無惨序
日本探偵小説の
嚆矢とは此無惨を云うなり無惨とは面白し如何なること
柄を書しものを無惨と云うか是れは此れ当時都新聞の主筆者涙香小史君が得意の怪筆を染め去年築地河岸海軍原に於て
人殺のありしことを作り設け之れに探偵の事項を附会して著作せし小説なり
予本書を読むに始めに探偵談を設けて
夫より犯罪の事柄に移りお紺と云う一婦人を捜索して証拠人に宛て之れが口供より遂いに犯罪者を知るを得るに至る始末老練の探偵が自慢天狗若年の探偵が理学的論理的を以て一々警部に
対って答弁するごとき皆な意表に
出て人の胆を冷し人の心を
寒らしむる等実に奇々怪々として読者の心裡を
娯ましむ此書や涙香君事情ありて予に賜う予印刷して以て発布せしむ世評尤も涙香君の奇筆を喜び之を慕いて其著書
訳述に係る小説とを求めんと欲し続々投書山を
為す之をもって之を見れば君が文事に於ける
亦た羨むべし
嗚呼涙香君は如何なる才を持て筆を採るや如何なる技を持って小説を作るや余は敢て知らず知らざる
故に之れを慕う慕うと
雖も亦た及ばず是れ即ち
天賦の文才にして到底追慕するも亦画餠に属すればなりと予は筆を投じて
嗟嘆して止みぬ
明治廿二年十月中旬
香夢楼に坐して梅廼家かほる識す
[#改ページ] 上篇(
疑団)
世に
無惨なる話しは数々あれど本年七月五日の朝築地
字海軍原の傍らなる川中に
投込ありし死骸ほど無惨なる有様は稀なり
書さえも身の毛
逆立つ翌六日府下の各新聞紙皆左の如く記したり
◎無惨の死骸 昨朝六時頃築地三丁目の川中にて発見したる年の頃三十四五歳と見受けらるゝ男の死骸は何者の
所為にや総身に
数多の創傷、数多の
擦剥、数多の打傷あり
背などは乱暴に殴打せし者と見え一面に
膨揚り其間に切傷ありて傷口開き中より血に染みし肉の見ゆるさえあるに
頭部には一ヶ所太き錐にて突きたるかと思わるゝ深さ二寸余の穴あり其上
槌の類にて強く殴打したりと見え頭は二ツに
割け脳骨砕けて脳味噌散乱したる有様実に目も
当られぬ程なり医師の診断に由れば
孰れも午前二三時頃に受けし傷なりと同人の
着服は紺茶
堅縞の
単物にて職業も更に見込附かず且つ所持品等は一点もなし其筋の鑑定に拠れば殺害したる者が露見を防がんが為めに殊更奪い隠したる者ならん故に
何所の者が何の為めに斯く浅ましき死を遂げしや又殺害したる者は孰れの者か更に知る由なければ目下厳重に探偵中なり(以上は
某の新聞の記事を
其儘に転載したる者なり)
猶お此無惨なる
人殺に附き其筋の
調たる所を聞くに死骸は川中より上げたれど流れ
来りし者には非ず別に
溺れ漂いたりと認むる箇条は無く殊に水の来らざる岸の根に捨てゝ有りたり、猶お
周辺に血の痕の無きを見れば
外にて殺せし者を
舁ぎ来りて投込みし者なる
可し又
此所より一町ばかり離れし或家の塀に血の附きたる痕あれど之も殺したる所には非ず多分は血に
塗れたる死骸を舁ぎ来る途中事故ありて暫し其塀に立掛し者なる可し
殺せしは何者か殺されしは何者か更に手掛り無しとは云え七月の炎天、
腐敗り易き盛りと云い
殊に我国には仏国
巴里府ルー、モルグに
在る如き死骸陳列所の設けも無きゆえ
何時までも
此儘に捨置く可きに非ず、
最寄区役所は
取敢えず溺死漂着人と
見做して仮に埋葬し新聞紙へ左の如く広告したり
溺死人男年齢三十歳より四十歳の間
当二十二年七月五日区内築地三丁目十五番地先川中へ漂着仮埋葬済○人相○顔
面長き
方○口細き方眉黒き方目耳尋常左りの頬に黒
痣一ツあり
頭散髪
身長五尺三寸位中肉○傷所数知れず其内大傷は眉間に一ヶ所背に
截割たる如き切傷二ヶ所且肩より腰の辺りへ掛け総体に打のめされし如く
膨上れり左の手に三ヶ所、首に一ヶ所頭の真中に大傷其処此処に
擦傷等数多あり、
咽に
攫み潰せし如き傷○衣類大名縞
単物、二タ
子唐桟羽織但紐附、紺博多帯、肉シャツ、下帯、白足袋、駒下駄○持物更に無し○心当りの者は申出ず可し
明治二十二年七月六日
最寄区役所
(右某新聞より転載)
人殺しは折々あれど斯くも無惨な、斯くも不思議な、斯くも
手掛なき人殺しは其類少し去れば其日一日は到る所ろ此人殺しの噂ならぬは
無りしも都会は噂の種の製造所なり翌日は他の事の噂に口を奪われ全く忘れたる如し独り忘れぬは
最寄警察の刑事巡査なり死骸の露見せし朝の猶お暗き頃より心を此事にのみ
委ね身を此事にのみ使えり、心を委ね身を使えど更に手掛りの無きぞ悲しき
刑事巡査、
下世話に謂う探偵、世に是ほど
忌わしき職務は無く又之れほど立派なる職務は無し、忌わしき所を言えば我身の
鬼々しき心を隠し友達顔を作りて人に交り、
信切顔をして其人の秘密を聞き出し
其れを
直様官に売附けて世を渡る、
外面如菩薩内心
如夜叉とは女に非ず探偵なり、切取強盗人殺牢破りなど云える悪人多からずば其職繁昌せず、悪人を探す為に善人を迄も疑い、見ぬ振をして
偸み
視、聞かぬ様をして偸み
聴、人を見れば
盗坊と思えちょう
恐き誡めを職業の虎の巻とし果は疑うに
止らで、人を見れば盗坊で有れかし罪人で有れかしと祈るにも至るあり、此人
若し謀反人ならば吾れ捕えて我手柄にせん者を、此男若し罪人ならば我れ密告して酒の
代に
有附ん者を、頭に蝋燭は
戴かねど見る人毎を呪うとは恐ろしくも忌わしき職業なり立派と云う所を云えば斯くまで人に憎まるゝを厭わず悪人を
看破りて其種を尽し以て世の人の安きを計る
所謂身を殺して仁を為す者、是ほど立派なる者あらんや
五日の朝八時頃の事最寄警察署の刑事巡査詰所に二人の探偵打語らえり一人は年四十頃デップリと太りて顔には絶えず
笑を含めり此笑見る人に由りて
評を異にし愛嬌ある顔と
褒めるも有り人を
茶かした顔と
貶るも有り公平の判断は上向けば愛嬌顔、下へ
向ては茶かし顔なる
可し、名前は
谷間田と人に呼ばる
紺飛白の
単物に博多の角帯、
数寄屋の羽織は脱ぎて鴨居の帽子掛に釣しあり無論官吏とは見えねど商人とも受取り難し、今一人は年廿五六小作りにして
如才なき顔附なり白き棒縞の単物
金巾のヘコ帯、
何う見ても一個の書生なれど
茲に詰居る所を見れば此頃谷間田の下役に拝命せし者なる可し此男テーブル
越に谷間田の顔を見上げて「実に不思議だ、
何う云う訳で誰に殺されたか少しも手掛りが無い」谷間田は例の茶かし顔にて「ナニ手掛は有るけれど君の目には入らぬのだ何しろ東京の内で
何家にか一人足らぬ人が出来たのだから分らぬと云う筈は無い早い
譬えが戸籍帳を借りて来て一人/\調べて廻れば何所にか一人不足して居るのが殺された男と
先斯う云う様な者サ
大鞆君、君は是が初めての事件だから充分働いて見る可しだ、斯う云う
六ヶしい事件を引受けねば
昇等は出来ないぜ(大鞆)
夫りゃ
分ッて居る
盤根錯節を
切んければ以て利器を知る無しだから
六かしいは
些とも
厭ヤせんサ、けどが何か手掛りが無い事にや
|先ア君の見た所で
何の様な事を手掛と仕給うか(谷)
何の様な事と、何から何まで皆手掛りでは無いか第一顔の面長いのも一ツの手掛り左の頬に
痣の有るのも
亦手掛り
背中の傷も矢張り手掛り先ず傷が有るからには鋭い
刃物で
切たには違い無い
左すれば差当り刃物を所持して居る者に目を附けると
先ア云う様な具合で其目の
附所は当人の才不才と云う者君は日頃から
仏国の探偵が何うだの
英国の理学は
斯だのと洋書を独りで読んだ様な理屈を並べるから是も得意の論理学とか云う者で割出して見るが好いアハヽヽ何と
爾では無いか」大鞆は心中に己れ見ろと云う如き
笑を隠して
故と頭を掻き「
夫は
爾だけどが書物で読むのと実際とは少し違うからナア小説などに在る曲者は足痕が残ッて居るとか兇器を
遺れて置くとか必ず三ツ四ツは手掛りを
存して有るけどが是ばかりは
爾で無い、
天きり殺された奴の名前からして世間に知て居る人が無い
夫だから君何所から手を附けると云う
取附だけは
知せて呉れねば僕だッて困るじゃ無いか(谷)其取附と云うのが銘々の腹に有る事で君の
能く云う機密とやらだ互いに深く隠して、サアと成る迄は
仮令え長官にも
知さぬ程だけれど君は先ず
私が周旋で此署へも
入て
遣た者では
有し殊に是が
軍で言えば初陣の事だから人に云われぬ機密を分けて遣る其所の入口を
閉て来たまえ(大)夫や実に
難有い
畢生の
鴻恩だ」谷間田は
卓子の上の
