湯ヶ原より
国木田独歩
内山君足下 何故そう
急に
飛び
出したかとの
君の
質問は
御尤である。
僕は
不幸にして
之を
君に
白状してしまはなければならぬことに
立到つた。
然し
或はこれが
僕の
幸であるかも
知れない、たゞ
僕の
今の
心は
確かに
不幸と
感じて
居るのである、これを
幸であつたと
知ることは
今後のことであらう。しかし
將來これを
幸で
あつたと
知る
時と
雖も、たしかに
不幸で
あると
感ずるに
違いない。
僕は
知らないで
宜い、
唯だ
感じたくないものだ。
『こゝに
一人の
少女あり。』
小説は
何時でもこんな
風に
初まるもので、
批評家は
戀の
小説にも
飽き/\したとの
御注文、
然し
年若いお
互の
身に
取つては、
事の
實際が
矢張りこんな
風に
初るのだから
致し
方がない。
僕は
批評家の
御注文に
應ずべく
神樣が
僕及び
人類を
造つて
呉れなかつたことを
感謝する。
去十三
日の
夜、
僕は
獨り
机に
倚掛つて
ぼんやり考へて
居た。十
時を
過ぎ
家の
者は
寢てしまひ、
外は
雨がしと/\
降つて
居る。
親も
兄弟もない
僕の
身には、こんな
晩は
頗る
感心しないので、おまけに
下宿住、
所謂る
半夜燈前十年事、
一時和雨到心頭といふ一
件だから
堪忍たものでない、まづ
僕は
泣きだしさうな
顏をして
凝然と
洋燈の
傘を
見つめて
居たと
想像し
給へ。
此時フと
思ひ
出したのはお
絹のことである、お
絹、お
絹、
君は
未だ
此名にはお
知己でないだらう。
君ばかりでない、
僕の
朋友の
中、
何人も
未だ
此名が
如何に
僕の
心に
深い、
優しい、
穩かな
響を
傳へるかの
消息を
知らないのである。『こゝに
一人の
少女あり、
其名を
絹といふ』と
僕は
小説批評家への
面當に
今一
度特筆大書する。
僕は
此少女を
思ひ
出すと
共に『
戀しい』、『
見たい』、『
逢ひたい』の
情がむら/\とこみ
上げて
來た。
君が
何と
言はうとも
實際さうであつたから
仕方がない。
此天地間、
僕を
愛し、
又僕が
愛する
者は
唯だ
此少女ばかりといふ
風な
感情が
爲て
來た。あゝ
是れ『
浮きたる
心』だらうか、
何故に
自然を
愛する
心は
清く
高くして、
少女(
人間)を
戀ふる
心は『
浮きたる
心』、『いやらしい
心』、『
不健全なる
心』だらうか、
僕は一
念こゝに
及べば
世の
倫理學者、
健全先生、
批評家、なんといふ
動物を
地球外に
放逐したくなる、
西印度の
猛烈なる
火山よ、
何故に
爾の
熱火を
此種の
動物の
頭上には
注がざりしぞ!
僕はお
絹が
梨をむいて、
僕が
獨で
入いつてる
浴室に、そつと
持て
來て
呉れたことを
思ひ、
二人で
溪流に
沿ふて
散歩したことを
思ひ、
其優しい
言葉を
思ひ、
其無邪氣な
態度を
思ひ、
其笑顏を
思ひ、
思はず
机を
打つて、『
明日の
朝に
行く!』と
叫けんだ。
お
絹とは
何人ぞ、
君驚く
勿れ、
藝者でも
女郎でもない、
海老茶式部でも
島田の
令孃でもない、
美人でもない、
醜婦でもない、たゞの
女である、
湯原の
温泉宿中西屋の
女中である!
今僕の
斯う
筆を
執つて
居る
家の
女中である!
田舍の
百姓の
娘である!
小田原は
大都會と
心得て
居る
田舍娘! この
娘を
僕が
知つたのは
昨年の
夏、
君も
御存知の
如く
病後、
赤十
字社の
醫者に
勸められて二ヶ
月間此湯原に
滯在して
居た
時である。
十四
日の
朝僕は
支度も
匆々に
宿を
飛び
出した。
銀座で
半襟、
簪、
其他娘が
喜びさうな
品を
買ひ
整へて
汽車に
乘つた。
僕は
今日まで
女を
喜ばすべく
半襟を
買はなかつたが、
若し
彼の
娘に
此等の
品を
與たら
如何に
喜こぶだらうと
思ふと、
僕もうれしくつて
堪らなかつた。
見榮坊!
世には
見榮で
女に
物を
與つたり、
與らなかつたりする
者が
澤山ある。
僕は
心から
此貧しい
贈物を
我愛する
田舍娘に
呈上する!
