一 おきなと翁舞ひと
翁の発生から、形式方面を主として、其展開を考へて見たいと思ひます。しかし個々の芸道特有の「翁」については、今夜およりあひの知識の補ひを憑む外はないのであります。翁芸を飛躍させたのは、猿楽であります。翁が、田楽の「
おきなと言ふ
おきな・おみな(媼)の古義は、邑国の神事の
尾張ノ浜主の
翁とてわびやは居らむ。草も 木も 栄ゆる時に、出でゝ舞ひてむ(続日本後紀)
と詠じた舞は、此交叉時にあつたものと思ひます。翁舞を舞ふ翁の意で、唯の老夫としての自覚ではなさ相です。おきなさぶと言ふ語も、をとめさぶ・神さぶと共に、神事演舞の扮装演出の適合を示すのが、元であつた様です。翁さび、人な咎めそ。狩衣、今日ばかりとぞ 鶴 も鳴くなる
と在原の翁の嘆じた、と言ふ歌物語の歌も、翁舞から出た芸謡ではなかつたでせうか。古今集の雑の部にうんざりする程多い老い人の述懐も、翁舞の詠歌と見られぬ事もない。私など「在原」を称するほかひ人の団体があつて、翁舞を演芸種目の主なものにしてゐたのではないかとさへ思うて居ます。山姥が山の巫女であつたのを、山の妖怪と考へた様に、翁舞の人物や、演出者を「翁」と称へる様になり、
だから「翁」は、中世以後、実生活上の老夫としてのみ考へる事が出来なくなつてゐるのです。
此夜話の題目に択んだ翁は、其翁舞の起原を説いて、近世の歪んだ形から、元に戻して見る事に落ちつくだらう、と思ひます。
二 祭りに臨む老体
二夏、沖縄諸島を廻つて得た、実感の学問としての成績は、翁成立の暗示でした。前日本を、今日に止めたあの島人の伝承の上には、内地に於ける能芸化せられた翁の、まだ生活の古典として、半、現実感の中に、生きながらくり返されてゐる事を見て来たのです。
私は日本の国には、国家以前から
元来ひとと言ふ語の原義は、後世の神人に近いので、神聖の資格をもつて現れるものゝ義である、と思ひます。顕宗紀の室寿詞は「我が
日本人は、常世人は、海の彼方の他界から来る、と考へてゐました。初めは、初春に来るものと信じられてゐたのが、後は度々来るものと考へる様になりました。春祭りと刈上げ祭りは、前夜から翌朝まで引き続いて行はれたものでした。其中間に、今一つあつたのが冬祭りです。ふゆまつりは鎮魂式であります。あき・ふゆ・はるが暦法の上の秋・冬・春に宛てられるやうになると、其祭りも分れて行はれる。其祭りの度毎に、常世人が来臨して、禊ぎや鎮魂を行うて行く。かうなると又、臨時の祭りが、限りなく殖えて来ました。
田植ゑ祭りに臨むさつきの神々なども迎へられ、季節々々の
高野博士が「呪師猿楽」なる芸能の存在を主張せられたのは、敬服しないでは居られません。但、本芸が呪師で、其くづれ・脇芸とも言ふべきのが、呪師に入つた猿楽で、唯呪師とも言ひ、呪師猿楽とも並称したらしく思はれます。此「呪師猿楽」が、田遊び化して田楽になつたとするのが、私の考へです。だが一口には、田楽は五月の田遊びから出てゐると申してよろしい。此猿楽は、田楽では、もどきと言ふ脇役に、俤を止めました。能楽と改称した猿楽能では、狂言方とまで、変転を重ねて行きました。わき方も、勿論此から出たのです。結論に近い事を申しますと、翁も純化はしましたが、やはり此で、
猿楽の用語例の一部分には、武家以前古くから興言利口などゝ言ふべき、言ひ立て又は語りの義があります。興言利口も、其根本になるべき話材までも、さう言ふ様になりました。此は、狂言の元の宛て字が興言であると共に猿楽の、言と能との二方面に岐れる道を示すものです。能楽が専ら猿楽と称へられたのは、此方面が主となつてゐたからかと思ひます。故事語りに曲舞の曲節をとりこみ、ことほぎのおどけ言ひ立てを現実化したのが、猿楽の表芸を進展させた次第であります。能芸の方は寧先輩芸道なる曲舞・田楽の能などからとり込んだらしいのです。
猿楽能に於ける翁は、此言ひ立て・語りを軽く見て、
だから、田楽にも、翁の言ひ立てや語りがあつたらしいのです。唯、田楽能をまるどりして、自立したにしても、猿楽能自身の特色がなくてはなりませぬ。其は、翁の本家であつた、と言ふことです。語りの方は、
冬の鎮魂を主とし、春田打ちに関係の深いのが、猿楽の、呪師習合以前の姿なのです。田植ゑに臨む群行神の最古の印象は、記・紀のすさのをの命の神話の外に、播磨風土記には統一のない形の、数多い説話として残つてゐます。此間に、常世人自身も、海の彼方から来ると信じられたものが、天から降ると考へられる様になり、山に住む巨人とせられる様にもなつて行きました。従つて、常世人と言ふ名も変り、其形貌性格や対人地位なども易つて行く一方には、原形に止り、或は、二つの形を複合した信仰も出て来ました。