団扇を取り
徐々と煽ぎながら少し声を低くして「君先ず此人殺しを何と思う
慾徳尽の追剥と思うか但しは又
|(大)左様サ持物の一ツも無い所を見れば追剥かとも思われるし死様の無惨な所を見れば何かの遺恨だろうかとも思うし兎に角
仏国の探偵秘伝に分り難き犯罪の底には必ず女ありと云ッて有るから女に関係した事柄かとも思う(谷)サ、
爾先ッ潜りをするから困る
静に
聞たまえな、持物の無いのは誰が見ても曲者が手掛りを無くする為に隠した事だから追剥の証拠には成らぬが、第一傷に目を留たまえ傷は
背に刀で
切たかと思えば頭には槌で砕いた傷も有る既に脳天などは槌だけ丸く肉が
凹込んで居る爾かと思えば又所々には
抓投た様な痕も有る(大)成るほど
|(谷)未だ不思議なのは頭にへばり附て居る血を洗い落して見た所頭の凹込んで砕けた所に太い
錐でも叩き込んだ様な穴も有るぜ
|君は気が附くまいけれど(大)ナニ気が附て居るよ二寸も深く突込んだ様に(谷)夫なら君アレを何で附けた傷と思う(大)夫は未だ
思考中だ(谷)ソレ分るまい分らぬならば黙ッて聞く可しだ、
私はアレを此頃流行るアノ太い鉄の
頭挿を突込んだ者と鑑定するが
何うだ」大鞆は思わずも笑わんとして
辛と
食留め「女がかえ(谷)
頭挿だから
何うせ女サ、女が自分で仕なくても曲者が、傍に落て居るとか何うとかする女の頭挿を取て
突たのだ
孰れにしても殺す
傍には女びれが居たは之で分る(大)でも頭挿の脚は二ツだから穴が二ツ
開く筈だろう(谷)馬鹿を言い給え、二寸も
突込うと云うには非常の力を入れて握るから二ツの脚が一ツに
成るのサ(大)一ツに
成ても穴は横に
扁たく開く筈だ、アノ穴は少しも扁たく無い
満丸だよシテ見れば頭挿で無い外の者だ」谷間田は又茶かす如く笑いて「
爾気が附くは仲々感心
是だけは実の所ろ
一寸と君の智恵を試して見たのだ」大鞆は心の底にて「ナニ生意気な、人を試すなどと其手に乗る者か」と嘲り
畢ッて「
夫なら
本統の所ろアレは何の傷だ(谷)夫は未だ僕にも少し見込が附かぬが
先静かに聞く可し、兎に角斯う種々様々の傷の有る所を見れば、
好かえ
能く
聞たまえ、一人で殺した者では無い大勢で寄て
襲ッて殺した者だ(大)成る程
|(谷)シテ見れば先ず曲者は
幾人も有るのだが、併し寄て襲ッて殺すには何うしても往来では出来ぬ事だ(大)
夫ゃ
何う云う訳で(谷)何う云う訳ッて君、聞たまえよ(大)又聞たまえか(谷)イヤ
先聞たまえ、往来なら逃廻るから夫を追掛ける中には人殺し人殺しと必ず声を
立る
其中には近所で目を醒すとか巡査が聞附るとかするに極って居る(大)夫では野原か(谷)サア野原と云う考えも起る併し差当り野原と云えば
日比野か海軍原だ、日比谷から死骸をアノ河岸まで担いで来る筈は無し、又海軍原でも無い、と云う者は海軍原へは
矢鱈に
這入れもせず、又隅から隅まで探しても殺した様な跡は無し夫に一町ばかり離れた或家の塀に血の附て居る所を見ても海軍原で殺して築地三丁目の河岸へ捨るに一町も
外へ
舁で行く筈も
無(大)夫では家の内で殺したのか(谷)
先聞たまえと云うのに、
爾サ家の内とも、家の内で殺したのだ、(大)家の中でも矢張り騒しいから近所で目を醒すだろう(谷)ソオレ
爾思うだろう
素徒は兎角
爾云う所へ目を附けるから仕方が無い成るほど家の中でも大勢で人一人殺すには騒ぎ廻るに違い無い、従ッて又隣近所で目を醒すに違い無い、其所だテ隣近所で目を醒してもアヽ又例の喧嘩かと別に気にも
留ずに居る様な所が何所にか有るだろう(大)夫では
屡々大喧嘩の有る家かネ(谷)爾サ、屡々大勢の人も集り又屡々大喧嘩も有ると云う家が有る
其様な家で殺されたから隣近所の人も目を醒したけれど平気で居たのだ別に咎めもせずに捨て
置て又眠ッて仕舞ッたのだ(大)併し其様な大勢集ッて喧嘩を再々する家が何所に在る(谷)是ほどいッても未だ分らぬから
素徒は夫で困る
先少し考えて見たまえな(大)考えても僕には分らんよ(谷)刑事巡査とも云われる者が是位いの事が
分らんでは仕方が無いよ、
賭場だアネ(大)エ、
ドバ、
ドバなら知て居る仏英の間の海峡(谷)困るなア冗談じゃ無いぜ賭場とは
賭博場だアネ(大)成るほど賭場は
博奕場か夫なら博奕場の喧嘩だネ(谷)爾サ博奕場の喧嘩で殺されたのよ博奕場だから誰も財布の外は何も
持て行ぬがサア喧嘩と云えば
直に自分の前に在る金を
懐中へ掻込んで立ち其上で相手に成るのが博奕など打つ奴の常だ其所には仲々抜目は無いワ、アノ死骸の当人も矢張り
夫だぜ詳しい所までは分らぬけれど何でも傍に喧嘩が
有たので手早く
側中の有金を引浚ッて
立うとすると居合せた者共が銘々に其一人に飛掛り初の喧嘩は
扨置て己の金を何うしやがると云う様な具合に手ン
手ンに奪い返す所から一人と大勢との入乱れと為り踏れるやら
打れるやら
何時の間にか
死で仕舞ッたんだ、夫だから持物や懐中物は
一個も無いのだ、エ何うだ恐れ
入たか」大鞆は暫し
黙考えて「成る程旨く考えたよ、けどが是は未だ
帰納法で云う「ハイポセシス」だ仮定説だ事実とは云われぬテ之から未だ「ヴェリフィケーション」(証拠試験)を仕て見ん事にや(谷)サ夫が生意気だと云うのだ自分で分らぬ癖に人の云う事に
批を
打たがる(大)けどが君、君が根拠とするのは
唯様々の傷が
有と云うだけの事で傷からして大勢と云う事を考え大勢からして博奕場と云う事を考えた丈じゃ無いか詰り証拠と云うのは様々の傷だけだ外に何も無い、第一此開明世界に果して其様な博奕場が有る筈も無し
|(谷)イヤ有るから云うのだ築地へ行ッて見ろ支那人が
七八も遣るし博奕宿もあるし宿ッてもナニ支那人が自分では遣らぬ皆日本の博徒に宿を借して自分は知らぬ顔で
場銭を取るのだ場銭を、だから
最うスッカリ日本の
賽転で狐だの長半などを
遣て居るワ(大)けどが博奕打にしては
衣服が変だよ博多の帯に羽織などは
|(谷)ナアニ支那人の博奕宿へ入込む連中には黒い高帽を冠ッた人も有るし様々だ、夫に又アノ死骸を詳しく見るに手の皮足の皮などの柔な所は荒仕事をした事の有る人間でも無し、かと
云て
生真面目の町人でも無い何うしても博奕など打つ様な
惰け者だ」大鞆は真実感心せしか或は
浮立せて猶お其奥を
聞んとの
巧計なるか急に打開けし言葉の調子と為り「イヤ何うも感心した、何にも手掛りの無いのを是まで見破ぶるとは、成る程築地には支那人が日本の法権の及ばぬを奇貨として其様な失敬な事を仕て居るかナア、実に卓眼には恐れ
入た」谷間田は
笑壷に入り「フム恐れ入たか、
爾折て出れば未だ
聞せて
遣る事が有る実はナ」と云いながら又も声を低くし「現場に立会た予審判事を初め
刑部に至るまで丸ッきり手掛が無い様に思って居るけれど未だ目が
利ぬと云う者だ己は一ツ非常な
証拠者を見出して人
知ず取て
置た(大)エ、何か証拠品が落て居たのか夫は実に驚いたナ(谷)ナニ斯う抜目なく立廻らねば駄目だよ夫も君達の目で見ては何の証拠にも成らぬが苦労人の
活た目で見れば夫が非常な証拠に成る(大)エ其品は何だ、見せたまえ、エ君
賽転の類でも有るか(谷)馬鹿を云うな賽転などなら誰が見ても証拠品と思うワな己の
目附たのは未だズット小さい
者だ細い者だ」大鞆は益々
詰寄り「エ何だ
何れ程細い者だ(谷)
聞せるのじゃ無いけれど君だから打明けるが実は髪の毛だ、夫も唯一本アノ握ッた手に附て居たから誰も知らぬ先に己がコッソリ取ッて置た」大鞆は心の中にて
私に笑を催おし、「ナニ其髪の毛なら手前より
己様の方が先に見附たのだ実は四本握って居たのをソッと三本だけ取て置た、夫を知らずに残りの一本を取て好い気に成て居やがる
老耄め、
併し己の方は若しも証拠
隠匿の罪に落ては成らぬと一本残して置たのに
彼奴其一本を取れば後に残りが無いから
取も直さず犯罪の証拠を隠したに当る夫を
知ないでヘンなにを自慢仕やがるんだ」と笑う心を
推隠して「ヘヽエ、君の目の
附所は実に違うナル程僕も髪の毛を一本握ッて居るのをば見たけれど夫が証拠に
成うとは思わず、実に後悔だ君より先へ取て
置ば好ったのに(谷)ナアニ君などが取たって仕方が無いワネ、若し君ならば一本の髪の毛を何うして証拠にする天きり証拠にする
術さえ知らぬ癖に(大)