夜來の
雨はあがつたが、
空氣は
濕つて、
空には
雲が
漂ふて
居た。
夏の
初の
旅、
僕は
何よりも
是が
好で、
今日まで
數々此季節に
旅行した、
然しあゝ
何等の
幸福ぞ、
胸に
樂しい、
嬉れしい
空想を
懷きながら、
今夜は
彼の
娘に
遇はれると
思ひながら、
今夜は
彼の
清く
澄んだ
温泉に
入られると
思ひながら、
此好時節に
旅行せんとは。
國府津で
下りた
時は
日光雲間を
洩れて、
新緑の
山も、
野も、
林も、
眼さむるばかり
輝いて
來た。
愉快!
電車が
景氣よく
走り
出す、
函嶺諸峰は
奧ゆかしく、
嚴かに、
面を
壓して
近いて
來る!
輕い、
淡々しい
雲が
沖なる
海の
上を
漂ふて
居る、
鴎が
飛ぶ、
浪が
碎ける、そら
雲が
日を
隱くした!
薄い
影が
野の
上を、
海の
上を
這う、
忽ち
又明るくなる、
此時僕は
決して
自分を
不幸な
男とは
思はなかつた。
又決して
厭世家たるの
權利は
無かつた。
小田原へ
着いて
何時も
感ずるのは、
自分もどうせ
地上に
住むならば
此處に
住みたいといふことである。
古い
城、
高い
山、
天に
連らなる
大洋、
且つ
樹木が
繁つて
居る。
洋畫に
依つて
身を
立てやうといふ
僕の
空想としては
此處に
永住の
家を
持ちたいといふのも
無理ではなからう。
小田原から
先は
例の
人車鐵道。
僕は一
時も
早く
湯原へ
着きたいので
好きな
小田原に
半日を
送るほどの
樂も
捨て、
電車から
下りて
晝飯を
終るや
直ぐ
人車に
乘つた。
人車へ
乘ると
最早半分湯ヶ
原に
着いた
氣になつた。
此人車鐵道の
目的が
熱海、
伊豆山、
湯ヶ
原の
如き
温泉地にあるので、これに
乘れば
最早大丈夫といふ
氣になるのは
温泉行の
人々皆な
同感であらう。
人車は
徐々として
小田原の
町を
離れた。
僕は
窓から
首を
出して
見て
居る。
忽ちラツパを
勇ましく
吹き
立てゝ
車は
傾斜を
飛ぶやうに
滑る。
空は
名殘なく
晴れた。
海風は
横さまに
窓を
吹きつける。
顧みると
町の
旅館の
旗が
竿頭に
白く
動いて
居る。
僕は
頭を
轉じて
行手を
見た。すると
軌道に
沿ふて三
人、
田舍者が
小田原の
城下へ
出るといふ
旅裝、
赤く
見えるのは
娘の、
白く
見えるのは
老母の、からげた
腰も
頑丈らしいのは
老父さんで、
人車の
過ぎゆくのを
避ける
積りで
立つて
此方を
向いて
居る。『オヤお
絹!』と
思ふ
間もなく
車は
飛ぶ、三
人は
忽ち
窓の
下に
來た。
『お
絹さん!』と
僕は
思はず
手を
擧げた。お
絹はにつこり
笑つて、さつと
顏を
赤めて、
禮をした。
人と
車との
間は
見る/\
遠ざかつた。
若し
同車の
人が
無かつたら
僕は
地段駄を
踏んだらう、
帽子を
投げつけたゞらう。
僕と
向き
合つて、
眞面目な
顏して
居る
役人らしい
先生が
居るではないか、
僕は
唯だがつかりして
手を
拱ぬいてしまつた。
言はでも
知るお
絹は
最早中西屋に
居ないのである、
父母の
家に
歸り、
嫁入の
仕度に
取りかゝつたのである。
昨年の
夏も
他の
女中から
小田原のお
婿さんなど
嬲られて
居たのを
自分は
知つて
居る、あゝ
愈々さうだ! と
思ふと
僕は
慊になつてしまつた。
一口に
言へば、
海も
山もない、
沖の
大島、
彼れが
何だらう。
大浪小浪の
景色、
何だ。
今の
今まで
僕をよろこばして
居た
自然は、
忽ちの
中に
何の
面白味もなくなつてしまつた。
僕とは
他人になつてしまつた。
湯原の
温泉は
僕に
なじみの
深い
處であるから、たとひお
絹が
居ないでも
僕に
取つて
興味のない
譯はない、
然し
既にお
絹を
知つた
後の
僕には、お
絹の
居ないことは
寧ろ
不愉快の
場所となつてしまつたのである。
不愉快の
人車に
搖られて
此の
淋びしい
溪間に
送り
屆けられることは、
頗る
苦痛であつたが、
今更引返へす
事も
出來ず、
其日の
午後五
時頃、
此宿に
着いた。
突然のことであるから
宿の
主人を
驚かした。
主人は
忠實な
人であるから、
非常に
歡迎して
呉れた。
湯に
入つて
居ると
女中の
一人が
來て、
『
小山さんお
氣の
毒ですね。』
『
何故?』
『お
絹さんは
最早居ませんよ、』と
言ひ
捨てゝばた/\と
逃げて
去つた。
哀れなる
哉、これが
僕の
失戀の
弔詞である!
