父は話好きであります。私が子供の時には、父は御定まりの桃太郎から始めて大江山鬼退治の話などをしてくれたものです。私がだんだん成人するとともに、父の話も次第に子供離れがして来まして、私が法科大学生の時代には、自然法律談が多く出ることになりました。しかし父はむつかしい法理論や、込み入った権利義務の話はあまりしませんでした。私とても学校でさんざん聞かされた後ですから、面倒な話はなるべくは御免蒙りたい方です。父が好んで話した法律談は、法律史上の逸話、珍談、古代法の奇妙な規則、慣習、法律家の逸事、さては大岡
桃太郎と申せば、英国へ参ってから、当国で有名な
大正四年七月
英国ロンドンにおいて
穂積重遠
[#改丁]士の最も重んずるところは節義である。その立つやこれに

ローマの昔、カラカラ皇帝
朕、今ゲータに死を賜えり。汝宜しくその理由を案出して罪案を起草すべし。
と、声色共に
既に無辜 の人を殺してなお足れりとせず、更にこれに罪悪を誣 いんとす。これ実に第二の謀殺を行うもの。殺親罪を弁護するはこれを犯すより難し。陛下もし臣の筆をこの大悪に涜 さしめんと欲し給わば、須 らくまず臣に死を賜わるべし。
と答え終って、神色自若。満廷の群臣色をパピニアーヌスは実にローマ法律家の
“That it was easier to commit than to justify a parricide” was the glorious reply of Papinian, who did not hesitate between the loss of life and that of honour. Such intrepid virtue, which had escaped pure and unsullied from the intrigues of courts, the habits of business, and the arts of his profession, reflects more lustre on the memory of Papinian, than all his great employment, his numerous writings, and the superior reputation as a lawyer, which he has preserved through every age of the Roman jurisprudence.(Gibbon's the Decline and Fall of the Roman Empire.)
[#改ページ]ハネフィヤは、このいわゆる「神授の才」を挙げて法学研究に捧げようとの大志を立て、決して利禄名声のためにその志を移さなかった。時にクフファーの太守フーベーラは、氏の令名を聞いて判官の職を与えんとしたが、どうしても応じない。
この
ローマ法族の法神パピニアーヌスは

[#改ページ]
国王の
フランスのシャール七世、或時殺人罪を犯した一


ルイ十四世が

ヴォアザンの如きは真にその君を
[#改ページ]

[#改ページ]
ディオクレス(Diocles)はシラキュースの立法者であるが、当時民会ではしばしば闘争殺傷などの事があったので、彼は兵器を携えて民会に臨むことを厳禁し、これに
ディオクレス民会に到り、まさに会衆に向って発言しようとした時、叛民の一人は突然起立して、「見よディオクレスは剣を帯びて民会に臨んだ。彼は己れの作った法律を破った」と叫んだ。ディオクレスはこれを聴いて事急なるがために想わず法禁を破ったことを覚り、一言の内乱鎮撫に及ぶことなく、「誠に然り。ディオクレスは自ら作った法を行うに躊躇する者に非ず」と叫んで、直ちに剣を胸に貫いてその場に
この至誠殉法の一語は、民会に
ツリヤ人の立法者カロンダス(Charondas)についても、殆んどこれと同一の伝説があるが、この二つの話の間に関係があるや否やについては未だ聞いたことがない。
[#改ページ]
大聖ソクラテスの与えた最後の教訓は、実に国法の威厳に関するものであった。
今を去ること
かくてメレートスやアヌトスなどの
さて、いよいよ死刑が執行されるという日の前日になって、ソクラテスの門弟の一人なるクリトーンはソクラテスに面会して、この不正なる刑罰を免れるために脱獄を勧めようと思って、早朝その獄舎に訪ねて来た。来て見たところが、ソクラテスは、さも
クリトーンは、裁判の不正なること、刑罰の不当なることを説いて、師がかく生命を保ち得られる際に、自ら好んで身を死地に投じてこれを放棄せられるのは、むしろ悪事を敢えてなさんとせられるものであって、今甘んじてこの刑に就くのは、これ即ち敵人の奸計に
サア、どうぞこの処を能 く能 く御考え下さいまし。否もう御熟考の時は已 に過ぎ去っております。||私どもは決心せねばなりませぬ。||今の場合、私どものなすべきことはただ一つだけ、||しかも、それを今夜中に決行せねばなりませぬ。||もしこの機会を外したなら、それは、とても取り返しが附きませぬ。||サア、先生、ソクラテス先生、どうぞ私の勧告をお聴き入れ下さいまし。
情には親愛なるクリトーンよ、汝の熱心は、もしそれが正しいものならば、その価値は実に量 るべからざるものである。が、しかし、それがもし不正なものであるならば、汝の熱心の大なるに随って、その危険もまた甚だ大なるものではあるまいか。それ故、余は先ず、汝の余に勧告する脱獄という事が、果して正しい事であるか、あるいはまた不正の事であるかを考える必要がある。余はこれまで、何時 も熟考の上に、自分でこれが最善だと思った道理以外のものには、何物にも従わなかったものであるが、それを今このような運命が俄 に我が身に振りかかって来たからと言って、自分のこれまで主張してきた道理を、今更投げ棄ててしまうことは決して出来るものではない。否、かえって余に取っては、これらの道理は恒 に同一不易のものであるから、余の従前自ら主張し、尊重しておったことは、今もなお余の同じく主張し尊重するものであるのだ。
と述べ、なお言葉をついで、ただ生活するのみが貴いのではない。善良なる生活を営むのが貴いのである。他人が己れに危害を加えたからとて、我れもまた他人に危害を加えるなら、それは、悪をもって悪に報いるもので、決して正義とは言えない。して見れば、今汝がいうように、たといアテネの市民らが、余を不当に罰しようとも、我れは決してこれを報いるに害悪をもってすることは出来ないのである。
と言い、また、もし余がこの牢屋を脱走せんとする際、法律および国家が来って、余にソクラテスよ、汝は何をなさんとして居るか。汝が今脱獄を試みようとするのは、即ち汝がその力の及ぶ限り法律および全国家を破壊しようとするものではないか。凡そその国家の法律の裁判に何らの威力もなく、また私人がこれを侮蔑し、蹂躙するような国家が、しかもなおよく国家として存立し、滅亡を免れることが出来るものであると汝は考えるかと問うたならば、クリトーンよ、我らはこれに対して何と答うべきであるか。
と言い、なおこれに次いで、国家および法律を擬人して問を設け、国法の重んずべきこと、また一私人の判断をもってこれに違背するは、即ち国家の基礎を覆さんとするものであるということを論じ、更にクリトーンに向って、我らはこれに答えて、「しかれども国家は已 に不正なる裁判をなして余を害したり」と答うべきか。
と言い、クリトーンが、勿論です。
と言ったのに対して、しからば、もし法律が、ソクラテスよ、これ果して我らと汝と契約したところのものであるか。汝との契約は、如何なる裁判といえども国家が一度これを宣告した以上は、必ずこれに服従すべしとの事ではなかったかと答えたならば如何に。
と言い、更にまた、たとい凡そアテネの法律は、いやしくもアテネ人にして、これに対して不満を抱く者あらば、その妻子眷族 を伴うて、どこへなりともその意に任せて立去ることを許しているではないか。今、汝はアテネ市の政治法律を熟知しながら、なおこの地に留っているのは、即ち国法に服従を約したものではないか。かかる黙契をなしながら、一たびその国法の適用が、自己の不利益となったからといって、直ちにこれを破ろうとするのは、そもそも不正の企ではあるまいか。汝は深くこのアテネ市を愛するがために、これまでこの土地を距 れたこととては、ただ一度イストモスの名高き競技を見るためにアテネ市を去ったのと、戦争のために他国へ出征したこととの外には、国境の外へは一足も踏み出したことはなく、かの跛者や盲人の如き不具者よりもなお他国へ赴いたことが少なかったのではないか。かくの如きは、これ即ちアテネ市の法律との契約に満足しておったことを、明らかに立証するものではあるまいか。且つまたこの黙契たるや、決して他より圧制せられたり、欺かれたり、または急遽の間に結んだものではないのであって、もし汝がこの国法を嫌い、あるいはこの契約を不正と思うたならば、このアテネ市を去るためには、既に七十年の長年月があったではないか。それにもかかわらず、今更国法を破ろうとするのは、これ即ち当初の黙契に背戻 するものではないか。
と言うて、正義を忘れて子を思うことなかれ。正義を後にして生命を先にすることなかれ。正義を軽んじて何事をも重んずることなかれ。
と説き、[#改ページ]
古今の大哲人ソクラテスが、毒杯を仰いで、
ソクラテスは
クリトーンよ、余はアスクレーピオスから鶏を借りている。この負債を弁済することを忘れてはならぬ。(プラトーンの「ファイドーン」編第六十六章)
プラトーンの「ファイドーン」編の末尾に記していわく、「彼は実に古今を通じて至善、至賢、至正の人なり」と。
[#改ページ]明治二年、新律編修局を刑法官(今の司法省)内に設け、水本保太郎(成美)、長野文炳、鶴田弥太郎(皓)、村田虎之助(保)に新律取調を命ぜられた。かくて委員諸氏は大宝律令、
明治六年五月に頒布せられた「改定律例」にも、やはり謀反、大逆の罪に関する
しかるに、その草案中、第二編第一章に、天皇の身体に対する罪、第二章に、内乱に関する罪の箇条があったので、その存否は委員中の重大問題となったが、
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法の粗密に関する利害は一概には断言し難いものであるが、刑法の如き、特に正文に
明治二十四年五月十一日、滋賀県の巡査津田三蔵なる者が、当時我邦に御来遊中なる露国皇太子殿下(今帝陛下)を大津町において要撃し、その
当時は、憲法が実施せられて僅に一年の時である。憲法には司法権の独立が保障してあり、また明文をもって臣民の権利を保障して、「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非ズシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」と規定してある。また刑法第二条には「法律ニ正条ナキ者ハ何等ノ所為ト雖モ之ヲ罰スルコトヲ得ズ」との明文があるのである。これにも
当時我ら法科大学の同僚も意見を具して当局に上申し、皇室に対する罪をもって三蔵の犯罪に擬するの非を論じた。しかるに当局および老政治家らの意見は、三蔵を死に処して露国に謝するに非ざれば、国難忽ちに来らん、国家ありての後の法律なり、
そもそも、大津事件においてかくの如き大困難を生じたのは、これ全く立法者の不用意に起因するものと言わねばならぬ。はじめ、明治十年に旧刑法の草案成り、元老院内に刑法草案審査局が設けられた時、第一に問題となった事は、実に草案総則第四条以下外国に関係する規定と、第二編第一章天皇の身体に対する罪との存否であった。委員会はこれを予決問題としてその意見を政府に具申したところ、十一年二月二十七日に至り、総裁伊藤博文氏は、外国人に関する条規は
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副島伯は漢儒であって、時々極端なる説を唱えられたから、世間には
明治三年、「新律綱領」の編纂があった時、当時の委員は皆漢学者であったので、主として
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ドラコーはアテネの上古に酷法の名高き「血法」を制定した人である。この法律は、実に紀元前六二一年、彼が執政官の職に在ったときに制定せられたものである。ただしバニャトー(Bagnato)らの説によれば、右の酷法は、決してドラコーの創意に出たものではなく、その内容は、アテネ古来の慣習法としてドラコー以前に存在し、彼はただこれを成文法としてなしたるに過ぎないということである。
この説の当否はとにかく、ドラコーの法は実に驚くべき酷法であって、「血法」とは名づけ得て妙と言わざるを得ない。そしてその最も惨酷極まる点は、実に死刑の濫用にあるのである。叛逆殺人などの重罪を罰するに死刑をもってするさえ、現今では
ドラコーの法は、実に酷烈かくの如きものであって、一時満天下を戦慄せしめたが、苛酷がその度を過ぎていたために、かえって永くは行われなかったということである。
或人ドラコーに向って、「何故に犯罪は殆ど皆死をもって罰するのであるか」と尋ねた。ドラコーは答えて、「軽罪があたかも死刑に相当するのである。重罪に対しては余は適当の刑罰なきに苦しむのである」と言ったとか。たといバニャトーの説の如く、この酷法の内容は以前より存していたにもせよ、立法者の刑罰主義もまた
プルタークの英雄伝によれば、「血法」なる名称はデマデス(Demades)の評語に起源している。曰く、ドラコーは墨をもってその法を記したるものにあらず、血をもってせしなりと。
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昔シラキュース王ディオニシウス(Dionysius)は、
立法者にして殊更に文章の荘重典雅を
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斉の景公、或時太夫

唐律疏議表に、この事を称賛して「仁人之言其利薄哉」と言っておる。
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秦が六国を滅して天下を一統したのは、
商鞅が秦の孝公に仕えて相となったとき、その新政の第一着手として、先ず長さ三丈の木を市の南門に立てて、もしこの木を北門に移す者あらば十金を与うべしという令を出した。しかし、人民はその何の意たるを了解せず、怪しみ疑うて敢えてこれを移そうとする者がなかった。依って更に令を下して、
けだし商鞅は、この移木令の一挙をもって、民心をその法刑主義に
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土佐の藩儒
しかしながら、彼は資性剛毅の人であったこととて、新政を行うにも甚だ峻厳を極めて、いやしくも命に違う者は
しかし、彼にもまた巧妙穏和なる間接立法の例がないではない。当時土佐の民俗には一般に火葬が行われておったが、兼山はその儒教主義からしてしばしばこれを禁止したのである。けれども、多年の積習は到底一朝にして改めることが出来なかった。ここにおいて彼はその方針を一変して、強いて火葬を禁ぜぬこととし、かえって罪人の死屍は必ずこれを火葬とすべき旨を令した。これよりして、火葬の事実は次第に少なくなり、遂にこの風習はその跡を絶つに至ったということである。兼山の採ったこの方法は即ち敵本主義の側面立法であって、民心を刺激すること
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伊予の西条領に賭博が大いに流行して、厳重なる禁令も何の効力を見なかったことがあった。時に竹内柳右衛門という
この竹内柳右衛門の新法は、中々奇抜な工夫で、その人の才幹の程も推測られることではあるが、深く考えてみれば、この新法の如きは根本的に誤れる悪立法といわねばならぬ。法律は
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煙草の伝来した年代については、諸書に記しているところ互に異同があって、これを明確に知ることは出来ないようであるが、「当代記」の慶長十三年十月の条に、
此二三ヶ年以前より、たばこと云もの、南蛮船に来朝して、日本の上下専レ之、諸病為レ此平愈と云々。
と見えているから、この頃には喫煙の風は既に広く上下に行われて、当時のはやり物となっていたようである。かの
しかるに、幕府は間もなく喫煙をもって無益の
七月、タバコ法度 之事、弥 被レ禁ト云々、火事其外ツイエアル故也。
と見えているが、これが恐らくは喫烟禁止令の初めであろう。この
一、たばこ吸事被二禁断一訖 、然上は、商賣之者迄も、於レ有二見付輩一者 、双方之家財を可レ被レ下、若 又於二路次一就二見付一者、たばこ並売主を其在所に押置可二言上一、則付たる馬荷物以下、改出すものに可レ被レ下事。
附、於二何地一も、たばこ不レ可レ作事。
右之趣御領内江急度 可レ被二相触一候、此旨被二仰出一者也、仍如レ件 。
附、於二何地一も、たばこ不レ可レ作事。
右之趣御領内江
慶長十七年八月六日
この後ちも幕府はしばしば喫煙および煙草耕作の禁令を出したことは、拙著「五人組制度」の中にも記して置いた通りである。しかし、このきかぬもの、たばこ法度に銭法度、
玉のみこゑにけんたくのいしや。
[#改ページ]玉のみこゑにけんたくのいしや。
慶長年中に、幕府が喫煙禁止令を出したとき、諸国の大名もまたそれぞれその領内に対して禁煙令を出したようであるが、
風俗常憂頽敗
人人左衽拍二其肩一
逸居飽食坐終日 飲二此無名野草煙一
それで、島津氏も厳令を下して喫煙を禁止しようとしたのである。「崎陽古今物語」という書に次の如き記事が見えている。
逸居飽食坐終日 飲二此無名野草煙一
竜伯様(島津義久)惟新様(島津義弘)至二御代に一、日本国中、天下よりたばこ御禁制に被二仰渡一、御国許 之儀は、弥 稠敷 被二仰渡一候由候処に、令 二違背一密々呑申者共有レ之、後には相知、皆死罪に為レ被二仰渡一由候云々。
この如く違犯者を死刑に処するまでに厳重に禁制したのであったけれども、その効果は遂に見えなかったのである。同書、前掲の文の続きに、執着深き者共は、やにをほそき竹きせるに詰 、紙帳を釣り、其内にて密々呑為申者共も、方々為有レ之由候。
と有るのを見ても、因襲既に久しきがため、この風の[#改ページ]
我国において、絵画に依って法禁を公示したのは、彼の智慧伊豆と称せられた松平伊豆守信綱である。将軍家綱の時、明暦三年、江戸に未曾有の大火があって、死者の数が十万八千余人の多きに達したので、火災後、火の元取締の法は一般に非常に厳重になった。「信綱記」に依れば、伊豆守の家中においても、番所にて「たばこ」を呑むことを堅く禁じたが、或日土蔵番の者が
右衛門作、氏は山田、肥前の人で、島原の乱に反徒に党 して城中に在ったが、悔悟して内応を謀り、事覚 われて獄中に囚 われていたが、乱平 ぎたる後ち、伊豆守はこれを赦して江戸に連れ帰り、吉利支丹の目明しとしてこれを用いた。右衛門作はよく油絵を学び巧に人物花卉 を描いたが、彼が刑罰の図を作ることを命ぜられたのもそのためであった。後ち耶蘇教を人に勧めたために、獄に投ぜられて牢死したということである。
[#改ページ]水戸烈公の著「明訓一班抄」に
江戸城に移った後も、関東にて僧侶男女の別なく公然賭博をなす者の多いのは、
或時浅草辺で五人の賭博者を捕えて、五人共に同じ場所に
この如く、細心なる注意をもって、いわば経済的に
[#改ページ]
徳川時代の刑典は極めて秘密にせられたものであるが、刑の執行はこれを公衆の前において行って、人民の鑑戒としたものである。且つ刑場には、罪状および刑罰の宣告を記した
京都においては、罪人を洛中洛外に引廻す際に、
暖簾も其儘にして常の通りに相心得、敬するに不レ及と令せられし事、大いに当たらざるか。刑は公法なり、科の次第を幟に記し、其科 を喚 る事、世に是を告て後来 の戒とせんが為なれば、諸人慎んで之を承 ん条、勿論なり。
というている。法に対する尊敬は誠にかくあるべきものである。[#改ページ]
法官および弁護士が着用する法服は、故文学博士黒川真頼君の考案になったものである。元来欧米の法曹界では、多くは古雅なる法服を用いて法廷の威厳を添えているので、裁判所構成法制定当時の司法卿山田顕義伯は、我国でもという考えを起し、黒川博士にその考案を委託した。それで博士は、聖徳太子以来の服制を調査し、これに泰西の制をも加味して、型の如き法帽法服を考案せられたのであるという。
この法服の制定せられた頃の東京美術学校の教授服もまた同じく黒川博士の考案に依って作られたもので、且つその体裁は極めて法服に似寄っておった。その頃、同博士は美術学校の教授をしておられたのであるが、教授服と法服との類似のために、はからずも次の如き笑話が博士自身の上に起ったことが「逸話文庫」に載せてある佐藤利文氏の談話に見えている。
或日の事、一葉の令状が突然東京地方裁判所から黒川博士の
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博士号は我国の中古には官名であって、大博士・音博士・陰陽博士・文章博士・明法博士などがあった。「職原鈔」によれば、明法博士は二人で、阪上・中原二家をもってこれに任じた様である。現今の法学博士は学位であって、明治二十年の学位令によって設けられたのである。
博士は、古えは「ハカセ」と訓じたものであるが、現今では「ハクシ」と訓ずることに定っている。学位令発布当時、森文部大臣は、半ば真面目に半ば戯れに、こういうことを言われた。「「ハカセ」の古訓を用うるも宜いけれど、世人がもし「ハ」を濁りて「バカセ」と戯れては、学位の尊厳を涜すからなー。」
支那では律学博士というた。「魏書」に、
衛覬奏、刑法、国家所レ重、而私議所レ軽、獄者人命所レ懸、而選用者所レ卑、諸置二律学博士一、相教授、遂施行。
と見えて、律学博士なるものは、この[#改ページ]
神は一人に二つの心を与えず。故に神は爾らの妻を爾 らの実の母となすことなし。
これは「コーラン」の一節である。何の事か、一寸意味を解し兼ねる文句であるが、セールの研究は、この難解の一句を解き得て、面白きアラビアの古俗を吾人に示している(Sales, The Koran, ch. ※[#ローマ数字33小文字、78-5]. The Confederates. p. 321.)。結ぶということがあれば、解くということもあるのは、数の免れざるところであって、結婚がある以上、離婚なる不祥事もしばしば生ずるのは、古今

