1
狭い、
梯子段に近い明かり取り窓の下に、
カーテンを隔てた廊下向こうのパーラーから、グラスの触れ合う音や女給たちの陽気な声が聞こえていた。
「ああ、いらしったわ!」
少女の口もとに微笑が浮かんだ。彼女の耳には聞こえない音まで、聞こえていた。
しばらくして遠くの廊下に、軽い足音がした。
緑色のカーテンが揺れて、白い顔が出た。
「あら、みのりさん、あなたはまた来ているのね。お父さまに見つかると
「
「まあ、かわいい人ね」
波瑠子は少女の額に
「波瑠子さん、またあのいやなハルピンの方が来ていらっしゃるのでしょう? わたし、心配よ。どうかして、あの方をお店へ来させないようにする法はないでしょうか」
「あの人が来ているなんて、どうしてみのりさん分かって?」
「わたしには分かるわよ。あなたの着物に、この間と同じトルコ
「ええ、わたしにとっては悪い人ですけれども······わたしのほうがもっと悪い人かもしれないわ。······ああ、みのりさん、あなたにお頼みがあるのよ。わたしの大切な大切なものを、だれにも知らせずにそっと預かっていてくださらない?」
みのりは大きく
その時、広間のほうでだれかが波瑠子を捜している声がした。
「みのりさん、ではあとでね。あなたはもうこんなところにいないで、早く下へいらっしゃい」
波瑠子はカーテンの外へ出ていった。みのりは耳を傾けて遠ざかっていく足音を聞いたのち、自分は音も立てずに暗い梯子の下に消えてしまった。
広間へ戻った波瑠子は、
「まあ立っていないで、ここへおかけ。ぼくはきみに悪意なんぞを持っているんじゃあないよ。悪意どころか、ぼくは五年振りにきみを捜し当てて、まだ神さまに見捨てられなかったことをしみじみ感謝しているくらいなんだ」
と、男は言った。
「この広い東京であなたに見つかるなんて、本当に運ですわね。けれどもわたしはあなたと結婚したわけではなし······そりゃ子供のときにどんな約束をしたかしれませんが、五年もこうして隠れていたんですもの、あなたもそれだけで分かってくだすってもよくはない?」
波瑠子は冷ややかに言った。
「子供のとき? それはいけない。
「あなたはあのダイヤモンドを
「しっ! あなたは何を言っているんだ。張は取引を済ましたあとで勝手に酒を飲み歩いて、
男は恐ろしい目で辺りを見回した。
パーラーにはまだ客はいなかった。正面の壁から階段の上まで、ずらりと並んだエジプト模様の壁画の目が一斉にこっちを向いていた。
「······それはわたしが言い過ぎたかもしれませんわ。けれども、あれはあなたのお父さんがわたしから奪い取った貞操の代償として、わたしが所有する権利があるのよ。本当のことを言えば、あんなダイヤモンド一つぐらいじゃあ償われないものだわ」
「親父に関することなどは、ぼくはちっとも知りたくない。ぼくはただ、あなたの昔の愛を呼び覚ましたいのだ。ぼくはいまだって、まだ真剣にあなたを思いつづけているのだ。あなたの返事一つで、ぼくは即座に執念深い悪魔にもなれる。波瑠さん、ぼくはここへ酒を飲みに来たのでもなく、みずからの覚悟を述べに来たのでもなく、あなたの最後の返事を聞きに来たのですよ」
しばし沈黙が続いた。その間に、帳場の時計が
いちばん
波瑠子はついに決心して言った。
「では今晩、お店を仕舞ってから十一時半に
二人はそれからいっそう声を低めて、何事か話し合った。そして“ハルピンから来た男”は間もなく、その『ナイル・カフェ』を立ち去った。
2
電灯が
早番だった波瑠子は五時の交替にそっと四階へ上がって、だれもいない部屋の片隅で手紙を書いていた。彼女はあらかじめ文案をしていたとみえ、ペンを執るとすらすらと手紙を書き終わってそれを懐にしまい、鏡台の前で顔を直しているところへ、カフェの経営者の
波瑠子は鏡の中に映った異様な男の目を見ると、いやな顔をして立ち上がった。
「
「人の思惑なんぞはどうだって構わないじゃあないか」
「そうはいきませんわ。わたしだってこんないんちきな稼業をしていますけれども、
「波瑠ちゃん、なにもきみのように、そう世の中を狭く見ることはないよ。これでも相当な懸賞はついているつもりなんだからね」
「まあ! 懸賞? 失礼しちゃうわね。懸賞というのは、二、三枚の着物を買ってくだすって、六カ月定期のお
「冗談じゃあない、いつまでそんな
「それとこれは別問題よ。······ああ、わたし、お店へ出なくてはいけないわ」
