩に見届けの者を出していましたが、木像も木馬も別条なく、社を守るように立っているので、まず安心はしたものの、それにつけても捨松と白鹿毛の死が悲しまれました。
誰が見ても、その木像と木馬はまったく捨松と白鹿毛によく似ているので、あるいは名人の技倆によって、人も馬もその魂を作品の方に奪われてしまって、わが身はどこへか消え失せたのではないかなどと言う者もありました。それからまた
そこで、その名人の仏師はどうしたかというと、その後の消息はよく判りません。どうも平泉で殺されたらしいということです。なにしろここで木像と木馬を作るために五カ月を費したので、平泉へ到着するのが非常におくれた。それが秀衡の感情を害した上に、仕事に取りかかってからも、一向に
「で、その木像と木馬も今も残っているのですか。」と、わたしはこの話の終るのを待ちかねて訊きました。
「それにはまたお話があります。」と、横田君は静かに言いました。「あとで聞くと、その祐慶という仏師は日本の人ではなく、
「そうすると、かの木馬も一緒に焼けてしまったのですね。」
「誰もまあそう思っていたのです。したがって、そのゆくえを詮議する者もなかったのですが、それからおよそ四十年ほども過ぎて、日露戦争の終った後のことです。この白河出身の者で、今は南京に雑貨店を開いている堀井という男が、なにかの商売用で
もちろん堀井は明治以後に生れた男で、龍馬の池の木像も木馬も見たことはないのですが、かねて話に聴いているものによく似ているばかりか、その木像の
結局、不得要領で帰って来たそうですが、どうしてもそれは日本のものに相違ないと堀井は主張していました。もし果してそれが本当であるとすれば、木馬や木像が自然に支那まで渡ってゆくはずがありませんから、戦争のどさくさまぎれに誰かが持出して、横浜あたりにいる支那人にでも売渡したのではあるまいかとも想像されますが、実物大の木像や木馬をどうして人知れずに運搬したか、それが頗る疑問です。それを作った仏師が支那の人であるからといって、木像や木馬が何百年の後、自然に支那へ舞い戻ったとも思われません。なにしろ堀井という男は龍馬の池の実物を見ていないのですから、いかに彼が主張しても、果してそれが本物であるかどうかも疑問です。」
それからそれへと拡がってゆく奇怪の物がたりを、わたしは黙って聞いているのほかはありませんでした。横田君は最後にまたこう言いました。
「今まで長いお話をしましたが、近年になって、かの龍馬の池に新しい不思議が発見されたのです。」
まだ不思議があるのかと、わたしも少し驚いて、やはり黙って相手の顔をながめていました。二人のあいだに据えてある火鉢の火がとうに灰になっているのをお互いに気がつかないのでした。
「あなたを御案内したいというのも、それがためです。」と、横田君は言いました。「今から七年ほど前のことです。宮城県の中学の教師が生徒を連れて来たときに、龍馬の池のほとりで写真を撮ってあとで現像してみると、馬の手綱を取った少年の姿が水の上にありありと浮かび出しているので、非常に驚いたといいます。その噂が伝わって、その後にもいろいろの人が来て撮影しました。東京からも三、四人来ました。土地でも本職の写真師は勿論、我れわれのアマチュアが続々押掛けて行って、たびたび撮影を試みましたが、めったに成功しません。それでは全然駄目かというと、十人に一人ぐらいは成功して、確かに馬と少年の姿が浮いてみえるのです。」
「なるほど不思議ですね。」と、わたしも溜息をつきました。「そうして、あなたは成功しましたか。」
「いや、それが残念ながら不成功です。六、七回も行ってみましたが、いつも失敗を繰返すので、わたくしはもう諦めているのですが、あなたのお出でになったのは幸いです。あしたは是非お供しましょう。」
「はあ、ぜひ御案内をねがいましょう。」
わたしの好奇心はいよいよ募って来ました。もう一つには、十人に一人ぐらいしか成功しないという不思議の写真を、見ごと自分のカメラに収めてみせようという一種の誇りも加わって、わたしはあしたの来るのを待ちこがれていました。
あくる朝は幸いに晴れていたので、わたしは早朝から支度をして、横田君と一緒に出ました。横田君も写真機携帯で、ほかに店の小僧ひとりを連れてゆきました。池の近所に飯を食わせるような家はないというので、弁当やビールなどをバスケットに入れて、それを小僧に持たせたのです。
三里ほどは乗合馬車にゆられて行って、それからは畑道や森や岡を越えて、やはり三里ほども徒歩でゆくと、だんだんに山に近いところへ出ました。横田君や小僧は土地の人ですから、このくらいの途は平気です。わたしも旅行慣れているので、別に驚きもしませんでした。小僧は昌吉といって、ことし十六だそうです。年の割には柄の大きい、見るから丈夫そうな、そうしてなかなか利口そうな少年でした。したがって、若主人の横田君にも可愛がられているらしく、横田君がどこへか出る時には、いつも彼を供に連れてゆくということでした。
「この昌吉も、ゆうべお話をした木像のモデルと同じような身の上なのです。」と、横田君はあるきながら話しました。「これも両親は判らないのです。」
