忘れもせぬ、其時味方は森の中を走るのであった。シュッシュッという
弾丸の中を
落来る小枝をかなぐりかなぐり、
山査子の株を縫うように進むのであったが、
弾丸は段々烈しくなって、森の
前方に何やら赤いものが
隠現見える。第一中隊のシードロフという未だ
生若い兵が
此方の戦線へ
紛込でいるから
如何してだろう?

と
忙しい中で
閃と
其様な事を疑って見たものだ。スルト
其奴が矢庭にペタリ尻餠を
搗いて、
狼狽た眼を円くして、ウッとおれの
面を看た其口から血が
滴々々······いや眼に見えるようだ。眼に見えるようなは
其而已でなく、其時ふッと気が付くと、森の殆ど
出端の
蓊鬱と
生茂った
山査子の中に、
居るわい、敵が。大きな
食肥た奴であった。俺は痩の
虚弱ではあるけれど、やッと云って
躍蒐る、バチッという音がして、何か斯う大きなもの、トサ其時は思われたがな、それがビュッと飛で来る、耳がグヮンと鳴る。打たなと気が付た頃には、敵の奴めワッと云て
山査子の
叢立に
寄懸って了った。
匝れば
匝られるものを、恐しさに度を失って、
刺々の枝の中へ片足
踏込で
躁って
藻掻いているところを、ヤッと
一撃に銃を叩落して、やたら
突に銃劔をグサと
突刺すと、
獣の
吼るでもない
唸るでもない変な声を出すのを聞捨にして駈出す。味方はワッワッと
鬨を作って、
倒ける、
射つ、という真最中。俺も森を
畑へ駈出して
慥か二三発も撃たかと思う頃、忽ちワッという
鬨の声が一段高く聞えて、皆一斉に走出す、皆走出す中で、俺はソノ
······旧の処に居る。ハテなと思た。それよりも
更と不思議なは、忽然として
万籟死して
鯨波もしなければ、銃声も聞えず、音という音は皆消失せて、唯何やら
前面が蒼いと思たのは、大方空であったのだろう。
頓て其蒼いのも
朦朧となって了った
······ どうも変さな、何でも
伏臥になって居るらしいのだがな、眼に
遮ぎるものと云っては、唯
掌大の地面ばかり。
小草が
数本に、その一本を伝わって
倒に
這降りる蟻に、去年の
枯草のこれが
筐とも見える
芥一摘みほど
||これが其時の眼中の小天地さ。それをば片一方の眼で視ているので、片一方のは何か堅い、木の枝に違いないがな、それに
圧されて、そのまた枝に頭が
上っていようと云うものだから、ひどく工合がわるい。
身動を
仕たくも、不思議なるかな、
些とも出来んわい。其儘で暫く
経つ。
竈馬の
啼く
音、蜂の
唸声の外には何も聞えん。
少焉あって、一しきり
藻掻いて、体の下になった右手をやッと
脱して、両の
腕で体を支えながら起上ろうとしてみたが、何がさて
鑽で揉むような痛みが膝から胸、
頭へと貫くように
衝上げて来て、俺はまた倒れた。また真の闇の
跡先なしさ。
ふッと眼が覚めると、薄暗い空に星影が
隠々と見える。はてな、これは
天幕の内ではない、何で俺は
此様な処へ出て来たのかと
身動をしてみると、足の痛さは骨に
応えるほど!
何さまこれは負傷したのに相違ないが、それにしても
重傷か
擦創かと、
傷所へ手を
遣ってみれば、右も左もべッとりとした
血。
触れば益々痛むのだが、その痛さが
齲歯が痛むように
間断なくキリキリと
腹を

られるようで、耳鳴がする、頭が重い。両脚に負傷したことはこれで
朧気ながら分ったが、さて合点の行かぬは、
何故此儘にして置いたろう?