失戀?、
失戀が
聞いてあきれる。
僕は
戀して
居たのだらうけれども、
夢に、
實に
夢にもお
絹をどうしやうといふ
事はなかつた、お
絹も
亦た、
僕を
憎くからず
思つて
居たらう、
決して
其以上のことは
思はなかつたに
違ひない。
處が
其夜、
女中[#「女中」は底本では「女中」]どもが
僕の
部屋に
集つて、
宿の
娘も
來た。お
絹の
話が
出て、お
絹は
愈々小田原に
嫁にゆくことに
定まつた一
條を
聞かされた
時の
僕の
心持、
僕の
運命が
定つたやうで、
今更何とも
言へぬ
不快でならなかつた。しからば
矢張失戀であらう!
僕はお
絹を
自分の
物、
自分のみを
愛すべき
人と、
何時の
間にか
思込んで
居たのであらう。
土産物は
女中や
娘に
分配してしまつた。
彼等は
確かによろこんだ、
然し
僕は
嬉しくも
何ともない。
翌日は
雨、
朝からしよぼ/\と
降つて
陰鬱極まる
天氣。
溪流の
水増してザア/\と
騷々しいこと
非常。
晝飯に
宿の
娘が
給仕に
來て、
僕の
顏を
見て
笑ふから、
僕も
笑はざるを
得ない。
『
貴所はお
絹に
逢ひたくつて?』
『
可笑しい
事を
言ひますね、
昨年あんなに
世話になつた
人に
會ひたいのは
當然だらうと
思ふ。』
『
逢はして
上げましようか?』
『
難有いね、
何分宜しく。』
『
明日きつとお
絹さん
宅へ
來ますよ。』
『
來たら
宜しく
被仰て
下さい、』と
僕が
眞實にしないので
娘は
默つて
唯だ
笑つて
居た。お
絹は
此娘と
從姉妹なのである。
午後は
降り
止んだが
晴れさうにもせず
雲は
地を
這ふようにして
飛ぶ、
狹い
溪は
益々狹くなつて、
僕は
牢獄にでも
坐つて
居る
氣。
坐敷に
坐つたまゝ
爲る
事もなく
茫然と
外を
眺めて
居たが、ちらと
僕の
眼を
遮つて
直ぐ
又隣家の
軒先で
隱れてしまつた
者がある。それがお
絹らしい。
僕は
直ぐ
外に
出た。
石ばかりごろ/\した
往來の
淋しさ。
僅に十
軒ばかりの
温泉宿。
其外の百
姓家とても
數える
計り、
物を
商ふ
家も
準じて
幾軒もない
寂寞たる
溪間! この
溪間が
雨雲に
閉されて
見る
物悉く
光を
失ふた
時の
光景を
想像し
給へ。
僕は
溪流に
沿ふて
此淋しい
往來を
當もなく
歩るいた。
流を
下つて
行くも二三
丁、
上れば一
丁、
其中にペンキで塗つた
橋がある、
其間を、
如何な
心地で
僕は
ぶらついたらう。
温泉宿の
欄干に
倚つて
外を
眺めて
居る
人は
皆な
泣き
出しさうな
顏付をして
居る、
軒先で
小供を
負て
居る
娘は
病人のやうで
背の
小供はめそ/\と
泣いて
居る。
陰鬱!
屈托!
