||その第九話です。
とうとう江戸へ帰りました。絲の切れた
江戸は
だが風が冷たい。||吹き出せば止むことを知らぬ江戸名物冬の
木枯が江戸の名物とすれば、それにも劣らぬ江戸名物の退屈男が久方ぶりに帰って来たのであるから、眉間の三日月傷でその顔を見知り越しの駕籠人足共が、わが駕籠に乗せているのを自慢顔に、しきりと景気よく怒鳴りながら走ったからとて不思議のないことでした。
「ほらよう。
「早乙女の御前様が御帰りじゃ。ほらよう。退いた! 退いた!」
走る。走る。||実に途方もなく大きな声で自慢しながら、威張って走るのです。だから、一緒に駕籠をつらねて走っている妹の菊路が、
「な! 京弥さま、京弥さま。うれしゅうござりまするな。ほんとうにうれしゅうござりまするな」
なぞと先ずうしろの駕籠の京弥によろしく先へ言っておいて、前の駕籠の兄へあとから呼びかけました。
「な! 御兄様! ほら、ごろうじませ! ごろうじませ! 灯が見えまする。江戸の灯が見え出しました。さぞかしおなつかしゅうござりましょう?」
「·········」
「な! お兄様!」
「·········」
「江戸の灯でござります。久方ぶりでござりますもの、さぞかしおなつかしゅうござりましょう」
「·········」
「お! お兄様!」
「·········」
「お兄様と申しますのに! な! ||お兄様!」
ところが当の御兄様は、生きているのか死んでいるのか、音なき風の如く更に声がないのです。
「もし! ······駕籠屋さん! 駕籠屋さん! 御兄様がどうかしたかも知れませぬ。ちょッと乗り物をお止め下さりませ」
「え?」
「呼んでも呼んでもお兄様の御返事がござりませぬ。どうぞなされたかも知れませぬゆえ、早う止めて、ちょっと御容子を見て下さりませ」
「殿様え! もし傷の御殿様え!」
少しうろたえて、ひょいと中をのぞくと、まことに、かくのごとく胆が坐っていたのでは
「ま! 子供のような寝顔を遊ばして、可愛いお顔! ||でも、つまらなそうでござりますな。どうしたら、わたくし達のようにうれしくなることでござりましょう。な! お兄様! お兄様!······」
呼んでみたとて恋もない独り者が恋のありすぎる二人者のように、そう造作なくうれしくなる筈はないのです。||そのまま駕籠は千
しかも、時刻はお誂え向の丁度宵下がり。
何ごとも知らないものの如く眠っていたかと思われたのに、その浄願寺角までやって来ると、俄然、カッと退屈男が息を吹き返した人のように、夢の国から放たれました。
「止めいッ。駕籠屋!」
「へ?」
「匂うて参った。身共はここで消えて失くなるぞ」
「何の匂いでござんす? 火事や江戸の名物だ。ジャンと来た奴なら今に始まッたこッちゃござんせぬ。年中
「匂い違いじゃ。吉原の
「ま! 変ったことばかりなさる御兄様! おひとりでは御寂しいゆえに御出かけ遊ばしますなら、わたくしがどのようにでも
「
「
「何ざます?」
「御大尽がもうさき程からやかましいことをおっしゃってお待ち兼ねですよ」
「いやらしい。そう言ってくんなんし。わちきにも
「ちえッ。のぼせていやがらあ」
聞いて、つッかけ草履の江戸ッ児がっているのが、うしろの連れをふりかえりながら
「きいたか。金の字! 真夫だとよ。あの御面相できいて呆れらあ。当節の女はつけ上がっていけねえよ」
その出会いがしらに、にょっきりとそこの町角から降って湧いたように姿を見せたは、傷の早乙女主水之介です。ちらりと認めてつッかけ草履がおどろいたように言いました。
「おい。金的! 見ねえ! 見ねえ!
「違げえねえ。相変らずのっしのっしと頼もしい恰好をしていらっしゃるな。京へ上ったとかエゾへ下ったとかいろいろの噂があったが、もう御帰りになったと見えるな。六月前までや毎晩ここでお目にかかった御殿様だ。急に五丁町が活気づいて来やがったね」
言う下から、あちらの街々、こちらの街々に、
「ま! 見なんし! 見なんし!
