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うつり香

近松秋江




 そうして、それとともにやる瀬のない、悔しい、無念の涙がはらはらとこぼれて、夕暮の寒い風にかわいて総毛立った私のせたほおに熱く流れた。

 涙ににじんだ眼をあげて何の気なく西の空をながめると、冬の日は早く牛込うしごめの高台の彼方かなたに落ちて、淡蒼うすあおく晴れ渡った寒空には、姿を没した夕陽ゆうひ名残なごりが大きな、車ののような茜色あかねいろの後光を大空いっぱいに美しく反射している。そういう日の暮れてゆく景色を見ると、私はまたさらに寂しい心地ここち滅入めいりながら、それでもやっぱり今柳沢に毒々しく侮辱された憤怒の怨恨うらみが、なぶり殺しにさいなまされた深手の傷のようにむずむず五体をうずかした。

 音羽おとわの九丁目から山吹町やまぶきちょう街路とおりを歩いて来ると、夕暮くれを急ぐ多勢の人の足音、車の響きがかっとなった頭を、その上にものぼせ上らすように轟々どろどろとどよみをあげている。私はその中をひとり狂気のようになって歩いていた。そして山吹町の中ほどにある、とある薪屋まきやのところまでもどって来ると、何というわけもなくはじめてそばにある物象ものかたちが眼につくようになって来た。そしてその陰気な灰色の薪を積み上げてあるのをじっと見据みすえながら、

「これからすぐお宮のところに行こう」私は口の中で独語ひとりごとをいった。

 色の白い、濃いけれど柔かい地蔵眉じぞうまゆのお宮をば大事な秘密ないしょの楽しみにして思っていたものを、根性の悪い柳沢の嫉妬心しっとしんから、霊魂たましいの安息する棲家すみかを引っきまわされて、汚されたと思えば、がっかりしてしまって、身体からだえたようになって、うわの空に、

「もうやめだ。もうお宮はやめだ」

 柳沢が、あのお宮······を買ったと思えば、全く興覚きょうざめてしまって、神経を悩む病人のように、そんなことをぶつぶつ口の先に出しながら拳固にぎりこぶしを振り上げて柳沢をつつもりか、どうするつもりか、自分にも明瞭はっきりとは分らない、ただ憎いと思う者をなぐる気で、頭の横のくうを打ち払い打ち払い歩いて来たのだが、

「これッきりお宮をめてしまう。柳沢が買ったので、すっかり面白くなくなった」

 と、残念でたまらなく言いつづけてここまでの道を夢中のようになって歩いて来たが、それでもまだどうしても止められない愛着の情が、むらむらとき起って来た。そうしてこういうことが考えられた。

 強盗が入って妻が汚された時に、夫は、その妻に対してその後愛情に変化かわりがあるだろうか。それを思うと、それが現在あることというのでなく、ただ私が自身で想像に描いて判断しているだけなのだが、ちょうど今自分の身にそういう忌わしい災難が降りかかって来ているかと思われるほど、その夫の胸中が痛ましかった。

 そうしたら夫は、どうするであろう。妻は可愛かわいくってかわいくってたまらないのである。しかるにその可愛い妻の肉体からだはみすみす浅ましくも強盗のために汚されてしまった。妻は愛したくって、あいしたくってたまらないのであるが、それを愛しようにも、その肉体は汚されてしまった。その場合の夫の心ほど気の毒なものはない。その時はただじっと観念の眼をつぶってあきらめるよりほかはないだろうか。私はそんなことまで考えて、お宮も強盗のために汚されてしまったのだ。まして秘密に操を売っているお宮は、明らさまに柳沢が買ったといえばひどく気にさわるようなものの、柳沢の他に自分が見知らぬ人間に幾たび接しているか分らない。

 そうも思いえすと、その柳沢に汚されたお宮の肉体に対して前より一層切ない愛着が増して来た。

「そうだ! これから今晩すぐ行ってお宮を見よう」

 そう決心すると、柳沢が今晩もまた行ってお宮を呼びはしないかと思われて、気がけて少しも猶予してはいられない。そして柳沢が買ったのでもお宮に対する私の愛情には変化かわりはないと思いきわめてしまうと、もうこれから早く一旦いったん自家うちに帰って、出直して蠣殻町かきがらちょうにゆくことにのみ心が澄んで来た。

 喜久井町きくいちょうにかえると、老母ばあさんは、膳立ぜんだてをして六畳の机の前に運んで来た。私はそれを食べながら、かねの工面をして、出かけようとすると、

「またどこかへおいでなさるんですか」老母さんは、門の木戸を明けている私の背後うしろから呼びかけた。

「ええ、ちょっと」と、いったまま、私は急いで歩き出した。

 そして先だってお宮の連れ込みで行った、清月せいげつという小さい待合に行ってお宮を掛けると、すぐやって来た。

 一と口挨拶あいさつをした後は黙ってすわっているその顔容かおかたちから姿態すがたをややしばらくじいっとみまもっていたが柳沢がどうもせぬ前とどこにも変ったところは見えない。肌理きめの細かい真白い顔に薄く化粧をして、頸窪うなくぼのところのまるで見えるように頭髪かみを掻きあげてひさしを大きく取った未通女おぼっこい束髪に結ったのがあどけなさそうなお宮の顔によく映っている。そしてその女の癖であざやかな色したくちを少しゆがめたようにしてまぶしそうにひとみをあげて微笑みかけながら黙っていた。

「どうしていた?」

 私は、やっぱりじろじろとその顔を見守った。はたで、その顔を見ている者があったら薄気味わるく思ったかも知れぬ。

「いいい」お宮は何ともいえない柔かな可愛い声を出した。

 これが、あの柳沢にどうかされたのだ。と思えば他の男のことは不思議になんとも感じないのに、ただそればかりが愛情の妨げになって、名状しがたい、浅ましい汚辱を感じて堪えられない。

「お前ねえ、私の友達のところにも出たろう。||しかしそれは構わないんだけれど······

 私はじっと平気を装ってからいって見た。

「いいえ。そんな人知らない」頭振かぶりをふった。

「ああ、そりゃお前は知らないかも知れぬ。お前は知らないだろう。けれども出るのは出たんだ。僕がその友達から聞いたんだから」

「いや、知らない。あなたの友達なんか、ちっとも知らない」

「いや、知らないわけはないんだ。お前は知らないんだけど。······四、五日前に、背の低い色の浅黒い、ちょっときりッとした顔の三十ばかりの人間が来たろう」

 そういうと、お宮はしばらく思い起すような顔をしていたが、

「ああ、来た。久留米絣くるめがすりかなんかの羽織と着物と同じなのを着た。さっぱりした人よ。あの人よ、この間鳥安とりやすに連れて行ってくれた人」

 私はそれをくと、またかっと逆上のぼせて耳がふさがったような心地がした。

「そうだろう。あれが私の友達なの」

 私はその言葉でいて燃え立つ胸を静めようとするように温順おとなしくいった。

「あははは」お宮は仕方なく心持ち両頬をあかく光らして照れたように笑った。が、その、ちょっとした笑い方が何ともいえない莫連者ばくれんものらしい悪性あくしょうな感じがした。

 それっきり私はしばらく黙ってまた独りで深く考え沈んだ。

 つい先だって来た時にお宮と一処いっしょに薬師の宮松亭みやまつていに清月の婆さんをつれて女義太夫おんなぎだゆうを聴きにいっておそく帰った時、しるこか何か食べようかといったのを、二人とも何にも欲しくない、

「あなた欲しけりゃ、家へ帰って、叔母おばさんに洋食を取ってもらってお食べなさい。おいしいのがあってよ」と、いって、清月の小座敷でお宮とそれを食べている時、

「鳥安の焼いた鳥はうまいわねえ」と、いった。

「鳥安知っているの?」

「ええ、この間初めてお客に連れていってもらった。そりゃうまかったわ」

 こんなことをいっていたが、じゃ、その客は柳沢であったかと、私は思った。こういえば、お前にもすぐわかるだろうが、私といったら始終自分の小使銭にも不自由をしているくらいだが、柳沢は十円札を束にして懐中ふところに入れて歩いているという話のあるほどだ。私がかねを勘定しいしいお宮と遊んでいるのに、柳沢は銭に飽かして遠くに連れ出すなり、外に物を食べに行くなりしようと思えば、したい三昧ざんまいのことが出来る。

 それで、私は、先だって鳥安につれてった客が柳沢であったということが分ると、もうお宮を取ってゆかれそうな気がして、また堪えられなくなって来た。

「そりゃいつごろのこと?」

「うむ、ついこの間さ」

 ついこの間といえば、いつのことだろう。先だってからお宮は、深い因縁の纏綿つきまとった男が、またひょっこり、自分がまたこの土地に出ていることをぎつけて来たといって、今にもどこかへ姿を隠すようにいっていたのが、一週間ばかりして、また当分どこへもゆかないといって、それで、せんに来た時に一緒に義太夫を聴きにいったりしたのだ。あの時もう鳥安に行ったことを言っていたから、じゃ私が一週間ばかり来なかった、その間に柳沢は来て、私がまだ女をつれて外になど少しも出ない時分に鳥安なんかへ行ったのだ。女にかけては、世間では私などを道楽者のようにいっているが、よっぽど柳沢の方が自分より上手うわてだ。と思うと、私はなおのことお宮のことが心もとなくなって来た。そしてつまらぬことをお宮に根掘り葉掘りきたいのを、じっとおさえてこらえながらもやっぱり耐えられなくなって、さあらぬようにしてたずねた。

「あの人、好い男だろう」

「本当に好い男よ。私、あんな人大好き。着物なんか絹の物なんか着ないで、着物も羽織も久留米絣かなんかの対のを着て、さっぱりしているわ」

「何か面白い話しがあったか」

「うむ、あんまり饒舌しゃべらない人よ。そうしてじろじろ人の顔を見ながら時々口をいて、ちっとも無駄むだをいわない人。私あんな人好き」

 お宮には本当に柳沢が気に入っているのらしい。

「君が買った女だと思ったから、じっと顔を見ていてやったら非常に興味があった」

 こんなことを、柳沢は、さっき饗庭あいばもいる前で話していた。

 こちらは、柳沢がそんな意地の悪いことをするとは知らないから、胸に奸計たくらみいだいていてお宮を傍に置いていたことはない。柳沢の方じゃそうじゃない。これが雪岡ゆきおかの呼んでいる売女おんなであると初めっから知っていて、口を利くにもその腹で口を利いている。鳥安なんぞへつれ出すにも、そういう胸に一物あってしていることだ。

 こういうと、お前は、つまらない、蠣殻町の女風情ふぜいを柳沢に取られたといって、そんな他人聞ひとぎきの悪いことをいうのはおしなさい。あなたの器量を下げるばかりじゃありませんか。と、いうであろうが、それは私も知っているけれど、まあ、そんな具合で柳沢は最初お宮を呼んだのだ。そういえば、お前にも柳沢のすることが大抵判断がつくだろうと思って。

 そんないやな思いをしながらも、やっぱり傍で見ていれば見ていてお宮の美目形みめかたちが好くって、その柳沢の買った女をまた買った。

 そうして疲れてもどって来ると、神経が一層悩まされてお宮のことが気になって気になって仕方がない。私がいっている間だけは安心しているが、見ないでいると、その間は柳沢が行って、ああもしているであろう、こうもしているであろう。と思い疲れていた。

 それから柳沢とは、なるたけ顔を合わさぬようにしようと思ってしばらく遠ざかっていたが、またあんまり柳沢に会わないでいると、今日もお宮のところに行っているであろう。いっているに違いない。きっと行っている。と思いめぐらすと、どうしても行っているように思われて、柳沢の様子を見なければ気が済まないで久しぶりに行って見た。

 例の片眼の婆さんに、

旦那だんなはいるかね?」と、訊くと、

「ええ、おいでになります」

 何だか気に入らぬことでもあると思われて仏頂面ぶっちょうづらをしていう。

 柳沢が家にいるというので、私はいくらか安心しながら、婆さんがお上んなさいというのを、すぐには上らず、婆さんに案内をさせて、高い階段はしごだんを上ってゆくと、柳沢はあのさい体格からだに新調の荒い銘仙めいせんの茶と黒との伝法でんぼう厚褞袍あつどてらを着て、机の前にどっしりと趺座あぐらをかいている。書きさえすればあちらでもこちらでも激賞されて、売り出している真最中なので、もう正月の雑誌に出す物など他人ひとよりは十日も早く手まわしよくかたづけてしまって、懐中ふところにはまた札の束がふえたと思われて、いなせに刈ったばかりの角がりのほおのあたりに肉つきが眼につくほど好くなって、浅黒い顔が艶々つやつやと光っている。

 私は、何よりもそのきとした景気の好い態度ようす蹴落けおとされるような心持ちになりながら、おずおずしながら、火鉢ひばちわきに座って、

「男らしい人よ。私あんな人大好き」と、いった宮の言葉をおもい浮べて、それをまた腹の中で反復くりかえしながら、柳沢の顔と見比べていた。

 柳沢は最初はじめから、私が階段はしごだんを上って来たのを、じろじろと用心したような眼つきでみまもったきり口一つ利かないでやっぱり黙りつづけていた。私も黙りくらをするような気になって、いつまでも黙っていた。

「どうだ。このごろは蠣殻町にゆくかね?」打って変ったような優しい顔をしてさばけた口を利いた。

「うむ。ゆかない。もう止めだ。つまらないから。君はどうだね?」

「僕もあんまり行かないが、······その後お宮を見ないかね?」

 柳沢は、日ごろに似ぬどこまでも軽い口の利きようをする。

 私には、何だか両方が互いの腹を探っているような感じがして来た。そうして柳沢との仲でそんな思いをするのが厭でいやでたまらないのだけれど、今度のことは最初から柳沢が私たち二人の中へ横から割り込んで来たのだから仕方がない。

「いや、見やしないさ。あれっきり行かないから······

 といったが、お宮が、私が来たということを、もし柳沢に話していたら、すぐしりが割れてしまう。そんなうそを言って隠し立てをしているこちらの腹の中を見透かされると、柳沢の平生の性質から一層かさにかかって逆に出られると思ったから、

