||第七話です
三十五反の帆を張りあげて行く
しかし
城下に這入って、
だから旅籠の客引きが、ここを先途と客を呼ぶのに不思議はないが、それにしてもその騒々しさと言うものはない。
「いかがでござります。エエいかがでござります。手前のところは当城下第一の旅籠屋でござります。夜具は上等、お泊り貸は格安、いかがでござります。エエいかがでござります」
「いえ、わたくしの方も勉強第一の旅籠でござります。座スクはツグの間付きの離れ造り、お米は秋田荘内の飛び切り上等、御菜も二ノ膳つきでござります。それで御泊り賃はたった百文、いかがでござります。エエいかがでござります」
「いえいえ、同ズことならわたくス共の方がよろしゅうござります。揉み療治按摩は
だが、少し奇怪でした。ほかの旅人達には、歩行も出来ぬ程客引き共がつけ廻って、うるさく呼びかけているのに、どうしたことかわが早乙女主水之介のところへは、ひとりも寄って来ないのです。客としては元より上乗、身分素姓は言うまでもないこと、お茶代宿料およそ金銭に関わることなら、お直参旗本の極印打った金の茶釜が掃く程もあるのに、目の高かるべき筈の客引き共が、この折紙つきの由々敷上客を見逃すというのは、まことに不思議と言わねばならないことでしたから、退屈男はいぶかしく思って番頭のひとりのところへのっそり近づくと、
「のう、こりゃ下郎!」
ジロリとやって貫禄豊かに、のうこりゃ下郎、とやりました。海越え山越え坂越えて、奥州仙台陸奥のズウズウ国までやって来ても、自ずと言うことが大きいから
「のう、こりゃ下郎!」
「·········?」
「下郎と申すに聞えぬか。のう、これよ町人!」
「へ?······」
「へではない、なぜ身共ばかりを袖にするぞ? いずれはどこぞへ一宿せねばならぬ旅の身じゃ。可愛がると申さば泊ってつかわすぞ」
「えへへ。
対手にもせずに退屈男を鼻であしらっておいて、碌でもなさそうな商人達が通りかかったのを見かけると、
「お泊りはいかがでござります。堅いがズ慢の宿でござります。
しきりと
「わははは。言葉もズウズウで少し人間放れが致しておるが、旅籠もちと浮世放れ致しおる喃。いやよいわよいわ。泊めぬと申すなら泊める
襟に西田屋と染めぬいた隣りの客引きを
「そちのところも身共ばかりには、色目一つ使わぬようじゃが、やはり泊めぬと申すか。泊めて見ればこのお客、なかなかによい味が致すぞ。どうじゃ。いち夜泊めて見るか」
「いえ、あの、御勘弁下さいまし。滅相もござりませぬ。どうぞこの次に願いとうござります」
「異なことを申す奴等じゃ喃。わははは。さてはこの
「へえ······!」
「その方のところはどうじゃ。眉間に少し
「いえ、あの相済みませぬ。どうぞ御見逃し下さいまし。手前共もこの次にお泊り願いとうござります」
なぜかしどろもどろとなって、うろたえ
何か仔細がなくてはならぬ。
何か秘密がなくてはならぬ。
いぶかっているとき||、
「お気の毒なことでござりまするな。旦那様、旦那様」
不意にうしろから呼びかけた声があったかと思われるや同時に、その横丁へ曲り角の
「折角お越しなさいましたのに、宿がのうて御困りでござりましょう。およろしかったら手前のところにどうぞ||」
「·········?」
「いえ、あの決して
言うのを黙然として退屈男はじッと見守りました。やはり気のせいでもない。
「いかがでござりましょう! お殿様方に
「泊るはよい。泊れと申すならば泊ってつかわすが、それにしてもちと不審じゃな」
「何が御不審でござります」
「他の旅籠では申し合わせたように身共を袖に致しておるのに、そちの宿ばかり好んで泊めようと言うのが不審じゃと申すのよ。一体どうしたわけじゃ」
「アハハハ。そのことでござりまするか。御尤も様でござります。いえなに仔細を打ち割って見れば他愛もないこと、御武家様をお泊め申せばお届けやら手続きやら、何かとあとで面倒でござりますゆえ、それをうるさがってどこの宿でも体よくお断りしているだけのことでござりまするよ」
「異な事を申すよ喃。二本差す者とても旅に出て行き暮れたならば宿をとらねばならぬ。武家を泊めなば何が面倒なのじゃ。それが昔から当仙台伊達家の家風じゃと申すか」
