都の友へ、B生より
国木田独歩
(前略)
久しぶりで
孤獨の
生活を
行つて
居る、これも
病氣のお
蔭かも
知れない。
色々なことを
考へて
久しぶりで
自己の
存在を
自覺したやうな
氣がする。これは
全く
孤獨のお
蔭だらうと
思ふ。
此温泉が
果して
物質的に
僕の
健康に
效能があるか
無いか、そんな
事は
解らないが
何しろ
温泉は
惡くない。
少くとも
此處の、
此家の
温泉は
惡くない。
森閑とした
浴室、
長方形の
浴槽、
透明つて
玉のやうな
温泉、これを
午後二
時頃獨占して
居ると、くだらない
實感からも、
夢のやうな
妄想からも
脱却して
了ふ。
浴槽の一
端へ
後腦を
乘て一
端へ
爪先を
掛て、ふわりと
身を
浮べて
眼を
閉る。
時に
薄目を
開て
天井際の
光線窓を
見る。
碧に
煌めく
桐の
葉の
半分と、
蒼々無際限の
大空が
見える。
老人なら
南無阿彌陀佛/\と
口の
中で
唱へる
所だ。
老人でなくとも
此心持は
同じである。
居室に
歸つて
見ると、ちやんと
整頓て
居る。
出る
時は
書物やら
反古やら
亂雜極まつて
居たのが、
物各々所を
得て
靜かに
僕を
待て
居る。ごろりと
轉げて
大の
字なり、
坐團布を
引寄せて
二つに
折て
枕にして
又も
手當次第の
書を
讀み
初める。
陶淵明の
所謂る「不
レ求
二甚解
一」
位は
未だ
可いが
時に一ページ
讀むに一
時間もかゝる
事がある。
何故なら
全然で
他の
事を
考へて
居るからである。
昨日も
君の
送つて
呉れたチエホフの
短篇集を
讀んで
居ると、ツイ
何時の
間にか「ボズ」さんの
事を
考へ
出した。
ボズさんの
本名は
權十とか五
郎兵衞とかいふのだらうけれど、
此土地の
者は
唯だボズさんと
呼び、
本人も
平氣で
返事をして
居た。
此以前僕が
此處へ
來た
時の
事である、
或日の
午後僕は
溪流の
下流で
香魚釣を
行つて
居たと
思ひ
玉へ。
其場所が
全たく
僕の
氣に
入つたのである、
後背の
崕からは
雜木が
枝を
重ね
葉を
重ねて
被ひかゝり、
前は
可り
廣い
澱が
靜に
渦を
卷て
流れて
居る。
足場はわざ/\
作つた
樣に
思はれる
程、
具合が
可い。
此處を
發見た
時、
僕は
思つた
此處で
釣るなら
釣れないでも
半日位は
辛棒が
出來ると
思つた。
處が
僕が
釣初めると
間もなく
後背から『
釣れますか』と
唐突に
聲を
掛けた
者がある。
振り
向くと、それがボズさんと
後に
知つた
老爺であつた。七十
近い、
背は
低いが
骨太の
老人で
矢張釣竿を
持て
居る。
『
今初めた
計りです。』と
言ふ
中、
浮木がグイと
沈んだから
合すと、
餌釣としては、
中々大いのが
上つた。
『
此處は
可なり
釣れます。』と
老爺は
僕の
直ぐ
傍に
腰を
下して
煙草を
喫ひだした。けれど
一人が
竿を
出し
得る
丈の
場處だからボズさんは
唯見物をして
居た。
間もなく
又一尾上げるとボズさん、
『
旦那はお
上手だ。』
『
だめだよ。』
『イヤさうでない。』
『これでも
上手の
中かね。』
『
此温泉に
來るお
客さんの
中じア
旦那が一
等だ。』と
大げさに
贊めそやす。
『
何しろ
道具が
可い。』と
言はれたので
僕は
思はず
噴飯だし、
『それじア
道具が
釣るのだ、ハ、ハ、
