漢の
武帝の
天漢二年秋九月、
騎都尉・
李陵は歩卒五千を率い、
辺塞遮虜
を発して北へ向かった。
阿爾泰山脈の東南端が
戈壁沙漠に没せんとする辺の
磽
たる丘陵地帯を縫って北行すること三十日。
朔風は
戎衣を吹いて寒く、いかにも万里孤軍来たるの感が深い。
漠北・
浚稽山の
麓に至って軍はようやく止営した。すでに敵
匈奴の勢力圏に深く進み入っているのである。秋とはいっても北地のこととて、
苜蓿も枯れ、
楡や
柳の葉ももはや落ちつくしている。木の葉どころか、木そのものさえ(宿営地の
近傍を除いては)、容易に見つからないほどの、ただ砂と岩と
磧と、水のない河床との荒涼たる風景であった。極目人煙を見ず、まれに訪れるものとては
曠野に水を求める
羚羊ぐらいのものである。
突兀と秋空を
劃る遠山の上を高く
雁の列が南へ急ぐのを見ても、しかし、将卒一同
誰一人として甘い懐郷の情などに
唆られるものはない。それほどに、彼らの位置は危険
極まるものだったのである。
騎兵を主力とする匈奴に向かって、一隊の騎馬兵をも連れずに歩兵ばかり(馬に
跨がる者は、陵とその
幕僚数人にすぎなかった、)で奥地深く侵入することからして、無謀の
極みというほかはない。その歩兵も
僅か五千、絶えて後援はなく、しかもこの
浚稽山は、最も近い
漢塞の
居延からでも優に一千五百里(支那里程)は離れている。統率者李陵への絶対的な信頼と心服とがなかったならとうてい続けられるような行軍ではなかった。
毎年秋風が立ちはじめると
決って漢の北辺には、
胡馬に
鞭うった
剽悍な侵略者の大部隊が現われる。辺吏が殺され、人民が
掠められ、家畜が奪略される。
五原・
朔方・
雲中・
上谷・
雁門などが、その例年の被害地である。大将軍
衛青・
嫖騎将軍
霍去病の武略によって一時
漠南に王庭なしといわれた
元狩以後
元鼎へかけての数年を除いては、ここ三十年来欠かすことなくこうした北辺の災いがつづいていた。
霍去病が死んでから十八年、
衛青が
歿してから七年。
野侯趙破奴は全軍を率いて
虜に
降り、
光禄勲徐自為の
朔北に築いた城障もたちまち破壊される。全軍の信頼を
繋ぐに足る
将帥としては、わずかに先年
大宛を遠征して武名を
挙げた
弐師将軍
李広利があるにすぎない。
その年
||天漢二年夏五月、
||匈奴の侵略に先立って、弐師将軍が三万騎に将として
酒泉を出た。しきりに西辺を
窺う匈奴の
右賢王を天山に撃とうというのである。武帝は李陵に命じてこの軍旅の
輜重のことに当たらせようとした。
未央宮の
武台殿に召見された李陵は、しかし、極力その役を免ぜられんことを請うた。陵は、
飛将軍と呼ばれた名将
李広の孫。つとに祖父の風ありといわれた
騎射の名手で、数年前から
騎都尉として西辺の
酒泉・
張掖に
在って
射を教え兵を練っていたのである。年齢もようやく四十に近い血気盛りとあっては、
輜重の役はあまりに情けなかったに違いない。臣が辺境に養うところの兵は皆
荊楚の一騎当千の勇士なれば、願わくは彼らの一隊を率いて討って
出で、側面から匈奴の軍を
牽制したいという陵の嘆願には、武帝も
頷くところがあった。しかし、相つづく諸方への派兵のために、あいにく、陵の軍に
割くべき騎馬の余力がないのである。李陵はそれでも構わぬといった。確かに無理とは思われたが、
輜重の役などに当てられるよりは、むしろ
己のために身命を惜しまぬ部下五千とともに危うきを
冒すほうを選びたかったのである。臣願わくは少をもって衆を撃たんといった陵の言葉を、
派手好きな武帝は大いに
欣んで、その願いを
容れた。李陵は西、
張掖に戻って部下の兵を
勒するとすぐに北へ向けて進発した。当時
居延に
屯していた
彊弩都尉路博徳が詔を受けて、陵の軍を中道まで迎えに出る。そこまではよかったのだが、それから先がすこぶる
拙いことになってきた。元来この
路博徳という男は古くから
霍去病の部下として軍に従い、
離侯にまで封ぜられ、ことに十二年前には
伏波将軍として十万の兵を率いて
南越を滅ぼした老将である。その後、法に
坐して侯を失い現在の地位に
堕されて西辺を守っている。年齢からいっても、李陵とは父子ほどに違う。かつては
封侯をも得たその老将がいまさら若い李陵ごときの
後塵を拝するのがなんとしても不愉快だったのである。彼は陵の軍を迎えると同時に、都へ使いをやって奏上させた。今まさに秋とて
匈奴の馬は肥え、
寡兵をもってしては、騎馬戦を得意とする彼らの
鋭鋒には
些か当たりがたい。それゆえ、李陵とともにここに越年し、春を待ってから、
酒泉・
張掖の騎各五千をもって出撃したほうが得策と信ずるという上奏文である。もちろん、李陵はこのことをしらない。武帝はこれを見ると
酷く怒った。李陵が博徳と相談の上での上書と考えたのである。わが前ではあのとおり広言しておきながら、いまさら辺地に行って急に
怯気づくとは何事ぞという。たちまち使いが都から博徳と陵の所に飛ぶ。李陵は少をもって衆を撃たんとわが前で広言したゆえ、
汝はこれと協力する必要はない。今匈奴が
西河に侵入したとあれば、
汝はさっそく陵を残して西河に
馳せつけ敵の道を
遮れ、というのが博徳への詔である。李陵への詔には、ただちに
漠北に至り東は
浚稽山から南は
竜勒水の辺までを偵察観望し、もし異状なくんば、
野侯の故道に従って
受降城に至って士を休めよとある。博徳と相談してのあの上書はいったいなんたることぞ、という
烈しい
詰問のあったことは言うまでもない。
寡兵をもって敵地に
徘徊することの危険を別としても、なお、指定されたこの数千里の行程は、騎馬を持たぬ軍隊にとってははなはだむずかしいものである。徒歩のみによる行軍の速度と、人力による車の
牽引力と、冬へかけての
胡地の気候とを考えれば、これは誰にも明らかであった。武帝はけっして
庸王ではなかったが、同じく庸王ではなかった
隋の
煬帝や
始皇帝などと共通した長所と短所とを
有っていた。
愛寵比なき
李夫人の兄たる
弐師将軍にしてからが兵力不足のためいったん、
大宛から引揚げようとして帝の
逆鱗にふれ、
玉門関をとじられてしまった。その大宛征討も、たかだか善馬がほしいからとて思い立たれたものであった。帝が一度言出したら、どんな
我儘でも絶対に通されねばならぬ。まして、李陵の場合は、もともと
自ら
乞うた役割でさえある。(ただ季節と距離とに相当に無理な注文があるだけで)
躊躇すべき理由はどこにもない。彼は、かくて、「騎兵を伴わぬ北征」に出たのであった。
浚稽山の山間には十日余
留まった。その間、日ごとに
斥候を遠く派して敵状を探ったのはもちろん、附近の山川地形を
剰すところなく図に写しとって都へ報告しなければならなかった。報告書は
麾下の
陳歩楽という者が身に帯びて、単身都へ
馳せるのである。選ばれた使者は、
李陵に
一揖してから、十頭に足らぬ少数の馬の中の一匹に
打跨ると、
一鞭あてて丘を
駈下りた。灰色に乾いた
漠々たる風景の中に、その姿がしだいに小さくなっていくのを、一軍の将士は何か心細い気持で見送った。
十日の間、
浚稽山の東西三十里の中には一人の
胡兵をも見なかった。
彼らに先だって夏のうちに天山へと出撃した
弐師将軍はいったん
右賢王を破りながら、その帰途別の
匈奴の大軍に囲まれて
惨敗した。漢兵は十に六、七を討たれ、将軍の一身さえ危うかったという。その
噂は彼らの耳にも届いている。
李広利を破ったその敵の主力が今どのあたりにいるのか? 今、
因※[#「木+于」、U+6745、10-7]将軍
公孫敖が
西河・
朔方の辺で
禦いでいる(
陵と手を分かった
路博徳はその応援に
馳せつけて行ったのだが)という敵軍は、どうも、距離と時間とを計ってみるに、問題の敵の主力ではなさそうに思われる。天山から、そんなに早く、東方四千里の
河南(オルドス)の地まで行けるはずがないからである。どうしても
匈奴の主力は現在、陵の軍の止営地から北方
居水までの間あたりに
屯していなければならない勘定になる。李陵自身毎日前山の頂に立って四方を
眺めるのだが、東方から南へかけてはただ
漠々たる一面の
平沙、西から北へかけては樹木に乏しい丘陵性の山々が連なっているばかり、秋雲の間にときとして
鷹か
隼かと思われる鳥の影を見ることはあっても、地上には一騎の
胡兵をも見ないのである。
山峡の疎林の
外れに兵車を並べて囲い、その中に
帷幕を連ねた陣営である。夜になると、気温が急に下がった。士卒は乏しい木々を折取って
焚いては暖をとった。十日もいるうちに月はなくなった。空気の乾いているせいか、ひどく星が美しい。黒々とした山影とすれすれに、夜ごと、
狼星が、青白い
光芒を斜めに
曳いて輝いていた。十数日事なく過ごしたのち、明日はいよいよここを
立退いて、指定された進路を東南へ向かって取ろうと決したその晩である。一人の
歩哨が見るともなくこの
爛々たる
狼星を見上げていると、突然、その星のすぐ下の所にすこぶる大きい赤黄色い星が現われた。オヤと思っているうちに、その見なれぬ
巨きな星が赤く太い尾を引いて動いた。と続いて、二つ三つ四つ五つ、同じような光がその周囲に現われて、動いた。思わず
歩哨が声を立てようとしたとき、それらの遠くの
灯はフッと一時に消えた。まるで今見たことが夢だったかのように。
歩哨の報告に接した
李陵は、全軍に命じて、明朝天明とともにただちに戦闘に入るべき準備を整えさせた。外に出て一応各部署を点検し終わると、ふたたび幕営に入り、
雷のごとき
鼾声を立てて熟睡した。
翌朝李陵が目を
醒まして外へ出て見ると、全軍はすでに昨夜の命令どおりの陣形をとり、静かに敵を待ち構えていた。全部が、兵車を並べた外側に出、
戟と
盾とを持った者が前列に、
弓弩を手にした者が後列にと配置されているのである。この谷を
挾んだ二つの山はまだ
暁暗の中に
森閑とはしているが、そこここの
巌蔭に何かのひそんでいるらしい
気配がなんとなく感じられる。
朝日の影が谷合にさしこんでくると同時に、(
匈奴は、
単于がまず朝日を拝したのちでなければ事を発しないのであろう。)今まで何一つ見えなかった両山の頂から斜面にかけて、無数の人影が一時に
湧いた。天地を
撼がす
喊声とともに
胡兵は山下に殺到した。胡兵の
先登が二十歩の距離に迫ったとき、それまで鳴りをしずめていた漢の陣営からはじめて
鼓声が響く。たちまち
千弩ともに発し、弦に応じて数百の
胡兵はいっせいに倒れた。