「いえ、御家風ではござりませぬ。そのような馬鹿げた御家風なぞある筈もござりませぬが、どうしたことやら、近頃になって俄かに御取締りがきびしゅうなったのでござります。御浪人衆は元より御主持ちの御武家様でござりましょうとも、他国より御越しのお侍さまはひとり残らず届け出ろときつい御達しでござりましてな、御届け致しますればすぐさま御係り役人の方々が大勢してお越しのうえ、宿改めやら御身分改めやら、何かと手きびしく御吟味なさったあげ句、少しなりとも御不審の節々がおありの御武家は容赦なく引っ立て、あまつさえ宿の亭主も巻添え喰って入牢させられたり、手錠足止めに出会いましたり、兎角に迷惑なことばかりでござりますゆえ、
「ヘゲタレよ喃」
「は?······」
「京ではそのような食べ物のよろしくない者共をヘゲタレと申すとよ。折があったら伊達侯に申し伝えい。時々
「へえい。一夜も百夜もお貸しする段ではござりませぬ。お殿様に御不審の
「面白い。伊達侯よりそちの方が喰い物がよろしいと見えてなかなか話せるわ。事起らばなお望むところじゃ。千夜程も逗留してつかわそうぞ。さそくに
だが、
だのに番頭がまた奇怪でした。
「大事ない。大事ない。心配するな」
すぐに応じて言った言葉の横柄さ、ぞんざいなところは、番頭と思いのほかにどうやら主人らしくもあるのです。||退屈男の不審はぐっと高まりました。
他国者の武家ばかりをきびしく吟味すると言う不審。
よその宿はみな恐れをなしているのに、この千種屋ばかりは好んで客とした不審。
いざなっていった男が只の客引きかと思われたのに、亭主らしい不審。
その不審な男のひと癖ありげな眼の配り、体の構えの油断なさ。
そうして年若い
「どうやら火の手はこの家から揚りそうじゃな。のう番頭!」
「は?······」
「いや、こちらのことよ。食物は諸事ずんと
事起らばそれまた一興、不審の雲深ければさらに一興、いっそ退屈払いになってよかろうぞと言わぬばかりに、のっしのっしと通って行くと、不敵な
「当家第一の座敷がよかろう。上段の間へ
「は。おっしゃりませいでもよく心得てでござります」
然るに対手は心得ていると言うのです。宿改め身分調べに伊達家家中の面々が押し入って来たら、直参旗本の威権を以て、その上段の間に悠然と陣取りながら、眼下に
「その方なかなかに心利いた奴じゃな。小姓共のおらぬがちと玉に
気概五十四郡の主を呑むかのごとくに、どっかと座を占めると、何思ったかふいッと命じました。
「板を持てッ。看板に致すのじゃ。何ぞ一枚白木の板を持って参れッ」
程たたぬまにそこへ命じた
「直参旗本早乙女主水之介様御宿」
「ウワハハハ、わが文字ながらなかなかに見事よ喃。これならば陪臣共もひと泡吹こうぞ。遠慮は要らぬ。なるべくひと目にかかるような店先へ早う立てい」
おどろくかと思いのほかに謎の番頭は、にたりと意味ありげな微笑をのこすと、
しかし、来ないのです。
来たら退屈払いにひと泡吹かしてやろうと、
「ほほう、ちと奇態じゃな。亭主! 亭主! いや番頭! 番頭!」
「·········」
「番頭と申すにきこえぬか」
「·········」
「あい······」
やさしく消え入るように答えてそこに三ツ指ついたのは、前夜のあのいぶかしい若者ならで、ちまちまッとした
「そちではない。ゆうべの番頭はどこへいった」
「あの······」
「
「ゆうべからずッとどこぞへ出かけまして、まだ帰りませぬ」
「なにッ、······異なことを申すな。あの男、時折夜遊びでも致すのか」
「いえあの、この頃になりまして、どこへ参りますやら、ちょくちょく家をあけまするようでござります」
「ほほう喃。だんだんと不思議なことが重なって参ったようじゃな。いや、よいわよいわ。掛り役人共とやらも番頭も何を致しおるか存ぜぬが、長引くだけにいっそ楽しみじゃ。ならば一つ身共も
「喧嘩口論、悪人成敗、命ノヤリトリ、
「わははは。これでよいこれでよい。この大網ならば夕刻あたりまでに、小鰯の一匹位かかろうわい。そのまにゆるゆる御城下見物でも致して参ろうぞ。女! 遠慮のうこの看板、元のところへ立て掛けい」
言いすてておくと、大刀をずっしりと腰にしながら、ふらりふらりと城下の街に現れました。
秋!······
秋!······
そぞろ、悲しい秋の声! 秋の色! そうして秋の心!
