幕末の
もう蚊もいなくなって襟元の冷びえする寝心地の好い晩であった。お滝はその年十三になる新一を奥の
「お前さんは、
お滝の手が此方向きに寝ている男の肩に往ったところで、男は不意にひらりと起きて
「何人だね、お前さんは」
お滝は口惜しいので後から追って往ったが男の姿はもう見えなかった。お滝は不思議に思って眼を彼方此方にやって見た。
「おかしいな」
障子も襖も開いた音がしないのにいなくなると云うはずはない。お滝は
「
お滝は仲働の老婆に起きてもらおうと思った。お滝はそうして引返して行灯を持って来て、ちょっとあたりを見た後に其処の襖を開けた。其処は茶の間であった。お滝は其処に男の姿が見えはしないかと思って、行灯の灯口を向けながらまた老婆を呼んだ。
「姨さん、姨さん」
茶の間の次の
「姨さん、気の毒だが、ちょと起きてくださいよ」
がたがたと音をさして茶の間と庖厨の境の障子を開けて
「何か御用でございますか」
「へんなことがあったからね」
老婆はお滝の傍へ来た。
「どんなことでございます」
「どんなって、寝てて、なんだかへんだから、起きてみると、人が寝ているじゃないかね、突き出そうとすると、跳び起きて往っちゃったが、何処も開けたようでないのに、いなくなったよ」
「そりゃ、このあたりの野良でございますよ、旦那がお留守になったものだから······、
老婆が
「不思議だね、たしかに
「おかしゅうございますね」
お滝はうす鬼魅が悪いので、老婆の寝床を
翌晩になってお滝は
そのうちに
「また来やあがった」
老婆は起きあがるなり、襖を開けて表座敷へ勢込んで入った。と、怪しい男は急に跳び起きて左の茶の間の方へ往った。
「この野郎、逃げようたって逃がすものか」
老婆はその方へ走って往った。その物音にお滝が眼を覚して起きあがった。
「や、また逃げやがった、お
男の姿は掻き消すようになくなってしまった。其処へお滝が行灯を持って来た。
「お媽さん、知ってたのですか」
「知らなかったよ、なんだろうね、うす鬼魅が悪い」
「そうでございますよ、たしかに男でしたが」
其処へ新一が起きて来た。
「また来たのか、しまったなあ」
その翌晩は奥の室へも行灯を点けて、新一と老婆が境の襖を多く開けて警戒していた。新一は
お滝はもう睡ったのか
「······起きてくださいよ······、坊ちゃん······、······坊ちゃん」
新一は肩のあたりを揺り動かされて眼を覚したが、その起している者が
「来たのかい」
「お
新一は跳び起きて表座敷の方へ往った。母親の寝床があるばかりでその姿は見えなかった。
「
後から来た老婆が云った。
「そうかも判らない、お前、往って見てお出でよ」
老婆は困った顔をした。
「見てお出でって、坊ちゃん、こんな時には、うっかり出られませんよ」
「だって、お
「便所へでも往ってるか判りませんよ、もすこし待って見ましょう」
新一はもどかしくなって来た。
「そんなことを云って、お母さんがどうかなったらどうする、お前が厭ならおいらが往ってくる」
新一は行灯を持って其処の障子を開けて縁側へ出た。老婆もしかたなしにその後から踉いて往った。縁側の右の突きあたりが便所になっていた。新一は其処へ往った。
「お母さん、······お母さん」
中からは何の返事もなかった。新一は
「お母さんだ」
「あら、お媽さん」
二人は驚いて叫んだ。それでも二人は安心した。老婆はお媽さんの傍へ往って起そうとした。その拍子にお滝の眼が開いた。
「何人だい、此処へ来て邪魔するのは、彼方へお出でよ、ひとの寝間なんぞ覗きに来やがって」
老婆は驚いてやろうとした手を引込めた。
「お母さん、だめだよ、そんな処に寝ていちゃ、風邪を引くよ」
新一は叱るように云った。
「
老婆は困ってしまった。どう云って伴れて往ったものだろうかと思っていると、お滝は急に起きあがって、どかどかと表座敷へ入って往った。二人はあっけに執られていたが、その挙動が心配であるから後から踉いて往った。と、お滝は寝床の中へもぐり込むなり頭から夜着を
「何人も此処へ来ちゃいけない、
老婆と新一は困って其処に立っていたが、そのうちにお滝の
朝になってみると、お滝は