「どこに! どこに! ま!······」
「やっぱりすうっと胸のすくような傷痕をしてでござんすな。今宵からまたみなさん気の揉める方がお出来でありんしょう。||わちきも水がほしゅうなりました」
呼ぶ声、言う声、いずれもひそかな恋を隠した渇仰の声です。||また無理もない。旅に出る前までは、まる三カ年間、夜ごと宵々ごとに五丁町のこうしたそぞろ歩きを欠かしたことのない主水之介でした。その早乙女の退屈男が半年ぶりにふうわりとまた
しかし、当の主水之介は只黙々として、心の
覗くのでもない。
漫然として当もなく只ぶらぶらと灯影の下を縫って行くのです。||さながらにその心は、ひとりわびしくしみじみと旅情をでも味わっているかのようでした。いや、旅情です。まさしくそれは旅情です。人影もない知らない土地をぶらぶらするのもよい味のする旅情だが、ざわめく雑沓の人の中を、自分ひとりのけ者となりながら、当もなくぶらぶらと歩いて行くのも、悲しくわびしく何とはなしに甘やかしい涙がほろりと湧いて、実にいい味のする旅情です。||退屈男が何をおいても、先ず第一にこの吉原へやって来たのも、その寂しい旅情にしみじみと
京町、江戸町、揚屋町と、曲輪五丁町の隅から隅をぐるりと廻って、そうして久方ぶりに長割下水へ帰りついたのは、木枯に星のまばたく五ツ半······。
「ま! お早うござりました。御帰り遊ばしませ」
京弥と、兄主水之介の側にさえ居ったら、ほかにもう望みはないと言わぬばかりに、いそいそと迎えて手をついたのは妹菊路です。
「どうでござりました。吉原とやらは面白うござりましたか」
「それほどでもない。菊!」
「あい。何でござります」
「兄はまたどこぞ旅に出とうなった。江戸は思うたよりも寂しい。いや、思うたよりも退屈なところよな」
「ま! お声までが悲しそうに! ||どうしたらよいのでござりましょう。どうしたら、どうしたらそれがお
言っているとき、
「お願いでごぜえます! お開け下さいまし! 早乙女のお殿様が御帰りときいて駈けつけました者でごぜえます! おあけ下せえまし! お願いでござります! お願いでござります!」
「京弥! 京弥!」
きくや同時に退屈男の声は、俄然冴え渡りました。冴えたも当然、帰って来たほんのすぐからもう退屈の虫が
「京弥! 京弥! うろたえた声が表に致すぞ。何ぞ火急の用ある者と見える。
「はッ。只今もう開けに参りましたようでござります」
事実もう出ていったと見えて、程たたぬまに庭先へ導かれて来たのは、
「ほほう。見たことも会うたこともない者共よ喃。苦しゅうないぞ、縁へ上がって楽にせい」
「いえ、もう、御殿様に御目通りさえ叶いますれば結構でござります。ようよう御会い申すことが出来まして、ほッと致しました。御庭先でも勿体ない位でござります」
容子ありげな町奴の不審な言葉に、退屈男の向う傷はピカリと光りました。
「異な事を申す奴よ喃。先程も表で怒鳴ったのをきけば、身共が帰って参ったと知ったゆえ駈けつけて来たとやら申しておったが、何ぞ用でもあって待っておったか」
「お待ち申していた段じゃござんせぬ。江戸へ御帰りなれば何をおいても吉原へお越し遊ばすだろうと存じまして、今日はおいでか明日はお越しかと、もうこの半月あまり、毎夜々々五丁町で御待ち申していたんでごぜえます。今晩もこちらのお絹さんと、||こちらはあッしの知り合いの
「毎夜吉原で待っておったとは、ききずてならぬ事を申す奴よ喃。飛び立つ思いで願いに参ったとやら申す仔細は一体どんなことじゃ」
「どうもこうもござんせぬ。あッし共
「なに! 主水之介の力が借りたいとのう。ほほう、左様か。相変らず江戸はちと泰平すぎて、