かくの如き慣習は、余りに自分勝手な、婦人を馬鹿にし過ぎたもので、その弊害に堪えぬからして、さすがはモハメット、右の一句をもって断然この奇習を廃したのである。
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近世の法学者は、自由意思の説によって責任の基礎を説明しようと試みる者が多い。人は良心を持っている。故に自ら善悪邪正を弁別することが出来る。人の意思は自由である。故に善をなし悪を行うは皆その自由意思に基づくものである。かく弁別力を具えながら、なお自由意思をもって非行を敢えてするものがある。人に責任なるものが存するのはこの故に外ならない。しかるに禽獣草木に至っては、
原始社会の法律を見るに、禽獣草木に対して訴を起し、またはこれを刑罰に処した例がなかなか多い。有名なる英のアルフレッド大王は、人が樹から
西暦一三一四年、バロア州(Valois)において、人を
仏国の歴史家ニコラス・ショリエー(Nicholas Chorier)は、こういう面白い話を述べている。一五八四年ヴァランス(Valence)において、
シャスサンネ(Chassan

当地には猫を飼養する者が多いから、被告出廷の途次、生命の危険がある。裁判所は、被告に適当の保護を与えんがために、猫の飼主に命じて開廷日には猫を戸外に出さないという保証状を出させてもらいたい。
裁判所は大いに閉口した。召喚に際して適当の保護を与えるのは、このように、動植物または無生物に対して訴訟を起し、あるいはこれを刑罰に処するというのは、甚だ児戯に類したことのようであるけれども、害を加えた物に対して
子のあたま、ぶった柱へ尻をやり
という川柳があるが、この法の精神を説明し得たものといってもよかろう。刑罰を正義の実現であるとする絶対主義は、非常に高尚な理論で、目をもって目に
また一方において、相対主義論者は、刑罰は社会の目的のために存しているという。なるほどそれには違いないが、その目的の中には、直接被害者たる個人、およびその家人、親戚並に間接被害者たる公衆の心的満足というものをも含んでいることを忘れているのは、確かに彼らの欠点である。形こそ変れ、程度こそ異なれ、木を
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ドイツの帝室博物館に皇帝よりの御出品として「死の骰子」(Der Todes W

事実は次の如くである。或一人の美少女が何者にか殺害せられたことがあった。下手人の嫌疑は、日頃この少女の愛を争いつつあった二人の兵士の上に
荘厳なる儀式をもって、公は
アルフレッドは今や絶体絶命、彼は地に
さすがのラルフも神意の空恐ろしさに胆を冷して、忽ち自分が下手人であることを白状した。「これ実に神の判決なり」と、公はかく叫んで、直ちに死刑の宣告を下されたということである。
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訴訟は時として随分長曳くもので、シェークスペーヤの“Law's delay”という言葉が名高くなっている位であるが、我輩の知っている限りでは、古来最長の訴訟は、有名なる英国のバークレー(Berkley)事件であろう。同事件は一四一六年に始り一六〇九年に終り、前後百九十年余も継続したのである。
ヘンリー五世の時のロード・バークレーは四代目でトマスという人であったが、エリザベスという一人の娘の外には子がなかった。しかるにエリザベスはワーウイック伯(Earl of Warwick)に嫁したので、バークレー領は近親の男子が相続した。しかるに、後に至ってエリザベスの子孫が、この相続権を争ったのがそもそもこの訴訟の始りで、後には法廷の弁論のみではあき足らずして、
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幕府の能吏渡辺大隅守綱貞が町奉行であった時に、或医者が訴訟を起した。その申立は、「全治の上は金五両の謝礼との約束にて、ある癩病人を治療し、既にその効を奏したにもかかわらず、相手方は謝儀を出すことを拒むに依り、宜しく御裁断を仰ぐ」というのであった。
大隅守は被告に向い、医者の申立の通り、その方の病は平癒と見受けるぞ、即座に
大隅守は更に押返して、「その方、大切なる病の治療を頼みながら、全治の今日となって薬料支払を渋るとは不届千万、一身を売ってなりとも金子を調達せよ」と言うに、「仰せは畏って御座りますれど、何分にも悪病の事とて、雇われようにも雇い手これなく、誠に致方なき次第」と如何にも困り入った様子である。
大隅守もいささか憐れを催して、更に医者に向い、「今聞く如き次第なるぞ。その方この者の
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アイスランドは、中世紀頃北欧において一時勢力を
昔アイスランドの西岸ブレイジフイルズ郷のフローザーという処に、トロッド(Thorodd)と称する酋長がおった。或日海上で破船の
翌晩にもまた彼らは同じ刻限に出現して同じ挙動を演じたが、かかる事は

この話が
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ガーイウスは、
第一に、氏の生死の年月が不明である。ただディーゲスタ法典中の文章に拠って、ハドリアーヌス帝の時代には、氏は既に成人であったということを推測し、氏の著書が、アントーニーヌス・ピウス帝(Antoninus Pius)、ヴェルス帝(Verus)、マールクス・アウレーリウス帝(Marcus Aurelius)の時代に係るものであることを、その記事によって知り得るのみである。
第二に、氏の国籍が不明である。モムゼン(Mommsen)は外蕃の人であるといい、フシュケ(Huschke)はローマ人であると主張し、吾人をして
第三に、氏が答弁権(Jus respondendi)(法律上の問題に対し答弁をなす公権)を有せしや否やについても学者の所説は一致しない。或学者は曰く、ディーゲスタ法典編纂委員が受けたユスチニアーヌス帝の訓令には、皇帝の勅許に基づく答弁権を有したる法曹の説のみを蒐集すべしとある。しかるに、同法典中ガーイウスの説を引用すること殊に多いのを見れば、ガーイウスが答弁権を有しておったことは明白であろうという。しかるに、反対論者の説に拠れば、ガーイウスの著書は甚だ多いが、氏の答弁というものは一も存在していない。故に、氏は状師ではなく、教師または純然たる法学者であって、答弁権は有していなかったのであろう。ただ氏の学識が深遠で、名声
[#改ページ]
評定所は徳川幕府の最高等法院で、老中および寺社奉行・町奉行・勘定奉行の三奉行らが、最も重大なる訴訟を評議裁判する所であった。
「
「
この話にあるように、神聖なる最高法院の給仕に遊女を出したのは、現今の考えからは殆んど信じ得られない事であるが、当時の遊女に対する考えは現今とは全く異なっておった。
遊女を評定所の給仕として差出したことについて「異本洞房語園」に次の如く記している。
吉原開基の砌 より寛永年中まで、吉原町の役目として、御評定所へ太夫遊女三人宛 、御給仕に上りし也。此事由緒故実も有る事にやと、或とき予が老父良鉄に尋ねとひしに、良鉄が申けるは、慥 に此故とは申難きことなれども、私 に是を考へ思ふに、扨 御奉行と申 は日々に諸方の公事訴訟を御裁判被レ成、御政務の御事繁く、平人と違ひ、年中に私の御暇有る事稀也、然ども遊女などの艶色を御覧の為にはあらざれ共、遊女はもと白拍子 なり、されば御評定所の御会日の節、白拍子などを御給仕に御召あり、公事御裁許以後、一曲ひとかなでをも被二仰付一、御慰に備へられん為に、上様より被二仰付一しものか云々。
まさか「天下の政道を取[#改ページ]
判事総長ガスコイン(Chief Justice Gascoigne)が太子ヘンリー親王を禁錮に処した事は、古代の記録にも残っており、また往々英米の小学読本などにも載っている最も有名な話である。
英帝ヘンリー第五世がまだ太子であった頃、或るとき親王の寵臣某が
年少気鋭なる親王はこれを聴いて大いに怒り、すぐさま自ら法廷に赴いて「直ちに被告を釈放せよ」と声も荒らかに裁判官に命ぜられた。法廷に並びいる者はこれを見て愕然としてただ互に顔を見合せるのみであったが、裁判長ガスコインは
この儼然犯すべからざる法官の態度に打たれて、さすがの親王もしばらくの間は茫然として
この事の
右の皇帝の言葉は、近頃の書物には通常左の如く書いてある。
“Happy is the king who has a magistrate possessed of courage to execute the laws; and still more happy in having a son who will submit to the punishment inflicted for offending them.”
しかるに、右の親王が位を継いでヘンリー五世となり、その後ち崩御された直ぐ後にサー・トマス・エリオット(Sir Thomas Elyot)の著わした The Governor という書には左の如くある。“O merciful God, howe moche am I, above all other men, bounde to your infinite goodness, specially for that ye have gyven me a juge, who feareth not to minister justyce, and also a sonne, who can suffre semblably, and obey justyce!”
右に掲げた話は同書中の記事に拠ったのである。[#改ページ]
ここは英国某市の裏通り、数人の児童今やマーブル遊びに余念もない。彼らは皆小学校にも通われぬほどの
歳月流るるが如く、三十年は既に過ぎ去って、今や一箇の長老となりたるボーイス師は、一日議会を傍聴した。僧侶の身として何故にと怪しむことなかれ。これ彼がかつて培いたる


この雄弁なる国会議員こそ、実に我が大岡越前守とひとしく、幾多裁判上の逸話を
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英国の一農夫、或る宿屋に泊って、亭主に百
法学法術兼ね備わる者でなくては、法律家たる資格がない。カランが、無証事件を変じて有証事件となし、法網をくぐろうとした横着者を法網に引き入れた
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カランの法術について思い出した事がある。明治十三年、スウィスの首都ベルンの国会議事堂において国際法の万国会議が開かれた時、丁度その頃、我輩はドイツに留学中であったので、日本における治外法権廃止の提議をなさんがために同会に出席したことがあった。イギリスからは公使森有礼君、法学士西川鉄次郎君、オーストリヤからは書記官河島醇君も出席した。
この会において最も議論のやかましかったのは、国際版権問題で、
ニューヨルクの弁護士某氏は、熱弁を
“He shakes his head, but there is nothing in it!”
と叫んだ。これはかくてその後も、右は同弁護士の機智に出でたる米国式の論弁法であると思って、人にも話した事であったが、爾来三十余年を経過して、大正四年の夏に至り、カランの逸話を読んでいると、偶然にも左の一項に遭遇した。
或時カランが陪審官に対 ってその論旨を説明していると、裁判官が頻りにその頭を掉った。するとカランの言うには、「諸君、余は判事閣下の頭の動くのを見る。これを観る者は、あるいは閣下の御説が余輩の所説と異なっていることを示すものであると想うかも知れない。けれども、あれは偶然の事です。」
“Believe me, gentlemen, if you remain here many days, you will yourselves perceive that when his Lordship shakes his head, there's, nothing in it.”
これに依って観ると、我輩がさきにアメリカ式と思うたのは、実はアイルランド式であって、かの某弁護士は、あるいは我輩より数十年前に既にカラン伝を読んでおったのかも知れない。“Believe me, gentlemen, if you remain here many days, you will yourselves perceive that when his Lordship shakes his head, there's, nothing in it.”
我輩はこのカランの逸話を読んで、三十年来の誤信を
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昔ローマでは、女子が弁護士業を営むのを公許したことがあって、ホルテンシア(Hortensia)、アマシア(Amasia)などという
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「古事談」に次の如き一奇話が載せてある。
処分可レ依二腕力一
の六字を見るのみであった。衆僧これには大いに閉口し、まさかにこの話は、けだし僧正が衆弟子の出家たる本分を忘れて、貨財の末に
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刑事裁判がその源を復讐に発していることは争うべからざる事実であるが、その最も著明な証跡とも見るべきは、刑事訴訟の起訴者が現今は国家であるが、
この決闘裁判は久しく行われたことがなかった。一七七〇年および一七七四年の議会には、その廃止案が提出せられたが、元来保守的で旧慣を変ずることの大嫌いな英国の事とて、実際に決闘を請求する者もない今日、わざわざ廃止案を出すにも及ぶまい位のことで、そのまま決議に至らずにしまった。かくてこの危険なる法律をば、廃止したともなく、忘れておった世人は、それより四十年後に至って、
一八一七年アッシフォード対ソーントン事件(Ashford v. Thornton)なる訴訟が起った。即ちアブラハム・ソーントンなる者がメリー・アッシフォードという少女を溺死せしめんとしたとて、メリーの兄弟からいわゆる「殺人私訴」を起したのであった。いよいよ裁判の当日となって、被告の答弁が求めらるるや、彼は決然として起ち上り、「無罪なり。余は敢えて身をもってこれを争わんと欲す」と叫んで、手袋を投じた。これ正に決闘裁判請求の形式である。この恐しき叫びは、久しく決闘を忘れたる世人の
かくてこの事件も無事に治ったが、さて治らぬのは
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板倉周防守重宗は、徳川幕府創業の名臣で、父勝重の推挙により、その
重宗或時近臣の者に「予の
大正四年の夏より秋に掛けて上野
余談はさておき、大岡忠相が髯を抜いたのも、板倉重宗が茶を
*
大正四年十一月四日相州高座郡小出村浄見寺なる大岡忠相の墓に詣でて
問ひてましかたりてましをあまた世をへたててけりな道の友垣
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板倉重宗が京都所司代を辞職した時には、大小の政務
そもそもこの疑獄については、重宗は
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いやしくもギリシア史を読んだものは、アテネの名士テミストクレス(Themistocles)がオストラキズムス(Ostracismus)を行って、政敵アリスティデス(Aristeides)を追放し、心のままに自家の
ギリシア諸邦ことにアテネなどにおいては、民主主義の結果として、中央政府の勢力は極めて微弱で、一兵を動かす権力をすら持っていなかった。故にもし一人の野心家があって民心を収攬し得たならば、政府を顛覆するは、一挙手の労に過ぎないのである。紀元前五〇九年、アテネのクレイステネス(Cleisthenes)がオストラキズムスなる新法を設けたのも、在野政治家の勢力を
オストラキズムスは一種の弾劾投票である。毎年第一回の民会において、先ずこれを行うの必要ありや否やの議決を求め、もし積極に決したならば、次回の民会において、執政官および五百人会議員立会の上、各市民をして弾劾に当るべき人を投票せしめるのである。投票は
第一番にこの弾劾投票の犠牲となったのはヒッパルコス(Hipparchos)であるが、この法の立案者クレイステネス自身も、制定の翌々年、ペルシアと
ギリシアでは、アテネのみでなく、アルゴス、ミレツス、メガラなどにも類似の法が行われておったが、紀元前第五世紀において、一時シラキュースに行われたものは、貝殻の代りに
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第十九世紀において法律史上の二大発見があった。その前半においては、一八一六年にニーブール(Niebuhr)がイタリアのヴェロナの寺院の書庫においてガーイウスのインスチツーチョーネスを発見し、また同世紀の後半においては、一八八四年にハルブヘール(Halbherr)、ファブリチウス(Fabricius)の二氏がギリシアのクレート島にて、二千年以上の古法律たるゴルチーンの石壁法を発掘した。この二大発見は法律史上に最も貴重なる材料を与え、法学の進歩に偉大なる功績があったことは
しかるに第二十世紀の法律史はまた前代未聞の大発見をもって始まったのである。それは一九〇一年の十二月から一九〇二年の一月にわたってペルシアの古都スザの廃址においてフランス政府の派遣した探検隊がジョセフ・ド・モルガン(J. de Morgan)氏の主宰の下に、世界最古の法律とも称すべきハムムラビの石柱法を発掘したことである。この発見は独り法律学の上のみならず、史学、人類学、社会学、博言学、政治学、宗教学などに大影響を及ぼすものであって、大いに学者の注意を惹き、その法文は諸国の語に翻訳せられ且つ近頃に至っては、これに関する学者の考証研究なども大いに進み、種々の著書が出るようになって来た。世に骨董家などが期せずして得た珍奇な品物を「掘出し物」というが、この石柱法こそ実に古今無双の「掘出し物」といわねばならぬ。
フランス政府は、この重要なる発見を広く学界に伝えんとし、先ずシェイル(Scheil)に命じてこれを仏語に翻訳させ、且つその法文を写真版として出版した。 Textes Elamitiques S