知なくても先へ取れば後で君に問うのサ何うすれば証拠に成るだろうと、エー君、何うか聞かせて呉れたまえ
極内で、エ一本の髪の毛が何うして証拠に成る」下から
煽げば
浮々と谷間田は誇り裂けるほどに顔を拡げて「
先ア見たまえ此髪の毛を」と云いながら首に掛たる黒皮の
懐中蟇口より長さ一尺強も有る唯一本の髪の毛を取出し窓の硝子に
透し見て「コレ是だ、先ず考え可し、此通り幾曲りも
揺て居るのは縮れッ毛だぜ、長さが一尺ばかりだから男でもチョン髷に
結て居る髪の毛は是だけの
長は有るが今時の事だから男は縮毛なら
剪て仕舞う
剪ないのは
幾等か髪の毛自慢の心が有る奴だ男で縮れっ毛のチョン髷と云うのは無い(大)
爾々縮れッ毛は殊に散髪に
持て来いだから縮れッ毛なら必ず剪て仕舞う本統に君の目は凄いネ(谷)爾すれば是は女の毛だ、此人殺の傍には縮れッ毛の女が居たのだ(大)成る程(谷)居たドコロでは無い女も幾分か手を下したのだ(大)成るー(谷)手を下さ
無ければ髪の毛を
握まれる筈が無い是は必ず男が死物
狂に成り手に当る頭を夢中で
握んだ者だ
夫で実は先ほどもアノ錐の様な傷を
若しや
頭挿で突たのでは無いかと思い
一寸と君の心を試して見たのだ
素徒の目でさえ無論
簪の傷で無いと分る位だから其考えは廃したが兎に角、縮れッ毛の女が傍に居て其髪を
握まれた事は君にも分るだろう(大)アヽ分るよ(谷)其所で又己が思い出す事が有る、
最うズッと以前だが
博賭徒を探偵する事が有て己が自分で
博賭徒に見せ掛け
二月ほど築地の博徒宿に入込んだ事が有る其頃丁度築地カイワイに支那人の
張て居る宿が二ヶ所あった、其一ヶ所に恐しいアバズレの、爾サ宿場女郎のあがりでも
有うよ、でも顔は一寸と好い二十四五でも有うか或は三十位でも有うかと云う女が居た、今思えば夫が
恰度此通りの縮れッ毛だ(大)夫は奇妙だナ(谷)サア博賭宿と云い縮れッ毛の女と云い此二ツ揃ッた所は外に無い、爾思うと心の
所為かアノ死顔も何だか其頃見た事の有る様な気がするテ、だからして何は兎も有れ己は先ず其女を捕えようと思うのだ、名前は何とか
云たッけ、之も手帳を見れば分る
爾々お紺と云ッた、お紺/\余り類の無い名前だから思い出した、お紺/\、尤も今
未だ其女が居るか居無いか夫も分らぬけれど、旨く居て呉れさえすれば此方の者だ、女の事だから連て来て少し
威し附ればベラベラと皆白状する、
何うだ
剛い者だろう(大)実に恐入ったナア、けどが其宿は何所に在るのだ築地の何所いらに、夫さえ教えて呉れゝば僕が行て
蹈縛て来る、エ何所だ直に僕を遣て
呉たまえ」谷間田は
俄に又茶かし顔に
復り「馬鹿を言え是まで煎じ詰めた手柄を君に取られて堪る者か(大)でも君は、僕の為に教えて遣ると云ッたでは無いか、夫で僕を遣て呉れ無いならば教えて呉れたでは無い唯だ自慢を僕に聞せた丈の事だ(谷)夫れほど己の手柄を奪い
度きゃ遣てやろうよ(大)ナニ手柄を奪うなどと其様な野心は無い僕は唯だ
|(谷)イヤサ遣ても
遣うが第一君は何うして行く(大)何うしてッて外に仕方は無いのサ君に其町名番地を聞けば後は出た上で巡査にでも郵便配達にでも聞くから訳は無い、其家へ行て
此家にお紺と云う者は居無いかと問うのサ」谷間田は声を放ッて打笑い「夫だから仕方が無い、夜前人殺と云う大罪を犯したもの、多分は何所かへ逃たゞろう、
好や居るにしても居るとは
言ぬよ、事に由れば
余温の
冷るまで当分
博賭も
止るかも知れぬ何うして其様な未熟な事で
了る者か、差当り其家へは行かずに
外の所で探偵するのが探偵のいろはだよ、外の所で愈々突留めた上は、此方の者だ、先が
逃ようとも隠れようとも其ンな事は平気だ、隠れたら公然と御用で以て蹈込む事も出来る、支那人なら一旦隠れた日にゃ日本の刑事巡査が何ともする事は出来ぬけれどお紺は日本の女だから(大)併し君、
外で
聞とは何所で聞くのだ(谷)夫を知らない様で此事件の探偵が出来る者か夫は
最う君の常に謂う臨機応変だから己の様に何所を推せば
何な音が出ると云う事をチャーンと知た者で無くては
了ない是ばかりは教え
度にも教え様が無いから誠に困るテ」斯く云う折しも先ほど
閉置きたる入口の戸を開き「谷間田、何うした
略ぼ見当が
附たかえ」とて入来るは此事件を監督する
荻沢警部なり谷間田は悪事でも見附られしが如く忽ち椅子より
飛退きて「ヘイヘイ凡そ見当は附きました是から
直に探りを初めましてナニ二三日の中には必ず下手人を捕えます」と長官を見上たる谷間田の笑顔、成るほど此時は愛嬌顔なりき
|上向けば
毎でも、
谷間田は
直帽子を取り羽織を着てさも/\拙者は時間を無駄には
捨ぬと云う見栄で、長官より先に
出去たり、後に長官荻沢は
彼の取残されし大鞆に向い「
何うだ貴公も何か見込を附けたか、今朝死骸を
検めて頭の血を洗ったり手の
握具合に目を留めたりする注意は仲々
素徒とは見えんだッたが」大鞆は頭に手を置き「イヤ何うも実地に当ると、思ッた様に行きませんワ、何うしても谷間田は経験が詰んで居るだけ違います今其意見の
大略を聞てほと/\感心しました(荻)
夫ゃなア何うしても永年此道で苦労して居るから
一寸と感心させる様な事を言うテけれども夫に感心しては
了ん、他人の云う事に感心してはツイ雷同と云う事に成て自分の意見を
能う
立ん、
間違ても
好から自分は自分だけの見込を附け見込通り探偵するサ外の事と違い探偵ほど間違いの多い者は無いから何うかすると老練な谷間田の様な者の見込に存外間違いが有て貴公の様な初心の意見が当る事も有る貴公は貴公だけに
遣て見たまえ(大)ヘイ
私しも是から遣て見ます(荻)遣るべし/\」と励す如き言葉を残して荻沢は立去れり、大鞆は独り手を組で「旨い長官は長官だけに、
一寸と励まして呉れたぞ、けどが貴公の様な初心とは少し癪に障るナ、初心でも谷間田の様な無学には未だ負けんぞ、ナニ感心する者か、併し長官さえ
彼れ程に
賞る位だから谷間田は上手は上手だ
自惚るも無理は無い、けどが己は己だけの見込が有るワ、見込が有るに依て実は
彼奴の意見の底を探りたいと下から出て
煽起れば
図に乗てペラ/\と
多舌りやがる、ヘン
人、彼奴が経験経験と経験で以て探偵すれば此方は理学的と論理的で探偵するワ、探偵が道楽で退校された己様だ無学の
老耄に負て堪る者か、彼奴め頭の傷を説明する事が出来んで
頭挿で突たなどと
苦がりやがるぞ此方は一目見た時からチャアンと見抜てある所持品の無い訳も分って居るは、彼奴が博奕場と目を附たのも旨い事は旨いけどがナニ、博奕場の喧嘩に女が居る者か、成る程ソリャ数年前に縮れッ毛の女が居たかも知れぬ、けどが女が人殺の直接のエジェンシー(働き
人)と云う事は無い、と云って己も是だけは少し明解し
兼るけれどナニ失望するには及ばぬ、先ず
彼奴の帰るまで宿へ帰ってアノ髪の毛を理学的に試験するだ、夕方に成って又
茲へ来りゃ彼奴必ず帰って居るから其所で又少し
煽起て遣れば、
爾だ僕は汗水に成て築地を聞合せたけどが博奕宿の有る所さえ分らなんだと斯う云えば彼奴必ず又図に乗て、手柄顔に自分の探偵した事も
悉皆り
多舌て仕舞うテ無学な奴は
煽起が利くから有難いナア、好い年を仕て居る癖に」
独言つゝ大鞆は此署を立去りしが定めし宿所にや
帰けん扨も此日の
将に暮んとする頃
彼の谷間田は手拭にて太き首の汗を拭きながら帰り来り
直に以前の詰所に入り「オヤ大鞆は、フム彼奴何か思い
附て何所かへ行たと見えるな」云いつゝ先ず手帳紙入など
握み出して
卓子に置き其上へ羽織を脱ぎ其又上へ帽子を伏せ両肌脱ぎて
突々と
薪水室に歩み入りつ手桶の水を手拭に受け絞り切ッて胸の当りを拭きながら斜に小使を見て例の茶かし顔「お
前アノ大鞆が何時出て行たか知ないか(小)何でもお
前様が
出為てから半時も経たんべい、独りブックリ/\
言ながら出て行ッたアだ(谷)フーム何所へ行たか、目当も無い癖に(小)何だかお前様の事を言ッたアだぜ、
私が廊下を
掃て居ると控所の内で谷間田は
好年イして
煽起エ利くッて、彼奴
浮々と
悉皆り
多舌て仕舞たと
言きやがッて、エお前様
煽起が利きますか谷間田は眼を円くし「エ彼奴が己の事を煽起が利くッて失敬な奴だ
好々是から見ろ何も教えて
遣ぬから好いワ、生意気な」と
打呟きつゝ早々拭終り又も詰所に帰りて帽子は鴨居に掛け羽織は着、手帳紙入は懐中に入れ又「フ失敬な
