
ある年のこと、それは夏の十六日の夜のことであった。県中の名士が
一
月は
手に
曲終って覚えず
願わくは
曲々たる
六
夜更けて
趙という富豪の才子があって、父親が亡くなったので母親と二人で暮していたが、愛卿の才色を慕うのあまり、
趙家の人となった愛卿は、身のとりまわしから言葉の端に至るまで、注意に注意を払い、気骨の折れる豪家の家事を
趙の父親の一族で、
愛卿は趙のそうした顔色を見て言った。
「私が聞いておりますのに、男の子の生れた時は、桑の
趙は愛卿に激励せられて、意を決して上京することにした。そこで旅装を
その酒が三まわりした時であった。愛卿は趙に向って言った。
「お母様の御健康をお祝しになっては、いかがでございます」
趙はいわれるままに觴を母親の前へ捧げた。
愛卿は立って歌った。それは
恩情功名を把りて誤らず
離筵 また金縷 を歌う
白髪の慈親
紅顔の幼婦
君去らば誰あって主たらん
流年幾許 ぞ
況 んや悶々愁々
風々雨々
鳳 拆 け鸞 分 る
未だ知らず何 れの日にか更に相 聚 らん
君が再三分付 するを蒙り
堂前に向って侍奉 す
辛苦を辞するを休 め
官誥 花を蟠 し
宮袍 錦 を製す
妻を封じ母を拝するを待たんことを要す
君須 らく聴取すべし
怕 る日西山に薄 って愁阻を生じ易きことを
早く回程 を促して
綵衣 相対 して舞わん
歌が終った時ぶんには、皆の眼に涙が光っていた。趙を載せて往く舟は、門の前に白髪の
紅顔の幼婦
君去らば誰あって主たらん
流年
風々雨々
未だ知らず
君が再三
堂前に向って
辛苦を辞するを
妻を封じ母を拝するを待たんことを要す
君
早く
趙は酔に力を借って別れを告げて舟へ乗った。愛卿は趙を送って岸へ出て、離れて往く舟に向って白い小さい
趙はやがて大都へ往った。往ってみると尚書は病気で官を免ぜられていた。趙は進退に窮して旅館へ入り、故郷へ引返そうか、仕官の口を探そうかと思って迷っているうちに、数ヶ月の
一方故郷の方では、旅に出た我が子の身の上を夜も昼も心配していた趙の母親は、その心配からまた病気がちの体を痛めて、病床の人となった。愛卿は人の手を借らずに、自分で薬を煎じ、粥をこしらえて母親に勧め、また神にその平癒を祈った。
「あの子は、どうしたというだろう、何故便りがないだろう」
母親は愛卿の顔を見るたびに、こんなことをいって聞いた。
「なに、今に何か言ってまいりますよ、それとも官が定ったので、御自分でお迎えにきていらっしゃるかも判りません、御心配なされることはありませんよ」
愛卿はしかたなしにいつもこんなような返事をして慰めていたが、自分でも母親以上に心配していた。
そのうちに半年ばかりになったが、母親の病気はひどくなって、もう愛卿の勧める薬を自分の手で飲むことすらできないようになった。愛卿は
「もう私はだめだ、あんたにひどく厄介をかけたが、その返しをすることもできない、このうえ、私の望みは、早くあの子が旅から帰ってくれて、あんたとの間に、
母親はそれをやっと言ってから、
愛卿はその母親の死骸を
それは元の至正十七年のことであった。その前年、
楊完の
万戸は愛卿の顔を
「体が、体が汚れております、ちょっと湯あみをさしてくださいまし」
万戸はすこし顔を引いて愛卿の顔を見た。
「なりもこんな汚いなりをしております、ちょっとお待ちを願います」
愛卿はにっと笑って万戸の眼を見入った。
「そうか」
万戸もにっと笑って愛卿を下におろした。
愛卿はも一度万戸の方を見て恥かしそうに笑いながら外へ出た。そして、一室へ入って水で体を洗い、静かに、
女のくるのを待っていた万戸は、あまり遅いので不審を起して、探し探し閤の中へ往った。閤の中では愛卿が
万戸は驚いて介抱したが蘇生しないので、
間もなく張士誠は、江浙左丞相達織帖睦邇の
それがために楊参政は殺されて、麾下の軍士は四散した。大都の旅館にいた趙は、故郷へ引返すことに定めて帰ろうとしたところで、嘉興が戦乱の巷になりかけているということを聞いたので、帰ることもできずに家のことを心配していたが、そのうちに士誠が降り楊参政の軍が潰滅した。従って道も通じたので、はじめて舟に乗って帰り、
嘉興の城内は、到る処に破壊の痕を止めていた。見覚えのある第宅が無くなっていたり、第宅はあっても住んでいる人が変っていたりした。趙は自分の家のことを心配しながら走るようにして歩いて往った。
家は依然として立っていたが、入口の扉はとれて生え茂った雑草の中に横たわっており、調度のこわれなどが一面に散らかって、それに
荒廃した家の内からは、返事をする者もなければ、出てくる者もいなかった。趙は驚いて家の中を駈け廻ったが、母親の影も愛卿の影も、その他にも人の影という影は見えなかった。
趙は茫然として中堂の中に立っていた。庭の方で鳥の声がした。それは夕陽の射した庭の樹に一羽の

淋しい夕暮がきた。趙は母親と愛卿は、楊参政の麾下の掠奪に逢って、どこかへ避難しているだろうと思いだした。彼は翌日知人を訪うて
朝になって趙は、嘉興の東門となった春波門を出て往った。そこには紅橋があった。趙はその側へ往ったところで見覚えのある老人に往き逢った。
「おい、爺じゃないか」