我々の研究法は、経験を基調としたものであります。資料の採訪も、書斎の抜き書きも、皆、伝承の含む、ある昔の実感を誘ふ為に過ぎません。実感による人類史学と言ふべきものなのです。一芸能の翁に拘泥せず、田楽・神楽・歌舞妓其他の現在芸能は固より呪師田楽以前の神事・劇舞踊などに現れた翁の形態の知識の上に、更に、其現に行はれてゐる演出の見学から、体験に近い直観を得ねばなりますまい。沖縄の島渡りをして、私の見聞きしたのは、此から話さうとする三つの型でありました。
三 沖縄の翁
祖先考妣の二位の外に、眷属大勢群行して、家々をおとなふ形。盂蘭盆の行事である(一)。海上或は洞穴を経て、他界の異形(又は荘厳な姿)の、人に似た霊物が来て、村・家を祝福する形。清明節其他、祭りの日にある(二)。村の族長なる宗家の主人並びに一門中の代表者と見なされる群衆を伴うた、前族長なる長者が踊り場へ来て、村を祝福するのを一番として、村々特有の
此中で(一)は最、常世人に近い形であります。海の彼方なる
此からしても、内地の古記録から考へられる常世のまれびとの元の姿はやゝ、明るくなつて来ます。此と通じてゐるのは(三)の式であります。此は村踊りと言ひ、又村芝居とも言はれてゐます。祖霊を一体の長者の大主とし、眷属の霊を一行としたものです。さうして今は、其本処の考へを忘れてゐますが、他界の聖地から来たものに違ひありません。親雲上は、其等の群行から、正面に祝福を受ける人として、予め一行を待つ形が変つたのでせう。其に、儀来の大主を加へたのは、長者大主一行の本義の忘れられた為、更に祝福の神を考へ出したのです。
此が変じて(二)になると、色々の形に変化してゐます。なるこ神・てるこ神と言ふ二体の、聖なる彼岸の国主とするのもあり、唯の一体の
四 尉と姥
かう言つて来ますと、考妣二体、又は一位の聖なる者の、或は群行者を随へて来る神来臨の形式が思はれます。内地の、古代から近代に続いてゐる、まれびとの姿も一つ事なのです。考妣二体の聖なる老人と言へば、直に聯想するのは、高砂の松の精と住吉明神一対の「尉と姥」の形です。謡の高砂が、さうした標本を示す前から、翁媼の対立は、考へられて居ました。平安初期に、既に、大嘗祭の曳き物なる「
日本の書物で、まづ正確に高砂式のまれびとの信仰を書き残したのは神武紀です。香具山の土を、大和の
歳暮に来て、初春の年棚の客となる
山から来る歳神にも、一人としか考へられてゐないのがあります。又群行を信じてゐる地方もあります。歳神にお伴があるわけです。かうなると、祖霊来臨の信仰に近づいて来ます。年神棚を吊らず、年縄や年飾りをせぬ家や村があります。此等は、山の歳神以前の常世神の迎へ方を守つてゐて、家風の原因を忘れたものが多いのでせう。だが、まだ外にも理由はある様です。
五 山びと
常世の国を、山中に想像するやうになつたのは、海岸の民が、山地に移住したからです。元来、山地の前住者の間に、さうした信仰はあつたかも知れませぬ。だが書物によつて見たところでは、海の神の性格職分を、山の神にふり替へた部分が多いのです。
私は山の
私の仮説では、山の神に仕へる神人だとするのです。海人部が、
勿論、前住民の服従を誓ふ形式の
さうすると、山の神の呪詞は、宣下式ではなく、又奏上式でもありません。つまり仲介者として、仲間内の者に言ひ聞かせる、妥協を心に持つた、対等の表現をとりました。此を
海村の住民の中、別居して神に仕へる形式が行はれ、男や女のさうした聖役に当るものが出来ました。女は、たなばたつめです。かうした人々の間に出来た村が、異種の村と混同せられる様になつたのでせう。山の村も、同様にして出来ましたのでせう。其が、蛮人の村と思ひ違へられる様になつた事もありませうが、此は、わりに明らかに、国栖・土蜘蛛などゝ区別せられた様です。海人部の民が、所謂あまのさへづりをする異人種の様に考へられた程ではありません。海部の民は、呪法・呪詞に馴れて居ました。其が諸国の卜部の起原です。
海人部の民の中の、小・中宗家など言ふべき家の中からも、宮廷の官司の馳使丁が出ました。此が
海語部が、諸国の海人の中にも纏はつて来ました。一方、卜占を主とする海人の卜部が、又諸国に還り住んで、卜部の部曲が拡がります。宮廷の海語部は、後には、卜部の陰に隠れて顕れなくなり、卜部の名で海語部の行うた
六 山づと
此
あしびきの山に行きけむ山人の 心も知らず。やまびとや、誰(舎人親王||万葉巻二十)
仙人を訓じて、やまびととした時代に、山の神人の村なる「山村」の住民が、やはり、やまびとであつた。此歌は、神仙なるやまびとの身で、やまびとに逢ひに行かれたと言ふ。其やまびとは、あなた様であつて、他人でない筈だ。仰せのやまびとは、外にありとも思はれぬ、とおどけを交へた頌歌である。此歌の表現を促したのはあしびきの山行きしかば、山人 の 我に得しめし山づとぞ。これ(元正天皇||同巻二十)
