はるばると海を越えて、この島に着いたときの私の憂愁を思い給え。夜なのか昼なのか、島は深い霧に包まれて眠っていた。私は眼をしばたたいて、島の全貌を見すかそうと努めたのである。裸の大きい岩が急な
私は岩山の岸に沿うてよろよろと歩いた。あやしい呼び声がときどき聞える。さほど遠くからでもない。
私は島の単調さに驚いた。歩いても歩いても、こつこつの固い道である。右手は岩山であって、すぐ左手には粗い
道のつきるところまで歩こう。言うすべもない混乱と疲労から、なにものも恐れぬ勇気を得ていたのである。
ものの半里も歩いたろうか。私は、再びもとの出発点に立っていた。私は道が岩山をぐるっとめぐってついてあるのを了解した。おそらく、私はおなじ道を二度ほどめぐったにちがいない。私は島が思いのほかに小さいのを知った。
霧は次第にうすらぎ、山のいただきが私のすぐ額のうえにのしかかって見えだした。
私はこの荒涼の風景を眺めて、
私は、いくぶんすがすがしい気持になって、山をよじ登ったのである。見た眼には、けわしそうでもあるが、こうして登ってみると、きちんきちんと足だまりができていて、さほど難渋でない。とうとう滝口にまで這いのぼった。
ここには朝日がまっすぐに当り、なごやかな風さえ頬に感ぜられるのだ。私は樫に似た木の傍へ行って、腰をおろした。これは、ほんとうに樫であろうか、それとも
ふぶきのこえ
われをよぶ
風の音であろう。私はするするのぼり始めた。われをよぶ
とらわれの
われをよぶ
気疲れがひどいと、さまざまな歌声がきこえるものだ。私は梢にまで達した。梢の枯枝を二三度ばさばさゆすぶってみた。われをよぶ
いのちともしき
われをよぶ
足だまりにしていた枯枝がぽきっと折れた。不覚にも私は、ずるずる幹づたいに滑り落ちた。われをよぶ
「折ったな。」
その声を、つい頭の上で、はっきり聞いた。私は幹にすがって立ちあがり、うつろな眼で声のありかを捜したのである。ああ。
「降りて来い。枝を折ったのはおれだ。」
「それは、おれの木だ。」
崖を降りつくした彼は、そう答えて滝口のほうへ歩いて来た。私は身構えた。彼はまぶしそうに額へたくさんの
「おかしいか。」
「おかしい。」彼は言った。「海を渡って来たろう。」
「うん。」私は滝口からもくもく湧いて出る波の模様を眺めながらうなずいた。せま苦しい箱の中で過したながい旅路を回想したのである。
「なんだか知れぬが、おおきい海を。」
「うん。」また、うなずいてやった。
「やっぱり、おれと同じだ。」
彼はそう
「ふるさとが同じなのさ。一目、見ると判る。おれたちの国のものは、みんな耳が光っているのだよ。」
彼は私の耳を強くつまみあげた。私は怒って、彼のそのいたずらした右手をひっ
けたたましい叫び声がすぐ身ぢかで起った。おどろいて振りむくと、ひとむれの尾の太い毛むくじゃらな猿が、丘のてっぺんに陣どって私たちへ
「よせ、よせ。こっちへ手むかっているのじゃないよ。ほえざるという奴さ。毎朝あんなにして太陽に向って吠えたてるのだ。」
私は
「これは、みんな猿か。」
私は夢みるようであった。
「そうだよ。しかし、おれたちとちがう猿だ。ふるさとがちがうのさ。」
私は彼等を一匹一匹たんねんに眺め渡した。ふさふさした白い毛を朝風に吹かせながら児猿に乳を飲ませている者。赤い大きな鼻を空にむけてなにかしら歌っている者。
私は彼に
「ここは、どこだろう。」
彼は慈悲ふかげな眼ざしで答えた。
「おれも知らないのだよ。しかし、日本ではないようだ。」
「そうか。」私は
彼は振りかえって枯木の幹をぴたぴたと叩き、ずっと梢を見あげたのである。
「そうでないよ。枝の生えかたがちがうし、それに、木肌の日の反射のしかただって鈍いじゃないか。もっとも、芽が出てみないと判らぬけれど。」
私は立ったまま、枯木へ寄りかかって彼に尋ねた。
「どうして芽が出ないのだ。」
「春から枯れているのさ。おれがここへ来たときにも枯れていた。あれから、四月、五月、六月、と三つきも経っているが、しなびて行くだけじゃないか。これは、ことに依ったら
そう言って彼は、ほえざるの一群を指さした。ほえざるは、もう
「坐らないか。話をしよう。」
私は彼にぴったりくっついて坐った。
「ここは、いいところだろう。この島のうちでは、ここがいちばんいいのだよ。日が当るし、木があるし、おまけに、水の音が聞えるし。」彼は脚下の小さい滝を満足げに見おろしたのである。「おれは、日本の北方の海峡ちかくに生れたのだ。夜になると波の音が