それはもと使っていた
「だ、旦那様じゃございませんか」
老人は飛びかかってきそうな
「ああ、俺だよ」
趙は一刻も早く母親と愛卿のことが聞きたかった。
「爺や、お前に聞きたいが、家のお母さんと家内は、どこにいるだろう、お前は知らないのか」
「旦那様は、まだ御存じがないのですか」
「知らない、どうした、お母さんと家内は、どうしたというのだ」
趙はせき込んで言った。
「旦那様、えらいことが出来ております」
老人の眼に涙が湧いて見えた。
「どうした、早く言ってくれ」
「旦那様、びっくりなされちゃいけません、大奥様は御病気でお亡くなりになりますし、若奥様は
趙は青い顔をして立ったままで何も言えなかった。
「旦那様、しっかりなすってくださいませ、大奥様が御病気になりますと、若奥様が夜も睡らないで御介抱なさいました、お亡くなりになってからも、若奥様がほとんどお一人で、お墓までおこしらえになりましたが、苗軍がやってきて、劉万戸という盗人が、若奥様を見染めて、迫りましたので、若奥様は
「そうか、俺が旅に出たばかりに、こんなことになった、俺が悪い、爺や俺は馬鹿者だ」
趙は老人を連れてその足で白苧村にある母親の墓へ往った。墓場には愛卿の手で植えた小松が美くしい緑葉を見せていた。
「これは若奥様のお植えになったものでございます」
老人はまた墓の盛り土へ指をさした。
「これも若奥様が御自身でお造りになりました」
趙は老人と家へ帰って、家の背後の
墓が
ただちょっと睡っているようにしか見えない
趙は老人の介抱によってやっと我に還った。彼はそこで愛卿の死骸を家の中へ運んで、
改葬が終ったところで、趙は墓へ向って言った。
「お前は聡明な女であった、凡人ではなかった、わしの心が判っているなら、もとの姿を一度見せておくれ」
趙は家へ帰っても銀杏の下へ往って、これと同じようなことを言ったが、これはその日ばかりでなしに、翌日もその翌日も、毎日のように白苧村の墓と銀杏の下へ往ってそれを言った。
十日近くにもなった頃であった。その晩は家のまわりに暗い闇が垂れさがって、
泣声はすぐ近くに聞えた。趙は何者の泣声だろうと思って、起って声のした方へ眼をやったが何も見えなかった。趙はこの時ふと思いだしたことがあった。
「だれ、愛愛じゃないのか、愛愛なら何故すぐきてくれない、愛愛じゃないのか」
趙はこう言ってまた透して見た。
「愛愛でございます、あなたのお言葉に従いましてまいりました」
それは耳の底にこびりついている愛卿の声であった。趙はその方へ眼をやった。人の歩いてくるような気配がして物の影がひらひらとしたが、やがて五足か六足かの前へ白い服を著た人の姿がぼんやりと浮んだ。面長な白い顔も見えた。それは生前そのままの愛卿の姿であったが、ただ首のまわりに黒い
愛卿の霊は趙の方を見て
一別三年
一日三秋
君何ぞ帰らざる
記す尊姑 老病
親 ら薬餌 を供す
塋 を高くして埋葬し
親 ら麻衣 を曳く
夜は燈花を卜 し
晨 に喜鵲 を占う
雨梨花 を打って昼扉 を掩 う
誰か知道 らん恩情永く隔 り
書信全く稀ならんとは
干戈 満目 交 揮 う
奈 んぞ命薄く時乖 き
禍機 を履 んで鎖金 帳底 に向う
猿驚き鶴怨む
香羅巾下
玉と砕け花と飛ぶ
三貞を学ばんことを要せば
須 く一死を拆 つべし
旁人 に是非を語らるることを免る
君相念いて算除 せよ
画裏に崔徽 を見るに非ず
歌の中に一日三秋
君何ぞ帰らざる
記す
夜は燈花を
誰か
書信全く稀ならんとは
猿驚き鶴怨む
玉と砕け花と飛ぶ
三貞を学ばんことを要せば
君相念いて
画裏に
歌の声は消えるように
「おいで、お前にはいろいろ礼も言いたい、よくきてくれた」
趙の手と愛卿の手はもう絡みあった。二人は室の中へ入った。
「お前はお母さんのお世話をしてくれたうえに、わしのために節を守ってくれて、なんともお礼の言いようがない、わしは、今、
「
「いや、お礼を言う、それにしても、お前を賊に死なしたのは、残念で残念でたまらない、今、お前は
「お母様は、罪のない体でしたから、もう人間に生れかえっております」
「お前は、何故、いつまでもそうしておる」
「私は、私の貞烈のために、
趙と愛卿の霊は、手を取りあって寝室へ往って歓会したが、楽しみは生前とすこしも変らなかった。
鶏の声が聞えた。
「私は、帰らなくてはなりません、これでお別れいたします」
愛卿の霊は泣きながら
愛卿の霊は階をおりて三足ばかり往ったが、ふと涙に濡れている顔を此方へ見せた。
「これでいよいよお別れいたします、どうかお大事に」
趙も胸がいっぱいになって言おうと思うことが口に出なかった。
暁の光がうっすらと見えた。と、愛卿の霊は燈の消えるように見えなくなった。室の方を見ると有明の燈の光が消えかかっていた。
趙はその朝、旅装を調えて無錫へ往った。そして、宋という姓の家を尋ねたところがすぐ知れた。趙は半信半疑で往ってみた。妊娠してから二十ヶ月目に生れたという男の子がひいひい泣いていた。それは生まれ落ちるときから
趙は主人に逢って、自分のきた事情を話し、主人の承諾を得て産室へ入って往った。今まで泣いていた男の子は、趙を見るなり泣くことをやめてにっと笑った。
宋家ではその子に