と言ふ御製であつて、此も、山人と言ふ語の重つた幻影から出た、愉悦の情が見えて居ます。だが、其よりも、注意すべきは、山づとと言ふ語です。家づとは、義が反対になつてゐます。山づと・浜づとなどが、元の用語例です。山・浜の贈り物の容れ物の義で、山から来る人のくれるのが、山づとであり、其が、山帰りのみやげの包みの義にもなる。元は、山人が里へ持つて来てくれる、聖なる山の物でした。此は、後に言ふ山姥にも絡んだ事実で、山草・木の枝・寄生木の類から、山の柔い木を削つた杖、其短い形のけづり花などであつたらしく、山かづら・羊歯の葉・柳田先生の杓子の研究を、此方に借用して考へると、此亦、山人の鎮魂の為の木ひさごでした。神代記のくひさもちの神は、なり瓢の神でなく、木を刳つた、古代の
若宮祭りの翁は、高い神||続教訓抄など||と言ふより、ことほぎの山の神で、春日の社殿及び若宮の神の鎮魂を行ふところに、古義があつたのでせう。夜叉神のことほぎや、菩薩練道が寺に行はれたのも、高位の者に誓ふ風からです。社の神にも誓ひ・いはひに、ことほぎの翁が参上する事のあるのは、不思議ではない。猿楽家の「松ばやし」も亦、暮の中に行はれるのが、古風であつた様ですが、此から翁が出たとは言へますまい。唯、「
雅楽にも「若」を舞はせる為に、本手の舞を童舞に変化させてゐるのがあります。猿楽能の翁は、鎮魂の為の山人の来臨で、三人の尉は、一種の群行を意味するものでせう。此事は更に説きます。
翁の文句の「ところ千代まで」と言ふのは、野老にかけた、村・国の土地鎮めの語で、かうした文句の少いのは、替へ文句が多くなつた為です。さうして、春祭りの田打ちの詞らしい、生み殖しの呪文が這入つて居るのは、翁が初春を主として、暮の鎮魂式から遠のいた為でせう。だが、春田打ちは、鎮魂と共に一続きの行事ですから、山人としての猿楽の翁も、初春に傾く理由はあるのです。仮に、猿楽の翁の原形の模型を作つて見ませう。
翁が出て、いはひ詞を奏する。此は家の主長を寿するのです。其後に、
松ばやしの如きも、春の門松||元は歳神迎への
七 山姥
猿楽で、山姥が重んぜられるのも、先進芸からの影響もある様ですが、山人としての方面からも考へねばならぬでせう。山姥は、山の神の巫女で、うばは姥と感じますが、此は、巫女の職分から言ふ名で、小母と通じるものです。最初は、神を抱き守りする役で、其が、後には、其神の妻ともなるものをいふのです。其巫女の、年高く生きてゐるのが多い事実から、うばを老年の女と感じる様になつたらしいのです。うばを唯の老媼の義に考へたのも古くからの事だが、神さびた生活をする女性の意として、拡がつて来たのでせう。此山神のうばとして指定せられた女は、村をはなれた山野に住まねばならなかつた。人身御供の白羽の矢の話には、かうした印象もあるに違ひない。たなばたつめ同様の生活をして、冬の鎮魂にまた恐らくは、春祭りにも、里に臨んだものと思ふ。其山姥及び山人の出て来る鎮魂の
山姥といふ称呼から、山にゐる女性と考へ、山人を、蛮人又は鬼・天狗などに近づけて想像する処から、此をも山の女怪と信じる様になりました。其村の冬祭りに来た行事が形式化し、竟に型をも行はぬ様になつて、伝説化して、名と断篇の説話ばかりあつて、実のない時代になつて、冬の行事であつたゞけに、冬の夜話の題材に上る様になつたので、かうした、人であつて、又、魑魅の族らしい者を考へ出したのでせう。山姥の姥に対して、山男・山人は又、山をぢ又は、山わると称へる様になりました。山姥の洗濯日といふのは、山の井に現れて、山姥が禊ぎをする日だつたのでせう。市日に山姥の来て、大食をした話や、小袋に限りなく物を容れて帰つた伝説などがあるのは、鎮魂の夜の山づとと取り易へて、里の品物、食料などを多く持ち還つたからでせう。其に、其容れ物の、一種異様な物であつた印象がくつゝいたのだらうと思ひます。
古代には、市といはれる処は、大抵山近い処にありました。磯城長尾市ノ宿禰と言ふ家は、長い
足柄明神の神遊びは、
八 山のことほぎ
大和では、山人の村が、あちこちにありました。穴師山では、穴師部又は、
まきもくの穴師の山の山人と、人も見るかに、山かづらせよ(古今集巻二十)