豈然とは思うが、もしヒョッと味方敗北というのではあるまいか? と、まず、
遡って当時の事を憶出してみれば、初め
朧のが
末明亮となって、いや
如何しても敗北でないと収まる。何故と云えば、俺は、ソレ倒れたのだ。尤もこれは
瞭とせぬ。何でも皆が駈出すのに、俺一人それが出来ず、何か
前方が青く見えたのを憶えているだけではあるが、兎も角も小山の上の
此畑で倒れたのだ。これを指しては、
背低の大隊長殿が占領々々と
叫いた通り、此処を占領したのであってみれば、これは敗北したのではない。それなら何故俺の始末をしなかったろう? 此処は
明放しの
濶とした処、見えぬことはない筈。それに此処でこうして転がっているのは俺ばかりでもあるまい。敵の射撃は
彼の通り猛烈だったからな。
好し一つ頭を
捻向けて
四下の
光景を視てやろう。それには丁度
先刻しがた眼を覚して例の
小草を
倒に
這降る蟻を視た時、
起揚ろうとして
仰向に
倒けて、
伏臥にはならなかったから、勝手が
好い。それで此星も、成程な。
やっとこなと起かけてみたが、何分両脚の
痛手だから、なかなか起られぬ。
到底も
無益だとグタリとなること二三度あって、さて
辛うじて半身起上ったが、や、その痛いこと、覚えず
泪ぐんだくらい。
と視ると頭の上は薄暗い空の一角。大きな星一ツに小さいのが
三ツ
四ツきらきらとして、
周囲には何か黒いものが
矗々と立っている。これは即ち
山査子の灌木。俺は灌木の中に居るのだ。さてこそ置去り
······ と思うと、
慄然として、
頭髪が
弥竪ったよ。しかし待てよ、
畑で
射られたのにしては、この灌木の中に居るのが
怪しい。してみればこれは傷の痛さに夢中で此処へ
這込だに違いないが、それにしても其時は此処まで
這込み得て、今は
身動もならぬが不思議、或は
射られた時は一ヵ所の負傷であったが、此処へ
這込でから
復た一発
喰ったのかな。
蒼味を帯びた
薄明が
幾個ともなく
汚点のように
地を
這って、大きな星は薄くなる、小さいのは全く消えて了う。ほ、月の
出汐だ。これが
家であったら、さぞなア、好かろうになアと
······ 妙な声がする。
宛も人の
唸るような
······いや
唸るのだ。誰か同じく
脚に
傷を負って、
若くは腹に
弾丸を
有って、
置去の
憂目を見ている奴が其処らに
居るのではあるまいか。
唸声は
顕然と近くにするが
近処に人が居そうにもない。はッ、これはしたり、何の
事た、おれおれ、この俺が
唸るのだ。微かな情ない声が出おるわい。そんなに痛いのかしら。痛いには違いあるまいが、頭がただもう
茫と
無感覚になっているから、それで分らぬのだろう。また
横臥で夢になって了え。
眠ること眠ること
······が、もし
万一此儘になったら
······えい、
関うもんかい!
臥ようとすると、蒼白い月光が隈なく
羅を敷たように仮の
寝所を照して、五歩ばかり先に何やら黒い大きなものが見える。月の光を浴びて身辺
処々燦たる
照返を
見するのは
釦紐か武具の光るのであろう。はてな、
此奴死骸かな。それとも
負傷者かな?