······おお、あれから一度ちょっと行ったかナ」

 と、さあらぬようにいった。そうして腹の中では、どこまでも、どこまでも後を追跡していられるようで気持ちが悪かった。

「よく売れると思われて、いつ行って見てもいたことがない」柳沢はやや語声を強めていった。

 じゃあ柳沢はあれからたびたびいって、お宮を掛けているのだナ。と、私はひそかに思っていた。

「君はこのごろまた大変にふとって、英気颯爽さっそうとしているナ」

 柳沢の顔を見守りながら、私は話頭を転ずるようにいった。

「うむ。僕はこのごろ食べる物が何を食ってもうまい」

 愉快そうにいって、柳沢は両手で頬のあたりをでた。

「君はこのごろ何だか影が薄くなったような気がする」

 と、冷やかに笑い笑いいって、また私の顔をじろじろ凝視みつめながら、

「そうして、だんだんいけなくなって······

 柳沢は、みじめな者を見るのも、聞くのも、さもさも厭だというように、顔をしかめていった。

「ああ、影が薄くなったろう」私は憮然ぶぜんとしてせた両頬を撫でて見た。

 そうしてこう思った。自分は、何も柳沢に同情をしてもらいたくはないが、しかし私がどうして今こんなになっているか、その原因については、とても柳沢は理解わかる人間ではない。あるいはわかるにしてもそのことが私ほど馬鹿馬鹿しく骨身にい入る人間ではないと思ったし、お前に置きて同然の目にわされたがためにこうなっているのだともいえないし、またそんな気持ちは話したからとて、そういう経験のない者にはわかるものでもないから、私はただそういったまままた黙り込んでしまった。

「お宮が、雪岡さんを見ると気の毒な気がする。と、いっていた」

 柳沢は、またそういって笑った。

············」私はしょげたように黙って笑っていた。

······今日はお宮いるか知らん。······これからいって見ようか······

 柳沢は私を戯弄からかうのか、それとも口では何でもなくいっていても、その実自分で大いにお宮に気があるのか、あるいはまた影の薄い私が思うようにお宮の顔を見ることが出来ぬのを惨めに思って、お勝手口の塵埃箱ごみばこに魚の骨をうっちゃりに出たついで、そこに犬のいるのを見て、そっちへ骨を投げてやるように、連れていってお宮に逢わしてやろうというお情けかと、私はちょっと考えたが、それはどちらにしたって構わない、とにかく柳沢とお宮と一座したら、両方にどんな様子が見られるか、柳沢にはお宮が好いのには違いない。そう思案すると、

「ああ、行ってもいい」

 これから二人はややしばらく気の置けない雑談に時を過しながら点燈ひともしごろから蠣殻町に出かけていった。

 柳沢は歳暮くれにしこたま入ったかねの中から、先だって水道町の丸屋を呼んで新調さした越後結城えちごゆうきか何かのそれも羽織と着物と対の、黒地に茶の千筋の厭味っ気のない、りゅうとした着物を着て、大黒さまの頭巾ずきんのような三円五十銭もする鳥打帽をかぶっている。私はあの銘仙の焦茶色になった野暮の絣を着て出たままだ。

 小石川は水道町の場末から九段坂下、須田町すだちょうを通って両国橋の方へつづく電車通りにかけて年の暮れに押し迫った人の往来ゆきき忙しく、売出しの広告の楽隊が人の出盛る辻々つじつじや勧工場の二階などで騒々しい音を立てていた。私はそんな人の心をもどかしがらすようなまちのどよみに耳を塞がれながら、がっかりしたような気持ちになって、柳沢が電車の回数券に二人分はさみを入れさせているのを見て、何もかも人まかせにして窓枠まどわくに頭をもたしていた。

「今日いるか知らん?」

 電車を降りると柳沢は先に立って歩きながら小頸こくびを傾けて、

「どこへゆこう?」

「さあ、どこでもいいが、その、君の先だって行ったところがよかないか」

 私は、これから後々自分が忍んでゆくところにしようと思っている清月に柳沢と一緒にゆくのは厭であった。

「じゃやっぱり彼家あすこにしよう。······僕もあんまり行かない待合うちだがお宮を初めて呼んだ待合だから」

 そういってお宮のいる置屋うちからつい近所の待合まちあいに入った。

······宮ちゃんすぐまいります」女中はらせて来た。

「いたナ!」私は微笑しながらいった。

「うむ」柳沢は、わざと苦い顔をした。

「今日はどんな顔をしているか。この間、昼、日の照っているところへ連れ出したら顔の蒼白あおじろいところへ白粉おしろいまだらげているのが眼についてきたなくってたまらなかった」

 そういって柳沢は顔を顰めて、

「どう見ても高等淫売いんばいとしか見えない」

「芸者ともどこか違うしねえ」

「そりゃ芸者と違うさ。この間鳥安に連れていった時に鳥安の女中が黙って笑っていたが、これは淫売をつれて来たなと思ったのだろう。少し眼のこえた者には誰れが見てもすぐそれと分るもの」

 柳沢はしきりにお宮のことを気にして話をする。柳沢がそんなに女というものに興味を持って話をするのは、まだ一緒に学校にいっている時から十年の余知っている仲だが、ついぞこれまでに聞かぬことである。

「これは、よっぽど執心なのだナ」と、私は、ますます柳沢の心が飲み込めて来るにつれて、どうしてもこれは吾々われわれの間に厭な心持ちのすることが持ち上らずにはいない。困ったことだと、ひそかに腹の中で太息ためいきいていた。

「それでもこの間歌舞伎座かぶきざの立見につれていってやったら、ちょうどしげの子別れのところだったが、眼を赤くして涙を流して黙って泣いていた。あれで人情を感じるには感じるんだろう」

 柳沢は、そのお宮の涙をしおらしそうにいった。

「歌舞伎座にもつれて行ったの?」

「うむ」

「いつ?」

「やっぱりこの間鳥安につれて行った時に」柳沢は済まない顔をして、そういって、ちょっとそこをまぎらすように「立見から座外そとに出ると、こう好い月の晩で、何ともいえないセンチメンタルな夜だった。僕は黙っているし、お宮も黙ってとぼとぼといて来ていたが、ふと月を見上げて『いい月だわねえ』と、いいながら真白い顔をこちらに振り向けた時には、まだ眼に涙を滲ませていて、そりゃ綺麗きれいなことは綺麗だったよ」

 さすがに柳沢も思い入ったようにいった。

 私は、それを聴いていて胸が塞がるような気がした。私がわずかばかりのかねの工面をして、お宮にただうのでさえ精一ぱいでいるのに柳沢はもうお宮とそんな小説の中の人間のような楽しい筋を運んでいるかと思うと、世の中のものが何もかも私をしいたげているような悲痛な怨恨うらみが胸の底に波立つようにこみあげて来た。そうしてよそ目には気抜けのしたもののように呆然ぼんやりとして自分一人のことに思いふけっていた。すると自分が耐力たあいもなく可哀かわいそうになって来て、今にも泣きこぼれそうになるのをじっとみ込むように抑えていた。

 ややしばらくってから取着手とってもない時分になって、

「歌舞伎座にもつれて行ったのか!」と、曖昧あいまいせいのない声を出した。

「その帰途かえりに鳥安にいったのだ」

 そして私は腹の中で、先日お宮が、

「書生らしい、厭味のない人よ。鳥安を出てから浅草橋のところまで一緒に歩いて行ったの。『僕はここから帰る。電車賃だ』と、いって十銭銀貨をすうっと私のに載せて、自分はそれきり電車に飛び乗ってしまって」

 こういって思い味わうようにしていたのを、自分でもまた想いだして、下らなく繰り返していた。

 そこへそうっとふすまを明けてお宮が入って来た。後からも一人若い女がつづいて入った。

「あらッ!」とお宮は、入って来るからちょうど真正面まともにそっち向きに趺座あぐらをかいていた柳沢の顔を見てはしゃいだように笑いかかった。

 いつもよく例の小豆あずき色の矢絣やがすりのお召の着物に、濃い藍鼠あいねずみに薄く茶のしっぽうつなぎを織り出したお召の羽織を着てやって来たのだが、今日は藍色の地に細く白い雨絣の銘仙の羽織に、やっぱり銘仙か何かの荒い紫紺がかった綿入れを着ているのが、良い家の小間使か、ちょっとした家の生娘のようで格別あどけなく美しく見えた。そうして私は、柳沢がいつか小間使というものが好きだ。といって、かつて大倉喜八郎の家へ新聞記者で招待せられた時、そこで一人の美しい小間使が眼にとまって、

「僕はあんな女が好きだ」と話していたことを思い出していた。

 白い顔に薄く白粉をして、両頬に少し縦に長い靨笑えくぼを刻みながら、眩しいような長い睫毛まつげをして

「どうしていたの? あなた。しばらくじゃないの」

 やっぱり柳沢の方に向ってそういいながら餉台ちゃぶだいはさんで柳沢と向い合って座った。そしてその横手に黙って坐っている私の方をチラリと振り向きながら、

「いらっしゃい!」と、一口低い調子でいった。

「よく売れると思われていつ来たっていないね」柳沢はじろじろお宮をみまもりながらいった。

「あら、あれから来たの。だって来たと言わないんだもの」

「僕は来たって、来たということを誰にもいわないもの。名なんかいやあしないもの」

 そういう名をこんな土地で明かして、少しでも女に好かれようとするようなことは自分はしないのだといわぬばかりにいった。

「あなたの名は何という名?」

おれには名なんかないのだ」

 今にも対手あいてみ付くような恐ろしい顔をしていながら柳沢はしきりに軽口を利いて女どもの対手になっていた。

「じゃ、名なし権兵衛ごんべえ?」も一人の十六、七の瓢箪ひょうたんのような形の顔をした口先のませた女がいった。

「ああ、僕は名なしの権兵衛」

「好い名だわねえ」

「うむ、好い名だろう」

 柳沢は、まるで人が違ったように気軽に饒舌しゃべっていた。

「今日お前はいつものよそゆきと違って大変ちょくうぶ身装なりをしているねえ」

 私は、お宮を見上げ見下していった。

「うむ。僕は、あんなお召や何かあんな物を着たのよりも、こんな風をした方が好きだ。······君は好い着物を持ってるねえ」

 柳沢がよくいいそうなことをいった。

「そう。これがそんなにあなたに気に入って?」お宮は乳のまわりを見廻みまわしながらそういって、柳沢の方を見守りつつ、

「あなたも今日は大変好い着物を着てるねえ。······今日はあの絣を着て来なかったの。あれが私大好き。活溌かっぱつで。······だけどその着物も好い着物だわ。こんどこしらえたの?」

「うむ。いいだろう」柳沢も自分の胸のあたりを見まわして、気持ちよさそうに言った。

「私もこんど好い春着を拵えたわ。······もう出来て来たわねえ」

 お宮はも一人の小女をちょっと誘うように見ていった。

「どんな着物だい?」私は黙っていた口を開いた。

「どんなって、ちょっと言えないねえ。羽織は縮緬ちりめんの紋付、着物は上下そろった、やっぱりお召さ」

 そこへあつらえた寿司すしが来た。

「君たちも食べないか」私は女どもにすすめながらつまんだ。柳沢はもう黙って口に押し込んでいた。

「食べようねえ」お宮はも一人の女に合図して食べた。

 柳沢は口をもぐもぐさせながら指先のよごれたのを何でこうかと迷っていた。

「ああ拭くもの?······これでお拭きなさい」

 お宮は女持ちのさい、唐草からくさ刺繍ししゅうした半巾ハンケチを投げやった。

 柳沢はそれで掌先を拭いて、それから茶を飲んだ後の口を拭いた。

「君、あっちい二人で行ったらいいじゃないか」

 柳沢は気を利かしてそっと私に目配せした。

「うむ。······まあ好いさ。······君はどうする?」私は自分でも明らかに意味のわからないことをいって訊いた。

「僕は、お前とここで話しをしているねえ」柳沢はふざけたようにも一人の女の顔をのぞくように見ていった。

 私は、自分の慎むべき秘密を人にあけすけに見ていられるような侮辱を感じたけれどこんなところにすでに来ていてそんな外見みえをしなくってもいいと思ったから、遠慮をしないでお宮をつれて別の部屋に入っていった。

 間もなく私たちは其待合そこを出て戻った。

「ふん! あんな変な女を連れて来て」

 柳沢は人形町の電車通りまで出て来ると、吐き出すようにいった。

「君は、どうもしなかったかね?」

「どうもするもんか。あんな小便臭い子供を。お宮はあんなやつを、自分の妹分だといって、あれを他の客によく勧めるんだ。だれがあんな奴を買うものがあるもんか!」

 中二日置いて、この間からいっていた、外套コートを買ってやる約束があったのでまたお宮に逢いに行った。清月にいって掛けるとお宮はすぐやって来た。

「今日外套を一緒に買いにゆこう」

「今日」と、お宮はうれしさを包みきれぬように微笑わらい徴笑い「これから? おそかなくって?」行きとうもあるし、躊躇ためらうようにもいった。

「ゆこうよ。遅かない」

「そうねえ。何だか私、今日怠儀たいぎだ。······あなた一人行って買って来て下さい。私どこへもゆかない、ここに待っているから······その辺にいくらもある」と、無愛相にいう。

「いや、それはいけない、僕は一緒に物を買いにゆくのが楽しみなのだ」

 先だってから、

「私コ|トが欲しい。あなた表だけ買って下さい。裏は自分でするから」

 といっていた。私はお前と足掛け七年一緒にいたけれどコート一枚拵えてはやらなかった。それに三、四度逢ったばかりの蠣穀町の売女風情ばいたふぜいに探切立てをしていくら安物とはいいながら女の言うがままにコートを買ってやるなんて、どうしてそんな気になったろうかと、自分でも阿呆あほうのようでもあり、またおかしくもなって考えて見た。そうすると先き立つものは涙だ。

「ああ、おすまには済まなかった。七年の間ろくろく着物を一枚着せず、いつも襷掛たすきがけけの水仕業みずしわざばかりさせていた」

 そう思うと、売女おんなにたった十五円ばかりのコートの表を一反買ってやるにしても、お前に対して済まないことをするようで気がとがめたけれど、また

わしが、かげでこんなにひとりの心で、ああ彼女あれには済まない。と思っているのをも知らないで、九月の末に姿を隠したきり私のところには足踏みもしないのだ。あんまりな奴だ。······あんまりひどいことをする奴だ。······ナニ構うものか、お宮にコートを買ってやる! 買ってやる! おすまが見ていなくってもいい、面当つらあてにお宮に買ってやるんだ!」

