ほうっとする程長い白浜の先は、また目も届かぬ海が揺れてゐる。其波の青色の末が、
自づと
伸し上る様になつて、頭の上まで拡がつて来てゐる空だ。其が又、ふり
顧ると、地平をくぎる山の外線の、立ち塞つてゐる処まで続いてゐる。四顧俯仰して目に入るものは、此だけである。日が照る程風の吹くほど、寂しい天地であつた。さうした無聊な目を

らせる物は、忘れた時分にひよつくりと、波と空との間から生れて来る
||誇張なしに
||鳥と紛れさうな
刳り舟の姿である。遠目には磯の岩かと思はれる家の屋根が、ひとかたまりづゝ、ぽっつりと置き忘られてゐる。琉球の島々には、行つても/\、こんな島ばかりが多かつた。
我々の血の本筋になつた先祖は、多分かうした島の生活を経て来たものと思はれる。だから、此国土の上の生活が始つても、まだ
万葉人までは、生の空虚を叫ばなかつた。「つれ/″\」「さう/″\しさ」其が全内容になつてゐた、祖先の生活であつたのだ。こんなのが、人間の一生だと思ひつめて疑はなかつた。又さうした考へで、ちよつと見当の立たない程長い国家以前の、先祖の邑落の生活が続けられて来たのには、大きに謂はれがある。去年も今年も、又来年も、恐らくは死ぬる日まで繰り返される生活が、此だと考へ出した日には、たまるまい。
郵便船さへ月に一度来ぬ勝ちであり、島の木精がまだ一度も、巡査の
さあべるの音を口まねた様な事のない処、
巫女や
郷巫などが依然、
女君の権力を持つてゐる
離島では、どうかすればまだ、さうした古代が遺つてゐる。稀には、那覇の都にゐた為、生き
詮なさを知つて、青い顔して戻つて来る若者なども、波と空と沙原との故郷に、寝返りを打つて居ると、いつか屈托など言ふ贅沢な
語は、けろりと忘れてしまふ。我々の先祖の村住ひも、正に其とほりであつた。村には歴史がなかつた。過去を考へぬ人たちが、来年・再来年を予想した筈はない。先祖の村々で、予め考へる事の出来る時間があるとしたら、
作事はじめの初春から
穫り
納れに到る一年の間であつた。昨年以前を意味する「こそ」と言ふ語は、昨日以前を示す「きそ」から、後代分化して来たのであつた。
後年だから、仮字遣ひは
おとゝしと、合理論者がきめた一昨年も、ほんとうはさうでない。
をとゝしの「をと」には、中に介在するものを越した彼方を意味する「をち」と言ふ語が含まれてゐるのだ。去年の向うになつてゐる前年の義で「
彼年」である。一つ宛隔てゝ、同じ状態が来ると言ふ考へ方が、邑落生活に稍歴史観が現れかける時になつて、著しく見えて来る。祖父と子が同じ者であり、父と孫との生活は繰り返しであると言ふ信仰のあつた事は、疑ふことの出来ぬ事実だ。ひよつとすると、其頃になつて、暦の考へが此様に進んで来たのかも知れぬ。
去年と
今年とを対立させて居たのである。其違つた条件で進む二つの年が、常に交替するものとしてゐたと言うても、よさゝうである。此暦法の型で行けば、
ことしと
をとゝしの
こそのとしは、
をとゝし先の年(万葉)のくり返しである。完全に来年・再来年を表す古語の、出来ずじまひにすんだ古代にも、段々、今年のくり返しは再来年、来年は去年の状態が反覆せられるものとの考へが、出て来てゐたかと思ふ。
其が又、一年の中にも、二つの年の型を入れて来た。国家以後の考へ方と思ふが、一年を二つに分ける風が出来た。此は帰化外人・先住漢人などの信仰伝承が、さうした傾向を助長させたらしい。つまり中元の時期を界にして、年を二つに分ける考へである。第一に「大祓へ」が、六月と十二月の
晦日に行はれる様になつたのに目をつけてほしい。遠い海の彼方なる
常世の国に鎮る村の元祖以来の霊の、村へ戻つて来るのが、年改まる春の
しるしであつた。
其が後には、仏説を習合して、七月の盂蘭盆を主とする様になつた。だが、其以前から既に、秋の
御霊迎へは、本来の春の
霊祭りに対照して、考へ出されてゐたのであつた。常世神の来訪を忘れて了ふ様になると、春来る
御霊は
歳神・
歳徳様など言ふ、日本陰陽道特有の廻り神になつて了うた。さうして肝腎の霊祭りは秋が本式らしくなつた。坊様に、棚経を読んで貰はねば納らぬ、と言つた仏法式の姿をとつて行つた。
極の近代まであつた、不景気の世なほしに、秋に再び門松を立てたり、餅を搗いたりした二度正月の風習は、笑ひ切れない人間苦の現れである。が、此とて由来は古いのである。
ことし型の暦はわるかつたから、
こそ型の暦で行かうと言ふのである。
だが、其一つ前の暦は
ことしだけであつた。さう言ふ一年より外に、回顧も予期もなかつた邑落生活の記念が、国家時代まで、又更に近代まで、どういふ有様に残つてゐたかを話したい。
鹿島の
言触れも春の予言に歩かなくなり、三島暦の板木も、博物館物になりさうになつて了うた世の中である。神宮司庁の
大麻暦さへ忘れた様な古暦のくり
言も、地震の年をゆり返した様な寂しい春のつれ/″\を、も一つ
飜して、常世の国の初だよりの吉兆を言ひ立てる事になるかも知れない。
洋中の孤島に渡らずとも、おなじ「つれ/″\」は、沖縄本島にも充ち満ちてゐる。首里王朝盛時なら、生きながら