間髪を入れず、浮足立った残りの胡兵に向かって、漢軍前列の
持戟者らが襲いかかる。
匈奴の軍は完全に
潰えて、山上へ逃げ上った。漢軍これを追撃して
虜首を挙げること数千。
鮮やかな勝ちっぷりではあったが、執念深い敵がこのままで退くことはけっしてない。今日の敵軍だけでも優に三万はあったろう。それに、山上に
靡いていた旗印から見れば、紛れもなく
単于の親衛軍である。単于がいるものとすれば、八万や十万の
後詰めの軍は当然繰出されるものと覚悟せねばならぬ。李陵は即刻この地を撤退して南へ移ることにした。それもここから東南二千里の
受降城へという前日までの予定を変えて、半月前に
辿って来たその同じ道を南へ取って一日も早くもとの
居延塞(それとて千数百里離れているが)に入ろうとしたのである。
南行三日めの
午、漢軍の後方はるか北の地平線に、雲のごとく
黄塵の揚がるのが見られた。匈奴騎兵の追撃である。翌日はすでに八万の胡兵が騎馬の快速を利して、漢軍の前後左右を
隙もなく取囲んでしまっていた。ただし、前日の失敗に
懲りたとみえ、至近の距離にまでは近づいて来ない。南へ行進して行く漢軍を遠巻きにしながら、馬上から遠矢を射かけるのである。李陵が全軍を
停めて、戦闘の体形をとらせれば、敵は馬を駆って遠く退き、
搏戦を避ける。ふたたび行軍をはじめれば、また近づいて来て矢を射かける。行進の速度が著しく減ずるのはもとより、死傷者も一日ずつ確実に
殖えていくのである。飢え疲れた旅人の後をつける
曠野の狼のように、匈奴の兵はこの戦法を続けつつ執念深く追って来る。少しずつ傷つけていった
揚句、いつかは最後の
止めを刺そうとその機会を
窺っているのである。
かつ戦い、かつ退きつつ南行することさらに数日、ある山谷の中で漢軍は一日の休養をとった。負傷者もすでにかなりの数に上っている。
李陵は全員を点呼して、被害状況を調べたのち、傷の一か所にすぎぬ者には平生どおり兵器を
執って闘わしめ、両創を
蒙る者にもなお兵車を助け
推さしめ、三創にしてはじめて
輦に乗せて
扶け運ぶことに決めた。輸送力の欠乏から
屍体はすべて
曠野に遺棄するほかはなかったのである。この夜、陣中視察のとき、李陵はたまたまある
輜重車中に男の服を
纏うた女を発見した。全軍の
車輛について一々調べたところ、同様にしてひそんでいた十数人の女が捜し出された。往年関東の群盗が一時に
戮に
遇ったとき、その妻子等が
逐われて西辺に
遷り住んだ。それら
寡婦のうち衣食に窮するままに、辺境守備兵の妻となり、あるいは彼らを
華客とする
娼婦となり果てた者が少なくない。兵車中に隠れてはるばる
漠北まで従い来たったのは、そういう連中である。李陵は軍吏に女らを
斬るべくカンタンに命じた。彼女らを伴い来たった士卒については一言のふれるところもない。
澗間の
凹地に引出された女どもの
疳高い
号泣がしばらくつづいた後、突然それが夜の沈黙に
呑まれたようにフッと消えていくのを、軍幕の中の将士一同は
粛然たる思いで聞いた。
翌朝、久しぶりで肉薄来襲した敵を迎えて漢の全軍は思いきり快戦した。敵の遺棄
屍体三千余。連日の
執拗なゲリラ戦術に久しくいらだち屈していた士気が
俄かに
奮い立った形である。次の日からまた、もとの
竜城の道に
循って、南方への退行が始まる。
匈奴はまたしても、元の遠巻き戦術に
還った。五日め、漢軍は、
平沙の中にときに
見出される
沼沢地の一つに踏入った。水は半ば凍り、
泥濘も
脛を没する深さで、行けども行けども果てしない
枯葦原が続く。
風上に
廻った匈奴の一隊が火を放った。
朔風は
焔を
煽り、真昼の空の下に白っぽく輝きを失った火は、すさまじい速さで漢軍に迫る。李陵はすぐに附近の
葦に迎え火を放たしめて、かろうじてこれを防いだ。火は防いだが、
沮洳地の車行の困難は言語に絶した。休息の地のないままに一夜
泥濘の中を歩き通したのち、翌朝ようやく丘陵地に
辿りついたとたんに、
先廻りして待伏せていた敵の主力の襲撃に
遭った。人馬入乱れての
搏兵戦である。騎馬隊の
烈しい突撃を避けるため、李陵は車を
棄てて、
山麓の疎林の中に戦闘の場所を移し入れた。林間からの猛射はすこぶる効を奏した。たまたま陣頭に姿を現わした
単于とその親衛隊とに向かって、一時に
連弩を発して乱射したとき、単于の白馬は前脚を高くあげて棒立ちとなり、
青袍をまとった
胡主はたちまち地上に投出された。親衛隊の二騎が馬から下りもせず、左右からさっと単于を
掬い上げると、全隊がたちまちこれを中に囲んですばやく退いて行った。乱闘数刻ののちようやく
執拗な敵を撃退しえたが、確かに今までにない難戦であった。遺された敵の
屍体はまたしても数千を算したが、漢軍も千に近い戦死者を出したのである。
この日捕えた
胡虜の口から、敵軍の事情の一端を知ることができた。それによれば、
単于は漢兵の
手強さに驚嘆し、
己に二十倍する大軍をも
怯れず日に日に南下して我を誘うかに見えるのは、あるいはどこか近くに、伏兵があって、それを
恃んでいるのではないかと疑っているらしい。前夜その疑いを単于が幹部の諸将に
洩らして事を計ったところ、結局、そういう疑いも確かにありうるが、ともかくも、単于自ら数万騎を率いて漢の
寡勢を滅しえぬとあっては、我々の面目に係わるという主戦論が勝ちを制し、これより南四、五十里は山谷がつづくがその間力戦猛攻し、さて平地に出て一戦してもなお破りえないとなったそのときはじめて兵を北に
還そうということに決まったという。これを聞いて、
校尉韓延年以下漢軍の
幕僚たちの頭に、あるいは助かるかもしれぬぞという希望のようなものが
微かに
湧いた。
翌日からの
胡軍の攻撃は猛烈を極めた。
捕虜の言の中にあった最後の猛攻というのを始めたのであろう。襲撃は一日に十数回繰返された。
手厳しい反撃を加えつつ漢軍は徐々に南に移って行く。三日
経つと平地に出た。平地戦になると倍加される騎馬隊の威力にものを言わせ
匈奴らは
遮二無二漢軍を圧倒しようとかかったが、結局またも二千の
屍体を
遺して退いた。捕虜の言が偽りでなければ、これで胡軍は追撃を打切るはずである。たかが一兵卒の言った言葉ゆえ、それほど信頼できるとは思わなかったが、それでも
幕僚一同
些かホッとしたことは争えなかった。
その晩、漢の
軍侯、
管敢という者が陣を脱して匈奴の軍に
亡げ
降った。かつて
長安都下の悪少年だった男だが、前夜
斥候上の手抜かりについて
校尉・
成安侯韓延年のために衆人の前で
面罵され、
笞打たれた。それを含んでこの挙に出たのである。先日
渓間で
斬に遭った女どもの一人が彼の妻だったとも言う。管敢は匈奴の捕虜の自供した言葉を知っていた。それゆえ、
胡陣に
亡げて
単于の前に引出されるや、伏兵を
懼れて引上げる必要のないことを力説した。言う、漢軍には後援がない。矢もほとんど尽きようとしている。負傷者も続出して行軍は
難渋を極めている。漢軍の中心をなすものは、
李将軍および成安侯韓延年の率いる各八百人だが、それぞれ黄と白との
幟をもって印としているゆえ、明日
胡騎の精鋭をしてそこに攻撃を集中せしめてこれを破ったなら、他は容易に
潰滅するであろう、
云々。
単于は大いに喜んで厚く敢を遇し、ただちに北方への引上げ命令を取消した。
翌日、
李陵韓延年速かに
降れと
疾呼しつつ、胡軍の最精鋭は、黄白の
幟を目ざして襲いかかった。その勢いに漢軍は、しだいに平地から西方の山地へと押されて行く。ついに本道から
遙かに離れた山谷の間に追込まれてしまった。四方の山上から敵は矢を雨のごとくに
注いだ。それに応戦しようにも、今や矢が完全に尽きてしまった。
遮虜
を出るとき各人が百本ずつ携えた五十万本の矢がことごとく射尽くされたのである。矢ばかりではない。全軍の
刀槍矛戟の類も半ばは折れ欠けてしまった。文字どおり刀折れ矢尽きたのである。それでも、
戟を失ったものは
車輻を
斬ってこれを持ち、
軍吏は
尺刀を手にして防戦した。谷は奥へ進むに従っていよいよ
狭くなる。
胡卒は諸所の
崖の上から大石を投下しはじめた。矢よりもこのほうが確実に漢軍の死傷者を増加させた。
死屍と
石とでもはや前進も不可能になった。
その夜、李陵は
小袖短衣の
便衣を着け、誰もついて来るなと禁じて独り幕営の外に出た。月が山の
峡から
覗いて谷間に
堆い
屍を照らした。
浚稽山の陣を撤するときは夜が暗かったのに、またも月が明るくなりはじめたのである。月光と満地の霜とで
片岡の斜面は水に
濡れたように見えた。幕営の中に残った将士は、李陵の服装からして、彼が単身敵陣を
窺ってあわよくば単于と刺違える所存に違いないことを察した。李陵はなかなか戻って来なかった。彼らは息をひそめてしばらく外の様子を
窺った。遠く山上の敵塁から
胡笳の声が響く。かなり久しくたってから、音もなく
帷をかかげて李陵が幕の内にはいって来た。だめだ。と一言吐き出すように言うと、
踞牀に腰を
下した。全軍
斬死のほか、
途はないようだなと、またしばらくしてから、誰に向かってともなく言った。満座口を開く者はない。ややあって
軍吏の一人が口を切り、先年
野侯趙破奴が
胡軍のために
生擒られ、数年後に漢に
亡げ帰ったときも、武帝はこれを罰しなかったことを語った。この例から考えても、
寡兵をもって、かくまで
匈奴を
震駭させた
李陵であってみれば、たとえ都へのがれ帰っても、天子はこれを遇する
途を知りたもうであろうというのである。李陵はそれを
遮って言う。陵一個のことはしばらく
措け、とにかく、今数十矢もあれば一応は囲みを脱出することもできようが、一本の矢もないこの
有様では、明日の天明には全軍が
坐して
縛を受けるばかり。ただ、今夜のうちに囲みを突いて外に出、各自鳥獣と散じて走ったならば、その中にはあるいは
辺塞に
辿りついて、天子に軍状を報告しうる者もあるかもしれぬ。案ずるに現在の地点は
汗山北方の山地に違いなく、
居延まではなお数日の行程ゆえ、成否のほどはおぼつかないが、ともかく今となっては、そのほかに残された
途はないではないか。諸将僚もこれに
頷いた。全軍の将卒に各二升の
糒と一個の
冰片とが
頒たれ、
遮二無二、
遮虜
に向かって走るべき旨がふくめられた。さて、一方、ことごとく漢陣の
旌旗を倒しこれを
斬って地中に埋めたのち、武器兵車等の敵に利用されうる
惧れのあるものも皆
打毀した。夜半、
鼓して兵を起こした。
軍鼓の音も
惨として響かぬ。李陵は