颯々として背を吹きなでるその初秋のわびしい街風をあびながら、風来坊の退屈男は
人が通る······。
馬が通る······。
犬と駕籠が連れ立って駈けすぎました。何の不思議もないことでしたが、しかし通りすぎていった人の顔に、通りすぎていった馬の蹄に、犬にも駕籠にも
||嵐の前の不気味な静寂!
||危機を
いや静寂ばかりではない。殺気ばかりでもない、不気味なその静寂の奥に、危機を孕んだ暗いその殺気の奥に、なにかこう物情騒然とした慌ただしさがほの見えました。しかも街全体が、城下全体が、何とはなく変に色めき立って見えるのです。殊に退屈男の目を強く射たものは、町々辻々を固めている物々しい人の影です。何か只ならぬ詮議の者でもがあるらしく、市中警固の係り役人共と覚しき藩士の面々が、いずれも異様な緊張ぶりを示して、あちらに一団、こちらに一隊、行く先の要所々々に佇んでいるのが見えました。
否! 否! そればかりではない。あてもなく廻り廻って、伊達家菩提所の
「ほほう。味な御供が御警衛じゃな。だんだんと面白うなって参ったわい。||これよ! 人足! 人足と申すに! 苦しゅうない。近う参れッ。供先き許してとらすぞ。近う参れッ」
くるりうしろを向くと、あの眉間疵を冴えやかに光らして、
と見えたのは束の間、||ふらりふらりと歩き出すと、影を追う影のごとくに、にょきにょきとまたいずれからか姿を現して尾行し始めました。
右に廻れば右に廻り、左に廻ればうしろの影もまた左に追って、奇怪な尾行者を随えながら、のっしのっしとさしかかったのが青葉城大手前の大橋||。そこから宿のある伝馬町までへは、大町通りの広い町筋をまっすぐに一本道です。いつのまにか落ちかかった夕陽をまともに浴びながら、その通りをなおも悠然と行く程に、尾行の藩士達はだんだんと数を増して、八人が十人となり、十人が十三人となり、やがて全部では十七八人の一団となりました。しかも、いった先いった先で、伝令らしいものが
何かは知らぬが、およそ不思議というのほかはない。謎を秘めたあの番頭が、ゆうべから姿を消したというのも不審の種です。それに関わりがあるのかないのか、宿改めの係りの役人達が姿を見せないのも大いに奇怪です。あまつさえ、城下の町々は物情騒然としているのでした。その上に何のためにか何の目的あってか、見えつ隠れつ次第に数を増して、それも血気ざかりの屈強そうな若侍達ばかりが、行く方動く方へと尾行するのです。だが、退屈男は実に不敵でした。刻一刻に高まる殺気を却って楽しむかのように、ふらりふらりと帰っていったのは宿の千種屋||。
ふと見るとその辺にも、夕陽の散り敷く町角の彼方此方に七八人の影がちらと動きました。
「ほほう、大分御念入りな御見張りじゃな。この分ならば、あの触れ看板にも二三匹何ぞ大物がかかっているやも知れぬ。||亭主! 亭主! いや番頭!」
ずいと這入った出合い
「御かえりなさいまし。御遊行でござりましたか」
「遊行なぞと気取った事を申しおるな。番頭風情が心得おる言葉ではなかろうぞ。そちこそゆうべからいずれを泳ぎおった」
「恐れ入ります。えへへへへへ。ちと
「退屈なら何といたした。身共にもゆうべのその粋筋な向きとやらを、一人二人世話すると申すか」
「御所望でござりましたら||」
「こやつ、ぬらりくらりとした事を申して、とんと
「は、折角ながら||。それゆえおよろしくばその御眉間疵にひと
「奥歯に物の挟まったようなことを申しおるな。面白い。どこへなと参ろうぞ。つれて行けい」
愈々奇怪と言うのほかはない。おびき出して危地にでも陥し入れようと言うつもりからか、それとも他に何ぞ容易ならぬ計画でもあるのか突然宿の男はにったりと笑うと、退屈凌ぎに恰好な場所へ案内しようと言うのです。||出ると同時のように、あちらから二人、こちらから三人、全部では二十名近くの面々が、いずれも異常な緊張を示してにょきにょきと姿を現しながら、互いに