私もふるさとのことを語りたくなった。
「おれには、水の音よりも木がなつかしいな。日本の中部の山の奥の奥で生れたものだから。青葉の香はいいぞ。」
「それあ、いいさ。みんな木をなつかしがっているよ。だから、この島にいる奴は誰にしたって、一本でも木のあるところに坐りたいのだよ。」言いながら彼は股の毛をわけて、深い赤黒い傷跡をいくつも私に見せた。「ここをおれの場所にするのに、こんな苦労をしたのさ。」
私は、この場所から立ち去ろうと思った。「おれは、知らなかったものだから。」
「いいのだよ。構わないのだよ。おれは、ひとりぼっちなのだ。いまから、ここをふたりの場所にしてもいい。だが、もう枝を折らないようにしろよ。」
霧はまったく晴れ渡って、私たちのすぐ眼のまえに、異様な風景が現出したのである。青葉。それがまず私の眼にしみた。私には、いまの季節がはっきり判った。ふるさとでは、
彼は私のわななく胴体をつよく抱き、口早に囁いた。
「おどろくなよ。毎日こうなのだ。」
「どうなるのだ。みんなおれたちを狙っている。」山で捕われ、この島につくまでの私のむざんな経歴が思い出され、私は下唇を噛みしめた。
「見せ物だよ。おれたちの見せ物だよ。だまって見ていろ。面白いこともあるよ。」
彼はせわしげにそう教えて、片手ではなおも私のからだを抱きかかえ、もう一方の手であちこちの人間を指さしつつ、ひそひそ物語って聞かせたのである。あれは人妻と言って、亭主のおもちゃになるか、亭主の支配者になるか、ふたとおりの生きかたしか知らぬ女で、もしかしたら人間の
私は彼の
やがて二人は、同時に首をかしげて思案した。それから鼻のくろい子供が唇をむっと
「何を言っているのだ。教えて呉れ。あの子供たちは何を言っているのだ。」
彼はぎょっとしたらしく、ふっとおしゃべりを止し、私の顔と向うの子供たちとを見較べた。そうして、口をもぐもぐ動かしつつ暫く思いに沈んだのだ。私は彼のそういう困却にただならぬ気配を見てとったのである。子供たちが訳のわからぬ言葉をするどく島へ吐きつけて、そろって石塀の上から影を消してしまってからも、彼は額に片手をあてたり尻を掻きむしったりしながら、ひどく
「いつ来て見ても変らない、とほざいたのだよ。」
変らない。私には一切がわかった。私の疑惑が、まんまと的中していたのだ。変らない。これは批評の言葉である。見せ物は私たちなのだ。
「そうか。すると、君は嘘をついていたのだね。」ぶち殺そうと思った。
彼は私のからだに巻きつけていた片手へぎゅっと力こめて答えた。
「ふびんだったから。」
私は彼の幅のひろい胸にむしゃぶりついたのである。彼のいやらしい親切に対する憤怒よりも、おのれの無智に対する
「泣くのはやめろよ。どうにもならぬ。」彼は私の背をかるくたたきながら、ものうげに呟いた。「あの石塀の上に細長い木の札が立てられているだろう? おれたちには裏の薄汚く赤ちゃけた木目だけを見せているが、あのおもてには、なんと書かれてあるか。人間たちはそれを読むのだよ。耳の光るのが日本の猿だ、と書かれてあるのさ。いや、もしかしたら、もっとひどい侮辱が書かれてあるのかも知れないよ。」
私は聞きたくもなかった。彼の腕からのがれ、枯木のもとへ飛んで行った。のぼった。梢にしがみつき、島の全貌を見渡したのである。日はすでに高く上って、島のここかしこから白い
「みんな知らないのか。」
彼は私の顔を見ずに下から答えてよこした。
「知るものか。知っているのは、おそらく、おれと君とだけだよ。」
「なぜ逃げないのだ。」
「君は逃げるつもりか。」
「逃げる。」
青葉。砂利道。人の流れ。
「こわくないか。」
私はぐっと眼をつぶった。言っていけない言葉を彼は言ったのだ。
はたはたと耳をかすめて通る風の音にまじって、低い歌声が響いて来た。彼が歌っているのであろうか。眼が熱い。さっき私を木から落したのは、この歌だ。私は眼をつぶったまま耳傾けたのである。
「よせ、よせ。降りて来いよ。ここはいいところだよ。日が当るし、木があるし、水の音が聞えるし、それにだいいち、めしの心配がいらないのだよ。」
彼のそう呼ぶ声を遠くからのように聞いた。それからひくい笑い声も。
ああ。この誘惑は真実に似ている。あるいは真実かも知れぬ。私は心のなかで大きくよろめくものを覚えたのである。けれども、けれども血は、山で育った私の馬鹿な血は、やはり執拗に叫ぶのだ。
||否!
一八九六年、六月のなかば、ロンドン博物館附属動物園の事務所に、日本猿の