髯長矯風大主とでも、今頃は神名を島人から受けて居さうな、島のわが親友は、島の朋党からけぶたがられて、東京へ出て来た。あんな恩知らずの人々の為に、其でも懲りずに、まだ書いてゐる。先年出版した「孤島苦の琉球」なども、千何百年を所在なく暮した島人の吐息を、一人で一返に吐き出した様な、勝ち方の国の我々をさへ、寂しがらせる書物である。首里宮廷の勢力の強く及んだ島尻・中頭は其でもよかつた。君主の根じろであつた島の北部
国頭郡には、やはり伝来の「さう/″\しさ」が充ちてゐて、今ではそろ/\
はけ口を探し出してゐる。さうした海岸の村々を歩いて、ぞつとさせられた。孤島苦が人間の姿を仮りて出た様な、いぶせくいたましい老人の倦い眦に遭うた時の気持ちである。山多きが故に
山原で通つてゐる国頭郡の山中には、新暦の正月に赤い桜が咲くさうである。私は二度まで国頭の地を踏んだが、いつも東京でさへ暑い盛りの時ばかりであつた。一度は、緋桜の花の、熱帯性の
濶葉の緑の木の間から、あはれに匂うてゐる様が見たいとは、思うたばかりで縁がない。其桜は
日本旅の家づとに、昔誰かゞ持ち還つたものか。元々島の根生ひであつたか。其側の学者には、既に訣つてゐる事かも知れぬ。
加納諸平の「鰒玉集」には、島の貴族の作つた
やまと歌が載つてゐる。薩摩の八田氏などから供給せられた材料であらう。其頃からもう、伊勢物語をなぞつた様な、島の貴族の自叙伝も出来てゐた。源氏や古今や万葉も、手に触れた人は尠くなかつた。国の古蹟・家の由緒を語る
碑文の平仮名が、正確で弾力のない御家流である如く、島人の倭文・倭歌は、つれ/″\の結晶かと思はれる程、類型の重くるしさを湛へてゐる。島の孤島苦の目醒めには、島津氏などのやり方が、大分原因になつてゐる。やまと人と言へば薩摩者。こはらしい人ばかりの様に想像せられても、やつぱり何か心惹くものがあつたらう。
おもろ草紙の古語にも、生きた首里の
内裏語にも、
やまとの古い語が、到る処に交りこんでゐた。首里宮廷の巫女の伝へた古詞には、島渡りして来た山城の都の
御曹司の俤が語られた。島々は島々で、遠い海を越えて来たと言ふ
何もりの神なる平家の
公達を思はせる名の神が多かつた。弓張月以前にも、舜天王の父を、此山城の都から来た貴公子にする考への動いてゐたことは察せられる。古く岐れた一つ流れの民族であつた事は忘れても、又かうした新しい因縁を考へねばならぬ程、深い血筋の自覚があつたのである。尤、孤島苦が生み出したいぶせい事大主義からも、さうはなつたであらうが。問題は其よりも根本的のものであつた。
島の木立ちに、
仮令忘れた様にでも、桜の花がまじり咲いた。かうした現実が、歌や物語や、江戸貢進使の上り・下りの海道談に、夢想を
走せ勝ちの
やまとの、茲も血を承けた、強い証拠らしい気を起させたであらう。問ひつめれば、理にもならぬはかない花の姿が、気持ちの上には実証的な力を以て迫つたでもあらう。歌に詠まれた
ましらの影は見られずとも、妻恋ふる鹿は、現に居た。西の
海中の
離島の一つには「かひよ/\」の声も聞かれる。島にも、優美な歌枕がある。かうしたことが、なんぼう張り合ひになつたことか。
やまとの人の誇り書きにする「ものゝあはれ」は島人も知つてゐる。かうした事からこみあげて来る親しみ心は、島人の所謂「他府県人」なる我々にも、
凡想像はつく。
此頃になつて、又一つの島人の誇りが殖えて来た。鮎と言ふ魚は、日本の版図以外には棲まぬものである。其南部だけに、此魚の溯る川ある樺太も、だから、日本の領土になつた。かう言ふ噂が伝つて来たところが、沖縄にも唯一个処ながら鮎の棲む川があつた。宿命的にいや、血族的に
やまと人たる証拠に違ひない。かうした考へが起るに連れて、支那と薩摩を両天秤にかけた頃のくすんだ気持ちは、段々とり払はれて行く様である。
其の鮎の獲れる場処と言ふのは、
国頭海道の難処、源河の里の水辺である。里の処女の姿や、
情を謡ふ事が命の琉球の民謡には、村の若者のとりとめぬやるせなさの沁み出たものが多い。
東京へ引き出しても、
不覚はとらなかつた筈の琉球学者末吉安恭さんは、島の旧伝承の生きた大きな庫であつた。さうして、私たちが、幾らも其知識を惹き出さない間に、那覇の入り江から
彼岸浄土の
大主神が呼びとつて了うた。
源河奔川や、水か。湯か。
潮か。
源河
女童の
御すぢどころ(源河節)
此源河節に対する疑問などは、私にとつて、此学者の
記念になつた。
私は其前年かに、宮古島から戻つて来て、今大阪外国語学校に居る
にこらい・ねふすきいさんから、一つの好意に充ちた抗議を受けてゐた。私の旧著万葉集辞典と言ふのは、今では人に噂せられるさへ、肩身の窄まる思ひのする恥しい本である。其中に「
変若水」と言ふ万葉の用語に関した解釈を書いてゐた。万葉に「
月読の
持たる
変若水」と言ふ語がある。此月読神は恐らく山城綴城郡の月神で、帰化漢人の祀つたものゝ事であらうと言ふ推定から、此変若水の思想は、其等帰化人の将来した信仰が拡つたものであらうと言ふ仮説を立てゝゐた。ちようど神仙説の盛んに行はれ、仙術修行に執心する者の多かつた時代の事だから、と言ふので、不老不死泉の変形だらうと感じたことを書いた。ところが、