かう言ふ文句は、穴師山から来なくなつた時代にも、穴師を山人の本拠と考へて居たからです。山人の形態の条件が、山かづらにあつた事は、此歌で知れます。さて、山人のことほぎや舞が、山の帝都に行はれる様になると、海人のほかひ人は段々、山人ぶりに転化する傾向が出来、そして常世人の位置も、山の神同様に低められ、其呪詞もいはひ詞に傾いて行く。果は、全く山人同様になつて、海や川に縁る生活を棄てゝ、山地の国を馳せ廻る様にもなつて行きました。其一群は、恐らく、北陸から信濃川を溯つて来て、北西の山野に入り、其処に定住し、山人としての隔離地には、其南方に深い穂高嶽を択んだのでせう。そして、平野の村里に、時々、山の呪法呪詞や芸道を以て訪れました。若い神が、人に養はれて、末には英雄神となる物語を語つたのが、ほたかの本地として、末代の正本には、物臭太郎と言ふ流離の貴族の立身譚に変化して行きました。信濃に、安曇氏を称する海人部の入つたのは、かうした径路を通つたのでありませう。
山のことほぎ・海のほかひが段々合体して来ても、名目はさすがに存してゐました。山人の団体として、遊行神人の生活法をとつた者は、ほかひ人であり、海人の巡遊伶人団は、くゞつと言うたらしいのです。其が後には、ほかひがくゞつと称し、くゞつにしてほかひと言はれたらしい混乱が見えます。ほかひ人の持つ物容れは、山の木のまげ物であつて、其旅行器をほかひと称へました。くゞつは恐らく、呪詞の神こゝとむすびの名に関係があるらしく、其携へた、草を編んだ物容れの名が、くゞつと言はれるまでに、其旅行器が、国々の人の目に止る機会が多かつたのです。其程浮浪の布教生活を続けたのです。山人も、ほかひ人の一派であり、||
九 山伏し
山舞を伝承して居る村の中には、思ひの外に深い山中に住んだ者が多かつたのです。そして歳暮・初春其他の行事に、村里へ降つて、山のことほぎを行ひに来ます。此が「隠れ里」の伝説の起原であつて、さうした生活法を受けつぐ事に、不思議も、屈托も感じない者が多かつたのです。隠れ里と称する人居は、皆山人としての祝言職を持つて居たのです。此山人の中、飛鳥末から奈良初めへかけて、民間に行はれた道教式作法と、仏教風の教義の断篇を知つて、変態な神道を、まづ開いたのは修験道で、此は全く、山の神人から、苦行生活を第一義にとつて進んだのです。だから、里人に信仰を与へるよりも、まづ、祓への変形なる懺悔・禁欲の生活に向はしめました。即、行力を鍛へて、
御嶽精進を経て、始めて男となると言ふ信仰は、近代に始まつた事ではない様で、山地に居させ、禁欲・苦役の後、成年戒を授けた昔の村里の規約が、形を変へて入つて来てゐます。男だけの山籠りで、女子は結界厳重な事も、女人禁制の寺方を学んだのではなく、固有の秘密結社の姿なのでした。山の神・山人がおにと感じられて来たのに対して、天狗を想像する様になりました。古代のおには、後世の悪鬼羅刹などでなく、巨人と言ふだけの意義でした。大方、赤また・黒またなど言ふ
天狗が出産のあら血を嫌ふ事は、柳田先生が、古く「天狗、山の神」説に述べられました。山の神、或は山人生活の行儀・禁忌などが、その儘伝つて居るではありませんか。だから、修験道は、山人の間に

山村に神事芸が発達すると共に、本来の姿で生活してゐる海人の村にも、偶人劇や歌詠が育つてゐました。さうしたものが、祭りの日に行はれてゐる中に、段々演芸化してまゐります。そして、神事能の外、種目が多くなつて行きます。中には遊行伶人団となつたものも、元より、早くにあつた事は考へられます。宮廷の神楽は、海人部出の物なので、海人部の偶人に当るものが、宮廷では、狂言方の
山村の印象と見るべきものは、山彦・こだまなど言ふ、口まね・口ごたへをする精霊の存在を信じた風の起原です。山人の芸の中に、さうした猿楽式なもどきが発達してゐた為、山人の
猿楽能は山人舞の伝統を引くもので、社寺の楽舞に触れて変化し、民間の雑楽に感染してとり込み、成立後の姿からは、元の出処が知れぬ位に、変つてしまひました。楽と言ふ字のつくのは、雑楽の義で、田楽は其であり、舞の方が一段上で、正舞系統を意味するものらしい、と、かう言ふ仮説は立たないでせうか。だから、寺方出の舞のはでなものは、皆、曲舞と言はれてゐますが、猿楽は、曲舞とも見られなかつたのです。其点でも、曲舞出の幸若舞よりも低く見られたのです。社寺から受ける待遇も、極めて低いものだつたでせう。伶人・楽人などゝは比べられなかつたものと思はれます。
一〇 翁の語り
三河の北の山間、南、北
田楽の中にも、念仏踊り其儘、花鎮め行事を名のるものが残つてゐます。其が、此花祭りです。花に関しては、花の唱文・花の言ひ立て・花舞ひなどをする処もありますが、大して問題にして居ない様です。畢竟、かうした田楽を「花祭り」とか「花踊り」とか言つてゐたまゝを、承けついで来たのでせう。桜町中納言が、泰山府君に花の命乞ひをした伝説なども、田楽・念仏系統の伝へなのでせう。此祭りに、