······』
ボズさん
少しく
狼狽いて、
『イヤ
其は
誰だつて
道具に
由ります。
如何ら
上手でも
道具が
惡いと十
尾釣れるところは五
尾も
釣れません。』
それから
二人種々の
談話をして
居る
中に
懇意になり、ボズさんが
遠慮なく
言ふ
處によると
僕の
發見た
場所はボズさんの
あじろの
一で、
足場はボズさんが
作つた
事、
東京の
客が
連れて
行けといふから
一緒に
出ると
下手の
癖に
釣れないと
怒つて
直ぐ
止す
事、
釣れないと
言つて
怒る
奴が一
番馬鹿だといふ
事、
温泉に
來る
東京の
客には
斯ういふ
馬鹿が
多い
事、
魚でも
生命は
惜いといふ
事等であつた。
其日はそれで
別れ、
其後は
互に
誘ひ
合つて
釣に
出掛て
居たが、ボズさんの
家は一
室しかない
古い
茅屋で
其處へ
獨で
わびしげに
住んで
居たのである。
何でも
無遠慮に
話す
老人が
身の
上の
事は
成る
可く
避けて
言はないやうにして
居た。けれど
遠まはしに
聞き
出した
處によると、
田之浦の
者で
倅夫婦は
百姓をして
可なりの
生活をして
居るが、
其夫婦の
しうちが
氣に
喰ぬと
言つて十
何年も
前から
一人で
此處に
住んで
居るらしい、そして
倅から
食ふだけの
仕送りを
爲て
貰つてる
樣子である。
成程さう
言へば
何處か
固拗のところもあるが、
僕の
思ふには
最初は
頑固で
行つたのながら
後には
却つて
孤獨のわび
住ひが
氣樂になつて
來たのではあるまいか。
世を
遁がれた
人の
趣があるのは
其理由であらう。
其處で
僕は
昨日チエホフの『ブラツクモンク』を
讀さして
思はずボズさんの
事を
考へ
出し、
其以前二人が
溪流の
奧深く
泝つて「やまめ」を
釣つた
事など、それからそれへと
考へると
堪らなくなつて
來た。
實は
今度來て
見ると、ボズさんが
居ない。
昨年田之浦の
本家へ
歸つて
亡なつたとの
事である。
事實、
此世に
亡い
人かも
知れないが、
僕の
眼にはあり/\と
見える、
菅笠を
冠つた
老爺のボズさんが
細雨の
中に
立て
居る。
『
病氣に
良くない、』『
雨が
降りさうですから』など
宿の
者がとめるのも
聞かず、
僕は
竿を
持て
出掛けた。
人家を
離れて四五
丁も
泝ると
既に
路もなければ
畑もない。たゞ
左右の
斷崕と
其間を
迂回り
流るゝ
溪水ばかりである。
瀬を
辿つて
奧へ
奧へと
泝るに
連れて、
此處彼處、
舊遊の
澱の
小蔭にはボズさんの
菅笠が
見えるやうである。
嘗てボズさんと
辨當を
食べた
事のある、
平い
岩まで
來ると、
流石に
僕も
疲れて
了つた。
元より
釣る
氣は
少しもない。
岩の
上へ
立て
ジツとして
居ると
寂しいこと、
靜かなこと、
深谷の
氣が
身に
迫つて
來る。
暫時くすると
箱根へ
越す
峻嶺から
雨を
吹き
下して
來た、
霧のやうな
雨が
斜に
僕を
掠めて
飛ぶ。
直ぐ
頭の
上の
草山を
灰色の
雲が
切れ/″\になつて
駈る。
『ボズさん!』と
僕は
思はず
涙聲で
呼んだ。
君、
狂氣の
眞似をすると
言ひ
玉ふか。
僕は
實に
滿眼の
涙を
落つるに
任かした。(畧)
●表記について
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