飯が済むとお滝は表座敷へ入って往ったが、障子も襖もぴったり締めてしまって、外からはすこしも見えないようにして坐っていた。老婆と新一はいよいよ
「
「そうでございますよ、どうもへんですよ、昨夜のことと云い、へんな男が襖を開けずに入って来たり、おかしいのですよ」
「何だろうね」
「どうも人間じゃないのですよ」
「なんだろう」
「そうねえ、しかし、たしかに人間じゃありませんよ、人間なら、襖を開けるなり、戸を開けるなりしますよ」
「お
「そうでございますよ、旦那様さえ早く帰ってくださるなら、どうかなるのでしょうが」
「そうだ、お父さんが帰ってくれると、好いなあ」
その後で老婆はお滝の体の工合を聞こうと思って
「もし、もし、お
お滝はきっと眼を開けて老婆の姿を見ると口を尖らした。
「煩いよ、何故此処へ来て邪魔をするのだね、彼方へお出でよ」
「まいりますがね、お媽さんの
「煩いったら煩いよ、彼方へお出でよ」
老婆はしかたなしに引返して来た。茶の間には新一が老婆の帰って来るのを待っていた。
「お
「睡っていたのですが、やっぱりおかしいのですよ」
「おかしいって、どうなのだ」
「やっぱり昨夜のように、彼方へ往けって、私を怒ったのですよ」
「そうかい、へんだなあ」
昼飯になったところでお滝が室を出て来ないので老婆はまた呼びに往った。お滝は坐って何か考えているような
「お媽さん、御飯はいかがでございます」
お滝は顔をあげて老婆の方をちょと見てからまた俯向いた。
「いらないよ」
老婆は困ってしまった。
「でも、すこしおあがりになっては」
「いらないと云ったらいらないよ」
「でも、御飯をおあがりにならないと、お体のために悪うございますよ、では、此処へ持って来ときますから、何時でも好い時にあがってくださいよ」
「煩い」
それでも老婆は打っちゃって置けないので、膳と飯鉢を持って来てお滝の傍へ置いて往った。
「此処へ置いてまいりますから、好い時におあがりになってください」
新一は老婆がそうする間も茶の間にいて母のことを心配していた。新一の処へは遊び仲間が時どき誘いに来たが、彼は母が心配であるから往かなかった。
そのうちに夕方となったがお滝は出て来なかった。老婆は夕飯のことを思いだして其処の室へ往ってみた。お滝は腹這いになって足をとんとんとやっていたが、膳の上を見ると飯を
「御飯を持ってまいりましょうか」
お滝はやはり足をとんとんとやって返事をしなかった。老婆はその膳と飯鉢を持って台所のほうへ引返して、膳を洗い拵えたてのお菜をつけて、またお滝の傍へ持って往った。
「夕飯を持ってまいりましたから、おあがりなさい」
お滝は床の方を向いて肘枕をして寝ていた。
「いらないよ、彼方へお出で」
老婆が出て往って襖の締る音がすると、お滝は急に頭をあげて茶の間の方を見た後に、くるりと起きあがり、
夜になって老婆と新一は奥の
有明の行灯の
「この
「お
「彼奴とはなんだ、ばか、余計なことをすると承知しないぞ」
「でもお母さんが笑ったから」
「煩い」
新一はすごすごと
「坊ちゃん、どうかしたのですか」
眼を覚した老婆が声をかけた。
「お
「そうですか、笑い声なんかするのは、おかしいのですね」
「おかしいよ、何が来るだろう」
「さあ」
朝になって老婆が起きてみると、お滝は皆の起きないうちに起きて顔を洗ったと見えて、表座敷へ鏡台や化粧道具を持ち込んで顔に白粉を塗っていた。
やがて朝飯が出来たがお滝が来ないので、老婆はまたお滝の
「お
お滝は返事をしなかった。
「此処へ持ってまいりましょうか」
「煩いったら煩いよ、余計なことをお云いでないよ」
老婆は云っても駄目だと思ったので膳を持って来て置いて往った。
お滝は表座敷からどうしても出て来なかった。老婆や新一が思いだして覗いてみると敷きっぱなしにしてある夜具の中に
その後で老婆は新一と
「
「さあね、私にゃ判らないが、なにか魔物が来ますね」
「魔物って何だろう」
老婆はちょと
「狐か狸か、そんな物が来てお媽さんに憑くのじゃないかと思いますがね、どうしても人間じゃないのですよ」
「そうかなあ、狐だろうか」
「早く旦那様が帰ってくださると好いのですが······」