韓校尉とともに馬に
跨がり壮士十余人を従えて
先登に立った。この日追い込まれた
峡谷の東の口を破って平地に出、それから南へ向けて走ろうというのである。
早い月はすでに落ちた。
胡虜の不意を
衝いて、ともかくも全軍の三分の二は予定どおり峡谷の裏口を突破した。しかしすぐに敵の騎馬兵の追撃に
遭った。徒歩の兵は大部分討たれあるいは捕えられたようだったが、混戦に乗じて敵の馬を奪った数十人は、その
胡馬に
鞭うって南方へ走った。敵の追撃をふり切って夜目にもぼっと白い
平沙の上を、のがれ去った部下の数を数えて、確かに百に余ることを確かめうると、
李陵はまた峡谷の入口の
修羅場にとって返した。身には数創を帯び、
自らの血と返り血とで、
戎衣は重く
濡れていた。彼と並んでいた
韓延年はすでに討たれて戦死していた。
麾下を失い全軍を失って、もはや天子に
見ゆべき面目はない。彼は
戟を取直すと、ふたたび乱軍の中に
駈入った。暗い中で敵味方も分らぬほどの乱闘のうちに、李陵の馬が
流矢に当たったとみえてガックリ前にのめった。それとどちらが早かったか、前なる敵を突こうと
戈を引いた李陵は、突然背後から重量のある打撃を後頭部に
喰って失神した。馬から
顛落した彼の上に、
生擒ろうと構えた
胡兵どもが
十重二十重とおり重なって、とびかかった。
九月に北へ立った五千の
漢軍は、十一月にはいって、疲れ傷ついて将を失った四百足らずの敗兵となって
辺塞に
辿りついた。敗報はただちに
駅伝をもって
長安の都に達した。
武帝は思いのほか腹を立てなかった。本軍たる
李広利の大軍さえ
惨敗しているのに、一支隊たる李陵の
寡軍にたいした期待のもてよう道理がなかったから。それに彼は、李陵が必ずや戦死しているに違いないとも思っていたのである。ただ、先ごろ李陵の使いとして
漠北から「戦線異状なし、士気すこぶる
旺盛」の報をもたらした
陳歩楽だけは(彼は吉報の使者として
嘉せられ
郎となってそのまま都に
留まっていた)成行上どうしても自殺しなければならなかった。哀れではあったが、これはやむを得ない。
翌、
天漢三年の春になって、
李陵は戦死したのではない。捕えられて
虜に降ったのだという確報が届いた。武帝ははじめて
嚇怒した。即位後四十余年。帝はすでに六十に近かったが、気象の
烈しさは壮時に超えている。
神仙の説を好み
方士巫覡の類を信じた彼は、それまでに
己の絶対に尊信する方士どもに幾度か
欺かれていた。漢の勢威の絶頂に当たって五十余年の間君臨したこの大皇帝は、その中年以後ずっと、霊魂の世界への不安な関心に
執拗につきまとわれていた。それだけに、その方面での失望は彼にとって大きな打撃となった。こうした打撃は、生来
闊達だった彼の心に、年とともに群臣への暗い
猜疑を植えつけていった。
李蔡・
青霍・
趙周と、
丞相たる者は相ついで死罪に行なわれた。現在の丞相たる
公孫賀のごとき、命を拝したときに
己が運命を恐れて帝の前で手離しで泣出したほどである。
硬骨漢汲黯が退いた後は、帝を取巻くものは、
佞臣にあらずんば
酷吏であった。
さて、武帝は諸重臣を召して李陵の処置について計った。李陵の身体は都にはないが、その罪の決定によって、彼の妻子
眷属家財などの処分が行なわれるのである。酷吏として聞こえた一
廷尉が常に帝の顔色を
窺い合法的に法を
枉げて帝の意を迎えることに巧みであった。ある人が法の権威を説いてこれを
詰ったところ、これに答えていう。前主の
是とするところこれが
律となり、後主の是とするところこれが
令となる。当時の君主の意のほかになんの法があろうぞと。群臣皆この廷尉の類であった。
丞相公孫賀、
御史大夫杜周、
太常、
趙弟以下、誰一人として、帝の
震怒を犯してまで陵のために弁じようとする者はない。口を極めて彼らは李陵の売国的行為を
罵る。陵のごとき
変節漢と肩を比べて
朝に仕えていたことを思うといまさらながら
愧ずかしいと言出した。平生の陵の行為の一つ一つがすべて疑わしかったことに意見が一致した。陵の
従弟に当たる
李敢が太子の
寵を頼んで
驕恣であることまでが、陵への
誹謗の種子になった。口を
緘して意見を
洩らさぬ者が、結局陵に対して最大の好意を
有つものだったが、それも数えるほどしかいない。
ただ一人、苦々しい顔をしてこれらを見守っている男がいた。今口を極めて李陵を
讒誣しているのは、数か月前李陵が都を辞するときに
盃をあげて、その行を
壮んにした連中ではなかったか。
漠北からの使者が来て李陵の軍の健在を伝えたとき、さすがは名将
李広の孫と李陵の孤軍奮闘を
讃えたのもまた同じ連中ではないのか。
恬として既往を忘れたふりのできる
顕官連や、彼らの
諂諛を見破るほどに
聡明ではありながらなお真実に耳を傾けることを
嫌う君主が、この男には不思議に思われた。いや、不思議ではない。人間がそういうものとは昔からいやになるほど知ってはいるのだが、それにしてもその不愉快さに変わりはないのである。
下大夫の一人として
朝につらなっていたために彼もまた下問を受けた。そのとき、この男はハッキリと李陵を
褒め上げた。言う。陵の平生を見るに、親に
事えて孝、士と交わって信、常に奮って身を顧みずもって国家の急に殉ずるは
誠に国士のふうありというべく、今不幸にして事一
度破れたが、身を全うし妻子を
保んずることをのみただ念願とする君側の
佞人ばらが、この陵の
一失を取上げてこれを誇大
歪曲しもって
上の聡明を
蔽おうとしているのは、
遺憾この上もない。そもそも陵の今回の軍たる、五千にも満たぬ歩卒を率いて深く敵地に入り、
匈奴数万の師を
奔命に疲れしめ、転戦千里、矢尽き道
窮まるに至るもなお全軍
空弩を張り、
白刃を冒して死闘している。部下の心を得てこれに死力を尽くさしむること、
古の名将といえどもこれには過ぎまい。軍敗れたりとはいえ、その善戦のあとはまさに天下に顕彰するに足る。思うに、彼が死せずして
虜に
降ったというのも、ひそかにかの地にあって何事か漢に報いんと期してのことではあるまいか。
······ 並いる群臣は驚いた。こんなことのいえる男が世にいようとは考えなかったからである。彼らはこめかみを
顫わせた武帝の顔を恐る恐る見上げた。それから、自分らをあえて
全躯保妻子の臣と呼んだこの男を待つものが何であるかを考えて、ニヤリとするのである。
向こう見ずなその男
||太史令・
司馬遷が君前を退くと、すぐに、「
全躯保妻子の臣」の一人が、
遷と
李陵との親しい関係について武帝の耳に入れた。太史令は
故あって
弐師将軍と
隙あり、遷が陵を
褒めるのは、それによって、今度、陵に先立って
出塞して功のなかった弐師将軍を
陥れんがためであると言う者も出てきた。ともかくも、たかが
星暦卜祀を
司るにすぎぬ太史令の身として、あまりにも
不遜な態度だというのが、一同の一致した意見である。おかしなことに、李陵の家族よりも司馬遷のほうが先に罪せられることになった。翌日、彼は
廷尉に下された。刑は
宮と決まった。
支那で昔から行なわれた
肉刑の
主なるものとして、
黥、

(はなきる)、

(あしきる)、
宮、の四つがある。武帝の祖父・
文帝のとき、この四つのうち三つまでは廃せられたが、
宮刑のみはそのまま残された。宮刑とはもちろん、男を男でなくする奇怪な刑罰である。これを一に
腐刑ともいうのは、その
創が腐臭を放つがゆえだともいい、あるいは、
腐木の実を生ぜざるがごとき男と成り果てるからだともいう。この刑を受けた者を
閹人と称し、宮廷の
宦官の大部分がこれであったことは言うまでもない。人もあろうに
司馬遷がこの刑に
遭ったのである。しかし、後代の我々が
史記の作者として知っている司馬遷は大きな名前だが、当時の
太史令司馬遷は
眇たる一文筆の
吏にすぎない。頭脳の
明晰なことは確かとしてもその頭脳に自信をもちすぎた、人づき合いの悪い男、議論においてけっして
他人に負けない男、たかだか強情我慢の
偏窟人としてしか知られていなかった。彼が
腐刑に
遇ったからとて別に驚く者はない。
司馬氏は
元周の史官であった。後、
晋に入り、
秦に仕え、
漢の代となってから四代目の
司馬談が武帝に仕えて
建元年間に
太史令をつとめた。この談が遷の父である。専門たる
律・
暦・
易のほかに
道家の教えに
精しくまた
博く
儒、
墨、
法、
名、
諸家の説にも通じていたが、それらをすべて一家の
見をもって
綜べて自己のものとしていた。
己の頭脳や精神力についての自信の強さはそっくりそのまま
息子の遷に
受嗣がれたところのものである。彼が、息子に施した最大の教育は、諸学の伝授を終えてのちに、
海内の大旅行をさせたことであった。当時としては変わった教育法であったが、これが後年の歴史家司馬遷に資するところのすこぶる大であったことは、いうまでもない。
元封元年に武帝が東、
泰山に登って天を祭ったとき、たまたま
周南で病床にあった
熱血漢司馬談は、天子始めて漢家の
封を建つるめでたきときに、
己一人従ってゆくことのできぬのを
慨き、憤を発してそのために死んだ。古今を一貫せる
通史の編述こそは彼の一生の念願だったのだが、単に材料の
蒐集のみで終わってしまったのである。その
臨終の光景は息子・
遷の筆によって詳しく
史記の最後の章に描かれている。それによると司馬談は己のまた
起ちがたきを知るや遷を呼びその手を
執って、
懇ろに
修史の必要を説き、
己太史となりながらこのことに着手せず、賢君忠臣の
事蹟を
空しく地下に埋もれしめる
不甲斐なさを
慨いて泣いた。「
予死せば
汝必ず太史とならん。太史とならばわが論著せんと欲するところを忘るるなかれ」といい、これこそ己に対する孝の最大なものだとて、
爾それ
念えやと繰返したとき、遷は
俯首流涕してその命に
背かざるべきを誓ったのである。
父が死んでから二年ののち、はたして、
司馬遷は
太史令の職を継いだ。父の
蒐集した資料と、宮廷所蔵の秘冊とを用いて、すぐにも
父子相伝の天職にとりかかりたかったのだが、任官後の彼にまず課せられたのは暦の改正という事業であった。この仕事に没頭することちょうど満四年。
太初元年にようやくこれを仕上げると、すぐに彼は
史記の
編纂に着手した。遷、ときに年四十二。
腹案はとうにでき上がっていた。その腹案による史書の形式は従来の史書のどれにも似ていなかった。彼は道義的批判の規準を示すものとしては
