三幕六場
人物
成吉思汗 二十七歳
合撒児 成吉思汗の弟 二十四歳
木華里 四天王の一人、
近衛隊長 三十歳
哲別 長老、四天王の一人 六十歳
忽必来 参謀長、四天王の一人
速不台 箭筒士長、四天王の一人
者勒瑪 主馬頭巴剌帖木 成吉思汗の小姓 十四歳
汪克児 傴僂の道化役、
成吉思汗の
愛玩 三十歳位
箭筒士、侍衛、番士、哨兵、その他軍卒多勢、軍楽隊など。
札木合 札荅蘭族藩公 三十歳
合爾合姫
札木合の室 二十歳
台察児 札木合の弟 二十八歳
札荅蘭族の参謀、
合爾合姫の侍女、伝令、支那(金の国)の交易商、その従者、
花剌子模国の
回々教伝道師、
札荅蘭城下の避難民男女、その他城兵多勢。
時代
蒙古のいわゆる
鼠の年。わが
土御門天皇の元久元年。
第一幕 第一場
斡児桓河に沿い、
抗愛山脈に分け入らんとする麓。
納忽の断崖と称する要害の地に築かれたる
札荅蘭族の
山寨。石を積みて、絶壁の上に張り出したる物見台。下手、一段高き石畳の縁には、銃眼のあいた低い
堡塁。堡塁の傍らに、旗竿を立て、黄色の地に、白の半月と赤い星を抱き合わせに染め抜いた、
札荅蘭族の旗が掲げてある。上手に、城中へ通ずる鉄扉あり。
眼下はるかに
塔米児、
斡児桓両河の三角洲。川向うの茫洋たる砂漠には、
成吉思汗軍の
天幕、椀を伏せたように一面に
櫛比し、
白旄、軍旗等
翩翻として林立するのが小さく
俯瞰される。彼方は
蜒々雲に溶け入る抗愛山脈。寄せ手の軍馬の蹄が砂漠の砂を捲き上げ、紅塵万丈として天日昏し。
真っ赤な空の下、揉み合う軍兵の呶号、軍馬の悲鳴、
銅鑼の音、
鏑矢の響き、城寨より撥ね出す
石釣瓶など、騒然たる合戦の物音にて幕あく。
しばらく舞台無人。城の他の部分で攻防戦の
酣なる模様。下手は断崖につづける
望楼の端、一個処、わずかに石を伝わって昇降する口がある。上手の扉から金の国(支那)の商人が従者を伴れて、這うように出て来る。両人とも連日の空腹によろめき、今日の猛襲に恐怖昏迷している。
商人 おう、おう。ここは大丈夫らしいぞ。ここまではどうやら矢も飛んで来まい。いやどうも、こんな目に遭うくらいなら、死んだほうがましだ。
従者 まったくでございます。あの時、和林から別の道をとって、まっすぐお故郷へお帰りになればよかったものを。
商人 いや、お前にそれを言われると、面目次第もない。はるばるわが金の国から、織物、陶器などを持って来て、この蒙古の黒貂、羊皮、砂金などと交易するのは、まるで赤子の手を捻るような掴み取りだ。馬鹿儲けに調子づいて、ついこの奥地まで踏み込んだところが||。
従者 (主人を助け歩かせて、こわごわ下手の堡塁のほうへ近づき)思いがけなく和林の成吉思汗様が、あの、(と、はるかなる抗愛山脈を指さし)山の向うの乃蛮国をお攻めになることになって、その進路に当るこの札荅蘭域を併せ従えようと、いや、えらい戦争になりましたもので。
下の砂漠からこの望楼へも、一二本矢が飛んで来る。二人はあわてふためいて、石畳に身を伏せる。同じく上手の扉から、
花剌子模国より蒙古教化に派遣されている
回々教僧侶、よろぼいいず。
僧侶 おお、ここも矢が来るのか。こうなってはいよいよこの城も、今日が落城に相違ない。おう、金の商人殿、お互いとんだ災難に捲き込まれたものですなあ。
商人 (生きた心もなく)今もそれを話し合っていたところです。成吉思汗さまが、乃蛮征伐の途中、この札荅蘭城を攻めて、札荅蘭の札木合様が此城へ籠城してから、もうこれで、一と月あまりだ。私どもも、ここへ逃げ込んだばかりに、この傍杖を食ったのだ。よほど前から、城内には食い物ひとつありません。鹿の肉一きれ口にしなくなってから、はや何日かわからない。
従者 御主人様、食いものの話は止して下さい。私はこのごろ、夜も昼もうつらうつらとして、炒米の夢を見るありさまです。
僧侶 城中の生き物は、すべて食ってしまった。犬も食った、猫も食った。鼠も食った。ああ、もう鼠一匹おらぬ。
商人 なにしろ、食糧の用意もないこの狭い城へ、部落中の札荅蘭人が一度にどっと逃げ込んで、ひと月あまりも立て籠っているのですからなあ||ああ、早く故郷の中都へ帰って、腹一ぱい粟の粥が食いたい。
従者 大きな声では言えませんが、兵隊どもは戦死した仲間の肉を食っておるそうでござりますな。
商人 あっ、また軍が激しくなった。
阿鼻叫喚の声、一時に起る。商人、従者は耳を掩うて突っ伏し、僧侶は天を仰ぎ、「アラ」を唱え、礼拝して無事を祈る。上手の鉄扉を蹴開き、城主
札木合の弟
台察児、半弓を引っ提げて、出て来る。武士三四人つき従う。すべて城方の参謀、兵士らは、空腹と疲労に生色なく、軍衣は破れ、あるいは
頭部に、あるいは腕に繃帯し、血が滲んでいるなど、悪戦苦闘の跡著し。
台察児 何だ、成吉思汗の小童め! 乃蛮を攻める血祭りに、わが札荅蘭城を屠ろうとしても、札荅蘭に藩主札木合、その弟、この台察児のあるかぎりは、めったにこの城を渡しはしないぞ。(頭上の種族旗を振り仰いで)この名誉ある札荅蘭族の旗に対しても、誰が、誰が成吉思汗などに降参するものか。おい、どうしたのだ、ここは備えが手薄ではないか。
下手、要塞の端れへ走り行く時、僧侶ら三人を認めて、
台察児 こらっ、邪魔だっ! 一人でも口を減らしたい籠城に、何の役にも立たぬ他国の坊主や町人が逃げ込んで||うむ、そうだ、貴様らを殺して肉を食えば、もう二三日城を持ちこたえることができよう。愚民を騙かして坐食しておる坊主と商人、どっちも肉の柔いことだろう。臆病者め、そこ退けっ!
城寨に駈け寄り、堡塁の陰に身を潜めて、銃眼よりしきりに矢を射落す。武士三四人もそれぞれ銃眼から射る。合戦の物音寸時も止まず。僧侶ら三人城中へ逃げ込もうとすると、同じく城内から城下の避難民多勢、農夫、牧民、老若男女、雪崩を打って逃げ出て来る。赤子を抱いた女、孫の手を引く老人など。同時に、包囲軍からの矢、おびただしくこの望楼に飛来して、避難民ら口々に絶叫し、一隅に
集まって顫え
戦く。
台察児 畜生、集中射撃だな。(振り返って)またここまで騒ぎ立てて来たか。手兵は足らず、食糧は乏しい城に、城下の者まで逃げこんで、この上の足手纏いはない。
避難民中の女 (嬰児を庇いながら狂的に)御城主の弟様、軍はどうなるでございましょう。私どもはもう、好皮子一つ口にせず、敵に殺されるより先に、飢え死にしそうでございます。
同じく老人 (半狂乱に手を合わせて)台察児さま、どうか部落民を助けると思召して、城をお開き下さりませ。悪魔のような成吉思汗の軍勢とて、よもや老人子供に害は加えますまい。
台察児 ええい、言うな! 穀潰しめ! 言うに事を欠いて、この台察児に向って降伏をすすめるとは何ごとだ。どうせ食い物の足らぬ折柄、貴様らを射殺して||。
と避難民の群れへ弓をさし向けて、威嚇のために
空弦を放つ。城中から軍卒一人走り出て叫ぶ。
軍卒 札木合の殿様が、ただいまこれへおいでになります。
四五名の参謀を従え、長刀を抜き放った城主
札木合が、急ぎはいって来る。
札木合 (部落民を射ようとしている弟を見て)台察児! 長の籠城、しかも、今日明日という負け軍に、貴様、気でも狂ったのか。城下の民へ弓を向けるとは何事だ。
台察児 だが、兄上。城を開いて、自分たちが助かりたいなどと、けしからんことを言う者がありますので。
札木合 それも無理ではない。この籠城は、単なる合戦ではないことが、城下の者どもに解らんのは当り前ではないか。蒙古戦国の世だ。軍馬のいななき、弓矢の唸りはいつものことだが、この戦争には、裏に、根深い気持ちが罩もっているのだ。
雨と降る矢の中を、
台察児は駈け寄って、兄
札木合の手を握る。
台察児 兄上! それを言って下さるな。それを言われると、私は、成吉思汗に対する憎悪が、火に油を注いだように燃え上がります。嫂上のことをまだ根に持って、この執念深い城攻めだ。私は、台察児は、あの、雲と群がる敵中へ斬り入って、き、斬り死にしたくなります。
札木合 (独語のように)攻める成吉思汗にも、深い意味があり、守るわしにも、深い意味があるのだ。おれは昔、あの成吉思汗と、一人の女を争った。それは、瑣児肝失喇の娘で合爾合姫||その恋にはおれが勝って、合爾合姫は今、わしの妃となっているが、成吉思汗の身になってみれば、失恋の恨みが、そのままこのおれへの敵意となって、長い間、あの、狼のような胸の奥に燻っていたに相違ない。今度、抗愛山脈中の乃蛮国を攻略するに当たり、途中、この札荅蘭城を併せ従えようとしたのも、その恋のうらみがあればこそだ。だが、おれも蒙古の武士、古い恋を根に持って、大軍を率いて攻め来った成吉思汗に、おめおめこの城を渡されようか。おい、皆見ろ! この、飛んでくる矢の一本一本に、恋に敗れた成吉思汗の怨みがかかっているのだ。彼奴の口惜しさが罩もっているのだ。ははははは、笑ってやれ。おい、皆、笑ってやれ! ははははは。(ふとおのれの興奮に気づき、強いて冷静に)この札荅蘭の旗、星月の旗は、祖先以来、抗愛山脈と高さを競って、城頭高く砂漠の風に吹かれて来たのだ。この星月の旗が下ろせるか。意地だよ台察児、意地ずくだ。合爾合姫を守って、城を枕に討死にするまで||恋に強い者は、軍に弱いというが、この札荅蘭の札木合は、恋にも強く、軍にも強いことを見せてやるのだ。
台察児 そうです、兄上! 嫂上合爾合姫のために、この星月の旗の下で、最後の一兵となるまで城を守りましょう。(と涙を拭う)
札木合 (突然哄笑して)ははははは、目下旭の昇る勢いの成吉思汗だ。人物才幹、この蒙古はおろか、東は遠く金の国、西は花剌子模の果てまで、並ぶ者ない名将と聞いているが、古い恋の意趣遺恨を根に、この孤立無援の山寨を包囲して、あくまで陥さねば気が済まぬとは、噂ほどにもない成吉思汗だ。いや、箔の剥げた成吉思汗だ。小さな男だ、けちな男だ! おれはあいつの面へ、この罵りを浴びせながら、笑って死にたいのだよ、はっはっは。
台察児 兄上!
