近頃私は死というものをそんなに恐しく思わなくなった。年齢のせいであろう。以前はあんなに死の恐怖について考え、また書いた私ではあるが。
思いがけなく来る通信に黒枠のものが次第に多くなる年齢に私も達したのである。この数年の間に私は一度ならず近親の死に会った。そして私はどんなに苦しんでいる病人にも死の瞬間には平和が来ることを目撃した。墓に
私はあまり病気をしないのであるが、病床に横になった時には、不思議に心の落着きを覚えるのである。病気の場合のほか真実に心の落着きを感じることができないというのは、現代人の一つの顕著な特徴、すでに現代人に極めて特徴的な病気の一つである。
実際、今日の人間の多くはコンヴァレサンス(病気の
愛する者、親しい者の死ぬることが多くなるに従って、死の恐怖は反対に薄らいでゆくように思われる。生れてくる者よりも死んでいった者に一層近く自分を感じるということは、年齢の影響に
死について考えることが無意味であるなどと私はいおうとしているのではない。死は観念である。そして観念らしい観念は死の立場から生れる、現実
私にとって死の恐怖は如何にして薄らいでいったか。自分の親しかった者と死別することが次第に多くなったためである。もし私が彼等と再会することができる||これは私の最大の希望である||とすれば、それは私の死においてのほか不可能であろう。仮に私が百万年生きながらえるとしても、私はこの世において再び彼等と会うことのないのを知っている。そのプロバビリティは
仮に誰も死なないものとする。そうすれば、俺だけは死んでみせるぞといって死を企てる者がきっと出てくるに違いないと思う。人間の虚栄心は死をも対象とすることができるまでに大きい。そのような人間が虚栄的であることは何人も直ちに理解して
執着する何ものもないといった虚無の心では人間はなかなか死ねないのではないか。執着するものがあるから死に切れないということは、執着するものがあるから死ねるということである。深く執着するものがある者は、死後自分の帰ってゆくべきところをもっている。それだから死に対する準備というのは、どこまでも執着するものを作るということである。私に真に愛するものがあるなら、そのことが私の永生を約束する。
死の問題は伝統の問題につながっている。死者が
原因は少くとも結果に等しいというのは自然の法則であって、歴史においては逆に結果はつねに原因よりも大きいというのが法則であるといわれるかも知れない。もしそうであるとすれば、それは歴史のより優越な原因が我々自身でなくて我々を超えたものであるということを意味するのでなければならぬ。この我々を超えたものは、歴史において作られたものが蘇りまた生きながらえることを欲して、それを作るに
私はいま人間の不死を立証しようとも、或いはまた否定しようともするのではない。私のいおうと欲するのは、死者の生命を考えることは生者の生命を考えることよりも論理的に一層困難であることはあり得ないということである。死は観念である。それだから観念の力に頼って人生を生きようとするものは死の思想を
伝統の問題は死者の生命の問題である。それは生きている者の生長の問題ではない。通俗の伝統主義の
かような伝統主義はいわゆる歴史主義とは厳密に区別されねばならぬ。歴史主義は進化主義と同様近代主義の一つであり、それ自身進化主義になることができる。かような伝統主義はキリスト教、特にその原罪説を背景にして考えると、容易に理解することができるわけであるが、もしそのような原罪の観念が存しないか或いは失われたとすれば
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今日の人間は幸福について
幸福について考えることはすでに一つの、恐らく最大の、不幸の
良心の義務と幸福の要求とを対立的に考えるのは近代的リゴリズムである。これに反して私は考える。今日の良心とは幸福の要求である、と。社会、階級、人類、等々、あらゆるものの名において人間的な幸福の要求が
幸福の問題が倫理の問題から抹殺されるに従って多くの倫理的空語を生じた。例えば、倫理的ということと主体的ということとが一緒に語られるのは正しい。けれども主体的ということも今日では幸福の要求から抽象されることによって一つの倫理的空語となっている。そこでまた現代の倫理学から抹殺されようとしているのは動機論であり、主体的という語の流行と共に倫理学は
以前の心理学は心理批評の学であった。それは芸術批評などという批評の意味における心理批評を目的としていた。人間精神のもろもろの活動、もろもろの側面を評価することによってこれを秩序附けるというのが心理学の仕事であった。この仕事において哲学者は文学者と同じであった。かような価値批評としての心理学が自然科学的方法に基く心理学によって破壊されてしまう危険の生じたとき、これに反抗して現われたのが人間学というものである。しかるにこの人間学も今日では最初の動機から逸脱して人間心理の批評という固有の意味を
幸福を単に感性的なものと考えることは間違っている。むしろ主知主義が倫理上の幸福説と結び附くのがつねであることを思想の歴史は示している。幸福の問題は主知主義にとって最大の支柱であるとさえいうことができる。もし幸福論を抹殺してかかるなら、主知主義を
幸福は徳に反するものでなく、むしろ幸福そのものが徳である。もちろん、他人の幸福について考えねばならぬというのは正しい。しかし我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを
愛するもののために死んだ
死は観念である、と私は書いた。これに対して生は何であるか。生とは想像である、と私はいおうと思う。いかに生の現実性を主張する者も、
人間を一般的なものとして理解するには、死から理解することが必要である。死はもとより全く具体的なものである。しかしこの全く具体的な死はそれにも
しかるに生はつねに特殊的なものである。一般的な死が分離するに反して、特殊的な生は結合する。死は一般的なものという意味において観念と考えられるに対して、生は特殊的なものという意味において想像と考えられる。我々の想像力は特殊的なものにおいてのほか楽しまない。(芸術家は本性上多神論者である)。もとより人間は単に特殊的なものでなく同時に一般的なものである。しかし生の有する一般性は死の有する一般性とは異っている。死の一般性が観念の有する一般性に類するとすれば、生の一般性は想像力に関わるところのタイプの一般性と同様のものである。個性とは別にタイプがあるのでなく、タイプは個性である。死そのものにはタイプがない。死のタイプを考えるのは死をなお生から考えるからである。個性は多様の統一であるが、相矛盾する多様なものを統一して一つの形に形成するものが構想力にほかならない。感性からも知性からも考えられない個性は構想力から考えられねばならぬ。生と同じく幸福が想像であるということは、個性が幸福であることを意味している。
自然はその発展の段階を昇るに従って
人格は地の子らの最高の幸福であるというゲーテの言葉ほど、幸福についての完全な定義はない。幸福になるということは人格になるということである。
幸福は肉体的快楽にあるか精神的快楽にあるか、活動にあるか存在にあるかというが如き問は、我々をただ紛糾に引き入れるだけである。かような問に対しては、そのいずれでもあると答えるのほかないであろう。なぜなら、人格は肉体であると共に精神であり、活動であると共に存在であるから。そしてかかることは人格というものが形成されるものであることを意味している。
今日ひとが幸福について考えないのは、人格の分解の時代と呼ばれる現代の特徴に相応している。そしてこの事実は逆に幸福が人格であるという命題をいわば世界史的規模において証明するものである。
幸福は人格である。ひとが
機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現われる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。
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懐疑の意味を正確に判断することは容易でないように見える。或る場合には懐疑は神秘化され、それから一つの宗教が生ずるまでに至っている。あらゆる神秘を払いのけることが懐疑の仕事であるであろうに。反対に他の場合には
いずれにしても確かなことは、懐疑が特に人間的なものであるということである。神には懐疑はないであろう、また動物にも懐疑はないであろう。懐疑は天使でもなく獣でもない人間に固有なものである。人間は知性によって動物にまさるといわれるならば、それは懐疑によって特色附けられることができるであろう。実際、多少とも懐疑的でないような知性人があるであろうか。そして独断家は或る場合には天使の
人間的な知性の自由はさしあたり懐疑のうちにある。自由人といわれる者で懐疑的でなかったような人を私は知らない。あの honn

懐疑は知性の徳として人間精神を浄化する。ちょうど泣くことが生理的に我々の感情を浄化するように。しかし懐疑そのものは泣くことに類するよりも笑うことに類するであろう。笑は動物にはない人間的な表情であるとすれば、懐疑と笑との間に類似が存在するのは自然である。笑も我々の感情を浄化することができる。懐疑家の表情は渋面ばかりではない。知性に固有な快活さを有しない懐疑は真の懐疑ではないであろう。
真の懐疑家はソフィストではなくてソクラテスであった。ソクラテスは懐疑が無限の探求にほかならぬことを示した。その彼はまた真の悲劇家は真の喜劇家であることを示したのである。
従来の哲学のうち永続的な生命を有するもので何等か懐疑的なところを含まないものがあるであろうか。
論理学者は論理の
不確実なものが確実なものの基礎である。哲学者は自己のうちに懐疑が生きている限り哲学し、物を書く。もとより彼は不確実なもののために働くのではない。||「ひとは不確実なもののために働く」、とパスカルは書いている。けれども正確にいうと、ひとは不確実なもののために働くのでなく、むしろ不確実なものから働くのである。人生がただ動くことでなくて作ることであり、単なる存在でなくて形成作用であり、またそうでなければならぬ
独断に対する懐疑の力と無力とは、情念に対する知性の力と無力とである。独断は、それが一つの賭である場合にのみ、知性的であり得る。情念はつねにただ単に肯定的であり、独断の多くは情念に基いている。
多くの懐疑家は外見に現われるほど懐疑家ではない。また多くの独断家は外見に現われるほど独断家ではない。
ひとは時として他に対する虚栄から懐疑的になるが、更により多く他に対する虚栄のために独断的になる。そしてそれは他面、人間において政治的欲望
いかなる人も他を信じさせることができるほど己を信じさせることができない。他人を信仰に導く宗教家は必ずしも絶対に懐疑のない人間ではない。彼が他の人に
自分では疑いながら発表した意見が他人によって自分の疑っていないもののように信じられる場合がある。そのような場合には