それらの尾行者達をうしろに随えながら、胸にいちもつありげな宿の男が、やがて主水之介を導いていったところは、あまり遠くもない裏通りの大弓場です。
「英膳先生、御来客ですよ」
声をかけて、
だが、それと退屈男が見てとったのは束の間でした。奇怪な宿の男が、殊更に腰低く会釈しながら、自分の用はこれでもう足りたと言うように、足早く立ち去ったのを見すますと、その名を英膳と呼ばれた第二の謎の矢場主は、いかにも弓術達者の武芸者といった足取りでにこやかに近づきながら、主水之介ならぬ尾行者達に
「丁度よいところへお越しで何よりにござります。今日は当大弓場が矢開き致しましてから満四カ年目の当り日でござりますゆえ、いつもの通り、諸公方に御競射を願い、十本落ち矢なく射通したお方を首座に、次々と順位を定め、いささかばかりの心祝いの引き出物を御景品に進上致しとうござるが、いかがでござりましょう。これから宵にかけては心気も澄んで丁度
不思議な言葉でした。なにから何までがおよそ不審なことばかりです。
この大弓場にどんな退屈払いがあると言うのか?
競射をさせて、何を一体どうしようと言うのか?
いぶかっている退屈男の方をじろりじろりと流し目に見眺めながら、矢場主英膳がやがてそこに取り出したのは、それらを引き出物の景物にするらしく、先ず第一に太刀がひと
いずれも水引奉書に飾り立てた品々が、ずらずらとそこに並べられたのを見眺めると、胡散げに退屈男を遠巻きにしながら監視していた若侍の面々が、期せずしてざわざわとざわめき立ちました。||と見るやまもなく、つかつかと列を割って出て来たのは、一見尾行隊の隊長と覚しき分別ありげな三十がらみの藩士です。
「よし、引こう! 引いてやろうよ」
「ならば拙者も||」
言い難い誘惑だったに違いない。それをきっかけに二人三人とつづいてあとから列を割って進み出ると、いずれも競って目を輝かしながら、弓を手にとりあげました。
矢は各十本。
的は五寸。
落ちかかった夕陽が赤々と
最初にキリキリと引きしぼったのは、あの隊長らしい藩士でした。
「当り一本!」
スポッと冴え渡った音と共に、高々と呼び立てる声が揚がりました。
「当り二本!」
つづいて三本。
つづいて四本。
さすがは奥地第一の雄藩に禄を
入れ代って現れたのは片目の藩士です。しかし、これが射当てたのは四本でした。
「御腑甲斐のない。然らば拙者が見事にあの飾り太刀せしめてお目にかけようよ」
引き出物の景品にそそのかされでもしたかのごとく、三人目が飛び出して引きしぼったが、的中したのは同じ四本です。
「今度は手前じゃ」
「いや、拙者が早いよ。年の順じゃ。お手際見事なところを見物せい」
先を争いながら出て来た四人目がまたやはり四本でした、五人目が少し出来て五本。
「口程もない方々じゃな。お気の毒じゃが、然らば拙者があの引き出物頂戴致そうよ。指を
広言吐きながらのっしのっしと現れたのは、
「ウフフフ。アハハハハ。笑止よ
爆発するような笑い声があがりました。誰でもない。退屈旗本の早乙女主水之介です。同時に目色を変えて競射に夢中になっていた面々が、さッと色めき立ちました。無理もない。笑ったその笑い声というものが、直参笑いと言うか、早乙女笑いと言うか、いかにもおかしくてたまらないと言った、豪快無双の高笑いだったからです。中でも隊長と覚しき最初の射手のあの若侍が、ぐッと
「な、なにがおかしゅうござる!」
「·········」
「返答聞きましょう! 何がおかしゅうてお笑い召さった」
「身共かな」
言いようがない。まことにその
「御用のあるのは身共かな」
「おとぼけ召さるなッ。尊公に用あればこそ尊公に
「アハハハ。その事かよ。人はな||」
「なにッ」
「静かに、静かに。そのような
「そのようなこときいているのではござらぬわッ。手前達の何がおかしゅうて馬鹿笑い召さったのじゃ」