刻々殖えた避難民の群集は、片隅に飢のために倒れ、呻きつつ聞き入る。一矢飛来するごとに、悲鳴を揚げる。
札木合 今日は一気に揉み落そうとかかっているらしいな。城兵はひっそりしている。もう戦う気力も失せたのか。
札木合 ううむ、さすがは名にし負う成吉思汗の大軍。お! もう斡児桓河を渡ったな。
参謀一 あれあれ、先陣はすでに、塔米児の川岸まで進んでおります。
札木合 (小手をかざして)あの、成吉思汗軍の先頭に立って進んで来る、あの四人の者は誰だ。
参謀二 あれこそは、成吉思汗の配下にその人ありと聞えた、砂漠の四匹の猛犬、哲別、木華里、忽必来、速不台の四天王にござります。黒豚の胴を輪切りにして、その生血を啜り合い、生死を誓った四人組の将軍です。
札木合 (どきっとして)して、あの第二陣に駒を進めて来るのは?
参謀三 あれは、亦魯該、蒙力克の二将軍の率いる、進むを知って、退くを知らぬ荒鷲と称する騎兵軍団でござります。
札木合 (募り来る不安を隠し)なに、荒鷲だと?||それから、あの、それそれ、第三陣に、灰色の狼のごとく、砂煙りを上げて馬を駆って来るのは?
参謀四 はっ。あれぞ総大将成吉思汗の弟、合撒児でござります。武芸並ぶ者なく、ことに、強弓衆に優れ、矢面に立つもの必ず額を射抜かれると申すこと。人々彼を怖れて、蟒と綽名いたす強の者です。
札木合 (遂に恐怖を押さえきれず)大海の捨て小舟のようなこの山寨だ。逃げようにも逃げられぬ。
台察児 (足摺りして)ええい! 皆がみな敵を賞めくさりおって! 揃いも揃って臆病神に取り憑かれたか。兄上! もはやこれまでです。城を出て、塔米児の河畔に決戦いたしましょう。どうぞこの台察児に、三百でも五百でも、ありったけの城兵をお貸し下さい。
札木合 (すっかり怖毛立って)いや、貪る鷹のような成吉思汗軍のいきおいだ。成吉思汗は、総身銅のように鍛えられ、土踏まずや腋の下にさえ、針も通らぬというではないか。一睨みで、虎をさえ居竦ませると言うではないか。(と恐怖に眼を覆い、たじろく)
伝令 申し上げます。成吉思汗の包囲軍は、急遽行動を起しまして、一挙に城を陥れんとするもののごとく、挺身隊はすでに三本松の辻を過ぎ、銀砂の河原に現れました。
札木合 (蒼白になって)なに、もう銀砂の河原に||誰か城を駈け出て一騎打ちを挑み、巧名を立てる者はないか。
このころから、空に紺いろが流れ、暮色が漂ってくる。
伝令二 (あわただしく上って来て堡塁に顔を出し、下の戦場を指さして)我軍の斥候は、すっかり城門へ追い込まれてしまいました。あれあれ! 一の堀、二の堀もすでに敵の手に||。
札木合 (こわごわ覗いて)吊り橋を早く、三の吊橋を上げろ。
参謀一 もはやその暇もありませぬ。
台察児 誰か行って、綱を切って橋を落してしまえ。
一本の矢飛び来って、
札木合の鎧の袖を縫う。その矢には、白い馬の尾が結びつけてある。一同騒然と駈け寄る。
札木合 (よろめきつつ矢を抜き取って)いや、傷つきはせぬ、おお! この矢には、白い馬の尾が結んであるぞ。これは何の意味だ。
台察児 成吉思汗の旗印しは、あれ、あのとおり、白馬の尾を竿の先に結びつけたものを、九本立てております。九は、成吉思汗の陣中において、幸運の数とか。(考えて)ううむ、兄上! その矢は、降伏の勧告に相違ない。
札木合 なに、降伏の勧告? 誰が!||ええい||。
と矢を二つに折り、足許に投げつけて粉々に踏み砕く。片側の避難民一同、「負け軍に頑張るのは無意味だ。」「早く城を開け渡して、城下の私どもをお助け下さりませ。」などと狂乱して口々に喚き立てる。
台察児 (避難民を睥睨し)騒ぐな、蛆虫ども! 兄上! 夜まで持ちこたえれば、なんとか計略も浮かびましょう。おい、誰か三の吊橋を落して来る者はないか。
これより先、伝令一は裸体になり、急ぎ軍服を引き裂き、その布切れで、肩、肘、手首、股のつけ根、膝、足首など、両の手足の関節を伝令二に緊縛してもらって、抜刀を口にくわえ、素早く砦を下りかける。
伝令一 私が行って来ます。
札木合 うむ、勇ましいぞ。だがそち、身体のところどころを縛って行くのは、どうしたわけだ。
伝令一 はっ、血止めであります。こうして行けば、腕や足に矢が当り、または敵と引っ組んで斬られましたところで、血の出るのは、縛ってある布と布との間だけです。全身の血さえ流れ出ねば、どのような働きもできようと思いまして||。
札木合 うむ、行けっ!
伝令一は、城寨を伝わって断崖の下へ下りて行く。後は、飛来する矢いっそう繁く、
札木合、
台察児をはじめ一同無言のうちに弓を引き絞り、銃眼より射落して必死に戦う。避難民らは叫び声を揚げて逃げ惑う。しばらく物音のみ激しき防戦の場。
衛兵 (今下りて行った伝令の裸体を担いで、堡塁を上って来る)惜しい勇者でしたが、三の濠へ行き着かぬうちに、たちまち敵の矢を浴びてこの有様です。
裸かの全身に矢の突き刺さった死体を、
札木合の前に下ろす。みな暗然として屍骸に見入る。城兵一人、上手の扉より駈け入る。
城兵 城主様。ただいま、成吉思汗の軍使と称する大男が、ただひとり乗り込んでまいりましたが、いかが取り計らいましょう。
台察児 (剣の柄を叩いて気負い)なに、成吉思汗から使いが来た? 兄上、そいつの首を斬り落して、敵中へ投げ込んでやろうではありませんか。
札木合 (はっとしたが)まあ、待て! どんな条件を持ち込んで来たのかもしれぬ。よし、会おう。本丸の大広間へ通しておけ。危害を加えてはならぬぞ。
兵卒は一礼して駈け入る。
札木合は、
台察児、参謀らを促して、上手の扉より城内へはいろうとする。避難民等、城主の一行に途をひらきながら、一斉に平れ伏して、「おお神様、どうぞ助かりますように。」と必死に祈る。その中の
回々教の伝道師は、ひときわ声高く、「天に
在ますアラアの神よ! どうぞこの、罪なき部落の民を助け給え。」と、狂人のように天を礼拝し、泣くがごとく祈祷する。その陰惨な声々に、
札木合は
つと立ち停まり、振り返って、不安と恐怖に駆られる思入れ
||暗転。
第一幕 第二場
同じく城内、本丸の大広間。石で畳みたる荒廃した部屋。舞台正面に大きく露台を取り、断崖の下に、広く砂漠と川、および、夕色に煙る抗愛山脈が遠く望見される。露台の前に、太き石の円柱五六本立つ。その円柱の根に、高さ三尺ほどの石で築きたる囲いをめぐらし、室内より仕切りたる
体。この中仕切りに、前場の望楼にありたると同じ、ただし、もっとずっと大きな
札荅蘭族の旗、黄色地に白と赤の星月の旗が、壁掛けのごとく懸けてある。
舞台上手寄りに、そこだけ二三段高く、王座あり。かたわらの飾り台の上に、大いなる青銅の
香炉ありて、香煙立ち昇る。傍に、
唐獅子の陶器の
香盒を置く。王座のうしろに、丈高き二枚折りの刺繍屏風。
札木合がその王座に掛け、左右に
台察児、参謀、官人ら居並び、背後に軍卒多勢、抜剣を引っ提げて立つ。
露台より真赤な砂漠の夕陽がさしこみ、室内は明るく、人々の顔は血のごとく映える。上手と下手に、
扉一つずつ。
幕開くと同時に、下手の入口より、
成吉思汗の軍使、近衛隊長
木華里(六尺余の巨漢、隆々たる筋骨)が、城兵四五人に囲まれ、両手を後ろに縛されて出て来る。
木華里 (札木合の前に胡座をかき)これは札木合王ですか。私は成吉思汗の軍使、木華里という者です。長の籠城、想像に絶する疲弊困憊の有様、お察し申し上げます。
台察児 (剣を掴んで)皮肉かそれは! 城中の物資いかに欠乏し、たとい石を噛み、土を囓ろうとも、わが札荅蘭族の士気は衰えぬぞ。余計な口を叩かずと、軍使なら、速かに使いの趣きを言え。
木華里 (縛された手を振り、怒って)いいや! 軍使を扱う途を知らぬから、肝心の使いの趣きがこの口から出ないのだ。まずこの縛めを解いて、相当の礼をもって対するがよい。
台察児 兄上、繩を解いてやりましょうか。
札木合 (怯えて突っ立つ)何を言う! こやつの繩をといてたまるものか。不敵な面魂、何をするかわからぬ。もっと高手小手に、がんじがらめに縛り上げてしまえ。
城兵二三人、
木華里の肩から腹へかけてぎりぎりに縛り上げる。
台察児 (抜刀を振りかぶってその後ろに立ち)気をつけて口をきけ。一太刀だぞ!
木華里 (争わず。平然と縛るに任せながら)ははははは、このおれ一人が、そんなに恐しいか。わが成吉思汗様の軍中には、おれくらいの大男はざらにいるのだ。では、このままで結構だ。(ぐっと起ち上がって、王座を睨む)札荅蘭の札木合王に申す。食糧もなき城中に、罪なき城下の民を取り込み、この苦しみを与えてどうするつもりだ。わが成吉思汗軍は、明朝砂漠の太陽が、塔米児の川波を真っ赤に彩る前に、この札荅蘭城を一揉みに押し潰すは、それこそ、この両腕で仔羊の口を引き裂くよりも易々たることだ。失礼ながら城の運命は、すでに定まりましたぞ、札木合様。我軍は、三万の大軍をもって、今この粟粒のごとき山寨一つを、三重、いや、四重五重に取り囲んでいるのだ。もはやいたずらに大言を弄している場合ではござるまい。札木合殿、木華里は、わが成吉思汗大王の命を含んで、降伏を勧告にまいったのです。
この以前より、避難民の群れがそっと露台へはいって来て、中仕切りの陰に
蹲り、成往きを気遣っていたが、降伏勧告と聞いてざわめきはじめる。
木華里 (その声のほうを見て)あれなる城下の者どもをみなごろしにするのは、賢明なる札木合王の本意ではありますまい。だが、もしこの申出を拒絶なされば、遺憾ながら、暁を待たずに城内へ殺到し、嬰児の果てにいたるまで、一人残らず殺して廻るだけだ。札荅蘭族を種子切れにしてやるのだ。
中仕切りの陰に、避難民の悲鳴、子供を抱きすくめる気配などする。室内は薄暗くなり、正面露台の外の夕空に、星が瞬き、はるか下の
成吉思汗軍の
天幕には灯が入り、砂漠一面に点々として明滅する焚火。戦いは一時中止されて、無気味な静寂。
札木合 (黙考の後)出世に焦って、血も涙もない成吉思汗だ。ことには、仔細あって、われに含むところのあるきゃつのことだ。いや、それくらいのことはするであろう。赤児まで敵の片割れとばかり斬り虐んで、札荅蘭族は一人あまさず、かの砂漠の虎、成吉思汗めの餌食となるのか||。
避難民達、中仕切りの陰から口々に叫んで、
札木合に降伏をすすめる。兵士ら叱りつけて制する。
木華里 我軍の条件を入れて、即刻開城とあらば、あれなる七つの星の消えぬ先に、すぐさま囲みを解いて、眼ざす乃蛮国へと進軍を開始するであろう。その場合は、札木合一家をはじめ、札荅蘭族の一人にも刃を加えませぬ。この儀は、大王成吉思汗、真白き駱駝にかけて誓います。
避難民ら歓声を揚げて喜ぶ。この時、
札木合の妃
合爾合姫が、二三の侍女を従え、そっと出て来て、誰にも気づかれず露台の円柱の陰に隠れ、ひそかに立ち聴いている。
札木合 ううむ、降参すれば城も助かり、罪なき部落の者どもも、これ以上の苦しみから救われ、成吉思汗はそのままこの城を後に、抗愛山脈へ向って進発する||(独語のように)ふうむ、降伏を拒絶すれば、わが札荅蘭族は根絶やし||だが、その降伏勧告にも、定めし条件があろう。条件を言え。
木華里 (膝を進めて)さらばです。降伏の貢物として、妃の合爾合姫を、今宵一夜、単身成吉思汗の陣屋へお遣しなさるよう。条件というのは、ただこの一つだ。
札木合 (愕然と顔色を変えて)なに、奥を、合爾合姫を、今宵一夜、ただひとり成吉思汗の許へよこせと?