懐疑というものは散文でしか表わすことのできないものである。そのことは懐疑の性質を示すと共に、逆に散文の固有の面白さ、またその難かしさがどこにあるかを示している。
真の懐疑家は論理を追求する。しかるに独断家は全く論証しないか、ただ形式的に論証するのみである。独断家は甚だしばしば敗北主義者、知性の敗北主義者である。彼は外見に現われるほど決して強くはない、彼は他人に対しても自己に対しても強がらねばならぬ必要を感じるほど弱いのである。
ひとは敗北主義から独断家になる。またひとは絶望から独断家になる。絶望と懐疑とは同じでない。ただ知性の加わる場合にのみ絶望は懐疑に変り得るのであるが、これは想像されるように容易なことではない。
純粋に懐疑に止まることは困難である。ひとが懐疑し始めるや
懐疑には節度がなければならず、節度のある懐疑のみが真に懐疑の名に
方法についての熟達は教養のうち最も重要なものであるが、懐疑において節度があるということよりも決定的な教養のしるしを私は知らない。しかるに世の中にはもはや懐疑する力を失ってしまった教養人、或いはいちど懐疑的になるともはや何等方法的に考えることのできぬ教養人が多いのである。いずれもディレッタンティズムの落ちてゆく教養のデカダンスである。
懐疑が方法であることを理解した者であって初めて独断もまた方法であることを理解し得る。前のことを
懐疑は一つの所に止まるというのは間違っている。精神の習慣性を破るものが懐疑である。精神が習慣的になるということは精神のうちに自然が流れ込んでいることを意味している。懐疑は精神のオートマティズムを破るものとして既に自然に対する知性の勝利を現わしている。不確実なものが根源であり、確実なものは目的である。すべて確実なものは形成されたものであり、結果であって、端初としての原理は不確実なものである。懐疑は根源への関係附けであり、独断は目的への関係附けである。理論家が懐疑的であるのに対して実践家は独断的であり、動機論者が懐疑家であるのに対して結果論者は独断家であるというのがつねであることは、これに
肯定が否定においてあるように、物質が精神においてあるように、独断は懐疑においてある。
すべての懐疑にも
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人生において或る意味では習慣がすべてである。というのはつまり、あらゆる生命あるものは形をもっている、生命とは形であるということができる、しかるに習慣はそれによって行為に形が出来てくるものである。もちろん習慣は単に空間的な形ではない。単に空間的な形は死んだものである。習慣はこれに反して生きた形であり、かようなものとして単に空間的なものでなく、空間的であると同時に時間的、時間的であると同時に空間的なもの、
普通に習慣は同じ行為を反覆することによって生ずると考えられている。けれども厳密にいうと、人間の行為において全く同一のものはないであろう。個々の行為にはつねに偶然的なところがある。我々の行為は偶然的な、自由なものである
模倣と習慣とは或る意味において相反するものであり、或る意味において一つのものである。模倣は特に外部のもの、新しいものの模倣として流行の原因であるといわれる。流行に対して習慣は伝統的なものであり、習慣を破るものは流行である。流行よりも容易に習慣を破り得るものはないであろう。しかし習慣もそれ自身一つの模倣である。それは内部のもの、
習慣と同じく流行も生命の一つの形式である。生命は形成作用であり、模倣は形成作用にとって一つの根本的な方法である。生命が形成作用(ビルドゥング)であるということは、それが教育(ビルドゥング)であることを意味している。教育に対する模倣の意義については古来しばしば語られている。その際、習慣が一つの模倣であることを考えると共に、流行がまた模倣としていかに大きな教育的価値をもっているかについて考えることが大切である。
流行が環境から規定されるように、習慣も環境から規定されている。習慣は主体の環境に対する作業的適応として生ずる。ただ、流行においては主体は環境に対してより多く受動的であるのに反して、習慣においてはより多く能動的である。習慣のこの力は形の力である。しかし流行が習慣を破り得るということは、その習慣の形が主体と環境との関係から生じた弁証法的なものであるためである。流行のこの力は、それが習慣と相反する方向のものであるということに基いている。流行は最大の適応力を有するといわれる人間に特徴的である。習慣が自然的なものであるのに対して、流行は知性的なものであるとさえ考えることができるであろう。
習慣は自己による自己の模倣として自己の自己に対する適応であると同時に、自己の環境に対する適応である。流行は環境の模倣として自己の環境に対する適応から生ずるものであるが、流行にも自己が自己を模倣するというところがあるであろう。我々が流行に従うのは、何か自己に
一つの情念を支配し得るのは理性でなくて他の情念であるといわれる。しかし実をいうと、習慣こそ情念を支配し得るものである。一つの情念を支配し得るのは理性でなくて他の情念であるといわれるような、その情念の力はどこにあるのであるか。それは単に情念のうちにあるのでなく、むしろ情念が習慣になっているところにある。私が恐れるのは彼の憎みではなくて、私に対する彼の憎みが習慣になっているということである。習慣に形作られるのでなければ情念も力がない。一つの習慣は他の習慣を作ることによって破られる。習慣を支配し得るのは理性でなくて他の習慣である。言い換えると、一つの形を真に克服し得るものは他の形である。流行も習慣になるまでは不安定な力に過ぎない。情念はそれ自身としては形の
形を単に空間的な形としてしか、従って物質的な形としてしか表象し得ないというのは近代の機械的な悟性のことである。むしろ精神こそ形である。ギリシアの古典的哲学は物質は無限定な質料であって精神は形相であると考えた。現代の生の哲学は逆に精神的生命そのものを無限定な流動の如く考えている。この点において生の哲学も形に関する近代の機械的な考え方に影響されている。しかし精神を形相と考えたギリシア哲学は形相をなお空間的に表象した。東洋の伝統的文化は習慣の文化であるということができる。習慣が自然であるように、東洋文化の
社会的習慣としての慣習が道徳であり、権威をもっているのは、単にそれが社会的なものであるということに
習慣を自由になし得る者は人生において多くのことを
習慣が技術であるように、すべての技術は習慣的になることによって真に技術であることができる。どのような天才も習慣によるのでなければ何事も
従来修養といわれるものは道具時代の社会における道徳的形成の方法である。この時代の社会は有機的で、限定されたものであった。しかるに今日では道具時代から機械時代に変り、我々の生活の環境も全く違ったものになっている。そのために道徳においても修養というものだけでは不十分になった。道具の技術に比して機械の技術は習慣に依存することが少く、知識に依存することが多いように、今日では道徳においても知識が特に重要になっているのである。しかしまた道徳は有機的な身体を離れ得るものでなく、そして知性のうちにも習慣が働くということに注意しなければならぬ。
デカダンスは情念の不定な過剰であるのではない。デカダンスは情念の特殊な習慣である。人間の行為が技術的であるところにデカダンスの根源がある。情念が習慣的になり、技術的になるところからデカダンスが生ずる。自然的な情念の爆発はむしろ習慣を破るものであり、デカダンスとは反対のものである。すべての習慣には何等かデカダンスの
習慣によって我々は自由になると共に習慣によって我々は束縛される。しかし習慣において恐るべきものは、それが我々を束縛することであるよりも、習慣のうちにデカダンスが含まれることである。
あのモラリストたちは世の中にいかに多くの奇怪な習慣が存在するかについてつねに語っている。そのことはいかに習慣がデカダンスに陥り
習慣に対して流行はより知性的であるということができる。流行には同じようなデカダンスがないであろう。そこに流行の生命的価値がある。しかしながら流行そのものがデカダンスになる場合、それは最も恐るべきものである。流行は不安定で、それを支える形というものがないから。流行は直接に虚無につらなる故に、そのデカダンスには底がない。
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Vanitati creatura subjecta est etiam nolens. ||「造られたるものの
虚栄は人間的自然における最も普遍的な
虚栄によって生きる人間の生活は実体のないものである。言い換えると、人間の生活はフィクショナルなものである。それは芸術的意味においてもそうである。というのは、つまり人生はフィクション(小説)である。だからどのような人でも一つだけは小説を書くことができる。普通の人間と芸術家との差異は、ただ一つしか小説を書くことができないか、それとも種々の小説を書くことができるかという点にあるといい得るであろう。
人生がフィクションであるということは、それが何等の実在性を有しないということではない。ただその実在性は物的実在性と同じでなく、むしろ小説の実在性とほぼ同じものである。
人生はフィクショナルなものとして元来ただ可能的なものである。その現実性は我々の生活そのものによって初めて証明されねばならぬ。
いかなる作家が神や動物についてフィクションを書こうとしたであろうか。神や動物は、人間のパッションが彼等のうちに移入された限りにおいてのみ、フィクションの対象となることができたのである。ひとり人間の生活のみがフィクショナルなものである。人間は小説的動物であると定義することができるであろう。
自然は芸術を模倣するというのはよく知られた言葉である。けれども芸術を模倣するのは固有な意味においては自然のうち人間のみである。人間が小説を模倣しまた模倣し得るのは、人間が本性上小説的なものであるからでなければならぬ。人間は人間的になり始めるや
すべての人間的といわれるパッションはヴァニティから生れる。人間のあらゆるパッションは人間的であるが、仮に人間に動物的なパッションがあるとしても、それが直ちにヴァニティにとらえられ得るところに人間的なものが認められる。
ヴァニティはいわばその実体に従って考えると虚無である。ひとびとが虚栄といっているものはいわばその現象に過ぎない。人間的なすべてのパッションは虚無から生れ、その現象において虚栄的である。人生の実在性を証明しようとする者は虚無の実在性を証明しなければならぬ。あらゆる人間的創造はかようにして虚無の実在性を証明するためのものである。
「虚栄をあまり全部自分のうちにたくわえ、そしてそれに酷使されることにならないように、それに対して割れ目を開いておくのが
この点において英雄は例外である。英雄はその最後によって、つまり滅亡によって自己を証明する。喜劇の主人公には英雄がない、英雄はただ悲劇の主人公であることができる。