何方でも
関わん。おれは
臥る
······ いやいや
如何考えてみても
其様な筈がない。味方は何処へ往ったのでもない。此処に居るに相違ない、敵を
逐払って此処を守っているに相違ない。それにしては話声もせず
篝の
爆る音も聞えぬのは何故であろう? いや、
矢張己が弱っているから何も聞えぬので、其実味方は此処に居るに相違ない。
「助けてくれ助けてくれ!」
と
破れた
人間離のした
嗄声が
咽喉を
衝いて
迸出たが、応ずる者なし。大きな声が夜の空を
劈いて四方へ響渡ったのみで、
四下はまた
闃となって了った。ただ相変らず
蟋蟀が鳴しきって
真円な月が悲しげに人を照すのみ。
若し其処のが
負傷者なら、この
叫声を聴いてよもや気の付かぬ事はあるまい。してみれば、これは死骸だ。味方のかしら、敵のかしら。ええ、馬鹿くさい! そんな事は
如何でも好いではないか? と、また
腫
を夢に閉じられて了った。
先刻から覚めてはいるけれど、尚お眼を
瞑ったままで
臥ているのは、閉じた
越にも
日光が
見透されて、
開けば必ず眼を射られるを
厭うからであるが、しかし考えてみれば、斯う
寂然としていた方が
勝であろう。
昨日······たしか
昨日と思うが、
傷を負ってから
最う一昼夜、こうして二昼夜三昼夜と
経つ内には死ぬ。何の
業くれ、死は一ツだ。
寧そ
寂然としていた方が
好い。
身動がならぬなら、せんでも
好い。
序に頭の
機能も
止めて欲しいが、こればかりは
如何する事も出来ず、
千々に思乱れ
種々に
思佗て頭に
些の隙も無いけれど、よしこれとても
些との
間の辛抱。
頓て浮世の
隙が明いて、
筐に遺る新聞の
数行に、我軍死傷少なく、負傷者何名、志願兵イワーノフ戦死。いや、名前も出まいて。ただ一名戦死とばかりか。兵一名!
嗟矣彼の犬のようなものだな。
在りし昔が
顕然と目前に浮ぶ。これはズッと昔の事、尤もな、昔の事と思われるのは是ばかりでない、おれが一生の事、足を撃れて此処に倒れる迄の事は何も
彼もズッと昔の事のように思われるのだが
······或日町を通ると、人だかりがある。思わずも足を
駐めて視ると、何か哀れな悲鳴を揚げている
血塗の白い物を皆
佇立てまじりまじり視ている
光景。何かと思えば、それは
可愛らしい小犬で、鉄道馬車に敷かれて、今の俺の身で死にかかっているのだ。すると、何処からか番人が出て来て、見物を押分け、犬の
衿上をむずと
掴んで何処へか持って
去く、そこで見物もちりぢり。
誰かおれを持って
去って呉れる者があろうか? いや、此儘で死ねという事であろう。が、しかし考えてみれば、人生は面白いもの、あの犬の不幸に
遭った日は俺には即ち幸福な日で、歩くも何か酔心地、また然うあるべき
理由があった。ええ、憶えば辛い。憶うまい憶うまい。むかしの幸福。今の苦痛
······苦痛は兎角免れ得ぬにしろ、懐旧の念には責められたくない。昔を
憶出せば自然と今の我身に引比べられて
遣瀬無いのは
創傷よりも
余程いかぬ!
さて大分熱くなって来たぞ。日が照付けるぞ。と、眼を
開けば、例の
山査子に例の空、ただ白昼というだけの違い。おお、隣の人。ほい、敵の死骸だ! 何という大男! 待てよ、見覚があるぞ。
矢張彼の男だ
······ 現在俺の手に掛けた男が眼の前に
踏反ッているのだ。何の恨が有っておれは此男を手に掛けたろう?
ただもう
血塗になってシャチコばっているのであるが、
此様な男を戦場へ引張り出すとは、運命の神も聞えぬ。一体何者だろう? 俺のように
年寄った母親が
有うも
知ぬが、さぞ夕暮ごとにいぶせき
埴生の
小舎の戸口に
彳み、
遥の空を
眺ては、命の綱の
人は戻らぬか、
愛し我子の姿は見えぬかと、永く永く待わたる事であろう。
さておれの身は
如何なる事ぞ? おれも
亦まツこの通り
······ああ此男が
羨ましい!