春秋を推したが、事実を伝える史書としてはなんとしてもあきたらなかった。もっと事実が欲しい。教訓よりも事実が。
左伝や
国語になると、なるほど
事実はある。左伝の叙事の巧妙さに至っては感嘆のほかはない。しかし、その事実を作り上げる一人一人の人についての探求がない。事件の中における彼らの姿の描出は
鮮やかであっても、そうしたことをしでかすまでに至る彼ら一人一人の
身許調べの欠けているのが、
司馬遷には不服だった。それに従来の史書はすべて、当代の者に既往をしらしめることが主眼となっていて、未来の者に当代を知らしめるためのものとしての用意があまりに欠けすぎているようである。要するに、司馬遷の欲するものは、在来の史には求めて得られなかった。どういう点で在来の史書があきたらぬかは、彼自身でも自ら欲するところを書上げてみてはじめて判然する
底のものと思われた。彼の胸中にあるモヤモヤと
鬱積したものを書き現わすことの要求のほうが、在来の史書に対する批判より先に立った。いや、彼の批判は、自ら新しいものを
創るという形でしか現われないのである。自分が長い間頭の中で
画いてきた構想が、史といえるものか、彼には自信はなかった。しかし、史といえてもいえなくても、とにかくそういうものが最も書かれなければならないものだ(世人にとって、後代にとって、なかんずく己自身にとって)という点については、自信があった。彼も
孔子に
倣って、述べて作らぬ方針をとったが、しかし、孔子のそれとはたぶんに内容を
異にした
述而不作である、司馬遷にとって、単なる編年体の事件列挙はいまだ「述べる」の中にはいらぬものだったし、また、後世人の事実そのものを知ることを妨げるような、あまりにも道義的な断案は、むしろ「作る」の部類にはいるように思われた。
漢が天下を定めてからすでに五代・百年、
始皇帝の反文化政策によって
湮滅しあるいは
隠匿されていた書物がようやく世に行なわれはじめ、
文の
興らんとする気運が
鬱勃として感じられた。漢の朝廷ばかりでなく、時代が、
史の出現を要求しているときであった。
司馬遷個人としては、父の
遺嘱による感激が学殖・観察眼・筆力の充実を伴ってようやく
渾然たるものを生み出すべく
醗酵しかけてきていた。彼の仕事は実に気持よく進んだ。むしろ快調に行きすぎて困るくらいであった。というのは、初めの
五帝本紀から
夏殷周秦本紀あたりまでは、彼も、材料を
按排して記述の正確厳密を期する一人の技師に過ぎなかったのだが、始皇帝を経て、
項羽本紀にはいるころから、その技術家の冷静さが怪しくなってきた。ともすれば、項羽が彼に、あるいは彼が項羽にのり移りかねないのである。
項王
則チ夜起キテ帳中ニ飲ス。美人有リ。名ハ
虞。常ニ幸セラレテ従フ。
駿馬名ハ
騅、常ニ
之ニ騎ス。
是ニ
於テ項王
乃チ悲歌
慷慨シ自ラ詩ヲ
為リテ
曰ク「力山ヲ抜キ気世ヲ
蓋フ、時利アラズ騅
逝カズ、騅逝カズ
奈何スベキ、虞ヤ虞ヤ
若ヲ
奈何ニセン」ト。歌フコト数

、美人之ニ和ス。項王
泣数行下ル。左右皆泣キ、
能ク仰ギ
視ルモノ
莫シ
······。
これでいいのか? と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされたような書きっぷりでいいものだろうか? 彼は「作ル」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述ベル」ことに尽きる。事実、彼は述べただけであった。しかしなんと生気
溌剌たる述べ方であったか? 異常な想像的視覚を
有った者でなければとうてい不能な記述であった。彼は、ときに「作ル」ことを恐れるのあまり、すでに書いた部分を読返してみて、それあるがために史上の人物が現実の人物のごとくに躍動すると思われる字句を削る。すると確かにその人物はハツラツたる呼吸を
止める。これで、「作ル」ことになる心配はないわけである。しかし、(と司馬遷が思うに)これでは
項羽が項羽でなくなるではないか。項羽も
始皇帝も
楚の
荘王もみな同じ人間になってしまう。違った人間を同じ人間として記述することが、何が「述べる」だ? 「述べる」とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。そう考えてくると、やはり彼は削った字句をふたたび生かさないわけにはいかない。元どおりに直して、さて一読してみて、彼はやっと落ちつく。いや、彼ばかりではない。そこにかかれた史上の人物が、項羽や
樊
や
范増が、みんなようやく安心してそれぞれの場所に落ちつくように思われる。
調子のよいときの
武帝は
誠に
高邁闊達な・理解ある文教の保護者だったし、
太史令という職が地味な特殊な技能を要するものだったために、官界につきものの
朋党比周の
擠陥讒誣による地位(あるいは生命)の不安定からも免れることができた。
数年の間、司馬遷は充実した・幸福といっていい日々を送った。(当時の人間の考える幸福とは、現代人のそれと、ひどく内容の違うものだったが、それを求めることに変わりはない。)妥協性はなかったが、どこまでも陽性で、よく論じよく怒りよく笑いなかんずく論敵を
完膚なきまでに説破することを最も得意としていた。
さて、そうした数年ののち、突然、この
禍が
降ったのである。
薄暗い
蚕室の中で
||腐刑施術後当分の間は風に当たることを避けねばならぬので、中に火を
熾して暖かに保った・密閉した暗室を作り、そこに施術後の受刑者を数日の間入れて、身体を養わせる。暖かく暗いところが蚕を飼う部屋に似ているとて、それを蚕室と名づけるのである。
||言語を絶した混乱のあまり彼は
茫然と壁によりかかった。憤激よりも先に、驚きのようなものさえ感じていた。
斬に
遭うこと、死を
賜うことに対してなら、彼にはもとより平生から覚悟ができている。
刑死する
己の姿なら想像してみることもできるし、武帝の気に逆らって
李陵を
褒め上げたときもまかりまちがえば死を賜うようなことになるかもしれぬくらいの
懸念は自分にもあったのである。ところが、刑罰も数ある中で、よりによって最も
醜陋な
宮刑にあおうとは!
迂闊といえば迂闊だが、(というのは、死刑を予期するくらいなら当然、他のあらゆる刑罰も予期しなければならないわけだから)彼は自分の運命の中に、不測の死が待受けているかもしれぬとは考えていたけれども、このような醜いものが突然現われようとは、全然、頭から考えもしなかったのである。常々、彼は、人間にはそれぞれその人間にふさわしい事件しか起こらないのだという一種の確信のようなものを
有っていた。これは長い間史実を扱っているうちに自然に養われた考えであった。同じ逆境にしても、
慷慨の士には激しい痛烈な苦しみが、軟弱の
徒には緩慢なじめじめした醜い苦しみが、というふうにである。たとえ始めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処のし方によってその運命はその人間にふさわしいことが
判ってくるのだと。
司馬遷は自分を
男だと信じていた。文筆の
吏ではあっても当代のいかなる
武人よりも男であることを確信していた。自分でばかりではない。このことだけは、いかに彼に好意を寄せぬ者でも認めないわけにはいかないようであった。それゆえ、彼は自らの持論に従って、
車裂の刑なら自分の行く手に思い
画くことができたのである。それが
齢五十に近い身で、この
辱しめにあおうとは! 彼は、今自分が
蚕室の中にいるということが夢のような気がした。夢だと思いたかった。しかし、壁によって閉じていた目を開くと、うす暗い中に、生気のない・魂までが抜けたような顔をした男が三、四人、だらしなく横たわったりすわったりしているのが目にはいった。あの姿が、つまり今の己なのだと思ったとき、
嗚咽とも
怒号ともつかない叫びが彼の
咽喉を破った。
痛憤と
煩悶との数日のうちには、ときに、学者としての彼の習慣からくる思索が
||反省が来た。いったい、今度の出来事の中で、何が
||誰が
||誰のどういうところが、悪かったのだという考えである。日本の君臣道とは
根柢から異なった
彼の国のこととて、当然、彼はまず、武帝を
怨んだ。一時はその
怨懣だけで、いっさい他を顧みる余裕はなかったというのが実際であった。しかし、しばらくの狂乱の時期の過ぎたあとには、歴史家としての彼が、目覚めてきた。
儒者と違って、先王の価値にも歴史家的な割引をすることを知っていた彼は、後王たる武帝の評価の上にも、
私怨のために狂いを来たさせることはなかった。なんといっても武帝は大君主である。そのあらゆる欠点にもかかわらず、この君がある限り、漢の天下は微動だもしない。高祖はしばらく
措くとするも、
仁君文帝も名君
景帝も、この君に比べれば、やはり小さい。ただ大きいものは、その欠点までが大きく写ってくるのは、これはやむを得ない。
司馬遷は極度の
憤怨のうちにあってもこのことを忘れてはいない。今度のことは要するに天の
作せる疾風暴雨
霹靂に見舞われたものと思うほかはないという考えが、彼をいっそう絶望的な
憤りへと
駆ったが、また一方、逆に
諦観へも向かわせようとする。
怨恨が長く君主に向かい得ないとなると、勢い、君側の
姦臣に向けられる。彼らが悪い。たしかにそうだ。しかし、この悪さは、すこぶる
副次的な悪さである。それに、
自矜心の高い彼にとって、彼ら
小人輩は、怨恨の対象としてさえ物足りない気がする。彼は、今度ほど
好人物というものへの腹立ちを感じたことはない。これは
姦臣や
酷吏よりも始末が悪い。少なくとも
側から見ていて腹が立つ。良心的に安っぽく安心しており、他にも安心させるだけ、いっそう
怪しからぬのだ。弁護もしなければ
反駁もせぬ。心中、反省もなければ自責もない。
丞相公孫賀のごとき、その代表的なものだ。同じ
阿諛迎合を事としても、
杜周(最近この男は前任者
王卿を陥れてまんまと
御史大夫となりおおせた)のような
奴は自らそれと知っているに違いないがこのお人好しの丞相ときた日には、その自覚さえない。自分に
全躯保妻子の臣といわれても、こういう手合いは、腹も立てないのだろう。こんな手合いは恨みを向けるだけの値打ちさえもない。
司馬遷は最後に
忿懣の持って行きどころを自分に求めようとする。実際、何ものかに対して腹を立てなければならぬとすれば、結局それは自分自身に対してのほかはなかったのである。だが、自分のどこが悪かったのか?