人間は虚栄によって生きるということこそ、彼の生活にとって
紙幣はフィクショナルなものである。しかしまた金貨もフィクショナルなものである。けれども紙幣と金貨との間には差別が考えられる。世の中には不換紙幣というものもあるのである。すべてが虚栄である人生において智慧と呼ばれるものは金貨と紙幣とを、特に不換紙幣とを区別する判断力である。
しかし人間が虚栄的であるということはすでに人間のより高い性質を示している。虚栄心というのは自分があるよりも以上のものであることを示そうとする人間的なパッションである。それは仮装に過ぎないかも知れない。けれども一生仮装し通した者において、その人の本性と仮性とを区別することは不可能に近いであろう。道徳もまたフィクションではないか。それは不換紙幣に対する金貨ほどの意味をもっている。
人間が虚栄的であるということは人間が社会的であることを示している。つまり社会もフィクションの上に成立している。従って社会においては信用がすべてである。あらゆるフィクションが虚栄であるというのではない。フィクションによって生活する人間が虚栄的であり得るのである。
文明の進歩というのは人間の生活がより多くフィクションの上に築かれることであるとすれば、文明の進歩と共に虚栄は日常茶飯事となる。そして英雄的な悲劇もまた少くなる。
フィクションであるものを自然的と思われるものにするのは習慣の力である。むしろ習慣的になることによってフィクションは初めてフィクションの意味を有するに至るのである。かくしてただ単に虚栄であるものは未だフィクションとはいわれない。それ
すべての人間の悪は孤独であることができないところから生ずる。
いかにして虚栄をなくすることができるか。虚無に帰することによって。それとも虚無の実在性を証明することによって。言い換えると、創造によって。創造的な生活のみが虚栄を知らない。創造というのはフィクションを作ることである、フィクションの実在性を証明することである。
虚栄は最も多くの場合消費と結び附いている。
人に気に入らんがために、
その理想国から芸術家を追放しようとしたプラトンには一つの智慧がある。しかし自己の生活について真の芸術家であるということは、人間の立場において虚栄を駆逐するための最高のものである。
虚栄は生活において創造から区別されるディレッタンティズムである。虚栄を芸術におけるディレッタンティズムに比して考える者は、虚栄の適切な処理法を発見し得るであろう。
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名誉心と虚栄心とほど混同され
人生に対してどんなに厳格な人間も名誉心を
虚栄心はまず社会を対象としている。しかるに名誉心はまず自己を対象とする。虚栄心が対世間的であるのに反して、名誉心は自己の品位についての自覚である。
すべてのストイックは本質的に個人主義者である。彼のストイシズムが自己の品位についての自覚にもとづく場合、彼は善き意味における個人主義者であり、そしてそれが虚栄の一種である場合、彼は
名誉心と個人意識とは不可分である。ただ人間だけが名誉心をもっているといわれるのも、人間においては動物においてよりも
名誉心も、虚栄心と同様、社会に向っているといわれるであろう。しかしそれにしても、虚栄心においては相手は「世間」というもの、詳しくいうと、甲でもなく乙でもないと同時に甲でもあり乙でもあるところの「ひと」、アノニムな「ひと」であるのに反して、名誉心においては相手は甲であり或いは乙であり、それぞれの人間が個人としての独自性を失わないでいるところの社会である。虚栄心は本質的にアノニムである。
虚栄心の
ひとは何よりも多く虚栄心から模倣し、流行に身を
発生的にいうと、四足で地に
直立することによって人間は抽象的な存在になった。そのとき彼には手というもの、このあらゆる器官のうち最も抽象的な器官が出来た、それは同時に彼にとって抽象的な思考が可能になったことである、等々、||そして名誉心というのはすべて抽象的なものに対する情熱である。
抽象的なものに対する情熱をもっているかどうかが名誉心にとって基準である。かくして世の中において名誉心から出たもののようにいわれていることも実は虚栄心にもとづくものが
抽象的な存在になった人間はもはや環境と直接に融合して生きることができず、むしろ環境に対立し、これと戦うことによって生きねばならぬ。||名誉心というのはあらゆる意味における戦士のこころである。騎士道とか武士道とかにおいて名誉心が根本的な徳と考えられたのもこれに
たとえば、名を惜しむという。名というのは抽象的なものである。もしそれが抽象的なものでないなら、そこに名誉心はなく、虚栄心があるだけである。いま世間の評判というものはアノニムなものである。従って評判を気にすることは名誉心でなくて虚栄心に属している。アノニムなものと抽象的なものとは同じではない。両者を区別することが大切である。
すべての名誉心は何等かの仕方で永遠を考えている。この永遠というものは抽象的なものである。たとえば名を惜しむという場合、名は個人の品位の意識であり、しかもそれは抽象的なものとしての永遠に関係附けられている。虚栄心はしかるに時間的なものの最も時間的なものである。
抽象的なものに対する情熱によって個人という最も現実的なものの意識が成立する、||これが人間の存在の秘密である。たとえば人類というのは抽象的なものである。ところでこの人類という抽象的なものに対する情熱なしには人間は真の個人となることができぬ。
名誉心の抽象性のうちにその真理と同時にその虚偽がある。
名誉心において滅ぶ者は抽象的なものにおいて滅ぶ者であり、そしてこの抽象的なものにおいて滅び得るということは人間に固有なことであり、そのことが彼の名誉心に属している。
名誉心は自己意識と不可分のものであるが、自己といってもこの場合抽象的なものである。従って名誉心は自己にとどまることなく、絶えず外に向って、社会に対して出てゆく。そこに名誉心の矛盾がある。
名誉心は白日のうちになければならない。だが白日とは何か。抽象的な空気である。
名誉心はアノニムな社会を相手にしているのではない。しかしながらそれはなお抽象的な甲、抽象的な乙、つまり抽象的な社会を相手にしているのである。
愛は具体的なものに対してのほか動かない。この点において愛は名誉心と
宗教の秘密は永遠とか人類とかいう抽象的なものがそこでは最も具体的なものであるということにある。宗教こそ名誉心の限界を
名誉心は抽象的なものであるにしても、昔の社会は今の社会ほど抽象的なものでなかった
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Ira Dei(神の怒)、||キリスト教の文献を見るたびにつねに考えさせられるのはこれである。なんという恐しい思想であろう。またなんという深い思想であろう。
神の怒はいつ現われるのであるか、||正義の
神の怒はいかに現われるのであるか、||天変地異においてであるか、予言者の怒においてであるか、それとも大衆の怒においてであるか。神の怒を思え!
しかし正義とは何か。怒る神は隠れたる神である。正義の法則と考えられるようになったとき、人間にとって神の怒は忘れられてしまった。怒は啓示の一つの形式である。怒る神は法則の神ではない。
怒る神にはデモーニッシュなところがなければならぬ。神はもとデモーニッシュであったのである。しかるに今では神は人間的にされている、デーモンもまた人間的なものにされている。ヒューマニズムというのは怒を知らないことであろうか。そうだとしたなら、今日ヒューマニズムにどれほどの意味があるであろうか。
愛の神は人間を人間的にした。それが愛の意味である。しかるに世界が人間的に、余りに人間的になったとき必要なのは怒であり、神の怒を知ることである。
今日、愛については誰も語っている。誰が怒について真剣に語ろうとするのであるか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るということは今日の人間が無性格であるということのしるしである。
切に義人を思う。義人とは何か、||怒ることを知れる者である。
今日、怒の倫理的意味ほど多く忘れられているものはない。怒はただ避くべきものであるかのように考えられている。しかしながら、もし何物かがあらゆる場合に避くべきであるとすれば、それは憎みであって怒ではない。憎みも怒から直接に発した場合には意味をもつことができる、つまり怒は憎みの倫理性を基礎附け得るようなものである。怒と憎みとは本質的に異るにも
怒はより深いものである。怒は憎みの直接の原因となることができるのに反し、憎みはただ附帯的にしか怒の原因となることができぬ。
すべての怒は突発的である。そのことは怒の純粋性
怒ほど正確な判断を乱すものはないといわれるのは正しいであろう。しかし怒る人間は怒を表わさないで憎んでいる人間よりもつねに
ひとは愛に種類があるという。愛は神の愛(アガペ)、理想に対する愛(プラトン的エロス)、そして肉体的な愛という三つの段階に区別されている。そうであるなら、それに相応して怒にも、神の怒、名誉心からの怒、気分的な怒という三つの種類を区別することができるであろう。怒に段階が考えられるということは怒の深さを示すものである。ところが憎みについては同様の段階を区別し得るであろうか。怒の内面性が理解されねばならぬ。
愛と憎みとをつねに対立的に考えることは機械的に過ぎるといい得るであろう。少くとも神の弁証法は愛と憎みの弁証法でなくて愛と怒の弁証法である。神は憎むことを知らず、怒ることを知っている。神の怒を忘れた多くの愛の説は神の愛をも人間的なものにしてしまった。
我々の怒の多くは気分的である。気分的なものは生理的なものに結び附いている。従って怒を
怒を鎮める最上の手段は時であるといわれるであろう。怒はとりわけ突発的なものであるから。
神は時に
我々の怒の多くは神経のうちにある。それだから神経を
社会と文化の現状は人間を甚だ神経質にしている。そこで怒も常習的になり、常習的になることによって怒は本来の性質を失おうとしている。怒と
怒は
しかるに怒においては永続することによって一層高次の怒に高まるということがない。しかしそれだけ深く神の怒というものの神秘が感じられるのである。怒にはただ下降の道があるだけである。そしてそれだけ怒の根源の深さを思わねばならないのである。
愛は統一であり、融合であり、連続である。怒は分離であり、独立であり、非連続である。神の怒を考えることなしに神の愛と人間的な愛との区別を考え得るであろうか。ユダヤの予言者なしにキリストは考え得るであろうか。旧約なしに新約は考え得るであろうか。
神でさえ自己が独立の人格であることを怒によって示さねばならなかった。
特に人間的といわれ得る怒は名誉心からの怒である。名誉心は個人意識と不可分である。怒において人間は無意識的にせよ自己が個人であること、独立の人格であることを示そうとするのである。そこに怒の倫理的意味が隠されている。