世界の至宝たるこのハムムラビの石柱法は、今はルーブルの博物館に陳列せられている。
今を

この発見は、これより半世紀以前に、ルヴリエール(Leverieres)が天王星の軌道の変態を観て、必ず数万里外の天の一方において引力を天王星の軌道に及ぼす一大惑星の存在することを予言し、その予言が果して的中して、予測されたる天空の一度内において海王星が発見せられたのとほぼその趣を同じうしている。そしてハムムラビ法典の発見の法学におけるは、海王星の発見の星学におけると、その重要なる点において
ハムムラビ法典は円形の石柱に彫刻せられたものである。一九〇一年の十二月末日に、先ず石柱の破片一個を発掘し、次いで翌年一月の初めに二個の破片を発掘したが、この三個の破片を合せて見ると、一の円柱の全形をなし、その高さは二メートル二十サンチ、その周囲は上部において一メートル六十五サンチ、下部において一メートル九十サンチで、ほぼ棒砂糖の形をなし、上部に至るに従って細くなっている。故にその高さは通常人が立って碑文を読むに便利な位に出来ている。この円柱の石質はデオライトという極めて堅い石であって、小藤教授の言に依れば、この石は日本では「緑石」といい、筑波山などは、これから出来ているということである。
石柱の両面に楔形文字が彫り付けてある。表面は二十一欄に分ち、一欄毎に六十五行乃至七十五行の文を刻し、裏面は二十八欄に分ち、一欄毎に九十五行乃至百行の文を刻し、両面において総計三千余行の楔状文字が刻せられているのである。探検隊がこの碑文を読んでみると、これこそかの有名なるバビロン王ハムムラビの法律であって、総計二百八十二条の法規が彫り附けてあるが、そのうち表面の五欄にあった第六十六条乃至第九十九条は、後に
この石柱は始めシッパール(Sippar)のエバッバラ(Ebabbara)という所の、日の神の神殿の前に建っておったものであるが、紀元前一一〇〇年の頃エラム人(Elamite)の王スートルーク・ナクフンテがバビロンを征してこれに勝った時、戦利品としてこの石柱をスザに移したものであるということである。
ハムムラビの石柱法は所々に建てられたものであって、スザで発見されたこの石柱の外にも数個あったらしい。既にスザでも第二の破片が発見され、またバビロンのエサジラの神殿前にも建てられておったということである。
右の石柱の表面の上部には、日の神シャマシュ(Schamasch)の像が浮彫にしてある。日の神は頭に四層冠を戴いて王座に着き、肩の辺より左右に三条ずつの後光を発し、右の手には長き物を持って授くるが如き形をなし、左の手には円形の物を持っている。ジェレミヤス(Johannes Jeremias)の説に拠れば、シャマシュがその右手に持っているのは石筆で、智の表象であり、左手に持っている円形の物は時または年の表象であるといい、またグリムは、右手の長き物は
この石柱法の内容は主として私法、刑法および官吏法に関するものであって、直接に訴訟法、裁判所法などに関するものは極めて少ないのは、他の原始的法律と異なっている。原始的法律は、
その他この法律は他の原始法に見ることなき種々の変態を有しておって、学者が説明に苦しむ点も少なくない。例えば婦人の法律上の地位は非常に高く、他の原始法においては婦人には独立の身位なきのみならず、通常、物として男子の所有に属するものであるが、この法律では、母を「家の神」と称し、酒類の販売は婦人の専権とするなどを始めとし、婦人の権利に関するものが多いこと、また商工農業、運河、造船、医師、獣医、契約代理等に関する規定の多いことなどである。
これらの規定に依って見ると、ハムムラビ王時代のバビロンは、非常に高度の文明を有しておったらしいが、また一方より見れば、その前文後文などには、この法律の淵源を神意に帰し、その制裁を神罰となし、またその刑罰規定に反坐法、
またこの法律の規定は概ね皆な因果法の規定となっておって、命令法の体裁をなしているものは殆んどない。例えば「何々をなすべし」または「何々をなすべからず」という如き規定ではなくて、「何々をなしまたはなさざれば何々の結果あるべし」というが如きものであって、古代の法でもモーゼの十令などは命令法であるが、旧約全書中に掲げてある他のモーゼの法律、十二表法、ドイツの民族法などを始めとし、概して原始法は因果法の体裁をなしているものである。故にジェレミヤスの如きは、ハムムラビ法典の規定は判決例から作ったものであるから、かくの如き体裁になっていると言うておる。
ハムムラビ法典はこれまで発見せられた法典の中では最も古いものであって、仮に紀元前二千百年説に依るも、旧約全書中に載せてあるモーゼの法律と称するものより六百年乃至七百年ほど前に出来たものである。尤もモーゼの法律についても種々の説があって、或は数種の法を併せてモーゼの法と称したものであるとし、或はモーゼの制定したものではないとの説さえある位であるから、精確にその年代を知ることは出来ぬが、仮りにシナイ山の十令を紀元前一四九一年なりとすれば、ハムムラビ法典より六百九年後である。マヌーの法典の時代についても種々の説があり、
かくの如くハムムラビ法典はこれらの有名な古代諸法典より五、六百年乃至千年以上も古いものであって、世界最古の法典というべきものであるが、しかしこれはただその年代よりいうのである。もし今該法典の内容よりこれを観察するときは、四千年の古代にバビロンの開化が既に頗る進歩しておったことは、明らかであって、この法典の体裁および法規も決して最原始的のものということは出来ぬ。故に、今後において、このハムムラビ法典よりなお一層古い法律が発見せられぬとも限らぬのである。
この大立法者ハムムラビ(Hammurabi, Chammurabi, Khammurabi, Ammurabi, Ammurpi)はバビロン第一統第六世の王であって、旧約全書のアムラフェール(Amraphel)と同人であるということである。同王の治世の時代およびその年数は精確には分っておらぬ。当時は建国または王の即位などの出来事から年数を計算するということがなく、ただ年々の最も著しい出来事からその年の号を附け、例えば「洪水の年」「エラム戦争の年」「日神殿建立の年」というように書いてあるから、発掘せられた「約板」などに書いてある年号についても、学者の解釈が一致しておらぬ。しかしながら、多数の学者は同王の治世は西暦紀元前二二五〇年の頃であるとし、即ち今を距ること約四千百余年以前にバビロンを統治した人であると言うておる。中には紀元前二一〇〇年の頃であると言う人もあり、また紀元前二一三〇年より二〇八八年までであると言うておる人もある。随ってその治世についても、多数の学者は五十五年であると言うておるが、四十三年であると言う人もある。我輩門外漢は
ハムムラビ法典の発見後、比較法学上種々の新問題を
この二法典の関係を論定するは、一般の法学の知識の外、特にセミチック語、旧約全書の歴史などに通ぜねば出来ぬ事であるし、且つこの夜話の目的としては余り精微の点に入り過ぎるから、ここにはその論点を紹介することを略するが、この問題の詳細を知らんとする者は、左の諸書に就いて見るがよかろう。
Johannes Jeremias, Moses und Hammurabi. 1903.
S. Orelli, Das Gesetz Hammurabis und die Thora Israels. 1903.
Dav. H. M
ller, Die Gesetze Hammurabis und ihr Verh
ltniss zur Mosaischen Gesetzgebung etc. 1903.


Hubert Grimme, Das Gesetz Chammurabis und Moses. 1903.
S. A. Cook, The Laws of Moses and the Code of Hammurabi. 1903.
中田薫博士「ハンムラビ法典とモーゼ法との比較研究」(『史学雑誌』第二四編第二号所載論文)
ハムムラビ法典に関する書籍は、一九〇二年にシェール氏がその原文の写真版と翻訳とを出版して以来、諸国において出版されたものが極めて多いが、我輩の持っているものおよび知るところのものは、前に挙げたものの外、次の如くである。
Scheil, D
l
gation en Perse. 1902.
H. Winckler, Die Gesetze Hammurabis. 1903.
C. H. W. Johns, The Oldest Code of Laws in the World. 1903.
Georg Cohn, Die Gesetze Hammurabis. 1903.
D. H. M
ller, Die Gesetze Hammurabis. 1903.
Robert Francis Harper, The Code of Hammurabi, King of Babylon. 1904.
D. H. M
ller, Syrisch-Roemische Rechtsbuch und Hammurabi. 1905.
Chilperic Edwards, The Oldest Laws in the World. 1906.
右に挙げた書名に依って見ても、一九〇三年に出来たものが最も多いことが分る。なおこの他にも諸国の学者の研究の結果がその後ち沢山公にせられたことであろうと思う。

H. Winckler, Die Gesetze Hammurabis. 1903.
C. H. W. Johns, The Oldest Code of Laws in the World. 1903.
Georg Cohn, Die Gesetze Hammurabis. 1903.
D. H. M

Robert Francis Harper, The Code of Hammurabi, King of Babylon. 1904.
D. H. M

Chilperic Edwards, The Oldest Laws in the World. 1906.
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ギリシアのクレート島はヨーロッパにおいて最も古く法制の備った所として有名である。ゴルチーンは、クノッセ、ソクトースと相並んで同島の三大都府の一と称せられた市府であって、古代は貴族政治が行われておって、一定の貴族が交代して
一八六三年、フランスのトノン氏(L'abb


しかるにこの後ち十七年を経て、アウッスーリエー氏(Haussoulier)もまた二個の石片を発見して、これを「ブュルタン・ド・コルルスポンダンス・エレニーク」(Bulletin de correspondance hell

この前後二回の発見は、あたかもペルシアでアッスルバニパル王の図書館の遺跡を発掘した際に発見した石片が、ハムムラビ法典発見の先駆となった如くに、その後ち学者は必ずやどこかにおいてこの法律の全部を発見することが出来るに違いないとの希望を抱くようになった。
一八八四年の夏、クレート島のハギオイ・デカ(Hagioi Deka)なるゴルチーン市の古址においてレートホイズ河から引いた水車溝の中に、偶然にも古文字の彫刻してある壁石が現われた。その石は大なる石壁の一部であるように見えたが、水車の持主のマノリス・エリヤキス(Manolis Eliakis)が、この由をフレデリコ・ハルブヘール博士(Dr. Frederico Halbherr)に話すと、博士は非常に悦んで、直ちにその壁の発掘およびその古文字の謄写に着手し、秋に至ってエルンスト・ファブリチウス博士(Dr. Ernst Fabricius)の協力を得て、
この石壁法の法文を先ず世に公にした者はファブリチウス博士である。氏は「アテネ、ドイツ考古学雑誌記事」(Mitteilungen des deutschen arch

発掘された石壁は、
この彫刻の高さは一メートル七十二サンチで、ちょうど通常人が立って読むに都合のよい位であり、横幅は全体で九メートルばかりである。法文は壁石の合せ目にかかわらず彫刻してあって、全部を十二の縦欄に分ち、各欄毎に五十三乃至五十五行を刻し、各行毎に二十字乃至二十五字があって、文字には赤色の色彩を入れて明白に読めるようにしてある。
右の円館(Tholos)は他の大建築物の一部であったもののようであるが、その北側にも石壁に法律を彫り附けてあるものがある。しかしこれは後で建てたものらしい。当時は法律を銅板に彫り附けて公布する例があったが、この円館は裁判所であったから、その壁に法律を彫り附けてこれを公示してあったものである。
この石壁法は

この法律の年代の考証論は非常に興味の多いものであるが、また非常に細密の点に
ゴルチーンの石壁法は、前にも言うた通り十二欄に分ってあるから、往々これを「ゴルチーン十二表法」と号する学者もある。この石壁法は一個の法典の如きものであるけれども、国法の全部または一種類の法律の全部を含んでいるものではない。この法律の内容は私法的規定であって、ことに親族法、相続法および奴隷法に関するものが多い。故に純刑法その他公法的規定が全く掲げられておらぬばかりでなく、私法さえもその一部に限られている。これは多分この法律が裁判所の壁法であるから、その裁判所の管轄に属している事件、即ちこの場合においては人事法だけを規定したものであろうということである。
かくの如く、石壁法は私法の一部だけを掲げたものであって、その他の部分は旧法をそのままに存したものであり、またこの石壁法中にも、旧法をそのままに成文法にしたものと、旧法を改めたものとがあることは、法文中にも現われている。
なおゴルチーン石壁法について
B
cheler und Zitelmann, Das Recht von Gortyn.
Baunack, Die Inschrift von Gortyn.
Lewy, Altes Stadtrecht von Gortyn.
Bernh
ft, Die Inschrift von Gortyn.
Simon, Die Inschrift von Gortyn.
Dareste, La Loi de Gortyn.
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Baunack, Die Inschrift von Gortyn.
Lewy, Altes Stadtrecht von Gortyn.
Bernh

Simon, Die Inschrift von Gortyn.
Dareste, La Loi de Gortyn.
ローマの市外、程遠からぬ近郊に、その名もゆかしき「神聖の森」(Bosco Sacro)という一つの森が今なお保存せられてある。千年の老樹は
宗教的立法に依って後の大ローマ帝国の基礎を固めたかのヌーマ王が、女神エジェリヤの恋愛を受けてしばしばカメーネの森(水神の森)で密会したという神秘的恋物語の旧跡は即ちこの Bosco Sacro であって、ここでヌーマは女神の教に依って、その礼法を制定したのだと今に至るまで言い伝えられている。
ローマの建国は、たといロムルスの兵威と戦勝とに依ること多かったとしても、これに次ぐにヌーマの立法をもってするに
ヌーマはもと被征服者たるサビーニ人であった。しかるに初代ロムルス王の歿した後ち、市民の
伝うるところに拠れば、ヌーマ王はピタゴルスの哲学を修めたともいうが、またピタゴルスという人の教えを受けて宗教的礼法を定めたものだともいう。とにかく、表向きにはヌーマはローマの郊外なる「水神の森」において女神エジェリヤに会い、その垂教に依って礼法を定めたのであると、自ら称していたということである。
かかる託言から生れ出たのは、実に次の如きヌーマ、エジェリヤの恋物語である。ヌーマ王は女神エジェリヤの切なる寵愛を受けて、しばしばかのカメーネの林中にて人目を忍ぶ会合を行い、ここにて礼法の制定について種々女神の教えを受けておったのであったが、人生限りあり、歓楽遂に久しからずして、ヌーマ王は
回顧すれば既に十有余年の前、明治三十二年の秋風吹き初むる頃、我輩がローマに客となっておった折の事であるが、一日我輩は岡田朝太郎博士ら数名とともにこのエジェリヤの遺跡というを訪ねた事があった。
エジェリヤがワイフ気取りの聖森
ナイフ落してシクジリの森
[#改ページ]ナイフ落してシクジリの森
「塵芥集」とは奥州の伊達家十三代稙宗が天文五年に制定した法典の名である。
或はこの書の一本の奥書に、
此一部者 、伊達十三代稙宗朝臣所レ令レ録 、在判并 家臣之連判、誠 可二重宝一之書、頃村田善兵衛藤原親重令二進上一之処、破壊之間、令下二畑中助三藤原経吉一新写上、加二奥書一也。
于時延宝七年季冬朔日 伊達十九代左少将藤原朝臣綱村(花押)
とあるに依り、一旦塵芥に埋れたる反古の如きものであったから、後に至ってかく名附けたものであろうと言う人もあるが、それにしても、祖先の定めたる治国の宝典に、子孫または家臣がかくの如き題号をつけるとは、合点の行かぬことである。この法典には二つの特色がある。その一は、「塵芥集」は全部一百六十九条よりなり、「
稙宗がこの法令を制定するに当って、その体裁を貞永式目に倣うたことは、貞永式目に、
於二先々成敗一者、不レ論二理非一、不レ及二改沙汰 一、至二自今以後一可レ守二此状一也。
とあるに倣うて、その巻首に、せん/\のせいはいにおゐてハ、りひをたゝすにをよハす、いまよりのちハ、この状をあひまもり、他事にましハるへからす、
と記し、神社の事を冒頭に置き、また巻尾の起請文も貞永式目のと殆んど同一の文を用い、終りに数行の増補をなしたるのみなるに依りてこれを知ることが出来る。しかしその規定の内容に至っては、[#改ページ]
五人組の法令は通常五人組帳の前書としてこれを載せ、定期にこれを人民に読み聞かせ、その奥書に、
一箇条宛致二合点一、急度 相守可レ申候、若此旨相背候はば、如何様 の曲事 にも可レ被二仰付一云々。
というような誓詞を記し、名主、百姓代、組頭等これに五人組帳の起原は明らかでないが、寛文年間には五人組帳なるものがあったことは確かである。この五人組の規則は、五人組の名前を記してある帳簿の前に載せてあるから、通常これを「五人組帳前書」と称した。この前書の条数は、年ごとに増加し、ことに元禄以後追々と多くなったようである。我輩の蔵する元禄年間の五人組帳前書は僅に二十三箇条に過ぎぬが、享保年間の五人組帳前書は六十四箇条ある。この後ち天保七年に至って、幕府の代官の山本大膳という人が、享保の五人組帳前書を増補修正して百四十五箇条よりなる五人組規則を定めたが、これが即ち有名なる山本大膳五人組帳なるものである。
この山本大膳は江戸駿河台鈴木町に住んでおって、累代御代官を勤め、その人となり
天保己亥 、春予以二所レ摂金穀之事一、奔‐二命於江都一、寓二龍口上邸中一、一日奉レ謁二
君公一、啓二我所レ職封内民事一、乃
君公出二一小冊一、自手授レ之曰 、此県令山本大膳上梓 所レ蔵五人組牒者、而農政之粋且精、未レ有二過レ之者一也、汝齎‐二帰佐倉一、示二諸同僚及属官一、可二以重珍一也、予拝伏捧持而退、既而帰二佐倉一、如二
君命一遂以二冊子一置二之官庁一、別手‐二写一通一置二坐右一、実我
公重二民事一之盛意、而可レ謂二臣僚不レ啻、封内民人大幸福一也、因 記二其事於冊尾一云。
[#改ページ]法は国民意識の表現であるという位であるから、一国の法を他国に継受することは、決して容易の事ではなく、多くの心労と、多くの歳月とをもって
一、茲 ニ堂諭ヲ奉シ、支那字ヲ用テ、法国律語ノ音ヲ釈ス、其旨趣 ハ、凡 原語ノ訳シ難キ者、及ビ之ヲ訳スルモ、竟 ニ其義ヲ尽シ得ザル者ハ、皆仮リニ意訳ヲ下シ、別ニ漢字ヲ以テ、原字ノ音ヲ照綴 シ、更ニ之ヲ約併シテ、二字或ハ一字ニ帰納シ、其漢音ニ吻合 スルヲ以テ、洋音ヲ発シ、看者ノ之ヲ視ル、猶 原語ヲ視ル如クナラシム、其漸次ニ約併セルハ、簡捷ヲ尚 ブ所以ナリ。
一、一字卜為セシ者、皆新様ニ似タレドモ、敢テ古人製字ノ法ヲ倣フニ非ズ、其旁画、動 モスレバ疑似ニ渉ルヲ以テ、※[#「横長の口」、168-1]※[#「縦長の口」、168-1]等ノ片爿ヲ加ヘ、故 ラニ字形ヲ乱シ、以テ真字ト分別アルヲ示ス、且此字ニ音無ク義無シ、即原語ノ音ヲ縮メテ、此字ノ音卜為ス者ナリ。
一、新字ノ頭ニ、※[#「横長の口」、168-4]アル者ハ、亜 頭ノ語ナリ、他ノエ、イ、※[#「縦長の口」、168-4]、ユ、モ埃 伊 阿 兪 頭ノ語ニシテ、※[#「縦長の=」、168-5]アル者ハ、匐 以下ノ単字頭ト知ルベシ。
今、一例を挙げて見ると、「a」頭の語から作った新字には、皆「※[#「横長の口」、168-6]」冠が附けてある。例えば、Acte 亜克土 行為、証書、 ※ [#「口/軋」、168-8]
Action亜克孫 、 株権、訴権、 ※ [#「口/温」、168-9]
Adoption亜陀不孫 、遏噴 、 養子、 ※ [#「口/恩」、168-10]
また「e」頭の語から作った新字には「※[#「縦長の工」、168-11]」の篇が附けてある。Action
Adoption
Expropriation 埃※不
不略孫 [#「尅」の「寸」に代えて「土」、168-12]、渥礬 、 引揚 ※ [#「功のへん+二点しんにょうの遠」、168-12]
Epave埃叭附 、 紛失物、 ※ [#「功のへん+(奥/土)」、168-13]
Exception埃※色不孫 [#「尅」の「寸」に代えて「土」、169-1]、易損 、 例外、 ※ [#「功のへん+(竹かんむり/均)」、169-1]
また「i」頭の字は皆「
Epave
Exception