昌吉という少年も、やはり捨て子で、両親も身もとも判らない。それを横田君の家で引取って、三つの年から育ててやったのだということでした。それを聴かされて、わたしもかの捨松という馬飼のむかし話を思い出して、きょうの写真旅行に彼を連れてゆくのも、なんだか一種の因縁があるように感じられましたが、昌吉はまったく利口な人間で、途中でも油断なく我れわれの世話をしてくれました。
「また伐ったな。」と、横田君はひとりごとのように言いました。近来しきりにこの辺の樹木を伐り出すので、だんだんに周囲が明るくなって、むかしの神秘的な気分が著しく薄れて来たとのことでした。どこでも同じことで、これはやむを得ないでしょう。しかし龍神の社の跡だというところは、人よりも高い雑草にうずめられて、容易に踏み込めそうもありませんでした。
三人は池のほとりの大樹の下に一と休みして、それから昌吉が尽力して
「水を汲んで来ます。」
こう言って、昌吉は湯沸しを提げて行きました。池の北にある桜の大樹の下に清水の湧く所がある。その水がこの池に落ちるのだそうで、夏でも氷のように冷たいと、横田君は説明していました。
「さあ、茶の出来るあいだに、仕事をはじめますかな。」
横田君は写真機を取出しました。わたしも機械を取出して、ふたりはいろいろの位置から四、五枚写しましたが、昌吉はなかなか帰って来ません。
「あいつ、何をしているのかな。」
横田君は大きい声で彼の名を呼びましたが、返事がない。そのうちに気がつくと、かの湯沸しはバスケットの傍においてあって、中には綺麗な水が入れてありました。我れわれが写真に夢中になっているあいだに、昌吉はもう水を汲んで来たらしいのですが、さてその本人の姿が見えない。いつまで待ってもいられないので、横田君はそこらの枯枝や落葉を拾って来る。わたしも手伝って火を焚いて、湯を沸かす、茶を淹れる。こうして午飯を食い始めたのですが、昌吉はまだ帰らない。ふたりはだんだんに一種の不安をおぼえて、たがいに顔を見合せました。
「どうしたのでしょう。」
「どうしましたか。」
早々に飯を食ってしまって、ふたりは昌吉のゆくえ捜索に取りかかりました。ふたりは池を一とまわりして、さらに近所の森や草原を駈けめぐりました。龍神の社の跡という草むらをも掻きわけて、およそ二時間ほども捜索をつづけたのですが、昌吉はどうしても見付かりません。横田君もわたしもがっかりして草の上に坐ってしまいました。
「もう仕様がありません。家へ帰って出直して来ましょう。」と、横田君は言いました。
バスケットなどはそこにおいたままで、ふたりは早々に帰り支度をしました。日の暮れかかる頃に町へ戻って来てそのことを報告すると、店の人々もおどろいて、店の者や出入りの者や、近所の人なども一緒になって、二十人ほどが龍馬の池へ出てゆきました。横田君も先立ちになって再び出かけました。
「あなたはお疲れでしょうから、風呂へはいってゆっくりお休み下さい。」
横田君はこう言いおいて出て行きましたが、とても寝られるわけのものではありません。私もおちつかない心持で捜索隊の帰るのを待ち暮らしていますと、夜なかになって横田君らは引揚げて来ました。
「昌吉はどうしても見つかりません。」
その報告を聴かされて、私もいよいよがっかりしました。それと同時に、昌吉のゆくえ不明は、かの捨松とおなじような運命ではあるまいかとも考えられました。
わたしはその翌日もここに滞在して、昌吉の行く末を見届けたいと思っていますと、きょうは警察や青年団も出張して、大がかりの捜索をつづけたのですが、少年のゆくえは結局不明に終りました。いつまでもここの厄介になってもいられないので、わたしは次の日に出発して、宇都宮に一日を暮らして、それから真っ直ぐに帰京しましたが、何分にも昌吉のことが気にかかるので、横田君に手紙を出してその後の模様を問いあわせると、二、三日の後に返事が来ました。その文句は大体こんなことでした。
前略、折角お立寄りくだされ候ところ、意外の椿事出来 のために種々御心配相掛け、なんとも申訳無御座候。昌吉のゆくえは遂に相分り申さず、さりとて家出するような子細も無之、唯々不思議と申すのほか無御座候。万一かの捨松の二代目にもやと龍馬の池の水中捜索をこころみ候えども、これも無効に終り申候。
ここにまた、不思議に存じられ候は、当日小生が撮影五枚のうち、一枚には少年のすがた朦朧とあらわれおり候ことに御座候。それは影のように薄く、もちろんはっきりと相分り兼ね候えども、それがどうも昌吉の姿らしくも思われ申候。
貴下御撮影の分はいかが、現像の結果御しらせ下され候わば幸甚 に存じ候。
ここにまた、不思議に存じられ候は、当日小生が撮影五枚のうち、一枚には少年のすがた朦朧とあらわれおり候ことに御座候。それは影のように薄く、もちろんはっきりと相分り兼ね候えども、それがどうも昌吉の姿らしくも思われ申候。
貴下御撮影の分はいかが、現像の結果御しらせ下され候わば
まずこんな意味であったので、わたしも取りあえず自分の撮影した分を現像してみましたが、どこにも人の影らしいものなどは見いだされませんでした。横田君の写真にはどういう影があらわれているのか、その実物を見ないのでよく判りません。