今日、怒というものが曖昧になったのは、この社会において名誉心と虚栄心との区別が曖昧になったという事情に相応している。それはまたこの社会において無性格な人間が多くなったという事実を反映している。怒る人間は少くとも性格的である。
ひとは
相手の怒を自分の心において避けようとして自分の優越を示そうとするのは愚である。その場合自分が優越を示そうとすればするほど相手は更に軽蔑されたのを感じ、その怒は募る。ほんとに自信のある者は自分の優越を示そうなどとはしないであろう。
怒を避ける最上の手段は機智である。
怒にはどこか貴族主義的なところがある。善い意味においても、悪い意味においても。
孤独の何であるかを知っている者のみが真に怒ることを知っている。
アイロニイという一つの知的性質はギリシア人のいわゆるヒュブリス(
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どんな方法でもよい、自己を集中しようとすればするほど、私は自己が何かの上に浮いているように感じる。いったい何の上にであろうか。虚無の上にというのほかない。自己は虚無の中の一つの点である。この点は限りなく縮小されることができる。しかしそれはどんなに小さくなっても、自己がその中に浮き上っている虚無と一つのものではない。生命は虚無でなく、虚無はむしろ人間の条件である。けれどもこの条件は、
人間の条件として他の無数のものが考えられるであろう。例えば、この室、この机、この書物、
物が人間の条件であるというのは、それが虚無の中において初めてそのような物として
虚無が人間の条件或いは人間の条件であるものの条件であるところから、人生は形成であるということが従ってくる。自己は形成力であり、人間は形成されたものであるというのみではない、世界も形成されたものとして初めて人間的生命にとって現実的に環境の意味をもつことができるのである。生命はみずから形として外に形を作り、物に形を与えることによって自己に形を与える。かような形成は人間の条件が虚無であることによって可能である。
世界は要素に分解され、人間もこの要素的世界のうちへ分解され、そして要素と要素との間には関係が認められ、要素そのものも関係に分解されてしまうことができるであろう。この関係はいくつかの法則において定式化することができるであろう。しかしかような世界においては生命は成立することができない。何故であるか。生命は抽象的な法則でなく、単なる関係でも、関係の和でも積でもなく、生命は形であり、しかるにかような世界においては形というものは考えられないからである。形成は
古代は実体概念によって思考し、近代は関係概念或いは機能概念(
以前の人間は限定された世界のうちに生活していた。その住む地域は端から端まで見通しのできるものであった。その用いる道具は何処の何某が作ったものであり、その
しかるに今日の人間の条件は異っている。現代人は無限定な世界に住んでいる。私は私の使っている道具が何処の何某の作ったものであるかを知らないし、私が
ところで現代人の世界がかように無限定なものであるのは、実は、それが最も限定された結果として生じたことである。交通の発達によって世界の隅々まで互に関係附けられている。私は見えない無数のものに
今日の人間の最大の問題は、かように形のないものから如何にして形を作るかということである。この問題は内在的な立場においては解決されない。なぜならこの無定形な状態は限定の発達し尽した結果生じたものであるから。そこに現代のあらゆる超越的な考え方の意義がある。形成は虚無からの形成、科学を超えた芸術的ともいうべき形成でなければならぬ。一種芸術的な世界観、しかも観照的でなくて形成的な世界観が支配的になるに至るまでは、現代には救済がないといえるかも知れない。
現代の混乱といわれるものにおいて、あらゆるものが混合しつつある。対立するものが綜合されてゆくというよりもむしろ対立するものが混合されてゆくというのが実際に近い。この混合から新しい形が出てくるであろう。形の生成は綜合の弁証法であるよりも混合の弁証法である。私のいう構想力の論理は混合の弁証法として特徴附けられねばならぬであろう。混合は不定なものの結合であり、その不定なものの不定性の根拠は虚無の存在である。あらゆるものは虚無においてあり、
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「この無限の空間の永遠の沈黙は私を
孤独が恐しいのは、孤独そのもののためでなく、むしろ孤独の条件によってである。
古代哲学は実体性のないところに実在性を考えることができなかった。従ってそこでは、死も、そして孤独も、恰も
孤独というのは独居のことではない。独居は孤独の一つの条件に過ぎず、しかもその外的な条件である。むしろひとは孤独を逃れるために独居しさえするのである。
孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである。「真空の恐怖」||それは物質のものでなくて人間のものである。
孤独は内に閉じこもることではない。孤独を感じるとき、試みに、自分の手を伸して、じっと見詰めよ。孤独の感じは急に迫ってくるであろう。
孤独を味うために、西洋人なら街に出るであろう。ところが東洋人は自然の中に入った。彼等には自然が社会の如きものであったのである。東洋人に社会意識がないというのは、彼等には人間と自然とが対立的に考えられないためである。
東洋人の世界は薄明の世界である。しかるに西洋人の世界は昼の世界と夜の世界である。昼と夜との対立のないところが薄明である。薄明の淋しさは昼の淋しさとも夜の淋しさとも性質的に違っている。
孤独には美的な誘惑がある。孤独には味いがある。もし誰もが孤独を好むとしたら、この味いのためである。孤独の美的な誘惑は女の子も知っている。孤独のより高い倫理的意義に達することが問題であるのだ。
その一生が孤独の倫理的意義の探求であったといい得るキェルケゴールでさえ、その美的な誘惑にしばしば負けているのである。
感情は主観的で知性は客観的であるという普通の見解には
真理と客観性、従って非人格性とを同一視する哲学的見解ほど有害なものはない。かような見解は真理の内面性のみでなく、また特にその表現性を理解しないのである。
いかなる対象も私をして孤独を超えさせることはできぬ。孤独において私は対象の世界を全体として超えているのである。
孤独であるとき、我々は物から滅ぼされることはない。我々が物において滅ぶのは孤独を知らない時である。
物が真に表現的なものとして我々に迫るのは孤独においてである。そして我々が孤独を超えることができるのはその呼び掛けに
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もし私に人間の性の善であることを疑わせるものがあるとしたら、それは人間の心における嫉妬の存在である。嫉妬こそベーコンがいったように悪魔に最もふさわしい属性である。なぜなら嫉妬は
どのような情念でも、天真
愛と嫉妬とはあらゆる情念のうち最も術策的である。それらは他の情念に比して
嫉妬は平生は「考え」ない人間にも「考え」させる。
愛と嫉妬との強さは、それらが
嫉妬は自分よりも高い地位にある者、自分よりも幸福な状態にある者に対して起る。だがその差異が絶対的でなく、自分も彼のようになり得ると考えられることが必要である。全く異質的でなく、共通なものがなければならぬ。しかも嫉妬は、嫉妬される者の位置に自分を高めようとすることなく、むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である。嫉妬がより高いものを目差しているように見えるのは表面上のことである、それは本質的には平均的なものに向っているのである。この点、愛がその本性においてつねにより高いものに
かようにして嫉妬は、愛と相反する性質のものとして、人間的な愛に何か補わねばならぬものがあるかの
同じ職業の者が真の友達になることは違った職業の者の間においてよりも遥かに困難である。
嫉妬は性質的なものの上に働くのでなく、量的なものの上に働くのである。特殊的なもの、個性的なものは、嫉妬の対象とはならぬ。嫉妬は他を個性として認めること、自分を個性として理解することを知らない。一般的なものに関してひとは嫉妬するのである。これに反して愛の対象となるのは一般的なものでなくて特殊的なもの、個性的なものである。
嫉妬は心の奥深く燃えるのがつねであるにも
嫉妬とはすべての人間が神の前においては平等であることを知らぬ者の人間の世界において平均化を求める傾向である。
嫉妬は出歩いて、家を守らない。それは自分に
一つの情念は知性に依ってよりも他の情念に依って一層よく制することができるというのは、一般的な真理である。英雄は嫉妬的でないという言葉がもしほんとであるとしたら、彼等においては功名心とか競争心とかいう他の情念が嫉妬よりも強く、そして重要なことは、一層持続的な力になっているということである。
功名心や競争心はしばしば嫉妬と間違えられる。しかし両者の差異は
嫉妬はつねに多忙である。嫉妬の如く多忙で、しかも不生産的な情念の存在を私は知らない。
もし無邪気な心というものを定義しようとするなら、嫉妬的でない心というのが何よりも適当であろう。
自信がないことから嫉妬が起るというのは正しい。
嫉妬心をなくするために、自信を持てといわれる。だが自信は如何にして生ずるのであるか。自分で物を作ることによって。嫉妬からは何物も作られない。人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる。個性的な人間ほど嫉妬的でない。個性を離れて幸福が存在しないことはこの事実からも理解されるであろう。
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今日の倫理学の
古代人や中世的人間のモラルのうちには、我々の意味における成功というものは
成功のモラルが近代に特徴的なものであることは、進歩の観念が近代に特徴的なものであるのに似ているであろう。実は両者の間に密接な関係があるのである。近代
中庸は一つの主要な徳であるのみでなく、むしろあらゆる徳の根本的な形であると考えられてきた。この観念を破ったところに成功のモラルの近代的な新しさがある。
成功のモラルはおよそ非宗教的なものであり、近代の非宗教的な精神に相応している。
成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった。自分の不幸を不成功として考えている人間こそ、まことに
他人の幸福を
幸福が存在に
Streber ||このドイツ語で最も適切に表わされる種類の成功主義者こそ、俗物中の俗物である。他の種類の俗物は時として
シュトレーバーというのは、生きることがそもそも冒険であるという
成功も人生に本質的な冒険に属するということを理解するとき、成功主義は意味をなさなくなるであろう。成功を冒険の見地から理解するか、冒険を成功の見地から理解するかは、本質的に違ったことである。成功主義は後の場合であり、そこには真の冒険はない。人生は