 誰れもいない喜久井町の家で、机の前に我れながら悄然しょんぼり趺座あぐらをかいて、そんな独言をいっていると自分の言葉にきあげて来て悲しいやら哀れなやら悔しいやらに洪水おおみずき出るように涙がにじんで何も見えなくなってしまう。

 それで当然あたりまえならば正月着はるぎの一つも拵えなければならぬ冬なかばに、またありもせぬ身の皮を剥いだり、惜しいのばかり取り残しておいた書籍ほんを売ったりしてやっといるだけのぜにを工夫してお宮の気嫌げんをとりにやって来たのだ。

 それを、さぞ喜ぶかと思いのほか、ありがとうともいわないで、何か厭なところへでも行くように怠儀そうにいう。女というものはこんなにも我儘わがままなものか、今にばちが当るだろう。と腹の中で思ったがこの間は柳沢と一緒に外に出て、歌舞伎座や鳥安に行ったことがあるので、私もぜひどこかへ連れていきたくて仕方がなかった。それで「この不貞腐ふてくされの売女ばいため!」と思ったが、素直にいそいそと立とうとしないのが業腹で、どうかして気嫌よく連れてゆこうと思って

「ねえ行こうよ。そして帰途かえりに何か食べよう」と、優しくいうと、

「そう、じゃ行こうかねえ。すぐそこらにいくらもあるよ」いけ粗雑ぞんざいな口でいう。

「ああ、お前はさっきからすぐそこらで買うつもりでいたの? それで私に一人で行って買って来てくれといったのか」

「そうさ! あんな物どこにだってあるよ」

「いや、そりゃいけない。どこかもっと好いところにゆこう」

「日本橋の方へ?」

「ああ」

「そう、じゃ私ちょっと自家うちへ帰って主婦おかみさんにそういって来るから」

 と、いってお宮は帰っていった。間もなくやって来て、今度はさきと打って変って、いつか一週間も逢わないでいて久しぶりにお宮のいる家の横の露地口で出会った時のようにげらげら顔をくずしながら

「自家の主婦さん、『雪岡さん深切な人だ。ゆっくりいっておいで』と、いっていたわ!」

 こんどは、そんなことを言やあがる。何というむらっ気の奴だろうとしゃくさわったけれど、一緒に連れ出したいのが腹一ぱいなので気嫌を直して行くというから、こちらも嬉しくって外に出た。

「主婦さあ、『日本橋の松屋においで、松屋が安くって好いから』と、いっていたわ。うちの主婦さあも彼店あすこで買うの」

 お宮が気の浮いた時によく出す主婦さあというような調子で声を出しながらいそいそとして歩いた。

「安いといったって、何ほど違うものか」と思いながら「じゃそこへ行こう」私は、お宮の言うとおりになった。

 蠣殻町から汚い水のおどんだ堀割を新材木町の方へ渡ってゆくと、短い冬の日はもう高いむね彼方かなたに姿を隠して、夕暮らしい寒い風が問屋物とんやものを運搬する荷馬車のきしって行く跡からかわききった砂塵すなほこりを巻き揚げていった。

 柳沢の言い草じゃないが、こうして連れ出して見ると、もう暗い冬の日光ひかげの照りやんだ暮れ方だからまだしもだとはいいながら今さらにお宮の姿が見る影もなくって、いつものお召の羽織はまあいいとして、その下には変な唐草模様のある友禅めりんすの袷衣あわせか綿入れを着ているじゃないか。それが忙がしそうに多勢の往来している問屋町の前を通って行くのがひどく目に立って、私はせっかくの思いに連れ出していながら、独り足早にさっさっと先きに立って歩いた。

 そんな風をした女をつれて松屋へ入って行くのが冷汗をかくようであったが誰れも知った人間にいはしないだろうかと恐る恐る二階に上ってゆくと、よくしたもので二階のすぐ上り口の鼻先に知った人間が夫婦ふたりで買い物をしている。私はちょいとお宮のそでを引っ張ってすうと物蔭に隠れてしまった。間もなくそれらが降りていったので私は恥かしそうに売場の番頭の前に安物の下着のようなめりんす友禅を着たお宮をつれて行った。

 すると、お宮がちょうどお前と同じことだ。どうして女というものはああなんだろう。お前にいつか袷衣あわせにするからといって紡績物の絣を買った時にどうだったろう、私が見立てて買って来てやったのを、柄が気に入らぬからといって、何といった?

「あなた、そんな押し付けるようなことをいうもんじゃないわ、何か買って来た時は||『お前にこんな物を買って来てやったが、どうだい、気に入るか』って、まずくものよ」

 そんなことをいった。あの時お前は、せん亭主ていしゅは、それは深切であった、深切であったと、よく口癖のようにいっていたから、

「それはお前の先の亭主はそんなことをいってお前を可愛かわいがったか知れないが、俺はそんなことをいうのはいやだ」

 と、いって笑ってやったら、その時お前は気嫌悪そうな顔をしながら笑った。でも、やっぱりその柄が気に入らないからといって、せっかく私とその呉服屋の息子とで見立ててこれが好いときめた物を、また他なのを子僧に持って来さして比べて見た。そしてやっぱり先のがお前にも気に入った。それから早速仕立てて着て見たら、「あなた、これはなかなか好い柄ですよ。姉のところに着て行ったら、『好いのが出来たねえ』って、引っ張って見ていました」

 そういったじゃないか。

 お宮がそのとおりだ。

 たかがセルのコートを一枚買うのに、いろいろ番頭の出して見せる品物ものを、

「ああこれが好い!」と、手に取り上げているかと思うと、後から変った柄のが出ると、

「ああこの方がいいわ!」そしてまたそっちに手を出す。

「じゃ、その方にめたらいいだろう」と急くと、

「やっぱりこっちの方が好いわ」と、指を一本口の中に入れて考えたようにしている。私は番頭の手前つくづく穴にもはいりたくなって、

「じゃ、そっちのにするさ」

············

「これも、なかなかおよろしい柄でございます」

 番頭がそういって、お宮が手放した方を取り上げて斜めにながめていると、

「じゃあ、あっちにしようか?」こうだ。

「さあさあ※(感嘆符二つ、1-8-75) もういい加減にしてどれかに早くきめたらいいじゃないか」私はれったくなって、せき立てた。

「いえ、どうぞ御ゆっくりと御覧なすって下さいまし」番頭はお世辞をいった。

「これがおよろしいじゃございませんか」こんどはせんのと違ったのを取って見た。

「じゃ、あれにするわ!」お宮は口から指を出していった。そしてついに番頭が二度めに取り上げたのにきめた。

 きめたのはいいが、後で聞くと、家へ持って帰ってから多勢みんなにいろいろにいわれて、翌日あくるひ自分でまたわざわざ松屋まで取り換えにいって、他なのを取って来ると、また主婦おかみや他の売女おんなどもに何とかかとかいわれて、こんどは電話をかけて持って来てもらって、多勢で見比べたが、やっぱり元のにきめたのだそうな。

 私はそんなことを聞いてから、お宮という奴はよっぽど浮気な、しょっちゅう心の動揺ぐらついている売女だと、ちょっと厭あになったが、それでもやっぱりめられなかった。

 松屋から帰途かえりに食傷横丁に入って、あすこの鳥料理に上った。私は海鼠なまこさかなけぬ口ながら、ゆっくりした気持ちになって一ぱい飲みながら、お宮のために鳥を焼いてやって

「どうだ? うまいか」と訊くと

「あんまりうまくないわねえ。······私今日昼から歯が痛いの」

 そういって渋面しかめつらをして、口をゆがめてすすり込むような音を立てていた。

 その夜遅くなってから

「俺はもう帰ろう!」

 考えていると、だんだんつまあらなくなったので、私はむくりと起き上ってこっちもあんまり口をかないでもどって来た。自家うちに戻るといえばいいが、ようよう電車に間に合って寒い深更よふけに喜久井町に帰って来ると婆さんは、今晩もまた戻って来ないと思ってか、とっくに戸締りをして寝ていた。どんどんたたいて起すと、

「あなたですか、また遅くかえって!」

 と、ぶつぶつ口の中でいいながら戸を明けてくれた。

 私は押入れを明けて氷のような蒲団ふとんの中へ自棄糞やけくそにもぐりこんで軒下の野良犬のらいぬのように丸く曲ってそのまま困睡した。


 老婆ばあさんは、前にもいったようにきっとお前や柳町の入れ知恵もあったのだろうが、私にここのうちを出ていってくれといって、後には毒づくように言って追い立てようとした。

 私も、お前がどこにどうしているか、それを知りたいばかりに喜久井町の家でふさぎこんで湿っぽい日を暮しているものの、そこにいたって所詮しょせん分るあてのないものとなればどこか他の、もっと日当りの好い清洒こざっぱりとした間借りでもしようかと思っていたが、それにしても六年も七年も永い間不如意ながら自分で所帯をもって食べたい物を食べて来たのに、これから他人の家の一を借りて、恋でも情けでもない見知らぬ人間に気兼ねをするのが私には億劫おっくうであった。それでずるずるにやっぱり居馴いなれた喜久井町の家に腐れ着いていたのだ。

 すると弟の柳沢のいた、あの関口の加藤の二階が先だってから明いていて、柳沢のところの老婢ばあさん

「雪岡さん、本当においでになるんでしょうか、おいでになるんなら、なるんでそのつもりで明けておくから」

 といって、加藤の家の主婦おかみさんが伝言ことづけをしていたというから、それで喜久井町の家の未練を思いきって其家そこへ移ることに決心した。

 それは確か十二月の十七日であった。よいから矢来やらいの婆さんのところの小倉おぐらの隠居に頼んでおいて荷物を運んでもらった。

 えたような心を我れから引き立てて行李こうりをしばったり書籍ほんをかたづけたりしながらそこらを見まわすと、何かにつけて先立つものは無念の涙だ。

「何で自分はこんなに意気地いくじがないのだろう。男がこんなことでは仕方がない」

 と、自身で自身をしかって見たが、私にはただたわいもなく哀れっぽく悲しくって何か深いふちの底にでも滅入めいりこんでゆくようでこらしょうも何もなかった。

 小倉に一と車積み出さしておいて、私は散らかった机の前で老母ばあさん膳立ぜんだてしてくれた朝飯のはしを取り上げながら

「お老母ばあさん、長いことお世話になりましたが、私も今日かぎり此家ここを出てゆきます。もう此家を出てしまえば私とおすまやあなた方との縁もそれで切れてしまいます。七年の間には随分あなたやおすまに対してひどいことをいったこともありますが、それは勘弁してもらいます。······私も出て行ってしまえば、もうおすまをどうしようとも思いませんから安心して下さい。······真実ほんとうにおすまはどうしているんです。私がこうして綺麗に引き払って出てゆくんですから、それだけ言ってきかしたって別条ないでしょう」

 私は心からびるような気になって優しくいった。すると老母さんはどう思ったか、きっとそんな言葉には何とも感じなかったろうが、膳を置いてゆきがけにからだを半分襖に隠すようにして

「おすまは女の児の一人ある年寄りのところにかたづいています······

 老母さんの癖で言葉尻を消すようにただそれだけいって、そのまま襖をぴたりとめて勝手の方へ行ってしまった。

 私はそれをくと一時ひととき手腕うで痲痺しびれたようになって、そのまま両手に持っていた茶碗ちゃわんと箸を膳の上にゴトリと落した。一と口入れた御飯が、もくし上げて来るようで咽喉のどへ通らなかった。

 そして引越しの方はそのまま小倉に任せておいて私はまるで狂気のようになって家を飛び出した。

「ああ、七年添寝をしていたあの肉体からだは、もう知らぬ間に他の男の自由になっていたのだ。ああもう未来永劫えいごう取返しのつかぬ肉体になっていたのか!」

 と、心を空にその年寄りだという娘の子の一人ある男の顔容かおかたちなどをいろいろに空想しながら、やたらに道を歩いていった。

 そうしていつか矢来の老婆ばあさんが

「どうもおすまさんは伝通院でんづういんの近くにいるらしい」

 と、いったことを思って山吹町の通りからいっさんに小石川の方に出て伝通院まで行って、あすこの裏あたりのごみごみした長屋を軒別けんべつ見て廻った。そしてがっかりくたびれたあしりながら竹早町から同心町の界隈かいわいをあてどもなくうろうろ駆けまわってまた喜久井町に戻って来た。

「もう皆な小倉さんが持っていきなすったんですよ。もう何にもありやしません」

 老婆さんは、何しに来たかというように言った。

 だんだん減っていた私の所持品もちものといってはさい荷車一つにも足らなかった。小倉は暇にまかせて近いところを二度に運んでいった。

 そうなくてさえ薄暗い六畳二間ががらんとして荷物を運び出した後がまるで空家あきやのように荒れていた。

 私は老母ばあさんのぶつぶつ言っているのを尻目しりめにかけながら座敷に上って喪心したようにどかりと尻を落してぐったりとなっていた。

 家外そとは静かなあったかな冬の日が照って、どこかそこらを歩いたらば、どんなに愉快だろうと思うようにカラリと空が晴れていた。

 ようやく立ち上って私はそこらの家ん中を見てまわった。すると台所の板の間に鼠入ねずみいらずがあるのに気がついて、

「ああ、これは高いかねを出して買ったのだ」と思いながら、方々の戸棚とだなを明けて見るといろんな物が入っている。よく二人の仲が無事であった時分に私が手伝って西洋料理をこしらえて食べた時のパン粉やヘットのにおいがして、戸棚の中にこぼれている。

 小袖斗こひきだしの中には新らしい割箸がまだたくさんにある。

「お客に割箸の一度使ったのを使うのは、しみったれていますよ。あんな安いものはない。それでもよく黒くなったのを出す家がありますよ。私はあんな人気が知れない」

 そういって割箸の新しいのなどには欠かさなかったお前の効々かいがいしい勝手の間の働き振りなどを、私はふと思い起してしばらくうっとりと鼠入らずの前に立ち尽して考え込んでいた。すると、