Indivisibilit
因地微逝皮重太 、維誓 、 不可分、 ※ [#「働」の「重」に代えて「貰」、169-3]
などのようである。「u」頭の字は「※[#「侯のつくり−矢」、169-4]」冠が附けてある。例えば、
Unilat
ral 愈尼剌太喇立 、揶他 、 偏単了、 ※ [#「侯のつくり」の「矢」に代えて「鴉」、169-5]
などのようである。その他は
Bail 友揖 、 賃貸、 ※ [#「口+敗」、169-7]
Donation陀納孫 、 贈与、 ※ [#「嚆」の「高」に代えて「屯の縦棒が上に突き抜けない」、169-8]
などのようである。当時このような事が実行せられようと思うて、数年間多大の労力と費用とを費して、大きな餅を画いたのは、余程面白い現象といわねばならぬ。Donation
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現時用いている法律学の用語は、多くはその源を西洋の学語に発しておって、固有の邦語または漢語に基づいたものは極めて少ないから、洋学の渡来以後、これを翻訳して我邦の学語を鋳造するには、西学輸入の率先者たる諸先輩の骨折はなかなか大したものであった。
無精者を罵って「竪のものを横にさえしない」というが、堅のものを横にしたり、横のものを竪にしたりするほど面倒な仕事はないとは、和田垣博士が「吐雲録」中に載せられた名言である。蘭学者がその始め蘭書を翻訳したときの困難は勿論非常なものであったが、明治の初年における法政学者が、始めて法政の学語を作った苦心も、また実に一通りではなかった。
我輩が明治十四年に東京大学の講師となった時分は、教科は大概外国語を用いておって、或は学生に外国書の教科書を授けてこれに拠って教授したり、或は英語で講義するという有様であった。それ故、邦語で法律学の全部の講述が出来るようになる日が一日も早く来なければならぬということを感じて、先ず法学通論より始めて、年々一二科目ずつ邦語の講義を増し、明治二十年の頃に至って、始めて用語も大体定まり、不完全ながら諸科目ともに邦語をもって講義をすることが出来るようになったのであった。
かくの如く法学をナショナライズするには、用語を定めるのが第一の急務であるが、諸先輩の定められた学語だけでは不足でもあり、また改むべきものも
かような経験があるから、我輩は法政学語の由来については、一通りならぬ興味を持っている。故に今、我輩の記憶を辿って、
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明治三年閏十月の大学南校規則には「法科理論」となっている。あまり悪い名称ではない。我邦の最初の留学生で泰西法律学の開祖の一人なる西周助(
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憲法という語は昔から広く用いられており、往々諸書にも見えているが、就中聖徳太子の「十七条憲法」は最も名高いものである。しかし近年に至るまでは、現今のように国家の根本法という意義には用いられておらなかった。徳川時代に「憲法部類」という有名な書がある。これは写本で行われて二種あるが、いずれも享保以下の諸法令を分類輯録したもので、その一は明和の頃までに至り、第一巻「殿中向」「御城内」「下馬」より第十巻「諸御書付」「諸奉公人」に至り、総べての法規を載せ、他の一は安永九年に至るまでの法令を載せ、養子、家督、縁組などの事より金銀銭、空米切手などの
明治時代になっても、
憲法という重々しい漢語を用うると、あるいは重要なる法律を指すように聞こえぬでもないが、決して現今のように国家の根本法のみを指すものではなかった。故に西洋の法律学が本邦に渡って来たときに、学者は彼のコンスチチューシオン、フェルファッスングなどの語に当てる新語を鋳造する必要があった。支那にもこれに相当する訳語がなかったものと見えて、安政四年に上海で出版になった米人
また慶応四年出版の津田
しからば、憲法なる語を始めて現今の意義に用いたのは誰であるか。それは実に箕作麟祥博士であって、明治六年出版の「フランス六法」の中にコンスチチューシオンを「憲法」と訳されたのである。しかしながら、当時は学者は
しかるに明治天皇が憲法制定の事を勅定し給い、伊藤博文公が憲法取調の勅命を受けられてより、いよいよ「憲法」なる語がコンスチチューシオン、フェルファッスングなどに相当する語となり、帝国大学においても、明治十九年以来憲法なる語を用いるようになったのである。
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民法という語は津田真道先生(当時真一郎)が慶応四年戊辰の年に創制せられたのである。民法なる語は箕作麟祥博士がフランスのコード・シヴィールの訳語として用いられてから一般に行われるようになったから、我輩は始めこれは箕作博士の鋳造された訳語であると信じておったが、これを同博士に質すと、博士はこれは自分の新案ではなく、津田先生の「泰西国法論」に載せてあるのを採用したのであると答えられた。そこでなお津田先生に質して見ると、同先生は、この語は自分がオランダ語のブュルゲルリーク・レグト(Burgerlyk regt)の訳語として新たに作ったものであると答えられた。法律の訳語は始め諸先輩が案出せられてから、幾度も変った後ちに一定したものが多いが、独り「民法」だけは始めから一度も変ったことがなく、また他の名称が案出されたこともなかったのである。
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国際法の名称は西洋でも多くの沿革があって、始めは万民法(jus gentium)と混ぜられ、または自然法(jus naturale)の一部として論ぜられ、グローチゥスの「平戦法規論」が出た後ちまでもこの種類の法規に対する独立の名称はなかったのであるが、一六五○年にオクスフォールド大学教授のザウチ(Zouch)博士が jus inter gentes(国民間法)なる名称を附してから特別の名称が出来、仏国においても一七五七年にダゲッソー(D'Aguesseau)が Droit entre les nations または Droit entre les gens(国民間法)なる名称を用い、一七八九年にベンサムが International law なる新語を鋳造し、その後ち一般にこの語またはその訳語が行われるようになったのである。ドイツでは Internationales Recht なる訳語を用うることもあるが、通常は Voelkerrecht なる語を用いている。この語は何人が造ったのであるかは確かに知らぬが、あるいは一八二一年のクリューベルの「ヨーロッパ国際法」(Klueber, Europ

我邦では始めは「万国公法」という名称が一般に行われた。これは米人


かくの如く、初め支那において丁


明治二年出版の「外国交際公法」という書があるが、これは福地源一郎氏がマルテンスの「外交案内」(R. Martens, Diplomatic Guide)を訳したものであるから、この書の題を国際法の名称と見ることは出来ぬ。また明治三年二月に発布された「大学規則」および同年閏十月に定められたる「大学南校規則」にも「万国公法」とあるが、明治七年に東京帝国大学の祖校なる東京開成学校において法学の専門教育を始められた時の規則には「列国交際法」となっておる。当時我邦に舶来しておった国際法の書は殆どホウィートンとウールジーの二書に限っておったが、ウールジーの書は簡明な教科書であって、比較的に多く読まれ、しかもその始めにおいてインターナショナル・ローは耶蘇教以外に行われぬと書いてあるから「万国」の字を避け、これに代うるに「列国」をもってしたのであるとの事であった。それより東京開成学校が東京大学となった後ちも、やはり「列国交際法」となっておったが、明治十四年に学科改正を行うた時から「国際法」の語を用いるようにしたのである。
しからば「国際法」なる名称の創定者は

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国際私法の名称は、その初め支那の同治三年即ち我が元治元年に

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法例とは、法律適用の通則を蒐集したものを称するのである。我邦では、この語は、明治十三年以来用いられているが、明治三十年の頃、我輩は法典調査会において、法学博士山田
支那において、刑法法典編纂の端緒は、けだし魏の文侯が、その臣

李

晋の
この法例の字義は、「例者五刑之体例」といい、また「例訓為レ比」といい、また「比二諸篇之法例一」といい、また「律音義」には「統レ凡之為レ例、法例之名既多、要須レ例以表レ之」とある。これらの解釈によれば、法例という語は、法律適用の例則という意味に用いられたのである。
その後ち宋・斉・梁および後魏の諸律は、刑名律・法例律の称号を因襲したのであったが、北斉に至って刑名・法例の二律を併せて一編としてこれを名例律と称えた。後周は、一度刑名律なる名称を復したけれども、隋唐以来清朝に至るまで、皆北斉の例に倣って、刑法の通則を名例律の中に置いたから、法例という題号は久しく絶えたのであった。
我邦においても、古律は隋唐の律を模範として、名例律という称を用い、また維新の際に編成した「新律綱領」もその編首に名例律を置いたのであった。
明治十三年に刑法を改正した際、第一編第一章に刑法適用の通則を掲げてこれを法例と題した。これはけだし晋律の用例に倣うたものであって、北斉以来久しく法典上に絶えていた用例を、我国において復活させたものである。
明治二十三年、民法その他の法典が公布された際に、法律第九十七号をもって、一般法律に通ずる例則を発布して、これを法例と称した。ここにおいて法例という語の用例が一変することとなって、従来は刑法の通則に限って用いられておった語を
このように、初め刑法にのみ用いた語を、一般の法律に通用するようになるのは、法律沿革史上に往々その例を見るところであって、諸国の法律は、最初に刑法、訴訟法などのようなものがその体裁を整備するものであるから、これらの法律の用語を他の法律に転用するようになることは、決して稀なことではない。
支那においても、古代に法と称し律と
このように、法例という語は、法律の適用に関する通則の題号としては、頗る穏当であるから、我輩は命を蒙って法例改正案を起草した時にも、これを襲用したのである。
その後ち、商法改正案においても、総則なる語を改め、法例としてこれを題号に採用したのである。ここにおいて、我邦の法典においては、法例という語に二様の用例を生ずることとなった。即ち、一は一般に各種の法律に通ずる法例で、他は刑法および商法の首章に掲げた法例の如く、その法典中の条規の適用に関する例則を称するのである。この二種の法例は、普通法と特別法との関係を有するものであるから、前者はこれを一般法例と称し、後者はこれを特別法例と称することが出来よう。
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準拠法は、我輩が明治二十九年法典調査会において法例を起草した際、マイリ(Meili)などのドイツ国際私法論者が用いた Massgebendes Recht という語に
そもそも、この準拠なる成語は、「延喜式」の序にも見えて「準二拠開元永徽式例一」とあり、また明応四年八月の「大内家壁書」の中に用いられているものであるが、これより先、我輩が民法養子部の起草を担任した際に、「大内家壁書」中の「養子被レ改二御法一之事」の条中に、この語を名辞として用いてあったのを見て、一寸面白い成語であると思うておったから、法典調査会で法例各条の説明をした時にこれを用いたのであった。最も「大内家壁書」に用いた準拠という字は、先例に準じてこれに拠るという意味であり、国際私法でいう準拠法というのは、これを標準とし、これに依って、渉外事件を裁判すべき法であるという意義に用いたのであって、少しくその用例を変じたのである。「大内家壁書」の文は次のようなものである。
養子被レ改二御法一事、
諸人養子事、養父存生之時、不レ達二上聞 一仁者 、於二御当家一、為 二先例之御定法一、至二養父歿後一者、縦兼約 之次第自然雖レ令 二披露一、不レ被レ立二其養子一也、病死跡同前也、然間 雖レ為二討死勲功之跡一、以二此準拠一令 二断絶一畢 、(中略)
明応四年乙卯 八月 日
[#改ページ]諸人養子事、養父存生之時、不レ達二
明応四年
沙弥 奉正任
左衛門尉 同武明
経済学は、慶応三年四月に神田
明治の初年にはウェーランドの「ポリチカル・エコノミー」(Wayland's Political Economy)が一般に行われ、その冒頭に、“Political Economy is the Science of Wealth.”という定義が掲げてあるので、一時「富学」という語を用いた人もあったが、これではいささか金儲けの学問と聞える
その後ちこの名称が久しく行われておったが、「経済」という語は、経国済民から出ておって、太宰春台の「経済録」などが適当の用法であることは勿論であるから、明治十四年の東京大学の規則には「理財学」と改められた。これはけだし「周易」の伝に「何以聚レ人、曰財、理レ財正レ辞、禁二民為一レ非、曰義」あるに拠ったものであろう。
しかしながら、字義の
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スタチスチックスの訳名が「統計学」と定まるまでには多少の沿革がある。始め慶応三年四月に出版せられた神田孝平氏訳「経済小学」の序には、スタチスチックスを訳して「会計学」としてあるが、明治三年二月発布の「大学規則」には「国勢学」とある。これは、欧洲において中世より第十八世紀の始めに至るまでは、この語原の示す如く、国家の状態を研究する学問となっていたとのことであるから、その後の沿革を知らずに、二百年前の用例をそのままに「国勢学」と邦訳したのであろう。同年十月の大学南校規則にも「国務学」となっている。世良太一君の直話に拠れば、国勢学を一時「知国学」ともいうたことがあるが、これは多分杉
かくの如く「スタチスチックス」に対する訳字が従来区々であったので、むしろ原語そのままを用いた方が好かろうということで、明治九年頃、杉亨二博士・世良太一氏らの創められた学会には、「スタチスチックス」社という名称を附し、「スタチスチックス」雑誌というのを発刊せられたが、当時「スタチスチックス」という原語に宛てるために
明治四年七月二十七日大蔵省の中に始めて置かれた役所に統計司というのがある。これは翌八月十日に至って統計寮と改められたが、官署の名に「統計」の名を附したのはこれが初めてである。この「統計」の二字は、恐らくは「英華字典」にスタチスチックに対して「統紀」という訳字を用いておったのに拠って案出したものであろう。この後ち明治七年六月になって、箕作麟祥博士が仏人モロー・ド・ジョンネの著書を翻訳して文部省から出版せられたものには「統計学一名国勢略論」という標題を用いられた。学名として「統計学」という各称を用いたのは、けだしこの書をもって初めとなすべきである。そして前にも述べた如く、この後にも「国勢学」「知国学」「政表学」または「表紀」「※[#「寸+多」、198-5]※[#「刋のへん+寸」、198-5]※[#「刋のへん+久」、198-5]」などの名称が存在したにもかかわらず、後には「統計学」という名称が一般に行われて、終に学名と定まるに至ったのである。
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安政四年に、米人
蓋以人生受レ造、同得二一定之理一。己不レ得レ棄、人不レ得レ奪、乃自然而然。以保二生命及自主自立一者也。
この書は、我文久年間に続刻せられて、長崎に伝来したものであるが、これを見た者は同書第一巻、政治の部の註に、
本文自主・任意・自由ノ字ハ、我儘放盪ニテ、国法ヲモ恐レズトノ義ニ非ラズ、総テ其国ニ居リ、人ト交テ、気兼ネ遠慮ナク、自分丈ケ存分ノコトヲナスベシトノ趣意ナリ、英語ニ之ヲ「フリードム」又ハ「リベルチ」ト云フ、未ダ的当 ノ訳字アラズ。
といい、またこの後ち明治三年に出版の「西洋事情」第二編の例言中に、彼ノ常言モ、我耳ニ新シキコトアリテ、洋書ヲ翻訳スルニ臨ミ、或ハ妥当ノ訳字ナクシテ、訳者ノ困却スルコト、常ニ少カラズ。
といい、特に「リベルチ」の訳語「自由」は、「原意ヲ尽スニ足ラズ」とて、その意義を邦人に説明せんと試みられた。第一「リベルチ」トハ、自由ト云フ義ニテ、漢人ノ訳ニ、自主、自尊、自得、自若、自主宰、任意、寛容、従容等ノ字ヲ用ヒタレドモ、未ダ原語ノ意義ヲ尽スニ足ラズ。
自由トハ、一身ノ好ムマヽニ事ヲ為シテ、窮窟 ナル思ナキヲ云フ。古人ノ語ニ、一身ヲ自由ニシテ自ラ守ルハ、万人ニ具 ハリタル天性ニシテ、人情ニ近ケレバ、家財富貴ヲ保ツヨリモ重キコトナリト。
又上タル者ヨリ下ヘ許シ、コノ事ヲ為シテ差構 ナシト云フコトナリ。譬 ヘバ、読書手習ヲ終リ、遊ビテモヨシト、親ヨリ子供ヘ許シ、公用終リ、役所ヨリ退キテモヨシト、上役ヨリ支配向ヘ許ス等、是ナリ。
又、御免 ノ場所、御免ノ勧化、殺生御免ナドイフ御免ノ字ニ当ル。
又好悪ノ出来ルト云フコトナリ、危キ事ヲモ犯シテ為サネバナラヌ、心ニ思ハヌ事ヲモ枉 ゲテ行ハネバナラヌナドト、心苦シキコトノナキ趣意ナリ。
故ニ、政事ノ自由ト云ヘバ、其国ノ住人ヘ、天道自然ノ通義(下ニ詳ナリ)ヲ行ハシメテ、邪魔ヲセヌコトナリ。開版ノ自由ト云ヘバ、何等ノ書ニテモ、刊行勝手次第ニテ、書中ノ事柄ヲ咎 メザルコトナリ。宗旨ノ自由トハ、何宗ニテモ、人々ノ信仰スル所ノ宗旨ニ帰依セシムルコトナリ。千七百七十年代、亜米利加騒乱ノ時ニ、亜人ハ自由ノ為メニ戦フト云ヒ、我ニ自由ヲ与フル歟 、否 ザレバ死ヲ与ヘヨト唱ヘシモ、英国ノ暴政ニ苦シムノ余、民ヲ塗炭 ニ救ヒ、一国ヲ不覊独立ノ自由ニセント死ヲ以テ誓ヒシコトナリ。当時有名ノフランキリンガ云ヘルニハ、我身ハ居ニ常処ナシ、自由ノ存スル所即チ我居ナリトノ語アリ。サレバ、此自由ノ字義ハ、初編巻之一、第七葉ノ割註ニモ云ヘル如ク、決シテ我儘放盪ノ趣意ニ非ズ。他ヲ害シテ私ヲ利スルノ義ニモ非ラズ、唯心身ノ働ヲ逞シテ、人々互ニ相妨ゲズ、以テ一身ノ幸福ヲ致スヲ云フナリ。自由ト我儘トハ、動モスレバ其義ヲ誤リ易シ。学者宜シクコレヲ審 ニスベシ。
これに依りて観れば、支那においては、これより以前既に「自主」「自専」「自立」などの訳字があり、また我邦においても、加藤先生は慶応四年出版の「立憲政体略」には「自在」と訳し、「行事自在の権利」「思、言、書自在の権利」「信法自在の権利」などの語を用いられ、同年出版の津田真道先生の「泰西国法論」にも「自在」と訳し「行事自在の権」「思、言、書自在の権」などの語を用いられているが、福沢先生は不満足ながらこれより先き既に案出せられた自由なる訳語をその著「西洋事情」中に採用せられ、同書が広く世に行われたために、自由トハ、一身ノ好ムマヽニ事ヲ為シテ、
又上タル者ヨリ下ヘ許シ、コノ事ヲ為シテ
又、
又好悪ノ出来ルト云フコトナリ、危キ事ヲモ犯シテ為サネバナラヌ、心ニ思ハヌ事ヲモ
故ニ、政事ノ自由ト云ヘバ、其国ノ住人ヘ、天道自然ノ通義(下ニ詳ナリ)ヲ行ハシメテ、邪魔ヲセヌコトナリ。開版ノ自由ト云ヘバ、何等ノ書ニテモ、刊行勝手次第ニテ、書中ノ事柄ヲ
その後ち明治五年に中村敬宇先生は、ミルのリバーチーを訳述して「自由之理」と題せられたが、この書もまた広く世に行われたものである。
これらの書の行われた結果として、欧米において前世紀の後半に至るまで盛んに行われた自由主義、即ち自由の実現をもって人生就中政治の極致とする思想は、我国に輸入せられて、自由党なるものが興り、その首領たりし板垣伯は、岐阜において刺客の刃に傷つきたる時にも、かの「我に自由を与えよ、しからざれば我に死を与えよ」と言いしパトリック・ヘンリーの激語の反響の如くに、「板垣は死すとも自由は死せず」と叫ばるるに至ったのである。
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その後ち和蘭の地理書を根拠として地理学上の著述をなし、「
磐渓先生は

於レ是国人相与畔。王出二奔
一。二相周召共理二国事一。曰二共和一者十四年(而王崩于
。)
と見えているから、国王のない政体は、共和政治というが宜しいであろうといわれた。