台察児 (気色ばんで)うむ! 嫂上合爾合姫の、一夜の身体が所望だというのだな。
木華里 さようです。合爾合姫が、日没と同時にただ一人、成吉思汗の陣営へ来ればよし、さもなければ、城も人も、木っ葉微塵に踏み躙るまでのことだ。札木合! 返答はどうだっ!
札木合 言うな、汚らわしい! かの成吉思汗め、数年前に失った恋を、いま力ずくで遂げようというのだな。あれ以来、胸の底に燃えておった、わが妃合爾合への妄念を、この機会に霽らそうと言うのだな。
台察児 成吉思汗のやつ、蒙古第一の英雄との評判は、真っ赤な嘘だ。降伏の引出物に、敵将の妻を一夜貸せなどと、見下げ果てた犬侍だ。いや、女の肉に飢えた野獣だ! 兄上! もはやこの軍使と言葉を交す要はござりませぬ。札荅蘭族の運命は決まった。ひとり残らず、この地球の表面から抹殺されるだけのことだ。
避難民ら号叫する。
合爾合は茫然と円柱のかげに立ったまま沈思する。
札木合 弟! よく言ってくれた。ほかのことで部落民が助かるなら、おれは、武士の誇りも捨てて、開城しようかとも思ったが、あまりと言えばあまりの条件だ。これは余のこととは違う。(突然起ち上って、木華里を白眼みつける)こらっ! 妻の身を犠牲に、一命一族を助けようなどと思う札木合ではないぞ。この札荅蘭の城中、おのが命と妃の操を交換しようなどと、さような心掛けの者は一人もおらぬ。馬鹿者めが! (と手許の飾り台の上の、唐獅子の香盒を引っ掴み、王座の下の床に叩きつけて微塵に砕く)
台察児 畜生! こ、この軍使の奴、どうしてくれよう! そうだ。この牛のような首を撥ねて、砦から投げ下ろしてやれ。身体は油炒りにしてやるのだ。おい! 皆来い。中庭へ釜を持ち出して、油を煮る支度をするのだ。
と軍卒らを促し、露台から上手へ駈け入る。
札木合付きの参謀四五人と
木華里の看視兵二三を残して兵士一同、および官人ら続いて走り去る。避難民も驚いて、皆あとを追って露台から上手へはいる。
木華里 (泰然と)それならば、悪いことは言わぬ。早く油を沸かさぬと、今にも我軍この城中へ押し入って来るぞ、ははははは。あの砂漠の地平に、東の海の真珠のような月が昇るまでに、合爾合姫が城を抜け出ぬ場合には、条件を受け入れぬものと見て、一刻の猶予もなく攻め込む手筈になっているのだ。
札木合 (静かに)わしは成吉思汗のために惜しむ。あれほどの豪傑も、恋のためには、市井の匹夫のごとき手段をも辞せぬものか。憐れな迷執の虜だ。この合戦は、数年前の恋のたたかいの続きであったのだ。恋に勝って合爾合を得たわしは、この戦いにも勝ち抜くのだ。なんの! 合爾合を成吉思汗の自由にさせてたまるものか。(木華里へ)飛んで火に入る夏の虫とは、貴様のことだ。地獄の迎えを待て!
言い捨てて、露台へ出ようとすると、
合爾合姫が侍女二三を従えて円柱の陰から現れる。
合爾合姫 殿||! (泣き崩れる)
札木合 (支えて)おお、お前はそこにいたのか。して、今の話を聞いたのか。
合爾合姫 はい。残らず聞きましてございます。憎いのは、あの成吉思汗です。大方あの時、あなた様と、妾を争いましてから、ずっとこの機会を狙っていたのでございましょう。偉い大将に出世したと聞きましたが、やっぱり、昔のがむしゃらな成吉思汗! ああ、妾はいったいどうしたら||。(泣き入る)
札木合 (片手に抱いて)これ、なにもそんなに悲しむことはない。わしは、全種族の潰滅を期しても、お前をきゃつの手に渡そうなどとは思わないのだ。
合爾合姫 はい。そのお言葉で、妾はもう、死んでも思い残りはございません。ついては。||
札木合 (突然回顧的に)なあ合爾合、お前がまだ瑣児肝失喇家の娘で、余も成吉思汗も、名もなき遊牧の若者だったころ、二人でお前の愛を争った。おれが勝ってお前を得たことが、成吉思汗の心にこの針を植え、きゃつを、かかる惨虐無道の悪魔にしてしまったのだ。たとい戦いには敗れ、星月の旗の名誉は失っても、おれにはまだお前があるぞ。ははははは、こ、これ、この合爾合があるぞ。
合爾合姫 そんなにおっしゃって下すって、ほんとうに、もったいのうございます。つきましては、妾の心一つで、この札荅蘭族の人たちが助かり、またあなた様もこのお城も、事無きを得ますならば、あなた、妾は決心いたしました。どうぞこの合爾合を成吉思汗の陣営へお遣し下さいませ。
札木合 (急き込んで)な、なに? お前は何を言う。この上おれを、札荅蘭の札木合は、妻の操で一身の安全を買った腰抜け武士だと、後世までの笑い草にしたいのか。軍には敗れたが恋には勝った、それがこの札木合の、死際の唯一の慰めだということが、合爾合! お前には解らないのか。
合爾合姫 (必死に)いいえ、ただ妾は、あなた様と、城下の人たちをお助けしたいばっかりに、あの蛇のような執念ぶかい成吉思汗に、この身を||。
札木合 いや! 聞きたくない。お前、気でも違ったのか。そんなことを考えるだけで、このおれの胸は張り裂けんばかりだ。お前の身を守るためには、わしの命はおろか、城も惜しくはない。城下の民など、砂漠の鬼と消えるがいい。
合爾合姫 (追い縋って)いえ、あの、わたくしにも考えがございますから、どうぞ、一人で城を出ることをお許し下さいまし。
札木合 ええいっ、くどい! お前には、かほどまでに言うおれの心がわからないのか。(参謀へ)最後の一戦だ。みな来い!
泣いて取りすがる
合爾合姫を振り解いて、
札木合は決然と露台から奥へ駈け去る。参謀ら続いて走り入る。長い間。
侍女一 (良人の後を見送ったのち、首垂れて考え込んでいる合爾合姫に近づき)奥方様、あれほどまでにおっしゃる殿様のお胸の中、女子として、奥方さまもさぞ本望でございましょう。もはやわたくしども一同、奥方様のお供をして、戦死の覚悟ができましてございます。
侍女二 (正面の露台へ駈け出て)あれ! どうやら砂漠の地平線が、ぽうっと青白くなってまいりました。月が昇るのではございますまいか。月の出を合図に、あの恐しい成吉思汗軍の荒武者どもが、乗り込んで来るとのこと。ああ、どうしたらよいか||。
侍女三 あれあれ! ほんとうにあの砂丘の果てに、ほのかに青い月の光がさし初めました。ああ、もう何刻の生命やら||おお! 中庭で、この軍使を煮る油を沸かしはじめました。ああ、何という恐しい! (と眼を覆う)
露台の向うから、紫いろの油の煙りが濛々と立ち昇る。
合爾合姫と侍女らは、凝然と露台の外を見守る。
合爾合姫 (ひとり言のように)昔の成吉思汗の恋が、ここへ来て、こんな恐しい仕返しをしようとは||。(泣く)
侍女二 お察し申し上げます。
侍女一 でも、殿様のあのお言葉、ほんとうに女冥利、嬉し涙が溢れてなりませぬ。
この時、血染れの将校一人、露台上手から走り込んで来て、叫ぶ。
将校 (妃に敬礼して、木華里の看視兵へ)おい! 表門に石を積んで、かなわぬまでも備えをするのだ。猫の手も借りたい場合だ。その軍使は縛ってあるのだろう。そいつをそのままにして、お前たち、皆来い。
看視兵ら、声に応じて将校とともに、露台上手へ駈け去る。舞台ほの暗く、正面の露台から星明りが差し入る。砂漠の外れがかすかに青み、月の出は刻々近い。
合爾合姫 (ぐっと胸に決して)今の話では、城門へ石を運ぶとのこと、女だとて働かねばなりませぬ。お前たちも、二人で石の一つぐらいは持てるであろう。ここは構わぬから、お手伝いに行くがよい。
侍女一二 でも、この恐しげな男と、奥方様を置きざりにして||。
合爾合姫 いや、大事ない。ここより表門の備えが肝心です。早くあちらへ!
侍女たちは心を残しつつ、
合点き合って兵士らの後を追い、露台上手へ馳せ入る。
合爾合姫 (長い間。じっと木華里を凝視めて)あれ、もう月の出に間がありません。今にも一気に攻め入って来たら||(じっと考え、うむと決心して、懐剣を取り出してきらりと抜く。足早やに木華里に近づき、一突き、と見えたが、意外にも、ぱらりと縛めを切って落す)さ、この隙に早く逃げて、追っつけ後から合爾合がまいりますと、成吉思汗さまにお伝え下さい。
木華里 (驚いて立ち上り)奥方、私を逃がして下さるのですか。
合爾合姫 わたしは決心いたしました。いかに殿様がああおっしゃって下さればとて、あの泣き叫ぶ城下の人々、先の短い老人や愛い女子供を、どうして、城とともに見殺しにすることができましょうか。憎んでもあまりある成吉思汗ですけれど、女の身で役に立つのは、せめてそれくらいのこと||言うなりに後からすぐ城を脱け出て、はい、まいります。あの人の陣屋へ、まいります! あなたは一足先に駈け帰って、どうぞ、そう復命して下さい。そして、総攻撃をお止め下さい。(身も世もなく泣きつつ急き立てる)
木華里 それでは、合爾合姫、たしかにわが大将の陣営へ、一人でおいでになるのですな。うむ、お待ち申しておりますぞ。
合爾合姫 念には及びませぬ。わたしはもう覚悟を||そう言う間も気が急きます。あの台察児さまが上って来ないうちに、早く! 早くお逃げ下さい。
と薄暗い中に
木華里をさし招き、下手の小さな
戸口から出しやる。
合爾合姫 この石段をまっすぐ下りて、突き当りの廊下を左へ出れば、城の横手の草原へ抜けられます。そこらは城兵も尠いはず、さ、一刻も早く||。
木華里は一礼して走り下りる。
合爾合姫は独り頷首いて、おのが居間に通ずる上手の扉へ駈け入る。しばらく舞台空く。油の煮える煙り一度に上がる。群集の悲鳴凄まじく響く。すぐにその同じ上手の戸口から、妃の盛装の上に大きな鹿の皮を被った
合爾合姫が、そっと一人忍び出て来る。舞台中央に立ち停まり、ひそかにふところから懐剣を取り出して引き抜き、じっと見入る。
合爾合姫 (独語)この札荅蘭族へ輿入れする時、父の瑣児肝失喇から渡されたこの守り刀が、こんな役に立とうとは思わなかった。もし成吉思汗が無礼を働いたら、いっそ一思いにこの胸を||。(と自分の胸へ突き刺す仕草)
うなずきながら、鹿の皮を頭からかぶり、
木華里の去った下手の石段を駈け下りる。とたんに、露台上手より侍女二人、あわただしく走り出て、
侍女一 おや! 奥方様はどこに? あら、あの軍使もいない||奥方さま、奥方様!