|フ小癪な
|フ生意気な」と続け乍ら長官荻沢警部の控所に
行たり長官に向い谷間田は(無論愛嬌顔で)先ほど大鞆に語りし如く傷の様々なる所より博奕場の事を告げ
頓て縮れたる髪筋を出して差当りお紺と云える
素性不明の者こそ手掛りなれと説き終りて更に又手帳を出し「斯う見込を附たから
打附けに先ず築地の
吉の所へ行きました、吉に探らせて見るとお紺は昨年の春あたり築地を越して何所へか行き今でも何うかすると築地へ来ると云う噂サも有るが多分浅草辺だろうとも云い又牛込だとも云うのです実に雲を
握む様な話しさ、でも
先差当り牛込と浅草とを目差して先ず牛込へ行き
夫々探りを入て置て
直又車で浅草へ引返しました、何うも
汗水垢に成て働きましたぜ、車代ばかり一円五十銭から使いました
夫是の費用がザッと三円サ、でも
先アヤッとの事に浅草で見当が
附ました(警部は腹の中でフム牛込だけはお
負だナ、手当を余計せしめようと思ッて)実は斯うなんですお紺の年頃から人相を私の覚えて居るだけの事を云て自分でも聞き又
兼て頼み
附の者にも捜らせた所、何だか馬道の氷屋に髪の毛の縮れた雇女が居たと云う者が有るんです今度は
直自分で
馳附ました、馳附て馬道の氷屋を片ッぱしから尋ねました所が居無い又帰って能く聞くと
|(荻)
爾長たらしくては困るズッと
端折て/\、全体お紺が居たか居ぬか
夫を先に云わんけりゃ(谷)居ました居ましたけれど昨夜三十四五の男が
呼に来て
夫に連られ直帰るとて出たッ切り今以て帰らず今朝から探して居るけれど行衛も知れぬと申ます、エ怪いじゃ有りませんか
的切り爾ですぜ三十四五の男と云うのがアノ死骸ですぜ、夫も詳しくは覚えぬと云いますけれど
何だか顔が面長くて別に是と云う癖も無く
一寸と見覚えの出来にくい恰好だッたと申ます、左の頬に
黒痣はと聞きましたら夫は確かに覚えぬが何でも大名縞の
単物の上へ羽織を着て居たと云う事です、コレは
最う
氷屋の主人も雇人も云う事ですから確かです(荻)併し浅草の者が築地まで
|(谷)夫も訳が有ますよお紺は氷屋などの渡り者です是までも折々築地に母とかの有る様な話をした事も有り、又店の
急しい最中に店を
空た事も有ます相で(荻)夫では
最う
何うしてもお紺を召捕らねば(谷)爾ですとも爾だから帰ったのです何でも未だ此府下に隠れて居ると思いますから貴方に願って各警察へ
夫々人相なども廻し其外の手配も仕て戴き度いので、
私しは是より
直に又其浅草の氷屋で何う云う
通伝を以てお紺を雇入たか、誰が受人だか夫を探し又愈々築地に居る母とか何とか云う者が有るなら
夫も探し又、先の博奕宿が未だ有るか無いか若し有るなら昨夜
何の様な者が集ッたか、
其所へお紺が来たか来ないか、と夫から夫へ段々と探し詰ればナニお紺が何所に隠れて居ようと直に突留めますお紺さえ手に入れば殺した者は誰、殺された者は誰、其訳は是々と
直に分ッて仕舞います」何の手掛も無き事を僅か一日に足らぬ間に早や斯くまでも調べ
上しは流石老功の探偵と云う可し、荻沢への説明終りて又も警察署を出て行く、其門前にて「イヨ谷間田君、手掛りが
有たら
聞せて呉れ」と
呼留たるは彼の大鞆なり大鞆は先刻宿に帰りてより
所謂理学的論理的に如何なる事を
調しや知らねど今又谷間田に
煽起を
利せて彼れが探り得たる所を探り得んと茲に来りし者なる
可し去れど谷間田は小使いより聞得し事ありて再び大鞆に胸中の秘密を語らじと思える者なれば
一寸と大鞆の顔を見向き「今に見ろ」と云いし
儘、後は口の中にて「フ失敬な
|フ小癪な
|フ生意気な」と
呟きながら彼の石の橋を
蹈抜く決心かと思わるゝばかりに足蹈鳴して渡り去れり大鞆は其後姿を眺めて「ハテナ、
彼奴何を立腹したか今に見ろと言ふアノ
口振ではお紺とやらの居所でも突留たかなナニ構う者かお紺が罪人で無い事は分ッて居る
彼奴夫と知らずに、フ今に後悔する事も知らずに
|夫にしても理学論理学の力は
剛い者だ、タッた三本の髪の毛を宿所の二階で試験して是だけの手掛りが出来たから実に考えれば我ながら恐しいナア、恐らく此広い世界で
略ぼ
実の罪人を
知たのは己一人だろう、是まで分ッたから後は明日の昼迄には分る、面白い/\、
悉皆罪人の姓名と番地が分るまでは先ず荻沢警部にも黙ッて居て、少しも
私しには見当が附ませんと云う様な顔をして散々谷間田に誇らせて置て
爾だ明日の正午十二時にはサア罪人は何町何番地の何の誰ですと
明了に言切ッて遣る愉快愉快併し
待よ唯一通りの犯罪と思ッては少し違う、罪人が何うも意外な所に在るから愈々其名前を打明る日にゃ社会を騒がせるテ、輿論を動かすテ、条約改正の様に諸方で之が為に、演説を開く様になれば差当り己が弁士先ず大井憲太郎君と云う顔だナ
|故郷へ錦、愉快/\」大鞆は独り頬笑み警察署へは入らずして其儘又も我宿へブラ/\と帰り去れり
アヽ大鞆は如何なる試験を為し如何なる事を発明せしや僅か三本の髪の毛、如何なる理学的ぞ如何なる論理的ぞ谷間田の疑えるお紺は果して全くの無関係なるや、疑団又疑団、明日の
午後には此疑団如何に氷解するや
中篇(
忖度)
翌六日の正午、大鞆は三筋の髪の毛を
恭しく紙に包み水引を掛けぬばかりにして警察署に出頭し先ず荻沢警部の控所に入れり、折柄警部は次の
室にて食事中なりしかば其終りて
出来るを待ち
突如に「長官大変です」荻沢は
半拭にて髭の
汚れを拭取りながら椅子に
憑り「唯だ大変とばかりでは分らぬが手掛でも有たのか(大)エ手掛、手掛は最初の事です最う
悉皆分りました
実の罪人が
|何町何番地の何の誰と云う事まで」荻沢は怪しみて「何うして分った(大)理学的論理的で分りました
而も非常な罪人です実に大事件です」荻沢は殆ど大鞆が
俄に発狂せしかと迄に怪しみながら「非常な罪人とは誰だ、名前が分って居るなら先ず其名前を
聞う(大)
素より名前を
言ますが夫より前に
私しの発見した手続きを申ます、けどが長官、私しが説明して仕舞う迄は此
室へ誰れも入れぬ事に仕て下さい小使其他は申すに及ばず
仮令い谷間田が帰って来るとも決して無断では入れぬ事に(荻)
好々谷間田はお紺の
隠伏て居る所が分ったゆえ午後二時までには拘引して来るとて今方出て行たから安心して話すが好い」荻沢は
固より心から大鞆の言葉を信ずるに非ず今は
恰も外に用も無し且は全く初陣なる大鞆の技量を試さんとも思うにより
旁々其言う儘に従えるなり(大)では長官少し暑いけどが
茲等を
締ますよ昨日も油断して独言を
吐て居た所ろ後で見れば小使が廊下を掃除しながら聞て居ました、壁に耳の譬えだから声の洩れぬ様にして
置ねば安心が出来ません」と云いつゝ四辺の硝子戸を
鎖して荻沢の前に居直り、紙包みより彼の三筋の
髪毛を取出しつ
細語く程の低き声にて「長官
此髪を御覧なさい是はアノ死人が右の手に握って居たのですよ(荻)オヤ貴公も
夫を持て居るか谷間田も昨日一本の髪を持て居たが(大)イエ
了ません谷間田より私しが先へ見附たのです、実は四本握って居たのを私しが先へ廻って三本だけソッと抜て置きましたハイ谷間田は夫に気が附きません初めから唯一本しか無い者と思って居ます」荻沢は心の中にて(
個奴馬鹿の様でも仲々抜目が無いワえ)と少し驚きながら「
夫から
何うした(大)谷間田は之を縮れ毛と思ってお紺に目を附ました、夫が間違いです若し谷間田の疑いが当れば夫は
偶中りです論理に叶った
中方では在ません、私しは一生懸命に成て種々の書籍を取出しヤッと髪の毛の性質だけ調べ上げました(荻)無駄事は成る可く省いて簡単に
述るが好いぜ(大)ハイ無駄事は申しません先ず肝腎な縮れ毛の訳から云いましょう髪の毛の縮れるには夫だけの原因が無くては
成ぬ、何が原因か全体髪の毛は先ず大方円いとした者で、夫が
根から
梢まで一様に円いなら決して縮れません
何うかすると中程に
摘み
挫いだ様に薄ッぴらたい所が有る其
扁たい所が縮れるのです、ですから生れ附の縮毛には必ず何所かに
扁い所が有る、若し夫が無ければ本統の縮毛では無い、所で私しが此毛を
疏末な顕微鏡に掛けて
熟っく視ました所
根から
梢まで満遍なく円い、薄ッぴらたい所は一ツも無い、左すれば是は本統の縮毛で有ません、分りましたか、夫だのに丁度縮毛の様に揺れ/\して居るのは何う云う訳だ、是は