寂寥! そして
僕の
眼には
何處かに
悲慘の
影さへも
見えるのである。
お
絹には
出逢はなかつた。
當り
前である。
僕は
其翌日降り
出しさうな
空をも
恐れず
十國峠へと
單身宿を
出た。
宿の
者は
總がゝりで
止めたが
聞かない、
伴を
連れて
行けと
勸めても
謝絶。
山は
雲の
中、
僕は
雲に
登る
積りで
遮二無二登つた。
僕は
今日まで
斯んな
凄寥たる
光景に
出遇つたことはない。
足の
下から
灰色の
雲が
忽ち
現はれ、
忽ち
消える。
草原をわたる
風は
物すごく
鳴つて
耳を
掠める、
雲の
絶間絶間から
見える
者は
山又山。
天地間僕一
人、
鳥も
鳴かず。
僕は
暫らく
絶頂の
石に
倚つて
居た。この
時、
戀もなければ
失戀もない、たゞ
悽愴の
感に
堪えず、
我生の
孤獨を
泣かざるを
得なかつた。
歸路に
眞闇に
繁つた
森の
中を
通る
時、
僕は
斯んな
事を
思ひながら
歩るいた、
若し
僕が
足を
蹈み
滑べらして
此溪に
落ちる、
死んでしまう、
中西屋では
僕が
歸らぬので
大騷ぎを
初める、
樵夫を

ふて
僕を
索す、
此暗い
溪底に
僕の
死體が
横つて
居る、
東京へ
電報を
打つ、
君か
淡路君か
飛んで
來る、そして
僕は
燒かれてしまう。
天地間最早小山某といふ
畫かきの
書生は
居なくなる! と
僕は
思つた
時、
思はず
足を
止めた。
頭の
上の
眞黒に
繁つた
枝から
水がぼた/\
落ちる、
墓穴のやうな
溪底では
水の
激して
流れる
音が
悽く
響く。
僕は
身の
髮のよだつを
感じた。
死人のやうな
顏をして
僕の
歸つて
來たのを
見て、
宿の
者は
如何なに
驚いたらう。
其驚よりも
僕の
驚いたのは
此日お
絹が
來たが、
午後又實家へ
歸つたとの
事である。
其夜から
僕は
熱が
出て
今日で
三日になるが
未だ
快然しない。
山に
登つて
風邪を
引いたのであらう。
君よ、
君は
今の
時文評論家でないから、
此三日の
間、
床の
中に
呻吟して
居た
時考へたことを
聞いて
呉れるだらう。
戀は
力である、
人の
抵抗することの
出來ない
力である。
此力を
認識せず、
又此力を
壓へ
得ると
思ふ
人は、
未だ
此力に
觸れなかつた
人である。
其證據には
曾て
戀の
爲めに
苦み
悶えた
人も、
時經つて、
普通の
人となる
時は、
何故に
彼時自分が
戀の
爲めに
斯くまで
苦悶したかを、
自分で
疑がう
者である。
則ち
彼は
戀の
力に
觸れて
居ないからである。
同じ
人ですら
其通り、
況んや
曾て
戀の
力に
觸れたことのない
人が
如何して
他人の
戀の
消息が
解らう、その
樂が
解らう、
其苦が
解らう?。
戀に
迷ふを
笑ふ
人は、
怪しげな
傳説、
學説に
迷はぬがよい。
戀は
人の
至情である。
此至情をあざける
人は、百
萬年も千
萬年も
生きるが
可い、
御氣の
毒ながら
地球の
皮は
忽ち
諸君を
吸ひ
込むべく
待つて
居る、
泡のかたまり
先生諸君、
僕は
諸君が
此不可思議なる
大宇宙をも
統御して
居るやうな
顏構をして
居るのを
見ると
冷笑したくなる
僕は
諸君が
今少しく
眞面目に、
謙遜に、
嚴肅に、
此人生と
此天地の
問題を
見て
貰ひたいのである。
諸君が
戀を
笑ふのは、
畢竟、
人を
笑ふのである、
人は
諸君が
思つてるよりも
神祕なる
動物である。
若し
人の
心に
宿る
所の
戀をすら
笑ふべく
信ずべからざる
者ならば、
人生遂に
何の
價ぞ、
人の
心ほど
嘘僞な
者は
無いではないか。
諸君にして
若し、
月夜笛を
聞いて、
諸君の
心に
少しにても『
永遠』の
俤が
映るならば、
戀を
信ぜよ。
若し、
諸君にして
中江兆民先生と
同一
種であつて、十八
里零圍氣を
振舞はして
滿足して
居るならば、
諸君は
何の
權威あつて、『
春短し
何に
不滅の
命ぞと』
云々と
歌ふ
人の
自由に
干渉し
得るぞ。『
若い
時は二
度はない』と
稱してあらゆる
肉慾を
恣まゝにせんとする
青年男女の
自由に
干渉し
得るぞ。
内山君足下、
先づ
此位にして
置かう。さて
斯の
如くに
僕は
戀其物に
隨喜した。これは
失戀の
賜かも
知れない。
明後日は
僕は
歸京する。
小田原を
通る
時、
僕は
如何な
感があるだらう。
小山生
●表記について
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- 「くの字点」は「/\」で、「濁点付きくの字点」は「/″\」で表しました。
- 「くの字点」をのぞくJIS X 0213にある文字は、画像化して埋め込みました。
- 傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にしました。