自分は今春日の山路に立つてゐる。路の両側には数知れぬ大木が聳え立つて、枝と枝との絡みあつたなかには、闊葉細葉がこんもりと繁つて、たまたまその下蔭を往く山番の男達が、昼過ぎの空合を見ようとしたところで、雲の影ひとつ見つけるのは、容易な事では無い。何といつても、承和の帝から
大なるかな、春日の森。海原をつくり、焔の山をつくり、
大杉のひとつがいふ。
「余りに高くなり過ぎて、どうにも心寂しくてならない。それにあの雲の襞がうるさい。電光など落ちて来るといいのに。」
若い馬酔木がいふ。
「背低なのも厭になつた。土の香が鼻につき過ぎる。きのふを忘れる術は無いものか知ら。」
老樹の櫟がつぶやく。
「生命にも少し飽きたやうだ。鷲はどこへ往つたか知ら。良弁を落したままで、未だに帰つて来ない。待つてゐる間に千年の夏は経つてしまつた。余り短い月日でも無かつたやうだ。」
竹柏がまたいふ。
「何だか言語が欲しくなつて来やうだ。」
空には雲も薄らいで、そろそろ天気が直つて来たらしい。初夏の気力に満ちた白い光が一筋さつと黒ずんだ竹柏の枝を洩れて、花やかに樹々の幹に落ちる。すると、鳶色がかつた樅や、白味の勝つた櫟や、干割れた竹柏の樹の肌が、陰鬱な森の空気にくつきりと浮き上つて、さながら古寺の内陣で、手燭の火影に、名匠の刻んだ十二神将の背でも見るやうに、引き緊つた健かな気持で眺められる。
ふと、女の吐息するやうなけはひがして、ほろほろと頸に落ちかかるものがある。
手に取つて見ると、萎びかかつた藤の花らしい。さては奈良には、皐月も半ばを過ぎた今日この頃、いまだにこの紫の花が咲き残つてゐる事か。見あげると、太い杉の木かげに、すくすくと伸びあがつた古い藤蔓が、さながら女の取り乱したやうに茎を垂れ、葉を垂れて、細長い腕を離れじとばかり