省吾氏はその教に従うて、レピュブリークに共和政治という訳語を用いられ、これが今に至るまで襲用される事になったのである。
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明治五年にマリヤ・ルーヅ事件なるものが起った。その事実の大要は次の如きものである。同年七月にペルー人ペロレーなる者が、清国
しかるに、この仲裁裁判においてペルー政府は「人身売買は日本政府の公認するところである、日本政府は国民に対して芸娼妓などの人身売買を公許して置きながら、他国民に対してこれを禁ずるは、その理由なきものである」と抗争したのであった。これについて、当時の司法卿江藤新平氏の伝記なる「江藤南白」の著者は、実に左の如く記している。
我国は此事件に由りて「ペロレー」の非行を矯 め得たるも、同時に日本政府は今尚ほ斯 る非行を公行する未開国たる事実を正式に世界に暴露したるの結果を来せり。而して現在には条約改正の大事業を控へ、将来には文明国の伍伴に列せんとする目的を有する我帝国に取りて、至大の打撃たるは明白なる所、我当路者は之が為に痛心したること尋常ならざりき。
実に当時の我当局者の苦慮痛心は尋常一様ではなかったであろう。なお同書に拠れば、時の司法卿江藤新平氏は、このたびの事件におけるペルー政府の抗議に刺激せられたること最も痛切であって、人を責めんと欲せば自ら正しからざるべからずとなして、熱心に人身売買の禁止を主張せられた。また当時神奈川県令としてマリヤ・ルーヅ事件に関与した大江卓氏の如きも、江藤氏と同一の趣旨の建白をした。依って政府は、明治五年十月二日太政官布告第二百九十五号をもって左の如き禁止令を発布することとなった。一、人身ヲ売買シ終身又ハ年期ヲ限リ其主人ノ存意ニ任セ虐使致シ候ハ人倫ニ背キ有マシキ事ニ付古来制禁ノ処従来年期奉公等種々ノ名目ヲ以テ奉公住為致其実売買同様ノ所業ニ至リ以ノ外ノ事ニ付自今可為 厳禁事。
但双方和談ヲ以テ更ニ期ヲ延ルハ勝手タルヘキ事。
一、平常ノ奉公人ハ一箇年宛タルヘシ尤奉公取続候者ハ証文可相改事。
一、娼妓芸妓等年季奉公人一切解放可致右ニ付テノ賃借訴訟総テ不取上事。
右之通被定候条屹度 可相守事。
この法令の発布はマリヤ・ルーヅ事件発生後僅に三箇月である。そして右の法令の第一項に「古来制禁ノ処」と書いたのはマリヤ・ルーヅ事件の抗議に対して特に明言したのであるや否やは知らぬが、ちょっと意味ありげに聞こえる。なお右の法令施行に関して、江藤司法卿は十月九日に司法省第二十二号をもって左の如く達した。
本月二日太政官第二百九十五号ニ而被仰出候次第ニ付左之件々可心得事。
一、人身ヲ売買スルハ古来ノ制禁ノ処年期奉公等種々ノ名目ヲ以テ其実売買同様ノ所業ニ至ルニ付娼妓芸妓等雇入ノ資本金ハ贓金ト看做ス故ニ右ヨリ苦情ヲ唱フル者ハ取糺ノ上其金ノ全額ヲ可取揚事。
一、同上ノ娼妓芸妓ハ人身ノ権利ヲ失フ者ニテ牛馬ニ異ナラス人ヨリ牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ故ニ従来同上ノ娼妓芸妓ヘ借ス所ノ金銀並ニ売掛滞金等ハ一切債ルヘカラサル事。
但シ本月二日以来ノ分ハ此限ニアラス。
一、人ノ子女ヲ金談上ヨリ養女ノ名目ニ為シ娼妓芸妓ノ所業ヲ為サシムル者ハ其実際上則チ人身売買ニ付従前今後可及厳重ノ所置事。
勇断改法家なる江藤新平氏の面目は右の法令に躍如として現われている。[#改ページ]
維新後における民法編纂の事業は、明治三年に制度局を太政官に設置せられたのに始まったものである。当時江藤新平氏は同局の民法編纂会の会長であったが、同氏は「日本と欧洲各国とは各その風俗習慣を異にすといえども、民法無かるべからざるは則ち一なり。
この話は「江藤南白」にも載せてあり、また我輩もしばしば磯部博士から直接に聞いたことがある。
今よりしてこれを観れば、江藤氏の計画は実に突飛極まるものであって、津田真道先生はこれを評して「秀吉の
しかしながら、始めに江藤氏の如き進取の気象の横溢した政治家があって突進の端を啓き、鋭意外国法の調査を始めたからこそ、後年の法制改善も着々その歩を進めて行くことが出来たのである。我邦の如く数千年孤立しておった国民が、俄然異種の文化に接触した場合には、種々の突飛な試験をして見て、前の失敗は後の鑑戒となり、後ち始めて順当なる進歩をなすに至るのは、やむを得ぬ事である。現に民法編纂の沿革からいうても、初めは江藤氏の敷写民法で、中ごろ大木伯らの模倣民法となり、終に現行の参酌民法となったのである。
[#改ページ]
明治三年、太政官に制度局を置き、同局に民法編纂会を開いた時、江藤新平氏はその会長となった。当時同氏はフランス民法を基礎として日本民法を作ろうとし、箕作麟祥博士にフランス民法を翻訳させて、これを会議に附したことがあった。その節、博士はドロアー・シヴィールという語を「民権」と訳出されたが、我邦においては、古来人民に権利があるなどということは夢にも見ることがなかった事であるから、この新熟語に接した会員らは、容易にこの新思想を理会しかね、「民に権があるとは何の事だ」という議論が直ちに起ったのであった。箕作博士は口を極めてこれを弁明せられたけれども、議論はますます沸騰して、容易に治まらぬ。そこで江藤会長は仲裁して、「活かさず殺さず、
[#改ページ]
「法学協会雑誌」の初めて発行されたのは明治十七年の三月であるが、我輩はその第一号から引続いて「法律五大族の説」と題する論文を掲載した。この論文は自分が研究した結果を出したつもりであったが、間もなく「あれは西洋の何という学者の説ですか」との質問を諸方から受けたので、「あれは全く自分の説である」と言うても、なかなか信じてくれない。中にはその原書を見附けたなど言う人もあったそうだ。またこの分類を泰西の学者の説として引用する者もあり、その他当時我輩の説を引いて「西哲曰ク」などと言った者さえもあったので、我輩が戯れに「今後西哲タルノ光栄ヲ固辞セントス」などと書いた事もあった。
かような事は、今日からこれを観れば、まことに
その後ち、我輩はまた比較法学研究法の便宜のために、なお法族説を完成しようと思うて、「法系」なる語を作り、同時に法律継受の系統を示すために「母法」および「子法」の語をも作って、法学通論および法理学の講義にはこれを用いた。これらの語も素より西洋の法律学語の翻訳であると思うている人が、今でも随分多いということである。
しかるに、これらの説を発表してから二十年も過ぎて後ち、明治三十七年に、アメリカのセント・ルイ世界博覧会の万国学芸大会から比較法学の講演者として招待せられた時、同会の比較法学部において、我輩は比較法学の新研究法として法系別比較法を採用すべきことを提議した。従来泰西の比較法学者の間には、国を比較の単位とするもの、即ち国別比較法と、人種を比較の単位とするもの、即ち人種別比較法との、二種の研究方法が行われておったのであるが、人類の交通が進むに従い、一国の法が他国に継受され、これに因って甲国の法と乙国の法との間に親族の如き関係(Kinship)が生ずるから、我輩はこれらの関係を示すために「母法」(“Parental law”or“Mother law”)「子法」(“Filial law”)なる新語を用い、またその系統を示すために「法系」(“Legal genealogy”)なる語を用い、法系に依りて諸国の法を「法族」(“Families of law”)に分つことを得べく、そしてその研究方法は「法系別研究法」(“Genealogical method”)と称すべしと提議したのである。その事はローヂャース博士の「万国学芸会議報告」第二巻(Howard J. Rogers, Congress of Arts and Science. vol.

また我輩が拙著「隠居論」の始めに隠居の起原を論じて、「隠居俗は食老俗、殺老俗、棄老俗とその社会的系統を同じうし、これらの蛮俗が進化変遷して竟に老人退隠の習俗を生ぜり」と述べたが、この説もその根本思想をドイツのヤコブ・グリムの説に得たものだという人がある。我輩はドイツでは老人を棄てる習俗が後世退隠俗を生じたというグリムの「ドイツ法律故事彙」中の記事を引用して、自説の支証とするつもりであったが、これもまた舶来説と思われたと見える。
これらの事は、我邦の学問は古来外国から輪入せられたもので、漢学時代においては支那の学者は特別にえらいものと思い、支那の故事を知り支那の学説を知るのが即ち学問であると考え、西洋の学問が渡ってからはまだ日も浅く、新学問においては彼は先進者であるから、万事彼の説に拠り、彼の説に倣うという有様であった結果に過ぎないのである。故に新学問の初期即ち明治二十年代位に至るまでは、西洋人の説とさえいえば、
我輩の友人に時計製作の大工場を持っている人がある。その工場で出来る時計は頗る精巧な物で、いわゆる舶来品に劣らぬものであるが、その製造品には社名が記し付けてない。我輩がその理由を尋ねると、その工場主は嘆息して「自分の社の名を出したいのは山々であるが、和製は即ち劣等品との世間の誤解が未だ去らぬため、銘を打てばあるいは劣等品と思われて売価が低落し、もしまた優等品と認められても、これは偽銘を打って売出すのではないかと疑われる恐があるので、世間に真価を認められるまで、遺憾ながら無銘にして置きます」と言われた。
また本年四月、我輩の故郷なる伊予の宇和島にて、旧藩主伊達家の就封三百年記念として、藩祖を祀った鶴島神社の大祭が行われたが、その時旧城の天主閣において、伊達家の重器展覧会が開かれた。その折り場内に陳列されたものの中に、旧幕時代に佐竹家より伊達家に嫁せられたその夫人の嫁入道具一切が陳列されてあったが、大小数百点の器物は、ことごとく皆精巧を極めたる同じ模様の金蒔絵であって、色彩
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フーゴー・グローチゥス(Hugo Grotius)は、国際法の鼻祖であって、その著「平戦法規論」(De jure belli ac pacis)は国際法の源泉であることは、人の好く知るところである。
しかしながら、近世の文明世界が、国際法の基礎的経典とも称すべきこの「平戦法規論」という大文字の
フーゴー・グローチゥスはオランダの人で、一五八三年に生れた。幼時から
一六○八年、マリア・ファン・レイゲスベルグ嬢(Maria van Reigesberg)と結婚して、一家をなすこととなったが、前にも一言した如く、氏がこの好配偶を得たのは、実に国際法の起源史に重大なる関係を有する事になったのである。
一六一三年、氏はオランダ政府の命令を蒙って英国に使したが、その後ち帰国してみると、当時オランダにては、アルメニアン教徒とゴマリスト教徒との紛争激烈を極め、ために国内甚だ混乱の状態であった。
本来グローチゥスはアルメニアン派に属しておったが、当時オランダ総督たりしモーリス公は、ゴマリスト党に

グローチゥスの監禁は、始めの間は甚だ厳重であったから、その父といえども面会を許されなかったが、その後マリア夫人が面会を懇請するようになったとき、典獄は夫人に
当時グローチゥスは三十六歳であったが、終身禁錮の刑に処せられても、少しも失望することなく、その身は獄舎の中にありながらも、夫人マリアの慰藉と奨励とを受けつつ、一意専心思いを著述に潜めておった。かくて後には、典獄の許可を得て、ゴルクムなる友人たちに依頼して、一週に一度ずつ書籍を
夫人マリアが、その夫と獄中生活を共にするようになってから、もはや一年有半を経過した。その間、両人は、絶えず脱走の機会の到来するのを窺うておった。夫妻両人の毎週送り出す櫃は、何時も何時も獄吏どもには何らの興味をも与えない古本や、汚れた衣類ばかりであったので、歳月を経るに従って、これらの検査も次第に
マリア夫人が、一日千秋の思いをして待っていた逃走の機会は、今や次第に近づいて来た。夫人はその機会のいよいよ熟したのを見て、夫に勧めて冒険なる脱獄を企てたのである。その方法として、夫人は監守兵の怠惰に乗じて、その夫を櫃の中に
かような
この中にはアルメニアン教徒が這入っているのではないか。
と言った。これ実に発覚の危機、間髪を入れない刹那であった。この時に当り、もしマリアの機智胆略がなかったなら、文明世界が国際法の発達を観ることなお数十年の後になったかも知れぬ。マリア夫人は声色共に自若、微笑を含んで、さよう、アルメニアン教徒の書籍が這入っているのです。
と答えた。それで兵卒らも忠僕某は、マリア夫人の兼ねての命令の通りに、城外で櫃を受け取り、直ちにこれを船に乗せて、運河の便を借りて、ゴルクム町に運送しようという考案で、船頭に
自由を得たグローチゥスは、直ちに煉瓦職工に変装して、一
グローチゥスは国境を越えて仏国に走り、翌月その首府パリーに到着した。これ実に一六二一年四月の事である。
慧智なる夫人マリアは、夫の脱獄後もなお獄中に留っておって、自分の夫は激烈なる伝染病に罹っていると偽って、監守兵の室内に入り来るを避け、かくして一瞬間でも発覚の時機を延ばすようにと苦心したが、夫が脱獄してから、
当時、仏王ルイ第十三世は、グローチゥスの不遇を憐んで、年金三千フランを授ける事に定められたけれども、国庫はその支払をしてくれなかった。故にグローチゥス夫婦は、故郷の親戚より送ってくれる僅かの金員、衣服、食品などに依って、ようやくに日々の生活を支え、その困苦欠乏は決して少なくはなかったのであるが、グローチゥス夫婦は、毫もこれがためにその志を屈することなく、互に励み励まされてその著述を継続したのであった。
その後グローチゥスの大才は、漸く世人の認めるところとなり、宰相ダリヂールの奏請に依って年金の一部を支給せられることとなり、またジャック・ド・メームはその居城の一部を貸してこれに住ましめ、ド・ツーは、その書庫の使用を許してくれたので、その著述はますます
嗚呼、グローチゥスにして、もしこれを助くるに夫人マリアの貞操義烈をもってしなかったならば、
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ジョン・オースチン(John Austin)は分析法理学の始祖であって、今日に至るもなおイギリス派の法律学者の思想を支配している大家なることは、世人の熟知しているところである。
しかるに、その名著「法理学講義」(Lectures on Jurisprudence)は、氏の歿後に未亡人サラー(Sarah)が千辛万苦の結果出版したものであって、今もなお法学界にこの大著述が儼存して、吾人を裨益しているのは、
オースチン夫人サラーは、一七九三年、英国ノリッチ(Norwich)州の名家ティロー家に生れた。資性温順の上に、天成の麗質であったが、厳粛なる家庭教育の下に人となり、ことに古文学および近世語に熟達しておった。一八二○年、当時弁護士であったジョン・オースチンに嫁してより後は、専ら家事にその心を尽したが、暇があれば、かねて好める古典や独仏語で書いてある有名な歴史詩文などを、翻訳することに従事しておった。故に、夫人の手になれる名高き著書もまた数種あったのである。
しかしながらサラー夫人の功績にして、最も広大に人類を裨益したものは、いうまでもなく、その夫オースチンの遺稿を整理編輯してこれを公にした一事である。
一八六七年八月十二日のタイムス新聞は、その紙上に夫人サラーの死亡を記すと同時に、その伝記を掲載して、その末尾に、「夫人がその齢
この賢夫人サラーの生涯は、実に一立志伝である。しかのみならず、その夫の遺著に題した序文は、絶代の名文と称せられているものであって、我輩はこれを読むたびにひたすら感涙を催すのである。我輩は毎年大学における法理学の講壇にてオースチンの学説に説きおよび、この夫人サラーの功績を語る時には、
サラー夫人はオースチンに嫁して
一八二六年、ロンドン大学が創立され、初めて法理学の講座が設けられることになった時、篤学なるオースチンは、聘せられてその講座を担任することとなった。しかし氏は極めて慎重な研究者であったから、その講義を始める前に、予めドイツの諸大学の法学教授法を調査しようと思い立って、夫人とともにドイツへ赴いた。しかるにドイツにおいても、サラー夫人の名は、ランケの「ローマ法王伝」や、ファルクの「ゲーテ人物論」やなどの、種々なる独逸書の翻訳によって、既に世界に喧伝されておったのである。この一事は、オースチンが、自分の取調をする上に、非常な便宜を与える事となって、ボン市においては史家ニーブル(Niebuhr)、文学者シュレーゲル(Schlegel)とか、哲学史家ブランヂス(Brandis)とか、愛国詩人アルント(Arndt)とか、考古学者ウェルケル(Welcker)とか、ローマ法学者マッケルデイ(Mackeldey)とか、国際法学者ヘフテルとか、その他当時ドイツにおける碩学と交を結ぶことが出来た。また調査その事についても、夫人の援助は莫大なるものであった。かくて、オースチン夫妻はドイツに逗留して、その法律研究法や教授法などの取調を行うこと一年余の後ちロンドンに帰り、オースチンはいよいよロンドン大学の講壇に立って、その多年
しかるに、初めの間は、満堂の聴講生があったけれども、その講義は、現今吾人が氏の著書に依っても知ることが出来るように、甚だ周密であって、普通の学生には、むしろ精細に過ぎるほどであったので、彼らはオースチンの講ずる卓越せる学理を到底
さて、前に述べたサラー夫人の序文は、その亡夫オースチンの性行を叙述し、その思想の高潔であったこと、その蘊蓄の深遠であったこと、その学を好む志の篤かったことなどを、情愛の涙を以て記載し且つその遺稿を公刊するに至った順序をも併せ記したものである。高潔婉麗の筆、高雅端壮の文、情義兼ね至り、読者をして或は粛然
今その一、二の例を
夫人はまたさきにオースチンが夫人に結婚を申し込んだ時の手紙の中には、氏は世の高貴なる栄達を
······ Even in the days when hope is most flattering, he never took a bright view of the future; nor (let me here add) did he ever attempt to excite brilliant anticipations in the person whom he invited to share that future with him. With admirable sincerity, from the very first, he made her the confidant of his forebodings. Four years before his marriage, he concluded a letter thus; ||‘ ······ and may God, above all, strengthen us to bear up under those privations and disappointments with which it is but too probable we are destined to contend !’The person to whom such language as this was addressed has, therefore, as little right as she has inclination to complain of a destiny distinctly put before her and deliberately accepted. Nor has she ever been able to imagine one so consonant to her ambition, or so gratifying to her pride, as that which rendered her the sharer in his honourable poverty.”[#「”」はママ]
また夫人が夫オースチンの遺書を出版するに至った次第を記した文章は、実に情義並び至っておって、一方においては婦女子の謙徳を現わし、他方においては既に出版と決した上は、次にその遺稿を整理編纂する任に当る者は
しかるにオースチンの友人、門弟らの説はぜひその遺稿を出版すべしとの事に一致し、且つその草稿が極めて複雑であり、断片的なるところもあり、不必要なる重複もあるから、その出版者は最も深く著者の名誉を重んじ、その遺稿に対し厚き
“One of them, who spoke with the authority of a life-long friendship, said, after looking over a mass of detached and half-legible papers, ‘It will be a great and difficult labour; but if you do not do it, it will never be done.’ This decided me.”
夫人はいよいよこの大事業に当る決心をしてからこう思うた。この事業は勿論非常な困難な事である。しかし四十年間最も親愛なる生涯を共にし、常に夫の心より光明と真理とを得たることあたかも活ける泉を汲むが如くあった自分であるから、その心を充たしておった思想を辿る事の出来ないはずはない。情愛の心をもってこれを考うれば、不明の文字もその意の解せられぬことはあるまい。情愛の眼をもってこれを見れば、他人の読めない文字も読めないはずはあるまい。思えば長いこの年月の間、足らわぬ我身の心尽しの助力をも受けて下さったのみならず、法学上の問題などについては、常に話もし文章を読み聞かせもして下さったのである。またこれらの問題は皆常に彼君の心を充たしておった事柄であるから、聴く自分に取っても真に無限の興味があったのである。かような次第で遂に自ら心を励ましてその事に当るに至ったのであると夫人は記している。右の叙情文は、とても適当に訳出することが出来ぬから、次に原文を抄出することとする。
“I have gathered some courage from the thought that forty years of the most intimate communion could not have left me entirely without the means of following trains of thought which constantly occupied the mind whence my own drew light and truth, as from a living fountain; of guessing at half-expressed meanings, or of deciphering words illegible to others. During all these years he had condescended to accept such small assistance as I could render; and even to read and talk to me on the subjects which engrossed his mind, and which were, for the reason, profoundly interesting to me.”
学者の妻にして、この文を読み、同情の涙に回顧すれば既に十有余年の昔となったが、明治三十八年、我輩がアメリカのハーヴァード大学を
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ライブニッツ(Leibnitz)は博覧強記の点において古今その比を見ない人と言ってよかろう。ギボンは彼を評して「世界併呑の
Habe nun, ach! Philosophie,
Juristerei, und Medicin,
Und, leider! auch Theologie,
Durchaus studiert, mit heissem Bem
hn.
とあるように、哲学・理学・医学・神学・数学・法学など、当時いやしくも一科をなしていた学問は、何一つとしてその蘊奥 を極めないものはなく、英王ウィリアム三世は氏を渾名 して「歩行辞書」(Walking Dictionary)といい、ドイツ、イギリス、ロシヤなどの王室は、終身年金を贈っていずれもこの碩学を優遇した。
ライブニッツは年二十歳の時、ライプチヒ大学に赴いて法学博士の学位試験を受けたいという請求をしたところが、氏が未だ未成年であるとの理由をもって大学はこれを拒絶した。氏笑って言うよう、「年齢と学識と如何なる関係があるか。」去ってアルドルフ大学に一篇の学位請求論文を提出した。題して「法学教習新論」(Methodus nova do cendae discendaeque jurisprudentiae Methodi Nov
discend
docend
que Jurisprudenti
. 1667.)という。一片の小冊子に過ぎないけれども、その内容に至っては、実に法学上の一新時期を作り出すべき大議論である。第十八世紀以降の法学革命を百年以前に早くも予言したる大著述である。曰く「各国の法律には、内史・外史の別がある。歴史法学は須 らく法学中特別の一科たるべきものである」と。また曰く、
Juristerei, und Medicin,
Und, leider! auch Theologie,
Durchaus studiert, mit heissem Bem