「万更どころじゃねえんですよ。あッしゃいってえお殿様が黙ってこの江戸を売ったッてえことが気に入らねえんです。御免なせえましよ。お初にお目にかかって、ガラッ八のことを申しあげて相済みませんが、こいつアあッしの気性だから、どうぞ御勘弁下せえまし、そもそもを言やア御殿様は、傷の御前で名を御売り遊ばした江戸の御名物でいらッしゃるんだ。その江戸名物のお殿様が、御自身はどういう御気持でのことか知らねえが、あッしとら殿様贔屓の江戸ッ児に何のひとことも御言葉を残さねえで、ぶらりとどこかへお姿を消してしまうなんてえことが、でえ一よくねえんですよ。何を言っても江戸は日本一御繁昌の御膝元なんだからね。こちらに御
「ウフフ。あけすけと歯に
「では、真平御免下せえまし。こうなりゃあッしもお殿様にその眉間傷を眺め眺め申し上げねえと、
「奪られたと言うのは、他に隠し女でも出来て、その者に寝奪られたとでも申すか」
「どう仕りまして、そんな生やさしい色恋の出入りだったら、
「なるほどなるほど、何の町道場じゃ」
「槍でござんす。何でも
「何の職人じゃ」
「最初に井戸掘り人夫を十四人ばかりと、あとから大工が八人、その
「帰らぬと申すか」
「そうなんでごぜえます。いくつ井戸を掘らしたのか知らねえが、十四人からの人夫がかかれば三日に一つは大丈夫なんですからね。それだのに行ったきりと言うのもおかしいが、通い職人がまた泊り込みでひとりも帰らず、四十日近くもこちら井戸ばかり掘っているというのも
「あったか! 何ぞそれらしい証拠があったか!」
「あったどころか、どうも容易ならんことを耳に入れたんですよ。どんな抜け穴を掘ったか知らねえが、仕事が出来上がってしまってから、人夫を並べておいてやっぱり首を刎ね出したんでね、そのうちのひとりが怖くなって逃げ出したと言うんです。しかし逃げられちゃ道場の方でも大変だから、内門弟を六人もあとから追っかけさせて、とうとう首にしたとこう言うんですよ。だから、こちらのお絹さんもすっかり慌てておしまいなすったんです。井戸掘り人夫がそんなことになったとすりゃ、勿論棟梁達も無事で帰ることはむずかしかろうと大変な御心配で、あっしごとき者をもたったひとりの力と頼りにしておくんなせえましたんですが、悲しいことには向うは兎も角も道場の
「なるほど喃。話の模様から察するに、いかさま何ぞ曰くがありそうな道場じゃ。いや、この塩梅ならばなかなかどうして、江戸もずんと面白そうじゃわい。では何じゃな、源七とやら申す棟梁は、いまだに止め置きになっておるが、まだ首は満足につながっておると申すのじゃな」
「そうなんでごぜえます。殿様がお帰り遊ばさねえうちに、バッサリとやられてしまったんじゃ、折角お待ち申してもその甲斐がねえと存じましたんで、毎日々々気を揉みながらこっそり乾児共を容子探りにやっておりましたんですが、今日もトントンカチカチと金槌の音がしておったと申しましたゆえ、大工の方は仕事が片付かねえ模様なんです」
「ならば乗り込み甲斐があると申すものじゃ。今からすぐにでも参ろうが、道場の方はどんな容子ぞ」
「今夜だったら願ったり叶ったりでごぜえます。今頃丁度済んだか済まない頃と存じますが、何の試合か宵試合がごぜえましてね、済んでから門弟共残らず集めて祝い酒かなんかを振舞うという話でごぜえましたから、その
「面白い! 門弟残らずが集っておるとあらば、傷供養もずんと
ずいと大刀引き寄せながら、呼び招いたのは愛妹菊路の思い人京弥でした。
「そちも聞いたであろう。退屈払いが天から降って参った。吉原へも挨拶に参るものよ喃。そちらの雲行はどんな容子ぞ」
「は?」
「分らぬか。二人者はこういう折に兎角手数がかかってならぬと申すのじゃ。許しがあらばそちにも肝馴らしさせて得さするが、菊の雲行はどんなぞよ」
「またそのような御戯談ばッかり。菊どのもお聞きなさいまして、只今とくと手前に申されましてござります。御兄様の御気が
「ウフフ。陰にこもったことを申しておるな。怪我をせぬように、御無事で帰るようにとは、ほんのりとキナ臭い匂いが致して、兄ながら只ではききずてならぬ申し条じゃ。では、