「なんです?」

 老母ばあさんが四畳半の部屋から顔をのぞけて私が鼠入らずの前に突っ立って考えているのを見て

「あなたその鼠入らずまで持っておいでなさるんですか? それはおすまにやるんじゃありませんかおすまにやるとおいいなすったんじゃありませんか」

 口の中で独語ひとりごとでもいうようにぶつくさいった。

 私は癪に障ったから、道具屋を呼んで来てそいつを叩き売ってやろうという考えが起った。

 なるほどこれはお前にやるとはいったことはあるようだが、矢来の老婆ばあさんのところに来ての話しにも

「おさん、こんど雪岡が来たら、そういって所帯道具などは安い物だ。後腐りのないように何もかも売ってしまうようにいって下さい。あんな物がいつまでも残っていてしょっちゅう眼についているとかえっていろいろなことをおもい起していけないから」

 と、そういっていたというのを思い浮べたから、私は外の通りに出て古道具屋をさがしたが、一軒近くにあった家では亭主が出ていて、いなかった。それでまた「え、面倒くさい!」と思って老母さんのいうがままにうっちゃらかしてとうとう喜久井町の家を出て加藤の家へやって来た。

 加藤の家では主婦かみさんが手伝って小倉と二人がかりであの大きな本箱を二階に持って上って置き場を工夫しているところであった。

南向きの障子には一ぱい暖かい日がして、そこを明けると崖下がけしたを流れている江戸川を越して牛込の窪地くぼちの向うに赤城あかぎから築土八幡つくどはちまんにつづく高台がぼうともやにとざされている。砲兵工廠こうしょうの煙突から吐き出す毒々しい煤煙けむりの影には遠く日本銀行かなんかの建物がかすかに眺められた。

 私は、そこの※(「木+靈」、第3水準1-86-29)子窓れんじまどしきいに腰をかけてついこの春の初めまでいた赤城坂の家の屋根瓦やねがわらをあれかこれかと遠目に探したり、日本橋の方の人家を眺めわたしたりして、いくらか伸び伸びとした気持ちになっていた。


 まだ一緒にいる時分よくせんのうち、お前が前の亭主と別れて帰った時の話しをして、四年前一緒になる時にも仲に立った人間が、

「おすまさんもまんざら悪くもなければこそこうして四年もいたのだから、あの人の顔を立てて半歳はんとしの間はどんな好い縁談はなしがあっても嫁かないようにして下さい」

 と、いって別れて戻ったと言ったじゃないか、私とはまる七年近くも一緒にいて、それで私がまだ現在お前の親の家にいる間にそんなことをしたかと思うと、どれほど私の方でああ済まぬことをした、苦労をさした、気の毒である、可愛かわいそうだと思っていても、そう思っていればいるほどお前ら一族の者の不人情な仕打ちを胸に据えかねて、そのままあのとおりの手紙を寝床の中で書いたのだ。

 柳町の新吉の奴、どうしてくれよう。まだ暑い時分であった。私が、ともかくもお前と別れることになって、当分永い間東京に帰らぬつもりで函根はこねにいって、二十日はつかばかりいて間もなくまた舞い戻って来た時、

 新橋に着くとやッと青の電車の間に合って、須田町まで来ると、もう江戸川ゆきはなかった。ようよう電車賃が片道あったばかりだからくるまにも乗らず、幸い夏の夜で歩くのによかったから、須田町から喜久井町までてくてく歩いて戻った。

 思いきって一旦いったん出て去った家へ帰るのは、それは仲に入って口を利いた柳町に対しても好かあないと思ったけれど、一時過ぎてから門をくぐって庭から廻り四畳半の老母ばあさんに聞えぬようにお前の枕頭まくらもとと思う六畳の縁側の戸を叩くと、

「あなたですか※(感嘆符疑問符、1-8-78)

 と、お前が眼をましてなかから忍ぶように低声こごえで合図をしてくれた。

 私は、やれ嬉しやと、お前が起き出て明けてくれた雨戸からそうっとはいりこんだ。夏の夜更よふけの、外は露気を含んで冷や冷やと好い肌触はだざわりだけれど部屋の中は締め込んでいるのでむうっと寝臭い蚊帳かやの臭いに混ってお前臭いにおいが、夜道に歩きくたびれた私の肉体からだを浸すようにそこらにもっていた。私は何とも言いがたいそのにおいのなつかしさにそのまま蚊帳のすそをはねて寝床にころげ込むと、初めの内はやさしく私を忍ばせたお前が何と思ったか寝床に横たわりながら

「あなたあっちいってお休みなさい。別にあなたの蚊帳をってあげますから······ここは私の寝るところです」

 と、神経の亢進たかぶったようにはねつけた。

「いんにゃ、ここでいい、もう怠儀だ」

「怠儀だって、それはあなたの勝手じゃありませんか。あなたはもうここを出てった人です。一旦切れてしまえば、あなたと私とはもう赤の他人ですから、どこか他へ宿を取るなり、友達のところに行くなり、よそへいって泊って下さい」

············

「ねえ、そうして下さい。ここは私の家です、あなたの家じゃありません。こうしていて明日あす老母おばあさんに何といいます。あなた私の家の者を馬鹿にしているんだからそんなことは何とも思わないでしょうが、私が翌朝あす老母ばあさんに対して言いようがないじゃありませんか。私がすき好んでまたあなたを引き入れでもしたように思われて······

············

「ねえ、そうして下さい。どっか他へいって泊って下さい。あなたは何をいっても私の言うことなど馬鹿にしている。そうなくてさえ柳町の姉を初め自家うちの者は皆な私が浮気であなたとこんなことをしているように思っているんですから。あなたは、そりゃ男だし、ちゃんとおかねをかけて一人で食べてゆかれるようにしてある体ですから、浮気をしたっていいでしょうが、私は少しもそんな考えであなたと今まで一緒にいたんじゃない」

 そういいながらだんだん眼がえて来たと思われて、寝床の上に起き直ってむやみと長煙管ながぎせるで灰吹きを叩いていた。

 蚊帳ごしにれくる幽暗うすぐらい豆ランプの灯影ほかげに映るその顔を、そっと知らぬ風をして細眼に眺めると、すごいほどあおざめた顔に色気もなくつかねた束髪の頭髪あたまがぼうぼうといかかっていた。

 私は、いいたいだけ言わしておいて、借りて来たねこのように敷布団の外に身を縮めてそのままねむりこけた。

 

 翌朝あくるあさになると、それでも気嫌よさそうに

「お老母さんには、柳町に行っても、あなたのことは何にもいわないようにしておくれ。と、いっておきました」

 そういった。

「ああそうか」

 と、いいながら、私は、久しぶりで口に馴れたお前の手でけた茄子なす生瓜きゅうりの新漬で朝涼あさすずの風に吹かれつつ以前のとおりに餉台ちゃぶだいに向い合って箸を取った。

「あなた、またああそうかって、ああそうかじゃいけませんよ。老母さんに口留めしている間に二、三日の内に下宿なり、間借りをするなり早く他へ行って下さい」

 そういわれて、私はせっかくうまく食べかけていた朝飯が溜飲りゅういんになってしまった。

 三日目に老母さんから聴いたと思われて、柳町から新吉がすさまじい権幕でやって来た。

 私は折から来客があったので、老母さんの四畳半の方に上っていった様子をチラリとたから、わざとその客を引き留めて雑談に時を過しながらヒステリーの女みたいに癇癪かんしゃくの強い新吉の気を抜いていた。

「あなた、新さんが、ちょっと雪岡さんに話しがあるといって、他室あちらでさっきから来て待っています」

 お前が、さも新吉の凄じい権幕におびえたように、神経のこわばった相形そうぎょういて微笑わらいを見せながら、そういって私の部屋に入って来た。

「雪岡さん、君は一体どんな考えでいたんです? つい此間こないだ函根に行く前に奇麗に此女これと手を切って行ったんじゃありませんか」

 私には、新吉のいう文句よりもその躍起となって一時血の循環めぐりの止ったかと思われるように真青になった相形が見ていていやだった。

 私は、その毒々しい顔を見ながら、わざとずるく構えて新吉にばかり言いたいだけ文句を並べさして黙り込んでいた。

「お前さんはずるいよ、人にこんなに饒舌しゃべらしておいて。さあ、どうしてくれるんだ? 雪岡さん、今ここを出ていって下さい」

「あなたがそんなに言わなくっても出てゆくさ。しかし出てゆくには出てゆくで、私の方でも下宿するなりどうするなり、いろいろ準備をしなければならぬから」

 私は対手あいてにするのが厭で鄭寧ていねいにいうと、

「準備をするのはもう何日も前から分っているじゃないか、そりゃお前さんの勝手だ。こっちはそんなことは知らない。早くこの老母おふくろの家を出て行っておくんなさいッ······さあ出て行っておくんなさいッ」

 私がつい一と口くちを出すと、また図に乗って十口も文句を並べた。

「猫や犬じゃあるまいしそんなに早く出てゆかれるものか」

「お前さんのような道理わけの分らない人間は猫や犬を見たようなものだ。何だ教育があるの何のといって、人の娘を玩弄おもちゃにしておいて教育が聴いてあきれらあ。······へんッお前さんなんぞのような田舎者いなかものに江戸ッ児が馬鹿にされてたまるものか」

 まるで人間を見たことのない田舎の犬がえつくようにぎんぎんいった。

 私は微笑うすわらいしながら黙っていた。

「あなた、今日出て行って下さい。······義兄あにさんのいうのが本当です。あなたが一体函根からまた此家ここへ舞い戻って来るというのが違っているんですもの」そういって新吉の方に向いて言葉を柔らげて「私が出します。ほんとに義兄さんには多忙いそがしいところを毎度毎度こんなつまらぬことで御心配ばかりかけて済みません」

「ええ、いや。しかしおすまさんもおすまさんじゃないか。雪岡さんがいくら戻って来たってお前さんが家へ入れるというのがよくない······

「ええ、それはもう私が悪いんです。そのこともこの人によくそういったんです。お急がしいところをどうも済みません。きっとこの人も出てゆきますから、どうぞもう引き取って下さいまし。······また大きな仕事を何かお請けなすったって」お前はそういってほかへ話をそらそうとした。

「いえ、ええ」と、新吉は得意げな返辞を洩らしながらだんだん静かになって来た。

······あなた、新さんがあんなにいうんですから、どうぞ新さんのために別れると思って此家ここを出ていって下さい」

 新吉が帰っていってからお前は私の傍に戻って来てそういった。

「何だ。あの物のいい振りは。わしはあんな人間がお前の姉の亭主だと思うと厭だからいわなくとも早くどこか探して出てゆくよ」

「初めガラッと門をあけて入って来た時に、あんまり恐ろしい権幕だったから、私はどうしようかと思った。私をちでもするかと思った。私、あれが新さんが厭なの。そりゃ姉の亭主だから義兄にいさんにいさんと下手したでに出ていれば親切なことは親切な人なんですけれど」

「なんだ。教育がどうのこうのッて」

「自分一人偉い者のようにいって」お前もそういって冷笑わらった。

 そんなやかましいことがあったけれど、私がどうしてもずるずるに居据って出てゆかなかったのでとうとうお前の方から姿を隠してしまったのだった。

 そしていつの間にかもうそんなところへかたづいていたのだと聴いたから、私は、新吉はじめお前たちを身を八裂きにして煮てってもなお飽き足らぬくらい腹が立ってあんなに、お前をどこの街頭まちつじでも構わない、見つけ次第打ち殺すと書いたのだ。

 加藤の二階で、寂しさやる瀬なさに寝つかれぬままその手紙を書きながら、どうあってもお前を殺すという覚悟をしていると、いくらか今朝からの怨恨うらみが鎮静して来たようだった。

 翌朝あくるあさその手紙を入れた足で矢来の老婆ばあさんのところにゆき

「おばさん、もうおすまのやつほかへ嫁づいていやがるんだ!」

 そういって、私は身を投げるようにそこに寝転んだ。

「へえ! もう嫁いているんですって?······誰れがそんなことをいいました」

 昨日きのうこれこれでお前の老母おっかさんから聴いたという話しをすると、

「そうですか。······どうも私にはそんなには思われませんがねえ。けれどもおすまさんも年がもう年ですから、急いでそうしたかも知れません」

 老婆ばあさんは手頼たよりないことをいいながら、相変らず状袋をはる手をつづけていた。

 あんなに私がしおれて正直に出たのだからお前の老母おっかさんがよもやうそをいいはすまい。そうすると嫁いているに違いない。嫁づいているとすれば、返すがえすも無念だ。そう思うとその無念やら怨恨うらみやらは一層お宮を思い焦がれる情を切ながらした。


 お宮のいる家の主婦おかみとも心やすくなって、

「雪岡さん親切な人だ。大事におしよ」と、いっていたというのをお宮の口からよく聴いた。

自家うちの主婦さあ、雪岡さんのとこなら待合にゆかないでもあっち行って泊らしてもらっといでと、いっているのよ」

「そうか、じゃ僕のところに来てくれたまえ」

 その内私は加藤の家の主婦にも事故ことわけを話して点燈ひともしごろから、ちょうど今晩嫁を迎えるような気分でいそいそとして蠣殻町までお宮を迎えにいった。

 帰途かえりには電車で迂廻まわりみちして肴町さかなちょうの川鉄に寄って鳥をたぺたりして加藤の家へ土産みやげなど持って二人俥を連ねて戻って来た。

「それは御無理はありません。七年も八年も奥さんのおあんなさった方が急に一人者ひとりにおなんなすったのでは。誰れか一人楽しみがなければつまりません」

 と、いってくれている主婦は、私が女を連れ込んで来たのを快く迎えて枕の心配などしてくれた。

 翌朝あくるあさ日覚めると明け放った※(「木+靈」、第3水準1-86-29)子窓れんじまどから春といってもないほどなあったかい朝日が座敷のすみまでし込んで、牛込の高台が朝靄あさもやの中に一眸ひとめに見渡された。

「好い景色ねえ。一遍自家の主婦さんと一緒に遊びに来るわ!」

 お宮は窓にもたれて余念もなく遠くの森や屋根をながめていた。

 私はまるで新婚の朝のようなうららかな心持に浸って、にわかに世の中の何もかもが面白いものに思いなされた。

 いつも階下したにおりて食べる御飯を、今日は主婦さんがさい餉台をもって上って、それに二人の膳立ぜんだてをしてくれた。

 私の大好きな小蕪こかぶの実の味噌汁みそしるは、せんのうち自家でお前がこしらえたほど味は良くなかったけれど久しぶりに女気がそこらに立ち迷うていて、二人差向いでお宮にたき立ての暖かい御飯の給侍きゅうじをしてもらって食ぺていると、まるで御飯が咽喉のどへ飛び込むようであった。女というものは恐ろしいものだが、どうしてまたこうおなかの具合を良くするものであろう。それに比べると医者からもらった胃の薬なんざあ駄目だめだなあと思った。