「そうだなあ、お
「そうですとも」
夕飯の時にも飯の後で老婆と新一が茶の間の行灯の傍で囁き合っていた。
「今晩は、坊ちゃんは、茶の間へ寝てください、私は奥へ寝ます、そして、どんなものが来るか、気を
「好いとも、おいらが茶の間で寝よう、そして、へんな奴が来たなら斬ってやる」
「そうですよ、かまうことはない、怪しい奴が来たなら、それこそ斬っておやりなさい」
「斬ってやるよ」
老婆と新一は宵に約束したように寝ることにして、老婆の寝床は奥の室へとり、新一の寝床は茶の間にとって二人は別れ別れに寝たが、その新一の枕頭には行灯を置いてあった。
新一は左の手に持った短刀を外へ見えないように夜着のなかへ隠して、仰向けに寝ながら枕頭の左右に注意していた。
そのうちに夜が刻々と更けて往った。母親も睡っているのか何の音もしなければ、老婆が
その新一の耳へ母親の何か独言を云ったような声が聞えた。新一はまた魔物が来たのではあるまいかと思って眼を開けた。そして、すこしも動かずに用心深くまず右の枕頭を注意した。と、その新一の眼に物の影のようなものが映った。新一ははっと思ったが、たしかに見とどけるまでは体を動かしてはならないと思ったので、じっとしたなりに再び其処を見なおした。鼠色をした犬のような獣の後のほうが見えて、それが長い尻尾を畳の上に垂らしていた。新一は夜着の下で短刀を引き抜くなりそれに向って投げつけた。
唸りとも叫びとも判らない微な声がしたかと思うと、もう何も見えなくなって新一の投げた短刀が畳の上に光って見えた。新一は飛び起きてその短刀を拾って
「······邪魔をしやがって······、······どうするか、見ていやがれ」
新一は母親の声を聞きながら手にした短刀の刃
母親の怒り狂う声と老婆のおどおどした声が聞えて来た。新一は老婆が眼を覚して母親をなだめに往ったものだと思いながら、室の中を彼方此方と歩いた。それは魔物がそのあたりに倒れていやしないかと思って見ているところであった。
母親の怒鳴る声はすぐ襖の隣へ来た。新一は母親に短刀を見せてはよくないと思ったので、急いで蒲団の上に落ちていた鞘を拾ってそれに納め、すばやく夜着の下へ隠してしまった。
同時に襖が開いて母親のお滝が掴みかかって来た。新一はその母親の手に襟元を掴まれた。
「この畜生······、······
新一は母のするままに任していた。お滝は恨み骨髄に徹したと云うように暫く新一をこづきまわしていたが、そのうちに泣きだして悲しくて悲しくてたまらないと云うように泣いていたが、やがて新一を放して
新一と老婆は顔を見合した。新一は苦笑いしていた。
「どうしたのです、坊ちゃん」
老婆が云った。
「犬のような奴が、おいらの寝ている傍へ来たから、あの懐剣を投げつけてやると、唸ってから見えなくなったよ、血のようなものが附いてたのだ、お
老婆はそれを聞くと考え深そうな眼つきをして頷いた。
「それじゃ、やっぱり狐だ、傷をしたから、もうおっかながって来ないかも判りませんよ」
「そうかなあ」
新一は老婆に短刀を抜いて見せなどして二人で暫く話しあっていたが、もう寝ることにして老婆一人でお滝の傍へ往って見た。お滝は夜着に顔を埋めて泣きじゃくりしていた。
ろくろく睡りもせずに夜の明けるのを待ちかねていた新一は、往来で馬の
そこへ老婆も起きて来て、新一といっしょになって見廻ったが、べつにそんなものも見えなかった。で、老婆はその後でまだ開けてない雨戸をすっかり開けてからまた見廻ったが、やはり何も見えなかった。
「やっばり何もないのですね」
老婆は新一に短刀を持って来さして念のために改めてみた。短刀には微黒いものが乾き附いていた。
「たしかにこれは血だがなあ」
新一の耳には短刀を投げた時に怪しいものの発した声が残っていた。
「たしかに唸ったがなあ」
「ぜんたい何処にいるのだろう」
奥庭の
「お寺の方へ往ってみよう」
新一はそのまま
新一はその墓場の中を彼方此方と歩きながら、もしや血が落ちていはしないかと見て廻ったが、
新一は
「
「お寺の中にはおりませんよ、お祖師様が、そんな悪いものは置きませんから」
「そうかなあ」
朝飯ができて老婆がお滝の
「お