結んで居るうち附た癖です譬えば真直な髪の毛でもチョン髷に結べば其髷の所だけは
解た後でも揺れて居ましょう、夫と同じ事で此髪も縮れ毛では無い結んで居た為に
斯様に癖が附たのです、ですからお紺の毛では有りません、分りましたか」荻沢は少し
道理なる議論と思い「成る程
分った
天然の
縮毛で無いからお紺の毛では無いと云うのだナ(大)サア夫が分れば追々云いましょう、
僅三本の髪の毛ですけれど斯う云う具合に段々と詮議して行くと色々の証拠が上って来ます貴方
先ア御自身の髪の毛を一本お抜なさい奇妙な証拠を見せますから、此証拠ばかりは自分に試験して見ねば誰も誠と思いません先ア欺されたと思って一本お抜なさい、抜て私しの云う通りにすれば
期と
実の罪人が分ります」荻沢警部は馬鹿/\しく思えど物は
試験と自ら我頭より長サ三四寸の髪の毛を一本抜き取り「是を何うするのだ(大)其髪の
根を右向け
梢を左り向けて人差指と親指の二ツで中程をお摘みなさい(荻)斯うか(大)
爾です/\、次に又
最一本同じ位の毛をお抜なさい、イエナニ何本も抜には及びません唯二本で試験の出来る事ですから
僅に
最一本です、
爾々、今度は其毛を前の毛とは
反対に根を左り向け末を右向て、今の毛と重ね、
爾々其通り
後前互違に二本の毛を重ね一緒に二本の指で
摘で、イヤ違ます人差指を下にして其親指を上にして爾う摘むのです、夫で其人差指を前へ
突出たり後へ引たり
爾々詰り二本一緒の毛へ
捻を掛たり戻したりするのですソレ奇妙でしょう二本の毛が次第/\に右と左へズリ抜るでしょう丁度二
尾の鰻を
打違えに握った様に一ツは右へ抜け一ツは左りへ
抜て段々とソレ捻れば捻るほど、ネエ、奇妙でしょう(荻)成る程奇妙だチャンと
重さねて摘んだのが次第/\に此通り最う両方とも一寸ほどズリ
抜た(大)
夫は皆
根の方へずり抜るのですよ、根が右に
向て居るのは右へ抜け根が左へ
向て居るのは左へ抜けて行くのです(荻)成る程
爾だ
何う云う訳だろう(大)是が大変な証拠に成るから先ず気永くお聞なさい、斯様にズリ抜ると云う者は詰り髪の毛の持前です、
極々度の強い顕微鏡で見ますと総て毛の類には細かな
鱗が有ります、鱗が重なり重なッて髪の
外面を包んで居ます丁度筍の皮の様な
按排式に鱗は皆根から
梢へ向て居るのです、ですから
捻を掛たり戻したりする内に鱗と鱗が突張り合てズリ
抜るのです(荻)成る程
爾かな(大)未だ一ツ其鱗の早く分る事は髪の毛を摘んで、スーッと
素扱いて御覧なさい、
根から
梢へ
扱く時には鱗の順ですから
極滑かでサラ/\と抜けるけれど梢より根へ扱く時は鱗が逆ですから何と無く指に
膺える様な具合が有て
何うかするとブル/\と
輾る様な音がします(荻)成る程
爾だ順に扱けば
手膺は少しも無いが逆に扱けば微かに手膺えが有る(大)サア是で追々に分ります私しは此三筋の髪の毛を其通りして幾度も試してみましたが一本は逆毛ですよ、是は
最う死骸の握って居る所を其儘取ッて堅く手帳の間へ挿み大事にして帰ッたのだから途中で
向の違う事は有ません此三筋を斯う握って居たのです、其中でヘイ此一本が
逆髪です外の二本とは反対に向て居ます(荻)成る程(大)サア何うです大変な証拠でしょう(荻)何故
|(大)何故だッて貴方、人間の頭へは決して鱗の逆に向た毛の
生る者では有りません、
何の様な事が
有ても
生た儘の毛に
逆髪は有ません、然るに此三本の内に一本
逆毛が有るとは何故でしょう即ち此一本は
入毛です、入毛や仮※[#「鬟」の「口」の下の部分に代えて「小」、33-17]《かもじ》などには能く逆毛の在る者で女が仮※[#「鬟」の「口」の下の部分に代えて「小」、33-17]を洗ッて何うかするとコンガラかすのも
矢張り逆毛が交ッて居るからの事です逆毛と順の毛と鱗が掛り合うからコンガラかッて
解ぬのです頭の毛ならば順毛ばかりですから
好んばコンガラかッても終には
解ます
夫や
最う女髪結に
聞ても分る事(荻)夫が何の証拠に成る(大)サア此三本の中に逆毛が有て見れば是は必ず入毛です此罪人は頭へ入毛を仕て居る者です(荻)
夫なら矢ッ張り女では無いか女より外に入毛などする奴は無いから(大)
爾です私しも初は
爾思いましたけれど
何うも女が斯う
無惨/\と男を殺すとは
些と受取憎いから色々考えて見ますと、男でも一ツ逆毛の有る場合が有ますよ、
夫は何かと云うに
鬘です鬘や
仮面には随分逆毛が沢山交ッて居ます
夫だから私しは若しや茶番師が催おしの帰りとか或は又
仮粧蹈舞に出た人が殺したでは無いかと一時は斯も疑ッて見ました併し大隈伯が強硬主義を取てから仮粧蹈舞は
悉皆無くなるし
夫かとて
立茶番も此頃は余り無い、夫に逆毛で無い後の二本を
熟く検めて見ると其根の所が
仮面や鬘から
抜た者で無く全く
生た頭から抜た者です夫は根の附て居る所で分ります殊に又合点の行かぬのは
此縮れ具合です、既に
天然の縮毛では無く全く
結癖で斯う曲ッて居るのですから
何う云う髪を結べば此様な癖が附ましょう、私しは宿所へ来る髪結にも聞きましたが
何うも分らぬと云いました、
爾すれば
最う
全然分らん、分らんのを能く/\考えて見ると有りますワエ此通り髪の毛に癖の附く結い方が、エ貴方何うです、此癖は決して外では無い支那人ですハイ確に支那人の頭の毛です
荻沢警部は暫し呆れて目を見張りしが又暫し考えて「
夫では支那人が殺したと云うのか(大)ハイ支那人が殺したから非常な事件と云うのです、固より単に人殺しと云うだけの罪ですけれど支那人と
有て見れば国と国との問題にも
成兼ません事に由ては日本政府から支那政府へ
|(荻)併し未だ支那人と云う証拠が充分に
立ぬでは無いか(大)是で未だ証拠が立ぬと云うは
夫や無理です、第一此罪人を男か女かとお考えなさい、アノ傷で見れば
死る迄に余ほど闘った者ですが女ならアレほど闘う中に早く男に刃物を
奪取れて
反対に殺されます、又背中の傷は
逃た証拠です、相手が女なら容易の事では逃げません、夫に又女は
|(荻)イヤ女で無い事は理屈に及ばぬ箱屋殺しの様な
例も有るけれど夫は不意打、アノ傷は決して不意打で無く随分闘った者だから夫は
最う男には違い無い(大)サア既に男とすれば誰が一尺余りの
髪を
延して居ますか代言人の中には
有とか言いますけれど夫は論外、又随分チョン髷も有りますが此髪の癖を御覧なさい揺れて居る癖を、代言人や壮士の様な
散し
髪では無論、此癖は附かず、チョン髷でも同じ事、唯だ此癖の附くのは支那人に限ります、支那人の頭は
御存でしょう、三ツに分て紐に組ます、
解ても癖直しをせぬ中は此通りの
曲が有ます
根から
梢まで規則正しくクネッて居る所を御覧なさい夫に又支那人の外には男で入毛する者は決して有りません支那人は入毛をするのみならず
夫で
足ねば糸を入れます、此入毛と云い此縮れ具合と云い是が支那人で無ければ私しは辞職します、エ支那人と思いませんか」荻沢は一応其道理あるに感じ
猶お
彼の髪の毛を検めるに如何にも大鞆の云う通りなり「成るほど一理屈あるテ(大)サア一理屈あると仰有る
柄は貴方も
最う半信半疑と云う所まで
漕つけました貴方が半信半疑と来れば此方の者です私しも是だけ発明した時は
尚だ半信半疑で有たのです、所が後から段々と確な証拠が
立て来るから遂に
何うしても支那人だと思い詰め今では其住居其姓名まで知て居ます、其上殺した原因から其時の様子まで略ぼ分って居ます、夫も宿所の二階から一足も外へ蹈出さずに探り究めたのです(荻)夫では先ず名前から云うが好い(大)イエ名前を
先云て仕舞ては貴方が終りまで
聞ぬから
了ません先ずお聞なさい、今度は傷の事から申します、第一はアノ背中に在る刃物の傷ですが是は
怪むに足りません、大抵人殺は刃物が多いから先ず
当前の事と見逃して扨て
不審儀なのは脳天の傷です、医者は槌で叩いたと云いますし、谷間田は其前に
頭挿でゞも突ただろうかと怪んで居ますが両方とも間違いです、何より
前に丸く
凹込んで居る所に眼を
留ねば成ません、槌で叩たなら頭が砕けるにもしろ必ず
膨揚ります決して
何日までも凹込んで居ると云う筈は無い、
夫だのにアノ傷が実際凹込んで居るのは
何う云う訳でしょう、是は外でも無いアレ丈の丸い者が頭へ当って当ッた儘で四五分間も其所を