はてさて、己は哲学も
法学も医学も
あらずもがなの神学も
熱心に勉強して、底の底まで研究した。
(ゲーテ作 森鴎外訳『ファウスト』岩波文庫、上、二三頁)
法学も医学も
あらずもがなの神学も
熱心に勉強して、底の底まで研究した。
(ゲーテ作 森鴎外訳『ファウスト』岩波文庫、上、二三頁)
ライブニッツは年二十歳の時、ライプチヒ大学に赴いて法学博士の学位試験を受けたいという請求をしたところが、氏が未だ未成年であるとの理由をもって大学はこれを拒絶した。氏笑って言うよう、「年齢と学識と如何なる関係があるか。」去ってアルドルフ大学に一篇の学位請求論文を提出した。題して「法学教習新論」(Methodus nova do cendae discendaeque jurisprudentiae Methodi Nov




余は上帝の冥助 に依り、古今各国の法律を蒐集し、その法規を対照類別して、法律全図(Theatrun legale)を描き出さんことを異日に期す。
と。後世歴史法学の始祖といえばサヴィニー、比較法学の始祖といえばモンテスキューと誰しも言うが、この二学派の開祖たる名誉は、[#改ページ]
ジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham)がまだ十五歳の少年であった時、或日公判を傍聴して、当代の名判官マンスフィールド伯を見た。威儀堂々たる伯の風采は、あたかも英雄崇拝時代にあるベンサム少年の心を捉えて、彼は忽ち熱心なる伯の崇拝者となった。そこで、友人マーテンなるものから伯の肖像を請い受けて、壁上高く掲げ、
Hail, noble Mansfield, chief among the just,
The bad man's terror, and the good man's trust.
起し得て妙なりと手を拍って自ら喜び、更に二の句を次ごうと試みたが、どうしても出ない。出ないはずである。起句が余りに荘厳であるから、如何なる名句をもってこれに次ぐも、到底竜頭蛇尾たるを免れないのである。千思万考、The bad man's terror, and the good man's trust.
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ブラックストーン(Blackstone)が英国空前の大法律家と称せられてその名声
余は先生の講義が正しいかどうか考えておった。何の暇あってこれを筆記することが出来ようか。
「蛇は寸にしてその気を現わす」、「考えておった」の一言は、ベンサムの曠世の[#改ページ]
ベンサムが「フラグメント・オン・ガヴァーンメント」の第一版を出した時、
かくの如き成功に接して、最も歓喜した者は、ベンサムの父であった。子に叱られた事までも吹聴して歩きたいのは親心の常であるから、当然我が愛子の頭を飾るべき桂冠が、あらぬ方へのみ落ちようとするもどかしさに、とても堪え切れず、我子との固き約束をも打忘れて、遂に自ら発行
ベンサムは後に自らこの事を記して、「我父約を守らざりしがために、この書の著者は何人にも知られざる或人」(Somebody unknown to nobody)なりと知れ渡るや否や、書肆の門前は忽ち
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天はベンサムに幸いして、これに仮すに八十四歳の高寿をもってしたのであるが、彼はこの長年月を最も有益に費して、この天寵を空しくはしなかった。彼の哲学の主眼は、有名なる「最大数の最大幸福」なる実利主義であったが、彼自身が実にこの主義の忠僕であった。その著書大小六十三巻、氏の歿後、友人ボーリング博士は、手簡および小伝とともにこれを一部に編纂して刊行した。今、世に行わるる「ベンサム全集」は即ちこれである。
ベンサムが始めて実利主義を唱えて法律改善を説いた時には、旧慣古制に執着深き英国人士は、皆その論の奇抜大胆なのに

“It was not Bentham, by his own writings, it was Bentham through the minds. and pens which those writings fed, through the men in more direct contact with the world, into whom his spirit passed.”|| Mill, Dissertations and Discussions.
法制上においては、刑法の改正、獄制の改良、流刑の廃止、訴訟税の廃止、負債者禁錮の廃止、救貧院の設置、郵便税の減少、郵便為替の設定、地方裁判所の設立、議員選挙法の改正、公訴官の設置、出産結婚および死亡登記法、海員登記法、海上法の制定、利息制限法の廃止、証拠法の大改良などがあり、法理上においては、国際法(International Law)なる名称の創始、主法・助法(Substantive and Adjective Law)の区別、動権事実(Dispositive Facts)の類別など、枚挙するにベンサム死して既に半世紀、余威
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ベンサムは、その晩年に至って、世上の交際を避け、クウ※[#小書き片仮名ヰ、260-2]ーン・スコワヤ・プレースの住居を隠遁舎(Hermitage)と名づけて、心静かに一身を学理の研究に委ねた。或時エヂウォルスがこの隠遁舎に訪ねて来て、エヂウォルスはベンサム君に面会を希望すと紙片に書き付けて取次の者に渡したが、やがて引返して来た取次の者の、同じく一片の紙を差出したのを受取って見れば、こは如何に、ベンサムはエヂウォルス君に面会を希望せず。
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ジェレミー・ベンサムは近世における法典編纂論の始祖とも称すべき人であるが、氏が欧米諸国の政府または国民に書を送って、その法典編纂の委嘱または
一八一四年五月、ベンサムは当時ロシアにおいて法典編纂の挙ある由を聞いて、一書をアレキサンドル帝に
外臣ジェレミー・ベンサム謹んで書を皇帝陛下に上り、立法事業に関して、陛下に奏請するところあらんとす。臣年既に六十六歳、その中五十有余年は潜心して専ら法制事業を攻究せり。今や齢已 に高し。もし陛下の統治し給う大帝国の立法事業改良のために、臣の残躯を用い、臣をして敢えて法典編纂のために微力を尽すを得しめ給わば、臣が畢生 の望はこれを充たすになお余りありというべし。(中略)
今や戦闘の妖雲は全欧を蔽えり。陛下もし臣に賜うに数行の詔勅をもってし給わば、臣は直ちに治平の最大事業に着手すべし。陛下もし幸いにこの大事業を臣に命じ給わば、その重任を負うの栄誉と、これに伴う満足とは、これ陛下が臣に賜うところの無二の賞典なり。臣豈 に敢えて他に求むるところあらんや。(下略)
しかるに翌年の四月アレキサンドル帝はオーストリヤのヴィーン市より手簡をベンサムに贈ってその厚意を謝し、且つ「朕はさきに任じたる法典編纂委員に対して、もし疑義あらばこれを先生の高識に質すべき事を命ずべし云々」と言い、併せてその厚意を謝する記念として高価なる指輪を贈与せられた。ベンサムは再び長文の書を今や戦闘の妖雲は全欧を蔽えり。陛下もし臣に賜うに数行の詔勅をもってし給わば、臣は直ちに治平の最大事業に着手すべし。陛下もし幸いにこの大事業を臣に命じ給わば、その重任を負うの栄誉と、これに伴う満足とは、これ陛下が臣に賜うところの無二の賞典なり。臣
これより先き、一八一一年、ベンサムは書を合衆国大統領マヂソンに贈って、合衆国法典編纂の必要を論じ、且つ自ら進んでその立案の任に当りたいということを請うたが、マヂソン氏はその後ち五年を経て返書を送り、「方今欧洲において法典編纂の事業に適任なるは先生をもって第一とすと言えるロールド・ブローム(Lord Brougham)の説は余の悦んで同意するところである。しかしながら、
一八二二年、ベンサムは齢既に七十五の高齢に達したが、その
「改進主義を抱持する総べての国民に対する法典編纂の提議」(Codification Proposal addressed by Jeremy Bentham to All Nations professing Liberal Opinion.)
と題する一書を著して、文明諸国に氏はまた書を欧洲諸国の立法議院に寄せて、法典立案の必要を説き、且つその委託を勧請したけれども、ただギリシア革命政府、ポルトガルなどの一、二国が氏の意見を諮詢したのみに
ベンサムの博学宏才をもって心を法典編纂に
しかも、この碩学にしてその素志の天下に容れられなかったのは何故であるか。これ他なし。法典の編纂は一国立法上の大事業なるが故に、これを外国人に委託するは、その国法律家の大いに愧ずるところであって、且つ国民的自重心を傷つくること甚だ大であるからである。明治二十三年の第一回帝国議会において、商法実施延期問題が貴族院の議に上ったとき、我輩は同院で延期改修論を主張したが、上に述べた如き例を引いて、国民行為の典範たる諸法典を外国人に作ってもらうのは国の恥であると述べたのは、幾分か議員を動かしたように見えた。ベンサムにはこれらの国民的感情は少しも了解することが出来なんだのである。しかも彼が再三再四各国政府に書を寄せ、また各国人民に勧告し、その度ごとに失敗して毫もその志を屈せず、ますます老豪の精神を振うて世界の人民に

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ギリシアのシャロンダスがドリアン法を制定した時に発した命令は頗る奇抜である。曰く、「この法典の改修または新法の制定を発議せんと欲する者は、頸に一条の縄を懸けて議会に臨むべし。もしその議案にして否決せられたるときは、発議者は直ちにその縄をもって絞殺の刑に処せらるべきものなり」と。
今の議会には、まさかかくの如き奇法を
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ギリシア七聖の一人に、ピッタコス(Pittakos)という人があった。「機を知れ」という名言を吐いたので有名な人であるが、暴君メランクロス(Melanchros)の虐政から市民を救ったために、衆に推されて心ならずも国政を料理する身となった。元来栄達に志す人ではなかったから、位に
このピッタコスの定めた法律の中に「酔うて人を
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テンタルデン卿は、
未だバリストルであった頃、彼は或事件について法廷で相手の弁護士と論争した。論熱し語激する余り、相手は終に人身攻撃の卑劣手段に出でた。
「汝今こそ鉄面皮に大言を吐けども、元来理髪師の子ではないか。」
「汝は如何。」
昂然として答えて曰く、「余は法律家の子なり。」
テンタルデンは冷かに笑った。「汝は法律家の子なりしが故に法律家となり得たのであるか。幸福なることよ。もし汝をして吾輩の如く理髪師の子ならしめば、今頃は客の頤 に石鹸を塗っているところであったろうに。」
[#改ページ]サー・トマス・ムーア(Sir Thomas Moore)がロンドン府裁判所判事長の職にあった時、部下の一判事に、甚だ片意地な男があった。窃盗
或時、有名な掏摸の名人が捕われたことがあった。裁判の前日、ムーアは
かくてこの日の裁判も終ったので、裁判官は一同休憩室に入って、
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法官サー・ジョン・シルベスター(Sir John Sylbester)が、或時窃盗事件の審問をした。その審問中、法官の手はしばしば動いて、ポケットを探っている。
さてその日の事務を終えて、シルベスターが家に帰ると、家人迎えて言う、「今日は、時計を御忘れになったので、如何ばかりか御不便な事であろうと御噂をしておりましたところへ、裁判所から使の者を取りに遣わされました故、その者に渡しました。」
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明暦三年、江戸に未曾有の大火があり、殆ど全都を灰燼に帰したことがあった。この火事は、正月十八日に始って二十日まで焼け続け、焼死者無慮十万二千百余人、そしてこれら不幸な人々の内、死骸の引取人がない者を、武蔵下総の境なる牛島という処に、大きさ六十間四方の坑を掘って埋葬し、芝の増上寺をしてここに一宇の寺院を建立せしめ、名付けて諸宗山無縁寺
石出帯刀の処分は、変事に
現行の監獄法第二十二条にも、天災地変に際して、他に護送避難の
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正徳の頃、武州川越領内駒林村の百姓甚五兵衛とその
そこで、幕府では、当時の儒官林大学頭信篤(鳳岡)および新井筑後守(白石)に命じて擬律せしめることになった。林大学頭は、前記「闘訟律」の本文「告二祖父母父母一者絞」を引用し、また「左伝」にある、
葉公語二孔子一曰、吾党有二直レ躬者一、其父攘レ羊而子証レ之、孔子曰、吾党直者異レ於レ是、父為レ子隠、子為レ父隠、直在二其中一矣。
という本文などを立論の根拠として、父の悪事を訴えた者は死罪に処すべきであるという断案を下した。しかるに、白石はこれに対して、長文の意見書を幕府に
君父夫の三綱は、人倫の常においては何れも尊きものであって、その間に差などはないものである。しかしながら、人倫の変に当り、その間に軽重を設けてその一に適従する必要を生じた場合には、一の標準を発見してこれに拠らなければならない。本件は父と夫との中果して何れが重親であって、随ってこれに従うべきものであるかという問題を決定しようとするものであるが、余は今シナの喪服制を標準として、これを定めようと思うのである。即ち「儀礼 」に、女子が既に許嫁してなお未だその室にいる間に父が死亡した時には斬衰 三年(斬衰は五種の喪服中最高等の喪服であって、その縫方など万事粗略で、布も下等の品を用うるのである、即ち悲哀の最大なることを示している)、既に嫁した後に父が死亡した時には、斉衰 不杖期に服し(斉衰は第二等喪服であって、斬衰の場合よりは布の地も良く、縫方なども較々 丁寧になっており、即ち悲哀の較々小なることを示しているのである。不杖期というのは、悲しみがあまり大でないから、杖を要しないことをいうので、喪の期間は一年である)、そして妻は夫のためには斬衰三年の喪に服するのであるからして、既に嫁した後は、夫の方が父よりも重いのである。即ち女子は父の家にいる間は父を天とし、既に嫁した後ちは夫を天とするものであって、父が自分の夫を殺害するが如き人倫の変に際しては、たとい父に背いても夫には背くべきものではないのである。いわんや、この場合の如く、下手人の何人なるかを知らずに告発し、後ちに至って自分の父を告発しているような結果になった如きに至っては、罪なきは勿論のことで、たとい自分の父が下手人なることを知っていて告訴したのであっても、罪ありとすべきでないのである。その女 が、告発後自殺するならば、夫に対しては義を守り、父兄に対しては孝悌の道を尽す者であるということが出来るけれども、これは備 らんことを人に責めるものであって、普通人には無理な註文である。いわんや林大学頭が引証した「左伝」の語は、左氏が不義を戒める趣意で書いたものであって、決して論拠となすことは出来ない。
白石はなおこの他にも広く古典および支那の歴史などを引用して詳論するところがあったので、遂にその意見が採用せられることとなって、秋元但馬守は、甚五兵衛および四郎兵衛を下手人として死刑に処し、訴人「むす」は尼になるように宣告した。その判決文は左の通りである。甚五兵衛
四郎兵衛
右両人之者、聟 伊兵衛を父子申合しめ殺候由致二白状一候に付、解死人 として死罪申付者也。
罷成 候、夫殺され親兄死罪に罷成候上は、其身も尼に致させ、鎌倉松ヶ岡東慶寺へ差遣候。
むす
右は夫伊兵衛川中に死し有之を見出し、訴出候処、父甚五兵衛兄四郎兵衛両人にて殺候儀致二露顕一、親兄共に解死人として死罪に卯十月二十七日
秋元但馬守
今日より見れば、本件の「むす」なる婦人の罪なきことは、固より明々白々の事であって、鳳岡・白石の二大儒がかくの如くその
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「ツミ」なる語の意義については、本居宣長
これは随分と変った解釈だ。継母が子供をいじめるのは
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ベーコンは、難船の場合に、二人の遭難者が、たった一人だけを支えることの出来る板子に
インドの古聖法は、餓死に瀕した場合には、たとい他人を殺してその肉を食うとも、それは自保のためである故、決して罪とはならぬとしてある。マヌー法典第十巻の中に、
第百四条 生命の危険に迫りたる者は、何人より食を受くるも、罪に因りて汚されざること、あたかも大空が泥土のために汚されざるが如し。
第百五条 アジガルタ(Ajigarta)はその子を殺してこれを食わんことを企てしも、彼は餓死を免れんとしたるに過ぎざりしをもって、これがために罪に因りて汚さるることなかりき。
と記してある。これに依って観ると、当時は宗教、法律共に自保のためには他人を殺してこれを食うことを公許しておったものと思われる。[#改ページ]
原人中には、往々刑罰として罪人の財産を強奪することを許すことがある。例えばフィージー島の土人、ニュー・ジーランド人中には、タブー(禁諱)を犯す者あるときは、その刑罰として、隣人がその犯人の財産をば何なりとも奪い去ることを許している。この刑罰を“Muru”という。故にタブーに触れる者があるときは、近隣の者共は寄集って刑の宣告を待ち、いよいよ裁判の言渡があって、有罪を決すると、我れ勝ちにその罪人の家に駆けつけて、手当り次第に家財や家畜などを奪い去るのである。
かくの如き刑罰は、言わば罪人の財産権剥奪に等しいものであって、財産に関しては、その罪人を法外人(Out law)となすものである。後世の没収刑も、この種の罰の発達したるもので、ただ財産を官に収めるのと、隣人の奪取に任せるのとの相違があるばかりである。またこの刑に処せられた者は、全くその生活の資料を失ってしまうのであるから、その酷刑であることは論を
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刑罰は復讐に起り、正義になり、仁愛に終わるものである。故に原始社会においては、刑罰は被害者もしくは被害者の同族または君主等の怨恨を解き、復讐の念を満足せしめるのを刑の直接の目的としておった。そして、人が他人を憎み怨む念の極端を言い表すために、支那では「欲レ食二其肉一」という語があり、かの有名な
刑罰の目的が復讐であって、人を憎むの極端が食肉であるならば、極刑が食人刑であることは敢て怪しむに足らぬことである。アフリカの蛮族バッタ人は、叛逆、間諜、姦通、夜間強盗の如き罪を犯した者をこの食人刑に処し、族人をして活きながらその罪人の肉を食わしめるのを死刑の執行方法とするとのことである。また蛮族中、死刑囚の肉を生前に売却し、または行刑後公衆が勝手次第にその肉を分け取りすることを許すが如き習俗の行われているということも、しばしば聞くところである。
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本居宣長翁は除害主義の死刑論を説き、徴証主義の断訟論を唱えられたようである。紀州侯に奉られた「玉くしげ別本」に、左の文が見えている。
刑は随分寛く軽きがよきなり。但し生けおきてはたえず世の害をなすべき者などは、殺すもよきなり。扨 一人にても人を殺すは、甚重き事にて、大抵の事なれば死刑には行はれぬ定りなるは、誠に有がたき御事なり。然るに、近来は決して殺すまじき者をも、其事の吟味のむづかしき筋などあれば、毒薬などを用ひて、病死として其吟味を済す事なども、世には有とか承る、いとも/\有まじき事なり。また盗賊火付などを吟味する時、覚えなき者も拷問せられて、苦痛の甚しきに得堪へずして、偽りて我なりと白状する事あるを、白状だにすれば真偽をばさのみたゞさず、其者を犯人として刑に行ふ様の類もあるとか、是又甚有るまじき事なり。刑法の定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よく/\慎むべし。たとひ少々法にはづるゝ事ありとも、兎も角情実をよく勘 へて軽むる方は難なかるべし。扨又、異国にては、怒にまかせてはみだりに死刑に行ひ、貴人といへども、会釈もなく厳刑に行ふ習俗 なるに、本朝にては、重き人はそれだけに刑をもゆるく当らるゝは、是れ又有がたき御事なり。
[#改ページ]古代の刑法が酷刑に富むことはいうまでもないが、ローマの古法も、けだしその例に漏れぬものであろう。かのユスチニアーヌス帝の「法学提要」(Institutiones)に拠れば、「レックス・ポムペイア・デ・パリシディース」(Lex Pompeia de Parricidiis)なる法律があって、殺親罪に当つるに他の類なき奇異なる刑罰をもってしている。この殺親罪(Parricidium)なる罪名の下には、親以外の近親に対する殺人罪をも包含しておったようであるが、これらの犯人は、実に天人
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我戦国時代に、
信長卿ハ清水寺ニ在々 ケルガ、於二洛中洛外一上下ミダリガハシキ輩アラバ一銭切リト御定有ツテ、則柴田修理亮、坂井右近将監、森三左衛門尉、蜂屋兵庫頭、彼等四人被仰付ケレバ、則制札ヲゾ出シケル云々。
と見えているが、同書に拠れば、これは永禄十一年十月のことである。また「清正記」に載せてある天文二十年正月に豊臣秀吉の下した掟の中にも、一、軍勢於二味方地一乱妨狼籍 輩可レ為 二一銭切一事。
と見えており、また「安斎随筆」に引いてある「房総志科」に拠れば、望陀郡真里公村なる天寧山真如寺の門前の
門前百姓、於二非法有一レ之者、可レ為二一銭切一事。
と記してあったということである。この「一銭切」とは何のことであろうか。これに関しては種々の説があるようであるが、先ず第一には、
貞丈按 、一銭切と云 は、犯人に過料銭を出さしむる事ならん。切の字は限なるべし。其過料を責取るに、役人を差遣 し、其犯人の貯へ持たる銭を有り限り取上る。譬 ば僅に一銭持たるとも、其一銭限り不レ残取上るを一銭切と云なるべし、捜し取る事と見ゆ。
次に新井白石は、一銭を盗めるものをも死刑に処することであるとして、「読史余論」の中に次の如くに述べている。此人(豊臣秀吉)軍法に因て一銭切といふ事を始めらる。たとへば一銭を盗めるにも死刑にあつ。
しかしながら第一の貞丈の説はあるいは曲解ではあるまいか。殊に軍陣の刑罰に財産刑を用いるというのは、少々受取りにくい次第である。やはり「切」は「斬」であって、事一銭に関する如き微罪といえども、斬罪の厳刑をもってこれを処分し、毫も仮借することなきぞとの意を示した威嚇的法文と見るのが穏当と思われる。[#改ページ]
合同反抗は法の威権に対する大敵である。故に多くの国においては、共謀、同盟、その他合同して不法の行為をなそうとするときは、合同それ自身が独立の罪となり、または加重の原因となるものとしている。我旧幕時代の「徒党」や、イギリス法の Conspiracy の如きものはその例である。合同反抗は最も力の強いものであることは勿論であるから、立法者が合同反抗を生ずべき法律を作ろうとするには、先ず充分にその反抗を抑圧し、またはこれを罰し得る実力と決心とがあるかどうかを考えた上で、その法を定めねばならぬ。
この一例ともいうべき事が、最近にイギリスに起った。今回のヨーロッパの大戦乱について、イギリスはその軍需品の供給を充分にするために、新たに軍器省を置き、閣員中第一の敏腕家なるロイド・ジョーヂ氏を軍器大臣に任じ、また「軍器法」(Munitions Act)というを制定した。この法律の中には、軍需品製造に関係ある職工がストライキをした場合には、一人一日五ポンド(五十円)ずつの罰金に処するという規定がある。しかるに、この法律が出てから間もなく、有名な石炭産地カーディフを中心とした南ウェールス地方の石炭坑夫約二十万人の大ストライキが起った。さて困った事は彼の軍器法の励行である。戦争の急需に迫られて折角かくの如き厳重な法律は作って見たものの、かくの如き多数の違犯者が一時に出て来ては、この法律を実行することはとても出来ぬ。第一裁判所、裁判官、警察官その他の司法機関が足らぬ。その上に、一方では戦争の範囲が広まるに従って石炭の需要はますます急迫して来る。実際政府は如何ともすることが出来ないから、違犯者を罰するどころか、かえって軍器大臣ロイド・ジョーヂ氏は自らウェールスまで出懸けて行って、炭坑の持主と坑夫との双方を
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ローマの「十二表法」では、盗罪を分って現行盗(Furtum manifestum)および非現行盗(Furtum nec manifestum)の二種としている。
この現行、非現行の区別の標準については、ローマの法曹間においても、既に議論が
しかしなお一層注目すべきは、現行盗と非現行盗と、刑罰の軽重が非常に異なる事である。即ち現行盗の犯人は、もし自由人ならば
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現代の平和条約には、往々両国の国境に中立地帯を設けるという
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国法の原始状態は現今の国際法に似ている点があるようである。その主要な類似点を挙げてみれば、(一)立法者なくして慣例または約束に依って法律関係が定まること、(二)その法律関係は家もしくは氏族の如き団体相互間の関係なること、(三)その団体間に争議あるときは、自力制裁なる族戦(feud)に依ってこれを決するか、(四)または他の団体などの仲裁に依ってその解決を試みることなどである。しかしこれら根本論は暫く
今日の欧洲諸国の物権法においては、不動産所有権の主たる目的物は土地であって、家屋はむしろ土地の構成分子と見る観念も存するのであるが、古代にあっては、この関係は全く反対であったようである。古代農業の未だ発達せざる時に当っては、土地の所有権は重きを置かれず、庭園などの所有地も、他人の自由通行に委せられていたが、ただ家屋のみは不可侵界であって、
「各人の家は彼の城なり」(Every man's house is his castle.)
というしかしながら、家屋の不可侵を保全するには、その周囲一帯の地域の安寧が必要である。即ち家の周囲の土地については、家の所有主は各特別の利害関係を有する。古代において、家の周囲一定の距離を限界して、これをその家の「家界」(Precinct)とする習俗が存したのはそのためであって、イギリス古法のツーン(T