「ははん、そのことか。江戸ではな」
「江戸が何だと申すのじゃ」
「弓は射るもの当てるもの、江戸で引いても当らぬものは
「第一何だと申すのじゃ。何が何だと申すのじゃッ」
「おぬし達のことよ。見ればそれぞれ大小二腰ずつたばさんでおいでじゃが、まさかに似せ侍ではござるまいてな」
「なにッ。似せ侍とは何を申すかッ。どこを以って左様な
「ウフフフ。その仙台武士がおかしいのよ。ナマリ
「ほほう、おいでじゃな。何かは知らぬが退屈払いして下さるとは
「言うなッ、ほざくなッ」
つつうと進み出ると、噛みつくように言ったのは
「広言申して、ならばおぬし、見事に十本射当てて見するかッ」
「身共かな」
「気取った物の言い方を致さるるなッ。射て見られいッ。見事射当てるならば射て見られいッ」
「所望とあらばあざやかなところ、見物させてとらそうぞ。あるじ! 弓持てい」
然るにそのあるじ英膳が奇怪でした。仲裁でもするかと思いのほかに、用意をしながらにやりにやりと薄気味わるく笑っているのです。ばかりではない。
「早乙女の御前。昔ながらのお手並、久方ぶりで存分に拝見致しまするでござります」
「なにッ」
「いえ、さ、早く御前様、お引き遊ばせと申しただけでござります。||いえ、ちょッとお待ちなされませ。陽が落ち切りましたか、急に暗うなりましたゆえ、
巧みに言葉を濁すと、あるじ英膳はついと身をそらしながら、灯の支度を始めました。まことに不審です。宿の表に
しかし、そのまに
いぶかりつつも主水之介は、さッと片肌はねてのけると、おもむろに手にしたは飾り重籐、
「お見事!」
冴え冴えとした声は英膳でした。
同時に
「まずざッとこんなものじゃ。五寸の的などに十本射通すがものはなかろうぞ。あるじ、的替えい」
「はっ」
寸を縮めてつけ替えたのは三寸。
エイ、ヒョウ、サッと射て放たれた矢は、同しくプツリとまた黒星でした。
「御見事、さすがにござります!」
「何の、他愛もない。今一度寸を縮めい」
「はっ。||的は二寸||」
サラリ、土壇近くの焔がゆらめいたかと見るまに、同じくプツリ黒星!
「天晴れにござります」
「まだ早い。事のついでじゃ。一条流秘芸の重ね
英膳、
ぐッと丹田に心気をこめて、狙い定まったか、射て放たれた矢は同しくプツリ、返す弓弦に二ノ矢をついだかと見るまに、今的中したその一ノ矢の矢筈の芯に、ヒョウと射て放たれた次のその矢が、ジャリジャリと音立てて突きささりました。
「お見事! お見事! 英膳、言葉もござりませぬ」
「左様のう。先ず今のこの重ね矢位ならば賞められてもよかろうぞ」
莞爾としながら静かにふりむくと、自若として
「どうじゃ見たか。スン台武士のお歴々。弓はこうスて射るものぞ。アハハハ。江戸旗本にはな、この早乙女主水之介のごとき弓達者が掃くほどおるわ。のちのちまでの語り草にせい」
途端!||不意です。
隊長らしいあのいち人が目配せもろ共さッと一同を引き具して主水之介の身辺近くに殺到すると、突然鋭く叫んで言いました。
「隠密じゃッ。隠密じゃッ。やはり江戸隠密に相違あるまい。素直に名乗れッ」
「なに!」
まことに意外とも意外な言葉です。主水之介はにったり微笑すると泰然として問い返しました。
「なぜじゃ。身共が江戸隠密とは何を以て申すのじゃ」
「今さら
「ほほう、左様であったか。あれなる若者、何かと
「言うなッ。言うなッ。まこと旗本ならばあのような
「ウフフフ、左様か左様か。笑止よ喃。あれまでもその方共には尾花の幽霊に映りおったか。あれはな、そら見い、この眉間疵よ。退屈致すと時折りこれが夜啼きを致すゆえ、疵供養にと寄進者の御越しを待ったのじゃ。慌てるばかりが能ではなかろうぞ。もそッと目の肥えるよう八ツ目鰻なとうんとたべい」
「申したなッ。ならばなにゆえ
「わッははは。さてさて慌てもの達よ喃。道理でうるさくあとをつけおったか。馬鹿者共めがッ。頭が高い! 控えおろうぞ!