侍女二 ああ、奥方様のお身に、変り事がなければよいが||。
二人そそくさと室内を捜し廻る。舞台刻々暗くなり、露台の外、月の出はいよいよ迫る。
札木合の声 (近づいて来る)合爾合、合爾合! 合爾合はおらぬか。(幕)
第二幕 第一場
城外。
塔米児、
斡児桓の両河の合する三角洲に設けられた、
成吉思汗の大
天幕の前。砂漠の広場。前の場と同じ時刻。
正面すこしく上手寄りに、
成吉思汗の
天幕、垂れを掛けたる出入口あり。哨兵二名、その左右に立ち、一人はたえずその前を往復して警護す。下手奥は、夜眼にも白き大河、彼岸は
模糊として砂漠につづき、果ては遠く連山につながる。その砂漠に、軍兵の天幕の灯、かがり火など、
閃々としてはるかに散らばる。降るような星空の下。月はまだ上らない。
舞台上手に、立樹五六本、その一つに、真白な
成吉思汗の乗馬を継ぐ。下手にも立樹二三、その前に
駱駝一二頭、置き物のごとく坐る。この下手の立樹の間より、軍団の大屯営へ通ずるこころ。正面
成吉思汗の
天幕の外に、竿頭に白馬の尾を結びつけたる旗印を九本立て、その他三角形の小旗、槍、鼓、
銅鑼、楯などを飾る。上手下手、及び中央と、舞台三個処におおいなる篝火を焚く。燃料として、牛糞を乾し固めたる物を、傍らにほどよく積む。この篝火の
映ろいにて、舞台全面に物凄き明暗交錯する。
おびただしき軍馬のいななき断続して、幕あく。
四天王の三人、長老
哲別、参謀長
忽必来、箭筒士長
速不台、及び主馬頭
者勒瑪ほか参謀侍衛ら多勢、それぞれ焚火のまわりに陣取り、弓、矢、鎗、長刀、太刀など、思い思いに武器の手入れをしている。
傴僂の道化者
汪克児は、葉のついた木の枝を剣に見立てて、身振りおかしく独りで
戯け廻っている。
汪克児 敵にお尻を見せたことのない、成吉思汗様のお馬さま、ちょいとこの汪克児様に、お尻を拝ませては下さらぬか。(と抜き足さし足、滑稽な様子で成吉思汗の白馬のうしろに廻り)ても見事な眺めじゃなあ。アラアの神さま、アラアの神様||。
汪克児 (大袈裟に仰天し、引っくり返って)うわあっ! あ痛たたた! 兄弟分の汪克児めをお蹴りなさるとは、ちぇいっ、はてさて情ないお心じゃなあ。聞えませぬ、聞えませぬわいのう。(泣き声を装る)
哲別 うるさいっ! 殿はお眠みなのに、止め度もなく戯けおって。控えろ、汪克児!
汪克児 と、叱りつければ、汪克児は||。(と辷るように下手へ走って、坐っている駱駝の背へちょこんと股がり、走らせる真似)はいはい、どうどう! 進めや進め、成吉思汗! やあやあ、遠からん者は音にも聞け。近くは寄って眼にも見よ。われこそは、大王成吉思汗の陣中にその人ありと知られたる、滑稽ちゃらっぽこの一手販売、山椒は粒でもぴりりと辛い、汪克児大公爵さまだ。成吉思汗様第一のお気に入り||ねえ、君、駱駝君。
合撒児 (成吉思汗の弟、下手よりつかつかと現る。通りすがりに、駱駝の背から汪克児を突き落して)お! これは大公爵閣下、とんだ失礼を。(天幕の垂れをはぐり、はいろうとする)
忽必来 合撒児さま、殿はまだお昼寝のつづきです。
合撒児 うう、(振り返る)まだ寝てる? 相変らず呑気な兄貴だなあ。(ふと下手を見やり)おお、月が出た、月が出た! あれ見ろ、砂漠の上に、大きな月が出たぞ。
明るい月が地平を離れ、河の
漣を銀に彩っている。一同は口々に、「月だ、月だ、月が出た。」「さあ、出陣だ! 進軍だ!」と勢い込んでざわざわと起ち上り、月に向って立ち並ぶ。
忽必来は長靴を穿き直し、武装を凝らして、
速不台とともにしゃがみ、剣の先で地面に地図を描き、しきりに軍議を練りはじめる。
合撒児 木華里はまだ帰らぬな。者勒瑪、軍馬の様子はどうだ。これからただちに札荅蘭城を屠り、長駆、抗愛山脈を衝くのだから、稗でも藁でも、充分に食わせておくがよいぞ。
者勒瑪 (主馬頭)仰せまでもございません。馬という馬は、栗毛も葦毛も、気負い立って、あれ、あのように、早く矢を浴びたいと催促しております。
合撒児 忽必来、進撃の前だ。点呼はまだか。
忽必来 は。もうすむころです。今にも報告がまいりましょう。
哲別 もうとうに月が上ったに、まだ木華里が帰らんところを見ると、降伏を拒絶したにきまっておる。合撒児様、殿に、進発の御催促を申し上げては。
汪克児 (跳び撥ねながら)月夜に釜を抜くというが、こちとら、月夜に城を抜く。
速不台 そうだろうと思った。無駄だろうと思った。あの札木合の奴が、女房を一晩こっちの陣営へよこすなどと、そんな条件を承知するはずはないのだ。
哲別 じゃが、殿の御心中をお察しすると、木華里のやつめ、うまく合爾合姫を引っ張ってくるとよいのじゃがなあ。
合撒児 そうだとも。兄貴ともあろうものが、この小っぽけな城一つを長々と囲んで、今まで思いきって揉み潰してしまわなかったのは、ただ、合爾合姫の身を案じたればこそだ。
汪克児 (したり顔に腕組みして、合撒児の仮声で)するてえと、兄貴の野郎、まだ、合爾合姫のことを想っているのだなあ。
速不台 馬鹿っ! 殿に聞えたらどうする。
侍衛長 報告! 点呼を終りました。一同、弓に新しき矢を番え、馬背に鞍を締め直して、一時も早く総攻撃の命を待っています。
忽必来 よし。箭筒兵一千のうち||?
侍衛長 はっ。今日までの攻城戦に、ただ八十人の戦死者あるのみでございます。
忽必来 うむ、宿衛兵一千。
侍衛長 はっ、今日の死者は、わずかに六人。傷つくもの十七名。
忽必来 侍衛兵、一千||。
侍衛長 はっ、死者はございません。
忽必来 よろしい。命令を待て。
侍衛長走り去る。この間も
汪克児は、ところ狭しと独りでふざけ廻って、馬の尻っ尾を引っ張ったり、駱駝と
白眼めくらをしたり、自分の鼻の孔へ指を入れて
嚏をするやら、もんどりを打つやら、しばらくもじっとしていない。一同は慣れているので誰も注意を払わない。
江克児 (皆の真ん中に立って、おどけた様子で首を傾げ)ふうむ。そういうものかなあ。いや、そうだろうなあ。
合撒児 こら、豚め! 何を感心しているのだ。
汪克児 英雄、色を好む。(ちょいと天幕を指さしてウインクする)いかな大王も恋には弱い。意馬心猿追えども去らず、あわわわわわ。(あわてて口を押さえる。誰も相手にせず)
者勒瑪 (じりじりして、しきりに下手奥へ駈けて行っては、月に霞む遠くの砂漠へ小手をかざす)ちぇっ! 木華里め! 何をしているのだ。早く降参の献上品を引っ担いで来ればよいに。
速不台 ほんとだ。その献上品を殿のおん前に捧げて、お慰め申したいものだなあ。
哲別 まだそんなことを言っておるのか。木華里は今ごろ、首になっているに決まっておる。木華里の葬い合戦じゃ。おお、月はもうあんなに高く上りましたぞ。合撒児様、もはや一刻の猶予もならぬ。さ、殿に申し上げて、出陣のお許しを得て下され。
合撒児 (じっと考え込んで、ひとり言)おれはよく知っている。兄の心には、女といっては、あの合爾合姫があるだけだ。だから、ほかの女には眼もくれずに、誰が何とすすめても結婚せず、いまだにずっと独身でいるのだ。それを思うと、畜生||! (一同暗然として、長い間)
汪克児 (突然、節をつけて)無理もない、無理もない。札荅蘭の合爾合姫は、蒙古一の美人、いや、砂漠の女神。その瞳は翁吉喇土の湖のごとく、口唇は土耳古石、吐く息は麝香猫のそれにも似て||。
合撒児 やかましい! ああ、止むを得ない。兄貴を喜ばせようとしたお前たち一同の苦心も、とうとう水の泡か。(決然と天幕へはいって行こうとするが、ためらって)弱ったなあ。また雷か。機嫌の悪い時の兄貴は、苦手だからなあ。おい、者勒瑪、お前行って起して来い。
者勒瑪 と、とんでもない! あんなに合爾合姫を待っておられる殿様のところへ、姫が来ないので総攻撃だとは、とても||こればっかりはお許し下さい。(手を合わせる)おい速不台、貴公行け。
速不台 獅子の檻へならはいって行くが、殿の御不興だけは||それに、おれは、先刻から、急に腹が痛み出して、ううむ、これはやりきれん。あ痛たたた、忽必来君、頼む。君行って、お起し申してくれ。
忽必来 冗談でしょう。吾輩はにわかに頭痛がして||。
合撒児 頭痛がしたって歩けるだろう。
忽必来 いや、その、実は足が痛いので||おお痛い。こいつはたまらん。哲別どの、これはどう考えても年寄り役だ。長老、一つ||。
哲別 それが、その、なんだ、私の行きたいのは山々だが、年齢のせいか鳥眼の気味でな、夜になると何も見えん||。
合撒児 はっはっは、大切な乃蛮征伐を前にして、軍の大幹部がみんな急病とは大変だな。よし、じゃ、みんなではいって行こう。
汪克児 (しゃしゃり出て)お待ちを。しばらくお待ちを。その役目は、どうぞ拙者めにお任せ下さい。たとえ成吉思汗様が辛子をお舐めになった時でも、かく言うそれがしさえお傍にいれば、ああ辛いとおっしゃるかわりに、わっはっはと笑わせてお眼にかける。えへん、大王さま第一のお気に入りの汪克児様々じゃ。万事、な、万事この胸に||者ども騒ぐな。おほん! (そっくり返って天幕へはいってく)
一同は天幕の入口に集まり、心配そうに聞き耳を立てる。
成吉思汗の声 (天幕の中から、睡そうに)ううう、うるさい芋虫だな。なに、木華里がまだ帰らないから、もう総攻撃開始だと? (叱咤する)ええい、やかましい! 勝手にしろ!