 お宮は五円札を一枚やるとうれしさを押し包むようにくちをきゅっと引き締めて入口まで送って出た私の方を格子戸こうしどを閉めながらさも思いを残してゆくような嬌態しなを見せて、

「さようなら!」と、眼を瞑るようにしながら猫のような繊細かぼそ仮声つくりごえをして何度も繰り返しながら帰っていった。

 私は急いで二階に駆け戻って、お宮の帰ってゆく姿の見られる西側の小高い窓を開いてそっちの方を見送ると、今しもお宮は露路口の石段を上って表の通路とおりに出で立ちながら腰帯のゆるみをきゅっと引き締めながら、

「これから帰ってまた活動するんだ」と、いわぬばかりに鬼の首をも取らんず凄じい様子で眼八分に往来を見おろして歩いていった。

 それを見て私は浅ましい考えにつづいて厭らしい気がした。

 加藤の家に来てから柳沢の家とはすぐ目と鼻とであったが、お宮がちょいちょい私の二階に泊りに来るようになってからは、一層気をつけて柳沢の家へは立ち寄らぬようにしていた。たまにそれとなく入っていって柳沢の留守に老婢ばあさんと茶の間の火鉢ばちのところで、聞かれるままにお前のうわさばなしなどをしたりして、ついでに柳沢の遊ぶ話など老婢さんが問わず語りにしてきかすのをきいても、それからお宮のところへはあまり凝ってゆかぬらしい。

 私は、とにかくにお宮を自分の物にしたような気になっていた。

 三日ばかり間を置いて、お宮が病気で休んでいるという葉書をよこしたので、私は親切だてに好い情人いろおとこ気取りで見舞かたがた顔を見にいった。

 平常ふだんでさえにぎやかな人形町通りの年の市はことのほか景気だって、軒から軒にかけ渡した紅提燈べにぢょうちん火光ほかげはイルミネーションの明りと一緒に真昼のように街路まちの空を照らして、火鉢や茶箪笥ちゃだんすのような懐かしみのある所帯道具を置き並べた道具屋の夜店につづく松飾りや羽子板の店頭みせさきには通りきれぬばかりに人集ひとだかりがしていた。

 他人になった今でも、それを聞けばお前は、またかといってさぞ顔をしかめるであろうが、年暮くれに入用があって故郷くにから取り寄せた勧業銀行の債券が昼の間に着いたので、それを懇意な質屋にもって行って現金に換えた奴を懐中ふところに握って、いい気持ちになりながら人群ひとごみを縫うて通った。

 そして三原堂で買った梅干あめを懐中にしてお宮の家の店先からのぞいた。

 狭苦しい置屋の店も縁起棚えんぎだなに燈明の光が明々あかあかと照りえて、お勝手で煮る香ばしいおせちにおいが入口の方まで臭うている。

 早くに化粧みじたくをすました姿に明るい灯影を浴びながらお座敷のかかって来るのを待つ間の所在なさに火鉢の傍に寄りつどうていた売女おんなの一人が店頭みせさきに立ち表われた。

「お宮ちゃん内にいるのはいますが······

「出られないでしょうか」

「雪岡さんかい?······どうぞお上んなさいと、そうおいい」奥の茶の間から主婦おかみの声がした。

「どうぞお上んなさい。宮ちゃんいます」売女は主婦の声をきいてそういった。

「さあ、どうぞ。······蒲団ふとん······お敷きなさいまし。······雪岡さんというお名は宮ちゃんからたびたびきいています。また先日は宮ちゃんに何より結構なお品をありがとうございました。······宮ちゃん今家にいますよ。この間から少し身体からだが悪いといって休んでいます。宮ちゃん二階うえにいるだろう。雪岡さんがいらしったからおいでッて」

「宮ちゃん、きたない風をしているから行きませんて」

 この前柳沢と一緒に来た時来た瓢箪ひょうたんのような顔をしたさい女が主婦のいったことを伝えて二階に上っていった。

「何をいっている!······汚い風をしていたって構やしないじゃないか、お馴染なじみの方だもの。······」おかみは愛想笑いをしながら「もう我儘わがままひとですからさぞあなた方にも遠慮がありませんでしょう。この間から歯が痛いとかほおれたとかいって、それは大騒ぎをしているんですよ。······もう一遍いって雪岡さんがいらしったんですから、そのままでいいから降りておいでッて」

 お宮は階段はしごだんを二つ三つ降りて来て階下したのぞきながら、「あははは!」と笑った。

 二、三日わなかった懐かしい顔は櫛巻くしまきにつかねた頭髪あたまに、蒼白あおじろ面窶おもやつれを見せて平常いつもよりもまだ好く思われた。

「どうしたの。そのままだって構やしないじゃないか。······どっか二人でその辺を、年の市でも見ながらブラブラ歩いていらっしゃいまし。······どうだい、雪岡さんが見えたから頬の痛むのがなおったろう。どっか二人でそこらを散歩しといで······

「ええ。あなたどうする? ゆく。じゃ私も行くからちょっと待っていて下さい」私の方を見ながらびるようにいっていそいそ二階に駆け上っていった。

 私は主婦と長火鉢の向いに差し向ってそういう売女を置く家の様子を見ぬ振りをしながら気をつけて見ていた。堅気らしい丸髷まるまげってぞろりとした風をした女や安お召を引っ張って前掛けをした女などがぞろぞろ二階に上ったり下りたりしている。

 勝手口に近い隣の置屋うちでは多勢の売女おんなが年の瀬に押し迫った今宵こよい一夜を世をてばちに大声をあげて、

「一夜添うても妻は妻。たとい草履ぞうりの鼻緒でもう······

 ワンワン鳴るようにはしゃいでいる。私は浅ましく思ってきいていた。

 やがてお宮はせんのままの風で降りて来て、

「私もうこのままで行くわ!」この間のめりんすの綿入れの上に羽織だけいつものお召を引っかけている。

「そのままでいいとも」

 主婦おかみは、「御夫婦で仲よう行っていらっしゃいまし」と、煙草たばこを並べた店頭まで送り出した。

 街路そとはぞろぞろと身動きもならぬほどの人通りである。

「どっち行くの」お宮はいつもの行儀の悪い悪戯娘いたずらもののような風の口をきいた。

「さあ、どっち行こう。あんまり人の通っていない方がいい」

 私は、人眼のない薄暗い横丁をお宮と二人きりで手と手を握り合って歩いて見たかった。

「もっと人の通っていない方に行って見よう。材木町の河岸かしの方にでも」

「あんなところ歩いたってしょうがないさ」お宮は歯が痛むといって、頬をおさえながら怒ったようにいった。

「じゃどこを歩くの?」

「どこってどこでも」

「そんなことをいったって仕方がない。お前はどこへ行きたいんだ」

「私はどこへも行きたかない」

「じゃ行くのがいやなの」

「いやじゃないさ」また怒ったようにいう。

「そうか。じゃもっと歩きいい静かなところをゆこうよ」私はまた横丁に曲りかけた。

「そっち厭!」

「じゃどっちだい?」

 お宮のふてぶてしい駄々だだを見たような物のいい振りや態度ようすに、私は腹の中でむっとなった。

「どっちでもゆくさ」

「だってお前、私のゆくという方は厭だというじゃないか」

 そういって、私は勝手にずんずん人形町通りの片側を歩いていった。

 そうして水天宮すいてんぐう前の大きな四つつじ鎧橋よろいばしの方に向いて曲ると、いくらか人脚ひとあしが薄くなったので、頬を抑えながら後から黙っていて来たお宮を待って肩を並べながら、

「宮ちゃん、さっき君のところ階段はしごだんの下に突っ立っていたあの丸髷にったひとは何というの」

 私は優しい声をしてたずねた。

「だれだろう? 丸髷に結っていた。······家には丸髷の人多勢いるよ」

「そうかい。いいねえ丸髷。こう背のすらりとした。よく小説本の口絵などにある、永洗えいせんという人がいた女のように眉毛まみげのぼうっといたような顔のひとさ」

「ああ、そりゃ菊ちゃんだ。あなたあんな女好き?」

「ああ好きだ。いいねえ丸髷は。宮ちゃんお前も丸髷にうといい」

「私きらい!」そういいながらお宮はついと退いた。

 二人はまた黙って別れ別れに歩いた。鎧橋を向うへ渡って山栗やまぐりの大きな石造の西洋館について右に曲ると電車の響きも絶えて、株屋町の夜は火の消えたようにひっそりとしていた。てついた道に私たちの下駄を踏み鳴らす音が、両側の大戸をめきった土蔵造りの建物にカランコロンとびっくりするようなこだまかえした。

 私はせっかくの思いでお宮と一緒に歩いていながら、女の方が思うように自分に対して和らかになびいて来ぬのが飽き足らなくって、こっちでもねた風になって、怠儀そうにして歩いてるお宮を後にしてさっさっと兜橋かぶとばしの方に小急ぎに歩いた。

 するとお宮は「あなたどこへゆくの?」と歯をすすりながら後から声をかけた。

「ねえ、あなたどこへゆくの?······待って頂戴ちょうだいよ」

 私はその声をきくといくらか気持よく感じながら、人通りのぱったりと途絶えた暗闇くらがりを今までよりもなお急ぎ足に走った。

「ねえ。ようあなた。どこへゆくんです?」お宮は躍起になって後から走って来る様子である。私はお宮がそんなにしているのが分ると、さっきから一ぱいにふさがっていた胸がたちまち和らかに溶けて軽くなったようになった。そして兜橋の上まで来るとてすりに凭れてお宮の追っかけて来るのを待っていた。

「あなたどこへゆくつもり? こんな寂しいところに人をうっちゃっておいて」むきになってそばに寄って来た。

「どこへも行きやしないさ。お前が怠儀そうにして歩いているから私は一緒に歩くのがれったくなったばかりさ」私は冷やかな口調でいった。

············

「私、これから帰って、清月にいって菊ちゃんを呼んでもらおうかしら!」独語ひとりごとのように考えかんがえいってやった。

「あの女、君とちがって何だか優しそうだ」そういいながらも私の心の中はお宮に対して弱くなっていた。

「そんなによけりゃ呼んだらいいじゃありませんか。さっきから菊ちゃんきくちゃんて、菊ちゃんのことばかりいっているんだもの」

 暗黒やみの中に恐ろしい化物かなんぞのようにそそり立った巨大な煉瓦れんが造りの建物のつづいた、だだッ広い通りを、私はまた独りで歩き出した。水道の敷設がえでもあるのか深く掘り返した黒土が道幅の半分にもりあげられて、やみを照らしたカンテラの油煙が臭いにおいをみなぎらしている。

「あなた、またどこへゆくの?」お宮は追っかけて来た。

 並んで一緒にいると仏頂面ぶっちょうづらをして黙っているのが気に入らないので、私は少しも面白くなくって、物をもいわず、とっとと走った。

「じゃ私もう帰る!」お宮は私の後からそう呼びかけて、途中から引っ返えしたらしい。しばらくして後の方を振りかえって見ると、お宮は本当に後戻あともどりをして、もう向うの方に帰ってゆく様子である。

 そうなるとこんどは私の方で気になって後を追っかけた。

「おうい、かえるのかい。じゃ私も一緒にかえる」

 お宮はその声を聞いてから、前より一層早く駆け出した。

「おうい、まてよ。私も一緒にかえるよ」そういっていくら呼んでもお宮はどこまでも駆けていった。そしてあらめ橋を渡って新材木町の河岸を先へさきへと一生懸命に走った。すると暗いところをむやみに走って来たので二人とも方向ほうがくのつかぬ街筋まちすじに出てしまった。

 二、三間先に走っていたお宮ははたと佇立たちどまって、

「どちらへ行くの?」けろけろとしていた。

 私は、やっとそれで取り着く島を見つけたような気になって、

「こっち行くんだよ」と、いい加減に先に立って歩いた。

「なぜそんなにぷりぷりするんだい」

「あなた私をうっちゃってゆくんだもの」

「お前、私と一緒に歩くのがさもさも怠儀そうだから」

 やっと葭町よしちょうから人形町の見えるところまで来たことに気がつくと、お宮は、

「あなた、私は身体が悪いんですから、もうお帰んなさいッ」そんな棄てぜりふをいっておいて、ついと先に立って駆けていった。

 私は、思いきって帰ってしまうかと思ったが、何で面白くもない加藤の家の二階にそのまま戻れるものか。またのめのめとお宮の後を追うて一と足おくれに置屋に舞い戻って来ると、

「一体どうしたんです? 今宮ちゃん、息をはずませて帰って来て、雪岡さんと喧嘩けんかをしたって、それっきり、何にもいわないで二階に上ってしまいましたよ。······若い人たちのすること私どもに分らない」主婦おかみは、長火鉢の向うに私を坐らせて微笑わらい微笑いいった。

「あなた方あんまり仲が好すぎるんですよ」

「そんなこともないですがな」私も笑った。

「ほんとにどうしたんです。私、あんな浮気な人嫌い。といっていましたよ。あなたどうかしたのでしょう」

「はははは。そうか、じゃわかった。さっきねえ、此家ここを出てから、私戯談じょうだんに此家の菊ちゃんのことを、あのひと好きな人だって、ほめたの。それでわかった」

「何だ、くだらない。二人で痴話喧嘩をしたおしりを私のところへ持って来たって、私知らないよ。雪岡さん何かおごって下さいよ。······ああそうそうお礼をいうのを忘れていました。さっきはまた子供にまで好いものを。······じゃあなに一と足さきに清月にいっていらしって下さい。あとからすぐ宮ちゃんをやりますから」

「だって歯が痛いとか、頬がれたとかいっているんでしょう」

「なに、昨日きのう一日休んでいたからもういんですよ。わがままばかりいっているんですよ。······ほんとにあなたにお気の毒さまです。あんなひとだと思ってどうぞ末永く可愛かわいがってやって下さい」

 腹の中ではお宮の気心をはかりかねて、真個ほんとに嫌われたのだろうかと、消え入るような心地ここちになっていたのが、主婦の物馴れた調子によみがえったような気になって、私は一と足さきに清月にいった。