圧附て居たのです、其中に命は無くなるし血は出て仕舞い
膨上るだけの精が無く
成た、サア精の無く成た後で其丸い者を取たから
凹込切に成たのです、夫なら其丸の者は何か、何うして
爾長い間頭を圧附けて居たのか是が
一寸と合点の行きにくい箇条、併しナニ考えれば訳も無い事です、其説明は先ず論理学の帰納法に従って仮定説から先に
言ねば分らぬ、此闘いは支那人の家の高い二階ですぜ、一方が逃る所を
背後から
二刀三刀追打に浴せ掛たが、静かに坐って居るのと違い何分にも
旨く切れぬ
夫だから背中に縦の傷が
幾個も有る一方は逃げ一方は追う内に梯子段の所まで追詰た、斯うなると死物狂い、窮鼠却て猫を
食むの譬えで振向いて頭の髪を
取うとした、所が悲しい事には支那人の頭は前の方を
剃て居るから旨く届かぬ僅に指先で四五本
握だが其中に早や支那人の長い爪で
咽笛をグッと握まれ且つ眉間を一ツ
切砕かれウンと云って仰向に
脊へ倒れる、
機みに四五本の毛は指に掛った儘で抜けスラ/\と尻尾の様な紐が
障る其
途炭入毛だけは根が無いから訳も無く抜けて手に掛る。倒れた下は梯子段ゆえドシン/\と頭から
背から腰の
辺を強く叩きながら頭が先に
成て転げ
落る、落た下に丁度丸い物が
有たから其上へヅシンと頭を突く、身体の重サと落て来る勢いでメリ/\と
凹込む、上から血眼で
降て来て抱起すまでには
幾等かの手間が有る其中に血が尽きて、
膨上るだけの勢が
消たのです、背中から腰へ掛け紫色に叩かれた痕や
擦剥た傷の有るのは梯子段の
所為、頭の凹込は丸い物の仕業、決して殺した支那人が自分の手で斯う無惨な事をしたのでは
有ません、何うです、是でも未だ分りませんか(荻)フム仲々感心だ、当る当らんは扨置いて初心の貴公が斯う詳しく意見を
立るは兎に角感心する、けれど其丸い者と云うのは何だえ(大)色々と考えましたが外の品では有ません
童子の
旋す
独楽であります、独楽だから鉄の心棒が斜に上へ
向て居ました其証拠は錐を叩き込だ様な深い穴が凹込の真中に有ます(荻)併し頭が其心棒の穴から
砕る筈だのに(大)イヤ
彼の頭は独楽の為に
砕たのでは無く其実、下まで落着かぬ前に梯子の段で砕けたのです独楽は唯アノ凹込を拵えただけの事です(荻)フム成る程
爾かなア(大)全く爾です既に独楽が有たとして見れば此支那人には七八歳以上十二三以下の
児が有ます(荻)成る程爾だ(大)此証拠は是だけで先ず
留て置きまして再び髪の毛の事へ帰ります、私しは初め天然の縮毛で無い事を
知た時、猶お念の為め湯気で伸して見ようと思い此一本を鉄瓶の口へ
当て、出る湯気にかざしました、すると意外千万な発明をしたのです実は罪人の名前まで分ったと云うも全く其発明の鴻恩です、其発明さえ無けりゃ
何うして貴方、名前まで分りますものか」荻沢も今は熱心に聞く事と為り少し
迫込みて「
何、何う云う発明だ(大)
斯です鉄瓶の口へ当ると此毛から黒い汁が出ました、ハテなと思い
能々見ると、何うでしょう貴方、此毛は実は
白髪ですぜ白髪を此様に染めたのですぜ、染てから一週間も経つと見え
其間に五厘ばかり延びてコレ根の方は延びた丈け又白髪に成て居ます(荻)成る程白髪だ、
熟く見れば白髪を
染た者だ、シテ見ると老人だナ(大)ハイ私しも初めは老人と見込を
附ましたが猶お考え直して見ると第一老人は身体も衰え、従っては一切の情慾が弱くなり其代り
堪弁と云う者が強く
為て
居ますから人を殺すほどの立腹は致しませず
好や立腹した所で力が足らぬから若い者を
室中追廻る事は出来ません(荻)
夫も
爾だな(大)爾ですから是は左ほどの老人では有りません随分四十に足らぬ中に白髪ばかりに成る人は有ますよ是も其類です、年が若く無ければアノ
吝嗇な支那人ですもの何うして白髪を染めますものか、年に似合ず白髪が有て
能く/\見ッとも無いから
止を得ず染たのです(荻)是は感服だ実に感服(大)サア是から後は
直に分りましょう支那人の中で独楽を弄ぶ位の子供が
有て、年に似合わず白髪が有て、夫で其白髪を染て居る、此様な支那人は決して二人とは有ません(荻)
爾とも/\、だが君は兼て其支那人を知て居たのだな(大)イエ知りません全く髪の毛で推理したのです(荻)でも髪の毛で名前の分る筈が無い(大)ハイ髪の毛ばかりでは分りません名前は又外に計略を廻らせたのです(荻)
何の様な計略を(大)イヤ
夫が話しの種ですから、夫を申上る前に先ず貴方に聞て置く事が有ります今まで私しの説明した所に何か不審は有ませんか、若し有れば夫を残らず説明した上で無ければ其計略と其名前は申されません(荻)爾かな今までの所には別に不審も無いがイヤ待て己は此人殺しの原因が分らぬテ谷間田の云う通り喧嘩から起った事か
夫とも又
|(大)イヤ喧嘩では有ません全く遺恨です、遺恨に相違ありません谷間田はアノ、傷の沢山有ると云う一点に目が
暗て第一に大勢で殺したと考えたから夫が間違いの初です成る程、大勢で附けた傷とすれば喧嘩と云うより外に説明の仕ようが有りません、併し是は決して大勢では無く今も云う通り当人が、逃廻ったのと梯子段から落た為に様々の傷が附たのです矢張り一人と一人の闘いです一ツも大勢を対手と云う証拠は有ません(荻)併し遺恨と云う証拠は(大)其証拠が仲々
入組だ議論です気永くお
聞を願います
尤とも是ばかりは私しにも充分には分りません唯遺恨と云う事丈が分ったので其外の詳しい所は到底本人に聞く外は仕方が有ません、先ず其遺恨と云う丈の道理を申しましょう」とて
掌裏にて汗を拭いたり
大鞆は一汗拭いて言葉を続け「第一に目を附け可き所は殺された男が一ツも所持品を持て
居無い一条です、貴方を初め大概の人が是は殺した奴が露見を防ぐ為めに奪い隠して仕舞ッたのだと申ますが決して
爾では有りません、若し
夫ほど抜目なく気の附く曲者なら自分の髪の毛を握られて居る事にも必ず気が附く筈です然るに髪の毛に気が附かず其儘握らせて有たのは唯
最う死骸さえ捨れば好いとドギマギして死骸を担ぎ出したのです(荻)フム爾だ所持品を隠す位なら成る程髪の毛も取捨る筈だシテ見ると
初から持物は持て
居無ったのかナ(大)イエ爾でも有ません持て居たのです、極々下等の
衣服でも有ませんから財布か紙入の類は是非持て居たのです(荻)併し夫は君の想像だろう(大)何うして想像では有ません
演繹法の推理です、
好し又紙入を持ぬにしても煙草入は是非持て居ました彼れは非常な煙草好ですから(荻)
夫が
何にして分る(大)夫は誰にも分る事です私しは死骸の口を引開て歯の裏を見ましたが
煙脂で真黒に染って居ます
何うしても余程の烟草
好です煙草入を持て居ない筈は有ません、是が書生上りとか
何とか云うなら随分お
先煙草と云う事も有ますけれど彼れは爾で有ません、安物ながら博多の帯でも
〆て居れば是非
最う腰の廻りに煙草入が有る者です(荻)
夫なら其煙草入や財布
抔が何うして
無なッた(大)夫が遺恨だから
無なったのです遺恨とせねば外に説明の仕様が有ません、遺恨も唯の遺恨では無い自分の身に
恨れる様な悪い事が有て常に先の奴を恐れて居たのです、何でも私しの考えでは彼れ余程
緩くりして紙入も取出し煙草入も傍に置き、打寛ろいで誰かと話でも仕て居たのです其所へ不意に恐しい奴が
遣て来た者だから取る者も取合えず逃出したのです夫だから持物は何も無いのです(荻)而し夫だけでは何うも充分の道理とも思われんが(大)何故充分と思われません第一背の傷が逃た証拠です自分の身に悪い覚えが無くて何故逃ます、必ず逃る丈の悪い事が有る
柄です、既に悪い事があれば恨まれるのは
当前です、自分でさえ悪いと思って逃出す程の事柄を先方が恨まぬ筈は有ません(荻)
夫は
爾だ、左すれは貴公の鑑定では先ず
奸夫と見たのだナ
奸夫が奸婦と
密び逢て話しでも仕て居る所へ本統の
所夫の不意に帰って来たとか云う様な
訳柄で(大)爾です全く爾です、私しも初から
奸夫に違い無いと目を附けて居りましたが誠の罪人が分ってから初て奸夫では無かったのかナと疑いを起す事に成りました(荻)
夫は何う云う訳で(大)別に深い訳とても有ませんが
実の罪人は妻が無いのです
夫は後で分りました(荻)併し独楽を廻す位の子が有れば妻が有る筈だが(大)イエ、
