まず、いろいろの話をする前に、前提として私の父祖のこと、つまり、私の家のことを
概略話します。
私の父は
中島兼松といいました。その三代前は因州侯の藩中で中島
重左エ
門と名乗った男。
悴に
同苗長兵衛というものがあって、これが先代からの遺伝と申すか、大層
美事な
髯をもっておった人物であったから、世間から「髯の長兵衛」と
綽名されていたという。その長兵衛の子の中島
富五郎になって
私の家は全くの
町人となりました。
富五郎の子が兼松、これが私の父であります。父の家は随分と貧乏でありました。これは父が道楽をしたためとか、心掛けが悪かったとかいうことからではありません。全く
心柄ではないので、父の兼松は九歳の時から
身体の悪い父親の一家を
背負って立って、扶養の義務を尽くさねばならない
羽目になったので、そのためとうとうこれという
極まった職業を得ることも出来ずじまいになったのであります。父としては
種々の希望もあったことでありましょうが、つまり幼年の時から一家の犠牲となって生活に追われたために、習い覚えるはずのことも事情が許さず、取り
纏まったものにならなかったことでありました。
祖父に当る富五郎は
八丁堀に
鰻屋をしていたこともありました。その
頃は遊芸が流行で、その
中にも
富本全盛時代で、江戸市中一般にこれが大流行で、富五郎もその道にはなかなか
堪能でありましたが、わけて総領娘は大層
上手でありました。
父娘とも芸事が好き上手であったから自然その道の方へ熱心になり、娘は十か十一の時、もう諸方の御得意から招かれて、行く末は
一廉の富本の名人になろうと評判された位でありました。親の富五郎も鼻高々で楽しんでおりましたが、ふと、或る年悪性の
疱瘡に
罹って
亡くなってしまいました。そのため富五郎は
悉皆気を落としてしまい、気の狭い話だが、
自暴を起して、商売の方は打っちゃらかして、諸方の
部屋へ行って銀張りの
博奕などをして
遊人の仲間入りをするというような始末になって、家道は段々と衰えて行ったのでありました。
しかし、この富五郎という人は
極気受けの
好い人で、大層世間からは可愛がられたといいます。やがて、家業を変えて
肴屋を始め、
神田、
大門通りのあたりを得意に如才なく働いたこともありますが、江戸の大火に
逢って着のみ着のままになり、流れて
浅草の
花川戸へ行き、
其所でまた肴屋を初めたのでありました。
花川戸の方も、
所柄、なかなか富本が
流行りまして、
素人の
天狗連が申し合せ、高座をこしらえて富本を語って大勢の人に聞かせている(素人が集まって語り合うことをおさらいという。これに月さらい、大さらいとある)。根が好きでもあり、上手でもあった富五郎がこの連中へ仲間入りをしたことは
道理な話
······ところが富五郎が高座に出ると、大層評判がよろしく、「肴屋の富さんが出るなら聞きに行こう」というようなわけでした。このおさらいは
下手な者が先に語る。多少上手な者が
後で語るのが通例である。そのため聴衆は先に語る人に悪口をいう。下手な人が高座に上がると、「貴様なぞは早く語って降りてしまえ、富さんの出るのが遅くなるぞ」など騒ぎました。すると、その連中の中に、この事を
口惜しがり、富五郎の芸を
嫉むものがあって、
私に
湯呑の中に水銀を
容れて富五郎に飲ませたものがあったのです。そこは素人の悲しさに、湯くみがない。湯くみは友達が替わり合ってしたのですから、意趣を持った男はその
隙に悪いことをしたのと見える(本職の
太夫は、他人には湯はくませはしない。皆門人を使うことになっている)。富五郎はその晩から恐ろしく
吃逆が出て、どうしても
留まらない。
身体も変な
工合になって行きました。
すると、それを見たお
華客先の大門通りの薬種屋の主人が、「これあいけない、富五郎さん、お前さんは
水銀にやられたのだ、早速手当てをしなければ
······」というので、その主人は一通りの薬剤のことには詳しかったので、
解剤をもって手当てをしました。すると、ようやく吃逆は直りましたが、声は全く立たなくなる。身体は
利かなくなる。まるで
中気のような工合になって、ヨイヨイになってしまいました。
この時はちょうど私の父の兼松が九歳の時であります。九歳の時から一家扶養の任に当って立ち働かねばならない羽目になったというのはこれからで、その上弟が二人、妹が一人、九ツや十の子供には実に容易ならぬ負担でありました。
こういう風の一家の事情
故、その
暫く前から奉公に出ていた袋物屋を暇取って兼松は
家へ帰って来ました。家へ帰って来はしたものの、どうして
好いか、十歳にも足らぬ子供の
智慧にはどうしようもない。けれど、
小供心に考えて、父富五郎は体こそ利かぬようになったが、手先はまことに器用な人であったから、「お
父さん、何か
拵えておくれ、
私が売って見るから」というので、子供ながら手伝い、或る
玩具を
製え、それを
小風呂敷に包んで縁日へ出て売り初めたのです。
その
おもちゃというのは、今では見掛けもしませんが、薄い板を台にして、それに小さな
梯子が掛かり、梯子の上で、
人形の火消しが
鳶口などを振り上げたり、火の見をしていたりしている形であります。それがチョット思いつきで人目を
惹き、子供が非常にほしがるので、相当商売になりました。で、
細々ながら、まずどうにかやって行く
······その内、縁日の商いの道が分るにつけ、いろいろまた親子で工夫をして、一生懸命に働いては、大勢の一家を子供の腕一本でやって行きました。
こういう有様であるから、とても
普通の小供のように一通りの職業を習得するは思いも寄らず、
糊口をすることが
関の
山でありました。その
中、兼松も段々人となり、妻をも迎えましたが
相更らず親をば大切にして、孝行
息子というので名が通りました。それは全く感心なもので、お湯へ行くにも父親を
背負って行く。頭を
剃って上げる。食べたいというものを無理をしても買って食べさせるという風で、兼松の一生はほとんどすべてを父親のために奉仕し尽くしたといってもよろしいほどで、まことに気の毒な人でありました。けれども当人は至極元気で、愚痴一ついわず、さっぱりとしたものでありました。
私の母は、埼玉県
下高野村の東大寺という
修験の家の出であります。その家の姓は
菅原。
道補という人の次女で、名を
増といいました。こうした家柄に育てられた増は相当の教育を受け、和歌の道、書道のことなどにも暗からぬほどに仕附けられておりましたので、まず父の兼松には不相応なほど出来た婦人であった。察するに、増は、兼松の境遇に同情し、充分の好意をもって妻となったのであったと思われます。兼松には先妻があり、それが不縁となって一人の男子もあった(これが私の兄で
巳之助という大工で、
今年七十八歳、
信心者で毎日神仏へのお
詣りを勤めのようにしております。今は
日本橋浜町の娘の所で、達者で安楽にしている)。その中へ、自ら進んで来てくれて、夫のため、
舅のために一生を尽くした事は、私どもに取っても感謝に余ることである。
祖父富五郎はちょうど私が十二歳で師匠の家に
弟子入りした年、文久三年七十二歳の高齢で
歿しました。
また私の父兼松は明治三十二年八十二歳にて歿し、母は明治十七年七十歳にて亡くなりました。