「申すなッ、申すなッ。広言申すなッ。陪臣呼ばわりが片腹痛いわッ。われらは捕って押えるが役目じゃッ。申し開きはあとにせいッ。それッ各々! 御かかり召されッ」
だのに、今なお気味わるく不審なのはあの矢場主英膳です。敵か味方か、味方か敵か、おのが道場に今や血の雨が降らんとするのに、一向おどろいた
「ウフフフ。黒白構えか。なかなか味な戦法よ喃。何人じゃ。ひと、ふた、みい······、ほほう、こちらに抜き身が十人、
ズバリと叫んで、今こそまことに冴え冴えと冴えやかに冴えまさったあの眉間
「お願いでござります! 御前様! 早乙女のお殿様! お願いでござります! お願いでござります!」
声は誰でもない千種屋のあの青白く冷たい、
「お願いでござります! 夫が、夫が大変でござります。御力お貸し下されませ! お願いでござります!」
「······

「夫が、夫が、早乙女のお殿様へ早うお伝えせいと申しましたゆえ、おすがりに参ったのでござります。今、只今、宿の表で捕り方に囲まれ、その身も
「捕り方に囲まれおるとは、何としたことじゃ」
「かくしにかくしておりましたなれど、とうとう江戸隠密の
「よし、相分った! そなたが夫とは、あの客引きの若者じゃな」
「はい。三とせ前からついした縁が
「眉間傷が
右へ二人、左へ三人、行く手を塞いだ四五人に、あっさり揚心流当て身の拳あてて片づけながら道を開いておくと、
「女つづけッ」
にったり打ち笑みながら、さッと駈け出しました。やらじと、前、横、うしろから藩士の面々が
「者共ッ、きけッきけッ。同志の身が危ういときくからは、われらも素姓知らしてやろうわ。何をかくそう、この英膳も同じその隠密じゃッ。三とせ前からこうして矢場を開き、うぬら初め家中の者共の弓の対手となっていたは、みな御老中の命によって当藩の秘密嗅ぎ出すための計りごとじゃ。||御前! 早乙女の御前! あとは拙者がお引きうけ申したぞッ。あちらを早く! 同志を早く! ||者共ッ、一歩たりともそこ動かば、江戸で少しは人に知られた早矢の英膳が仕止め矢、ひとり残らずうぬらが
言いつつ、射て放ったはまことに早矢の達人らしく一
角を曲ると同時に、なるほど目を射ぬいたものは、そこの千種屋の前一帯に群がりたかる捕り方の大群でした。
街は暗い。
道も暗い。
いつしかしっとりと秋の宵が迫って、行く手は
「宿の若者! 助勢致してつかわすぞッ。||木ッ葉役人、下りませい! 下りませい! 直参旗本早乙女主水之介が将軍家のお手足たる身分柄を以て助勢に参ったのじゃ。わが手は即ち公儀のおん手、要らざる妨げ致すと、五十四郡が五郡四郡に減って行こうぞッ。道あけい!」
言葉の威嚇もすばらしかったが、
「三とせ越し上手によく化けおったな。怪我はないか」
「おッ······。ありがとうござります。ありがとうござります。実は、実は手前、御前と同じ江戸の······」
「言わいでもいい、妻女からあらましは今きいた。何ぞよ、何ぞよ。隠密に参った仔細はいかなることじゃ」
「居城修復と届け出して公儀御許しをうけたにかかわらず、その実密々に増築工事進めおりまする模様がござりましたゆえ、矢場主英膳どのと拙者の二人が御秘命蒙り、うまうまと、三年前から当城下に入り込みまして、苦心を重ね探りましたところ、石の巻に||」
始終を語り告げているその隙に乗じて、七八名の捕り手達がうしろから襲いかかろうとしたのを、
「身の程知らずがッ、この眉間傷、目に這入らぬかッ」
ぐっとふり向いて一喝しながら威嚇しておくと、自若としながらきき尋ねました。
「石の巻に何ぞ秘密でもあったか」
「秘密も秘密、公儀
