一
この二つの接近した年中行事については、書かねばならぬ事の多すぎる感がある。又既に、先年柳田先生が「民族」の上で述べてゐられるから、私しきが今更此に対して、事新しく、附け加へるほどのことはあるまいと思ふが、顔が違へば、心も此に応じる。又変つた思案も出ようと言ふものである。
たなばたは、七月七日の夜と、一般に考へられてゐる様であるが、此は、七月六日の夜から、翌朝へかけての行事であるのが、本式であつた。此点、今井武志さんの報告にある、信州上水内の八月六日の夜を以てするのが、古形を存するものゝ様である。沖縄に保存してゐるたなばた祭りも、やはり七月六日の夜からで、翌朝になるとすんでゐた。
「水の女」の続稿には、既に計画も出来てゐるのであるが、たなばたといふ言葉は、宛て字どほり棚機であつた。棚は、
壁に片方づけになつてゐない吊り棚に、
だが、かうしたたなの中にも、自然なる分化があつて、地上から隔離する方法によつて、名を異にする様になつた。一つは、盆棚形式のもので、柱を主部とするものである。珠玉の神を
この倉は、地上に柱を立て、その脚の上に板を挙げて、それに、五穀及びその守護霊を据ゑて、仮り屋根をしておく、といふ程度のものであつたらしく、「
だから、やまたのをろちの条に、八つのさずきを作つて迎へた、といふ事も訣るのである。此が、特殊な意義に用ゐられた棚の場合には、一方崖により、水中などに立てた所謂、かけづくりのものであつた。偶然にも、さずきの転音に宛てた字が桟敷と、桟の字を用ゐてゐるのを見ても、さじき或は棚が、かけづくりを基とした事を示してゐる。後には、此かけづくりをはしどのなどゝさへ称する様になつた。だから、考へると、
さうした意味から考へると、日本紀天孫降臨章にある、
天孫又問曰、其於ニ二秀起浪穂之上 一、起 二八尋 殿ヲ一而、手玉玲瓏織
之少女 者、是ハ誰之女子耶 。答ヘテ曰ハク、大山祇神之女等。大 号ヒ二磐長姫ト一少 号フ二木華開耶姫ト一。
とある八尋殿は、構への上からは殿であるが、様式からいへば、階上に造り出したかけづくりであつた、と見て異論はない筈である。此棚にゐて、はた織る少女が、即棚機つ
かうして来ると、従来、
かうした土台があつた為に、夏秋の
中尾逸二さんの郷里で行はれた「なのか日」の行事が、又一面、たなばた祭りの面影を見せてゐる。他から来る神を迎へる神婚式即、棚機祭り式で、同時に、夏秋の交叉を意味するゆきあひを、
二
七夕から盆へ続く間には、わが国の民俗の上に、意味のある行事が多くあつた。其中、最注意せられるのは「生き盆」即「いきみたま」の祭りである。この頃、聞く事甚稀になつたが、以前は盛んであり、此に関する文献も、可なり古く、溯れる様に思ふ。室町の頃から見える「おめでたごと」と、一つ行事である。
我々の過去には、正月の「おめでたう」の上に、今一度「おめでたう」を盆に唱へて、長上の健康を祝福したのであつた。これを、死者にする聖霊会と分つ為、十三日以前に行ふ事にしてゐた。盆礼の古い姿である。親・親方・主人の為にしたのが、殊には、族人の長上に向つて行ふ風が、目だつて見えた。
正式な形は、恐らく一人々々、ばら/\に出かけて、祝うて帰る、といつた風ではなく、定つた日に、長上の家に集つて、家主に向つて、一同から所謂、おめでた
魂を献上する式については、年末年始の際に、くり返す必要が、今から見えてゐるから、其時まで、説明の省略を許して頂くが、今言うてよい事は、なぜその魂を、生者にも、死者にも奉らうとするのであるか、といふ点である。死者の魂祭りに関しては、まつりの語の内容が、変化した近代において、前代から承けついだまゝの語形、たまゝつりを俗間語原説から、亡き魂を奉祀すると考へてゐる。だが、語自身、疑ひもなく、魂を献上する行事の意味である。まつりなる言葉は、長上に献ずる義から、神の為の捧げものを中心にした祭儀といふのが、古意なのである。
死者に奉る魂の事は、年末の
今一つ、この盆の期間に、大事の行事があつて、今や完全に、その転義をすらも忘れ去らうとしてゐる。其は、たなばた前後から、此時期に渡つて行はれる、ぼんがまの行事である。歳暮に行うたと称する「庭竈」の都風は、歌枕以後、誹諧の季題にまで保存せられてゐる。今も、荘内辺では、刈り上げ後に、にはなひ行といふことをする。家の内にゐないで、庭にゐて、所在なさに、縄を綯ふ物忌みだからといふので、勿論、新嘗と関聯する所はあるのであるが、これらの事実を見ても、一家族或は或種の人々が、家の建て物のうちにはゐないで、別に煮焚きの火床を構へて、謹慎する日があつたのである。