一種のスポーツとして成功を追求する者は健全である。
純粋な幸福は各人においてオリジナルなものである。しかし成功はそうではない。エピゴーネントゥム(追随者風)は多くの場合成功主義と結び附いている。
近代の成功主義者は型としては
古代においては、個人意識は発達していなかったが、それだけに型的な人間が個性的であるということがあった。個人意識の発達した現代においては
成功のモラルはオプティミズムに支えられている。それが人生に対する意義は主としてこのオプティミズムの意義である。オプティミズムの
成功主義者が非合理主義者である場合、彼は恐るべきである。
近代的な冒険心と、合理主義と、オプティミズムと、進歩の観念との混合から生れた最高のものは企業家的精神である。古代の人間理想が賢者であり、中世のそれが聖者であったように、近代のそれは企業家であるといい得るであろう。少くともそのように考えらるべき多くの理由がある。しかるにそれが一般にはそのように純粋に把握されなかったのは近代の拝金主義の結果である。
もしひとがいくらかの権力を持っているとしたら、成功主義者ほど御し易いものはないであろう。部下を御してゆく手近かな道は、彼等に立身出世のイデオロギーを吹き込むことである。
私は今ニーチェのモラルの根本が成功主義に対する極端な反感にあったことを知るのである。
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たとえば人と対談している最中に私は突然黙り込むことがある。そんな時、私は瞑想に訪問されたのである。瞑想はつねに不意の客である。私はそれを招くのでなく、また招くこともできない。しかしそれの来るときにはあらゆるものにも
思索は下から昇ってゆくものであるとすれば、瞑想は上から降りてくるものである。それは或る天与の性質をもっている。そこに瞑想とミスティシズムとの最も深い結び附きがある。瞑想は多かれ少かれミスティックなものである。
この思い設けぬ客はあらゆる場合に来ることができる。単にひとり静かに居る時のみではない、全き
プラトンはソクラテスがポティダイアの陣営において一昼夜立ち続けて瞑想に
思索と瞑想との差異は、ひとは思索のただなかにおいてさえ瞑想に陥ることがあるという事実によって示されている。
瞑想には過程がない。この点において、それは本質的に過程的な思索と異っている。
すべての瞑想は甘美である。この
すべての魅力的な思索の魅力は瞑想に、このミスティックなもの、
瞑想はその甘さの故にひとを誘惑する。真の宗教がミスティシズムに反対するのはかような誘惑の故であろう。瞑想は甘いものであるが、それに誘惑されるとき、瞑想はもはや瞑想ではなくなり、夢想か空想かになるであろう。
瞑想を生かし得るものは思索の厳しさである。不意の訪問者である瞑想に対する準備というのは思索の方法的訓練を
瞑想癖という言葉は矛盾である。瞑想は何等習慣になり得る性質のものではないからである。性癖となった瞑想は何等瞑想ではなく、夢想か空想かである。
瞑想のない思想家は存在しない。瞑想は彼にヴィジョンを与えるものであり、ヴィジョンをもたぬ
勤勉は思想家の主要な徳である。それによって思想家といわゆる瞑想家
ひとは書きながら、もしくは書くことによって思索することができる。しかし瞑想はそうではない。瞑想はいわば精神の休日である。そして精神には仕事と同様、閑暇が必要である。余りに多く書くことも全く書かぬことも共に精神にとって有害である。
哲学的文章におけるパウゼというものは瞑想である。思想のスタイルは主として瞑想的なものに依存している。瞑想がリズムであるとすれば、思索はタクトである。
瞑想の甘さのうちには多かれ少かれつねにエロス的なものがある。
思索が瞑想においてあることは、精神が身体においてあるのと同様である。
瞑想は思想的人間のいわば原罪である。瞑想のうちに、従ってまたミスティシズムのうちに救済があると考えることは、異端である。宗教的人間にとってと同様に、思想的人間にとっても、救済は本来ただ言葉において与えられる。
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噂は不安定なもの、不確定なものである。しかも自分では手の下しようもないものである。我々はこの不安定なもの、不確定なものに取り巻かれながら生きてゆくのほかない。
しからば噂は我々にとって運命の
もしもそれが運命であるなら、我々はそれを愛しなければならぬ。またもしそれが運命であるなら、我々はそれを開拓しなければならぬ。だが噂は運命ではない。それを運命の如く愛したり開拓したりしようとするのは馬鹿げたことである。我々の少しも拘泥してはならぬこのものが、我々の運命をさえ決定するというのは
噂はつねに我々の遠くにある。我々はその存在をさえ知らないことが多い。この遠いものが我々にかくも密接に関係してくるのである。しかもこの関係は
噂は評判として一つの批評であるというが、その批評には如何なる基準もなく、もしくは無数の偶然的な基準があり、従って本来なんら批評でなく、極めて不安定で不確定である。しかもこの不安定で不確定なものが、我々の社会的に存在する一つの最も重要な形式なのである。
評判を批評の如く受取り、これと
噂は誰のものでもない、噂されている当人のものでさえない。噂は社会的なものであるにしても、厳密にいうと、社会のものでもない。この実体のないものは、誰もそれを信じないとしながら、誰もそれを信じている。噂は原初的な形式におけるフィクションである。
噂はあらゆる情念から出てくる。
あらゆる噂の根源が不安であるというのは真理を含んでいる。ひとは自己の不安から噂を作り、受取り、また伝える。不安は情念の中の一つの情念でなく、むしろあらゆる情念を動かすもの、情念の情念ともいうべく、従ってまた情念を超えたものである。不安と虚無とが一つに考えられるのもこれに
噂は過去も未来も知らない。噂は本質的に現在のものである。この浮動的なものに我々が次から次へ移し入れる情念や合理化による加工はそれを神話化してゆく結果になる。だから噂は永続するに従って神話に変ってゆく。その噂がどのようなものであろうと、我々は噂されることによって滅びることはない。噂をいつまでも噂にとどめておくことができるほど賢明に無関心で冷静であり得る人間は少いから。
噂には誰も責任者というものがない。その責任を引受けているものを我々は歴史と呼んでいる。
噂として存在するか
かくの如く歴史は情念の中から観念もしくは理念を作り出してくる。これは歴史の深い秘密に属している。
噂は歴史に入る入口に過ぎないが、それはこの世界に入るために一度は通らねばならぬ入口であるように思われる。歴史的なものは噂というこの荒々しいもの、不安定なものの中から出てくるのである。それは物が結晶する前に
歴史的なものは批評の中からよりも噂の中から決定されてくる。物が歴史的になるためには、批評を通過するということだけでは足りない、噂という更に
噂よりも有力な批評というものは甚だ
歴史は不確定なものの中から出てくる。噂というものはその最も不確定なものである。しかも歴史は最も確定的なものではないのか。
噂の問題は確率の問題である。しかもそれは物理的確率とは異る歴史的確率の問題である。誰がその確率を計算し得るか。
噂するように批評する批評家は多い。けれども批評を歴史的確率の問題として取り上げる批評家は稀である。私の知る限りではヴァレリイがそれだ。かような批評家には数学者のような知性が必要である。しかし如何に多くの批評家が独断的であるか。そこでまた如何に多くの批評家が、自分も世間も信じているのとは反対に、批評的であるよりも実践的であるか。
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一般に我々の生活を支配しているのは give and take の原則である。それ
我々の生活を支配しているギヴ・アンド・テイクの原則は、たいていの場合我々は意識しないでそれに従っている。言い換えると、我々は意識的にのほか利己主義者であることができない。
利己主義者が不気味に感じられるのは、彼が利己的な人間であるためであるよりも、彼が意識的な人間であるためである。それ故にまた利己主義者を苦しめるものは、彼の相手ではなく、彼の自意識である。
利己主義者は原則的な人間である、なぜなら彼は意識的な人間であるから。||ひとは習慣によってのほか利己主義者であることができない。これら二つの、前の命題とも反し、また相互に矛盾する命題のうちに、人間の力と無力とが言い表わされる。
我々の生活は一般にギヴ・アンド・テイクの原則に従っていると言えばたいていの者がなにほどかは反感を覚えるであろう。そのことは人生において実証的であることが
利己主義者が非情に思われるのは、彼に愛情とか同情とかがないためであるよりも、彼に想像力がないためである。そのように想像力は人生にとって根本的なものである。人間は理性によってというよりも想像力によって動物から区別される。愛情ですら、想像力なくして何物であるか。
愛情は想像力によって量られる。
実証主義は本質的に非情である。実証主義の果てが虚無主義であるのはだから当然のことである。
利己主義者は中途半端な実証主義者である。それとも自覚に達しない虚無主義者であるといえるであろうか。
利己的であることと実証的であることとは、しばしば
我々の生活を支配するギヴ・アンド・テイクの原則は、期待の原則である。与えることには取ることが、取ることには与えることが、期待されている。それは期待の原則として、決定論的なものでなくてむしろ確率論的なものである。このように人生は
我々の生活は期待の上になり立っている。
期待は他人の行為を拘束する魔術的な力をもっている。我々の行為は絶えずその
利己主義者は期待しない人間である、従ってまた信用しない人間である。それ故に彼はつねに
ギヴ・アンド・テイクの原則を期待の原則としてでなく打算の原則として考えるものが利己主義者である。
人間が利己的であるか
この世で得られないものを死後において期待する人は宗教的といわれる。これがカントの神の存在の証明の要約である。
利己主義者は他の人間が自分とは同じようでないことを暗黙に前提している。もしすべての人間が利己的であるとしたなら、彼の利己主義も成立し得ない
利己主義者は自分では十分合理的な人間であると思っている。そのことを彼は公言もするし、誇りにさえもしている。彼は、彼の理智の限界が想像力の欠乏にあることを理解しないのである。
すべての人間が利己的であるということを前提にした社会契約説は、想像力のない合理主義の産物である。社会の基礎は契約でなくて期待である。社会は期待の魔術的な拘束力の上に建てられた建物である。
どのような利己主義者も自己の特殊的な利益を一般的な利益として主張する。||そこから如何に多くの理論が作られているか。||これに反して愛と宗教とにおいては、ひとは