そして、ここに最も面白いのは、この家界の測定法、則ち家の周囲
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アイルランドの古法センカス・モア(Senchus Mor)に拠れば、債務不履行の場合には、債権者は催告(Notice)に次いで財産の差押(Distress)を行うことが許されておった。しかし債務者が高位の人であるか、または目上の人である場合には、直ちにその家に踏み込んで差押を行うのは、余り穏かならぬ次第でもあり、また実行し難い事情もあろう。かくの如き場合に対して、センカス・モアは断食居催促(Fasting upon him)なる奇法を設けている。即ち、債権者は債務者の門前に座を占めて居催促をなし、債務が弁済されるか、担保が提供されるまでは、一塊の
現今の債務者には、この位の事では驚かない連中が多い。死にたければ勝手に死ねという調子で、平気なものであろう。また催促する方でも、腹が減ればやがて立ち去るのであろうが、古代の人間は中々真面目である。センカス・モアにも、断食居催促に対して担保を供せざる者は、神人共にこれを容れずと記し、僧侶(Druid)も、債権者を餓死せしめたる者は、死後天の冥罰を蒙るべきものなりと説き、人民も一般にかく信じておったのである。故にこの催促法は頗る効力のあったものと思われる。
しかるに殆んど同一の風習が、東洋にも存在していたのは、甚だ面白い現象である。インドの古法(Vyavahara Mayuka)にも、戸口の見張(Watching at the door)という催促法が載せてあるが、マヌ(Manu)その他の法典にはダールナ(Sitting dharna)なる弁済督促法が載せてある。これも同じく断食居催促の法であって、普通人が行っても効力があるが、特に婆羅門僧(Brahmin)がこれを行うと、一層の効果を奏するのであった。というのは、
しかるにまた、ペルシアでは、現今でも断食居催促の法が行われているということである。しかもその方法が頗る面白い。債権者は、先ず債務者の門前数尺の地に麦を蒔き、その中央にドッカと座り込む。これ即ちこの麦が成熟して食えるようになるまでは、断食して居催促するぞという、大決心を示す意味である。
以上の例は、いずれも法律の保護が不充分なる時代には、自己の権利を伸張せんがために、如何なる非常手段にまで出でねばならぬかということを示しているものである。吾人は実に平和穏便に自己の権利を主張し得られる聖代の民であることを感謝せざるを得ないではないか。
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英のサグデン(Sir Edward Sugden)は、
地位と収入とが必ずしも相伴わぬことは、古今その
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アングロ・サクソン王エドワード(Edward the Confesser)の法律に拠れば、人十二歳に達したるときは、十人組(Frankpledge)の面前にて、「余は盗賊にあらず、また盗賊と一味せざるべし」という宣誓をせねばならぬことであった。即ち社会の秩序は、当初はかくの如き人民の相互担保によって維持せられ、後に進んで国家によって担保せらるるに至ったものである。
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現今の法理においては、違約はその性質上民事責任を生ずべきものとしておって、各国の法律、その点において規定を一にしているが、独りかの有名なるマコーレー卿(Macaulay)の立案に係る印度刑法においては、旅客運送契約の違約者に対して、刑事責任を負わしめている。これは大いに理由のあることと思われる。
印度において旅客運搬を業としているのは、土人の
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徳川幕府時代には「末期養子」というものがあった。これは男子の無い者が急病等で危篤に陥ったとき、または重傷を蒙って死に瀕し、人事不省となったときなどに、親類朋友などが相
人生常なく、
大名取潰しの結果は浪人の増加である。これら浪人となった者は、本来
浪人は社会の危険分子である。大阪両度の陣、島原の乱、共に浪士の乱ともいうべきものであったから、幕府は浪人の取締を厳重にする必要を認め、特に島原の乱の起った寛永十四年から五人組制度を整備し、比隣検察の法を励行したことは、我輩の「五人組制度」中に論じて置いたところである。既にして、慶安四年に由井正雪の陰謀が露現した後ち、幕府は従来の大名取潰しの政策が意想外の結果を招き、これがためにかえって危険分子を天下に増殖するものであるということに気づき、警察法をもってその末を治めるよりは、むしろその源を塞いで大名取潰しの政策を棄て、浪人発生の原因を杜絶する方がよいということを悟るに至った。
しかるに、前にも述べた如く、幕府が大名取潰しの原因として利用したものの中で、末期養子の禁はその最も著しいものであって、慶安以前に種々の原因に依って除封または減封せられた諸侯の総数百六十九家の中、六十七家は嗣子の無いために断絶せられ、または特恩をもって減禄に止められたものであるから、これがために
そこで、
「君臣言行録」の記すところに拠れば、この慶安の養子法改正は、敏慧周密をもって正雪、忠弥等の党与の逮捕を指揮した、かの「智慧伊豆」松平伊豆守信綱の献策であるということである。
なおこの事に関する我輩の考証は、先頃帝国学士院に提出し、「帝国学士院第一部論文集」第一号として出版されているが、それらは余り細かい事に渉っているから、今はその大筋だけを話して置くのである。
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民法起草委員の一人であった梅謙次郎博士は、非常に鋭敏な頭脳を持っておって、精力絶倫且つ非常に討論に長じた人であった。同君は法文を起草するにも非常に迅速であったが、起草委員会において、三人がその原案を議するときには、極めて虚心で、他の批評を容れることいわゆる「流るるが如く」で、即座に筆を執って原稿を書き直したものであった。しかるに原案が一たび起草委員会で定まり、委員総会に提出せられると、同君はその雄健なる弁舌をもってこれに対する攻撃を反駁し、修正に対しても、一々これを弁解して、あくまでもその原案を維持することに努めた。時としては、余り剛情であると思い、同じ原案者なる我々から譲歩を勧めたこともあった。同君の弁論の達者なことは、法典調査会の始めの主査委員会二十回および総会百回に、同君の発言総数が、三千八百五十二回に上っている一事でも分る。
或時、委員の一人にて、これも鋭利なる論弁家であった東京控訴院長長谷川
富井博士の起草委員ぶりはまるで梅君と反対であった。
かくの如く二君の態度の互に相反するもののあったのも、各々一理あることである。いやしくも起草委員会において慎重に取調べて案を定め、最も適当なりと信じて提出した以上は、あくまでこれを維持して所信を貫こうと努めるのは当然の事で、これに依って総会の議事も精密になり、自然利害得失の考究も細かになる訳であるから、一歩も譲らず原案を死守するというのも至極尤である。また起草委員会はその原案を作るところであるから、各自が充分にその所信を主張してこれを固執するは当然のことであるけれども、一たびその原案を委員全体の審査に付した以上は、一個の主張は衆議の参考に資するに過ぎぬものにて、法案は畢竟委員全体の意見に依って定まるものであるから、個人責任で定まる起草の際にはあくまで自説を固執するけれども、共同責任なる総会議事においては、なるべく衆議に従わんとするも、また
我輩はある時委員の某博士に、「梅君は委員総会では非常に強いが、起草委員会では誠にやさしい。「内弁慶」ということがあるが、梅君は「外弁慶」である」と言うたら、同博士は「それが本当の弁慶である」と答えられた。
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明治二十三年および明治二十五年の両度において、我邦の法律家の間に法典の実施断行と延期とについて激烈なる論戦があった。この論争は、我邦の立法史上および法学史上頗る意味の深い事柄であるから、ここにその梗概を話して置こうと思う。
この論争というは、商法民法両法典の実施断行の可否に関する争議であった。即ち明治二十三年三月二十七日に公布せられて、その翌二十四年一月一日より施行せらるべきはずの商法と、および明治二十三年三月二十七日および同年十月六日の両度に公布せられて、明治二十六年一月一日より施行せらるべきはずの民法とには、重大な欠点があるから、その実施を延期してこれを改修しなければならぬとの説と、これに対して、両法典は論者の言う如き欠点の存するものでないのみならず、予定期日においてその実施を断行するは当時の急務であるという説との論争であった。
右の争議に関しては、後ちに述べる如く、当時イギリス法律を学んだ者は
明治維新の
民法の編纂は、明治三年太政官に制度取調局を置き、先ず箕作麟祥博士に命じてフランス民法を翻訳せしめたのがその端緒であって、明治八年民法編纂委員を命じて民法を編纂せしめ、十一年四月にはその草案を脱稿したが、これは殆んどフランス民法の
商法の編纂は、明治十四年太政官中に商法編纂委員を置き、同時にドイツ人ヘルマン・ロェースレル博士に商法草案の起草を命じた。該草案は二年を経て脱稿し、その後ち取調委員の組織などに種々の変遷があったが、結局元老院の議決を経て、明治二十三年三月二十七日に御裁可があり、翌二十四年一月一日より施行せられることとなったのである。
また当時我邦における法学教育の有様はどうであったかと言うと、明治五年に始めて司法省の
当時の法学教育はかくの如き有様であって、帝国大学の法科大学には英、仏、独の三科があり、私立学校には英法に東京法学院、東京専門学校あり、仏法に明治法律学校、和仏法律学校あり、ドイツ法律家はまだ極めて少数であったから、あたかも延期問題の生じた時分には、我邦の法律家は英仏の二大派に分れておったのである。
かくの如き有様のところへフランス人の編纂した民法とドイツ人の編纂した商法とが発布せられ、しかも商法の如きは千有余条の大法典でありながら、公布後僅に八箇月にして、法律に慣れざる我商業者に対してこれを実施しようとしたのであるから、これについて一騒動の起るのは
政府が憲法の実施、帝国議会の開会を目の前に控えながら、これを待たずして
しかるに第一帝国議会は、民法商法の発布せられた年の十一月に開会せられ、商法の実施期は、その後ち僅に一箇月の近くに迫っていたから、この法典を実施すべきや、
かくの如く法典発布の前より既に論争が始まっておったのであるが、法典は
衆議院で可決した商法施行延期法案は貴族院に回付されて、十二月二十日に同院の議に附せられ、当時我輩も加藤弘之博士等とともに延期論者中に加わったが、同院においても激論二日間にわたった末、延期説賛成者百四に対する断行説賛成者六十二で、これもまた延期派の大勝に帰してしまった。かくて、同年法律第百八号をもって商法の施行期限を明治二十六年一月一日即ち民法施行と同期日まで延ばすこととなったのである。
既成法典の施行延期戦は、商法については延期軍の勝利に帰したが、同法は民法施行期日と同日まで延期されたのであるから、断行派が二年の後を
一 新法典ハ倫常ヲ壊乱ス。
一 新法典ハ憲法上ノ命令権ヲ減縮ス。
一 新法典ハ予算ノ原理ニ違フ。
一 新法典ハ国家思想ヲ欠ク。
一 新法典ハ社会ノ経済ヲ攪乱ス。
一 新法典ハ税法ノ根原ヲ変動ス。
一 新法典ハ威力ヲ以テ学理ヲ強行ス。
この宣戦書に対して、明治法律学校派の岸本一 新法典ハ憲法上ノ命令権ヲ減縮ス。
一 新法典ハ予算ノ原理ニ違フ。
一 新法典ハ国家思想ヲ欠ク。
一 新法典ハ社会ノ経済ヲ攪乱ス。
一 新法典ハ税法ノ根原ヲ変動ス。
一 新法典ハ威力ヲ以テ学理ヲ強行ス。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ国家ノ秩序ヲ紊乱 スルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ倫理ノ破頽ヲ来スモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ国家ノ主権ヲ害シ独立国ノ実ヲ失ハシムルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ憲法ノ実施ヲ害スルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ立法権ヲ抛棄シ之ヲ裁判官ニ委スルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ各人ノ権利ヲシテ全ク保護ヲ受クル能ハザラシムルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ争訟紛乱ヲシテ叢起セシムルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ各人ヲシテ安心立命ノ途ヲ失ハシムルモノナリ。
一 法典ノ実施ヲ延期スルハ国家ノ経済ヲ攪乱スルモノナリ。
この題目を一さて、右の二つの意見書が両軍対戦における最初の一斉射撃であって、それより双方負けず劣らず多数の意見書、弁駁書等を発して、これを議員、法律家、その他各方面に配附した。梅謙次郎博士、高木豊三博士等の組織せる明法会の会員や、当時はまだ法科大学フランス部の学生であった
かくて、いよいよ明治二十五年になると、「民法商法施行延期法案」は五月十六日をもって先ず貴族院に提出された。その原案は、
明治二十三年三月法律第二十八号民法財産編、財産取得編、債権担保編、証拠編、同年三月法律第三十二号商法、同年八月法律第五十九号商法施行条例、同年十月法律第九十七号法例及第九十八号民法財産取得編、人事編ハ其修正ヲ行フカ為メ明治二十九年十二月三十一日マテ其施行ヲ延期ス。
というので、これに関する討議は、同月二十六、二十七、二十八日の三日間にわたって行われ、賛否両方の論争頗る激烈であったが、就中二十七日午後の討議においては、議論沸騰して議場喧噪を極め、遂に議長貴族院から回送された延期案は、六月三日に衆議院に現れ、次いで同案は同月十日の本会議に附せられることになったが、司法大臣田中不二麻呂子の原案否決を希望する演説に次いで、渡辺又三郎君、加藤政之助君、宮城浩蔵君等は原案反対の意見を陳べ、これに対して安部井磐根君、三崎亀之助君の原案賛成の演説があったが、討論の中途で、急に山田東次君、宮城浩蔵君等の十名から「民法中一部延期ニ関スル法律案」と題して「明治二十三年法律第九十八号民法中人事編並ニ財産取得編中第十三章及第十四章ノ実施ハ来ル明治二十七年十二月三十一日マテ之ヲ延期ス」という修正案が提出された。この修正案は断行派の拠った最後の
商法民法の実施断行および延期修正の論戦は、大体右に述べたような成行であるが、明治二十三年における商法延期戦は、言わば天下分け目の関ヶ原役であって、これに次いで当然起るべくして起った二十五年の民法商法延期戦は、あたかも大阪陣の如きものであったのである。天下の大勢は関ヶ原の一戦に依って既に定ったものの、なお大阪の再挙はどうしても免れることが出来ない勢いであったのである。そしてこの大阪陣を経て始めて大勢一に帰したのである。
また右に述べたるところに依れば、延期戦は単に英仏両派の競争より生じたる学派争いの如く観えるかも知れぬが、この争議の原因は、
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第十九世紀の末に我邦に起った法典実施延期戦は、あたかも同世紀の初めにドイツで起ったザヴィニー、ティボーの法典争議とその性質を同じうしているということは、前にも述べたところである。
第十九世紀の初めにおいて、ドイツ諸国はナポレオンの馬蹄に
一八一四年、ナポレオンがライプチヒの戦に敗れてその本国に潰走した時、当時ハイデルベルヒの大学教授であったティボー(Thibaut)は、ドイツ兵の同市を経て続々仏国に向って進軍する有様を看て、これ正に我ドイツ諸国の独立を回復すべき機運の到来したものであると歓喜し、すなわち筆を呵して堂々ドイツ復興策を論じ、僅々二週日にして一書を公にするに至った。このティボーの著書こそ実にドイツにおける普通民法の必要(Ueber die Nothwendigkeit eines allgemeinen buergerlichen Rechts fuer Deutschland.)と題する小冊子であって、これが即ち有名なる法典争議の発端となったものである。ティボーのこの著書における論旨の要点は、ゼルマン民族の一致合同を図り、内に国民の進歩を計り、外に侵略を防ごうとするには、
しかるに当時ベルリン大学の教授であったザヴィニーは、これに対して「立法および法学における現時の要務」(Beruf unserer Zeit fuer Gesetzgebung und Rechtswissenschaft. 1814.)と題する一書を著わして、ティボーの法典編纂論を反駁した。その要領に曰く、法は発達するものであって、決して製作すべきものではない。一国に法律あるはあたかも国民に国語あるが如く、一国民は大字典の編纂に依ってその国民普通の言語を作ること能わざるが如く、如何なる国民といえども、単に普通法典を作成することに依ってその国民普通の権利を創製することの出来るものではない。法律は国民の精神(Volksgeist)の現われたもので、特に国民の権利の確信(Rechtsueberzeugung)より生ずるものである。法は国民の支体であって、衣服ではない。故にティボーの言うが如く、数年にしてこれを仕立て、これを着用せしめる訳には行かぬものである。故に我民族の法律的統一をなさんと欲せば、
これを要するに、ティボーは自然法学説を信じて、法は万世不変、万国普通なものであるから、法典は何時にても作り得べきものとしたのであるが、ザヴィニーはこれに反して、法は国民的、発達的なものであるとしたのであった。そしてこの法典争議は、
ティボーの法典編纂論はザヴィニーの反対論のために当時は実行せられなんだけれども、その所論に促されて、爾後ドイツの民族統一運動も追々と行われ、この争議の
ザヴィニー、ティボーの法典争議は、その学理上の論拠、論争の成敗の跡、及びその結局が法典の編纂に帰着したところなど、悉く我法典延期戦に酷似している。我延期戦の後ち両派が握手して法典編纂に努めた如く、ザヴィニー、ティボーの両大家も定めて半世紀の後ち地下において握手したことであろう。
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明治二十三年公布の法例、民法および商法は、前に話した通り、激烈なる論争の末、学理に照し実際に考えてその欠点の多きと、我国俗民情に適せざるものあるとの理由に基づいて、竟にその実施を延期し、これを改修することとなり、明治二十五年十一月法律第八号をもって明治二十九年十二月三十一日までその施行を延期することとなった。これにおいて、翌年三月、内閣に法典調査会を置かれることとなったが、伊藤総理大臣は総裁となられる予定であったから、先ずその始めに副総裁たるべき
我らが分担起草案を提出したのは、民法の延期は僅々三箇年の短期間であって、その間に民法の全部を根本的に改修する必要があるのであるから、勢い
かくて、民法草案は明治二十六年五月十二日より二十八年の末に至るまで、会議を重ぬること百五十八回にして、総則、物権および債権の三編を議了し、二十九年一月に第九回帝国議会に提出せられ、議会では一箇条の追加と些少の修正とを加えてこれを可決し、同年四月法律第八十九号として右の三編を公布された。
しかし法典延期の期限は明治二十九年の末日で尽きるのであるから、同年の帝国議会でなお一箇年半の再延期法案を議定し、十二月二十九日に法律第九十四号としてこれを公布された。
民法の残部即ち親族編、相続編は、明治二十八年九月十四日より六十九回の会議を重ねて議了し、三十年十二月第十一回の帝国議会に提出された。故に民法全部は前後を通じて二百二十七回の会議で議了せられたことになる。これより先き、法典調査会においては、商法の編纂に着手し、同法起草委員たらしめるため、当時欧洲に滞在中なりし岡野敬次郎博士を召還し、梅博士、
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諺は長い経験から生じた短い言葉で、言わば「民智の粋」(A proverb is condensed popular wisdom)である。故に片言隻句の中にも深遠なる真理を含んでいるものが少なくない。「諺は神の声なり」(Proverbs are the language of the gods)という諺があるが、むしろ「民の声」(vox populi)と言うた方が適切であって、民性に依って諺の種類性質などもそれぞれ異なっているものである。その一例を言えば、法律に関する諺は、西洋にはその数非常に多くあるけれども、日本などには殊に少ないようである。西洋諸国では、法は人民中に自治的に発達したもので、いわゆる「民族法」をなしたものであるから、法律に関する諺も自然に民間に多く行われるようになって来たものである。これに反して、東洋においては、法は神または君の作ったもので、人民はかれこれ
西洋においては、法律に関する諺の中に、主として専門家中に行われる「法諺」(Rechtssprichw