「左様か、左様か、お手柄じゃ。では、先程身共を英膳の矢場へ案内していったのも、うるさくつきまとう藩士達を身共共々追っ払って、その間に動かぬ証拠突き止めようとしてのことか」
「は。その通りでござります。御前は手前等ごとき御見知りもござりますまいが、手前等英膳と二人には、江戸におりました頃からお
「よし、それにて
しかしかかって参れと促されても、三日月傷が邪魔になってそうたやすく行かれるわけがないのです。進んでは退き、尻ごみしては小者達がひしめきどよめきつつ構え直しているとき、タッ、タッ、タッと宵闇の向うから近づき迫って来たのは、まさしく蹄の音でした。知るや、どッと捕り方達の気勢があがりました。
「お目付じゃ。村沢様じゃ。お目付の村沢様お自ら出馬遊ばされましたぞッ。かかれッ。かかれッ。捕って押えろッ」
色めき立った声と共に、いかさま馬上せわしく駈け近づいて来たのは、七八人の
「捕ったかッ、捕ったかッ。||まごまご致しおるな。たかの知れた隠密ひとりふたり、手間どって何ごとじゃッ。早う召し捕れッ、手にあまらば斬ってすてろッ」
「·········」
「よッ。見馴れぬ素浪人の助勢があるな! 構わぬ! 構わぬ! そ奴もついでに斬ってすてろッ」
「控えい! 控えい! 素浪人とは誰に申すぞ。下りませい! 下りませい! 馬をすてい!」
きいて、ずいと進み出たのは主水之介です。
「無役ながらも千二百石頂戴の天下お直参じゃ!
「なにッ?」
お直参の一語に、ぎょッとなったらしいが、しかし馬はそのままでした。と見るや退屈男は、ついと身を泳がして、傍らの捕り手が
「みい、当藩目付とあらば少しは分別あろう。早う下知して捕り方退かせい」
「·········」
「まだ分らぬか。わからば元より、江戸大公儀
「申すなッ。隠密うける密事があらば格別、何のいわれもないのになにゆえまた謝罪するのじゃ。紊りに入国致した隠密ならば、たとい江戸大公儀の命うけた者とて、斬り棄て成敗勝手の筈じゃわッ。構わぬ、斬ってすてろッ」
「馬鹿者よ喃。まだ分らぬかッ。石の巻のあの不埒は何のための工事じゃ」
「えッ||」
「それみい、叩けばまだまだ埃が出る筈、この早乙女主水之介を鬼にするも仏にするも、その方の胸一つ出方一つじゃ。とくと考えて返答せい」
「·········」
「どうじゃ。それにしてもまだ斬ると申すか。主水之介眉間に傷はあるが、由緒も深い五十四郡にたって傷をつけるとは申さぬわッ。探るべき
「············」
ぐっと言葉につまって油汗をにじませながら打ち考えていたが、さすが老職年の功です。
「
「わッははは、そうあろう。そうあろう。素直に退かばこの隠密とても江戸者じゃ。血もあり涙もある上申致そうぞ。さすれば五十四郡も安泰じゃ。早う帰って江戸への謝罪の急使、追い仕立てるよう手配でもさっしゃい。||若者、旅姿してじゃな。身共もそろそろ退屈になりおった。秋の夜道も一興じゃ。ぶらりぶらり参ろうかい」
「は。何から何まで忝のうござります」
歩き出そうとしたのを、ふと、しかし退屈男は気がついて呼びとめました。
「まてッ。まてまて。妻女がそこに泣いてじゃ。いたわって江戸まで一緒に道中するよう、早う支度させい」
「いえ!」
泣き濡れていた面をあげながら、
「いえあの、わたくしはあとへのこります」
「なに? なぜじゃ。末始終離れまじと誓った筈なのに、そなたひとりがあとへ残るとは何としたのじゃ」
「誓って馴れ
「天晴れぞや。||俊二郎とやら、
そこへのっしのっしと来合わしたのは英膳です。
「おう。こちらも御無事で!」
「そちもか。英膳、悲しい別れをそちも泣いてつかわせ」
ひと目でことの仔細を知ったか、早矢の達人の目にも、キラリ露の