壑の
その数年間、年に一二度は往復している途であるが、一歩を
その日は
「おい、あぶないよ、此方を歩かないといけないよ」
小柄な色の白いまだどこか小供小供したところのある男は細かい神経を持っていた。
「おい、そんな処を歩いてはいけない、あぶないじゃないか」
道は山の出っ鼻を廻って往った。樹と巌が入り乱れた処があって、夕陽の光が山風の中に物凄い色を見せていた。僕がさきになってその方へ往った。左側には深い壑があった。
道は
杜陽は意識が回復してきた。彼は眼を開けた。大きな樹の幹が
杜陽は体を起そうとした。体の下には朽葉が
杜陽は
四辺が一層暗くなってきた。杜陽はおどろいて梢のほうを見た。陽が暮れて碧い空が
風が凪いでしまって
杜陽はとぼとぼ朽葉の上を踏んで往った。燈の光のような光がちらちらと樹の間から見えた。赤味を帯びたほっかりしたその光は、燈の光より他の光ではないと思った。彼は甦ったように喜んで歩いた。
林の樹はすぐなくなって燈の光がはっきり見えてきた。其処は四辺がきれいに開けていた。燈の光は其処に人家の塀らしいものをぼんやりと映しだした。
杜陽は真直に歩いて往った。大きな邸宅の門が見えて、その燈の光の出ている門傍の小座敷もはっきり見えてきた。彼は行商をして往き暮れて時どきそうした家へ宿を取っているので、其処へ宿を頼みに往くということはあまり苦にもならなかった。
杜陽は小座敷の前へ往って中を覗き込みながら
「もし、もし、しょうしょうお願いいたします」
中から年とった男の声がした。
「
杜陽は言った。
「壑の中へ墜ちて、困っておる者でございます」
「なに、壑の中に墜ちて困ってる」
中の声は驚いたように言ったが、それといっしょに扉が開いて髪の長い痩せた男が顔をだした。
「壑へ墜ちたって、それじゃお前さんは、
「この山の上の道をあるいておりますと、虎が出てきて僕を噛もうとしましたから、逃げようとする拍子に、足を踏みそこなって、この壑の中へ墜ちましたが、運好く落葉の上へ墜ちましたから、すこしも怪我はしませんでした」
痩せた男は何か思いだしたようにして眼を
「それじゃ、あなたは、杜陽さんでございますね」
杜陽は驚いた。
「どうして、それが判ります、私は杜陽ですが」
「
痩せた男は体を片寄せて杜陽の入るのを待っていた。
「そうですか」
杜陽は不思議でたまらなかったが、痩せた男が自分の入るのを待っているので立っているわけにもゆかなかった。彼はそのまま内へ入ったが依然としてその意味は判らなかった。
「どうぞ、暫く此処でお休みくださいませ」
痩せた男は其処にある
「婆さん、婆さん、早く来てくれ、お客さんがいらしたのだよ」
杜陽は牀に腰をかけた。
「お客さんがいらしたから、俺は旦那様に申しあげてくる、それまでお前は、お客さんのお相手をするがいい、いいか、そそうのないように気をつけろよ」
痩せた男は女房と擦れ違うようにして外へ出て往った。杜陽はその女にこの家のことを聞いてみようかとおもったが、みょうに口が渋って
扉が開いて
「どうもお待たせいたしました。旦那様が、お待ちかねでございます、さあどうぞ、此方へおいでくださいますように」
痩せた男は急いできたと見えて
「そうですか、旦那はどうした方ですか」
杜陽は起ちながら言った。
「いらしてくださいますなら、すぐお判りになります、さあどうぞ」
痩せた男と※[#「糸+逢のつくり」、30-2]紗燈の少年が往きかけるので、杜陽は
朱塗の門を入ると大きな建物がきた。それは王侯の邸宅といってもいい建物で、柱にも
「此方で
痩せた男は一室の扉を開けて入った。杜陽は自分の頭では何も考えられないので、彼の言うなりになって
「お湯の加減はよろしゅうございます、どうかお使いくださいますように」
そう言ってから少年は出て往った。もう痩せた男もいなくなって杜陽は独りになっていた。彼は汚れた上衣を脱いでとろとろした湯で顔を洗い、汗になった肌を拭った。
「お召し更えを此処へ置いてまいります」
いつの間に入ってきたのか少年が

「お供をいたします」
※[#「糸+逢のつくり」、31-3]紗燈の少年がきて立っていた。杜陽はその後から随いて往った。
広い
「あれが旦那様でございます」
※[#「糸+逢のつくり」、31-6]紗燈の少年はそう言って出て往った。杜陽はそこで
「さあ、どうか、君を待ちかねておった」