幸福者だよ、何も
聞ずに、傷の痛みも感ぜずに、昔を偲ぶでもなければ、命惜しとも思うまい。銃劒が心臓の
真中心を貫いたのだからな。それそれ軍服のこの大きな
孔、
孔の
周囲のこの血。これは
誰の
業? 皆こういうおれの
仕業だ。
ああ
此様な筈ではなかったものを。戦争に
出たは別段悪意があったではないものを。
出れば成程人殺もしようけれど、
如何してかそれは忘れていた。ただ
飛来る
弾丸に向い
工合、それのみを気にして、さて
乗出して
弥弾丸の的となったのだ。
それからの此始末。ええええ馬鹿め!
己は馬鹿だったが、此不幸なる
埃及の百姓(
埃及軍の服を着けておったが)、この百姓になると、これはまた一段と罪が無かろう。
鮨でも
漬けたように船に詰込れて
君士但丁堡へ送付られるまでは、
露西亜の事もバルガリヤの事も唯噂にも聞いたことなく、唯行けと云われたから来たのだ。
若しも
厭の何のと云おうものなら、
笞の
[#「笞の」は底本では「苔の」]憂目を見るは愚かなこと、いずれかのパシャのピストルの弾を
喰おうも知れぬところだ。スタンブールから此ルシチウクまで長い辛い行軍をして来て、我軍の攻撃に
遭って防戦したのであろうが、味方は名に負う
猪武者、
英吉利仕込のパテント
付のピーボヂーにもマルチニーにも
怯ともせず、前へ前へと進むから、始て
怖気付いて
遁げようとするところを、
誰家のか小男、
平生なら持合せの黒い
拳固一撃でツイ
埒が明きそうな小男が飛で来て、銃劒
翳して胸板へグサと。
何の罪も
咎も無いではないか?
おれも亦同じ事。殺しはしたけれど、何の罪がある? 何の報いで
咽喉の
焦付きそうなこの
渇き?
渇く!
渇くとは
如何なものか、御存じですかい? ルーマニヤを通る時は、百何十度という恐ろしい熱天に毎日十里
宛行軍したッけが、其時でさえ斯うはなかった。ああ
誰ぞ来て呉れれば
好いがな。
しめた! この男のこの大きな
吸筒、これには
屹度水がある! けれど、取りに行かなきゃならぬ。さぞ痛む
事たろうな。えい、
如何するもんかい、やッつけろ!
と、
這出す。
脚を
引摺りながら力の脱けた手で動かぬ体を動かして行く。死骸はわずか一間と隔てぬ所に在るのだけれど、その一間が時に取っては十里よりも
······遠いのではないが、難儀だ。けれども、
如何仕様も無い、
這って行く外はない。
咽喉は熱して
焦げるよう。
寧そ水を飲まぬ方が手短に片付くとは思いながら、それでも
若しやに
覊されて
······ 這って行く。
脚が地に
泥んで、
一と
動する
毎に痛さは
耐きれないほど。うんうんという
唸声、それが
頓て泣声になるけれど、それにも
屈ずに
這って行く。やッと
這付く。そら
吸筒||果して水が有る
||而も沢山!
吸筒半分も有ったろうよ。やれ嬉しや、是でまず当分は水に困らぬ
||死ぬ迄は困らぬのだ。やれやれ!