とたんに、天幕のなかで、主人の怒りに刺激された物凄い虎の咆哮が、一声大きく聞える。同時に、天幕の入口から
汪克児が、俵を投げ出すように、ごろごろと勢いよく転げ出して来る。それを追っかけて、巨大な猛虎が一頭、唸りながら躍り出る。続いて
成吉思汗が、少年のような快活さで、出入口の垂れをはぐって現れる。何の屈託もなさそう、にこにこして大股に駈け出て来る。小姓
巴剌帖木、朱の袱紗の上に金の兜を捧持して、急いで後に従う。一同、威儀を正して最敬礼。
成吉思汗 (愉快そうに)太陽汗! (虎を鎮める)
武将達の間を昂奮して
のそのそ歩き廻っていた虎は、猫のごとく従順に、
成吉思汗の側へ帰ってぴたりと坐る。
成吉思汗 (その虎の頭を撫でて、大笑する)ははははは、お前たちに話したかな。おれは、此虎に、太陽汗という名を命けたよ。太陽汗というのは、これからおれたちが攻めて行こうとしている、あの乃蛮国王の名さ。虎のような乃蛮王太陽汗も、こら、見ろ、この成吉思汗にかかっては、もうすっかり奴隷になって傍に仕えているというわけさ。はっはっは、愉快じゃねえか。なあおい!
汪克児 (虎へ)太陽汗さま、あなた様は私を見るとすぐ、眼の仇敵にして跳びかかってくる。この(と自分の背中を指して)瘤を進上しやすから、それで一つ仲直りを、へへへへへへへへへ。
成吉思汗 (伝法に)そんな物を貰っても食えねえからいらねえや、なあ太陽汗。(大きな欠伸をする)木華里がどうしたと?
忽必来 まだ木華里が帰ってまいりませぬ。
成吉思汗 (淋しさを隠して)心配するな。あの木華里の身体に刃を当てることのできる奴が、札荅蘭の城中に一人でもいるなら、おれたちあこんな面白くもねえ戦争をしなくってもよかったんだ。
哲別 (思いきって)殿、降伏の条件は拒絶したものと見えます。合爾合姫はお見えになりません。
成吉思汗 (ふっと沈鬱に)お前たちの心尽しをいいことに、おれは、女一匹にこだわって||。(急に朗かに)あははははは、何を言ってるんだ。おれの女房は戦争だ。おれは戦争と結婚しているんだ。この成吉思汗の恋人は、軍馬だ、弓矢だ、此剣だ! 敵の血だ! 砂漠の風だあ||! あははははは。
哲別 殿!
成吉思汗 相手にして面白いのは、乃蛮の太陽汗だ。合撒児! あれを見ろあれを! 抗愛山脈の上で、月が招いているじゃあねえか。哲別、忽必来、進軍だ、進軍だ! ああ愉快愉快! 者勒瑪、馬を引いて来いっ!
汪克児 (成吉思汗の口真似)おれの女房は、この背中の瘤だ。おれは瘤と結婚しているんだ。この汪克児の恋人は、瘤だ、踊りだ、踊りだ、瘤だ||あっはっはっは! (成吉思汗の気を引き立てようと、滑稽に踊り廻る)
成吉思汗は寂しそうに、ぼんやり立って考え込んでいる。小姓
巴剌帖木の捧げる兜を、無意識にかぶりながら、
成吉思汗 巴剌帖木。
巴剌帖木 (前に片膝ついて)はっ。
成吉思汗 お前は、十四だったな。
巴剌帖木 (不思議そうに)は?
成吉思汗 (優しく)いや、年齢は十四だったなと言うんだ。
巴剌帖木 はい。
成吉思汗 (夢みるように)恋の花は、まだまだ固い蕾だな。だが、初恋の女ができたら、すぐおれに言うんだぞ。必ず一緒にしてやるからなあ。初恋に敗れると、生涯砂漠の風が身に沁みるぞ。(突然、叱りつける)馬鹿っ! 貴様、何を聞いているんだ!
巴剌帖木はびっくりして後ろに退る。
忽必来は銅鑼を持って下手に進み、まさに一打ち打とうとする時、
木華里の声 (下手遠くより)しばらく、しばらくお待ちを||。
忽必来 おお、木華里だ、木華里が帰って来た||!
木華里 (一同驚喜する中を駈け込んで来て)殿! およろこび下さい。ほどなくこれへ、合爾合様がお見えになります。
成吉思汗 (嬉しさと悲しさが交錯して)そうか。合爾合が来る。そうか、合爾合が来るのか。(せせら笑って)手前が助かりたいばっかりに、大事な女房を捧げて命乞いする。ふふん、可哀そうに合爾合も、下らねえ男と一しょになったものだ。(哄笑)おい、皆聞いたか。数年越しのおれの恋を叶えに、いま合爾合が独りでここへやって来るそうだ。進発は見合せだ。どうでえ! 喧嘩に強い奴あ恋にも強いぞ。長の思いの霽れる夕べだ。哲別、速不台、酒宴の支度をしろ。花嫁花婿のために、祝言の席を設けろ、あっはっはっは。
一同は右往左往して準備にかかる。
篝火は一度に燃え盛る。
汪克児 (成吉思汗の前に進んで、妙な手つきをして月を仰ぐ)曇り、後晴れ。ああ、好い月じゃなあ。(自分へ)これ、外道、口が軽いぞ。(おのが口を抓って、蜻蛉返りを打つ)
成吉思汗 (独り言のように)長年想いを懸けた女が来る晩に、軍などと、そ、そんな殺風景なことができるか。こんな、鎗だの、楯だの、(とそこらに組み合わせて立ててある武器、馬具などを蹴散らす)今夜あ、こんな物あ眼触りだ。婚礼の席には邪魔ものだ。早く片づけてしまえ。
皆浮きうきしながら、焚火のまわりに獣皮を敷き、
酒宴の座を設ける。
成吉思汗 (焦いらして)兵卒一同にも、今宵は振舞い酒だ。たんまり飲ましてやれ。
消魂しい野犬の吠え声起る。歩哨一人、鹿の皮を被った
合爾合姫の前に立ち、二名の兵士、姫の左右から抜身の槍を突きつけて、下手からはいって来る。
歩哨 ただいま、かような怪しの者が、御陣屋近く忍び寄るところを、発見いたしました。こいつ! (と鹿の皮を引き剥ぎ、姫を前へ押しやる)
合爾合と
成吉思汗は、
凝然と眼を見詰め合う。長い間。一同無言。
成吉思汗 (侮蔑を罩めた合爾合姫の視線に負けて、眼を外らしつつ)よく、よく来られた。しばらくぶりだねえ、合爾合。
速不台 やあ、来た、来た。合爾合様、成吉思汗さまは、今夜という今夜をどんなにかお待ちなされたことか。
汪克児 (合爾合姫の手を取る)さ、さ、花嫁さまは、こちらへ、こちらへ||。
合爾合姫 (その手を振り放って、成吉思汗の前へ進む。憎悪に顫えて)お久しぶりでございます、成吉思汗様。今あなたさまのお名前は、砂漠よりも広く、抗愛山脈よりも高い勢い、砂漠を徘徊する虎と申せば、あなた様のことと伺いましたが、偉い大将におなり遊ばしたものでございます。(皮肉を罩めて)昔の合爾合は、こうして今、敗軍の将の妻として、軍門に引かれてまいりました。(感きわまって膝を突き、心を絞って)その代り、どうぞ良人をはじめ、札荅蘭族一同をお助け下さいますよう。
成吉思汗は打たれて、黙して
頷首く。一同席に就く。兵卒ら、酒肴など運び
来る。
汪克児 (姫を押しやって成吉思汗の隣りへ坐らせる)さ、花嫁さまはここへ。なにもそう恥かしがることはない。ようよう、似合いの御夫婦、内裏雛! (手を拍つ)
みな笑い崩れる。
成吉思汗と
合爾合姫は中央の篝火の正面に、並んで
床几に掛ける。猛虎
太陽汗は悠然と
成吉思汗の傍に坐る。
汪克児は独りで
戯けまわる。
成吉思汗 (上機嫌に)今日第一の殊勲者は、木華里だ。それ、木華里、盃を与るぞ。
木華里 いえ、どうぞそのお盃は、まず合爾合さまへ。
成吉思汗 うむ、そうだったな。花嫁にささんでは、この場の固めがつかない。合爾合、あれ以来あなたを慕いつづけてきた成吉思汗の盃です。快く受けて下さい。
汪克児 姫一人を思って、今まで独身をお守りなされた大王様のおさかずきじゃ。めでたい、めでたい!
合爾合姫 (覚悟を決めた態)はい。それでは、頂戴いたします。
木華里 今日第一の殊勲者というお言葉に甘えて、お酌は、かくいう私が||。
一同爆笑する中に、姫は、止むなく涙とともに盃を受けて、返す。
成吉思汗 おれはどんなにこの宵を待ち望んでいたことか。皆も笑ってくれるな。砂漠の虎だって、情を解しないものではない||天幕に照る月、兜に置く露、この長の年月、ただの一日もあなたを忘れたことはなかった。
合爾合姫は黙然と顔を
外向けている。四天王ら、口々に、「おめでとうございます。」「お喜び申し上げます。」などと祝いを述べて、いっせいに乾杯する。
成吉思汗 うむ、お前たちも飲め。これ、者勒瑪、合爾合姫は長の籠城で、さぞ不自由をしたことだろう。痛々しいかぎりだ。羊を屠れ。馬乳酪を取り出せ。好豆腐も持って来い。ありったけの馳走を姫の前に並べろ。
声に応じて、
種々な料理が運び込まれ、酒宴は
酣になる。姫は暗然と俯向いたまま、なにひとつ口にしない。
哲別 お祝いのおしるしに、また一つには、姫のお心をお慰め申すために、わが陣中の狂乱楽をお聞きに入れたいと存じますが||。
成吉思汗 思いつきだ。すぐ始めろ。
銅製の長大な
喇叭、
太鼓、
銅鑼、
法螺貝、
笛、その他、ツァン、デンシク、ホレホ、ツェリニン等、珍奇な楽器を
抱えた盛装の軍楽隊の一団が練り込んで来て、耳を聾する音楽が始まる。同時に、兵士ら五六人、赤、黄、紫などの小旗のついた、抜身の槍を振るって、
成吉思汗陣中の名物、槍躍りを踊る。
成吉思汗はその間、たえず淋しそうな微笑を浮かべ、ともすれば考え込むが、そのようすを人に覚られまいと、気がついたように
合爾合姫へ笑いかける。姫は終始
首垂れて、一語も発しない。
成吉思汗 もっと何かやれ。もっと酒を持って来い。誰か合爾合姫を笑わせる者はないか。(単純に、そして懸命に)さあ、合爾合、札荅蘭の城と違って、この成吉思汗の陣中には、何でもあります。ほら、この鹿の腿肉を味わっては下さらぬか。これは狼汁です。いや、この好皮子は、成吉思汗陣中の自慢のものだ。いくらでも召上って下さい。
者勒瑪 さ、羊がまいりました。
と蒙古鍋を持ち込み、焚火の上に羊肉を
焙る。一同は剣の尖に突き差して立食する。月いよいよ冴える。
汪克児 あっしが一つ、姫を笑わせて御覧にいれよう。(と滑稽な身振りで、唄う)怖いものづくしを申そうなら、蒙古名物砂漠の竜巻、駱駝の喧嘩に暗夜の狼、嚊あの悋気、いや、いっち怖いは成吉思汗様の一睨み||おや! これでもお笑いにならない。(さまざまの物真似やお道化た踊りで、必死に狂いまわる)
成吉思汗 駄目だ、駄目だ! 姫はまだ笑わないぞ。こんなことでは、まだ饗応がたらぬ。誰か合爾合姫を笑わせるものはないか。笑わせた者は、大名に取りたててやる。(だんだん興奮して)ほら、この剣をやる! いや、この兜も与る。あの、おれの馬もくれてやるぞ。笑わせろ、笑わせろ! なんとかして合爾合を笑わせろ!