翁は、どの村々にも必、ある様で、田楽祭りと称する村では、勿論、必あります。其語りにも色々ある様でありますが、主なものは、生ひ立ちの物語りと海道下りとである様です。此翁の語りの事を、猿楽と言ふのも、一般の事の様です。設楽郡の山地に入り初めの鳳来寺には、田楽の他に、地狂言と言ふものがあつて、其を猿楽と称へたらしい証拠があります。先年までしたのは、唯の芝居でしたが、其始まりのものは、三番叟であつて、此を特別の演出物としてゐます。此地狂言は、古くは、猿楽能に近いものを演じた様ですが、近代では、歌舞妓芝居より外はやりませんでした。此猿楽なる地狂言が、三番叟だけは保存してゐたと言ふのは、江戸芝居と一つで、翁が猿楽の目じるしだつたからであります。三番叟を主としたのは、猿楽の中の猿楽なる狂言だからでせう。豊根村の翁には、もどきがついて出て、文句を大きな声でくり返しました。鳳来寺の地狂言では、後に引いた幕の陰に、大勢の人が隠れてゐて、三番叟の詞をくり返して、囃したさうです。
花祭りの翁でも、役人は一人ではありません。翁の外に、松風丸(又は松風・松かげ)と言ふ女面があり、三番があるのが普通の様です。翁の言ひ立ての後で、三番叟(信州新野では、しようじっきり)が出て、翁のおどけ文句以上に、狂言を述べる。松風は所作はわからぬが、千歳の若役を若女形でするので、田楽らしい為方です。田楽には、女も役人に加はつてゐました。だから、千歳役も、田楽の猿楽では、女千歳であつた事があるのでせう。其が仮面になつたのかも知れませぬ。翁の語りの中に「松風のじぶんな、
生ひ立ちは、神の名のりの詞章の種姓明しの系統で、其に連れて、村・家の歴史を語る形式が、壊れたものです。こゝの翁も、脇方・狂言方らしい姿を見せてゐるのです。海道下りは遠くから来た神が、其道筋の出来事を語る辛苦物語から出てゐるもので、道行ぶりの古い形が其で、早く、神人流離の物語や、英雄征旅の史実の様になつたものです。其から出た道行ぶりが、記・紀にも既に発達してゐます。而も、此を所作に示す「歩きぶり」が、芸としての鑑賞の目的にさへなつてゐました。つまり「前わたり」の芸能なのです。此は元、見聞を語つて、世間的な知識を授ける詞章のあつたのが、変化して来たのであります。
一一 ある言ひ立て
以上の夜話の後、私どもは、山崎楽堂さんの「申楽の翁」を聴かして貰ひました。其理会と愛執とから出て来る力には、うたれないでは居られませんでした。此続き話なども、大分、其影響をとり込んで来さうな気がいたします。其で、やがて、発表になるはずの、山崎さんの論旨を先ぐりした部分も出て来さうで、気がひけてなりません。併しまあ、此も芸能にはつきものゝもどきがしや/\り出たとでも思うて戴きます。
こんな事を申し上げるのも、外ではありません。学問の研究の由つて来たる筋道と、発表の順序とだけは、厳重にはつきりさせて置くと言ふ、礼儀を思ふからであります。私どものしてゐる民俗学の発生的見地は、学者自身の研究発表の上にも、当然、持せられるべきはずであります。内外の事情の交錯発生する過程を明らかにすると言ふ事は、研究方法を厳しく整へるよりも、もつと/\重大な事なのです。
殊に「申楽の翁」の如き、まだ記録を公にしない研究から、多分論理をひき続けて行く私の論文の様な場合には、此用意が大事だと感じました。
如何様な価値と分量とを持つた論文にしても、其基礎の幾分をなしてゐる、未発表の研究を圧倒して了ふ権利はない訣なのです。私は常に、此だけは、新しい実感の学問の学徒としての、光明に充ちた態度と心得てゐるのであります。
一二 春のまれびと
柳田国男先生の「雪国の春」は、雪間の猫柳の輝く様な装ひを凝して、出ました。私どもにとつては、真に、春のまれびとの新しいことぶれの様な気がします。殊に身一つにとつて、はれがましい程の光栄に、自らみすぼらしさの顧みられるのは、春の鬼に関する愚かな仮説が、先生によつて、見かはすばかり立派に育てあげられてゐた事であります。此、真に、世の師弟の道を説く者に、絶好の例話として提供せらるべき事実であります。実の処、をこがましくも、春の鬼・
今から四年前(大正十三年)の初春でした。正月の東京朝日新聞が幾日か引き続いて、諸国正月行事の投書を発表した事がありました。其中に、
なもみ剥 げたか。はげたかよ
あづき煮えたか。にえたかよ
こんな文言を唱へて家々に躍り込んで来る、東北の春のまれびとに関する報告がまじつてゐました。私は驚きました。先生の論理を馬糞紙のめがふおんにかけた様な、私の沖縄のまれびと神の仮説に、ぴつたりしてゐるではありませんか。雪に埋れた東北の村々には、まだ、こんな姿の春のまれびとが残つてゐるのだ。年神にも福神にも、乃至は鬼にさへなりきらずにゐる、畏と敬と両方面から仰がれてゐる異形身のあづき煮えたか。にえたかよ