ねふすきいさんはかう言うた。
宮古方言
しぢゆん||日本式に言ふと、
しでる||は、若返ると言ふのが、其正しい用語例である。沖縄諸島の真の初春に当る清明節の朝汲んだ水は、神聖視せられてゐる。ある地方では「
節の
若水」と言ひ、ある処では「
節のしぢ水」と称へてゐる。言ふまでもなく、日本の正月の若水だ。かうした信仰の残つてゐる以上は、支那起原説はあぶない。此、日本人の細かい感情の隈まで知つた異人は、日本の民間伝承は何でも、固有の信仰の変態だと説きたがる私の癖を知り過ぎてゐた。極めて稀に、うつかり発表した外来起原説を嗤ふ事が、強情な国粋家の心魂に徹する効果をあげる事を知つてゐた。さうして皮肉らしい笑ひで、私を見た。さういふ茶目吉さんだつた。其から年数がたつてゐるので、大分私の考へが這入つて来てゐるかも知れぬ。が大体かうした心切で、且痛い注意であつた。
なんでも月がまつ白に照つて、ある旧王族の
御殿だつたとか言ふ其屋敷の石垣の外に、うら声を曳く若い男の謡が、替る/″\聞える夜であつた。首里の川平朝令さんの家へ、末吉さんと二人で、およばれに行つてゐた。
しぢゆんは卵の孵ることだから、お尋ねの「節の若水」の
しぢゆんとは別かも知れぬ。私は源河節にある「おすぢどころ」を永く疑うてゐたが、其
すぢと一つで、洗ふ事ではあるまいか。水浴することも、手足を洗ふことも一つだから、首里などでも、以前は言うた語である。かう話された時、
『末吉さん。此間も聞いたよ。
中城御殿||旧王家の
女性たちの残り住んで居られる、今の尚家の首里邸
||へ此人を案内した時も、手水盥に水を汲んで「御すぢみしようれ(みしようれ=ませ)」と言うたつけ。』
かう川平さんも、口を挿んだ。私は、残念でも
ねふすきいさんの説が、段々確かになつて来るのを感じた。
『お二人さん。私の考へはかうです。今のお話で、
しぢゆんに二義ある事が知れました。孵る義と、沐浴に関する義とです。此は一つの原義から出たので、やつぱり先から言うてゐる「若がへる」と言ふ事に帰するのでせう。清明節に若水を国王に進める時に言うた語で「若がへりませ」の義であつた。其が、水をまゐらせる時のきまり文句として、常の朝の手水にも申し上げた。いつか「若やぎ遊ばせ」位の軽い意にとられて、国王以外の人々にも、鄭重な感じを以て言はれる様になつて「顔手足をお洗ひなさい」の古風な言ひまはしと考へられてゐるのです。教へて頂いた源河節なども、清明節の
浜下り・川下りの風から出た歌で、節の水で身禊ぎをする村人の群れに、娘たちもまじつた。其を窺ひ見たがる若者の心持ちなのでせう。清明節以外の祭りの日にも、川下りしたり、水浴びをしたかも知れない。ともかくやはり「若やぐ(若がへるよりも軽い意で)様に」との水浴びで、唯の「洗ふ」「浄める」ではありますまい。』
こんな話などをして那覇の宿へ引きとつた。其後四五日経つて、先島の方へ出掛けた。宮古島でもやはり孵る事らしい。八重山の
四箇では、孵るのにも言ふが、蛇や蟹の皮を
蛻ぐ事にも用ゐられてゐる。此島には、物識りが多かつた。気象台の岩崎卓爾翁は固より、喜舎場永

氏其他が申し合せた様に証歌をあげて説かれた。「やくぢゃま節」などにある「
まれる(=うまれる)かい、
すでる(=しぢる)かい」の
すでるは、
まれるの対句だから、やはり「生れる甲斐」である。
しぢゆんの孵るも、実は生れるといふ義から出たのだ。かう言ふ主張は、四五人から聞いた。
此島出の最初の文学士で、琉球諸島方言の採訪と研究とに一生を捧げる決心の宮良当壮君の「採訪南島語彙稿」の「孵る」の条を見ると、凡琉球らしい色合ひのある島と言ふ島は、道の島々・沖縄諸島・先島列島を通じて、大抵
しぢゆん・
しぢるん・
すでゆんなどに近い形で、一般に使はれてゐる事が知れる。謂はゞ沖縄の標準語である。宮良君の苦労によつて訣つた事は、
しぢゆんが唯の「生れる」ことでないらしい事である。今度、宮良君が島々を歩く時には、「若返る」「沐浴する」「禊する」などに当る方言を集めて来てくれる様に頼まう。
清明節の
しぢ水に、死んだ蛇がはまつたら、生き還つて這ひ去つた。其が
しぢ水の威力を知つた初めだと説くのが、先島一帯の若水の起原説明らしい。此語は其以前
ねふすきいさんも、宮古・離島に採訪して来た様である。ある種の動物には
すでると言ふ生れ方がある。蛇や鳥の様に、死んだ様な静止を続けた物の中から、又新しい生命の強い活動が始まる事である。生れ出た後を見ると、卵があり、殻がある。だから、かうした生れ方を、母胎から出る「生れる」と区別して、琉球語では
すでると言うたのである。気さくな帰依府びとは、
しぢ水とも若水とも言ふから、
すでる・
しぢゆんに若返ると言ふ義のある事を考へたのである。さう説ける用例の、本島にもあつたことを述べた。
さう説くのが早道でもあり、ある点まで同じ事だが、論理上に可なりの飛躍があつた。
すでるは母胎を経ない誕生であつたのだ。或は死からの誕生(復活)とも言へるであらう。又は、ある容れ物からの出現とも言はれよう。