 お宮はじき後からやって来た。

「あなた、自家うちの子にいろんな物をやってくれたでしょう。主婦さんそういっていた。······あんなにしてもらうと、私顔が立っていいの」お宮は横になりながら宵のことは忘れたようにいった。

「しばらくだったねえ」

「わたいもしばらくだわ」

「お前さっきどうしてあんなに怒ったんだい」

「あなたが、あんまり菊ちゃんのことばかりいうからさ」

 その晩はいつにない打ち解けた心持ちになって、私は早く帰った。

 加藤の家へも梅干飴うめぼしあめを持って帰ってやると、老人じいさん老婆ばあさん大悦おおよろこびで、そこの家でも神棚かみだなに総燈明をあげて、大きな長火鉢を置いた座敷が綺麗きれいに取りかたづけられて、まわりが年の暮の晩らしゅう光るように照りえている。

 私とお前と一緒にいた間は、今年の年の暮はと、正月らしい気持ちのしたことはついぞ一度もなかったのに、加藤の家の老人としより夫婦の物堅い気楽そうな年越しの支度したくを見て、私は自分の心までがめずらしく正月らしい晴れやかな気持ちになった。

 そして翌日あくるひ大晦日おおみそかには日の暮れるのをまちかねてまた清月に出かけた。お宮の来るのを待って一緒に人形町の通りをぞろぞろ見て歩いた。

「わたし扱帯しごが一つしいの。あなた買ってくれる?」お宮はまぶしいばかりに飾った半襟屋はんえりや店頭みせさきに立ちどまってそこにけつらねた細くけをひねりながらいった。

「うむ」と、私は鷹揚おうようにうなずいた。

「じゃ、あの松ちゃんにもこの細くけを一つ買ってやってもよくって」

「うむ」

「何かうまい物を買っていって、食べようじゃないか」

「うむ」

 十日ばかりというもの風ほこりも立たず雨も降らず小春といってもないほどあったかな天気のつづいた今年の年暮くれは見るから景気だって、今宵かぎりに売れ残った松飾りやだいだいが見ているうちにどんどんなくなってゆく。

 そうして軒から軒を見て歩いているうちに、さすがに長く雨を見なかった空から八時ごろになるとぱらぱらと大きな雨粒を落して来た。そして見る見るうちに本降りになって来た。不意をくらった人群ひとごみ総崩そうくずれに浮き足だって散らかっていった。

「ああ好い雨だ。早くかえろう」

 夜店の商人あきんどが雨を押し上げる思いでうらめしそうに天を見上げながら、

「もう二時間おそいと早いとで大きな違いだ」と、舌打ちするようにいってつぶやいているのを、私はしっとりとした好い気持ちに聞きなしながらお宮を連れて清月にもどって来た。

 平常いつもと違って客はないし、階下した老婢ばあさん慈姑くわいを煮る香ばしい臭いをききながら、その夜くらい好い寝心地の夜はなかった。


 年が改まってからも今までのとおり時々お宮を呼んで加藤の家に泊めた。それでいて私は、お宮を落籍ひかすなら受け出してすっかり自身のものとしてしまうことも出来なかった。

「お前、いつまでもこんな稼業かぎょうをしていたって仕方がないじゃないか。早く足を洗って堅気にならなけりゃいけないよ」

「ほんとに私もそう思うよ」お宮は太息ためいきくようにしていった。

「僕が出してあげようか」

「出してもらったって仕方がない」

 少し真面目まじめな話しになろうとすると、後はそういってそらしてしまった。そういうわけで私もしばらくお宮に会わずにいた。

 すると、忘れもせぬ二月の十一日の夜であった。日がな一日陰気にふさぎ込んでばかりいた私は、その夜も、ついそこらをちょいと散歩して来るといって、水道町の通りをぐるりと一と廻りして帰って来た。私が入口に入る姿を見ると、すぐ上り口の間で炬燵こたつにあたっていた加藤の老人夫婦は声をそろえて微笑わらいながら、

「あッもう一と足のところでした。惜しいことをした」

「どうしたのです? 誰れか来たのですか」

「あなたの好きな人が今見えました」老婦おかみさんは笑い笑いいう。

「好きな人ってだれです?」私は、そういいながら、腹の中ではッと度胸とむねきながら、もしやお前でも夜の人目を忍んでたずねて来てくれたのではないかと思った。

 そう思うと、お前の顔容かおかたちから、不断よく着ていたあの赤っぽい銘仙めいせん格子縞こうしじまの羽織を着た姿がちらりと眼に浮んだ。

「じゃ、おすまでも来ましたか」

「いや、お宮さん。あなたがそこへおかえりになるちょっと前、まだ終点まで行っていられるか、いられないくらいです。お会いになるはずだがなあ。お会いにならなかったですか」

「いえ、会いません。······それで何とかいってゆきましたか」

 今まで何度来ても、それはこちらでぎょくをつけてやるから来るので、向うからついぞたずねて来たことなどなかったのに、めずらしい。どうしたのだろう。と、滅入めいっていた心がにわかに引き立って、これはいくらか、れられているのだな、と。そう思うとそこらがたちまち明るくなって、ぞくぞくうれしくなった。

「そしてこれを家へあげますといって置いていらっしゃいました」

 老婦はお宮の絹手巾きぬハンケチで包んだ林檎りんごを包みのまま差し出した。手に取り上げて見るとお宮と一緒にいるようなかおりの高い香水のにおいが立ち迷うている。

「ああ、そうですか。何か用があるんだな」

「ええ、何か御用がありそうでしたよ。お留守ですと申しましたら、ちょっとそこに立って考えていらっしゃいましたが、これをあげますといって、包みのまま置いておかえんなさいました」

「ああ、そうですか。でもよく向うから今日は訪ねて来たな」

 そんな話をしながら私はしばらく老人としより夫婦の炬燵にあたっていた。

温順おとなしい、美しい方ですねえ。今日はいつもよりも綺麗に見えた。あなたがお惚れになるのも無理はないと思いました」

「うむ、好い人です」老人じいさんまでが今夜は老婦おかみさんに和してお宮の美しく温順しやかなことをほめた。

「ああそうですか。あれであんな商売をしているとは思われますまい」

「ほんとにそうですよ。ちっともそんな風は見えません」

「あの人を出して奥さんにしたらいいでしょう」今夜はどうしたのか、老人がしきりにさばけたことをいう。

「まさかねえ、蠣殻町の売女おんなを女房にも出来ますまいが、めかけにする分にはかまわない。もっとも私は妾でも女房でも同じこったから······何か用があるんだなあ」

「また明日あすでもおいでになりますよ。何か用がありそうでしたから」

 けれども明日になってもお宮は来なかった。ほんとに用があるなら手紙でもよこしそうなものだと思って待ちあぐんでいたが、手紙もよこさなかった。こらえかねてこちらから手紙を出して見たが、それに対する返辞もない。とうとう耐忍がまんしきれなくって、その次の次の日に清月まで出かけて行った。

「この間私の留守のまに君来てくれたそうだけれど残念だった。何か用でもあったの?」

 面と向っても黙ったまま何とも口をかないので、私の方から口をきった。そして私は腹の中で、この女の勝手につけてはよく饒舌しゃべりながら、気の向かぬ時は怒ったようにむっつりしているのを、柳沢によく似た女だなと思っていた。

「この間は用があったけれど、もう何にもない」

 まるで義理で口を利くような物の言いぶりをする。

「けれど来た時はどんな用だったの。それを聞かないと何だか気になってしようがない」

 私はやさしく訊いた。

「いったってしようがない」お宮はまた怒ったようにいった。

 それで私もその上いて訊こうとはしなかった。そして横になってから、

「私、朝鮮に行くかも知れないよ」と、考え深そうにしていった。

「また例の男が何とかいって来るの」私はこの女を遠くに手放すのが惜しいようで、それをきくとたちまち失望を感じながら「そんなに朝鮮なんかへゆかなくたって、東京でどうかなるだろう」

「だってしようがないもの。もう女郎にでも何にでも身を売って、その金をやってこんどこそ縁を切ってしまう」

 そんな話しをしていても、さらばどうしたらばよかろうかとか、何とか私をたよりに相談を持ちかけるという風でもないので、こちらもあっけなくって、勝手にしろと思って泊らずに早く帰った。

 四、五日たってから、加藤の内に来てくれるように電話をかけたけれど、留守であったり何かしていつものようにその日に来なかった。それでこちらからわざわざ蠣殻町まで迎えにいった。

「宮ちゃん、用があるとか何とかいっていましたよ。今いません」女中のおきよが一人いて、そういった。

 その時分は、私は清月にゆかずに、すぐお宮のいる家にいって、主婦やお清を対手あいてにしながら話し込むことがめずらしくなかった。

「雪岡さん、何にもありませんが御飯を食べませんか。宮ちゃんと一緒にお食べなさい」

 私は大きな餉台ちゃぶだいにほかの売女おんなどもと一緒に並んで御飯めしを食べたりなどしていた。

 お宮が外から帰って来たので、厭というのを主婦の口添えで無理にさそうて連れて来た。すると関口台町の坂を上って柳沢の家の前を通るときにお宮は私と肩を並べて歩きながら、

「ここが柳沢さんの家でしょう」といった。

 私は、いつかお宮に「柳沢さんの家はどこ?」といって訊かれたことがあった。けれど教えなかった。教えなかったのは私はこんな尾羽おは打ち枯らした貧乏くさい生活をしているのに柳沢はいつも洒瀟こざっぱりとした身装なりをして、三十男の遊び盛りを今が世の絶頂つじと誰れが目にも思われる気楽そうな独身ひとりみ老婢ばあや一人を使っての生活くらしむきはそれこそ紅葉山人こうようさんじんの小説の中にでもありそうな話で、

「まあ意気だわねえ!」と、芸者などは惚れつくようにいうだろうと思う。それで私がお宮に柳沢の家を明かさなかったのでもない。私はとかくお宮のことについて今までよりも柳沢と私との間をなるたけ複雑にしたくないと思ったのである。

 そのころ柳沢はどっか神楽坂かぐらざかあたりにも好いのが見つかったと思われて、正月はる以来好いあんばいにお宮のことは口にしなくなっていた。

 いつであったか、久しぶりに柳沢の家をのぞいて見ると玄関に背の高い色の白い大柄な一目に芸者それと見える女がいて、お召の着物に水除みずよけの前掛けをしてランプに石油をいでいた。私は先生味をやっているなと思いながら、

「柳沢さんは留守ですか」と訊くと、

「ええおるすでございます」という。

老婢ばあさんは?」

「お老婢さんもただ今自分の家にいったとかでいませんです」

 芸者おんなは、私の微笑ほほえんでいる顔を見て笑い笑いいう。

 そんなようなわけであったから、柳沢はあれッきりお宮をつつきにゆかないものと思っていたのだ。それでちょっと不思議に思いながら、

「お前柳沢の家を知っているの?」と訊ねた。

「ええ、······いや知らないの」

「そうじゃあなかろう」

真実ほんとうよ。知らないの。ただそうかと思ったからちょっと聞いて見たのさ」

 加藤の二階に上って来てからもお宮は初めから不貞腐ふてくされたように懐手ふところでをしながら黙り込んでいた。

「どうしたの······大変沈んでいるじゃないか」

············

「何か心配なことでもあるの?」

「うむ!······あなた私にしばらく何にもいわずにおいて下さい。······」そういってお宮はまた黙りこんだ。

 私は、あまりに人を馬鹿にしたわがままな素振りにかっとなったが、それでもじっとこらえてうっちゃっていた。するとお宮はどう思ったか、

······柳沢さんは好い人ねえ」と、だしぬけにいった。

「うむ。······お前柳沢にったの?」

「ほほほほ」お宮は莫蓮者ばくれんものらしい妖艶ようえん表情かおつきをして意味ありそうに笑った。

「逢ったのだろう」さっきからちょっとの間に恐ろしく相形そうぎょうの変ったお宮の顔をみまもった。

「そりゃあ柳沢に逢おうと、だれに逢おうと、どうだって構わないのだが······

「私、あなた嫌い!」

「そうか、そりゃああんまり好かれてもいないだろうが。嫌いな男のところへ無理に来てもらってお気の毒だったねえ。じゃこれから帰ってもらっても差支さしつかえないよ」

 私はたまりかねた胸をじっと抑えながらいった。

「今晩これから柳沢さんのところへ二人で遊びにいって見ようか」

 お宮は私を馬鹿にしたような横着そうな口の利きようをする。

「うむ。······お前一人行って見たらいいだろう」私は、お宮や柳沢のよく言う口ぶりでいった。

「あなた行かなけりゃいや!」

「あなたが行かなきゃあッて。お前が自分でいって見ようと言ったんじゃないか」

············

「いって来たらいいだろう。私はもう寝るから」

 二時間ばかり、気まずい無言の時が過ぎた。

「さあ、どうするの。僕はもう寝るよ」私は、勝子にしゃあがれと思いながら促した。

「私も寝る。······あなたが行かないんだもん」

 私は、それと聞いて何という気随な横着な女だろうとあきれながら、

「はははは、柳沢のところには私が何もゆこうといったのじゃない。お前が勝手にゆきたいといい出したのじゃないか」私は、不愉快をまぎらすようにわざと高笑いを発した。

 お宮は私が立って床を敷いている間もじっと座ったまま何事か深い考えに沈んでいた。そしてだしぬけに、

「私、柳沢さんが好いの」と、泣き声を出した。

 私はそれとくと、どうせそんなことであろうとは思っていながらも、自分に対する欲目から、お宮の心は私になびいていないまでも、まさか遠くに離れているとも思っていなかった。しかるにさっきからさも思い迫ったように柳沢のところにゆきたがっていたあと、そうと口に出されて見ると、私は木から落されたさるといおうか何といおうか自分が深く思いつめていればいるほど、何ともいいようのない侮辱を感じた。私は、ありとあらゆるものからひとり突き放されたような失望と怨恨うらみに胸が張り裂けるような気持ちがした。