「雪国の春」を拝見すると、殆ど春のまれびと及び一人称発想の文学の発生と言ふ二つに、焦点を据ゑられてゐる様であります。殊に「真澄遊覧記を読む」の章の如きは、かの「なもみはげたか」の妖怪の百数十年前の状態を復元する事に、主力を集めてゐられます。馬糞紙のらつぱは、更に大きくして光彩陸離たる姿と、
一三 雪の鬼
真澄の昔も、今の世も、雪間の村々ではなもみを火だこと考へてゐる事は、明らかです。が、火だこを生ずる様な懶け者・かひ性なしを懲らしめる為とする信仰は、後の姿らしいのです。
かせとり・かさとりとも此を言ふ様ですが、此称へでは、全国的に春のほかひゞとの意味に用ゐてゐます。かせはこせなどゝ通じて、やがて又
ものもらひなどもさうです。恐らく、春のほかひゞとが此に関係して居つた為の名でせう。ばら/\に分布してゐる、此目瘡の方言まろとなる称へは、祝言・ことほぎがまだ、原信仰を存して、まらうどのするものとした時代から、ほかひ(乞士)・もの貰ひの職となつた頃まで、引き続いてゐた事を見せてゐる様に思ひます。即、まれびと瘡が、なもみの一種であつたらしい、と言ふ仮説を持つてゐたのであります。なもみ瘡が、薬草の

かう言ふ風に考へられてゐる、私の疎かな組織に組み入れた春の妖怪は、沖縄にも、旧日本にもあつたのです。
寺々の夜叉神も、陰陽師・唱門師から、地神経を弾いた盲僧・田楽法師の徒に到るまで、家内・田園の害物・疾病・悪事を叱り除ける唱へ言を伝へてゐたのも、皆、此まれびと」としての本来の俤を留めてゐたのです。
私は数年来、知らぬ奥在所の人々からは、気の知れぬと思はれるばかり、春の初めを幾度か、三・遠二州の山間に暮しました。其処で見た田楽や田楽系統の神事舞の中にも、やはり正式には、家内・田園の凶悪を叱る言ひ立てを見出しました。此が大抵、翁或は其変形したものゝ発する祭文或は宣命といふものになつて居りました。
一四 菩薩練道
牛祭りの祭文を見たばかりでは、こんな放漫な詞章がと驚かれる事ですが、邪悪を除却する宣命の所謂ことほぎのみだりがはしきに趨く径路を知つて居れば、不思議はない事です。あれは、人身及び屋敷の垣内・垣外の庶物の中に棲む精霊に宣下し、慴伏せしめる詞なのです。
大昔には、海の彼方の常世の国から来るまれびとの為事であつたのが、後には、地霊の代表者なる山の神の為事になり、更に山の神としての資格に於ける地主神の役目になつたものでした。さうして、其地主神が、山の鬼から天狗と言ふ形を分化し、天部の護法神から諸菩薩・夜叉・羅刹神に変化して行く一方に、村との関係を血筋で考へた方面には、老翁又は尉と姥の形が固定してまゐりました。
だから、此等の山の神の姿に扮する山の神人たちの、宣命・告白を目的とした群行の中心が鬼であり、翁であり、又変じて、唯の神人の尉殿、或は乞士としての太夫であつたのは、当然であります。翁及び翁の分化した役人が、此宣命を主とする理由は訣りませう。仮りに翁の為事を分けて見ますと、
語り
宣命
家・村ほめ
此三つになります。さうして、其中心は、勿論宣命にあるのです。でも、此三つは皆一つ宣命から分化した姿に過ぎないのです。宣命
家・村ほめ
一五 翁の宣命
宣命と名のつく物、宣命としての神事の順番に陳べられるものは、其詞章がたとひ、埒もない子守り唄の様に壊れて了うてゐるのでも、庶物の精霊に対する効果は、恐ろしい鎮圧の威力を持つものでした。中世以後、祝詞・祭文以外に、宣命といふ種類が、陰陽師流の神道家の間に行はれてゐました。続日本紀以降の天子の宣命と、外形は違つてゐて、本質を一つにするものでした。私の考へでは、此宮廷の宣命が、古代ののりとの原形を正しく伝へてゐるものなのです。神の宣命なるのりとを人神の天子ののりとなる宣命としたゞけの事です。常世神ののりとにおきましては、神自身及び精霊の来歴・種姓を明らかにして、相互の過去の誓約を新たに想起せしめる事が、主になつてゐました。此精霊服従の誓約の本縁を言ふ物語が、呪詞でもあり、叙事詩でもあつた姿の、最古ののりとなのです。其が岐れて、呪詞の方は、神主ののりとと固定し、叙事詩の側は、
翁の語りは次第に、教訓や諷諭に傾いて来ましたが、尚、語りの中にすら、宣命式の効果は含まれてゐたのです。家・村ほめの形にも、勿論、土地鎮静の義あることは言ふまでもありません。
一六 松ばやし
高野博士は、昔から鏡板の松を以て、奈良の
処が、近頃の私は、もつと細かく考へて見る必要を感じ出して居ります。其は、鏡板の松が松ばやしの松と一つ物だといふ事です。謂はゞ一の松の更に分裂した形と見るのであります。松をはやすといふ事が、赤松氏・松平氏を囃すなどゝ言ふ合理解を伴ふやうになつたのは、大和猿楽の擁護者が固定しましてからです。初春の為に、山の松の木の枝がおろされて来る事は、今もある事で、松迎へといふ行事は、いづれの山間でも、年の暮れの敬虔な慣例として守られて居ます。おろすというてきると言はない処に縁起がある如く、はやすと言ふのも、伐る事なのです。はなす・はがす(がは鼻濁音)などゝ一類の語で、分裂させる義で、ふゆ・ふやすと同じく、霊魂の分裂を意味してゐるらしいのです。此は、万葉集の東歌から証拠になる三つばかりの例歌を挙げる事が出来ます。