汪克児はここを
先途とおかし味たっぷりに、踊ったり跳ねたりする。
成吉思汗 (汪克児がきりきり舞いをすればするほど、ますます憂鬱になる。突然怒りを含んで)えいっ、止めいっ!
汪克児はぺたんと尻餅をついて、肩で
呼吸をする。
成吉思汗 面白くもない。姫を笑わすどころか、こら、見ろ、ますます沈んでしまったじゃないか。見苦しい奴だ。あっちへ行けっ!
顔色を変えて突っ起つ。長老
哲別、その雲往きを察して、追い立てるように将卒一同を引き取らせる。そして手早く
合爾合姫を案内して、
成吉思汗の
天幕へ伴れ去る。
成吉思汗は辺りを
睨め廻したのち、つと天幕へはいる。虎がのそりと立って後を追う。小姓
巴剌帖木が続こうとすると、
汪克児 巴剌帖木! これ||!
と
眼配せして止める。そして、不審顔の
巴剌帖木の手を引き、道行きのおかし味よろしく、下手へ引っ込む。舞台無人。篝りは消えかかって、正面天幕の内部に、明るく灯が映り、大きな虎の影が揺れる。長い間。幕。
第二幕 第二場
成吉思汗私用の大天幕内。舞台上手寄りに、大いなる木の寝台を置き、白い羊の皮で
堆高きまでに覆う。楯、鎧など、ほどよきところに飾る。正面の壁には、幼稚なる豪古地図の大いなるを掲げたり。
下手奥に出入口が開き、青い月光の
漲る砂漠、および大河の一部がくっきり見える。寝台の傍に、獣油の燭台を一つ置く。その下に虎が寝そべっている。下手出入口よりの月光が一ぱいに射し込んで、舞台はほの明るい。幕開くと、
合爾合姫が舞台中央に上手を向き、うな垂れて立っている。
成吉思汗 (その背後にぴたりと立っている。長い間。別人のように静かに)合爾合、ほんとに久しぶりだったねえ。君はちっとも変らない。
姫の首筋をじっと見つめて、うしろから抱き
竦めようとするが、はっと自らを制する。
合爾合姫 (突如憤然と)あなたも、ちっともお変りになりませんわ。昔のとおりの、乱暴者の成吉思汗||。(きっと振り返って)あなたは鬼です! 悪魔です! なぜその力自慢の腕で、いまここで妾を、打って打って打ち殺してしまわないのです! (泣く)
成吉思汗 (苦しそうに)もう夜が更ける。あそこの寝台へ行って、ゆっくり休むがいい。不自由な籠城が続いて、さぞ苦しかったことでしょう。そう言えば、すこし瘠せたようだが||。
合爾合姫は、顔を掩って寝台に進み、静かに羊の皮の上に身を横たえ、近寄って来たら一突きと、それとなくふところの懐剣を握り締めて身構える。憎悪に満ちた眼で、
成吉思汗を
凝視める。
成吉思汗 (皮肉に)御主人はいかがです。最愛の妻を、こうして一人敵の陣中へ寄越して、みずから助かろうとする札木合、おれは、あなたのためにあいつを憎む。あいつを呪う。
合爾合姫 いえ、それは違います。妾はあの人に隠れて、そっと忍び出て来たのです。
成吉思汗 (面を輝かして)おお、それではあなたも、この長の歳月、この成吉思汗を想っていて下されたのか。
合爾合姫 (冷やかに)なにを仰せられます。妾はあなたのことなど、思い出したこともございません。(と嘘を言う。淋しく笑って)降伏の条件に、敵将の妻を所望なさるなどとは、きょうという今日こそは、あなたという人間に愛想がつきました。妾は、良人と、城下の人々を助けるために、来たのです。(強く寝台に起き上り、きっと成吉思汗を睨み据えて、物体のように身を固くする。もう観念して、自暴自棄的にすべてを投げだしたこころ。鋭く)成吉思汗! 勝ち誇った成吉思汗! 何百人、何千人の犠牲になってきたこの身体を、さ、思う存分にして下さい! さ、なぜ早く自分の有にしないのです。(と眼を瞑る)
成吉思汗 なにを||。
と、つかつかと寝台へ歩み寄る。が、姫の覚悟に
気圧されて、ぴたりとそこへ釘づけになる。凄まじい間。姫は堅く眼を閉じ、身動きもせずに、
成吉思汗の襲って来るのを待つ。
成吉思汗 (窒息的な間。激しい独り語)おれの気持を察して、部下がこの計らいをしてくれたのだ。おれはそれを利用して、この、一度はと狙っていた機会を掴もうとした。が、おれにはできない。そんなことは、おれにはできない。(沈思。突如、自分に呼びかけて)おい! 成吉思汗! 貴様、どうかしてるぞ。貴様の恋人は、戦争じゃなかったのか。貴様は、若い血のすべてを、軍馬の蹴散らす砂漠の砂へ、投げ与えたはずではないのか。(壁の大地図へ眼が行き、駈け寄る)おお! (剣を抜いて地図を辿る)この、阿納、客魯漣、宇児土砂の三つの河の流れる奥蒙古の地は、貴様の父親、也該速巴阿禿児の志を起した平野じゃないのか。これが貴様の恋だ。これが貴様の全部だ。しっかりしろよ、成吉思汗! (急に朗かに)あははははは、戦争だ、戦争だ、おれは、戦争のほか何ものもない。戦争さえしていればいい人間なんだ。合爾合、戦争の話をしてあげよう。ねえ、勇ましい合戦の話を||この成吉思汗は、鉄の額をしているぞ。剣の嘴を持っているぞ。まだある、槍の舌を備えている。巌のような心なんだ。いいか、そうれ! こうして、環刀の鞭を揮い、露を飲んで、敵へ向って風のように飛んで行くのだ||。
と
己が気を紛らせようと、全身の力を
罩めて、剣舞のように合戦の仕草をして見せる。
合爾合姫は呆然と見守っている。
成吉思汗 ああ、気が散って駄目だ。なに糞っ! (再び力を入れて、大きく身振りをする)われ成吉思汗の赴くところ、青草の一つ、仔羊の皮だに残さず。われ怒りて、五百尋のところより矢を射らば、五百人の人を倒し、九百尋のところより矢を射らば、九百人の人を斃すべし||。(ふと気づいて、苦笑する)と、まあ、世間では噂しているよ。やあ、お寝み。
子供のように快活に、下手、天幕の出口に坐り、膝を抱く。
成吉思汗 ああ好い月だ。砂漠に照る月の美しさは、旅行者の話に聞いた、遠い東の海とかいうものを思わせる。(長い間)
合爾合姫 (寝台から成吉思汗を見つめながら、半身を起して)成吉思汗! なにしに妾をここへ呼んだのです。
成吉思汗 このおれの心は、誰も知らない。誰も知らない。銀の鱗と騒ぐ斡児桓と塔米児の川波が、知っているばかりだ。うむ? (合爾合の問いに気づき)何のために、あなたをここへ呼んだ? ははははは、それは、朝になればわかるだろう。僕はここで、一晩中あなたをお守りする。成吉思汗を信じて、ゆるゆるお眠みになるがいい。
合爾合姫 おお怖い! この虎をあっちへ連れて行って下さい。でも、砂漠の虎成吉思汗よりも、妾にはこの虎のほうが、まだ安全かも知れませんわね。
成吉思汗 月が照ると、こいつは故郷の山を思いだして、吠えるのです。木華里! 木華里はいないか。
成吉思汗 あはははは、木華里、われわれの結婚の夜の邪魔をするのは、この心ない太陽汗だよ。連れて行ってくれ。
木華里は、長い鞭をふるって虎に近づき、大きく床を打つ。
木華里 さあ、出て失せろ。乃蛮の太陽汗め! (鞭の音唸る。猛虎は怒って、跳びかかりそうな敵意を示す)
成吉思汗 (静かに起って行って)太陽汗! (一白睨みで、虎は穏和しく立ち上り、木華里に続いて天幕の外に去る。月いよいよ照り返る)
成吉思汗 (元の天幕の出入口に帰り、床に坐る)ははははは、この成吉思汗には、あなたに対する私の心中の虎のほうが、あの太陽汗よりどんなに恐しいかしれない。いや、合爾合、なにも怖がることはないよ。
と膝を抱いて、月に見入る。どこからか兵士の
奏でる
胡弓の音が漂ってくる。姫は寝台に身を起して、じっと不思議そうに
成吉思汗を見詰めている。長い沈黙がつづく。咽ぶような胡弓の調べ。舞台一面の青白い月光、やや傾きそめる。
成吉思汗 (ひとり言のように)あれから何年になるかなあ。君あ記憶えているかしら。まだ、僕のおやじ、也速該巴阿禿児が生きているころ、僕の家と君の家は、森ひとつ隔てていたねえ。
成吉思汗 ええと、あの森は何てったっけな||何といったっけね、あの森は?
成吉思汗 あの、ほら、真ん中辺に、こんな大きな樹が三本立ってる森さ。忘れた?
合爾合姫 (素っ気なく)存じません。
成吉思汗 そうかなあ。あの森を忘れたのかなあ。僕あよく覚えてるがなあ。
合爾合姫 (うっかり釣り込まれて、低声に)黒雲の森||。
成吉思汗 (膝を打って)そうそう! 黒雲の森、黒雲の森! あの森の端れに、小川のあったのを思い出さないかい?
成吉思汗 忘れっぽいんだなあ。あの、そら、僕がよく羊の群れを追って、水を飲ませに行った川さ。岸に水草が一ぱい生えて、春さきなんか、ぞっとするほど冷い水だった||月夜の晩は、あの小川が銀の帯のように光って家の窓からよく見えたことを思い出すよ。懐しいなあ。
成吉思汗 (突然笑いこける)ははははは、そうそう、君は手桶を抱えて、よくあの川へ水を汲みに来たものだねえ。そうしたら、いつか、ほら、その桶を川に流してさ||。
合爾合姫 (相手になるまいとつとめながら、つい引き込まれて)桶じゃありませんわ。羊の皮袋でしたわ。
成吉思汗 いや、桶だよ。
合爾合姫 いいえ、羊の皮ぶくろですわ。
成吉思汗 そうだったかしら。なんでもそいつを流れに取られて、君は岸に立ってしくしく泣いていたっけ。あの時、君は十歳ぐらいだったかしら。そうだ、僕はたしか十七の春だったからなあ||あの森も、小川も、きっとまだあのままだろうよ。帰ってみたいなあ。
成吉思汗 思い出したぞ。僕はあの時、川へ飛び込んで、流れてゆく皮袋を拾い上げた||。
合爾合姫 (顔を上げる。頬に涙が光っている)ええ、靴をお穿きになったまんまで||。
成吉思汗 そう! そうしたら、君ったら、ずぶ濡れになった僕が、川から這い上った恰好がおかしいと言って、泪の一ぱい溜まった眼で笑ったよ。いま泣いた烏が、もう笑った、ははははは。
合爾合姫 (いつしか全的に引き入れられて)烏といえば、いつか、妾の家の裏の丘へ、烏の巣を取りに行ったことを覚えてらしって?