此が、一年後半期の年頭とも称すべき、盆の時において行はれるのが、専、村の少女の間にくり返されてゐる、右のぼんがまなのであつた。恐らく、童遊びのまゝごと・おつかさんごとなどいふ形を生み出した、元の姿として見るべきであらう。年頭に、男の子たちが、鳥小屋・かまくら・道祖神小屋などに籠るのと、一つ意味のものであるが、かうして分居した団員が、その謹慎によつて、新な社会的資格を得る様になつた、と見る事が出来る。
即、同じ物忌みの沢山ある中でも、このぼんがまは、女に対する成年戒||謂はゞ、成女戒とも名づくべき||の授けられる前提と見るべきである。此行事は、道祖神祭りに与る団員たちよりも、今少し年齢が自由で、かなり年たけた娘たちも、仲間入りしてゐる事を思へば、成年戒に対して行はれた準成年戒||幼童から村の少年・少女となる||よりは、広く、成女戒に属したものではないかと思ふ。だが、尚考へて見ると、此に先だつて行はれる
さう謂へば、おなじく「盆」を以て称せられる地蔵盆||又、地蔵祭りとも||の如きも時期は稍遅れて行はれるが、七夕・盂蘭盆に関係の浅くない事を見せてゐる。正式には、七月二十四日、処によつては、月見の頃に及ぶ事さへある。此が祭り主は、女の子である地方も、男の子である処もある様だ。何れにしても、正月の道祖神祭りとの間に、一脈の通じる処はある様である。
我々は、七月を以て踊り月と称してゐる。文月に行はれる種々の踊りの中、少女中心のものゝ多いのは、事実である。七夕の「小町踊り」盆の「をんごく」「ぼんならさん」など、皆ぼんがまの結集を思はせる。一続きの行事である。男の子の道祖神勧進と、根柢において、かはる所はないのである。
三
かう述べて来ると、正月と盆とで、男女の子どもの受け持ちが、違うてゐる様に見える。現にさうした傾きも、確にある。だが、更に藪入りの閻魔詣での風と、照し合せて考へると、もつと自由な処が窺はれる。この上元・中元に接した十六日を以て、子どもの閻魔に詣る日だと考へはじめたのは、訣のない事とは思はれぬ。正月の分は、恐らく中元の行事から類推して行ふ事になつたのであらうが、此と藪入りとの関聯してゐる点が、問題であると思ふ。閻魔或は地蔵の斎日に、一処に集ふといふ風は、大体、其期日の頃に行はれた古代の遺習の、習合せられてゐるものと考へる事が出来る。第一に、此が藪入りの一条件になつてゐるかの如く見える点において、注意すべきものがある。
年頭、或は中元に、長上のいきみたまを祝福する為に、散居した子・子方等の集り来るのが、近世の藪入りの起りであるらしい。処が、此行事にも、尚重り合うた姿が認められるのである。即、少年少女のみ特に属する所の神を祭る為に、来集するといふ習俗である。
やぶいりなる語の、方言的の発生を持つてゐることは、略見当をつける事が出来る。一地方から出て、広く行はれる様になり、内容も延長せらるゝ様になつたらしい。祭員としての少年少女を要する祭りが、村を出ぬ幼い住民の間に、課せられた時代の行事は、いつまでも、おなじ姿では居られなかつた。村を離れて、遠く住む者の多くなるに従うて、其祭りの時だけは、故郷に還るといふ風を生じて来た。だから、閻魔に詣で、或は地蔵に賽して後、生家を訪ふといふ事は、実は忘れて後の重複であつた。
かう言ふ風に、一つの年中行事も、決して、単一な起原から出てゐないのである。又更に我々は、藪入りと、奉公人出替りとにも、一続きの聯絡を見る事が出来るのである。藪入りを一つの解放と考へてゐる側から見れば、日は違ふだけで、出替りも亦、同様の基礎を持つてゐると思はれる。だから、この方面にも、又別の旧信仰の参加を見るのである。
一陽の来復する時を以て、従来の契約・関係を、全部忘却して了ふと言ふ古風があつた。此為に、一年を二部分に分けて考へる様になつて、盆からも、新しい社会生活がはじまるもの、とする考へ方を生じた。此信仰を、遠い昔から、わりあひに後までも繋いだのは、大祓の儀式の存してゐた為であつた。此によつて、新な状態の社会、旧関係を全然脱却した世間が現れると信じる様な不思議が、正面から肯定せられてゐた。出替りは、此意義において、半面の起原は明らかになる。
私は別の時に、大祓を説いて、以上の年中行事の元の俤を、今少しなりとも、明らかにしたいと考へてゐる。