杜陽は主人の言うままになって主人の席の前へ往って腰をかけた。
「ようこそ」
主人は親しそうに言ったが、杜陽は不安だから
「君は家の
杜陽は恐ろしかった。
「何も心配することはないよ、君の婚礼はとうから定まっておったよ、だから私は、君のくるのを待っておった」
五六人の侍女が主人の傍へきていた。主人は侍女に向って言った。
「婚礼の
侍女達は引込んで往ったが、間もなく数十人の侍女が
「さあ、どうかこちらへ」
数人の侍女が杜陽の傍へきた。杜陽はどうしていいか判らなかった。
「君も往って式をすますが宜いだろう」
主人が言った。杜陽はふらふらと起って侍女に引きずられるように紅い
花嫁と花婿は其処で拝をしあった。女の体に塗った香料の匂いが脳に浸みて杜陽の心を
杜陽は恥かしそうに俯向いている綺麗な少女と向きあっていた。杜陽はこの女は
「
杜陽は他に言うことがないのでそう言って聞いてみた。
「十六よ」
女は紅くなっている顔を見せた。
「私はまだ姓も聞かなかったが、なんといいます」
「陳よ」
「お父様は、どんな官をなされておりました」
「お父様は、一度も仕えたことなんかないわ」
「そう」
其処には青い焔を吐いている燭が、とろとろと燃えていた。
杜陽は紅い霞に包まれているような
杜陽はその親類の中で主人の
「
女は時どきこんなことを言って杜陽に注意したが、彼はべつに気にかけなかった。
そのうちに女は妊娠して小供を生んだ。親類の者は集まってきてその生れた小供の祝いをした。杜陽は封生と二人で祝いの席をはずして女の室で酒を飲んでいた。
それは夏のことで酷く暑かった。封生はいきなり
「此処はあれの室じゃないか、たとえいなくっても、あまり無礼じゃないか」
すると封生が怒った。
「生意気なことを言うない、小僧っ子の癖に何を言うんだ、可哀そうな奴だから、此処へ置いて世話をしてやってれば、つけあがって、
杜陽も負けてはいなかった。彼はいきなり傍の
祝いの席にいた親類の者がばらばらと走ってきた。親類の者は猛り狂う封生を総がかりでなだめなだめ外へ伴れて往った。杜陽は起きあがってそれを追って出て往った。
「馬鹿、
杜陽のそうした
「私はあの男を後継者にしようと思っていたが、もうしかたがない、それにあれをあんなに怒らしたなら、あの男の
女は顔に袖をやって泣きだした。杜陽はこの時思うさま封生を罵ったので、いくらか胸がすっきりして引返してきたところであった。主人はそれを見て言った。
「君は、此処にいちゃ大変だ、もう何と思っても取りかえしがつかない、早く此処を逃げるが宜いだろう」
杜陽は封生と喧嘩した位で自分を去ろうとする主人の心が冷酷に思われた。
「あんな者と喧嘩した位で、私を去ろうとなさるのは、ひどいじゃありませんか、封は実に怪しからん奴ですよ、あれの室で裸になるものですから、私が戒めると私を侮辱するものですから、こんなことになったのです、罪はあの封にあります、もし封が自分の罪をさとらないで、まだ何かするようであったら、私が一人で相手になります、決して皆さんに御迷惑はかけません、どうか私に任しておいてください」
「いや、それは、君がいいことは判っている、判っているが、あの男が一度怒ったなら、この山の者が束になって往っても、どうすることもできない、山を走り巌を飛ぶことは君にはできない、君は封の相手にはならない、もうしかたがない、早く帰るが宜い、帰って家の者を安心さすが宜い、これも天の命ずるところじゃ」
杜陽は女と別れることはできなかった。彼は力なく其処に坐って傍に肩に波を打たせて泣いている女の方を見た。
「ぐずぐずしてちゃ大変だ、お前達二人でお送りするが宜い」
主人の傍には二人の侍女がいた。二人は主人の命を受けると杜陽の傍へひたひたと寄ってきて、左右からその手を取るようにした。杜陽は往くまいと思って力を入れたが、その体は軽々と持ちあげられた。
杜陽は侍女に手を取られたなりに茫然としていた。と、足が地について侍女が手を離した。其処には荒廃した
杜陽は呆れてそれを見ていた。
杜陽はその晩祠で寝て興安へ帰って往った。杜陽が一年あまりも帰らないので心配していた
「それじゃ、あれだ、お前も覚えているだろう、お前が十五の時じゃ、私といっしょに
杜陽は封生も何かであろうかと思った。
「じゃ、舅さん、その封生はなんでしょうね」
舅はちょっと考えていたが頷いて言った。
「封生は僕を食った虎だよ、
杜陽は後に舅が