兎も角も、お蔭さまで助かりますと、
片肘に身を持たせて
吸筒の紐を
解にかかったが、ふッと中心を失って今は恩人の死骸の胸へ
伏倒りかかった。如何にも
死人臭い匂がもう
芬と鼻に来る。
飲んだわ飲んだわ! 水は
生温かったけれど、腐敗しては居なかったし、それに沢山に有る。まだ二三日は命が
繋がれようというもの、それそれ
生理心得草に、水さえあらば
食物なくとも人は
能く一週間以上
活くべしとあった。又
餓死をした人の話が出ていたが、その人は水を飲でいたばかりに永く死切れなかったという。
それが
如何した? 此上五六日生延びてそれが
何になる? 味方は居ず、敵は
遁げた、近くに往来はなしとすれば、これは
如何でも死ぬに
極っている。三日で済む苦しみを一週間に引延すだけの事なら、
寧そ早く片付けた方が
勝ではあるまいか? 隣のの
側に銃もある、而も
英吉利製の
尤物と見える。
一寸手を延すだけの世話で、直ぐ
埒が明く。皆打切らなかったと見えて、
弾丸も其処に沢山転がっている。
さア、死ぬか
||待ってみるか? 何を? 助かるのを? 死ぬのを? 敵が来て
傷を負ったおれの足の
皮剥に懸るを待ってみるのか? それよりも
寧そ我手で
一思に
······ でないことさ、そう気を落したものでないことさ。
活られるだけ
活てみようじゃないか。何のこれが見付かりさえすれば助かるのだ。事に寄ると、骨は
避けているかも知れんから、そうすれば必ず治る。国へ帰って母にも逢える、マ、マ、マリヤにも逢える
······ ああ国へはこうと知らせたくないな。
一思に死だと思わせて置きたいな。そうでもない
偶然おれが三日も四日も
藻掻ていたと知れたら
······ 眼が
眩う。隣歩きで
全然力が脱けた。それにこの
恐ろしい臭気は! 随分と土気色になったなア!
······これで
明日明後日となったら
||ええ思遣られる。今だって
些ともこうしていたくはないけれど、こう
草臥ては
退くにも
退かれぬ。少し休息したらまた
旧処へ戻ろう。幸いと風を
後にしているから、臭気は
前方へ持って行こうというもの。
全然力が脱けて了った。太陽は手や顔へ照付ける。何か
被りたくも
被る物はなし。
責て早く夜になとなれ。こうだによってと、これで二晩目かな。
などと思う事が次第に
糾れて、それなりけりに夢さ。
大分永く眠っていたと見えて、眼を覚してみればもう夜。さて何も変った事なし、傷は痛む、隣のは例の大柄の五体を横たえて相変らず
寂としたもの。
どうも此男の事が気になる。
遮莫おれにしたところで、
憐しいもの
可愛ものを残らず振棄てて、山超え川越えて三百里を
此様なバルガリヤ三
界へ来て、餓えて、
凍えて、暑さに苦しんで
||これが何と夢ではあるまいか? この
薄福者の命を断ったそればかりで、こうも苦しむことか? この人殺の外に、何ぞおれは戦争の
利益になった事があるか?
人殺し、人殺の大罪人
······それは
何奴? ああ情ない、此おれだ!
そうそう、おれが従軍しようと思立った時、母もマリヤも止めはしなかったが、泣いたっけ。何がさて空想で
眩んでいた
此方の眼にその
泪が
這入るものか、おれの心一ツで親女房に
憂目を見するという事に其時はツイ気が付かなんだが、今となって
漸う漸う眼が覚めた。
ええ、今更お
復習しても始まらぬか。昔を今に成す由もないからな。
しかし
彼時親類共の
態度が
余程妙だった。「何だ、馬鹿
奴! お先真暗で夢中に騒ぐ!」と、こうだ。何処を押せば
其様な
音が出る? ヤレ愛国だの、ソレ国難に殉ずるのという口の下から、
如何して
彼様な
毒口が云えた? あいらの眼で観ても、おれは即ち愛国家ではないか、国難に殉ずるのではないか? ではあるけれど、それはそうなれど、おれはソノ馬鹿だという。
で、まず、キシニョーフへ出て来て