しぢ水は誕生が母胎によらぬ物には、実は関係のないもので、清明節の若水の起原説明の混乱から出てゐる事を指摘したのは、此為である。
すでることのない人間が、此によつて
すでる力を享けようとするのである。
なぜ、
すでることを願うたか。どうしてまた、此から言ふ様に、
すでる能力のある人間が間々あつて、其が人間中の君主・英傑に限つてあることなのか。此説明は若水の起原のみか、日・琉古代霊魂崇拝の解説にもなり、其上、暦法の問題・祝詞の根本精神・日本思想成立の根柢に
横つた統一原理の発見にもなるのである。
すでると言ふ語には、前提としてある期間の休息を伴うてゐる。植物で言ふと枯死の冬の後、春の枝葉がさし、花が咲いて、皆去年より太く、大きく、豊かにさへなつて来る。此週期的の死は、更に大きな生の為にあつた。春から冬まで来て、野山の草木の一生は終る。翌年復春から冬までの一生がある。前の一年と後の一年とは互に無関係である。冬の枯死は、さうした全然違つた世界に入る為の準備期間だとも言へる。
だが、かうした考へ方は、北方から来た先祖の中には強く動いてゐても、若水を伝承した南方種の祖先には、結論はおなじでも、直接の原因にはなつてゐない。動物の例を見れば、もつと明らかに此事実が訣る。殊に熱帯を経て来たものとすれば、一層動物の生活の推移の観察が行き届いてゐる筈だ。蛇でも鳥でも、元の殻には収まりきらぬ大きさになつて、皮や卵殻を破つて出る。我々から見れば、皮を蛻ぐまでの間は、一種の
ねむりの時期であつて、卵は誕生である。日・琉共通の先祖は、さうは考へなかつた。皮を
蛻ぎ、卵を破つてからの生活を基礎として見た。其で、人間の知らぬ者が、転生身を獲る準備の為に、籠るのであつた。殊に空を自在に飛行する事から、前身の非凡さを考へ出す。畢竟卵や殻は、他界に転生し、前身とは
異形の転身を得る為の安息所であつた。蛇は卵を出て後も、幾度か皮を蛻ぐ。茲に、這ふ虫の畏敬せられた訣がある。
南島では屡、蝶を鳥と同様に見てゐる。神又は悪魔の
使女としてゐるのは、鳥及び蝶であつた。わが国でも、
てふとりの名で、蝶を表してゐた。蛇よりも、蝶の変形は熱帯ほど激しかつた。蝶だと思うてゐると、卵の内にこもつてしまひ、また毛虫になつて出て来る。此が第二の卵なる繭に籠つて出て来ると、見替す美しさで、飛行自在の力を得て来る。だから卵や殻・繭などが神聖視せられて来るのである。
朝鮮では、鳥の卵を重く見るやうになつてゐた。卵から出た君主・英雄の話がある。古代君主の姓から、卵からと言ふより瓠から出たと解せられてゐるのもある。日本では朝鮮同様、殻其他の容れ物に入つて、他界から来ることになつてゐる。他界と他生物との違ひであるが、生物各別の天地に生きて、時々他の住居を訪ふものと見てゐた時代である。だから、畢竟おなじ事になるのだ。
秦ノ河勝の壺・桃太郎の桃・
瓜子姫子の瓜など皆、水によつて漂ひついた事になつてゐる。だが此は、常世から来た神の事をも含んであるのだ。瓢・うつぼ舟・
無目堅間などに入つて、漂ひ行く神の話に分れて行く。だから、何れ、行かずとも、他界の生を受ける為に、赫耶姫は竹の
節間に籠つてゐた。此籠つてゐる、異形身を受ける間の生活の記憶が人間の
こもり・
いみとなつた。
いみやに
ひたやこもりすることが、人から身を受ける道と考へられた。尚厳重なものは、衾に裹まれて、長くゐねばならなかつた。
かうした殻皮などの間にゐる間が死であつて、死によつて得るものは、外来のある力である。其威力が殻の中の屍に入ると、
すでるといふ誕生様式をとつて、出現することになる。正確に言へば、外来威力の身に入るか入らぬかゞ境であるが、まづ殻をもつて、前後生活の岐れ目と言うてよい。だから別殊の生を得るのだ。一方時間的に連続させて考へる様になると、
よみがへりと考へられるのである。
すでるは「若返る」意に近づく前に「よみがへる」意があり、更に其原義として、外来威力を受けて出現する用語例があつたのである。
大国主は形から謂へば、七度までも死から蘇つたものと見てよい。夜見の国では、恋人の入れ智慧で、死を免れてゐる。此は死から外来威力の附加を得たことの変化であらう。智恵も一つの外来威力を与ふるところだつたのである。
よみがへりの一つ前の用語例が、
すでるの第一義で、日本の「をつ」も其に当る。彼方から来ると言ふ義で、
をちの動詞化の様に見えるが、或は自らするを
をつ、人のする時を
をく(招)と言うたのか。さうすれば、語根「を」の意義まで溯る事が出来よう。
をちなる語が、人間生活の根本を表したらしい例は、
をちなしと言ふ語で、肝魂を落した者などを意味する。柳田国男先生は、
まななる外来魂を
稜威なる古語で表したのだと言はれたが、恐らく正しい考へであらう。
いつ・
みいつ・
いつのなど使ふのは、天子及び神の行為・意志の威力を感じての語だ。
ちはやぶるの語原は「いちはやぶる」であるが、皇威の畏しき力をふるまふ事になる。此を
うちはやぶるとも言うてゐるから、
をちと
いつ・
いちの仮名遣ひの関係が訣る。引いては、神の憑り来る事も動詞化して