成吉思汗 烏の巣? いや、あれは雀の巣だよ。
合爾合姫 あら嫌だ。烏ですわ。あなたったら、烏を追っ払うんだっておっしゃって、お父様の弓を持ち出して||。
成吉思汗 あ、そうだった。烏、烏||あん時あ、父親のやつにひどく怒られちゃってねえ。烏は、蒙古では神聖な鳥だからな。
合爾合姫 (すっかり追憶的に)あれから随分になりますわねえ||こんなこともありましたわ。覚えてらしって? そら、あなたが狩猟においでになって、弟の合撒児さまと御一緒に、妾の父の家へ水を飲みにお寄りになったことがありましたわね。
成吉思汗 そんなことがあった? いつごろだったかしらん。
合爾合姫 あの、ほら、はじめて沙摩魯格土から、隊商の着いた年ですわ。
成吉思汗 うむ、可荅安の砂漠に、珍しい蜃気楼が見えるといって、遠くから見物人が押し寄せた、あの翌年だったね。
合爾合姫 ええ、そう||あの時あなたったら、妾に白樺の杖を作って下さるとおっしゃって||。
成吉思汗 そうそう! 覚えている、おぼえている。夏の暑い日でねえ。いや、猛烈な暑さだったな。合撒児のやつの肩車に乗って、高いところの枝を折ろうとする拍子に、手に棘を刺してねえ。
合爾合姫 ええ、妾が大騒ぎして、母から針を借りて取ってさし上げましたわ。
成吉思汗 その傷あとをなめてくれたじゃあないですか。
合爾合姫 記憶えてらっしゃる?
成吉思汗 (じっと自分の指を凝視める)覚えてるとも。誰が忘れるもんか。あの時、砂漠の向うに沈もうとしていた夕陽の色まで、いま眼の前に見るようだ。
成吉思汗 それから、僕が忘れようとしても忘れることのできないのは、父の也速該巴阿禿児が泰赤宇徒人に攻められた時、あの危急存亡の場合に僕を助けてくれたのは、君だった。羊毛を積んだ車の中に、三日三晩僕を匿って、君がその番をしてくれた||。
合爾合姫 泰赤宇徒の兵隊が、あなたの隠れていらっしゃる羊毛のなかへ、何度も剣を突き刺すので、妾、はらはらしましたわ。
成吉思汗 それより、滑稽だったのは、いくら捜してもいないもんだから、泰赤宇徒の奴らが君の瑣児肝失喇の荘園を出て行ってからさ。やっと車から這い出して、いや、食べた、食べた。なにしろ、三日目に食い物にありついたんだからねえ。まったく、あの時の羊の肉は美味かったなあ。今でも忘れないよ。
合爾合姫 ええ、そうそう。あなたったら、いくらでも召し上るんですもの。妾、お腹がどうかなりはしないかと思って、ずいぶん心配しましたわ、ほほほほほ。
成吉思汗 あ、笑った! あ、笑った! 合爾合が笑った。とうとう合爾合を笑わせたぞ、あははははは。(ふと心づいて冷静に月を仰ぐ)ふむ、おれはいったい何を言っているんだ。ああ、向うの山の端が、かすかに白みかけて来たぞ。今日はあの峠を越えて、乃蛮国へ攻め入るのだ。都の和林を出てから、もう二月あまりの旅だ。人も馬も、すこしの疲れも知らない。ありがたいことだ||うむ、そうだ。陣中日記でもつけるとしよう。
と呟きつつ、軍装の内懐から一冊の帳面を出し、月の光りで、いつまでも黙って読み耽っている。追憶で感傷的になった
合爾合姫の
涕泣きが高まる。
成吉思汗は何も耳に入らないように、一心に読みつづける。長い長い間。
合爾合姫は、
懼れていたこともなく夜が明けたので、ようやく
成吉思汗の意を悟り、静かな泣き声を放って寝台に伏す。月はすっかり落ち、もう砂漠の彼方に、早い蒙古の朝ぼらけが動き初める。今まで一望の砂原と見えたあたりに、
斡児桓の川水が光って見えはじめる。
成吉思汗 (ふと暁の色に気づくが、振り返りもせずに)ああ、夜が明ける。乃蛮征伐第一の朝だ。ああ愉快だ。合爾合、おれは昔の羊飼いに返って、羊の群れを番するように、一晩君の身体を守り通したのだ。
合爾合姫 (寝台に起き上り)成吉思汗さま! あなたの真意は、よく解りました。それほどの深いお心とも知らず、妾はあなたを刺すつもりで||。(と懐中の匕首を抜き放ち、己が胸に突き立てようとする)
成吉思汗 (駈け寄ってそれを叩き落す)何をする! 君が死んでは、僕の志は無になる。さあ、朝になった。いま木華里に送らせますから、どうぞ、城中へお引き取り下さい。
合爾合姫 (じっと成吉思汗を凝視めて)妾の心が、恥かしゅうございます。いえ、良人札木合のあなたに対する気持ちも、恥かしゅうございます。
成吉思汗 いや、そう言われると、こっちが弱る。おれこそ恥かしい。白状するが、おれは初めは、決して君を清く帰すつもりではなかったのだ。が、この天幕で二人きりになってみると、おれは、自分がもっと大きくならなければならないことを知った。いや、このおれは、もっと大きな人間であることを発見したのだ。おれにそれを教えてくれたのは、合爾合、あなただ。僕はその点で、あなたに感謝する。木華里! 木華里! (戸口に木華里があらわれる)合爾合姫を城へお送り申せ。
木華里 はっ。
合爾合姫 (今さらのように、懐かしそうに心を残し、別離を惜しむ)それでは、どうぞ御無事で乃蛮を御征伐下さいませ。もう二度とお眼にかかることもございますまい。陰ながら御成功をお祈り申しております。
成吉思汗 (追おうとするのをぐっと堪えているが、必らず戸口まで走って)合爾合! 達者で暮らせ。札木合によろしくとな。(じっと見送る。長い間。やがて快活な独り語)ああ、これでよかった。これでさっぱりとした。これで、おれの胸は晴れた。さあ、阿納、客魯漣、宇児土砂の三つの河の流域をわが手に収めて、和林へ凱旋するだけだ。今日はその覇業の第一日だぞ。おい! 乃蛮の太陽汗先生! 出て来い! (虎を呼ぶ)
舞台一ぱいに、眼の眩むような金色の朝日。美しい朝だ。声に応じて猛虎が走り込んでくる。
成吉思汗は嬉しくてたまらなさそうに、その虎の耳を掴んで、頬を平手打ちにする。
成吉思汗 (虎へ)どうだ、えらいだろう、おれは! はははははは、いい気持ちだなあ。さっぱりしたなあ。どうでえ、恐れ入ったろう、はっはっは。
と虎の口へ拳固を押し込んだりなどする。巨大な虎が猫のごとく
成吉思汗に跳びつく。
成吉思汗は絶えず呵々大笑しながら、上になり下になり、虎と一しょに天幕狭しと転げ廻る。幼児のように猛虎とじゃれる。長老
哲別が駈けこんで来る。
哲別 おお、太陽汗はここに||。
成吉思汗 (虎の下になって戯れつつ、仰向けに寝たまま)おい、親! いい天気だなあ。でかけようじゃねえか。すこしは気持ちのいい戦争もさせてくれよ。
哲別 合爾合姫は?
成吉思汗 もう帰ったよ。
哲別 それでは、いよいよ乃蛮国へ||。
成吉思汗 (がばと撥ね起る)うむ、進発だ!
哲別 はっ。
と一隅から銅鑼を持ち出し、天幕の入口に立って
とうとうと打ち鳴らす。天幕の外、にわかに騒然とし、武器の音、軍馬のいななき、蹄の響き、蒙古犬の吠え声。弟
合撒児を先頭に、
忽必来、
速不台、小姓
巴剌帖木、その他参謀等多勢、
厳しき武装にて馳せ入り、
成吉思汗の前に整列する。同時に、兵卒ら多勢走り廻って、ばたばたと天幕を畳めば、
斡児桓河の向うに、抗愛山脈が旭に光り、舞台一面の広場となる。
成吉思汗 (小姓のすすめる兜を被り、鎧の胴を締め、手早く軍装を凝らしつつ)さあ、今日は抗愛山脈だぞ。貴様たち、腕が鳴るだろう。(一種の点呼)合撒児の手は、十本の指がみな毒蛇、哲別の白髪は針鼠、忽必来の胸は鉄の楯だ。速不台の脚は、千里を往く牡鹿のそれと、敵の陣中で評判しているぞ。今日こそは、ちっとは軍らしい軍が出来そうだ。
汪克児 (人の脚の間から顔を出して)大将! あっしを忘れるってのあねえぜ。
成吉思汗 うむ、芋虫がいたな。ははははは、貴様の瘤は、駱駝も顔負けだ。
一同爆笑。
成吉思汗の白馬が
者勒瑪に引かれて来る。
成吉思汗は無造作に飛び乗る。
喨々たる喇叭の音起る。舞台全面の軍勢、勇み立つ。
成吉思汗 (馬上に剣を引き抜き進軍!)
騒然たる物音の中に、猛虎の
長嘯。
汪克児が何度も馬から転げ落ちている。幕。
第三幕 第一場
札荅蘭城、城門の景。砂漠のなかに濠をめぐらし、高い石垣を築き、石を積み上げたる厳重な城門の前。同じ時刻。
序幕第一場の避難民多勢、首を伸ばしてはるか彼方の
成吉思汗軍の屯営のほうを見守っている。
男一 とうとう昨夜、合爾合さまはお帰りにならなかったようだな。
男二 おれたち部落の者の身代りになって下すったのだ。お痛わしいことだ。
女一 あのお優しい奥方様が、恐しい成吉思汗の陣屋で、どんな目にお遭いなされたかと思うと||。
男三 札木合の殿様は、もう気違いのようになっている。おお、ここまで、殿様のどなり叫ぶ声が聞えて来るようだ。
男四 しかし、殿様の御心中を察すると、それも無理がないなあ。
男五 軍には負ける。奥方まで奪られるじゃあ、まったく、浮かぶ瀬がないよ。
女二 (遠くを指さして)あれあれ! 成吉思汗軍では、にわかに天幕を取り毀しましたわ。急に出発するんでしょうか。
男六 おお、ほんとだ! いよいよこの城の囲みを解いて、乃蛮へ攻め入るものとみえる。
男一 おう! するとわれわれは助かった!
女三 え? ほんとに助かりましたのでございますか。ああありがたい! ありがたい||!