Ignorantia juris non excusat.
法の不識は免 さず。
Abus n'est pas coutume.
悪弊は慣習に非ず。
Gesetz muss Gesetz brechen.
法律を破るは法律を要す。
The king never dies.
国王は死せず。
しかしこれら第一種の法諺は通常法律書にも載っており、その法の不識は
Abus n'est pas coutume.
悪弊は慣習に非ず。
Gesetz muss Gesetz brechen.
法律を破るは法律を要す。
The king never dies.
国王は死せず。
第二種の法諺即ち俚諺もその数は極めて多いものである。これは法学または法術上の原則を言い表わした短句ではなく、何人が作ったともなく、自然に民間に行われるようになったものもあり、あるいは聖賢の語が俚諺となったものもあって、その中には真面目なものもあり、諷刺的、
一 一般に法律については、
For the upright there are no laws.(ドイツ)
正直者に法なし。
Strict law is often great injustice.
(Summum jus, summa injuria.)(キケロの語)
最厳正の法は最不正の法なり。
本邦「理の高じたるは非の一倍」に近し。
Like king, like law; like law, like people.(ポルトガル)
君が君なら法も法、法が法なら民も民。
Laws are not made for the good.(ソクラテースの語)
法は善人のために作られたるものに非ず。
Laws were made for the rogue.(イタリア)
法は悪人のために作られたるものなり。
Nothing is law that is not reason.(判事パウェル〔Powell〕の語)
理に非ざるものは法に非ず。
正直者に法なし。
Strict law is often great injustice.
(Summum jus, summa injuria.)(キケロの語)
最厳正の法は最不正の法なり。
本邦「理の高じたるは非の一倍」に近し。
Like king, like law; like law, like people.(ポルトガル)
君が君なら法も法、法が法なら民も民。
Laws are not made for the good.(ソクラテースの語)
法は善人のために作られたるものに非ず。
Laws were made for the rogue.(イタリア)
法は悪人のために作られたるものなり。
Nothing is law that is not reason.(判事パウェル〔Powell〕の語)
理に非ざるものは法に非ず。
二 法律の効力に付ては、
Better no law than law not enforced.(デンマルク)
行われざる法あるは法なきに如かず。
He who makes a law should keep it.(イスパニア)
法を作る者は法を守らざるべからず。
New laws, new roguery.(ドイツ)
新法定って新罪生ず。
The more laws, the more offenders.(ドイツ)
法多ければ賊多し。
When law ends, tyranny begins.(イギリス)
法の終るところ、虐政の始まるところ。
The law has a nose of wax; one can twist it as the will.(ドイツ)
法は臘細工の鼻を持つ、故に勝手に曲げることが出来る。
The law helps those who help themselves.(ドイツ)
法は自ら助くる者を助く。
Law cannot persuade where it cannot punish.(イギリス)
罰することの出来ぬ法は勧めることも出来ぬ。
行われざる法あるは法なきに如かず。
He who makes a law should keep it.(イスパニア)
法を作る者は法を守らざるべからず。
New laws, new roguery.(ドイツ)
新法定って新罪生ず。
The more laws, the more offenders.(ドイツ)
法多ければ賊多し。
When law ends, tyranny begins.(イギリス)
法の終るところ、虐政の始まるところ。
The law has a nose of wax; one can twist it as the will.(ドイツ)
法は臘細工の鼻を持つ、故に勝手に曲げることが出来る。
The law helps those who help themselves.(ドイツ)
法は自ら助くる者を助く。
Law cannot persuade where it cannot punish.(イギリス)
罰することの出来ぬ法は勧めることも出来ぬ。
三 裁判については、
Justice is never angry.(ベン・ジョンソン)
正義は怒ることなし。
A person ought not to be a judge in his own cause.(イギリス)
自己の訴訟に裁判官たること勿 れ。
No one is a good judge in his own cause.
自己の訴訟に善い裁判官となれる者はない。
Don't hear one and judge two.
一方を聴いて双方を裁判するな。
(「片口聴いて公事 をわくるな」に同じ)
Judges should have two ears both alike.(ドイツ)
裁判官は左右同じ耳を持たねばならぬ。
(「両方聞いて下知をなせ」に近し。「史記」に「凡聴レ訟者必須二両辞一可三以定二是非一、偏信二一言一折レ獄者、乃吏職之短才也」とあり)
Well to judge depends on well to hear.(イタリア)
善い裁判は善い審問による。
You cannot judge of the wine by the barrel.(イギリス)
樽で酒を判断してはならぬ。
Justice oft leans to the side where the purse hangs.(デンマルク)
正義の秤は財布の乗った方へ傾きやすい。
Law's delay.(シェークスペーア)
法の遅滞。
(「公事三年」に同じ)
正義は怒ることなし。
A person ought not to be a judge in his own cause.(イギリス)
自己の訴訟に裁判官たること
No one is a good judge in his own cause.
自己の訴訟に善い裁判官となれる者はない。
Don't hear one and judge two.
一方を聴いて双方を裁判するな。
(「片口聴いて
Judges should have two ears both alike.(ドイツ)
裁判官は左右同じ耳を持たねばならぬ。
(「両方聞いて下知をなせ」に近し。「史記」に「凡聴レ訟者必須二両辞一可三以定二是非一、偏信二一言一折レ獄者、乃吏職之短才也」とあり)
Well to judge depends on well to hear.(イタリア)
善い裁判は善い審問による。
You cannot judge of the wine by the barrel.(イギリス)
樽で酒を判断してはならぬ。
Justice oft leans to the side where the purse hangs.(デンマルク)
正義の秤は財布の乗った方へ傾きやすい。
Law's delay.(シェークスペーア)
法の遅滞。
(「公事三年」に同じ)
四 訴訟については、
No man may be both accuser and judge.(プルータルク)
何人 も訴人と判官とを兼ぬる能わず。
Possession is nine points of the law.(イギリス)
占有には九分の勝味あり。
Possession is as good as a title.(イギリス)
占有は権証に等し。
By lawsuit no one has become rich.(ドイツ)
訴訟に依って富める者なし。
Fond of lawsuits, little wealth; fond of doctors little health.(イギリス)
訴を好む者は財産少なく、医を好む者は健康少なし。
Lawsuits make the parties lean, the lawyers fat.(ドイツ)
訴訟は原被告を瘠 せさせ、弁護士を肥らせる。
(「公事訴訟は代言肥やし」に同じ)
Possession is nine points of the law.(イギリス)
占有には九分の勝味あり。
Possession is as good as a title.(イギリス)
占有は権証に等し。
By lawsuit no one has become rich.(ドイツ)
訴訟に依って富める者なし。
Fond of lawsuits, little wealth; fond of doctors little health.(イギリス)
訴を好む者は財産少なく、医を好む者は健康少なし。
Lawsuits make the parties lean, the lawyers fat.(ドイツ)
訴訟は原被告を
(「公事訴訟は代言肥やし」に同じ)
五 刑法および犯罪については、
Better ten guilty escape than one innocent suffer.(イギリス)
一人の冤罪者あらんよりは十人の逃罪者あらしめよ。
(「与三其殺二不辜一、寧失二不経一」に同じ)
Little thieves have iron chains, great thieves gold ones.(オランダ)
小盗は鉄鎖、大盗は金鎖。
(「窃レ財者盗、窃レ国者王」に同じ)
Petty crimes are punished, great, rewarded.(ベン・ジョンソン)
小罪は罰せられ、大罪は賞せらる。
(「窃レ鉤者誅、窃レ国者為二諸侯一」に同じ)
Successful crime is called virtue.(セネカ)
成功せる犯罪は徳義と称せらる。
Opportunity makes the thief.(イギリス)
機会は盗を作る。
The hole invites the thief.(イギリス)
穴は賊を招く。
Set a thief to catch a thief.(イギリス)
賊を捕うるに賊をもってす。
Show me a liar and I will show you a thief.(イギリス)
嘘つきを出せ、泥棒を見せてやろう。
All are not thieves whom the dogs bark at.(ドイツ)
犬に吠えられる者は必らず泥棒と極ってはおらぬ。
A thief thinks every man steals.(デンマルク)
泥棒は誰れでも盗みをするものじゃと思うている。
He that steals can hide.(イギリス)
盗む者は隠すことが出来る。
You are a fool to steal, if you can't conceal.(イギリス)
隠すことを知らずして盗む者は愚人なり。
No receiver, no thief.(イギリス)
受贓者なければ盗賊なし。
一人の冤罪者あらんよりは十人の逃罪者あらしめよ。
(「与三其殺二不辜一、寧失二不経一」に同じ)
Little thieves have iron chains, great thieves gold ones.(オランダ)
小盗は鉄鎖、大盗は金鎖。
(「窃レ財者盗、窃レ国者王」に同じ)
Petty crimes are punished, great, rewarded.(ベン・ジョンソン)
小罪は罰せられ、大罪は賞せらる。
(「窃レ鉤者誅、窃レ国者為二諸侯一」に同じ)
Successful crime is called virtue.(セネカ)
成功せる犯罪は徳義と称せらる。
Opportunity makes the thief.(イギリス)
機会は盗を作る。
The hole invites the thief.(イギリス)
穴は賊を招く。
Set a thief to catch a thief.(イギリス)
賊を捕うるに賊をもってす。
Show me a liar and I will show you a thief.(イギリス)
嘘つきを出せ、泥棒を見せてやろう。
All are not thieves whom the dogs bark at.(ドイツ)
犬に吠えられる者は必らず泥棒と極ってはおらぬ。
A thief thinks every man steals.(デンマルク)
泥棒は誰れでも盗みをするものじゃと思うている。
He that steals can hide.(イギリス)
盗む者は隠すことが出来る。
You are a fool to steal, if you can't conceal.(イギリス)
隠すことを知らずして盗む者は愚人なり。
No receiver, no thief.(イギリス)
受贓者なければ盗賊なし。
六 弁護士については、
Lawyers are men who hire out their words and anger.(マーシャル)
弁護士とは言語と憤怒とを賃貸する人をいう。
A good lawyer is a bad neighbour.(イギリス)
善き法律家は悪しき隣人なり。
The more lawyers, the more processes.(イギリス)
弁護士多ければ訴訟多し。
Fools and obstinate men make lawyers rich.(イギリス)
馬鹿と剛情者が弁護士を富ます。
Lawyers' houses are built of fools' heads.(イギリス)
弁護士の家は馬鹿の頭で建てられる。
He who is his own lawyer has a fool for his client.(イギリス)
自分で弁護する訴訟の本人は馬鹿者である。
弁護士とは言語と憤怒とを賃貸する人をいう。
A good lawyer is a bad neighbour.(イギリス)
善き法律家は悪しき隣人なり。
The more lawyers, the more processes.(イギリス)
弁護士多ければ訴訟多し。
Fools and obstinate men make lawyers rich.(イギリス)
馬鹿と剛情者が弁護士を富ます。
Lawyers' houses are built of fools' heads.(イギリス)
弁護士の家は馬鹿の頭で建てられる。
He who is his own lawyer has a fool for his client.(イギリス)
自分で弁護する訴訟の本人は馬鹿者である。
その他弁護士に関する諺は随分沢山あるが、
クリーヴ(Cleave)という有名な弁護士が或時被告となって自分で弁護をしたが、最後の弁論を次の如く始めた。
閣下、余は今 ま自己の訴訟を自ら弁護せんとするに当り、あるいは彼の“He who acts as his own counsel has a fool for his client.”なる諺の適例を示さんことを恐れるのであります······
裁判長ロールド・リンダルスト(Lord Lyndhurst)は彼をクリーヴ君、御心配には及びません。あの諺は、あなた方弁護士諸君が作られたのであります。
[#改ページ]本書の第三版を印行するに当って、我輩は本書第一版以下を閲読して懇切なる批評と指教とを与えられたる友人各位、
これはちょうど、本書の第三十五節 He shakes his head, but there is nothing in it. の部に記したのと好一対の誤信である。しかるに、この頃また一つ新たなる先存事件を発見した。それは第五十七節「スタチスチックス」の訳名の事である。我輩は太政官に政表課があり、また津田真道先生が政表学なる語を用いられた事を記し、岡松径君は「統計集誌」上に政表なる訳字は杉享二先生の選定せられたもので、文書に見えたのは、明治三年同先生が民部省へ提出された答申書を始めとすと記された。しかるに、この頃我輩が古本屋の店をあさっていると、偶然「万国政表」という書を発見した。同書は万延元年の出版で、岡本約博卿という人がオランダ人プ・ア・デ・ヨングの著せる「スタチスチセ・ターフル・ファン・アルレ・ランデン・デル・アアルデ」を訳したもので、「福沢子囲閲」とある。子囲とは福沢諭吉先生の若年の頃の号で、先生は晩年には、支那人の真似をして
このような例は学問史上には少なからぬ事で、新発見、新学説などが同時または相先後して異所に現われ、しかも両者の間に何ら因果の関係がないことは最も多い。太陽系の起原に関する星雲説は独のカント、仏のラプラース(Laplace)、英のヘルシェル(Herschel)相前後してこれを唱え、始めは三国各々自国の発明の如く誇っておったが、後にはいずれも独立の創見であるという事が分った。また第四十二節に記した如く、海王星の発見においても、仏のルヴェリエーが天王星の軌道の歪みを観て、数万里外の天の一方において引力を天王星の軌道に及ぼす一大惑星の存在することを予断してその位置を測定したが、英国においては、殆どこれと同時にアダムス(Adams)が同一の意見を発表した。またこの推測に基づいてドイツではガルレ博士(Dr. Galle)、イギリスではチャリス教授(Prof. Challis)が、相前後してその惑星(海王星)を発見したために、この理論的測定については英仏の間に、またその事実的発見については英独の間に、各々その先発見の功を争うことになったが、しかし後に至っていずれも独立の事業であったということが明らかになったのである。なおこの他、数学上にても微分法に関するニュートン、ライブニッツの発明、進化論の基礎となった自然淘汰の原理に関するダルウィン、ウォレースの発見などを始めとし、発見、発明、新説などにして、相前後して現われ、しかも前者後者没交渉なる事例は枚挙するに
大正五年五月五日
陳重 追記