波瑠子が先になって廊下へ出ると、男は、
「波瑠ちゃん、そんな強いことを言って男に恥をかかせるものじゃあない。もう一度考え直してみておくれ。きみだっていつまで女給をしているわけでもなかろうから、そのほうがきみのためじゃあないかね」
と冗談らしく後ろから波瑠子の肩を抱えた。
それまでぶりぶりしていた波瑠子は急に何か思いついたらしく、がらりと態度を変えた。
「でもわたし、いつもみんなに立派な口を利いているんですから、つまらない
「そこは如才なくやるさ」
「では、どこかへ行くの? 蒲田の水明館?」
波瑠子は肩を揺すって笑いながら言った。
「さすがに知っているね」
「だって、お店に来るお客さんたちがよく誘いますもの。耳にたこができるほど聞いていますわ」
二人はその晩の十一時半に、水明館の横手で落ち合う約束をした。
波瑠子は店へは顔を出さずに、非常口から
「わたし十分ばかりお店を空けるから、旦那が聞いたらなんとか要領よくやっておいてちょうだいね。それからここに書いてあることは
と最前の手紙を渡して、暗くなった往来へ消えてしまった。
それから一時間ほどして、波瑠子は丸ビルの明治側の街路樹の陰に立っていた。そこへ
「待って?」
「ええ、十分ばかり。でも、わりあいに早く来られたわね」
「電話を聞いてすぐ飛んできたのよ。で、波瑠ちゃん、いったいどうしたっていうの?」
「わたしね、お店を辞めたのよ。もっともこの間じゅうから腹の内で決めていたんだけれども、あの
「じゃあ、海保は今度はあなたに白羽の矢を立てたのね。もっとも、あなたは奇麗だからね」
洋装の女はいくらか嫌みっぽく言った。
「何を言っているのばかばかしい! この人はそんなことじゃあ、まだ未練があるのね」
「でも、あの人の本当の性質はあんなじゃあなくってよ。みんな
「その花江だってあんな目に遭ってさ、いまは東京にはいないっていうじゃあないの」
「本当にそんな人かしら。でもわたし、半年もこうして遊んでいるうちに、世の中なんて何をしたってろくなことはないとつくづくいやになってしまったわ。わたし、店にいたときがいちばん幸せだったのよ」
「
波瑠子はその時、数間先の自動車の
二人は急に声を潜めてなにやら話し合っていたが、街路樹の葉が
二人は二時間ほどして東京駅の
高い建物の上に遅い月が懸かっていた。夜はまだ更けてはいないが辺りは不思議に静かで、どこかのダンスホールから床を踏む靴と寂しいサキソホンの音が聞こえてくる。
清涼飲料水の看板を掲げた酒場の薄紫色のガラス扉がおりおり開いて、洋服を着た男たちが出たり入ったりしていた。
十一時を少し回ったころ、その路地から最前の二人が出てきて左右に別れた。
3
午前二時、家じゅうが寝静まったとき、みのりはそっと寝床から
彼女は窓の前の障子の面を細い指で
みのりは指先でその通信を消してしまったのち部屋を出て、階段を上りはじめた。彼女は一歩ごとに注意深く辺りの音に耳を澄ました。家の中は依然としてひっそりしている。遠くに自動車の警笛が聞こえる。
みのりは壁から壁を伝って、表階段の正面にある青銅のビーナスの前に近づいた。その時、街灯の
四階の部屋に寝ていた信子は、どこかで人の呼ぶような声を聞いて目を覚ました。それは確かに店のほうであった。
「ちょっと、ちょっと、起きてちょうだい! 下で何か変な音がしたわ」
彼女は隣のかおるを揺り起こした。
「あなた、酔っ払っていたから夢でも見たんじゃあない?」
「いいえ、確かに女の声がしたわよ」
「波瑠子さんじゃあないかしら」
その時、
信子は素早く電灯を
三人はひと塊になって最初の階段を下りたところで、信子が、
「
と呼び立てた。
その時、階下でも怪しい物音を聞いたとみえて、方々で戸の開く音がした。寝巻のまま階段を跳び上がってきたのは小使の鈴木であった。
パーラーにぱっと電灯が点いた。見ると
「どうしたんです、お嬢さん!」
鈴木が
「まあ、みのりさん、どうなすったの?」
「
階段を駆け下りた女たちは、
そこへ、ワイシャツの上にガウンを羽織った主人の海保が慌ただしく駆けつけた。
「みのりか、いったいどうしたんだ? おまえはなんでこんなところへ来たの?」
少女は父親の言葉にもだれの言葉にも答えず、電灯のほうに顔を向けていたが、長い
「どこか怪我でもなすったのじゃあないかしら、ええ? 大丈夫?」
信子が顔を寄せて気遣わしそうに
「わたし、
信子はだれに言うともなく言った。
「わたしも、ただならない物音を聞いて飛んできたんです」