「そうかなあ」
「今晩
お滝はその日は寝床の中にいることはいたが非常に穏かであった。老婆は気に逆うてはいけないと思ったので、黙って飯を持って往って置いて来ると、お滝は何時の間にか
「今晩験してみたら判りますよ」
老婆は夕飯を喫いながら新一にこんなことを云った。
「あれで来なくなると好いがなあ」
「もう来ませんよ」
その晩も新一は茶の間で寝て老婆は奥の間に寝ることになった。新一はその晩もついすると怪しいものが来るかも判らないと思って、夜着の下に短刀を隠しながら一方母親の容子に注意していたが、
「坊ちゃん、もう眼が覚めましたか」
老婆はそこへ起きて来て云った。
「ああ、もう夜が明けたかい、お
「
「ああなかったのだよ」
「じゃ、やっぱり憑物が離れたのですね、これで二三日すりゃ好いのですよ」
「では、彼奴、死んじゃったろうか」
「そうですね、どうかなったのでしょうよ」
その日もお滝は表座敷から出て来なかったがへんな挙動はしなくなった。新一はそれに安心して昼からすぐ近くの
「新ちゃん、この間うち、ちっとも来なかったが、
「おいらは、お
「なに、狐が憑いた、ほんとうかい」
「ほんとうとも、嘘を云うもんか、おいらは、その狐を斬ったよ」
「嘘云ってら、狐が斬れるものか」
「でも、斬ったのだよ」
「じゃ、死んじゃったかい」
「逃げちゃったよ、彼奴を殺したかったよ、どうかして、あんな奴を殺せないかなあ」
「狐は化けるから殺せないよ、家のお
「そうかい、銀山の鼠取かい、鼠取ならおいらの家にもあるよ」
新一はそれから吉と一二時間も遊んでいたが、母親のことが気になりだしたので急いでかえって来た。
お滝はやはり表座敷から出て来なかったが、その晩もその翌晩も、もう独言も云わなければ怪しい挙動もしなかった。ただ新一は
新一は獣の癖になにを見ているだろうと思って、その跡へ往ってその帳面のようなものを拾ってみた。それは半紙を三枚綴り合せて、片仮名のような文字を微青く書いたものであった。タカとか、オユキとか、オハナとか、人の名のようなものを紙の中程から横に並べて書いたもので、そうした物が三十ばかりも書いてあったが、初めから二枚目の終りあたりまでは、文字の上に三角の
「······おたき、おたき······」
新一はその文字を読みながら、なんだか知ったような名であると思っているうちに、その文字が
「お
新一は怪しい獣のことを思いだした。それでは
「犬とは違っていた、たしかに彼奴が狐に違いない」
新一はそれと知ったなら石でも投げつけて、殺してやるのであったにと思って残念になって来た。新一は帳面を握ったなりにそのあたりを彼方此方と歩いて捜したが、もう影も形も見えなかった。
「よし、吉公の云ったように、鼠取を使ってやろう、
新一は帳面を懐に隠して何くわぬ顔をして家へ帰って来た。
「やあ、お
「おお、新一か」
新一は嬉しいので父親の傍へ往って坐った。新三郎はもう老婆からお滝の怪しい
「お前は偉いことをやったそうだな、偉い、偉い」
新三郎は新一の頭を撫でて云った。
「もう好いだろう、それでおっかながって、来ないだろう、また来るようなら、下谷に
新一は墓場のことを思いだしたが、父にはじめから知らしては面白くないので、知らさずにおこうと思って口へは出さなかった。
「まあ、ちょっと往って、覗いて来よう」
新三郎はそう云って表座敷へ入って往った。お滝は夜着を脚下に放ね退けて仰向けになって眼をつむっていた。
「お滝」
新三郎が声をかけるとお滝はふっと眼を開けて新三郎の顔を見あげたが、そのまま何にも云わずに寝返りして前向きになってしまった。
「まだ体が悪いのか」
お滝は返事をしなかった。
「まだ気もちがなおらないのだな、まあ、そうして、静にしてるが好い」
新三郎はしかたなしに茶の間へ帰って来た。茶の間には老婆と新一が坐っていた。
「未だほんとうじゃないね」
「どうかいたしましたか」
「俺が声をかけると、ちょっと眼を開けて見といて、すぐ彼方向きになって返事もしないのだよ」
「それでもおとなしくなりましたよ、初めのうちは、どうしようかと思いましたよ、ねえ、坊ちゃん」
「そうだよ、狂人のようにあばれてたなあ」