いつと言ひ、体言化して
いつかし・
いちにはなど言ふ様になつたものか。
いつは、後世
みたまのふゆなど言ひ、古くは
をちと言うたのであらう。
をとこ・
をとめなども、壮夫・未通女・処女など古くから当てるが、村の神人たるべき資格ある成年戒を受けた頃の者を言うたのが初めであらう。
うずめと言ふ職は、鎮魂を司るもので、葬式にも
うずめが出る。此資格の高いものを鈿女命と言ふ。臼女ではない。
恐しの「をぞ」と言ふが、やはり仮名の変化で
うつめ・
をつめだと思ふ。魂を「をちふらせる」役であらう。出現する意から
うつ・
うつしとなつて、現実的な事を言ひ、
うつゝなどに変つたことは、
まさ・
まさしの、元は神意の表出に言ふのと同じい。
をとこ・
をとめに対しては、
天のますひとがある。
うつる・
うつすも神の人に憑つての出現であり、
うち(>氏)も外来神霊を血族伝承によつてつぐことが行はれてからの語で、其を続けて受ける団体の順序が
つぎと言ふ具体的なのに、対してゐる。物部の八十氏川の「氏」も、実は氏多きを言ふのではなく
うちを多く持つことであらうか。
血族の総体を一貫して筋と言ひ、其義から分化して線・点・処などに用ゐる。沖縄でもやはり
すでには「完全に」の意である。
すつ・
うつ・
うつるも皆「をはる」の意から、投げ出すの義になつたものである。
すだくは精霊などの出現集合することであらう。
かうして見ると、
をつ・
いつに対する
すつがあつた様である。奥津棄戸の
すたへも霊牀の意であらう。
をつ・
いつに当る琉球の古語「すぢ」は、
せち・
しちなど色々の形になつてゐる。先祖なども
すぢと言うた様である。よく見ると、神の義がある。
聞得大君御殿の
三御前の神、即
おすぢのお前・金の御
おすぢの御前・御火鉢の御前の中、
金のみおすぢは、米と共に来た霊であつて、後世穀神に祀つた。
おすぢの御前は先祖の神と解せられてゐるが、王朝代々の守護神なる外来魂である。
私は、
すぢぁといふ「人間」の義の琉球古語の語原を「すでる者」「生れる者(
あは名詞語尾)」の義に解してゐたが、
抑此解釈の出発点に誤解のあることを悟つた。
すでる者は即、外来魂を受けて出現する能力あるものゝ意である。だが、皆此語の用例は特殊である。神意を受けた産出者である。選ばれた人である。恐らく神人の義であること、日本の
ひと・
ますひと(まさ)と同じで、巫女の古詞章に出て来るものは、神人以外の者には亘らぬから、同じ古詞の中にも、
すぢぁが一般の人の義に解して用ゐられ、世間でも使ふ様になつたのだと思ふ。国王及び貴人の家族は皆神人だから、
すぢぁである。
すぢ人と言ふよりは、
すぢり人の意である。
すぢの守護から力を生じるとして、
すぢを言はぬ世には
まぶり(守り)を以て魂を現した。体外の魂を正邪に係らず
ものと言ふ様になつた。
すぢぁに見える思想は、日本側の信仰を助けとして見ると、「よみがへるもの」でも訣るが、根柢は違ふ。一家系を先祖以来一人格と見て、其が常に休息の後また出て来る。初め神に仕へた者も、今仕へる者も、同じ人であると考へてゐたのだ。人であつて、神の霊に憑られて人格を換へて、霊感を発揮し得る者と言ふので、神人は尊い者であつた。其が次第に変化して来た。神に指定せられた後は、ある静止の後転生した非人格の者であるのに、それを敷衍して、前代と後代の間の静止(前代の死)の後も、それを後代がつぐのは、とりもなほさず
すでるのであつて、おなじ資格で、おなじ人が居る事になる。
かうして幾代を経ても、死に依つて血族相承することを交替と考へず、同一人の休止・禁遏生活の状態と考へたのだ。死に対する物忌みは、実は此から出たので、古代信仰では死は穢れではなかつた。死は死でなく、生の為の静止期間であつた。出雲国造家の伝承がさうである。ほかでの祓へを科する穢れの、神に面する資格を得る為の物忌みであるのとは大分違ふ。家により地方により、此
すでる期間に次代の人が物忌みの生活をする。休止が二つ重るわけである。皇室のは此だ。だから神から見れば、一系の人は皆同格である。日本の天子が日の神・
御祖・
ひるめの頃から、いつも血族的には
にゝぎの命と同格の
すめみまであり、信仰的には忍穂耳命同様日の御子であつた。琉球時代は、天子を
てだてと言うた。太陽の子である。後に太陽を譬喩にした者と感じて、太陽をさへ
てだてと言うた。日の御子である。
すでるの原義は、謂はゞ出現する事であつた。日本で言へば、出現の意の
あると言ふ語である。或は
いづである。
すぢのつく動作を言ふ語で、即、母胎によらぬ誕生である。
あると言ふ日本語も、
在・
有の義と言ふよりは、
すでる義があつたのではないか。荒・現・顕などの内容があつた。
あら人神など言ふのも、
すぢぁにして神なる者と言ふことで、君主の事である。地方の小君主も
あら人神なるが故に、社々の神主としての資格に当るので、其を回して、其祀る神にも言うた。併し古文の用例としては、神主を神なるものとして言うたと見る方がよい様だ。
あれ(幣)に対して、
いち・
うた(歌)があり、