 そして「何だ。柳沢が好いといって、いわば現在恋敵こいがたきおれのところに来ていて、ほろほろ泣き声を出すやつがあるものか」

 と、私は怨めしい、腹が立つというよりも呆れかえっておかしくなって、何という見境もない駄々だだの、我儘わがまま放題に生まれついた女であろうと思った。

「勝手にしゃあがれ」と思いながらうっちゃらかしておいて私はさっさっと便処に行って来て床の中にもぐりこんで頭からすっぽり蒲団ふとんかぶった。

「私も寝る」お宮はまたも泣き声でいいながら後からそうっと入って来た。

 私はくるりとせなを向けて寝た振りをしていた。そしてそのまま黙って寝入ってしまおうとしたが、胸は燃え、頭はえて寝られるどころではない。お宮の方に向き直って何か言わねば気が済まぬのをじっと息を詰めてこらえていた。やや三、四十分もそうしていたが、とうとうこらえきれなくなってお宮の方に向きなおりながら、

「お前真実ほんとうに柳沢が好いの? 真実のことをいってくれ。僕怒りやしないから」

 弱い声でいった。するとお宮は、

「ええ、柳沢さんが好いの」やっぱりさっきのような泣き声で返辞をした。

 私は消え入るような心地になってじっと堪えていたが、果ては耐えられなくなっていきなり、

「ああ悔しい※(感嘆符二つ、1-8-75)······思いつめた女に友達と見変えられた」といってかっと両子で頭髪あたまを引っいて蒲団の中で身悶みもだえした。

 するとお宮は、「おうこわい人※(感嘆符二つ、1-8-75)」と、呆れたようにいって蒲団の端の方に身を退いて、背後うしろ※(「てへん+丑」、第4水準2-12-93)じ向いて私の方を見た。

 私は、その時お宮と自分との間が肉体からだはわずか三尺も隔っていなくっても互いの心持ちはもう千里も遠くに離れているかたき同志のような感じがした。


 そうなったら憎いが先に立って、私は翌朝あくるあさ起きてからもお宮には口も利かなかった。それでも主婦おかみさん階下したからおぜんを運んで来た時、

「御飯をお食べなさい」と、いうと、

「私、食べない」といったきり不貞くされたように沈み込んでじっと坐っている。

 私も進まぬ朝飯を茶漬ちゃづけにして流しこんだ後は口も利かずに机にもたれて見たくもない新聞に目を通していた。

「わたし朝鮮に行ってしまうよ」と、また泣き声でいった。

 私は、勝手にしろ。朝鮮にゆこうと満州にゆこうとこっちの知ったことじゃない。と思いながらも、

「朝鮮なんかへ行くのはした方がいいよ。私がどうかしてあげるよ」と、優しくいった。

「あなたにどうしてもらったってしょうがない」

 そういういい方だ。

 私は素知らぬ振りをしてややしばらく新聞を読んでいた。

 お宮は黙って考え沈んでいる。するとだしぬけに、

「あなた奥さんどうしたの?」そんなことをいった。

「うむ、どっかへ行ってしまった」

「もうどっかへかたづいているの?······柳沢さんそんなことをいっていたよ」

 それを聴いて私はいよいよ柳沢がかげでお宮にいろんなことをいっているのが見え透くように思われた。

「柳沢がどんなことをいっていた?」

 私は思わず顔を恐ろしくしてきっとお宮を瞻った。

「うむ、何にもいやしないさ」怒ったようにいった。

 私はますます気にさわったがそれでもなおじっと堪えて、再び口をつぐんだ。

「あなた私が柳沢さんのところへいったらどうする?」お宮はまた泣くような声でいった。

「行くなら行ったらいいじゃないか。何も私に遠慮はいらない」

「ほんとに柳沢さんのところにいってもよくって?」

「そんなにくどく私にく必要はないじゃないか。······私にも考えがあるから」

「じゃどうするの?」

「どうもしやあしないさ」

「私、あなた厭。何でもじきに柳沢さんにいってしまうから」

「私が何を柳沢にいった?」

「あなた何だって、私があなたに話したことを柳沢さんにいった」

「うむ、そりゃいったかも知れないが、お前と私とで話したことを話したまでで、他人のうわさでもなければ悪口でもない。柳沢こそそうじゃないか、私は柳沢を友達と思っているから、お前のことばかりじゃない。もっと大切なせんの妻君のことまでくわしく打ち明けて話している。それを柳沢がまた他の者に笑い話しにするこそ好くないことだ。私は自身の恥辱はじになることをこそいえ、決して他人の迷惑になることをいやあしない」

 私は柳沢が、お宮に向って、雪岡は先の妻君がどうしたとかこうしたとか蔭口を言っているのがよく分っているので、お宮がそんなことを言ったので、むっとなった。そうしてどちらがいか悪いか誰れだって考えて見ろと思った。すると、

「そんな自分のことを何も他人ひとにいわなくたって好いじゃあないか」

 お宮は人を馬鹿にしたようなことをいった。

 私はたちまちかあっとなった。先だっても誰れだったか、柳沢さんという人は自己に寛にして他人に厳なる人だといっていた。全くその通りだ。またこのお宮がその通りの奴だ。昨夜ゆうべから自分で勝手なことをいいながら、さもさも私がよくないようなことをいっている。そう思うと私は、カッとお宮の横着そうな面につばきを吐きかけて、横素頬よこずっぽうを三つ四つ張り飛ばして、そのまま思いきろうと咽喉のどまで出しかけた痰唾たんつばをぐっと押えてまたみ込み、いやいや今ここでお宮を怒らして喧嘩けんか別れにしてしまうとこれまでお宮にやっている手紙を取り戻すことが出来ない。先だっても柳沢の言っていたことに、真野まのがある女にやった手紙ふみを水野がその女から取り上げて人に見せていた。他の男が女にやった手紙を女から取り上げて見るのは面白い。水野は腕がある。

 そういって、柳沢自身もそんなことをして見たそうにいっていた。私がもしお宮を怒らしてしまうと不貞腐れのお宮のことだから、きっと柳沢に私のことを何とかかとかいうに違いない。そうすりゃ柳沢もますます好い気持ちになってこちらからやっている手紙をまき上げて読むに違いない。女を取られた上にこちらの手紙まで読まれて笑いものにせられるのが残念だ。

 と、じっと歯を喰い縛る思いで、また声を和らげながら、

「君が、僕が厭なら厭でかまやしないよ。僕はあきらめるから」

 そういった。けれども私の本心は、こいつにそんなにまで柳沢と見変えられたかと思えば、未練というよりもつらが憎くなって、どうしてこの恋仇あだをしてやろうかと胸は無念のほむらに燃えていた。するとお宮は、

「じゃこれから二人で柳沢さんのところにいって見ようか」と思い立ったようにいった。

 私は、また柳沢とお宮と並べておいて二人がどうするか見たいと思ったから、

「ああ行って見よう」といって、それから二人で柳沢の家に行った。

 柳沢はいつものとおり二階の机の前に趺座あぐらをかいていたが私たちが上っていったのを見て、笑うのは厭だというような顔をして黙り込んでまじまじひとの顔をみまもっていた。

「書生の家だから、何にもないだろう」

 お宮がそこらを見廻しているのを見て、柳沢はそういった。

「好い家ねえ。こんなところにいたらさぞ勉強出来ていいでしょう」お宮は腹からいうようにいった。

 私は畳が冷たかったから、自身で床の間に積んであった座蒲団を取って来て敷いた。

 するとお宮はそれを見て、

「あなた自分のだけ取って来て私のは取って来てくれないの」ぷりぷりしていった。

 私は聞いて呆れながら、お宮は、私がそんなにして女の気嫌きげんを取るほど惚れていると自惚うぬぼれているのだろうかと思って柳沢の顔を見た。柳沢もお宮のいうことがあまりに妙なことをいうとでも思ったか私と顔を見合わせて笑った。

「俺は、そんなにしてまで君の気嫌を取らなくってもいいのだ。ははは」

 そういって、私はわざと声高に笑った。

 お宮は不貞た面をふくらして黙りこんでいたが、しばらくして私の顔をジロジロときたなそうに瞻りながら、

「あなたその顔はどうしたの?」

 柳沢もそれにつれて私の顔を汚そうに見てにやりにやり笑っていた。

 私の顔はその時分口にするさえ浅ましい顔をしていた。まだ去年の秋お宮のところへ二度めか三度めにいった時翌朝あくるあさ帰って気がつくと飛んだことになっていた。医師に見てもらうとその病気やまいだといって手当てをしてくれたけれど、別に痛くも何ともなかったから、そのままうっちゃっておいた。それが一月の末時分から口や鼻のまわりから頭髪あたまさい腫物ふきでもののようなものが出来て来たからまた医者に行って見てもらうと医者は、顔をしかめて、

「ああ、来た······。ちょうどあれがこうなって来る時分だ」といって、いろいろ手当てをしてくれて「ひとしきり頭髪かみけてしまうよ······ナニまたじきえるのは生えるけれど」そういった。

 はたして医者のいったとおりに顔の吹出物はだんだんはげしくなって人前に出されない顔になった。そうなると私は故郷くにに年を取っている一人の母親のことを思った。

 親が満足に産みつけてくれた身体からだにもし生涯しょうがい人前に出ることの出来ないような不具な顔にでもなったら、どうしよう。そのことを考えるとまた夜の眼も眠られないことがあった。お前のことといい、たとい高等地獄とはいいながらお宮の義理人情にそむいた仕方といい、その上にお宮から感染した忌わしい病のために一生不具の身となるようなことがあっては年を取った一人の親に対して申しわけがない。

 お宮が私に叛いて柳沢に心を寄せて行っても、私はその浅ましい汚らわしい顔を恥じてじっと陰忍していた。皆を殺して自殺をしようかと思った。

「どうしたって、これはお前からもらった病気だ」

「ふむ?······」お宮はそういったきりしばらく黙っていたが、

「何んだ! あんまり道楽をするからそんなことになるんだ。······おかみさんにも道楽をするからてられたんだろう。······おかみさんどっかで妾をしているというじゃないか」

 そういってお宮は荒い口も利かぬようにこらえている私に毒づいた。そして今お宮のいったことでまたグッとしゃくに障ったというのは、おかみさんは妾をしているというじゃないかといった一言だ。私は、お前がもしそういうことをしておりはしないかという心当りがあったから、いつか柳沢にだけはそれを打ち明けて話したことがあった。柳沢から私の蔭口に聞いたのでなければお宮がそんなことを口に出すはずがない。

 私はそう思ってじっと柳沢の顔とお宮の顔とを見合わした。柳沢は、私がいつかそういうことを話したのを、柳沢だからそんなことをも打ち明かしたのだと思うよりも、そんなことを他人ひとに話した私を、腹の中では馬鹿だと嘲笑あざわらいながら聞いておいて、そうして私とお宮との仲をちくりちくりとつっつくためにそれを利用したのだろう。

 私はいきなり立ち上って二人を蹴飛けとばしてやろうかと、むらむらとなったが、また手紙のことを思い出してじっと胸をさすってこらえた。

 どうして私がそんなにお宮にやっている手紙のことを気にするかというのに、私は今度のお宮のことについても、お宮に向って柳沢のことを露ほども蔭口めいたことをいっていない。ただ一番近くにやった手紙に、柳沢のことを一と口いってあった。それをどうかして柳沢の手に巻きあげられて見られるのが厭だ。そうかといってその手紙にも決してそんな悪口などをいってあるのではなかった。柳沢が私の蔭口をきき、また私の方でもちょうど柳沢のするとおりに柳沢の蔭口をいっているであろうとは、かねて柳沢が邪推しているのだが、私はこれまでそんなことは少しもない。しかるに高等地獄に与えたたった一本のその手紙ゆえに柳沢の平生の邪推を確実なものにするということが私には何よりも耐えられなかったのである。

「柳沢さんのところを、いくら訊いても教えないんだもの」

 黙っている私に、おっかぶせてお宮はまた毒づいた。

 柳沢は、私が教えなかった心持ちを読んだような鋭い黒眼をしてにやりにやり笑っていた。

 けれども柳沢とお宮との関係がどんなになっているかは、まだよく分らなかった。

 柳沢は、お宮が私に向ってそんなに悪態をいている間もしょっちゅう意味ありげににやりにやりと笑ってばかりいた。

「もう帰ろう」私はお宮を促した。

「ええ」といったきりお宮はしりを上げようとはしなかった。

「あなたまだ社へ行かないの」

「まだゆかない」お宮は柳沢に対っては優しい口をきいている。

「おいもう帰ろう」しばらくしてまた私はお宮を促した。

「あなた帰るならお帰んなさい。私もっといるから」

 私は、自分がもし一人で先帰ったら後で二人どんな話しをするか、それが気づかわれた。私は、お宮が柳沢とすでに二、三日前に三日も蠣殻町の待合に居続けして逢っていることをちっとも知らなかったのだ。

 それでお宮にそういわれても私は一人でとうとせず、やっぱりお宮を促して待っていた。

「ああ帰ろう」と、いってお宮はとうとう立ち上りそうにした。

 私はもう起ち上った。

「すぐ行くよ。あなた階下したに降りて待ってて下さい」

 そういってお宮は何か柳沢に用ありそうにぐずぐずしている。

 それを見ては、私もそこにいるのが気がとがめたからさっさっと降りてしまった。

 やがて五分間ばかりしてお宮は降りて来た。そして私のいる加藤の家を出る時はろくろく挨拶あいさつもしなかったお宮が柳沢のところの老婢ばあさんむかってぺったり座って何様のお嬢さんかというように行儀よく挨拶をしていた。


 いろいろな素振りで、私にはもうお宮の私と柳沢とに対する本心がわかったから、私は怨恨うらみと失望とに胸を閉されつつ、どうかして私からお宮にやっている手紙を取り返すことに苦心した。

 二、三日立ってからであった。私にはふとしたことから柳沢とお宮とがどこかで逢っているような気がしてたまらない。それで柳沢の家を覗いて見ると老婢ばあさんが一人留守をしていて柳沢はいない。いよいよお宮のところにいっているに違いないと思うと、ますます手紙のことが気になりだした。で、すぐその足でお宮を置いている家までやって行った。