夫でも妻は無いのです或は昔し有たけれど死だのか離縁したのか、殊に又其の子と云うのも貰い子だと申します(荻)貰い子か
夫なら妻の無いのも無理ではないが、併し
|若し又
羅紗緬でも有はせんか(大)私しも
爾思って
其所も探りましたが、兎に角自分の
宅には羅紗緬類似の女は一人も居ません(荻)イヤサ家に居無くとも外へ
囲って有れば同じ事では無いか(大)イエ外へ囲って有れば決して此通りの犯罪は出来ません何故と
云に
先外妾ならば其
密夫と何所で逢います(荻)何所とも極らぬけれど
爾サ、先ず待合其他の曖昧な家か或は
其囲われて居る自分の家だナ(大)サ夫だから囲い者で無いと云うのです、第一、待合とか曖昧の家とか云う所だと是程の人殺しが
有て御覧なさい、当人達は隠す
積でも其家の者が黙って居ません、警察へ馳附るとか隣近所を起すとか左も無くば後で警察へ訴えるとか何とか其様な事を致します、ですから他人の家で在った事なら此様な大罪が今まで手掛りの出ぬ筈は有ません(荻)若し其囲われて居る家へ
奸夫を引込で居たとすれば
何うだ(大)
爾すれば論理に叶いません先ず自分の囲われて居る家へ引込む位なら必ず初から用心して戸締を充分に附けて置きます、殊に此犯罪は医者の見立で夜の二時から三時の間と分って居ますから戸締をして
有た事は重々
確です、唯に戸締りばかりでは無い
外妾の腹では不意に旦那が戸を叩けば何所から
逃すと云う事までも前以て見込を附て有るのです
夫位の見込の附く女で無ければ決して
我囲われて居る所へ男を引込むなど左様な大胆な事は出来ませんサア既に
斯まで
手配が附て居れば旦那が外から戸を叩く、ハイ今開ますと返事して手燭を
点るとか
燐寸を探すとかに紛らせて男を逃します逃した上で無ければ決して旦那を入れません(荻)
夫は
爾だ、ハテナ
外妾で無し、
夫かと云って
羅紗緬でも妻でも無いとして見れば君の云う
奸夫では無いじゃ無いか(大)ハイ
夫だから奸夫とは云いません唯だ奸夫の様な種類の遺恨で、即ち殺された奴が自分の悪い事を知り兼々恐れて
居と云うだけしか分らぬと申ました(荻)でも奸夫より外に
一寸と其様な遺恨は有るまい(大)ハイ外には一寸と思い附ません併し六ヶしい犯罪には必ず一のミステリイ(不可思議)と云う者が有ますミステリイは到底罪人を捕えて白状させた上で無ければ
何の様な探偵にも分りません是が分れば探偵では無い神様です、此事件では茲が即ちミステリイです、斯様に奸夫騒ぎで無くては成らぬ道理が分って居ながら其本人に妻が無い是が不思議の不思議たる所です、決して当人の外には此不思議を解く者は有ません(荻)
爾まで分れば
夫で能い
最う其本人の名前と貴公の
謂う、計略を
聞う(大)併し是だけで外に疑いは有ませんか(荻)フム無い唯だ今
謂たミステリイとかの一点より外に疑わしい所は無い(大)
夫なら申ますが
斯云う次第です」と又も額の汗を拭きたり
扨大鞆は
言出るよう「私しは全く昨日の中に是だけの推理をして罪人は必ず年に似合ぬ白髪が有て
夫を旨く染て居る支那人だと見て
取ました、
夫に由り先ず谷間田に逢い彼れが
何う云う発明をしたか夫を聞た上で自分の意見も
陳て見ようと此署を指して宿所を出ました所宿所の前で兼て筆墨初め種々の小間物を
売に来る支那人に
逢たのです何より先に
個奴に問うが一番だと思いましたから明朝沢山に筆を買うから己の宿へ来て呉れと言附て置ました、夫より此署へ来た所丁度谷間田が出て行く所で私しは呼留たれど彼れ何か立腹の体で返事もせず去て仕舞いました
夫ゆえ
止を得ず私しは又宿所へ引返しましたが、今朝に成て案の如く其支那人が参りました、
夫を相手に種々の話をしながら実は己の親類に年の若いのに白髪の有て困って居る者が
有がお前は白髪染粉の類を売はせぬかと問ますと其様な者は
売ぬと云います
夫なら若し其製法でも知ては居ぬかと問ましたら自分は知らぬが自分の親友で居留地三号の二番館に居る同国人が今年未だ四十四五だのに白髪だらけで
毎も自分で
染粉を調合し湯に行く度に頭へ塗るが仲々能く染るから金を呉れゝば其製法を聞て来て
遣うと云います扨は是こそと思いお前居留地三号の二番と云えば昨日も己は三号の辺を通ったが何でも子供が独楽を廻して居た
彼の家が二番だろうと云いました所アヽ子供が独楽を廻して居たなら
夫に違いは有ません其子供は即ち今云った白髪のある人の貰い子だと云いました
夫より色々と問いますと第一其白髪頭の名前は
陳施寧と云い長く長崎に居て明治二十年の春、東京へ上り今では
重に横浜と東京の間を
行通いして居ると云います
夫に其気象は支那人に似合ぬ
立腹易くて折々人と喧嘩をした事も有ると云いましたサア是が即ち罪人です三号の二番館に居る支那人陳施寧が全く遺恨の為に殺したのです」荻沢は暫し黙然として考えしが「成る程貴公の云う事は重々尤も髪の毛の試験から推て見れば何うしても支那人で無くては成らず又同じ支那人が決して二人まで
有うとは思われぬ併し果して陳施寧として見れば先ず清国領事に掛合も附けねばならず兎に角日本人が支那人に殺された事で有るゆえ実に容易ならぬ事件で有る(大)私しも
夫を心配するのです新聞屋にでも之が知れたら一ツの輿論を起しますよ何しろ陳施寧と云うは憎い奴だ、併し谷間田は
爾とは知らず未だお紺とかを探して居るだろうナ
斯く云う折しも入口の戸を
遽だしく引開けて入来るは彼の谷間田なり「今陳施寧と云う声が聞えたが何うして此罪人が分ッたか
|(荻)ヤヽ、谷間田貴公も陳施寧と見込を附けたか(谷)見込所では無い
最うお紺を捕えて参りました、お紺の証言で陳施寧が罪人と云う事から殺された本人の身分殺された原因残らず分りました(荻)
夫は実に感心だ谷間田も
剛いが、大鞆も剛い者だ(谷)エ大鞆が何故剛い
| 下篇(氷解)
全く谷間田の云いし如くお紺の言立にも此事件の大疑団は氷解したり今お紺が荻沢警部の尋問に答えたる事の
荒増を茲に記さん
妾(お紺)は長崎の生れにて十七歳の時遊廓に身を沈め多く西洋人支那人などを客とせしが間もなく或人に買取られ
上海に送られたり上海にて同じ勤めをするうちに深く
妾を愛し初めしは陳施寧と呼ぶ支那人なり施寧は可なりの雑貨商にして兼てより長崎にも支店を開き弟の
陳金起と言える者を其支店に出張させ日本の雑貨買入などの事を
任せ置きたるに弟金起は兎角放埓にして悪しき行い多く殊に支店の金円を遣い込みて施寧の許へとては一銭も送らざる故施寧は自ら長崎に渡らんとの心を起し
夫にしてはお紺こそ長崎の者なれば引連れ行きて都合好きこと多からんと
終に妾を
購いて長崎に連れ来れり施寧は生れ附き甚だ醜き男にして頭には年に似合ぬ白髪多く妾は彼れを好まざれど唯故郷に帰る嬉さにて其言葉に従いしなり
頓て
連られて長崎に来り見れば其弟の金起と云えるは初め妾が長崎の廓にて勤めせしころ馴染を重ねし支那人にて施寧には似ぬ好男子なれば妾は何時しかに施寧の目を掠めて又も金起と
割無き仲と
無れり去れど施寧は其事を知らず益々妾を愛し唯一人なる妾の母まで引取りて妾と共に住わしめたり母は早くも妾が金起と密会する事を知りたれど別に咎むる様子も無く殊に金起は兄施寧より心広くしてしば/\母に金など贈ることありければ母は
反って好き事に思い妾と金起の為めに首尾を作る事もある程なりき其内に妾は
孰かの種を宿し男の子を
儲けしが固より施寧の子と云いなし
陳寧児と
名けて育てたり是より一年余も経たる頃
風とせしことより施寧は妾と金起との間を疑い
痛く怒りて妾を
打擲し且つ金起を殺さんと迄に猛りたれど妾
巧みに其疑いを
言解きたり斯くても妾は何故か金起を思い切る心なく金起も妾を
捨るに忍びずとて猶お懲りずまに不義の働きを為し居たり、寧児が四歳の時なりき金起は悪事を働き長崎に居ることが出来ぬ身と為りたれば妾に向いて共に神戸に
逃行かんと勧めたり妾は早くより施寧には愛想尽き
只管ら金起を愛したるゆえ
左らば寧児をも連れて共に行かんと云いたるに※[#「研のつくり」、第3水準1-84-17]《そ》は足手纏いなりとて聞入るゝ様子なければ
詮方なく寧児を残す事とし母にも告げず仕度を為し翌日二人にて長崎より
舩に乗りたり後にて聞けば金起は
出足に
臨み兄の金を千円近く盗み来たりしとの事なり