間もなく夕飯が出来ると新三郎は新一と膳を並べて飯を
「今晩は、何時になく、私がお膳を持って往くと、黙って
その晩新三郎と新一は奥の間へ寝て、老婆は茶の間へ寝たが、その晩もお滝は何事もなかった。
朝飯の後で新三郎は表座敷へ往った。その時はちょうどお滝が便所へ往っていて姿が見えなかったので、其処に立って待っていると間もなく帰って来た。
「おい、まだ体が悪いのか」
お滝は眼を見すえたようにして見ていたが、そのまま返事もせずに寝床の上へ横になってしまった。
「やっぱり悪いのか、それとも俺が判らないのか」
「ものを云うのが煩いよ」
「そうか、体が悪いならしかたがない、ゆっくり寝てるが好い、土産を買って来てあるが、なおってからにしよう」
お滝はもう何も云わなかった。
夕月が射していた。新一はその夕月の光で脚下を見ながら寺の卵塔場の中へ入って往った。新一は吉の家へ遊びに往くと云う口実をこしらえて、夕飯が済むと家を出て、そのあたりをぶらぶらしていて時刻を見計って其処へ来たところであった。
新一は懐に短刀を入れ、一方の袂の中に鼠取の袋を入れていた。彼はそうして
虫の声が雨の降るように聞えていた。立ち並んだ石碑は月の下に不思議なものの影をこしらえていた。新一はその間を跫音をさせないようにして歩いた。
がさがさと云う音が直ぐ傍で聞えた。新一は足を止めてその音を聞いた。それは人の跫音のような跫音であった。夜になってこんな処を歩いている者は、盗人か何かであろう、普通の人ではあるまいから、見つかるとどんな目にあわされるかも判らない、これは隠れるが好いと思いだしたので、其処にあった五輪塔の陰へ蹲んで覗いていた。
跫音は直ぐ前に来た。二十二三の

壮い男は、すぐその前の雑草の上へ腰をおろしてしまった。新一は
間もなくまた何処からか跫音が聞えて此方の方へ来るようであった。新一はついとすると彼の壮い男が此処で
跫音はすぐ前へ来た。それは
二人はやがて何か話しだしたが、何を云っているのか新一の耳へは聞えなかった。そのうちに二人は手に掴んで何か
二人の話は絶えなかった。話しながら絶えずものを口に持って往った。そのうちに新一は体が苦しくなって来た。彼はそっと体を右の方へ傾けようとしたところで、何かちらちらと動いたような気がしたので、見るともう二人の姿は無くなっていた。
新一はびっくりしてその
新一は起って二人の坐っていた処へ往って蹲んでみた。其処には魚の骨のようなものが散らばっていた。
新一はその魚の骨のようなものをじっと見詰めていたが何か思いついたのかそのまま卵塔場を出て、何くわぬ顔をして
家では父親の新三郎が新一の帰るのを待っていた。新三郎は新一を伴れて奥の
「おい、お滝、どうしたのだ、そんな処へ寝ちゃ風邪を引くぜ」
お滝の大きな声が其処から聞えて来た。
「風邪を引こうと引くまいと、余計なお世話だ、彼方へ往ってすっこんでろ、何しに此処へ来るのだ、
新三郎は怪しい病気が起ったと思ったので対手にならなかった。
「邪魔すると承知しないぞ、痴、ひょっとこ、彼方へ往きあがれ」
「俺も往くから、お前も此方へ入って、寝るが好いだろう、お前は体が悪い、しっかりせんといかんよ」
「煩い」
「煩くっても、そんな処へ寝ていちゃいけない、入んな」
「お前さんのような奴が、其処にいちゃ入れないよ、痴」
「じゃ、俺は
「煩いよ、余計なことを云うない」
お滝は跳び起きるように起きて新三郎に突っかかって来ようとした。新三郎が体をかわすとお滝はそのまま寝床の上へ往って俯向きになり、大声を出して泣きだした。
「苦しい、苦しい、なんの恨みがあって、俺をこんなに苦しめるのだ」
新三郎は障子を締めて奥の室へ往こうとした。新一が起きて来て其処に立っていた。
「お
「そうだろう、狐だろう」
翌日になって新三郎は下谷の御嶽行者の処へ往って祈祷を頼んで来た。新三郎はそれで幾等かお滝の病気が好くなるだろうと思っていたが、その一方で新一は油揚げを三枚買い、それに鼠取を入れて卵塔場の中へ持って往った。
その夜お滝は非常に穏かで怪しい
お滝の体は十日ばかりすると元の体になった。新一が狐を殺したことは非常な評判になって、それがため新一は駿河台にあった大きな