李陵のために弁じたこと、これはいかに考えてみてもまちがっていたとは思えない。方法的にも格別
拙かったとは考えぬ。
阿諛に
堕するに甘んじないかぎり、あれはあれでどうしようもない。それでは、自ら顧みてやましくなければ、そのやましくない行為が、どのような結果を来たそうとも、士たる者はそれを
甘受しなければならないはずだ。なるほどそれは一応そうに違いない。だから自分も
肢解されようと
腰斬にあおうと、そういうものなら甘んじて受けるつもりなのだ。しかし、この
宮刑は
||その結果かく成り果てたわが身の有様というものは、
||これはまた別だ。同じ不具でも足を切られたり鼻を切られたりするのとは全然違った種類のものだ。士たる者の加えられるべき刑ではない。こればかりは、身体のこういう状態というものは、どういう角度から見ても、完全な悪だ。
飾言の余地はない。そうして、心の傷だけならば時とともに
癒えることもあろうが、
己が身体のこの醜悪な現実は死に至るまでつづくのだ。動機がどうあろうと、このような結果を招くものは、結局「悪かった」といわなければならぬ。しかし、どこが悪かった?
己のどこが? どこも悪くなかった。己は正しいことしかしなかった。
強いていえば、ただ、「我あり」という事実だけが悪かったのである。
茫然とした
虚脱の状態ですわっていたかと思うと、突然飛上り、傷ついた獣のごとくうめきながら暗く暖かい室の中を歩き
廻る。そうしたしぐさを無意識に繰返しつつ、彼の考えもまた、いつも同じ所をぐるぐる廻ってばかりいて帰結するところを知らないのである。
我を忘れ壁に頭を打ちつけて血を流したその数回を除けば、彼は自らを殺そうと試みなかった。死にたかった。死ねたらどんなによかろう。それよりも数等恐ろしい恥辱が追立てるのだから死をおそれる気持は全然なかった。なぜ死ねなかったのか? 獄舎の中に、自らを殺すべき道具のなかったことにもよろう。しかし、それ以外に何かが内から彼をとめる。はじめ、彼はそれがなんであるかに気づかなかった。ただ狂乱と
憤懣との中で、たえず
発作的に死への誘惑を感じたにもかかわらず、一方彼の気持を自殺のほうへ向けさせたがらないものがあるのを
漠然と感じていた。何を忘れたのかはハッキリしないながら、とにかく何か忘れものをしたような気のすることがある。ちょうどそんなぐあいであった。
許されて自宅に帰り、そこで
謹慎するようになってから、はじめて、彼は、自分がこの
一月狂乱にとり
紛れて
己が
畢生の事業たる
修史のことを忘れ果てていたこと、しかし、表面は忘れていたにもかかわらず、その仕事への無意識の関心が彼を自殺から
阻む役目を
隠々のうちにつとめていたことに気がついた。
十年前
臨終の
床で自分の手をとり泣いて
遺命した父の
惻々たる言葉は、今なお
耳底にある。しかし、今
疾痛惨怛を
極めた彼の心の中に
在ってなお修史の仕事を思い絶たしめないものは、その父の言葉ばかりではなかった。それは何よりも、その仕事そのものであった。仕事の魅力とか仕事への情熱とかいう
怡しい態のものではない。修史という使命の自覚には違いないとしてもさらに
昂然として自らを
恃する自覚ではない。恐ろしく
我の強い男だったが、今度のことで、
己のいかにとるに足らぬものだったかをしみじみと考えさせられた。理想の抱負のと
威張ってみたところで、
所詮己は牛にふみつぶされる
道傍の虫けらのごときものにすぎなかったのだ。「
我」はみじめに踏みつぶされたが、修史という仕事の意義は疑えなかった。このような浅ましい身と成り果て、自信も
自恃も失いつくしたのち、それでもなお世にながらえてこの仕事に従うということは、どう考えても
怡しいわけはなかった。それはほとんど、いかにいとわしくとも最後までその関係を絶つことの許されない人間同士のような宿命的な
因縁に近いものと、彼自身には感じられた。とにかくこの仕事のために自分は自らを殺すことができぬのだ(それも義務感からではなく、もっと肉体的な、この仕事との
繋がりによってである)ということだけはハッキリしてきた。
当座の盲目的な獣の
呻き苦しみに代わって、
より意識的な・
人間の苦しみが始まった。困ったことに、自殺できないことが明らかになるにつれ、自殺によってのほかに苦悩と恥辱とから逃れる
途のないことがますます明らかになってきた。一個の
丈夫たる
太史令司馬遷は
天漢三年の春に死んだ。そして、そののちに、彼の書残した史をつづける者は、知覚も意識もない一つの書写機械にすぎぬ、
||自らそう思い込む以外に
途はなかった。無理でも、彼はそう思おうとした。修史の仕事は必ず続けられねばならぬ。これは彼にとって絶対であった。修史の仕事のつづけられるためには、いかにたえがたくとも生きながらえねばならぬ。生きながらえるためには、どうしても、完全に身を
亡きものと思い込む必要があったのである。
五月ののち、司馬遷はふたたび筆を
執った。
歓びも
昂奮もない・ただ仕事の完成への意志だけに
鞭打たれて、傷ついた脚を
引摺りながら目的地へ向かう旅人のように、とぼとぼと稿を継いでいく。もはや太史令の役は免ぜられていた。
些か後悔した武帝が、しばらく後に彼を
中書令に取立てたが、官職の
黜陟のごときは、彼にとってもうなんの意味もない。以前の論客司馬遷は、一切口を開かずなった。笑うことも怒ることもない。しかし、けっして
悄然たる姿ではなかった。むしろ、何か
悪霊にでも取り
憑かれているような
すさまじさを、人々は
緘黙せる彼の
風貌の中に見て取った。夜眠る時間をも惜しんで彼は仕事をつづけた。一刻も早く仕事を完成し、そのうえで早く自殺の自由を得たいとあせっているもののように、家人らには思われた。
凄惨な努力を一年ばかり続けたのち、ようやく、生きることの
歓びを失いつくしたのちもなお表現することの歓びだけは生残りうるものだということを、彼は発見した。しかし、そのころになってもまだ、彼の完全な沈黙は破られなかったし、
風貌の中のすさまじさも全然
和らげられはしない。稿をつづけていくうちに、
宦者とか
閹奴とかいう文字を書かなければならぬところに来ると、彼は覚えず
呻き声を発した。独り居室にいるときでも、夜、
牀上に横になったときでも、ふとこの屈辱の思いが
萌してくると、たちまちカーッと、
焼鏝をあてられるような熱い
疼くものが全身を
駈けめぐる。彼は思わず飛上り、奇声を発し、呻きつつ
四辺を歩きまわり、さてしばらくしてから歯をくいしばって
己を落ちつけようと努めるのである。
乱軍の中に気を失った
李陵が
獣脂を
灯し
獣糞を
焚いた
単于の
帳房の中で目を覚ましたとき、
咄嗟に彼は心を決めた。
自ら首
刎ねて
辱しめを免れるか、それとも今一応は敵に従っておいてそのうちに機を見て脱走する
||敗軍の責を
償うに足る手柄を
土産として
||か、この二つのほかに
途はないのだが、李陵は、後者を選ぶことに心を決めたのである。
単于は手ずから李陵の
縄を解いた。その後の待遇も
鄭重を極めた。
且
侯単于とて先代の
犁湖単于の弟だが、
骨骼の
逞しい
巨眼赭髯の中年の
偉丈夫である。数代の単于に従って
漢と戦ってはきたが、まだ李陵ほどの
手強い敵に
遭ったことはないと正直に語り、陵の祖父
李広の名を引合いに出して陵の善戦を
讃めた。
虎を
格殺したり岩に矢を立てたりした
飛将軍李広の
驍名は今もなお
胡地にまで語り伝えられている。陵が厚遇を受けるのは、彼が強き者の子孫でありまた彼自身も強かったからである。食を
頒けるときも強壮者が美味をとり老弱者に余り物を与えるのが
匈奴のふうであった。ここでは、強き者が
辱しめられることはけっしてない。降将李陵は一つの
穹盧と数十人の
侍者とを与えられ
賓客の礼をもって
遇せられた。
李陵にとって奇異な生活が始まった。家は
絨帳穹盧、食物は
羶肉、飲物は
酪漿と獣乳と
乳醋酒。着物は
狼や羊や
熊の皮を
綴り合わせた
旃裘。牧畜と狩猟と
寇掠と、このほかに彼らの生活はない。
一望際涯のない高原にも、しかし、河や湖や山々による境界があって、
単于直轄地のほかは
左賢王右賢王
左谷蠡王右谷蠡王以下の諸王侯の領地に分けられており、牧民の移住はおのおのその境界の中に限られているのである。城郭もなければ田畑もない国。村落はあっても、それが季節に従い水草を
逐って土地を変える。
李陵には土地は与えられない。単于
麾下の諸将とともにいつも単于に従っていた。
隙があったら単于の首でも、と李陵は
狙っていたが、容易に機会が来ない。たとい、単于を討果たしたとしても、その首を持って脱出することは、非常な機会に恵まれないかぎり、まず不可能であった。
胡地にあって単于と刺違えたのでは、
匈奴は
己の不名誉を
有耶無耶のうちに葬ってしまうこと
必定ゆえ、おそらく漢に聞こえることはあるまい。李陵は
辛抱強く、その不可能とも思われる機会の到来を待った。
単于の
幕下には、
李陵のほかにも漢の
降人が幾人かいた。その中の一人、
衛律という男は軍人ではなかったが、
丁霊王の位を
貰って最も重く単于に用いられている。その父は
胡人だが、
故あって衛律は漢の都で生まれ成長した。武帝に仕えていたのだが、先年
協律都尉李延年の事に
坐するのを
懼れて、
亡げて
匈奴に
帰したのである。血が血だけに
胡風になじむことも速く、相当の才物でもあり、常に
且
侯単于の
帷幄に参じてすべての画策に
与かっていた。李陵はこの衛律を始め、
漢人の
降って匈奴の中にあるものと、ほとんど口をきかなかった。彼の頭の中にある計画について事をともにすべき人物がいないと思われたのである。そういえば、他の漢人同士の間でもまた、互いに妙に気まずいものを感じるらしく、相互に親しく交わることがないようであった。
一度単于は李陵を呼んで軍略上の示教を
乞うたことがある。それは
東胡に対しての戦いだったので、陵は快く
己が意見を述べた。次に単于が同じような相談を持ちかけたとき、それは漢軍に対する策戦についてであった。李陵はハッキリと
嫌な表情をしたまま口を開こうとしなかった。単于も
強いて返答を求めようとしなかった。それからだいぶ久しくたったころ、代・上郡を
寇掠する軍隊の一将として南行することを求められた。このときは、漢に対する戦いには出られない旨を言ってキッパリ断わった。
爾後、単于は陵にふたたびこうした要求をしなくなった。待遇は依然として変わらない。他に利用する目的はなく、ただ士を遇するために士を遇しているのだとしか思われない。とにかくこの単于は
男だと李陵は感じた。
単于の長子・
左賢王が妙に李陵に好意を示しはじめた。好意というより尊敬といったほうが近い。二十歳を越したばかりの・
粗野ではあるが勇気のある
真面目な青年である。強き者への
讃美が、実に純粋で強烈なのだ。初め李陵のところへ来て
騎射を教えてくれという。騎射といっても騎のほうは陵に劣らぬほど
巧い。ことに、
裸馬を駆る技術に至っては
遙かに陵を