すっくと立ち上がったのを、
「いえ、あの、ちょッとお待ち下せえまし」
慌てて何か不安げに呼びとめたのは峠なしの権次でした。
「御出かけ遊ばしますのは、御二人きりなんでごぜえますか」
「元よりそちも一緒じゃ。今になって
「どう仕りまして。ここらが峠なしの権次、命の棄て頃と存じますゆえ、一緒に来るなとおっしゃいましても露払いに参る覚悟でごぜえますが、三人きりでは少うし||」
「少し何じゃ。門弟共の数でもが多いゆえ、三人きりでは人手不足じゃと申すか」
「いいえ、弟子や門人達なら、三十人おろうと五十人おろうと、殿様のその眉間傷が一つあったら結構でごぜえますが、道場主番五郎のうしろ
「ほほう、番五郎の黒幕にまだそのような
「勿論御名を申しあげたら御存じでごぜえましょうが、いつぞや大阪御城の
「なに! 竜造寺殿が糸を引いておるとのう。これはまた意外な人の名が出たものじゃな。どうしてまたそれが相分った。何ぞたしかな証拠があるか」
「証拠はねえんです。あったらまた御上でも棄てちゃおきますまいが、
「いかさま喃。竜造寺殿が蔭におるとはちと大物じゃな」
主水之介の面は、キリキリと俄かに引き締まりました。無理もない。話のその竜造寺長門守こそは、実に、人も知る戦国の頃のあの名将竜造寺家の流れを汲んだ、当時問題の人だったからです。城持ちの諸侯ではなかったが、名将の血を
「
「いかがでござります。道場に、どんなカラクリがあるか知らねえが、本当に、竜造寺のお殿様が黒幕にいらっしゃるとするなら、こいつも只の騒動じゃあるめえと存じますゆえ、万ガ一の場合の御用意に、二人三人御朋輩の御旗本衆をでも御連れなすった方がいいと思うんでごぜえます。およろしくばどこへなと御使いに参りますがいかがでごぜえます」
不安げに峠なしの権次が言ったのを、
「いや、参ろうぞ。参ろうぞ、独りで参ろうぞ。竜造寺長門守骨ある名物男ならば、早乙女主水之介の骨も一枚アバラのつもりじゃ。助太刀頼んで乗り込んだとあらば眉間傷が悲しがろうわ。京弥!」
颯爽として立ち上がると、時を移さずに命じました。
「このまにも手遅れとなってはならぬ。早う急ぎの乗物用意せい」
||長割下水のあたり、しんしんと
目ざした鼠屋横丁に乗りつけたのはかっきり四ツ||。
角に乗り物を待たしておいて、武者窓下へ近づいて見ると、なるほど峠なしの権次の言った通り、ちらちらと表へ灯りが洩れて、道場内では話のその宵試合が終ったあとの祝い酒が丁度始まったらしい容子なのです。
「ウフフ。安い酒がそろそろ廻り出した模様じゃな。傷もむずむずとむず
「いえ、その方ならば大丈夫でごぜえます。ほら、あれを御聞きなせえまし、
権次の言葉に耳を澄まして見ると、いかさましんしんと冴え渡る夜気を透して、
「首のない者が夜業も致すまい。では、久方ぶりに篠崎流の軍学小出しに致して、ゆっくり化物屋敷の正体見届けてつかわそうぞ。
「心得ました。||ひとり二人三人五人、十人十三人十六人、すべてで十九人程でござります」
「番五郎はどんなぞ? 一緒にとぐろを巻いているようか」
「それが手前にはよく分りませぬ。真中にふたり程腕の立ちそうなのが坐っておることはおりますが、どちらがどれやら、権次どの、そなた顔を覚えておいでの筈じゃ。ちょっと覗いて見て下さりませ」
「ようがす。しかと見届けましょう。||いえ、あいつらはどちらも釜淵の野郎じゃござんせぬ。恐らく番五郎めは奥で妾と一緒に
「ほほう、左様か。面倒な奴は先ず二人じゃな。どれどれ、事のついでにどの位出来そうか星をつけておいてつかわそう。||なるほど喃。右は眼の配り、体の構え先ず先ず京弥と五分太刀どころかな。左の吉田兵助とやらは少し落ちるようじゃ。では、一幕書いてやろうわい、京弥」
「はッ」
「もそっと耳を寄せい」
「何でござります?」
「そのように近づけいでもいい。のう、よいか。事の第一はこれなる化物道場のカラクリ