囃すと宛て字するはやすは、常に、語原の栄やすから来た一類と混同せられてゐます。山の木をはやして来るといふ事は、神霊の寓る木を分割して来る事なのです。さうして、其を搬ぶ事も、其を屋敷に立てゝ祷る事も、皆、はやすといふ語の含む過程となるのです。大和猿楽其他の村々から、京の檀那衆なる寺社・貴族・武家に、この分霊木を搬んで来る曳き物の行列の器・声楽や、其を廻つての行進舞踊は勿論、檀那家の屋敷に立てゝの神事までをも込めて、はやす・はやしと称する様になつたのだと、言ふ事が出来ると思ひます。畢竟、室町・戦国以後、京都辺で称へた「松ばやし」は、家ほめに来る能役者の、屋敷内での行事及び路次の道行きぶり(風流)を総称したものと言へまして、元、田楽法師の間にも此が行はれて居たのであります。其はやしの中心になる木は、何の木であつたか知れません。が、田楽
此が、後世色々な分流を生んだ祇園囃しの起原です。元、祇園林を曳くに伴うた音楽・風流なる故の名でしたのが、夏祭りの曳き山・地車の、謂はゞ木遣り囃しと感ぜられる様になつたのでした。だから、祇園林を一方、八阪の神の林と感じた事さへあるのです。勿論、祇陀園林の訳語ではありません。此林田楽などは、恐らく、近江猿楽の人々が、田楽能の脇方として成長してゐた時代に、出来たものではないのでせうか。
此松ばやしは、猿楽能独立以後も、久しく、最大の行事とせられてゐたものではありますまいか。此事も恐らくは、翁が中心になつて、其宣命・語り・家ほめが行はれてゐたものと考へられるのですが、唯今、其証拠と見るべきものはありません。が、唯暦法の考へを異にする事から生じた初春の前晩の行事が、尠くとも二つあります。即、社では、春日若宮祭りの一の松以下の行事、寺では興福寺の二月の薪能です。此等は皆翁や風流を伴つてゐました。其ばかりか、脇能も行はれてゐたのです。薪能は田楽の中門口と同じ意味のものであつたらしいし、御祭りは全く、松ばやしの典型的のものであつたものと言へます。此場合に、松は、山からはやして来たものでなく、立ち木を以て、直ちに、神影向の木||事実にも影向の松と言つた||と見たのです。翁は御祭りから始まつたのではなく、其一の松行事が、翁の一つの古い姿だつた事を示すものです。二つながら、神影向の木或は分霊の木の信仰から出てゐます。薪能の起りは、恐らく翁一類の山人が、山から携へて来る山づとなる木を、門前に立てゝ行く処にあつたのであらうと思ふのです。かうして見ると、八瀬童子が献つた八瀬の黒木の由来も、山づとにして、分霊献上を意味する木なる事が、推測せられるではありませんか。此が更に、年木・竈木の起りになるのです。
一七 もどきの所作
私は、日本の演芸の大きな要素をなすものとして、もどき役の意義を重く見たいと思ひます。近代の猿楽に宛てゝ見れば、狂言方に当るものです。だが、元々、神と精霊と||其々のつれ||の対立からなつてゐる処に、日本古代の神事演芸の単位があります。だからして方に対して、単に、わき方||或はあどと称する||に相当する者があつたゞけです。其中、わき方が分裂して、わき及び狂言となつたのです。訣り易く言はうなら、もどき役から脇・狂言が分化したといふ方がよい様であります。
もどきは田楽の上に栄えた役名で、今も、神楽の中には、ひよつとこ面を被る役わり及び面自体の称へとなつて、残つてゐます。もどき役は、後ほど、狂言方と一つのものと考へられて来ましたが、古くは、脇・狂言を綜合した役名でありました。私は前に猿楽のもどき的素地を言ひました。今、其を再説する機会に遇うた事を感じます。
もどくと言ふ動詞は、反対する・逆に出る・批難するなど言ふ用語例ばかりを持つものゝ様に考へられます。併し古くは、もつと広いものゝ様です。尠くとも、演芸史の上では、物まねする・説明する・代つて再説する・説き和げるなど言ふ義が、加はつて居る事が明らかです。「人のもどき負ふ」など言ふのも、自分で、赧い顔をせずに居られぬ様な事を再演して、ひやかされる処に、批難の義が出発しましたので、やはり「ものまねする」の意だつたのでせう。