背嚢やら何やらを
背負されて、数千の戦友と
倶に出征したが、その中でおれのように志願で行くものは四五人とあるかなし、大抵は皆成ろう事なら
家に寝ていたい
連中であるけれど、それでも善くしたもので、
所謂決死連の
己達と同じように従軍して、山を
超え川を
踰え、いざ戦闘となっても負けずに
能く戦う
||いや
更と
手際が好いかも知れぬてな。尤も許しさえしたら、何も
角も
抛て置いて
々と帰るかも知れぬが、兎も角も職分だけは
能く尽す。
颯と朝風が吹通ると、
山査子がざわ
立って、
寝惚た鳥が一羽飛出した。もう星も見えぬ。今迄薄暗かった空はほのぼのと
白みかかって、

い
羽毛を散らしたような雲が一杯に棚引き、灰色の
暗霧は空へ空へと晴て行く。これでおれのソノ
······何と云ったものかしら、生にもあらず、死にもあらず、謂わば
死苦の三日目か。
三日目
······まだ
幾日苦しむ事であろう? もう永くはあるまい。大層弱ったからな。此
塩梅では死骸の
側を離れたくも、もう離れられんも知れぬ。やがておれも是になって、肩を
比べて
臥ていようが、お互に胸悪くも思はなくなるのであろう。
兎に角水は十分に飲むべし。一日に三度飲もう、朝と昼と晩とにな。
日の出だ! 大きく盆のようなのが、黒々と見ゆる
山査子の枝に
縦横に
断截られて血潮のように
紅に、今日も大方熱い事であろう。それにつけても、隣の
||貴様はまア何となる事ぞ? 今でさえ見るも浅ましいその姿。
ほんに浅ましい姿。髪の毛は段々と
脱落ち、
地体が黒い
膚の色は
蒼褪めて黄味さえ帯び、顔の
腫脹に皮が釣れて耳の
後で
罅裂れ、そこに
蛆が
蠢き、
脚は
水腫に
脹上り、脚絆の
合目からぶよぶよの肉が大きく
食出し、全身むくみ上って
宛然小牛のよう。今日一日太陽に
晒されたら、これがまア
如何なる事ぞ? こう寄添っていては
耐らぬ。骨が
舎利に成ろうが、これは何でも離れねばならぬ
||が、出来るかしら? 成程手も挙げられる、
吸筒も開けられる、水も飲めることは飲めもするが、この重い動かぬ体を動かすことは? いや出来ようが出来まいが、何でも
角でも動かねばならぬ、
仮令少しずつでも、一時間によし半歩ずつでも。
で、
弥移居を始めてこれに
一朝全潰れ。傷も
痛だが、何のそれしきの事に
屈るものか。もう健康な時の心持は
忘たようで、全く
憶出せず、何となく
痛に
慣んだ形だ。一間ばかりの所を一朝かかって
居去って、
旧の処へ
辛うじて
辿着きは着いたが、さて新鮮の空気を呼吸し得たは束の間、尤も形の
徐々壊出した死骸を六歩と離れぬ所で新鮮の空気の沙汰も
可笑しいかも知れぬが
||束の間で、風が変って今度は
正面に
此方へ吹付ける、その臭さに胸がむかつく。
空の胃袋は
痙攣を起したように引締って、
臓腑が
顛倒るような苦しみ。臭い腐敗した空気が意地悪くむんむッと
煽付ける。
精も根も尽果てて、おれは到頭泣出した。
全く
敗亡て、ホウとなって、殆ど人心地なく
臥て
居た。ふッと
······いや心の迷の空耳かしら? どうもおれには
······おお、
矢張人声だ。
蹄の音に話声。危なく声を立てようとして、待てしばし、
万一敵だったら、其の時は
如何する? この苦しみに輪を掛けた新聞で読んでさえ
頭の
髪の
弥竪そうな目に
遭おうも
知ぬ。随分
生皮も
剥れよう、
傷を負うた
脚を
火炙にもされよう
······それしきは
未な事、こういう事にかけては頗る思付の
好い
渠奴等の事、
如何な事をするか
知たものでない。
渠奴等の手に掛って
弄殺しにされようより、此処でこうして死だ方が
寧そ
勝か。とはいうものの、もしひょッと是が味方であったら? えい
山査子奴がいけ邪魔な! 何だと云ってこう隙間なく垣のように生えくさった? 是に
遮られて何も見えぬ。でも嬉やたった一ヵ所窓のように枝が