「心得ました。久方ぶりでの道場荒し、では思いのままに門人共を稽古台に致しまするでござります」
ほんのりと両頬に上気させて、
「頼もう。頼もう。物申す」
大振袖に揚心流小太刀の名手の恐るべき腕前をかくして、殊のほか白ばくれながら訪ないました。
「槍術指南の表看板只今通りすがりに御見かけ申して推参仕った。夜中御大儀ながら是非にも釜淵先生に一手御立会い所望でござる。御取次ぎ下さりませい」
「何じゃと、何じゃと、他流試合御所望でござるとな。このような夜ふけに参られたとはよくよく武道御熱心の御仁と見えますな。只今御取次ぎ仕る」
のっしのっしとやって来て、ひょいと見眺めるや対手は、この上もなく意外だったに違いない。そこに
「わはは。何じゃい何じゃい。今愉快の最中じゃ。当道場には
「お控え召されよ!」
見くびりながら取り合おうともしないで引返そうとしたのを、凛と一語鋭く呼びとめると、さすがに京弥、傷の早乙女主水之介がこれならばと見込んで、愛妹菊路に与えただけのものはあるつぶ選りの美少年です。
「武芸十八般いずれのうちにも、小姓ならば立会い無用との流儀はござらぬ筈じゃ。是非にも一手所望でござる。早々にお取次ぎ召されい」
「なに! 黄ろい奴が黄ろいことをほざいたな。
「元より覚悟の前でござる。手前の振袖小太刀も
「ぬかしたな。ようし。案内しょうぞ。参らッしゃい。||各々、みい! みい! 世の中にはずい分とのぼせ性の奴がいる者じゃ。この
「面白い。武芸自慢の螢小姓やも知れぬ。あとあと役に立たぬよう、股のあたりへ一本、変ったタンポ槍を見舞ってやるのも一興じゃ。杉山、杉山! 貴公稚児いじりは得意じゃろう。立ち合って見さッせい」
「慌て召さるな」
静かに制して京弥殊のほかに落ちついているのです。
「手前の
さッと身を引いて六寸八分南蛮鉄の只一本に、九尺柄タンポ槍の敵の得物をぴたりと片手正眼に受けとめたあざやかさ! ||
「胴なり一本ッ。お次はどなたじゃ」
「稚児の剣法、味をやるなッ。よしッ。俺が行くッ」
怒って入れ替りながら挑みかかったのは、先程取次に出て来た名もない門人でした。
「ちと荒ッぽいぞッ。どうじゃッ。小わっぱ、これでもかッ」
力まかせに繰り出して来たのを、軽く払って同じ脾腹にダッと一撃!
「いかがでござる。お次はどなたじゃ」
涼しい声で言いながら、
「いい男振りだ。おどろきましたね」
武者窓の外からそれを見眺めて、悉く舌を巻きながら感に絶えたように主水之介に囁いたのは、峠なしの権次です。
「あれ程お出来とは存じませんでしたよ。まるで赤児の手をねじるようなものじゃござんせんか。いい男振りだ。実にいい男前だね。前髪がふっさり揺れて、ぞッと身のうちが熱くなるようですよ」
「ウフフ。そちも惚れたか」
「娘があったら、無理矢理お小間使いにでも差しあげてえ位ですよ」
「ところがもう先約ずみで喃。お気の毒じゃが妹菊めが
いかさまその言葉のごとく、三人目もすでに脾腹の一撃に出会って、手もなくそこへのけぞったところでした。四人目も元より一撃。疲労の色も見せずに、
「味な稚児ッ小僧じゃ。貴様道場荒しじゃなッ。拙者が釜淵流の奥義を見せてやる。得物はこれじゃ。来いッ」
ぴいんと
「大丈夫でごぜえましょうか。野郎なかなか出来そうですぜ。もしかの事があったらお嬢様に申し訳がねえんです。そろそろお出ましになったらどうでごぜえます」
「ウフフ。左様のう||」
だが退屈男は、別段に騒ぐ色もなく静かに打ち笑って見守ったままでした。いや、それ以上に落付き払っていたものは当の京弥です。さぞかしおどろくかと思いのほかに、ちらりと
「少しお出来じゃな。胴、小手、面、お望みのところに参る。いずれが御所望じゃ」
言いつつ、穂先五寸のあたりへぴたりと鉄扇をつけたままで、一呼一吸、さながらそこに咲き出た美しい花のごとくに突ッ立ちながら、じいッと気合を計っていたかと見えたが、刹那!