頓て神戸に上陸し一年余り遊び暮すうち、金起の懐中も残り少くなりたれば今のうち東京に往き相応の商売を初めんと又も神戸を去り東京に上り来たるが当時築地に支那人の開ける博奕宿あり金起は日頃
嗜める道とて
直に其宿に入込みしも運悪くして僅に残れる
金子さえ忽ち失い尽したれば如何に相談せしか金起は妾を其宿の下女に住込ませ己れは「
七八」の小使に雇れたり此後一年を経て明治二十年の春となり妾も金起も築地に住い難きこと出来たり其
因由は他ならず彼の金起の兄なる陳施寧
商業の都合にて長崎を引払い東京に来りて築地に店を開きしと或人より聞たれば当分の
中分れ/\に住む事とし妾は口を求めて本郷の或る下等料理屋へ住込み金起は横浜の博奕宿へ移りたり或日妾は一日の暇を得たれば久し振に金起の顔を見んと横浜より呼び寄せて共に手を引き此処彼処見物するうち浅草観音に入りたるに思いも掛けず見世物小屋の
辺りにて後より「お紺/\」と呼ぶものあり振向き見れば妾の母なり寧児も其傍にあり見違るほど成長したり「オヤ貴女は(母)お前は
先ア私にも云わずに居無く成て
夫切り便りが無いから何処へ
行たかと思ったら
先ア東京へ
先ア、
而して先ア金起さんも
先ア、寧児覚えて居るだろう是が
毎も云うお前のお母さんだよ、お父さんはお前を貰い子だと云う筈だ此れがお前の本統のお父さん、私は先ア
前へ云わねば成らん事を忘れてサ、お紺や未だ知る
舞いが用心せねば
了ないよ東京へ来たよ、親指が、私もアノ儘世話に成て居て此通り東京まで
連られて来たがの、今でもお前に大残りに残て居るよ未練がサ、親指は、お前が
居無なッた時
何の様に怒ッたゞろう、私まで叩き出すッて、チイ/\パア/\言たがネ、
腹立た時やア
少も分らんネ、
言ことが、でも後で私しを世話して置けば
早晩お前が逢い度く成て帰ッて来るだろうッて、
惚い事は
箝を掛てるネ日本人に
爾して今は何所に、ア
爾う本郷に奉公、ア爾う可愛相に、金起さんも一緒かえ、ア爾う金起さんは横浜に、ア爾う別々で逢う事も出来ない、ア爾う可愛相に、ア爾う親指の来た事を聞いて、ア爾う可愛相に用心の為め分れてか、ア爾う今日久ぶりに逢ッて、ア爾う可愛相に、
夫ではお前斯うお仕な今夜はネ家へ来てお宿りな金起さんと二人で、ナニ
浮雲い者か昨日横浜へ行て明後日で無ければ帰らんよイエ本統に恐い事が有る者かイエお泊りなお泊りよ若し何だアネ帰ッて来れば三人で裏口から馳出さアネ、ナニ寧児だッて大丈夫だよ、
多舌や
仕無よ本統のお父さんとお母さんが泊るのだもの多舌するものか、ネエ寧児、此子の名前は日本人の様で呼び易くッて好い事ネ
隣館の子は矢ッ張り合の子で珍竹林と云うのだよ
可笑いじゃ無いかネエ、だから私が一層の事寧次郎とするが好と云うんだよ、来てお泊りな裏から三人で逃出さアネ、イエ正直な所は私しも最う
彼処に居るのは厭で/\
成ないのお前達と一緒に逃げれば好かッた、アヽ時々
爾思うよ今でも連れて逃げて
呉れば好いと、イヽエ
口には
云ぬけれど本統だよ、来てお泊りな、エ、お前今夜も
明の晩も大丈夫、イエ月の中に二三度は家を開るよ横浜へ行てサ、其留守は
何なに静で好だろう是からネ
其様時には
逃さず手紙を遣るから来てお泊りよ、二階が広々として、エお出なネお出よお出なね、お出よう」母は独りで
多舌立て放す気色も見えざる故、妾も金起もツイ其気になり此夜は大胆にも築地陳施寧の家に行き広々と二階に
寐ね次の夜も又泊り翌々日の朝に成り寧児には堅く口留して帰りたり此後も施寧の留守と為ること分るたびに必ず母より前日に妾の許へ知らせ来る故、妾は横浜より金起を迎え泊り掛けに行きたり、若し母と寧児さえ無くば
妾斯る危き所へ足蹈もする筈なけれど妾の如き薄情の女にも母は懐しく児は愛らしゝ一ツは母の懐しさに
引され一ツは子の愛らしさに引されしなり、去れば其留守前日より分らずして金起を呼び迎える暇なき時は妾唯
一人り行きたる事も有り明治二十年の秋頃よりして今年の春までに行きて泊りし事
凡そ十五度も有る程なり、今年夏の初め妾は余り屡々奉公先を空ける故暇を出されて馬道の氷屋へ住込しが七月四日の朝母より「親指は今日午後五時の汽車で横浜へ行き
明後日まで確かに帰らぬからきッとお
出待て居る」との手紙来れり妾は暫く金起に逢ぬ事とて恋しさに堪えざれば早速横浜へ端書を出したるに午後四時頃金起来りければ直に家を出で少し時刻早きゆえ或処にて夕飯を
喫べ酒など飲みて時を送り
漸やく築地に着きたるは夜も早や十時頃なり直ちに施寧の家に入り母と少しばかり話しせし末例の如く金起と共に二階に上り一眠りして妾は二時頃一度目を
覚したり、見れば金起も目を覚し居て「お紺、今夜は何と無く気味の悪い事が在る己は
最う帰る」と云いながら早や
寐衣を脱ぎて
衣物に
更め羽織など着て
枕頭に居直るゆえ妾は不審に思い「何が其様に気味が悪いのです帰るとて今時分何処へ帰ります(金)何処でも
能い、此家には
寐て居れぬ(妾)何故ですえ(金)先程から目を醒して居るのに賊でも這入て居るのか押入の中で変な音がする、ドレ
其方の床の間に在る其煙草入と紙入を取ッて寄越せ(妾)なに貴方賊など
這入ますものか念の為めに見て
上ましょう」と云いながら妾は起きて後なる押入の戸を開けしに
個は如何に中には
一人り眠れる人あり妾驚きて「アレー」と云いながら其戸を閉切れば眠れる人は此音に目を覚せしか戸を
跳開きて
暴出たり能く見れば是れ金起の兄なる陳施寧なり、今より考え想い見るに施寧は其子寧児より此頃妾が金起と共に其留守を見て泊りに来ることを聞出し半ば疑い半ば信じ今宵は其実否を試さんとて二日泊りにて横浜へ行くと云いなし家を出たる体に見せかけ明るき中より此押入に隠れ居たるも十時頃まで妾と金起が来らざりし故
待草臥れて眠りたるなり、殊に西洋
戸前ある押入の中に堅く閉籠りし事なれば其戸を開く迄物音充分聞えずして目を覚さずに居たる者なり
夫は
扨置き妾は施寧が躍出るを見て
転る如くに二階を降しが、金起は流石に男だけ、
徒に逃たりとて後にて証拠と為る可き懐中物などを遺しては何んの甲斐も無しと思いしか床の間の方に飛び行かんとするに其うち早や後より背の辺りを切り附けられたり妾是まではチラと見たれど其後の事は知らず唯斯く露見する上は母は手引せし
廉あれば後にて妾よりも猶お
酷き目に逢うならんと、驚き騒ぎて止まざるゆえ妾は直に其手を取り裏口より一散に逃出せり、夜更なれども麻布の果には兼て、一緒に奉公せし女安宿の女房と為れるを知るに由り通り合す車に乗りて、其許に
便り行きつゝ訳は少しも明さずに一泊を乞いたるが夜明けて
後ちも此辺りへは人殺しの
評も達せず妾は唯金起が殺されたるや如何にと其身の上を気遣うのみ去れども別に詮方あらざれば何とかして此後の身の振方を定めんと思案しつ又も一夜を泊りたるに今日午後一時過ぎに谷間田探偵入来り種々の事を問われたり
固より我身には罪と云う程の罪ありと思わねば在りの儘を打明けしに斯くは母と共に
引致せられたる次第なり
以上の物語りを
聞了りて荻沢警部は少し考え
夫では誰が殺されたのか(紺)誰が殺されたか
夫までは認めませんが多分金起かと思います(荻)ハテ金起が
|併し金起は
何の様な
身姿をして居た(紺)金起は長崎に居る時から日本人の通りです一昨夜は紺と茶の大名縞の単物に二タ子唐桟の羽織を着て博多の帯を〆て居ました(荻)ハテ奇妙だナ、頭は(紺)頭は貴方の様な散髪で(荻)顔に何か目印があるか(紺)左の目の下に
黒痣が
アヽ是にて
疑団氷解せり殺せしは支那人陳施寧殺されしは其弟の陳金起少も日本警察の関係に非ず唯念の為めに清国領事まで通知し領事庁にて
調たるに施寧は俄に店を仕舞い七月六日午後横浜解纜の英国船にて上海に向け出帆したる後の祭にて有たれば大鞆の気遣いし如く一大輿論を引起すにも至らずしてお紺まで放免と為れり去れど大鞆は谷間田を評して「君の探偵は
偶れ
中りだ今度の事でも
偶々お紺の髪の毛が縮れて居たから旨く行た様な者の若しお紺の毛が真直だッたら無罪の人を
幾等捕えるかも知れぬ所だ」と云い谷間田は又茶かし顔にて「フ失敬なッ、フ小癪な、フ生意気な」と呟き居る
由独り荻沢警部のみは此少年探偵に後来の望みを属し「貴公は
毎も云う東洋の
レコックになる可しなる可し」と厚く奨励すると云う
(明治二十二年九月〈小説叢〉誌発表)