利己主義という言葉は殆どつねに他人を攻撃するために使われる。主義というものは自分で称するよりも反対者から押し附けられるものであるということの最も日常的な例がここにある。
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何が自分の
誰も他人の身代りに健康になることができぬ、また誰も自分の身代りに健康になることができぬ。健康は全く銘々のものである。そしてまさにその点において平等のものである。私はそこに或る宗教的なものを感じる。すべての養生訓はそこから出立しなければならぬ。
かように健康は個性的なものであるとすれば、健康についての規則は人間的個性に関する規則と異らないことになるであろう。||
養生論の根柢には全自然哲学がある。これは以前、東洋においても西洋においても、そうであったし、今日もまたそうでなければならぬ。ここに自然哲学というのはもちろんあの医学や生理学のことではない。この自然哲学と近代科学との相違は、後者が窮迫感から出発するのに反して、前者は所有感から出立するところにあるということができるであろう。発明は窮迫感から生ずる。故に後者が発明的であるのに反して、前者は発見的であるということもできるであろう。近代医学は健康の窮迫感から、その意味での病気感から出てきた。しかるに以前の養生論においては、所有されているものとしての健康から出立して、
健康の問題は人間的自然の問題である。というのは、それは単なる身体の問題ではないということである。健康には身体の体操と共に精神の体操が必要である。
私の身体は世の中の物のうち私の思想が変化することのできるものである。想像の病気は実際の病気になることができる。他の物においては私の仮定が物の秩序を乱すことはあり得ないのに。何よりも自分の身体に関する恐怖を遠ざけねばならぬ。恐怖は効果のない動揺を生ずるだけであり、そして思案はつねに恐怖を増すであろう。ひとは自分が破滅したと考えるようになる、ところが
自然に従えというのが健康法の公理である。必要なのは、この言葉の意味を
健康は物の形というように直観的具体的なものである。
近代医学が発達した後においても、健康の問題は究極において自然形而上学の問題である。そこに何か変化がなければならぬとすれば、その形而上学が新しいものにならねばならぬというだけである。医者の不養生という
客観的なものは健康であり、主観的なものは病的である。この言葉のうちに含まれる形而上学から、ひとは立派な養生訓を引き出すことができるであろう。
健康の観念に最も大きな変化を与えたのはキリスト教であった。この影響はその主観性の哲学から生じたのである。健康の哲学を求めたニーチェがあのように厳しくキリスト教を攻撃したのは当然である。けれどもニーチェ自身の主観主義は、彼があれほど求めた健康の哲学に対して破壊的であるのほかなかった。ここに注意すべきことは、近代科学の客観主義は近代の主観主義を単に裏返したものであり、これと双生児であるということである。かようにして主観主義が出てきてから、病気の観念は独自性をもち、固有の意味を得てきたのである。病気は健康の欠乏というより積極的な意味のものとなった。
近代主義の行き着いたところは人格の分解であるといわれる。しかるにそれと共に重要な出来事は、健康の観念が同じように分裂してしまったということである。現代人はもはや健康の完全なイメージを持たない。そこに現代人の不幸の大きな原因がある。如何にして健康の完全なイメージを取り戻すか、これが今日の最大の問題の一つである。
「健康そのものというものはない」、とニーチェはいった。これは科学的判断ではなく、ニーチェの哲学を表明したものにほかならぬ。「何が一般に病気であるかは、医者の判断よりも患者の判断及びそれぞれの文化圏の支配的な見解に依存している」、とカール・ヤスペルスはいう。そして彼の考えるように、病気や健康は存在判断でなくて価値判断であるとすれば、それは哲学に属することになろう。経験的な存在概念としては平均というものを持ち出すほかない。しかしながら平均的な健康というものによっては人それぞれに個性的な健康について何等本質的なものを把握することができぬ。もしまた健康は目的論的概念であるとすれば、そのことによってまさにそれは科学の範囲を脱することになるであろう。
自然哲学或いは自然形而上学が失われたということが、この時代にかくも健康が失われている原因である。そしてそれがまたこの科学的時代に、病気に関してかくも多くの迷信が存在する理由である。
実際、健康に関する多くの記述はつねに何等かの形而上学的原理を含んでいる。例えばいう、変化を行い、反対のことを交換せよ、しかしより穏かな極端に対する好みをもって。絶食と飽食とを用いよ、しかしむしろ飽食を。覚めていることと眠ることとを、しかしむしろ眠ることを。
健康というのは平和というのと同じである。そこに如何に多くの種類があり、多くの価値の相違があるであろう。
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例えば初めて来た家政婦に自分の書斎の掃除をまかせるとする。彼女は机の上やまわりに乱雑に置かれた本や書類や文房具などを
これは秩序というものが何であるかを示す一つの単純な場合である。外見上極めてよく整理されているもの必ずしも秩序のあるものでなく、むしろ一見無秩序に見えるところに
秩序は生命あらしめる原理である。そこにはつねに温かさがなければならぬ。ひとは温かさによって生命の存在を感知する。
また秩序は充実させるものでなければならぬ。単に切り捨てたり取り払ったりするだけで秩序ができるものではない。虚無は明かに秩序とは反対のものである。
しかし秩序はつねに経済的なものである。最少の費用で最大の効用を挙げるという経済の原則は秩序の原則でもある。これは極めて手近かな事実によって証明される。節約||普通の経済的な意味での||は秩序尊重の一つの形式である。この場合節約は大きな教養であるのみでなく、宗教的な
時の利用というものは秩序の愛の現われである。
最少の費用で最大の効用を挙げるという経済の法則が同時に心の秩序の法則でもあるということは、この経済の法則が実は美学の法則でもあるからである。
美学の法則は政治上の秩序に関してさえ模範的であり得る。「時代の政治的問題を美学によって解決する」というシルレルの言葉は、何よりも秩序の問題に関して妥当するであろう。
知識だけでは足りない、能力が問題である。能力は技術と言い換えることができる。秩序は、心の秩序に関しても、技術の問題である。このことが理解されるのみでなく、能力として獲得されねばならぬ。
最少の費用で最大の効用を挙げるという経済の法則は実は経済的法則であるよりも技術的法則であり、かようなものとしてそれは美学の中にも入り込むのである。
プラトンの中でソクラテスは、徳は心の秩序であるといっている。これよりも具体的で実証的な徳の規定を私は知らない。今日最も忘れられているのは徳のこのような考え方である。そして徳は心の秩序であるという定義の論証にあたってソクラテスが用いた方法は、注意すべきことに、建築術、造船術等、もろもろの技術との比論であった。これは比論以上の重要な意味をもっていることである。
心という実体性のないものについて
現代物理学はエレクトロンの説以来物質というものから物体性を奪い去った。この説は全物質界を完全に実体性のないものにするように見える。我々は「実体」の概念を避けて、それを「作用」の概念で置き換えなければならぬといわれている。数学的に記述された物質はあらゆる日常的な親しさを失った。
不思議なことは、この物質観の変革に相応する変革が、それに何等関係もない人間の心の中で準備され、実現されたということである。現代人の心理||必ずしも現存の心理学をいわない||と現代物理学との平行を批評的に明かにすることは、新しい倫理学の出発点でなければならぬ。
知識人というのは、原始的な意味においては、物を作り得る人間のことであった。他の人間の作り得ないものを作り得る人間が知識人であった。知識人のこの原始的な意味を我々はもう一度はっきり我々の心に思い浮べることが必要であると思う。
ホメロスの英雄たちは自分で手工業を行った。エウマイオスは自分で革を
道徳の中にも手工業的なものがある。そしてこれが道徳の基礎的なものである。
しかし困難は、今日物的技術において「道具」の技術から「機械」の技術に変化したような大きな変革が、道徳の領域においても要求されているところにある。
作ることによって知るということが大切である。これが近代科学における実証的精神であり、道徳もその意味において全く実証的でなければならぬ。
プラトンが心の秩序に相応して国家の秩序を考えたことは奇体なことではない。この構想には深い
あらゆる秩序の構想の
ニーチェが一切の価値の転換を唱えて以後、まだどのような承認された価値体系も存在しない。それ以後、新秩序の設定はつねに何等か独裁的な形をとらざるを得なかった。一切の価値の転換というニーチェの思想そのものが実は近代社会の
外的秩序は強力によっても作ることができる。しかし心の秩序はそうではない。
人格とは秩序である、自由というものも秩序である。······かようなことが理解されねばならぬ。そしてそれが理解されるとき、主観主義は不十分となり、何等か客観的なものを認めなければならなくなるであろう。近代の主観主義は秩序の思想の喪失によって虚無主義に陥った。いわゆる無の哲学も、秩序の思想、特にまた価値体系の設定なしには、その絶対主義の虚無主義と同じになる危険が大きい。
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精神が何であるかは身体によって知られる。私は動きながら喜ぶことができる、喜びは私の運動を
感傷の場合、私は
感傷は愛、憎み、悲しみ、等、他の情念から区別されてそれらと並ぶ情念の一つの種類ではない。むしろ感傷はあらゆる情念のとり得る一つの形式である。すべての情念は、最も粗野なものから最も知的なものに至るまで、感傷の形式において存在し
感傷はすべての情念のいわば表面にある。かようなものとしてそれはすべての情念の入口であると共に出口である。先ず後の場合が注意される。ひとつの情念はその活動をやめるとき、感傷としてあとを引き、感傷として終る。泣くことが情念を
感傷は矛盾を知らない。ひとは愛と憎みとに心が分裂するという。しかしそれが感傷になると、愛も憎みも一つに解け合う。運動は矛盾から生ずるという意味においても、感傷は動くものとは考えられないであろう。それはただ流れる、むしろただ漂う。感傷は和解の手近かな手段である。だからまたそれはしばしば宗教的な心、砕かれた心というものと混同される。我々の感傷的な心は仏教の無常観に影響されているところが少くないであろう。それだけに両者を厳格に区別することが肝要である。
感傷はただ感傷を
情念はその固有の力によって創造する、乃至は破壊する。しかし感傷はそうではない。情念はその固有の力によってイマジネーションを喚び起す。しかし感傷に伴うのはドゥリームでしかない。イマジネーションは創造的であり得る。しかしドゥリームはそうではない。そこには動くものと動かぬものとの間の差異があるであろう。