凌いでいるので、李陵はただ
射だけを教えることにした。
左賢王は、熱心な弟子となった。陵の祖父
李広の射における
入神の技などを語るとき、
蕃族の青年は
眸をかがやかせて熱心に聞入るのである。よく二人して狩猟に出かけた。ほんの
僅かの
供廻りを連れただけで二人は縦横に
曠野を
疾駆しては
狐や
狼や
羚羊や

や
雉子などを射た。あるときなど夕暮れ近くなって矢も尽きかけた二人が
||二人の馬は供の者を
遙かに
駈抜いていたので
||一群の狼に囲まれたことがある。馬に
鞭うち全速力で狼群の中を駈け抜けて逃れたが、そのとき、李陵の馬の
尻に飛びかかった一匹を、後ろに駈けていた青年左賢王が
彎刀をもって
見事に
胴斬りにした。あとで調べると二人の馬は狼どもに
噛み裂かれて血だらけになっていた。そういう一日ののち、夜、
天幕の中で今日の獲物を
羹の中にぶちこんでフウフウ吹きながら
啜るとき、李陵は
火影に顔を
火照らせた若い
蕃王の息子に、ふと友情のようなものをさえ感じることがあった。
天漢三年の秋に
匈奴がまたもや
雁門を犯した。これに
酬いるとて、翌四年、漢は
弐師将軍
李広利に騎六万歩七万の大軍を
授けて
朔方を出でしめ、歩卒一万を率いた
強弩都尉路博徳にこれを
援けしめた。ひいて
因※[#「木+于」、U+6745、39-13]将軍
公孫敖は騎一万歩三万をもって雁門を、
游撃将軍
韓説は歩三万をもって
五原を、それぞれ進発する。近来にない大
北伐である。
単于はこの報に接するや、ただちに婦女、老幼、畜群、資財の類をことごとく
余吾水(ケルレン河)北方の地に移し、
自ら十万の精騎を率いて
李広利・
路博徳の軍を
水南の大草原に
邀え撃った。連戦十余日。漢軍はついに退くのやむなきに至った。
李陵に師事する若き
左賢王は、別に一隊を率いて東方に向かい
因※[#「木+于」、U+6745、39-18]将軍を迎えてさんざんにこれを破った。漢軍の左翼たる
韓説の軍もまた得るところなくして兵を引いた。北征は完全な失敗である。李陵は例によって漢との戦いには陣頭に現われず、水北に退いていたが、左賢王の戦績をひそかに
気遣っている
己を発見して
愕然とした。もちろん、全体としては漢軍の成功と
匈奴の敗戦とを望んでいたには違いないが、どうやら左賢王だけは何か負けさせたくないと感じていたらしい。李陵はこれに気がついて激しく己を責めた。
その左賢王に打破られた
公孫敖が都に帰り、士卒を多く失って功がなかったとの
廉で
牢に
繋がれたとき、妙な弁解をした。敵の
捕虜が、匈奴軍の強いのは、漢から
降った
李将軍が常々兵を練り軍略を授けてもって漢軍に備えさせているからだと言ったというのである。だからといって自軍が
敗けたことの弁解にはならないから、もちろん、
因※[#「木+于」、U+6745、40-8]将軍の罪は許されなかったが、これを聞いた武帝が、李陵に対し激怒したことは言うまでもない。一度許されて家に戻っていた陵の一族はふたたび
獄に収められ、今度は、陵の老母から妻・子・弟に至るまでことごとく殺された。軽薄なる世人の常とて、当時
隴西(李陵の家は隴西の出である)の
士大夫ら皆李家を出したことを恥としたと記されている。
この知らせが李陵の耳に入ったのは半年ほど後のこと、辺境から
拉致された一
漢卒の口からである。それを聞いたとき、李陵は立上がってその男の
胸倉をつかみ、荒々しくゆすぶりながら、事の真偽を今一度たしかめた。たしかにまちがいのないことを知ると、彼は歯をくい
縛り、思わず力を両手にこめた。男は身をもがいて、
苦悶の
呻きを
洩らした。
陵の手が無意識のうちにその男の
咽喉を
扼していたのである。陵が手を離すと、男はバッタリ地に倒れた。その姿に目もやらず、陵は
帳房の外へ飛出した。
めちゃくちゃに彼は野を歩いた。激しい憤りが頭の中で
渦を巻いた。老母や幼児のことを考えると心は
灼けるようであったが、涙は一滴も出ない。あまりに強い怒りは涙を
涸渇させてしまうのであろう。
今度の場合には限らぬ。今まで我が一家はそもそも漢から、どのような扱いを受けてきたか? 彼は祖父の
李広の
最期を思った。(陵の父、
当戸は、彼が生まれる数か月前に死んだ。陵はいわゆる、遺腹の児である。だから、少年時代までの彼を教育し鍛えあげたのは、有名なこの祖父であった。)名将李広は数次の北征に大功を
樹てながら、君側の
姦佞に妨げられて何一つ恩賞にあずからなかった。部下の諸将がつぎつぎに
爵位封侯を得て行くのに、
廉潔な将軍だけは封侯はおろか、終始変わらぬ
清貧に甘んじなければならなかった。最後に彼は大将軍
衛青と衝突した。さすがに衛青にはこの老将をいたわる気持はあったのだが、その
幕下の一
軍吏が
虎の
威を借りて李広を
辱しめた。憤激した老名将はすぐその場で
||陣営の中で
自ら首
刎ねたのである。祖父の死を聞いて声をあげてないた少年の日の自分を、陵はいまだにハッキリと
憶えている。
······ 陵の叔父(李広の次男)
李敢の最後はどうか。彼は父将軍の
惨めな死について衛青を
怨み、自ら大将軍の邸に
赴いてこれを
辱しめた。大将軍の
甥にあたる
嫖騎将軍
霍去病がそれを憤って、
甘泉宮の猟のときに李敢を射殺した。武帝はそれを知りながら、嫖騎将軍をかばわんがために、李敢は
鹿の角に触れて死んだと発表させたのだ。
······。
司馬遷の場合と違って、李陵のほうは簡単であった。
憤怒がすべてであった。(無理でも、もう少し早くかねての計画
||単于の首でも持って
胡地を脱するという
||を実行すればよかったという悔いを除いては、)ただそれをいかにして現わすかが問題であるにすぎない。彼は先刻の男の言葉「
胡地にあって李将軍が兵を教え漢に備えていると聞いて陛下が激怒され
云々」を思出した。ようやく思い当たったのである。もちろん彼自身にはそんな覚えはないが、同じ漢の降将に
李緒という者がある。元、
塞外都尉として
奚侯城を守っていた男だが、これが
匈奴に
降ってから常に
胡軍に軍略を授け兵を練っている。現に半年前の軍にも、単于に従って、(問題の
公孫敖の軍とではないが)漢軍と戦っている。これだと
李陵は思った。同じ
李将軍で、
李緒とまちがえられたに違いないのである。
その晩、彼は単身、李緒の
帳幕へと
赴いた。一言も言わぬ、一言も言わせぬ。ただの一刺しで李緒は
斃れた。
翌朝李陵は単于の前に出て事情を打明けた。心配は
要らぬと単于は言う。だが母の
大閼氏が少々うるさいから
||というのは、相当の老齢でありながら、単于の母は李緒と醜関係があったらしい。単于はそれを承知していたのである。
匈奴の風習によれば、父が死ぬと、長子たる者が、亡父の
妻妾のすべてをそのまま引きついで
己が妻妾とするのだが、さすがに生母だけはこの中にはいらない。生みの母に対する尊敬だけは極端に男尊女卑の彼らでも
有っているのである
||今しばらく北方へ隠れていてもらいたい、
ほとぼりがさめたころに迎えを
遣るから、とつけ加えた。その言葉に従って、李陵は一時従者どもをつれ、西北の
兜銜山(
額林達班嶺)の
麓に身を避けた。
まもなく問題の
大閼氏が病死し、
単于の
庭に呼戻されたとき、
李陵は人間が変わったように見えた。というのは、今まで漢に対する軍略にだけは絶対に
与らなかった彼が、
自ら進んでその相談に乗ろうと言出したからである。単于はこの変化を見て大いに喜んだ。彼は陵を
右校王に任じ、
己が娘の一人をめあわせた。娘を妻にという話は以前にもあったのだが、今まで断わりつづけてきた。それを今度は
躊躇なく妻としたのである。ちょうど
酒泉張掖の辺を
寇掠すべく南に出て行く一軍があり、陵は自ら請うてその軍に従った。しかし、西南へと取った進路がたまたま
浚稽山の
麓を
過ったとき、さすがに陵の心は曇った。かつてこの地で
己に従って死戦した部下どものことを考え、彼らの骨が埋められ彼らの血の
染み込んだその砂の上を歩きながら、今の己が身の上を思うと、彼はもはや南行して漢兵と闘う勇気を失った。病と称して彼は独り北方へ馬を返した。
翌、
太始元年、
且
侯単于が死んで、陵と親しかった
左賢王が後を
嗣いだ。
狐鹿姑単于というのがこれである。
匈奴の
右校王たる
李陵の心はいまだにハッキリしない。母妻子を
族滅された
怨みは
骨髄に徹しているものの、
自ら兵を率いて漢と戦うことができないのは、先ごろの経験で明らかである。ふたたび漢の地を踏むまいとは誓ったが、この匈奴の俗に化して終生安んじていられるかどうかは、新単于への友情をもってしても、まださすがに自信がない。考えることの
嫌いな彼は、イライラしてくると、いつも独り
駿馬を駆って
曠野に飛び出す。
秋天一碧の下、
々と
蹄の音を響かせて草原となく丘陵となく狂気のように馬を駆けさせる。何十里かぶっとばした後、馬も人もようやく疲れてくると、高原の中の小川を求めてその
滸に下り、馬に
飲かう。それから
己は草の上に
仰向けにねころんで快い疲労感にウットリと見上げる
碧落の
潔さ、高さ、広さ。ああ我もと天地間の
一粒子のみ、なんぞまた漢と
胡とあらんやとふとそんな気のすることもある。一しきり休むとまた馬に
跨がり、がむしゃらに
駈け出す。終日乗り疲れ
黄雲が
落暉に

ずるころになってようやく彼は
幕営に戻る。疲労だけが彼のただ一つの救いなのである。
司馬遷が
陵のために弁じて罪をえたことを伝える者があった。李陵は別にありがたいとも気の毒だとも思わなかった。司馬遷とは互いに顔は知っているし
挨拶をしたことはあっても、特に交を結んだというほどの間柄ではなかった。むしろ、
厭に議論ばかりしてうるさいやつだくらいにしか感じていなかったのである。それに現在の李陵は、他人の不幸を実感するには、あまりに自分一個の苦しみと
闘うのに懸命であった。よけいな世話とまでは感じなかったにしても、特に済まないと感じることがなかったのは事実である。
初め一概に
野卑滑稽としか
映らなかった
胡地の風俗が、しかし、その地の実際の風土・気候等を背景として考えてみるとけっして野卑でも不合理でもないことが、しだいに李陵にのみこめてきた。厚い皮革製の
胡服でなければ
朔北の冬は
凌げないし、肉食でなければ胡地の寒冷に
堪えるだけの精力を
貯えることができない。固定した家屋を築かないのも彼らの生活形態から来た必然で、頭から低級と
貶し去るのは当たらない。漢人のふうをあくまで
保とうとするなら、胡地の自然の中での生活は一日といえども続けられないのである。
かつて先代の
且
侯単于の言った言葉を
李陵は
憶えている。漢の人間が二言めには、
己が国を礼儀の国といい、
匈奴の行ないをもって
禽獣に近いと
看做すことを難じて、単于は言った。漢人のいう礼儀とは何ぞ? 醜いことを表面だけ美しく飾り立てる虚飾の
謂ではないか。利を好み人を
嫉むこと、漢人と
胡人といずれかはなはだしき? 色に
耽り財を
貪ること、またいずれかはなはだしき?