躍り上る群集。皆みな抱き合って狂喜する。感極まって嬉し泣きに泣く者もある。
男七 あ! 合爾合姫がやって来られる。おお、あすこに、あの大男に伴れられて帰って来るのは、合爾合姫ではないか。
男二 そうだ。奥方だ。おや! 大男はあそこで別れて、一人で引っ返して行くぞ。うむ、お城の近くまで送って来たのだな。
避難民ら口々に、「
合爾合姫だ!」「われわれの命の恩人だ。」「
札荅蘭族の根絶やしを救って下すったお方だ!」と叫ぶ時、城門より、城主の弟
台察児が血相を変えて出て来る。
台察児 なに、嫂上がお帰りになったと? 兄上の気持ちも察せずに、賢しら立てに勝手なことをして、一夜を敵将の陣営に送り、ちぇっ! どんな顔をして戻って来るか。いや、その面がみたいものだ。
合爾合姫が下手より、夢遊病者のように現れ、群集をも意識しないふうで、そのまま城門へはいろうとする。その、憑きものでもしたような様子に、一同唖然として、無言で道を開く。
台察児 (いきなり合爾合の腕を掴んで)嫂上! よくも思いきって、こんな汚らわしいことをなされましたな。どの面下げて帰って来られた。さ、兄上がお待ちかねだ。
と遮二無二引きずって城中へ拉し去る。避難民の群れは、感謝の心を現すべく、われがちに、手に手に
合爾合姫の袖、裳裾などを押し戴きながら続く。入れ違いに城門より、従者に荷物を担がせた金の商人、および、
花剌子模の
[#「花剌子模の」は底本では「花剌子模の」]回々教伝道師、転がるように走り出て来る。
商人 (城内を振り返って)お痛わしいことだ。あの方のお陰で、われわれ一同命拾いをしたのだが、さて、奥方様のお身は、どうなることやら||。
従者 人のことなど構ってはいられませぬ。一月振りに城を出ることができた。早く隣り村まで行って、何か食い物にありつかねばならぬ。ああひどい目に遭った。もう蒙古の旅はこりごりだ。
僧侶 戦いの捲き添いを食って、悪夢のような一月を送りましたなあ。いや、荒天をくらった乗合い舟、これも、後で思えば、一生の語り草です。またお眼にかかることがあるかどうか、お達者に||。
と商人主従に挨拶し、城を振り返りつつ立ち退く。商人主従は会釈をかえすのも忘れ、促し合って、ほうほうの体で逃げ去る。幕。
第三幕 第二場
序幕第二場と同じ、城中本丸の広間。すべて前出の通り。一夜寝もやらず、室内を歩き廻って明かした城主
札木合が、髪を掻きむしり、腰の大刀を揺すぶって、物凄い顔で往きつ戻りつしている。侍女二三、隅に
集まって恐怖に震えている。
台察児の声 (正面露台の上手より、近づく)こらっ! 貴様らは何しに後について来るのだ。乞食ども! ぶった斬るぞ。
と避難民を追い散らしつつ、
合爾合姫を引っ立てて入って来る。
合爾合姫は昂然と面を上げて、良人
札木合の前に立つ。侍女ら、「ああ、奥方様!」と走り寄ろうとするが、「彼方へ行け」との
台察児の険しい眼くばせに驚き怖れ、そそくさと室外に去る。
札木合 (合爾合を白睨みながら)台察児、お前はあっちへ行っておれ。
台察児は露台上手へはいる。
合爾合は首垂れている。間。
札木合 (後退りしつつ狂的に)何しに帰って来た、合爾合、何しに帰って来たのだ。貴様、よくそうやっておれの前に立てるな。もう貴様は、昨日までの貴様ではない。敵将成吉思汗に||。(蒼白に顫えつつ)これ、合爾合、おれの心も知らずに、よくもこんな差出がましいことをしてくれたな。貴様は、城の身替りに立ったという喜び、城下の百姓町人どもの犠牲になったという心の慰めがあるだろうが、おれは、こ、このおれは||えいっ! 何とか言え! 何とか言わぬかっ!
合爾合の肩を掴んで揺すぶるが、はっと気づいてその手を放す。
札木合 (ヒステリックに)えいっ、汚らわしい! そ、その肩を成吉思汗めが抱いたのか||ああ、おれは||妻の身体で敵に許しを乞うた、こ、このおれの苦しさは、ど、どこへ持って行けばいいのだっ!
合爾合姫 (冷やかに)誤解でございます。いかにも、妾は成吉思汗の陣屋に一夜を明かしはいたしましたけれど、あの人は妾に、指一本触れませんでした。
札木合 なに、指一本触れなかった? 指一本ふれなかった? ははははは、だ、誰がそんなことを信じるものか。これ、合爾合! 城も民も何もかも失っても、わしにはお前があると思っていたのに、軍には負け、お前まで辱しめられて||ああ、おれはどうすればいいのだ!
合爾合姫 (必死に)どうぞお聞き下さいまし。妾の申し上げることを、お信じ下さいまし。成吉思汗は妾を、敵将の妻として、厚く礼遇してくれましただけで、ほんとうに何事もございませんでした。
札木合 (合爾合を突き退けて)姦婦!
合爾合姫 (冷笑)まあ、何をおっしゃいます。たかが女一人のことで、一城の主ともあろう方が、そんなに取り乱されるとは、ちと見苦しくはございませんか。
札木合 ええい、言うな、姦婦! おれは貴様に、死に勝る苦しみを味わされたのだぞ。うぬ、そこ動くなっ!
合爾合姫 あれ、あなた、狂気されましたか。そのようなお心では、こうして成吉思汗のために打ち負かされるのも当り前、ああ情ない||。
札木合 ええい、乱心でもよい。狂気でもよい。なに? なに? うむ、わかった! 貴様なんだな、成吉思汗を想っていたな。いや、きゃつを慕っているな。あっ、そうだ! 貴様、前から、昨夜のような機会を待っていたのだろう。(嫉妬に狂って)さあ、言え。成吉思汗を思っているか、成吉思汗を恋しているか、言え! 言え! 言わぬか。おのれ、これでもかっ! (やにわにばっさり斬りつける)
合爾合姫 (深傷を押さえてよろめきながら、夢みるような顔。間)||成吉思汗!
札木合 何いっ||!
また一刀を浴びせる。
合爾合はにっこり笑って落入る。
札木合は呆然と妻の屍を見下ろして立つ時、遠く進軍
喇叭の音が起り、開城を喜ぶ部落民のどよめきが湧く。露台のはるか向うの山間に、白い旗が小さく揺れながら、長くつづいて登って行くのが望見される。
札木合は魂を落したように、ふらふらと立っている。
台察児駈け入って来る。
台察児 兄上! ただいま成吉思汗が、不敵にも、単身城へ乗り込んでまいりました。(合爾合の死骸に気づき)おお! 兄上! 嫂上をお手討ちに||!
札木合 なに? 成吉思汗が? (と勢い込んで)この上おれを嘲弄しようというのか。よし!
台察児 兄上、嫂上の仇です。畜生! 膾に刻んでやる!
と
台察児、露台の上手へ向って剣を振り、合図する。槍、抜刀を携えたる城兵五、六人、そっと出て来て、露台の中仕切りの陰に潜み、伏兵となる。
札木合と
台察児は、あわただしく眼で相談し合い、その中仕切りに懸けてある旗を取って、
合爾合の死体を覆い、またその上に王座の後ろの丈高き二枚折りの刺繍屏風を持ち来って横ざまに被せ、屍骸を隠す。そうして、両人気を配って待つところへ、下手の扉より、総大将の武装美々しき
成吉思汗、微笑を含んで足早やにはいって来る。
成吉思汗 (快活に)やあ、札木合。長い間虐めてすまなかったな、ははははは。おれは君に、どうしても告白しなければならないことがあって、途中から単騎、馬を飛ばして引き返して来たのだ。
札木合 ううむ、こんなにおれを踏み潰しても、なお飽きたらず、まだこの上に、おれの顔へ唾を吐きかけようというのか。面と向って嗤おうというのか。さ、嗤え! さ、笑ってくれ! (詰め寄る)
台察児は刀の鯉口を切り、隙あらば斬りつけんと身構える。
成吉思汗 (平然と)おれこそ君に、嗤ってもらおうと思って来たのだ。この顔に、唾を吐きかけてもらおうと思って来たのだ。おれの話を一通り聞いてから、どんなにでも笑ってくれ||まあ、聞け。この一と月の間、守る君も苦しかったろうが、攻めるおれも辛かったぞ。城中の窮乏ぶりが伝わってくるにつけて、おれは、身を切られるような思いをした。この城を囲むのは、初めから、おれの真意ではなかったのだ。まっすぐ乃蛮へ攻め入りたかったのだが、四天王をはじめ部下のやつらは、きっとこのおれが、昔の合爾合姫のことを根に持って、君に恨みを懐いているだろうと思い、まず、この札荅蘭城を屠ろうと言って肯かないのだ。おれも神様じゃあなかった。その家来たちの忠義立てを利用して、何年かの長い間、おれの胸の底に灼きついていた合爾合への恋を果そうとした。それが昨夜の、あの降伏の勧告だ。(自分を責め、蔑むように、強く)敵将の妻を、一夜貸せという||。(ぴたりと札木合の前に坐って、男らしく両手を突く)札木合っ! 悪かった! 許してくれ! おれは昨夜、月の洩る天幕の中で、良人のため、民のため、身を捨てて氷のように冷たくなっている、あの合爾合の||あの合爾合の眼を見た時、おれという人間が、この成吉思汗という男が、泥草鞋のように汚く見えたのだ。毛虫のように醜く見えたのだ。(心からの声)神のように崇高い合爾合の心と身体に、どうしてこのおれが、指一本さすことができようか||。(間)あの抗愛山脈の肩に、ぽうっと暁の色が動き初めると同時に、おれの心にも、夜が明けた。おれは合爾合に負けた。札木合! 君は幸福な男だ。合爾合のような立派な女を妻に持っているとは、(こころの底から)おれはほんとうに羨ましいぞ。
札木合と
台察児は、うなだれて聴き入っている。
成吉思汗 札木合! このまま行ってしまうことは、おれにはどうしてもできなかった。おれは、君の前に、こうして、手を突いて、心の底から謝罪りに来たのだ。どうか、許してくれ。な、どうか許してくれ。
成吉思汗 (朗かに起ち上って)ああ、これでさっぱりした。身体中の汚れを洗い流したような気がする。(友達に対するように、無邪気に)では、札木合、乃蛮をやっつけて、帰りにはきっと寄るよ。その時は、合爾合と二人揃って、おれをうんと御馳走してくれよ。きっとだよ。じゃ、さいならっ!
少年のように、気軽に行こうとする。
札木合の手から、ばたんと
抜刀が落ちる。
札木合 (喘いで)成吉思汗! 待ってくれ!
成吉思汗 何だ。何か用かい? (軽く引っ返して来る)
札木合はたまらず駈け寄り、
成吉思汗の腕を握り、涙の無言で屍骸の傍へ引っ張ってくる。そして、手早く、死体を隠してある屏風を
除る。旗で覆った
合爾合姫の屍が現れる。
札木合 成吉思汗! 見てやってくれ!
成吉思汗は
跪いて、静かに旗を取る。愕く。
札木合 (崩折れて、断腸の思い入れ)おれは、おれは、なんという愚か者だ! おれは、おれの手で、掛け換えのない珠玉を壊してしまったのだ||。(と突っ伏す)
成吉思汗 (ぐっと起つ。悵然と屍骸を見下ろして、長い間)合爾合は死んだ。合爾合を殺したのは||成吉思汗の向うところ、砂漠の風さえ避けて通るに、この一輪の散る花を、人間の力では止め得なかったか||夢だ、砂漠の夢だ||。
台察児は居崩れて、
嫂に弔意を表する。
喇叭の音は刻々遠のき、消えんとしている。露台の外、遙かなる抗愛山脈の山峡に、
成吉思汗軍の白い旗印が九本、ひらひら
靡いて登って行くのが小さく見える。幕。