感傷的であることが芸術的であるかのように考えるのは、一つの感傷でしかない。感傷的であることが宗教的であるかのように考える者に至っては、更にそれ以上感傷的であるといわねばならぬ。宗教はもとより、芸術も、感傷からの脱出である。
感傷は趣味になることができ、またしばしばそうなっている。感傷はそのように甘味なものであり、誘惑的である。瞑想が趣味になるのは、それが感傷的になるためである。
すべての趣味と同じように、感傷は本質的にはただ過去のものの上にのみ働くのである。それは出来つつあるものに対してでなく出来上ったものに対して働くのである。すべて過ぎ去ったものは感傷的に美しい。感傷的な人間は回顧することを好む。ひとは未来について感傷することができぬ。少くとも感傷の対象であるような未来は真の未来ではない。
感傷は制作的でなくて鑑賞的である。しかし私は感傷によって何を鑑賞するのであろうか。物の中に入らないで私は物を鑑賞し得るであろうか。感傷において私は物を味っているのでなく自分自身を味っているのである。いな、正確にいうと、私は自分自身を味っているのでさえなく、ただ感傷そのものを味っているのである。
感傷は主観主義である。青年が感傷的であるのはこの時代が主観的な時期であるためである。主観主義者は、どれほど概念的或いは論理的に
あらゆる情念のうち喜びは感傷的になることが最も少い情念である。そこに喜びのもつ特殊な積極性がある。
感傷には個性がない、それは真の主観性ではないから。その意味で感傷は大衆的である。だから大衆文学というものは本質的に感傷的である。大衆文学の作家は過去の人物を取扱うのがつねであるのも、これに関係するであろう。彼等と純文学の作家との差異は、彼等が現代の人物を同じように
感傷はたいていの場合マンネリズムに陥っている。
身体の外観が精神の状態と必ずしも一致しないことは、一見極めて頑丈な人間が甚だ感傷的である場合が存在することによって知られる。
旅は人を感傷的にするという。彼は動くことによって感傷的になるのであろうか。もしそうであるとすれば、私の最初の定義は間違っていることになる。だがそうではない。旅において人が感傷的になり
行動的な人間は感傷的でない。思想家は行動人としての如く思索しなければならぬ。勤勉が思想家の徳であるというのは、彼が感傷的になる誘惑の多いためである。
あらゆる物が
感傷には常に何等かの虚栄がある。
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思想が何であるかは、これを生活に対して考えてみると
考えるということは過程的に考えることである。過程的な思考であって方法的であることができる。しかるに思考が過程的であるのは仮説的に考えるからである。
仮説的に考えるということは論理的に考えるということと単純に同じではない。仮説は或る意味で論理よりも根源的であり、論理はむしろそこから出てくる。論理そのものが一つの仮説であるということもできるであろう。仮説は自己自身から論理を作り出す力をさえもっている。論理よりも不確実なものから論理が出てくるのである。論理も仮説を作り出すものと考えられる限りそれ自身仮説的なものと考えられねばならぬ。
すべて確実なものは不確実なものから出てくるのであって、その逆でないということは、深く考うべきことである。つまり確実なものは与えられたものでなくて形成されるものであり、仮説はこの形成的な力である。認識は模写でなくて形成である。精神は芸術家であり、鏡ではない。
しかし思想のみが仮説的であって、人生は仮説的でないのであろうか。人生も或る仮説的なものである。それが仮説的であるのは、それが虚無に
人生が仮説的なものであるとすれば、思想が人生に対して仮説的なものとして区別されるのと同じ仕方で、人生がそのものに対して仮説的なものとして区別される或るものがあるのでなければならぬ。
仮説が単に論理的なものでないことは、それが文学の思考などのうちにもあるということによって明かである。小説家の創作行動はただひとすじに彼の仮説を証明することである。人生が仮説の証明であるという意味はこれに類似している。仮説は少くともこの場合単なる
常識を思想から区別する最も重要な特徴は、常識には仮説的なところがないということである。
思想は仮説でなくて信念でなければならぬといわれるかも知れない。しかるに思想が信念でなければならぬということこそ、思想が仮説であることを示すものである。常識の場合にはことさら信仰は要らない、常識には仮説的なところがないからである。常識は既に或る信仰である、これに反して思想は信念にならねばならぬ。
すべての思想らしい思想はつねに極端なところをもっている。なぜならそれは仮説の追求であるから。これに対して常識のもっている大きな徳は中庸ということである。しかるに真の思想は行動に移すと生きるか死ぬるかといった性質をもっている。思想のこの危険な性質は、行動人は理解しているが、思想に従事する者においては
誤解を受けることが思想家のつねの運命のようになっているのは、世の中には彼の思想が一つの仮説であることを理解する者が少いためである。しかしその罪の一半はたいていの場合思想家自身にもあるのであって、彼自身その思想が仮説的なものであることを忘れるのである。それは彼の怠惰に依ることが多い。探求の続いている限り思想の仮説的性質は絶えず
折衷主義が思想として無力であるのは、そこでは仮説の純粋さが失われるためである。それは好むと好まないとに
仮説という思想は近代科学のもたらした恐らく最大の思想である。近代科学の実証性に対する誤解は、そのなかに含まれる仮説の精神を全く見逃したか、正しく把握しなかったところから生じた。かようにして実証主義は虚無主義に陥らねばならなかった。仮説の精神を知らないならば、実証主義は虚無主義に落ちてゆくのほかない。
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「人間は生れつき
その本性において虚栄的である人間は偽善的である。真理とは別に善があるのでないように、虚栄とは別に偽善があるのではない。善が真理と一つのものであることを理解した者であって偽善が何であるかを理解することができる。虚栄が人生に若干の効用をもっているように、偽善も人生に若干の効用をもっている。偽善が虚栄と本質的に同じものであることを理解しない者は、偽善に対する反感からと称して自分自身ひとつの虚栄の
ひとはただ他の人間に対する関係においてのみ偽善的になると考えるのは間違っている。偽善は虚栄であり、虚栄の実体は虚無である、そして虚無は人間の存在そのものである。あらゆる徳が本来自己におけるものであるように、あらゆる悪徳もまた本来自己におけるものである。その自己を忘れて、ただ他の人間、社会をのみ相手に考えるところから偽善者というものが生じる。それだから道徳の社会性というが
我々の誰が偽善的でないであろうか。虚栄は人間の存在の一般的性質である。偽善者が恐しいのは、彼が偽善的であるためであるというよりも、彼が意識的な人間であるためである。しかし彼が意識しているのは自己でなく、虚無でもなく、ただ他の人間、社会というものである。
虚無に根差す人生はフィクショナルなものである。人間の道徳もまたフィクショナルなものである。それだから偽善も存在し得るのであり、若干の効用をさえもち得るのである。しかるにフィクショナルなものは、それに
虚言の存在することが可能であるのは、あらゆる表現が真理として受取られる性質をそれ自身においてもっているためである。ものは表現されると我々に無関係になる。表現というものはそのように恐しいものである。恋をする人間は言葉というもの、表現というものが
絶えず他の人を相手に意識している偽善者が
多少とも権力を有する地位にある者に最も必要な徳は、阿る者と純真な人間とをひとめで識別する力である。これは小さいことではない。もし彼がこの徳をもっているなら、彼はあらゆる他の徳をもっていると認めても
「善く隠れる者は善く生きる」という言葉には、生活における深い
現代の道徳的
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生活を楽しむことを知らねばならぬ。「生活術」というのはそれ以外のものでない。それは技術であり、徳である。どこまでも物の中にいてしかも物に対して自律的であるということがあらゆる技術の本質である。生活の技術も同様である。どこまでも生活の中にいてしかも生活を超えることによって生活を楽しむということは可能になる。
娯楽という観念は恐らく近代的な観念である。それは機械技術の時代の産物であり、この時代のあらゆる特徴を
娯楽というものは、簡単に定義すると、他の仕方における生活である。この他とは何であるかが問題である。この他とは元来宗教的なものを意味していた。従って人間にとって娯楽は祭としてのみ可能であった。
かような観念が失われたとき、娯楽はただ単に、働いている時間に対する遊んでいる時間、
娯楽は生活の附加物であるかのように考えられるところから、それはまた断念されても
祭は他の秩序のもの、より高い秩序のものと結び附いている。しかるに生活と娯楽とは同じ秩序のものであるのに対立させられている。むしろ現代における秩序の思想の喪失がそれらの対立的に見られる根源である。
他の、より高い秩序から見ると、人生のあらゆる営みは、真面目な仕事も道楽も、すべて慰戯(divertissement)に過ぎないであろう。パスカルはそのように考えた。一度この思想にまで戻って考えることが、生活と娯楽という対立を
たとえば、自分の専門は娯楽でなく、娯楽というのは自分の専門以外のものである。画は画家にとっては娯楽でなく、会社員にとっては娯楽である。音楽は音楽家にとっては娯楽でなく、タイピストにとっては娯楽である。かようにしてあらゆる文化について、娯楽的な対し方というものが出来た。そこに現代の文化の堕落の一つの原因があるといえるであろう。
現代の教養の欠陥は、教養というものが娯楽の形式において求められることに基いている。専門は「生活」であって、教養は専門とは別のものであり、このものは結局娯楽であると思われているのである。
専門という見地から生活と娯楽が区別されるに従って、娯楽を専門とする者が生じた。彼にとってはもちろん娯楽は生活であって娯楽であることができぬ。そこに純粋な娯楽そのものが作られ、娯楽はいよいよ生活から離れてしまった。
娯楽を専門とする者が生じ、純粋な娯楽そのものが作られるに従って、一般の人々にとって娯楽は自分がそれを作るのに参加するものでなく、ただ外から見て享楽するものとなった。彼等が参加しているというのはただ、彼等が他の観衆とか聴衆の中に加わっているという意味である。祭が娯楽の
生活と娯楽とは区別されながら一つのものである。それらを抽象的に対立させるところから、娯楽についての、また生活についての、種々の間違った観念が生じている。