表べを
剥ぎ去れば
畢竟なんらの違いはないはず。ただ漢人はこれをごまかし飾ることを知り、我々はそれを知らぬだけだ、と。漢初以来の
骨肉相喰む内乱や功臣連の
排斥擠陥の跡を例に引いてこう言われたとき、李陵はほとんど返す言葉に窮した。実際、
武人たる彼は今までにも、
煩瑣な礼のための礼に対して疑問を感じたことが一再ならずあったからである。たしかに、
胡俗の
粗野な正直さのほうが、美名の影に隠れた漢人の陰険さより
遙かに好ましい場合がしばしばあると思った。
諸夏の俗を正しきもの、
胡俗を卑しきものと頭から決めてかかるのは、あまりにも漢人的な偏見ではないかと、しだいに李陵にはそんな気がしてくる。たとえば今まで人間には名のほかに
字がなければならぬものと、ゆえもなく信じ切っていたが、考えてみれば字が絶対に必要だという理由はどこにもないのであった。
彼の妻はすこぶる
大人しい女だった。いまだに主人の前に出るとおずおずして
ろくに口も
利けない。しかし、彼らの間にできた男の児は、少しも父親を恐れないで、ヨチヨチと李陵の
膝に
匍上がって来る。その児の顔に見入りながら、数年前
長安に残してきた
||そして結局母や祖母とともに殺されてしまった
||子供の
俤をふと思いうかべて李陵は我しらず
憮然とするのであった。
陵が
匈奴に
降るよりも早く、ちょうどその一年前から、漢の
中郎将蘇武が
胡地に引留められていた。
元来蘇武は平和の使節として
捕虜交換のために
遣わされたのである。ところが、その副使某がたまたま匈奴の
内紛に関係したために、使節団全員が
囚えられることになってしまった。
単于は彼らを殺そうとはしないで、死をもって
脅かしてこれを
降らしめた。ただ蘇武一人は降服を
肯んじないばかりか、
辱しめを避けようと
自ら剣を取って
己が胸を貫いた。
昏倒した蘇武に対する
胡
の手当てというのがすこぶる変わっていた。地を掘って
坎をつくり
火を入れて、その上に傷者を寝かせその背中を
蹈んで血を出させたと
漢書には
誌されている。この荒療治のおかげで、不幸にも蘇武は半日
昏絶したのちにまた息を吹返した。
且
侯単于はすっかり彼に
惚れ込んだ。数旬ののちようやく蘇武の身体が
恢復すると、例の近臣
衛律をやってまた熱心に降をすすめさせた。衛律は蘇武が鉄火の
罵詈に
遭い、すっかり恥をかいて手を引いた。その後蘇武が
窖の中に
幽閉されたとき
旃毛を雪に和して
喰いもって飢えを
凌いだ話や、ついに
北海(バイカル湖)のほとり人なき所に
徙されて
牡羊が乳を出さば帰るを許さんと言われた話は、
持節十九年の彼の名とともに、あまりにも有名だから、ここには述べない。とにかく、
李陵が
悶々の余生を
胡地に埋めようとようやく決心せざるを得なくなったころ、蘇武は、すでに久しく北海のほとりで独り羊を牧していたのである。
李陵にとって
蘇武は二十年来の友であった。かつて時を同じゅうして
侍中を勤めていたこともある。片意地でさばけないところはあるにせよ、確かにまれに見る硬骨の士であることは疑いないと陵は思っていた。天漢元年に蘇武が北へ立ってからまもなく、武の老母が病死したときも、陵は
陽陵までその葬を送った。蘇武の妻が
良人のふたたび帰る見込みなしと知って、去って他家に
嫁した
噂を聞いたのは、陵の北征出発直前のことであった。そのとき、陵は友のためにその妻の浮薄をいたく憤った。
しかし、はからずも自分が
匈奴に
降るようになってからのちは、もはや蘇武に会いたいとは思わなかった。武が
遙か北方に
遷されていて顔を合わせずに済むことをむしろ助かったと感じていた。ことに、
己の家族が
戮せられてふたたび漢に戻る気持を失ってからは、いっそうこの「漢節を持した牧羊者」との面接を避けたかった。
狐鹿姑単于が父の
後を
嗣いでから数年後、一時蘇武が生死不明との
噂が伝わった。父単于がついに降服させることのできなかったこの不屈の漢使の存在を思出した狐鹿姑単于は、蘇武の安否を確かめるとともに、もし健在ならば今一度降服を勧告するよう、李陵に頼んだ。陵が武の友人であることを聞いていたのである。やむを得ず陵は北へ向かった。
姑且水を北に
溯り
居水との合流点からさらに西北に森林地帯を突切る。まだ所々に雪の残っている川岸を進むこと数日、ようやく
北海の
碧い水が森と野との向こうに見え出したころ、この地方の住民なる
丁霊族の案内人は李陵の一行を一軒の哀れな丸太
小舎へと導いた。小舎の住人が珍しい人声に驚かされて、弓矢を手に表へ出て来た、頭から毛皮を
被った
鬚ぼうぼうの
熊のような山男の顔の中に、李陵がかつての
移中厩監蘇子卿の
俤を見出してからも、先方がこの
胡服の大官を
前の
騎都尉李少卿と認めるまでにはなおしばらくの時間が必要であった。
蘇武のほうでは陵が
匈奴に
事えていることも全然聞いていなかったのである。
感動が、陵の内に
在って今まで武との会見を避けさせていた
ものを一瞬圧倒し去った。二人とも初めほとんどものが言えなかった。
陵の
供廻りどもの
穹廬がいくつか、あたりに組立てられ、無人の境が急に
賑やかになった。用意してきた酒食がさっそく
小舎に運び入れられ、夜は珍しい歓笑の声が森の鳥獣を驚かせた。滞在は数日に
亙った。
己が胡服を
纏うに至った事情を話すことは、さすがに
辛かった。しかし、李陵は少しも弁解の調子を交えずに事実だけを語った。蘇武がさりげなく語るその数年間の生活はまったく
惨憺たるものであったらしい。何年か以前に匈奴の
於※王[#「革+干」、U+976C、49-11]が猟をするとてたまたまここを過ぎ蘇武に同情して、三年間つづけて衣服食糧等を給してくれたが、その於※
[#「革+干」、U+976C、49-12]王の死後は、
凍てついた大地から
野鼠を掘出して、飢えを
凌がなければならない始末だと言う。彼の生死不明の
噂は彼の養っていた畜群が
剽盗どものために一匹残らずさらわれてしまったことの
訛伝らしい。陵は蘇武の母の死んだことだけは告げたが、妻が子を
棄てて他家へ行ったことはさすがに言えなかった。
この男は何を目あてに生きているのかと李陵は怪しんだ。いまだに漢に帰れる日を待ち望んでいるのだろうか。蘇武の口うらから察すれば、いまさらそんな期待は少しももっていないようである。それではなんのためにこうした
惨憺たる日々をたえ忍んでいるのか?
単于に降服を申出れば重く用いられることは
請合いだが、それをする
蘇武でないことは初めから分り切っている。陵の怪しむのは、なぜ早く
自ら生命を絶たないのかという意味であった。
李陵自身が希望のない生活を自らの手で断ち切りえないのは、いつのまにかこの地に根を
下して
了った数々の恩愛や義理のためであり、またいまさら死んでも格別漢のために義を立てることにもならないからである。蘇武の場合は違う。彼にはこの地での
係累もない。漢朝に対する忠信という点から考えるなら、いつまでも
節旄を持して
曠野に飢えるのと、ただちに節旄を焼いてのち自ら首
刎ねるのとの間に、別に差異はなさそうに思われる。はじめ捕えられたとき、いきなり自分の胸を刺した蘇武に、今となって急に死を恐れる心が
萌したとは考えられない。李陵は、若いころの蘇武の片意地を
||滑稽なくらい強情な
痩我慢を思出した。
単于は栄華を
餌に極度の
困窮の中から蘇武を
釣ろうと試みる。餌につられるのはもとより、苦難に
堪ええずして自ら殺すこともまた、単于に(あるいはそれによって象徴される運命に)負けることになる。蘇武はそう考えているのではなかろうか。運命と意地の張合いをしているような蘇武の姿が、しかし、李陵には滑稽や
笑止には見えなかった。想像を絶した困苦・欠乏・酷寒・孤独を、(しかもこれから死に至るまでの長い間を)平然と笑殺していかせるものが、意地だとすれば、この意地こそは
誠に
凄じくも壮大なものと言わねばならぬ。昔の多少は
大人げなく見えた蘇武の
痩我慢が、かかる大我慢にまで成長しているのを見て李陵は驚嘆した。しかもこの男は自分の行ないが漢にまで知られることを予期していない。自分がふたたび漢に迎えられることはもとより、自分がかかる無人の地で困苦と戦いつつあることを漢はおろか
匈奴の単于にさえ伝えてくれる人間の出て来ることをも期待していなかった。誰にもみとられずに独り死んでいくに違いないその最後の日に、
自ら顧みて最後まで運命を笑殺しえたことに満足して死んでいこうというのだ。誰一人
己が
事蹟を知ってくれなくともさしつかえないというのである。
李陵は、かつて先代
単于の首を
狙いながら、その目的を果たすとも、自分がそれをもって
匈土の地を脱走しえなければ、せっかくの行為が
空しく、漢にまで聞こえないであろうことを恐れて、ついに決行の機を見出しえなかった。人に知られざることを憂えぬ
蘇武を前にして、彼はひそかに冷汗の出る思いであった。
最初の感動が過ぎ、二日三日とたつうちに、李陵の中にやはり一種のこだわりができてくるのをどうすることもできなかった。何を語るにつけても、
己の過去と蘇武のそれとの対比がいちいちひっかかってくる。蘇武は
義人、自分は
売国奴と、それほどハッキリ考えはしないけれども、森と野と水との沈黙によって多年の間鍛え上げられた蘇武の
厳しさの前には己の行為に対する唯一の弁明であった今までのわが苦悩のごときは
一溜りもなく圧倒されるのを感じないわけにいかない。それに、気のせいか、
日にちが立つにつれ、蘇武の己に対する態度の中に、何か富者が貧者に対するときのような
||己の優越を知ったうえで相手に寛大であろうとする者の態度を感じはじめた。どことハッキリはいえないが、どうかした
拍子にひょいとそういうものの感じられることがある。
繿縷をまとうた蘇武の目の中に、ときとして浮かぶかすかな
憐愍の色を、
豪奢な
貂裘をまとうた
右校王李陵はなによりも恐れた。
十日ばかり滞在したのち、李陵は旧友に別れて、
悄然と南へ去った。食糧衣服の類は充分に森の丸木
小舎に残してきた。
李陵は
単于からの
依嘱たる降服勧告についてはとうとう口を切らなかった。
蘇武の答えは問うまでもなく明らかであるものを、何もいまさらそんな勧告によって蘇武をも自分をも
辱めるには当たらないと思ったからである。
南に帰ってからも、蘇武の存在は一日も彼の頭から去らなかった。離れて考えるとき、蘇武の姿はかえっていっそうきびしく彼の前に
聳えているように思われる。
李陵自身、
匈奴への降服という