透いて遠く
低地を見下される所がある。あの
低地には
慥か小川があって戦争
前に其水を飲だ筈。そう云えばソレ
彼処に
橋代に
架した大きな
砂岩石の
板石も見える。多分是を渡るであろう。もう話声も聞えぬ。
何国の
語で話ていたか、
薩張聴分られなかったが、耳さえ今は遠くなったか。
己れやれ是が味方であったら
······此処から
喚けば、
彼処からでもよもや聴付けぬ事はあるまい。
憖いに早まって
虎狼のような
日傭兵の手に掛ろうより、其方が
好い。もう
好加減に通りそうなもの、何を
愚頭々々しているのかと、一刻千秋の思い。死骸の臭気は
些も薄らいだではないけれど、それすら忘れていた位。
不意に橋の上に味方の騎兵が
顕れた。藍色の軍服や、赤い筋や、鎗の穂先が
煌々と、一隊
挙って五十騎ばかり。隊前には
黒髯を
怒らした一士官が
逸物に
跨って進み行く。残らず橋を渡るや否や、士官は馬上ながら急に
後を
捻向いて、
大声に
「駈足イ!」
「おおい、待って呉れえ待って呉れえ! お願いだ。助けて呉れえ!」
競立った馬の
蹄の音、サーベルの響、がやがやという話声に
嗄声は
消圧されて
||やれやれ聞えぬと見える。
ええ情ないと、気も張も一
時に脱けて、パッタリ地上へひれ伏しておいおい泣出した。
吸筒が倒れる、中から水
||といえば其時の命、命の綱、いやさ
死期を
緩べて呉れていようというソノ霊薬が
滾々と流出る。それに心附いた時は、もうコップ半分も残ってはいぬ時で、大抵はからからに
乾燥いで
咽喉を鳴らしていた地面に吸込まれて了っていた。
この情ない目を見てからのおれの失望落胆と云ったらお話にならぬ。眼を
半眼に閉じて死んだようになっておった。風は始終
向が変って、或は清新な空気を吹付けることもあれば、又或は例の臭気に
嗔咽させることもある。此日隣のは
弥々浅ましい姿になって其惨状は筆にも紙にも尽されぬ。一度
光景を
窺おうとして、ヒョッと眼を
開いて視て、
慄然とした。もう顔の
痕迹もない。骨を離れて流れて了ったのだ。
無気味にゲタと笑いかけて其儘固まって了ったらしい
頬桁の、その厭らしさ浅ましさ。随分
髑髏を扱って人頭の標本を製した覚もあるおれではあるが、ついぞ
此様なのに出逢ったことがない。この骸骨が軍服を着けて、
紐釦ばかりを光らせている所を見たら、覚えず胴震が出て心中で嘆息を漏した、「
嗚呼戦争とは
||これだ、これが即ち其姿だ」と。
相変らずの
油照、手も顔も
既うひりひりする。残少なの水も一滴残さず飲干して了った。
渇いて渇いて耐えられぬので、
一滴甞める
積で、おもわずガブリと皆飲んだのだ。
嗚呼彼の騎兵がツイ
側を通る時、
何故おれは声を立てて呼ばなかったろう? よし
彼が敵であったにしろ、まだ其方が
勝であったものを。なんの高が一二時間
責さいなまれるまでの事だ。それをこうして居れば未だ
幾日ごろごろして苦しむことか知れぬ。それにつけても
憶出すは母の事。こうと知ったら、定めし
白髪を
引
って、頭を壁へ打付けて、おれを産んだ日を
悪日と
咒って、人の子を苦しめに、戦争なんぞを発明した此世界をさぞ
罵る
事たろうなア!
だが、母もマリヤもおれがこう
死に死ぬことを風の
便にも知ろうようがない。ああ、母上にも
既う逢えぬ、いいなずけのマリヤにも
既う逢えぬ。おれの恋ももう
是限か。ええ情けない! と思うと胸が一杯になって
······ えい、また白犬めが。番人も
酷いぞ、頭を壁へ叩付けて置いて、
掃溜へポンと
抛込んだ。まだ
息気が
通っていたから、それから一日苦しんでいたけれど、
彼犬に
視べればおれの方が
余程惨憺だ。おれは
全三日苦しみ通しだものを。
明日は四日目、それから五日目、六日目
······死神は何処に
居る? 来てくれ! 早く引取ってくれ!