いつ何と言ふ用語例も、厳橿・
厳さかきなどになると、神出現の木と言ふ義を持つのかも知れぬ。神名の
うしなども
うちの転化ではなからうか。日本の最古い神名語尾
むちは
うちであらう(
おほなむち・
おほひるめむち・
ほむちわけなど)。
皇睦神ろぎなど言ふ
睦も誤解で、
いつ・
うつで神の義か、
いつくなどに近い義か。
珍彦など言ふ
うづの何も
いつと同じだらう。
ひこは
ひるめの生んだ日の子であり、天子の
日のみ子と区別したのである。
神人・巫女などに日を称したのもある。
にぎはやび・
たけひ、後世の朝日・照日などもある。
ひとの
とも、
刀禰などの
とで、神の配下の家の意であらうか。
神の属隷の義だらう。
神の
み・
祇(
つは領格の語尾)の
みなど、皆精霊の義であらうか。女性の神称に多い
なみの
みも同様である。
なは
ので、領格の語尾であることは、
つと同じい。
むちは獣類の名となつて、
海豹・貉などの精霊に、
つちは蛇・雷などの名となつた。
餅もひよつとすると、霊代になるものだから、
むち・
いつ・
うつの系統かも知れぬ。
酒・
饌なども神名であらう。
よなども
いつと関係があるのだらう。
よる・
よすの
よで、
善であり、
寿であり、
穀である。常世の
よも或は此かも知れぬ。
よるは
いつに対する再語根であらうか。少し横路に外れたが、前に回つて、
をる・
をつは同根であらう。かうして見ると、二三根の語が始めて一根の語を出して、又二三根の語を作る様である。
いつ・
うつ・
すつ・
いづ・
ある・
ますなど皆同系の語であつたらしい。「をく」なども、
をつから出た逆用例であらう。
さて、
をつはどうして繰り返す意を持つか。外来魂が来る毎に、世代交替する。さうして何の印象もなく、初めに出直すと見てゐたのが、段々時間の考へを容れた為、推移するものと観じて来た。出雲国造神賀詞の「
彼方の古川岸、此方の古川岸に、生ひ立てる、
若水沼のいや
若えにみ
若えまし、
濯ぎ振る
をどみの水の、いや
をちにみ
をちまし
······」などに見える
をちかたと言ふ語には、寿詞を通じて
をち霊の信仰が見える。
わかゆと
をつとを対照してゐるのは、同義類語と考へたのだ。
わかゆは「わかやぐ」の語原で、若々しくなる義だ。古くは、若くなる事であつたかも知れぬが、此辺の用語例は
をつと同じに用ゐてある。くり返す事を一個人について謂へば、蘇ることであり、又毎年正月に其年のくり返しする事にも言ふ。さうすると「みをちませ」は若返りの事を意味するのだ。
出雲国造は親任の時二度、中臣は即位の時一度だけであつたが、氏
ノ上の賀正事になると毎年あつた。天子の魂の
をつることを祈るのが初めで、其が繰り返すことを祈るのである。生者だから蘇るといふのでなく、生も死も昔は魂に対しては同待遇だつたのだ。其為、同じ語も生者に対しては「くり返す」ことになるのである。此が時代の進むに連れて若返る事になる。そして其霊力の本は食物にあつた。即、呪言の
ほを捧げるのである。
中臣天神寿詞には、天つ水と米との事が説かれてある。米の霊と水の魂とが、天子の躬に入るのであつた。此が
をつるのであり、若返る意になる。誄詞に用ゐられると、蘇生を言ふ。正月の賀正事にも、氏
ノ上は
ほを奉つて寿する。氏々を守つた此
ほの外来魂を、天子が受けて了はれるのである。天子は氏々の上に事実上立たれたわけだ。
降伏の初めの誓詞も、此寿詞である。処が、
をつと言ふ語が、段々健康をばかり祝ふ様になつて、年の繰り返しを言ふのを忘れて行つた。飯食に臨む外来魂をとり入れる信仰から、
よるべの水の風習も出て来る。魂と水との関係である。人の死んだ時水を飲ませるのも、此霊力観が段々移つて行つたのだ。死屍に跨つてする起死法も水のない寿詞だ。唯身分下の人の為にする方式だつたのだ。
呑む水の信仰が、従つて洗ふ水になつた。初春の日には、常世から通ずる
すで水が来る。首里朝時代には、
すで水は、国頭の極北
辺土の泉まで汲みに行つた。其が、村の中のきまつた井にも行くやうになり、一段変じて家々の水ですます事にもなつた。此が日本の若水で、原義は忘れられて、唯繰り返すばかりになつた。家長或はきまつた人が汲むのは、神主格になるのである。又、若水を喚ぶ式もあつた。常世の国から通ふ地下水である。だから、常世浪は皆いづれの岸にも寄せて、海の村の人の浜下り、川下りの水になる。
但、神が若水を齎すのは、日本では、臣になつた神が主君なる神の為にであつた。島の村々の中では、或は五穀の種の外に、清き水をも齎し、壺のまゝ漂したこともあらう。沖縄の島では、穀物の漂著と共に、「うきみぞ・はひみぞ」の由来を説いてゐる。此も常世の水が出たのである。人が呑むと共に、田畠も其によつて、新しい力を持つのだ。
すでることの出来る人は、君主であつた。日本にも母胎から出なかつた神は沢山あつた。
いざなぎの命檍原で祓への為に
すでる間に、神々は、
すで水の霊力で生れたことになる。永い寿を言ふのも
すで水の信仰からである。昔の国々島々の王者は皆命が長かつた。今の世の人の信じない年数だつた。