 八時ごろだったから売女おんなは大方出ていって家内うちは女中のお清が独り留守をしていた。

「お主婦かみさんはどうしたの」といいながら私はいつもの通り長火鉢の向うに坐った。

「おかみさんも今ちょっと出ていませんよ」

「宮ちゃんは今日どこ?」

「ちょっとそこまで行っています」

「今晩は帰らないだろう」

「ええ、帰りませんでしょうなあ」

 私は、もうどうしても柳沢と逢っているに違いないような気がして来た。

「いつから行っているの?」

「もう大分前からですよ」

「大分前からって、いつごろから?」

「そうですなあ。もう一昨日おととい、その前の日あたりからでしょう」

「一人のお客のところへそんなにいっているの?」

「ええ、そうでしょう。私よく知らないんですよ。······あなた大変気にしているのねえ」

「気にしているというわけもないが、······どこの待合?」

······さあどこか、私知らないのよ」

「お清さん君知らないことはないだろう。教えてくれないか」

「そりゃ言えないの」

「いえないのは知っているが、教えてくれたまえ」

 そんなことを戯談じょうだん半分にいいながら、お清がお勝手口の方へちょっと出ていった間にふっと火鉢の上の柱に懸かっている入花帳ぎょくちょうが眼に着いたので、そっと取りはずして手早く繰って見ると、お宮が一昨日からずっと行っている待合が分った。

 その待合は、いつか清月も柳沢に知れているから他にどこか好いところはないだろうかとお宮に相談したら、じゃ有馬学校の裏にこういう待合があるからといって教えてくれたその待合である。

「ははあ、じゃあすこに行っているな。すると柳沢と違うかな。それとも柳沢もそこへ連れ込んでいるのだろうか」

 そんなことを考えながら、お宮のいっている先がそう分ってしまえばもうお清なんかに用はない。

「お清さん、主婦おかみさんはどこへいったんだね。大変おそいじゃないか」

「ええ、大変遅うございますねえ、大方活動へでも行ったんでしょう」

「そうか。じゃ僕はまた来ます。お留守にお邪魔しました」

「まあ好いでしょう。お宮ちゃんがいないからって、そう早く帰らなくってもいいでしょう。今におかみさんも帰って来ますよ」

 そこを出ると私は心をそらにして有馬学校の裏に急いだ。二月も末になると、もう何となく春のよいめいた暖かい夜風がほおをなでて、曇りがちな浮気な空から大粒な雨がぽたりぽたりと顔に降りかかった。

 その待合にいって、私の名をいわずにそっとお宮を下に呼んでもらった。

「便処にゆくことにしてこちらにまいりますから、どうぞ処室ここでしばらくお待ち下さいまし」

 物馴ものなれた水戸訛みとなまりの主婦が出て来て私を階下したの奥まった座敷に通した。

 間もなくお宮は酒に赤く火照ほてった頬をおさえながら入って来た。

「あッ、あなたですか。私だれかと思った」

 と入りながらちょっと笑顔を見せたが、すぐ不貞ふてたような面をして、

「私酒に酔った」独語ひとりごとのようにいって頬をなでている。

「だれだえ? お客は?」軽くいて見た。

「うむ、誰れでもないの」

「誰れでもないわけはない。だれだろう。それとも君の好きな柳沢さん?」

「うむ、柳沢さんなんか来るものですか。······よく酒を飲む客。一昨日から芸者を上げて騒いでいるの」

 そういうところを見ればなるほど柳沢らしくはない。

「そうか。······まあそんなことはどうでもいいとして、この間私の家へ来た時から私には君の心はよく分ったから、とにかく私が君のところにやっている手紙だけそっくり皆な私に返してくれたまえ。君からもらった手紙も私はこうして皆な持って来ているから。君の方から返してくれれば私の方からも皆な返すから······

 そういって私は懐中ふところから、ちょうど折よく持ち合わしていた紫めりんすの風呂敷ふろしきの畳んだのを取り出して、

「これこのとおり君の手紙は持っている。私のさえ返してもらえばその時これも返すから」

「私、ここにあなたの手紙なんか持って来ていないもの」

「だから今というんじゃない。君がも一度よく考えて見て、私の方に来てくれるのがいやならば、その手紙は私の方に返してしいというんだ。君は柳沢さんの方にゆくんだろう」

「そりゃ考えて見るけれど、私、柳沢さんなんか、あなたの友達に身を任すなんてそんなことをする気遣きづかいはない」

 私は何を言うかと思いながら、

「それならそれでいいから、私また一週間ばかりして来るから、その時分までよく考えておいてくれたまえ」そういってそこの待合を出た。

 柳沢は行ってはいなかった。

 じゃ、いろいろ思いまわしたのが自分の邪推であったろうか、邪推としたら自分は厭な性質をもっている。私自身他人ひとから邪推せられた時ほど厭な心持ちのすることはない。自分はそんな邪推をするような人間を何よりも好かぬ。そんなことを考え考えその晩は加藤の二階に戻って来た。

 それから二、三日たって、それでもまだやっぱり柳沢とお宮との間が気になるので柳沢の家にいって見た。

 すると柳沢は階下したの茶の間で老婢ばあさん給侍きゅうじをさせながら御飯を食べていたが、

「この間うち家にいなかったな」と、いいながら私は火鉢ひばちの横に坐った。

「うむ」と、いいながら柳沢は黙って飯をっている。

 飯が済んでから柳沢は、

「僕は鎌倉かまくらへしばらく行って来るつもりだ」と、いう。

「そりゃ好いなあ。いつ?」

「いつって、今日か明日か分らない」

「あれからお宮に会わないかえ?」私は微笑しながらたずねた。

「会やしないさ」柳沢は苦い顔をしていった。

「ランプ掃除そうじをしていた神楽坂の女はどうした?」

「あれは、あれっきりさ」

「だってちょっと好い女じゃないか」

「あんまりよくもない。······彼女あれなら君にゆずってもいい」柳沢は戯談じょうだんらしゅう笑いながらいった。

 私は、はて変なことをいうなあ。と心のうちで思った。

 彼女あれなら君にゆずってもいいというのは、彼女あれでない女があるということだ。それはお宮のことである。じゃ、やっぱりお宮のことを柳沢は思っているのだな。そう思いながら私は、

「いや、別に僕はあの女が欲しいのじゃないが」といって笑いながら、

「やっぱりお宮の方が僕は好きだ」と、柳沢の思っていることに気のつかぬもののように無邪気にいった。

······お宮はどうしても小間使というところだな。······それに襟頸えりくびが坊主襟じゃないか」と、柳沢は口の先でちょいとくさすようにいう。

「うむ。それからあの耳が削いだような貧相な厭な耳だ」私も柳沢に和してお宮をけなした。

「とにかくよく顔の変る女だ」

「うむ、そうだ。君もよく気のつく人間だなあ。実によく顔の変る女だ」

 まったくお宮は恐ろしくよく顔の変る女だった。

 ややしばらくそんな話しをしていた。

「もう出かけるのか」

「うむ、もう出る」

 それで私は柳沢の家を出て戻った。


 その翌日あくるひであった、この間お宮に会って話しておいたことをどう考えているか、もう一度よく訊いて見るつもりで、こんどは本当にお宮の手紙を懐中ふところにして蠣殻町に出かけていった。

 先だって中からよくお宮の家から一軒おいた隣家となりの洋食屋の二階に上ってお客を呼んでいたので、今日もそこにいってよくお宮の思案を訊こうと思って何の気もなく入口のカーテンを頭で分けながら入っていった。

「いらっしゃい!」と、いう声をききながら、土間からすぐ二階にかけた階段はしごだんを上ろうとして、ふと上り口に脱ぎすてた男女の下駄げたに気がつくと、幅の広い、よくまさの通った男の下駄はどうも柳沢の下駄に違いない。

 私は、はっと度胸とむねを突いて、「柳沢は昨日鎌倉に行ったはずだが」と思いながらなお女下駄をよく見るとそれも紫の鼻緒に見覚えのあるお宮の下駄らしい。ちょうど女の歩きつきの形のままに脱いだ跡が可愛かわいらしく嬌態しなをしている。それを見ると私はたちまち何ともいえない嫉妬しっとを感じた。そうしてややしばらく痛い腫物しゅもつさわるようない心持ちで男と女の二足の下駄をじっと見つめていた。

 そうしてじっと階上うえ動静ようすき耳を立てていると、はたして柳沢が大きな声で何かいっているのが聞える。どんな話をしているだろうかとなおじっと聴き澄ましていると、洋食屋の小僧が降りて来た。

 私は声を立てぬように、

「おい!」と手まねぎして、「お宮ちゃんが来ているのかい?」

「ええ」

「じゃあねえ、私がここにいるといわずにちょっと宮ちゃんを呼んでおくれ」

 小僧は階段はしごだんをまた二つ三つ上って、

「宮ちゃんちょっと」と呼ぶと、

 小僧が階段はしごを降りるすぐ後からお宮は降りて来た。そしてもう二つ三つというところまでおりて土間に私が突っ立っているのをちらりと見てとるとお宮は、

「あらッ※(感嘆符二つ、1-8-75)」と、いったままちょっと段階だんばしごの途中に佇立たちどまった。そしてまた降りて来た。

 その様子を見るとまた身体からだでも良くないと思われて、真白い顔が少し面窶おもやつれがして、櫛巻くしまきにった頭髪あたまがほっそりとして見える。

 階段はしごだんを降りてしまうと、脱いでいた下駄を突っかけていきなり私のそばに来て寄り添うようにしながら、

「わたし病気よ」と、ねこのようにやさしい声を出して、そうっとしおれかけて見せた。私は、

「この畜生が!」と思いながらも、自分も優しい声をつくって、

「ふむ、そうか。それはいけないねえ」と、いいつつまたお宮の頭髪から足袋たびのさきまでじろじろ見まわした。

 春着にこしらえたという紫紺色の縮緬ちりめんの羽織にお召の二枚重ねをぞろりと着ている。

「こんな着物が着たさに淫売じごくをしているのだなあ」と思うとつばきを吐きかけてやりたい気になりながら、私は鳶衣とんびそでで和らかにお宮を抱くような格好をして顔をのぞいて、「おい、この下駄はだれの下駄?」と、男下駄を指さした。

············

「おい、この下駄はだれの下駄?」

「それは柳沢さんの」

 お宮はいつもの癖の泣くような声を出した。

「そうだろう。······洋食屋で朝からお楽しみだねえ」

 私は気味のいいように笑った。

「じゃあねえ、先だって君に話したとおり、もう君の心もよく分ったから、どうぞ私から上げてある手紙を返しておくれ」私は一段声をやわらげていった。

「ええ······」と、お宮は躊躇ためらうようにしている。

「おい、早くしてくれ。君たちにもお邪魔をして相済まぬから」

「じゃ、ちょっと待って下さい」と、いってお宮はまた二階に上っていった。

 私は階下したでどかりと椅子いすに腰を落して火のごとく燃える胸をじっとしずめていた。

 二、三十分もったけれど、まだお宮は降りて来ぬ。

 どうしているのだろう。二階から屋根うらへでも出て二人で逃げたのだろうか。そうだったら後で柳沢の顔を見る時が面白い、それとも上っていって見ようか、いやそいつはよくない。そう思って根よく待っていると、お宮は笑顔を作りつつ降りて来た。

「じゃ手紙をお返ししますから私の家に来て下さいって。自家の主婦さんが」

「自家の主婦さんて、お前んとこの主婦さんに何も用はない」

 そういいつつ私は一軒置いた先のお宮の家に入って行った。

 長火鉢の向うに坐っていた主婦はものものしい顔にわざとらしい微笑えみを浮べて、

「一体どうしたんです?」とあきれた風の顔をして私の顔を見上げた。

 座には主婦のほかに女中のお清、お宮と同じ仲間のお菊、お芳、おしげなどが方々に坐っていて、入っていった私の顔をじろじろと黙って見守っている。

「なに、どうもしやあしないさ。私もうお宮さんのところに来ないから、私からよこしている手紙をもらって行こうと思って」

「つまらない。どうしてそんなことをするんです?······若い人たちのすることは私にはわからない」

「そんなことはどうでもいいんだ。私もこのとおり今までもらっていた手紙を持って来た。これを戻すんです」

 そこへお宮は二階から金唐紙きんからかみの小さいはこを持って降りて来た。その中には手紙が一ぱい入っている。

 そして茶の間の真中にこちらに尻を向けて坐りながら、

「さあ、こんなものがそんなに欲しけりゃあいくらでも返してやる」と、山のような手紙の中から私の手紙をり分けて後向きにたたきつけた。

「さあ、これもそうだ! ありったけ返してやるから持って行け」

 私は長火鉢の前に坐って、それを横眼に見ながら笑っていた。

 お宮は七、八本の手紙をそこに投げ出しておいて、

「あんまり人にれ過ぎるからそんなざまを見るんだ」といいつつ二階に駆け上って、函を置いて降りて来ると、

「こんなところに用はない。柳沢さんのところに早くゆこう」と、ぜりふをいって裏口から出ていった。

 私は、黙って笑っていた。

「一体どうしたんです?」主婦は笑いながらまた同じことをいった。

 私は腹の中でこの畜生め、何もかも知っていやあがるくせに白ばくれていやあがる。と思いながら、

「いや何でもない。この手紙さえ戻してもらえば私には何にも文句はないんです」わざと静かにいって、お宮の投げ出して行った手紙を取り上げて懐中ふところに収めた。

 そこへお宮はまた戻って来て、座敷に突っ立ちながら、

「柳沢さんが、ちょっと雪岡さんに用があるから来て下さいって。······でも卑怯者ひきょうものだから、よう来ないだろうって」

 それを聴くと私はグッとしゃくさわった。そして長火鉢に※(「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28)してあった鉄火箸てつひばしをぎゅうと握りしめて座り直りながら大きな声で、

「なんだ? 卑怯者だ?······それは柳沢がいったことか、お前がいったことか。お前なんぞのような高等淫売いんばいを対手に喧嘩けんかをしたかあないんだ。しかし卑怯者というのを柳沢がいったなら、卑怯者か卑怯者でないか、柳沢と喧嘩をして見せよう」

 するとお宮は私が本気になったのを見て折れたように笑いながら、

「卑怯者とは私がいったの。柳沢さんはそんなことをしやあしない」

 と、にわかに声を和らげた。

 私も淫売じごくのことで柳沢と喧嘩をするでもあるまいと、胸をでながら家外そとに出た。






底本:「日本の文学 8 田山花袋・岩野泡鳴・近松秋江」中央公論社


   1970(昭和45)年5月5日初版発行

入力:久保あきら

校正:松永正敏

2001年1月30日公開

2006年1月24日修正

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●表記について