なれど死神は来てくれず、引取ってもくれぬ。此凄まじい日に照付られて、一滴水も飲まなければ、
咽喉の
炎えるを
欺す
手段なく
剰さえ
死人の
臭が
腐付いて
此方の体も
壊出しそう。その
臭の
主も全くもう
溶けて了って、ポタリポタリと落来る無数の
蛆は其処らあたりにうようよぞろぞろ。是に
食尽されて其主が全く骨と服ばかりに成れば、其次は
此方の番。おれも同じく此姿になるのだ。
その日は暮れる、夜が明ける、何も変った事がなくて、朝になっても同じ事。また一日を
空に過す
······ 山査子の枝が揺れて、ざわざわと
葉摺の音、それが
宛然ひそめきたって物を云っているよう。「そら死ぬそら死ぬそら死ぬ」と耳の
端で
囁けば、
片々の耳元でも懐しい
面「もう見えぬもう見えぬもう見えぬ」
「見えん筈じゃ、
此様な
処に
居るじゃもの、」
と
声高に云う声が何処か其処らで
······ ぶるぶるとしてハッと気が付くと、隊の伍長のヤーコウレフが黒眼勝の
柔しい眼で
山査子の
間から
熟と
此方を覗いている
光景。
「
鋤を持ち来い! まだ
他に二人おる。こやつも敵ぞ!」という。
「
鋤は要らん、
埋ちゃいかん、
活て居るよ!」
と云おうとしたが、ただ
便ない
呻声が
乾付いた唇を漏れたばかり。
「やッ! こりゃ
活きとるンか? イワーノフじゃ! 来い来い、早う来い、イワーノフが活きとる。軍医殿を軍医殿を!」
瞬く間に水、焼酎、まだ何やらが
口中へ
注入れられたようであったが、それぎりでまた
空。
担架は調子好く揺れて行く。それがまた
寝せ
付られるようで快い。今眼が覚めたかと思うと、また
生体を失う。繃帯をしてから傷の
痛も止んで、何とも云えぬ
愉快に節々も
緩むよう。
「止まれ、
卸せ! 看護手交代! 用意!
担え!」
号令を掛けたのは我衛生隊附のピョートル、イワーヌイチという看護長。頗る
背高で、大の男四人の肩に
担がれて行くのであるが、其方へ眼を向けてみると、まず肩が見えて、次に長い
疎髯、それから漸く頭が見えるのだ。
「看護長殿!」
と小声に云うと、
「
何か?」
と少し
屈懸るようにする。
「軍医殿は何と云われました? 到底助かりますまい?」
「何を云う? そげな事あッて
好もんか! 骨に故障が有るちゅうじゃなし、請合うて助かる。貴様は
仕合ぞ、命を拾うたちゅうもんじゃぞ! 骨にも動脈にも触れちょらん。
如何して此三昼夜ばッか
活ちょったか? 何を食うちょったか?」
「何も食いません。」
「水は飲まんじゃったか?」
「敵の
吸筒を
······看護長殿、今は
談話が出来ません。も少し後で
······」
「そうじゃろうそうじゃろう寝ろ寝ろ。」
また夢に
入って
生体なし。
眼が覚めてみると、此処は師団の仮病舎。
枕頭には軍医や看護婦が居て、其外
彼得堡で有名な
某国手がおれの
傷を負った足の上に
屈懸っているソノ
馴染の顔も見える。国手は手を
血塗にして
脚の処で暫く何かやッていたが、
頓て
此方を向いて、
「君は
命拾をしたぞ! もう大丈夫。
脚を一本お貰い申したがね、何の、君、
此様な
脚の一本
位、何でもないさねえ。君もう口が
利けるかい?」
もう
利ける。そこで
一伍一什の話をした。