「小手へ参りまするぞッ」
涼しく凛とした声が散ったかと思うや、早かった。ガラリ、兵助は手にせる真槍を叩きおとされて、片手突きの当て身に脾腹を襲われながら、すでにそこへのけぞっていたところでした。||しかし、殆んどそれと同時です。
「小わッぱ、やったなッ。代りが行くぞッ」
突如、門人溜りの中から、気合の利いた怒声が爆発したかと思われるや一緒に、兵助が叩き落された真槍素早く拾い取って、さッと不意に、横から襲いかかったのは師範代
「よッ。表に怪しき者がいるぞッ! 捕えい! 捕えい! 引ッ捕えい!」
下知の声と共に総立ちとなりながら、門人一統が
「揃うて出迎い御苦労じゃ。ウッフフ。揉み合って参らば頭打ち致そうぞ。||京弥、危ないところであった喃」
「はッ。少しばかり||」
「ひと足目つぶしが遅れて怪我をさせたら、菊めに兄弟の縁切られるところであったわい。もうよかろう。ゆるゆるそちらで見物せい。門太!」
「なにッ」
「名前を存じおるゆえぎょッと致したようじゃな。わッはは。左様に慄えずともよい。先ずとっくりとこの眉間傷をみい。大阪者では知るまいが、この春京まで参ったゆえ、噂位にはきいた筈じゃ。
「能書き言うなッ。うぬも道場荒しの仲間かッ」
「左様、ちとこの道場に用があるのでな、ぜびにも暫く頂戴せねばならぬのじゃ。こういうことは早い方がよい。あっさり眠らしてつかわすぞ」
京弥の手から鉄扇受け取って、殆んど無造作のごとくにずいずいと穂先の下をくぐりながらつけ入ると、ダッとひと突き、本当にあっさりと言葉の通りでした。見眺めて門人達が一斉に
「京弥! 始末せい。用のあるのは釜淵番五郎じゃ。奥にでもおるのであろう。あとから参れよ」
ずかずかと襲い入ろうとしたとき、
「来るには及ばぬ。用とあらば出て行くわッ。何しに参った! うぬが早乙女主水之介かッ」
不意に、錆のある太い声で罵りながら、ぬッとその奥から姿を見せたのは道場主釜淵番五郎です。
「ほほう、さすがはそちじゃ。身共を早乙女主水之介と看破ったはなかなか天晴れぞ。名が分ったとあらば用向きも改まって申すに及ぶまい。あの男を見れば万事分る筈じゃ。||権次! 権次! 峠なしの権次!」
「めえります! めえります! 只今めえります! ||やい! ざまアみろい! 一番手は京弥様。二ノ陣は傷の御前、
「そうか! うぬが御先棒か! それで何もかも容子が読めたわ。あの大工がほしいと言うのか。ようし。ではこちらも泡を吹かしてやろうわッ。||殿! 殿!」
さぞかし驚くだろうと思われたのに、番五郎の方でも用意の献立てが出来ていたと見えて、にったりと嘲笑うと、不意に奥の座敷へ
「殿! 殿! やっぱり察しの通りでござりました。後押しの奴も
「よし、参る」
静かに応じて騒ぐ色もなく悠然とそこへ姿を見せたのは誰でもない。これぞ問題の人竜造寺長門守です。しかも長門、犯信ゆえに栄誉ある大阪城代の職を

引きとって退屈男また莞爾たり!