己の行為をよしとしているわけではないが、自分の故国につくした跡と、それに対して故国の己に
酬いたところとを考えるなら、いかに無情な批判者といえども、なお、その「やむを得なかった」ことを認めるだろうとは信じていた。ところが、ここに一人の男があって、いかに「やむを得ない」と思われる事情を前にしても、断じて、自らにそれは「やむを得ぬのだ」という考えかたを許そうとしないのである。
飢餓も寒苦も孤独の苦しみも、祖国の冷淡も、己の苦節がついに
何人にも知られないだろうというほとんど確定的な事実も、この男にとって、平生の節義を改めなければならぬほどのやむを得ぬ事情ではないのだ。
蘇武の存在は彼にとって、崇高な
訓誡でもあり、いらだたしい悪夢でもあった。ときどき彼は人を
遣わして蘇武の安否を問わせ、食品、牛羊、
絨氈を贈った。蘇武をみたい気持と避けたい気持とが彼の中で常に闘っていた。
数年後、今一度李陵は
北海のほとりの丸木
小舎を
訪ねた。そのとき途中で
雲中の北方を
戍る
衛兵らに会い、彼らの口から、近ごろ漢の辺境では
太守以下
吏民が皆白服をつけていることを聞いた。人民がことごとく服を白くしているとあれば天子の
喪に相違ない。李陵は
武帝の
崩じたのを知った。北海の
滸に
到ってこのことを告げたとき、
蘇武は南に向かって
号哭した。
慟哭数日、ついに血を
嘔くに至った。その有様を見ながら、李陵はしだいに暗く沈んだ気持になっていった。彼はもちろん蘇武の慟哭の
真摯さを疑うものではない。その純粋な
烈しい悲嘆には心を動かされずにはいられない。だが、自分には今一滴の涙も
泛んでこないのである。蘇武は、李陵のように一族を
戮せられることこそなかったが、それでも彼の兄は天子の行列にさいしてちょっとした交通事故を起こしたために、また、彼の弟はある犯罪者を捕ええなかったことのために、ともに責を負うて自殺させられている。どう考えても漢の
朝から厚遇されていたとは称しがたいのである。それを知ってのうえで、今目の前に蘇武の純粋な
痛哭を見ているうちに、以前にはただ蘇武の強烈な意地とのみ見えたものの底に、実は、
譬えようもなく
清洌な純粋な漢の国土への愛情(それは義とか節とかいう外から押しつけられたものではなく、
抑えようとして抑えられぬ、こんこんと常に
湧出る最も親身な自然な愛情)が
湛えられていることを、李陵ははじめて発見した。
李陵は
己と友とを隔てる根本的なものにぶつかっていやでも
己自身に対する暗い懐疑に追いやられざるをえないのである。
蘇武の所から南へ帰って来ると、ちょうど、漢からの使者が到着したところであった。
武帝の死と
昭帝の即位とを報じてかたがた当分の友好関係を
||常に一年とは続いたことのない友好関係だったが
||結ぶための平和の使節である。その使いとしてやって来たのが、はからずも
李陵の
故人・
隴西の
任立政ら三人であった。
その年の二月武帝が崩じて、
僅か八歳の太子
弗陵が位を
嗣ぐや、
遺詔によって
侍中奉車都尉霍光が
大司馬大将軍として
政を
輔けることになった。霍光はもと、李陵と親しかったし、左将軍となった
上官桀もまた陵の故人であった。この二人の間に陵を呼返そうとの相談ができ上がったのである。今度の使いにわざわざ陵の昔の友人が選ばれたのはそのためであった。
単于の前で使者の表向きの用が済むと、盛んな酒宴が張られる。いつもは
衛律がそうした場合の接待役を引受けるのだが、今度は李陵の友人が来た場合とて彼も引張り出されて宴につらなった。任立政は陵を見たが、
匈奴の大官連の並んでいる前で、漢に帰れとは言えない。席を隔てて李陵を見ては目配せをし、しばしば
己の
刀環を
撫でて暗にその意を伝えようとした。陵はそれを見た。先方の伝えんとするところもほぼ察した。しかし、いかなるしぐさをもって
応えるべきかを知らない。
公式の宴が終わった後で、李陵・衛律らばかりが残って牛酒と
博戯とをもって漢使をもてなした。そのとき任立政が陵に向かって言う。漢ではいまや
大赦令が降り万民は太平の
仁政を楽しんでいる。新帝はいまだ幼少のこととて君が故旧たる
霍子孟・
上官少叔が主上を
輔けて天下の事を用いることとなったと。立政は、
衛律をもって完全に
胡人になり切ったものと
見做して
||事実それに違いなかったが
||その前では明らさまに陵に説くのを
憚った。ただ
霍光と
上官桀との名を
挙げて陵の心を
惹こうとしたのである。陵は
黙して答えない。しばらく
立政を熟視してから、
己が髪を
撫でた。その髪も
椎結とてすでに中国のふうではない。ややあって衛律が服を
更えるために座を退いた。初めて隔てのない調子で立政が陵の
字を呼んだ。
少卿よ、多年の苦しみはいかばかりだったか。
霍子孟と
上官少叔からよろしくとのことであったと。その二人の安否を問返す陵のよそよそしい言葉におっかぶせるようにして立政がふたたび言った。少卿よ、帰ってくれ。
富貴などは言うに足りぬではないか。どうか何もいわずに帰ってくれ。
蘇武の所から戻ったばかりのこととて李陵も友の切なる言葉に心が動かぬではない。しかし、考えてみるまでもなく、それはもはやどうにもならぬことであった。「帰るのは
易い。だが、また
辱しめを見るだけのことではないか?
如何?」言葉半ばにして衛律が座に
還ってきた。二人は口を
噤んだ。
会が散じて別れ去るとき、任立政はさりげなく陵のそばに寄ると、低声で、ついに帰るに意なきやを今一度尋ねた。陵は頭を横にふった。
丈夫ふたたび辱めらるるあたわずと答えた。その言葉がひどく元気のなかったのは、衛律に聞こえることを
惧れたためではない。
後五年、昭帝の
始元六年の夏、このまま人に知られず北方に
窮死すると思われた
蘇武が偶然にも漢に帰れることになった。漢の天子が
上林苑中で得た
雁の足に蘇武の
帛書がついていた
云々というあの有名な話は、もちろん、
蘇武の死を主張する
単于を説破するためのでたらめである。十九年前蘇武に従って
胡地に来た
常恵という者が漢使に
遭って蘇武の生存を知らせ、この
嘘をもって
武を
救出すように教えたのであった。さっそく
北海の上に使いが飛び、蘇武は単于の
庭につれ出された。
李陵の心はさすがに動揺した。ふたたび漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変わりはなく、したがって陵の心の
笞たるに変わりはないに違いないが、しかし、天はやっぱり見ていたのだという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は
粛然として
懼れた。今でも、
己の過去をけっして非なりとは思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせることを堂々とやってのけ、しかも、その跡が今や天下に
顕彰されることになったという事実は、なんとしても李陵には
こたえた。胸をかきむしられるような
女々しい己の気持が
羨望ではないかと、李陵は極度に
惧れた。
別れに臨んで李陵は友のために宴を張った。いいたいことは山ほどあった。しかし結局それは、
胡に
降ったときの
己の志が
那辺にあったかということ。その志を行なう前に故国の一族が
戮せられて、もはや帰るに由なくなった事情とに尽きる。それを言えば
愚痴になってしまう。彼は一言もそれについてはいわなかった。ただ、宴
酣にして堪えかねて立上がり、舞いかつ歌うた。
径万里兮度沙幕為君将兮奮匈奴路窮絶兮矢刃摧士衆滅兮名已
老母已死雖欲報恩将安帰 歌っているうちに、声が
顫え涙が
頬を伝わった。
女々しいぞと
自ら
叱りながら、どうしようもなかった。
蘇武は十九年ぶりで祖国に帰って行った。
司馬遷はその後も
孜々として書き続けた。
この世に生きることをやめた彼は書中の人物としてのみ
活きていた。現実の生活ではふたたび開かれることのなくなった彼の口が、
魯仲連の
舌端を借りてはじめて
烈々と火を噴くのである。あるいは
伍子胥となって
己が眼を
抉らしめ、あるいは
藺相如となって
秦王を
叱し、あるいは
太子丹となって泣いて
荊軻を送った。
楚の
屈原の
憂憤を叙して、そのまさに
汨羅に身を投ぜんとして作るところの
懐沙之賦を長々と引用したとき、司馬遷にはその賦がどうしても
己自身の作品のごとき気がしてしかたがなかった。
稿を起こしてから十四年、
腐刑の
禍に
遭ってから八年。都では
巫蠱の獄が起こり
戻太子の悲劇が行なわれていたころ、
父子相伝のこの著述がだいたい最初の構想どおりの
通史がひととおりでき上がった。これに増補
改刪推敲を加えているうちにまた数年がたった。
史記百三十巻、五十二万六千五百字が完成したのは、すでに
武帝の
崩御に近いころであった。
列伝第七十
太史公自序の最後の筆を
擱いたとき、司馬遷は
几に
凭ったまま
惘然とした。深い
溜息が腹の底から出た。目は庭前の
槐樹の茂みに向かってしばらくはいたが、実は何ものをも見ていなかった。うつろな耳で、それでも彼は庭のどこからか聞こえてくる一匹の
蝉の声に耳をすましているようにみえた。
歓びがあるはずなのに気の抜けた
漠然とした寂しさ、不安のほうが先に来た。
完成した著作を官に納め、父の墓前にその報告をするまではそれでもまだ気が張っていたが、それらが終わると急に
酷い虚脱の状態が来た。
憑依の去った
巫者のように、身も心もぐったりとくずおれ、まだ六十を出たばかりの彼が急に十年も年をとったように
耄けた。武帝の
崩御も昭帝の即位もかつてのさきの
太史令司馬遷の
脱殻にとってはもはやなんの意味ももたないように見えた。
前に述べた
任立政らが
胡地に
李陵を
訪ねて、ふたたび都に戻って来たころは、司馬遷はすでにこの世に
亡かった。
蘇武と別れた後の李陵については、何一つ正確な記録は残されていない。
元平元年に
胡地で死んだということのほかは。
すでに早く、彼と親しかった
狐鹿姑単于は死に、その子
壺衍
単于の代となっていたが、その即位にからんで
左賢王、
右谷蠡王の内紛があり、
閼氏や
衛律らと対抗して李陵も心ならずも、その紛争にまきこまれたろうことは想像に
難くない。
漢書の
匈奴伝には、その後、李陵の胡地で
儲けた子が
烏籍都尉を立てて単于とし、
呼韓邪単于に対抗してついに失敗した旨が記されている。
宣帝の
五鳳二年のことだから、李陵が死んでからちょうど十八年めにあたる。李陵の子とあるだけで、名前は記されていない。