田楽に於けるもどきは、猿楽役者の役処であつたらしく、のみならず、其他の先輩芸にも、もどきとしてついてゐたものと思ひます。其中、最関係の深かつた田楽能から分離する機会を捉へたものが、猿楽能なる分派を開いたのでせう。ちようど、万歳太夫に附属する才蔵が、興行団を組織して歩く尾張・三河の海辺の神楽芸人に似た游離が行はれて、自立といふ程のきはやかな運動はなく、自然の中に、一派を立てたのと同様だと思ひます。此点は、世阿弥十六部集を読む人々に特に御注意を願はねばならぬ処で、田楽・曲舞などに対する穏かな理会のある態度は、かうして始めてわかるのです。呪師猿楽と並称せられた呪師の本芸が、田楽師の芸を成立させると同時に、猿楽は能と狂言とを重にうけ持つ様になつて行つたのです。だから、総括して、田楽法師と見られてゐる者の中にも、正確には、猿楽師も含まれてゐた事は考へてよいと思ひます。林田楽など言ひました曳き物も、ひよつとすれば、田楽師のもどき方なる猿楽師(近江)の方から出たもので、松ばやしと一つ物と言ふ事はさしつかへないかも知れませぬ。
猿楽はもどき役として、久しい歴史の記憶から、存外、脇方を重んじてゐるのかも知れません。柳営の慶賀に行はれた
一八 翁のもどき
遠州や三州の北部山間に残つてゐる田楽や、其系統に属する念仏踊りや、唱門師風の舞踏の複合した神楽、花祭りの類の演出を見まして、もどきなる役の本義が、愈明らかになつて来た様に感じました。説明役であることもあり、をこつき役である場合もあり、脇役を意味する時もあるのでした。翁に絡んで出るもどきには、此等が皆備つてゐるのでした。まづ正面からもどきと言はれるのは、翁と共に出て、翁より
翁の形式が幾通りにもくり返されます。ねぎとか、なかと祓||中臣祓を行ふ役の意らしい||とか海道下りとか称へてゐるのは、皆、翁の役を複演するもので、一種の異訳演出に過ぎないのです。即、翁を演ずる役者なるねぎの、其の村に下つた由来と経歴とを語るのでした。だから、此は翁のもどきなのです。処が、翁にも此番にも、多くのをこつきのもどきが出て、荒れ廻ります。而も、此外に必、翁に対して、今一つ、黒尉が出ます。此を三番叟といふ処もあり、しようじっきりと言ふ地もあります。又猿楽とも言ひます事は、前に述べました。此は大抵、翁の為事を平俗化し、敷衍して説明する様な役です。が、其に特殊な演出を持つてゐます。前者の言ふ所を、異訳的に、ある事実におし宛てゝ説明する、と言ふ役まはりなのです。翁よりは早間で、滑稽で、世話に砕けたところがあり、大体にみだりがはしい傾向を持つたものです。
信州
つい此頃も、旧正月の観音の御縁日に、遠州奥山村(今は水窪町)の
一九 もどき猿楽狂言
大抵、まじめな一番がすむと、装束や持ち物も、稍、壊れた風で出て来て、前の舞を極めて早間にくり返し、世話式とでも謂つた風に舞ひ和らげ、おどけぶりを変へて、勿論、時間も早くきりあげて、引き込むのです。
此で考へると、もどき方は大体、通訳風の役まはりにあるものと見てよさゝうです。其中から分化して、詞章の通俗的飜訳をするものに、猿楽旧来の用語を転用する様になつて行つたのではありますまいか。して見れば、言ひ立てを主とする翁のもどきなる三番叟を、猿楽といふのも、理由のあつた事です。
此猿楽を専門とした猿楽能では、其役を脇方と分立させて、わかり易く狂言と称へてゐ、又をかしとも言ひます。此は、をかしがらせる為の役を意味するのではなく、もどき同様、犯しであつたものと考へられます。こゝに、猿楽が「言」と「能」との二つに岐れて行く理由があるのです。能は脇方としての立ち場から発達したもの、狂言は言ひ立て・説明の側から出た名称と見られませう。
かうして見ますと、狂言方から出る三番叟が、実は翁のもどき役である事が知れませう。さうして、其が猿楽能の方では、舞が主になつて、言ひ立ての方が疎かになつて行つたものと見る事が出来ます。
かう申せば、翁は実に神聖な役の様に見えますし、して方元来の役目の様に見えますが、私はそこに問題を持つてゐるのです。一体、白式・黒式両様の尉面では、私に言はせると、黒式が古くて、白式は其神聖観の加はつて来た時代の純化だ、とするのです。
役から見ると「翁のもどき」として、三番叟が出来たのですが、面から言ふと、逆になります。白式の翁も元は、黒尉を被つて出たものであつたのを、採桑老風の面で表さねばならぬ程、聖化したのです。さうして、其もどき役の方に黒面を残したものと見られるのです。
此黒面は、私は山人のしるしだと思ふのであります。譬へば、踏歌節会の
併し、ちよつと申して置きました様に、黒といふ語が、我が国では、一種異様な舞踊の保持団体と関係のありさうなのは事実です。黒山舞の昔から、黒川能・黒倉田楽・黒平三番叟など皆山中の芸能村なのです。此等のくろは顔面の黒色を意味するものか、其とも、技芸の正雑を別つ上の用語か、今の処断言はいたしかねるのですが、何にしても「山人舞」と深い関係は考へられようと思ひます。