そうしてあとがたまらなかった。片やは横紙破りの風雲児、片やはまた江戸名物の退屈男と、両々劣らぬ大立者同士のその応対が実にたまらなかったのです。
「ウフフ。そちが早乙女主水之介か」
「わッはは。お身が竜造寺どのでござったか」
「珍しい対面よ
「いかにも」
「対手がそなたならば早いがよい。用は何じゃ」
「御身の謎を解きにじゃ」
「面白い! 長門の返答はこれじゃ。受けてみい!」
やにわにたぐりとってさッと繰り出したのは長槍でした。しかし、対手は傷の早乙女主水之介です。自若としながら莞爾として穂先を
「竜造寺長門と言われた御身も、近頃
「なにッ。では、どうあっても長門の秘密、嗅ぎ出さずば帰らぬと申すか!」
「元よりじゃ。横紙破りのお身が黒幕にかくれて、これだけの怪事企むからには、よもや只の酔狂ではござるまい。槍ならばこの眉間傷、胆力ならば身共も胆力、名家竜造寺の系図を以て御対手召さらば、早乙女主水之介も三河ながらの御直参を以て御手向い申すぞ。御返答いかがじゃ」
「ふうむ、そうか。さすがにそなただけのことはある喃。その言葉竜造寺長門、気に入った。よし。申してつかわそう。みなこれ天下のためじゃわ」
「なに! 何と申さるる! 近頃奇怪な申し条じゃ。承わろうぞ! 承わろうぞ! その仔細主水之介しかと承わろうぞ! 怪しき道場を構えさせ、怪しき武芸者を使うて人夫共の首斬る御政道がどこにござるか」
「ここにあるゆえ仕方がないわ。びっくり致すな。井戸掘人夫を[#「井戸掘人夫を」は底本では「井戸堀人夫を」]入れて掘らしたは
「なになに! 隆光とな! 護持院の隆光でござるとな! ||」
あまりの意外に主水之介の面にはさッと血の色が湧きのぼりました。当り前です。はしなくも竜造寺長門守が口にしたその護持院隆光とは、怪しき
「意外じゃ! 意外じゃ、実に意外じゃ。いやさすがは長門守どの、
「何じゃ」
「隆光はいかにも棄ておき難い奴でござる。なれども、これを亡き者と致すにかような怪しきカラクリ設けるには及びますまいぞ。何とてこのような道場構えられた」
「知れたこと、悪僧ながら彼奴は大僧正の位ある奴じゃ。ましてや上様御祈願所を支配致す
「ウフフ。あはは! 竜造寺どの、お身も愈々
「なにッ。笑うとは何じゃ。秘密あかした上からは、早乙女主水之介とて容赦せぬ。出様次第によってはこのまま生かして帰しませぬぞ」
「ウフフ。また槍でござるか。生かして帰さぬとあらば主水之介、傷に物を言わせて生きて帰るまでじゃが、隆光を憎しみなさるはよいとして、罪なき人夫を首にするとは何のことぞ。さればこそ、竜造寺長門守も耄碌召さったと申すのじゃ。いかがでござる。言いわけおありか」
「のうて何とするか! 隆光が献策致せし生類憐れみの令ゆえに命を奪られた者は数限りがないわ。京都叡山、天台の座首も御言いじゃ。護持院隆光こそは許し難き仏敵じゃ。彼を生かしておくは仏の教を誤る者じゃと仰せあったわ。さるゆえ竜造寺長門、これを
「控えませい!」
「なにッ」
「十人二十人生贄にする位当り前とは何を申されるぞ。悪を懲らすに悪を以てするとは下々の下じゃ。隆光いち人斃すの要あらば正々堂々とその事、上様に上申したらよろしかろうぞ。主水之介ならばそのような
「·········」
「身共の一語ぐッと胸にこたえたと見えますな。そうでござろう。いや、そうのうてはならぬ。男子、事に当ってはつねに正々堂々、よしや悪を懲らすにしても女々しき
「·········」
「いかがでござる!」
「·········」
「主水之介は、かような女々しき、奸策は大嫌いじゃ。今なお槍をお持ちじゃが、まだ横車押されると申さるるか! いかがでござる!」
「·········」
「いかがじゃ! 返答いかがでござる」
「いや、悪かった。面目ない。許せ許せ」
さすがに長門守、一個の人物でした。ガラリ槍を投げすてると、悄然としながらうしろを見せてとぼとぼと歩み出しました。見眺めて主水之介、それ以上にうれしい男です。
「お分りか。なによりでござる。お帰りならばどうぞあれへ。むさくるしいが身共の駕籠が用意してござる。京弥! 御案内申しあげい。権次! 権次!」
案内させておくと峠なしの権次に命じました。
「棟梁共もさぞかし喜ぼうぞ。早う救い出して宿帰りさせい」
「心得ました。ざまアみろい」
脱兎のごとくに走り去ったのを見送りながら、突如、
「武道を
同時に番五郎の右腕はすさまじい鉄扇のその一撃をうけて、ボキリと不気味な音を立てながら二つに折れました。
「わッはは、こうしておかば当分槍も使えぬと申すものじゃ。元通りに
快然として打ち笑いながら、夜ふけの江戸の木枯荒れる闇の中に消え去りました。