
それは
曇り日の陰鬱な日であった。焦生も友達と肩を並べてそれを見ていたが、見ているうちに大きな雨が降ってきた。見物人は雨に驚いて逃げだした。興行師は傍に置いてあった大きな木の箱を持ってきて虎をその中へ追い込んでしまった。
焦生と友達は雨にびしょ濡れになって宿へ帰った。二人はその晩いつものように酒を飲みながらいろいろの話をはじめた。虎の話が出ると酒に眼元を染めていた焦生が慨然として言った。
「あんな猛獣でも、ああなっては仕方がないな、英雄豪傑も運命はあんなものさ」
これを聞くと友達が笑いながら言った。
「そんな同情があるなら、買い取って逃がしてやったらどうだ」
「無論売ってくれるなら、買って逃がしてやるよ」
酒の後で二人は
「私の災難を救ってください、私は仙界に呼ばれているものでございます、あんたが私を救ってくだされて、山の中へ帰してくださるなら、あんたは美しい奥さんができて、災難を
焦生にはその老人が何者であるかということが判った。
「あの興行師が、あなたを手放すでしょうか」
「明日は手放す機会をこしらえます、来て買い取ってください」
「いいとも、買い取ってあげよう」
翌日焦生は一人で虎の興行場へ往った。もうたくさんの見物人が集まって開場を告げる
やがて興行師は柵の真中へ往って虎からおりて、鬚を引っぱり出した。焦生は不思議な老人の言った機会とはどんなことだろうかと考えていた。興行師は鬚を引っぱることを止めると、その禿頭を虎の口へ持って往った。と、見る間に虎の
見物人は驚きの声をあげて柵を放れて逃げた。
柵の中では頭をびしゃびしゃに噛み潰された老人の死骸が横たわって、刀を持った二人の若い男が虎に迫っていた。
焦生はこれを見ると、逃げまどう見物人の間を潜って柵の方へ往って、柵の上へかきあがった。
「おい、その虎をどうする」
一人の若い男が振り返った。
「この畜生、
「そうか、それは気のどくだが、お父さんを殺されたうえに、虎を殺したら、大損じゃないか、それよりか、俺に売れ、その売った金でお父さんの
虎はもう眼をつむるようにして二人の前に立っていた。焦生に
二人の話はしばらく続いた。そして、話のきまりがついたとみえてはじめの男が引き返してきた。
「どうする、売ってくれるか」
「十万銭なら、売りましょう」
「よし、買った、銭を渡すから
「私がまいります」
焦生はその男を伴れて宿へ帰り、十万銭の金を渡して、興行師といっしょに再び虎の処へ引返した。
「それでは、この虎を放してくれ」
「ここへ放すと、またどんなことになるかも判りません、あんたに売ったから、あんたが山の中へ伴れてって放してください」
虎は柵の隅の方に寝ていた。焦生は柵の中へ入って往って鎖を持って引っ張った。虎は飼い犬のようにのっそりと体を起した。
焦生はその虎を伴れて山の方へ往った。そして、渓川の縁に沿うて暫く登って往って鎖を解いた。と、烈しい風が起って木の枝が鳴り、小石が飛んだ。焦生は驚いて風に吹き倒されまいとした。虎はその隙に何処かへ往ってしまった。
焦生はその秋試験に出かけて往った。彼は馬に乗り、一人の
焦生と僕は途方に暮れてしまった。二人はしかたなしに何処かそのあたりで野宿にいい場処を見つけて寝ることにした。焦生は馬からおりて、野宿によい場処を見つけるつもりで、さきに立ってそろそろと歩きだした。短い雑木の林がきた。小さな道はその中へ往った。林の木は風に動いていた。焦生はその中へ往った。其処には小さな渓川が冷たい音を立てて流れていた。林の木におおわれた大きな岩があった。焦生は其処の
「家がある、おお、家がある」
焦生が
老人は声の荒い眇の男であった。焦生は老人に自分の素性を話していた。痩せてはいるがやはり老人のように背の高い老婆が茶を持ってきた。老人は老婆の方をちょっと見た。
「これが私の
焦生は老婆に向って挨拶をして、泊めてもらった礼を言った。老婆と焦生がまだ挨拶をしている時であった。老人は後ろの方にあった
「
焦生が元の座に戻ったところで十五六の綺麗な女の子が出てきた。老人は女の子の肩に手をかけた。
「これが私の
老人はそれから老婆に御馳走の用意をさした。老婆は