神皇正統記の神代巻の終りなどを教へると、若い人たちは笑ふ。
なまいきなのは、人皇の代の年数までも其伝で、可なり為政者等が長めたものだらうと言ふ。こんな入れ智慧をする間に、歴史学研究の方々はも一度
すで水で顔も腸も洗うた序に、研究法も
すでらせるがよい。日本人には、そんな寿命の人を考へる原因があり、歴史があるのだ。そして、同じ名の同じ人格の同じ感情で、同じ為事を何百年も続けてゐた常若な
※部[#「广+寺」、U+5EA4、130-14]や巫女が、幾人も/\あつた事を考へて見るがよい。此一人格の長い為事をば小さく区ぎつて、歴史的の個々の人格に割りあてたのである。その今一つ前は、千年であらうが、どれだけ続かうが、一続きの日の御子や、
まへつぎみ・
※部[#「广+寺」、U+5EA4、130-16]の時代があつたのだ。
日本人が忘れたまゝで若水を祝ひ、島の人々がまだ片なりに由緒を覚えて
すで水を使うてゐる。日・琉双方の初春の若水其は、つれ/″\を佗ぶる事を知らぬ古代の村人どもが、春から冬までの一年の外は、知らず考へずに居つた時代から、言葉を換へ/\して続けて来た風習である。考へて見れば、其様にくり返し/\、日本の国に生れた者は日本国民の名で、永くおのが生命を託する時代の事だと考へて来もし、行きもするのだ。我々の資格は次の世の資格である。人の村や国或は版図に対しては、その寿詞を受ける度に其外来魂をとり入れ/\して、国は段々太つて来た。長い伝統とは言ふが実は、海の村人の如く、全体としては夢の一生を積み/\して来た結果である。
すで水を呑むのは、選ばれた人だけだつた。其にも係らず、人々は皆其にあやからうとした。せめては自家の井戸からでも、一掬の常世の水を吊らうと努力して来た。さうして家や村には、ともかくこんな人が充ちてゐたのだ。
すで人からのあやかりものである。此機会に「おめでたごと」の話を言ひ添へて置かう。
下品な語だが「さば」を読むと言ふ。うつかりと此話にも「さば」を読んだところがある。「さば」は
産飯で、魚の鯖ではない。神棚に上げる盛り飯の頭をはねて、地べたなどへ散したりする。頭だから「あたまをはねる」との同義で、
さばはねを加へて勘定する事である。
さばといふ語は大分古くからあつたと見え、尊者に上げる食物を通じて
さばと言ふ様だ。
春の初めと盆前の七日以後、後の藪入りの前型だが、
さばを読みに出かけた。親に分れて住む者は、親の居る処へ、舅・姑のゐる里へも、殊に親分・親方の家へは子分・子方の者が、何処に住まうが遠からうが、わざ/\挨拶に出かけた。藪入りの丁稚・小女までが親里を訪れるのは、此風なのだ。だから日は替つても、正月・盆の十六日になつてゐる。
閻魔堂・十王堂・地蔵堂などへ参るのは、皆が魂の動き易い日の記念であつたので、魂を預かる人々の前に挨拶に出かけたのだ。此は自分の魂の為であらう。また家へ帰るのは、蕪村が言うた「君見ずや。故人太祇の句。藪入りのねるや一人の親のそば」。さうした哀を新にする為に立ちよるのではなかった。親への挨拶よりも、親の魂への御祝儀にも出かけたのだ。
「おめでたう」はお正月の専用語になつたが、実は二度の藪入りに、子と名のつく者
即子分・子方が、親分・親方の家へ出て言うた語なのである。上は一天万乗の天子も、上皇・皇太后の内に到られた。公家・武家・庶民を通じて、常々目上と頼む人の家に「おめでたう」を言ひに行つたなごりである。「おめでたくおはしませ」の意で、御同慶の春を欣ぶのではない。「おめでたう」をかけられた目上の人の魂は、其にかぶれてめでたくなるのだ。此が奉公人・嫁壻の藪入りに固定して、「おめでたう」は生徒にかけられると、先生からでも言ふやうになつて了うた。此は間違ひで、昔なら大変である。一気に其目下の者の下につく誓ひをしたことになる。盆に「おめでたう」を言うてゐる地方は、あるかなきかになつた。でも
生盆・
生御霊と言ふ語は御存じであらう。聖霊迎への盆前に、生御魂を鎮めに行くのであつた。室町頃からは「おめでたごと」と言うた様であるから、盆でも「おめでたう」を唱へたのである。正月の「おめでたう」は年頭の祝儀として、本義は忘れられ、盆だけは変な風習として行はれて来たのだ。
此日可なり古くから、夏の
最中にきまつて塩鯖の手土産をさげて、親・親方の家へ挨拶に行つた。背の青い魚の代表の様なあの魚も、
さばと言ふ名は古い。其時に持つて行く物を
さばと言うたから、其土産の肴まで
さばと名をとつたとは言はれない。私は、餅も
粢も、米団子も、飯を握つた牡丹餅も持つて行つたであらうが、皆此らは初穂で拵へたもので、此風俗のある時代流行の中心になつた地方の人々の間で、すぐ腐る餅類が大きな家ではたまつて、どうにもならないといふので、塩物でも、生腥を喜ぶ処らしく、塩魚を持ちこんだのが、段々風をなすと言ふ風になつても、やはり此時の進上物に
さばとしか言はなかつた。其で「