鈴木は裏の廊下から、階段下の便所のほうを見回りに行った。
帳場のキャッシュ・レジスターを
「別にどこにも異常のないところを見ると、泥棒でもないらしいな」
と、独り言のように
家じゅうをひと回りして戻ってきた鈴木は、
「
と言った。
「そう言えばさっき、わたしが物音を聞いて起き上がったとき、裏木戸のほうに靴音がしたようだった」
と、海保が言った。
「マル公はいつもいらないときにあんなに
と、蔦江が言った。
「あいつはこの節すっかり
と、主人が言った。
「おお気味が悪い」
蔦江は肩を
「だけれど、みのりさんはどうしてお店へなんかいらしったのでしょう?」
信子は
人々は顔を見合わせた。しばらくしてみのりは、
「わたしは夢を見て、
と、初めて唇を開いた。
「ああ、そうかもしれない。とにかく風邪を引くといけないから、おまえは部屋へ帰ってお
と、主人は言った。
三人の女たちは押し合うようにして、狭い階段を上がっていった。
「かわいそうにね、みのりさんは波瑠子さんのことを思って見に来たのよ」
「波瑠子さんは、本気にもう店へ帰らないつもりなのかしら」
「きっと帰らないでしょう。わたしに荷物を
と、信子が言った。
4
『ナイル・カフェ』の奇怪な一夜が明けて、翌日の午前十一時に蒲田署の刑事が主人に会いに来た。
刑事の話によると、その朝、蒲田水明館の裏手の
家の者たちは驚いて詳しく様子を
絞殺したうえ顔面を叩き潰してあるとは、よほど深い恨みを持った者の所業に違いない。
信子は前日波瑠子から託された手紙を刑事の前に広げた。
||信ちゃん、わたしは都合の悪いことがあって、しばらくは身を隠さねばならなくなったから、明日にでもわたしの荷物をひとまとめにして、左記へ送ってくださいね。マスターにも、あなたは何も知らないような顔をしていてちょうだい。運賃としてここに五円入れておきます。
いずれ時が来たら会いましょう。
いずれ時が来たら会いましょう。
波瑠子
(届け先、府下手紙の中の“都合の悪いこと”について、何か心当たりはないかという刑事の質問に、信子は、
「このごろお店へたびたび見えるハルピンから来た男をたいへんいやがっていましたから、そんなことじゃあないでしょうか」
と言った。
刑事はその男についていろいろと訊き
主人と信子とかおるの三人は刑事に伴われて、惨殺死体を見に行った。
それは確かに波瑠子の
死体は『ナイル・カフェ』に引き取ることになった。波瑠子の身元保証人が実在の人物でなかったことが分かったからである。
刑事は波瑠子の置き手紙によって荷物の届け先を調べ、その辺から何か犯罪の手掛かりを
府下目黒町八四一番地、中山としというのは白米商であった。主婦は、
「波瑠子さんという方は一年ほど前に家の二階に下宿していた人で、あれでも家に半年もいらしったでしょうかね。おとなしい、いい方でしたよ。ひところは葉書などを寄越しましたが、この節はどこにいらっしゃるかいっこうに存じません」
と言うのであった。
5
波瑠子の
女給たちは代わり合って焼香した。あまりに急な、しかも尋常でない
主人の海保は青い顔をして黙り込んでいるし、小使の鈴木は鼻を詰まらせている。だが、人々の中でだれよりもいちばん悲しく見えたのはみのりであった。彼女は目が見えないうえに、口まで利けなくなったように口を開かず、影法師のように部屋の片隅で
心ばかりの告別式が済んで、いよいよ納棺するときが来た。するとみのりは不意に立ち上がって、泳ぐような手付きをしながら
「あっ!」
と
翌日、みのりは信子に会ったとき、
「わたし、どうしても波瑠子さんが亡くなられたとは信じられないのよ。いまでもあの方がどこかでわたしを待っていてくださるような気がするの。······もしあの方が本当にこの世にいないとすれば、わたしのような
と、感傷的に言った。
みのりはそれから三日目に家出をしたが、行った先はその日のうちに分かった。それは横浜に住んでいる彼女のピアノの先生からの手紙に、みのりは東京へ帰りたくないと言っているから、差し支えなければ当分預かってもよいと言ってきたからだった。
海保はチョッキの内隠し袋に縫い込んだ、ダイヤモンドの膨らみを上着の上から
「これでいい、月賦の自動車は引き上げられそうだし、店は倒れかかっているし、夜逃げには
と
彼は部屋の中を見回して、あれこれとめぼしいものを物色しながら、三年前に行った上海の
海保はうるさく付き纏う情婦の