「お客さんは、くたびれておいでだろうから、寝床を取ってあげるがいい」
老人が女の子の顔を見ると、女の子はにっと笑いながら、その室の一方についた寝室へ入って往った。
老人と老婆はいつの間にか室を出て往って、焦生独りうっとりとなっていた。寝床を取ってしまった女の子はそっと傍に寄ってきて、焦生の縋っている

「お休みなさいまし」
「ありがとう、あんたはいくつ」
「十六よ」
「もう、お婿さんがきまっておりますか」
女の子は怒るような口元をして笑って見せた。焦生は紅い女の袖をつかもうとした。女の子は後ろに飛びのいた。焦生は
焦生は女の子のことを考えているうちに眠ってしまった。そして、咽喉がほてって苦しくなったので眼を覚ました。
「茶を持ってこい、茶を持ってこい」
焦生はいつも僕を呼びつける詞を習慣的にだしてあとでしまったと思った。女の子が茶を持ってすぐ来た。
「や、どうもすみません、僕を呼びつけているものですから、ついうっかり言いました」
「いいのよ、お茶を召しあがるだろうと思って、こしらえてあったのですもの」
女の子はそう言いながら
「いやよ」
女の子は逃げようともせず口元で笑っていた。
老婆の声が次の室でした。女の子は焦生の手を振り放して出て往った。
焦生はきまりが悪いので、茶を飲むことを忘れて後悔していた。そのうちに夜が明けてきた。焦生は彼方此方に寝がえりしていた。
「眠ってるの、今日は雪よ」
焦生は眼を開けた。女の子が傍へ来て笑っていた。
「
焦生はもう大胆になっていた。彼はすぐ女の子の手を握った。
「何がひどいの」
「ひどいのよ」
二人は顔を見合わして笑った。女の子は何か言おうとしかけたが、耳を赤くしただけで何も言わなかった。
「貴女のお婿さんは、どうなっているの」
「あなたは奥さんをもらうの」
「もらいますとも」
老人が大きな声をしながら入ってきた。女の子は急いで出て往った。焦生は起きた。
「大雪ですよ」
焦生は窓の処へ往って戸を開けて見た。綿をひきちぎったような大雪が
「なるほど大雪だ」
「とても、二三日はたたれませんよ、ゆっくり御逗留なさい」
焦生と老人が向き合って

焦生は老人と二人で酒を飲みながらその御馳走に箸をつけた。
「甚だ失礼ですが、お宅のお嬢さんは、何処かへ、もう、縁談がおきまりになっておりますか」
「まだきまっておりません、何処かもらってくれる方があれば、いいがと思っておりますが、まだそうした家が見つかりません」
「甚だ失礼ですが、私にくださいますまいか」
「ほんとうにあなたがもらってくださるなら、喜んでさしあげます」
焦生はその夜珊珊と結婚したが、翌日になると珊珊を馬に乗せ、自分達二人は徒歩で出発した。
やがて目ざす都へ往って、其処で家を借りて落着き、進士の試験を受けてみると、うまく及第して、
窈娘は焦生を自分の者にしたものの、珊珊が傍にいては邪魔になるのでそれをのけようとした。そこで窈娘は飲物の中へ毒を入れて待っていた。何も知らない焦生は、窈娘の室へ来て見ると、旨そうな
「すこし待ってください、どうもすこし怪しいことがありますから」
窈娘はその飲物を取って
「これは、奥さんのやったことですよ」
焦生は珊珊を悪魔のように思いだしたが、すぐ放逐するわけにもいかなかった。そのうちに、焦生の悪政が中央へ知れて、今にも罪を得そうになってきた。焦生は腹心の客と相談して、権力のある中央の大官に賄賂を入れてその罪を
賄賂がゆかなかったために、焦生は罪を得て雲南軍の
監者の一人は刀を抜いて焦生の首に持って往った。一匹の虎が何処からともなく出てきて、その監者をはじめ三人の者を食い殺した。死人のようになって意識を失っていた焦生は、耳許で女の声がするので恐るおそる眼を開けて見た。其処には珊珊が立っていた。
「私は、ほんとうは人間ではありません、貴郎がお父さんを助けてくだされましたから、その御恩返しに、貴郎のお傍にいて、いろいろ災難を防いであげました」
世の中に身の置き処がなくなった焦生は、珊珊に伴れられてその家へ往った。それは見覚えのある彼の家であった。小さな乳呑児が榻の上に寝ていた。
「これはあなたの
焦生夫婦は後に上昇したのであった。