さばと言ふのに赤鰯はこれ如何に」などゝ矛盾を感じ出して、塩鯖にきまつたのかと思うてゐる。子分・子方を沢山持つた豪家などでは、塩物屋の様に積み上げられた事であらう。「今年も相変りませず、御ひいきを」と言ふ頼みは後の事で、古くは、今年もあなたの子分です、御家来です、と誓ひに行つたのだ。其が目下の人の、齢を祝福する詞を述べる事で示されるのである。「おめでたう」などになると、短い極限であるが、其固定に到るまでには、永い歴史がある様である。
こゝまで来てやつと、前の天皇の賀正事や神賀詞・天神寿詞の話に続くことになる。あゝした長い自分の家が、天子の為に忠勤を抽づるに到つた昔の歴史を述べた寿詞を唱へ、其文章通り、先祖のした通り自分も、皇祖のお受けになつたまゝを、今上に奉仕する事を誓ふのである。さうして其続きに、そのかみ、皇祖の為に奏上した健康の祝辞を連ね唱へて、陛下の御身の中の生き御霊に聞かせるのであつた。
此風が何時までも残つてゐて、民間でも「おめでたう」は目下に言うたものではなかつたのである。「をゝ」と言つて、顎をしやくつて居れば済んだのだ。
幾ら繁文縟礼の、生活改善のと叫んでも、口の下から崩れて来るのは、皆がやはりやめたくないからであらう。「おめでたう」の本義さへ訣らなくなるまで崩れて居ても、永いとだけでは言ひ切れぬ様な、久しい民間伝承なるが故に、容易にふり捨てる事は出来ないのである。
町人どもの羽ぶりがよくなる時代になつて、互に御得意様であり、ひいきを受け合うてゐるやうな関係が出来上つて来た。職人歌合せや絵巻の類の盛んに出てゐた頃は、保護者階級と供給者の地位とは、はつきり分れてゐた。職人と言ふのが、世間には檀那ばかりで、どちら向いても頭のあがらぬ業態で、他人の為の生産や労働ばかりしてゐた人々なのである。中臣祓へばかり唱へてゐる様な下級の神主・陰陽師、棚経読んで歩く様な房主をはじめ、今言ふ諸職人・小前百姓・猟師・漁人などに到るまで、多くは土地に固定した基礎を持たない生計を営む者である。上古の部曲制度の変形をしたもので、檀那先は拡つても、職の卑しさは忘れて貰はれない時代であつた。
職人の大部分が浄化せられて町人となり、町人の購買力が殖えて来て、お互どうしの売り買ひが盛んになつた。どちらからもお得意であり、売り手であると言ふ様になると、需要供給関係が、目上目下を定めて居た時代のなごりで、年頭の「おめでたう」は、両方から鉢合せをする様になる。かうして廻礼先がむやみに殖えて、果は祝福のうけ手・かけ手の秩序が狂うて来たのであつた。
其「おめでたごと」をどこかしことなく唱へて歩いた一団の職人があつた。謂はゞ祝言職である。此とても元は、一つの家なり、一つの社寺なり、隷してゐる処が厳重にきまつて居たのだが、中には条件つきで、わざ/\さうした保護の下にのめりこんで来た連中もあつて、段々自由が利く様になつて行つた。寺から言へば
唱門師、陰陽家から言へば千秋万歳、社にもついて散楽者、むやみに受持ちの檀那場を多くした。ある大社専属の神人かと思へば、同時にある大寺の童子・楽人と言ふ様なのが多かつた。春日の楽人でゐて、薬師寺にも属し、其外京の公家・武家・寺方までも祝言に行く。祝言以外に、舞も狂言も謡も謡ふ。
かうした連衆の中、うまく檀那にとり入つて、同朋から侍分にとり立てられたものもあるが、さうした進退の巧に出来なかつたものは、賤の賤と言ふ位置に落ちて了うた。此階級から能役者・万歳太夫・曲舞々・神事舞太夫・歌舞妓役者などが出た。もつと気の毒なのは、とても浮ぶ瀬のなかつた者と一つにせられた。
祝など言ふのは、其である。「祝言」の一字をとつて称へられたのである。地方によつては、賤民階級の部立てや解釈がまち/\で、同じ名の賤称を受けた村でも、おなじ種類の職人村ばかりではなかつた。
だが、一度唱へると不可思議な効果を現す其文句は、千篇一律であつた。後には色々の
工風が積まれて、段々に、変つた文句も出て来た。此祝言が段々遊芸化し、追つては芸術化する始めであつて、喜劇的なものは可なり古くから発達し、謡などは名手は出たが、詞章の精選が、最遅れた。
千篇一律なるが故に効果のあつた祝言は、古い寿詞の筋であつた。後世の祝祭文の様に当季々々の妥当性を思はないでもよかつたのが、寿詞の力であつた。寿詞を一度唱へれば、始めて其誓を発言したと伝へる神の威力が、其当時と同じく対象の上に加つて来る。其対象になつた精霊どもは、第一回の発言の際にした通りの効果を感じ、服従を誓ふ。すべてが昔の儘になる。此効果を強める為に、其寿詞の実演を「わざをぎ」として演じて、見せしめにした。文句は過去を言ふ部分が多く加り変つて来ても、詞章の元来の威力と副演出の
わざをぎとで、一挙に村の太古に還る。今日にして昔である。村人は、今始めて神が来て、精霊に与へる効果をも信じたのである。其力の源は、寿詞にある。寿詞は、物事を更にする。更は、くり返すことである。
さらは
新の語感を早くから持つてゐた様に、元に還すのであると言ふよりも、寿詞の初め其時になるのである。
さらは
さるの副詞形である。去来の意の
さるは、向うから来ることである。春の初めの猿楽も、古くから行はれたらうと思ふが、
さる||今は縁起を嫌ふ
||が
をつと同意義に近かつたのではなからうか。猿女君の
さるも、昔を持ち来す巫女としての職名であつたのではないか。