娯楽が生活になり生活が娯楽にならなければならない。生活と娯楽とが人格的統一に
娯楽が芸術になり、生活が芸術にならなければならない。生活の技術は生活の芸術でなければならぬ。
娯楽は生活の中にあって生活のスタイルを作るものである。娯楽は単に消費的、享受的なものでなく、生産的、創造的なものでなければならぬ。単に見ることによって楽しむのでなく、作ることによって楽しむことが大切である。
娯楽は他の仕方における生活として我々の平生使われていない器官や能力を働かせることによって教養となることができる。この場合もちろん娯楽はただ他の仕方における生活であって、生活の他のものであるのではない。
生活の他のものとしての娯楽という抽象的な観念が生じたのは近代技術が人間生活に及ぼした影響に
今日娯楽といわれるものの持っている唯一の意義は生理的なものである。「健全な娯楽」という合言葉がそれを示している。だから私は今日娯楽といわれるもののうち体操とスポーツだけは信用することができる。娯楽は衛生である。ただ、それは身体の衛生であるのみでなく、精神の衛生でもなければならぬ。そして身体の衛生が血液の運行を善くすることにある如く、精神の衛生は観念の運行を善くすることにある。凝結した観念が今日かくも多いということは、娯楽の意義とその方法がほんとに理解されていない証拠である。
生活を楽しむ者はリアリストでなければならぬ。しかしそのリアリズムは技術のリアリズムでなければならない。即ち生活の技術の
エピキュリアンというのは生活の芸術におけるディレッタントである。真に生活を楽しむ者はディレッタントとは区別される創造的な芸術家である。
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人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。このような人生を我々は運命と称している。もし一切が必然であるなら運命というものは考えられないであろう。だがもし一切が偶然であるなら運命というものはまた考えられないであろう。偶然のものが必然の、必然のものが偶然の意味をもっている
希望は運命の
人生は運命であるように、人生は希望である。運命的な存在である人間にとって生きていることは希望を持っていることである。
自分の希望はFという女と結婚することである。自分の希望はVという町に住むことである。自分の希望はPという地位を得ることである。等々。ひとはこのように語っている。しかし何故にそれが希望であるのか。それは欲望というものでないのか。目的というものでないのか。
それは運命だから絶望的だといわれる。しかるにそれは運命であるからこそ、そこにまた希望もあり得るのである。
希望を持つことはやがて失望することである、だから失望の苦しみを味いたくない者は初めから希望を持たないのが
たとえば失恋とは愛していないことであるか。もし彼或いは彼女がもはや全く愛していないとすれば、彼或いは彼女はもはや失恋の状態にあるのでなく既に他の状態に移っているのである。失望についても同じように考えることができるであろう。また実際、愛と希望との間には密接な関係がある。希望は愛によって生じ、愛は希望によって育てられる。
愛もまた運命ではないか。運命が必然として自己の力を現わすとき、愛も必然に縛られなければならぬ。かような運命から解放されるためには愛は希望と結び附かなければならない。
希望というものは生命の形成力以外の何物であるか。我々は生きている限り希望を持っているというのは、生きることが形成することであるためである。希望は生命の形成力であり、我々の存在は希望によって完成に達する。生命の形成力が希望であるというのは、この形成が無からの形成という意味をもっていることに
希望に生きる者はつねに若い。いな生命そのものが本質的に若さを意味している。
愛は私にあるのでも相手にあるのでもなく、いわばその間にある。間にあるというのは二人のいずれよりもまたその関係よりも根源的なものであるということである。それは二人が愛するときいわば第三のもの
絶望において自己を捨てることができず、希望において自己を持つことができぬということ、それは近代の主観的人間にとって特徴的な状態である。
自分の持っているものは失うことのできないものであるというのが人格主義の根本の論理である。しかしむしろその逆でなければならぬ。自分に依るのでなくどこまでも他から与えられるものである故に私はそれを失うことができないのである。近代の人格主義は主観主義となることによって解体しなければならなかった。
希望と現実とを混同してはならぬといわれる。たしかにその通りである。だが希望は不確かなものであるか。希望はつねに人生というものほどの確かさは持っている。
もし一切が保証されているならば希望というものはないであろう。しかし人間はつねにそれほど確実なものを求めているであろうか。あらゆる事柄に対して保証されることを欲する人間||ひとは戦争に対してさえ保険会社を設立する||も、
希望の確実性はイマジネーションの確実性と同じ性質のものである。生成するものの論理は固形体の論理とは異っている。
人生問題の解決の
希望が無限定なものであるかのように感じられるのは、それが限定する力そのものであるためである。
スピノザのいったように、あらゆる限定は否定である。断念することをほんとに知っている者のみがほんとに希望することができる。何物も断念することを欲しない者は真の希望を持つこともできぬ。
形成は断念であるということがゲーテの達した深い形而上学的
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ひとはさまざまの理由から旅に上るであろう。或る者は商用のために、他の者は視察のために、更に他の者は休養のために、また或る一人は
旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的な関係から逃れることである。旅の
漂泊の感情は或る運動の感情であって、旅は移動であることから生ずるといわれるであろう。それは確かに或る運動の感情である。けれども我々が旅の漂泊であることを身にしみて感じるのは、車に乗って動いている時ではなく、むしろ宿に落着いた時である。漂泊の感情は単なる運動の感情ではない。旅に出ることは日常の習慣的な、従って安定した関係を脱することであり、そのために生ずる不安から漂泊の感情が
何故に旅は遠いものであるか。未知のものに向ってゆくことである故に。日常の経験においても、知らない道を初めて歩く時には実際よりも遠く感じるものである。仮にすべてのことが全くよく知られているとしたなら、日常の通勤のようなものはあっても本質的に旅というべきものはないであろう。旅は未知のものに引かれてゆくことである。それだから旅には漂泊の感情が伴ってくる。旅においてはあらゆるものが既知であるということはあり得ないであろう。なぜなら、そこでは単に到着点
人生は旅、とはよくいわれることである。
既にいったように、ひとはしばしば解放されることを求めて旅に出る。旅は確かに彼を解放してくれるであろう。けれどもそれによって彼が真に自由になることができると考えるなら、間違いである。解放というのは或る物からの自由であり、このような自由は消極的な自由に過ぎない。旅に出ると、誰でも出来心になり
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個性の奥深い殿堂に
私は私のうちに無数の心像が果てしなく去来するのを意識する。私というものは私の
もし私というものが私のあらゆる運動と変化がその前で演じられる背景であるとすれば、それは実に奇怪で不気味な Unding であるといわねばならぬ。私はそれに
私もまた「万の心をもつ人」である。私は私の内部に絶えず
ひとは私に個性が無限な存在であることを教え、私もまたそう信じている。地球の中心というもののように単に一あって二ないものが個性ではない。一号、二号というように区別される客観的な個別性或いは他との比較の上での独自性をもっているものが個性であるのではない。個性とは
けれども私は時間を離れて個別化の原理を考え得るであろうか。個性というのは一回的なもの、繰返さないもののことではないであろうか。しかし私は単に時間的順序によってのみ区別されるメトロノームの相継いで鳴る一つ一つの音を個性と考えることを
時間は個性の
一様に推移し流下する黒い幕のような時の束縛と
しかしながら私は私が無限を体験すること即ち真に純粋になることが極めて
かようにして私は、個性が
哲学者は個性が無限な存在であることを次のように説明した。個性は宇宙の生ける鏡であって、一にして一切なる存在である。恰も相集まる直線が作る無限の角が会する単一な中心の如きものである。すべての個別的実体は神が全宇宙についてなした決意を表わしているのであって、一個の個性は全世界の意味を唯一の仕方で現実化し表現するミクロコスモスである。個性は自己自身のうちに他との無限の関係を含みつつしかも全体の中において占めるならびなき位置によって個性なのである。しからば私は如何にして全宇宙と無限の関係に立つのであるか。この世に生を享けた、または享けつつある、または享けんとする無数の同胞の中で、時空と因果とに束縛されたものとして私の知り得る人間はまことに少いではないか。この少数の人間についてさえ、彼等のすべてと絶えず交渉することは、私を人間嫌いにしてしまうであろう、私はむしろ孤独を求める。しかしながらひとは
しからば私は哲学者が教えたように神の予定調和にあって他との無限の関係に入っているのであろうか。私は神の意志決定に制約されて全世界と不変の規則的関係に立っているのでもあろうか。しからば私は一つの必然に機械的に従っているのであり、私の価値は私自身にではなく私を超えて普遍的なものに依存しているのではないか。私はむしろ自由を求める。そして私がほんとに自由であることができるのは、私が理智の細工や感情の遊戯や欲望の打算を捨てて純粋に創造的になったときである。かような孤独とかような創造とのうちに深く潜み入るとき、詩人が“Voll milden Ernsts, in thatenreicher Stille”と歌った時間において、私は宇宙と無限の関係に立ち、一切の魂と美しい調和に抱き合うのではないであろうか。なぜならそのとき私はどのような無限のものもその中では与えられない時間的世界を超越して、宇宙の創造の中心に自己の中心を横たえているのであるから。自由な存在即ち一個の文化人としてのみ私は、いわゆる社会の中で活動するにせよしないにせよ、全宇宙と無限の関係に入るのである。かようにしてまた個性の唯一性はそれが全体の自然の中で占める位置の唯一性に存するのではなく、本質的にはそれが全体の文化の中で課せられている任務の唯一性に基礎附けられるものであることを私は知るのである。
個性を理解しようと欲する者は無限のこころを知らねばならぬ。無限のこころを知ろうと思う者は愛のこころを知らねばならない。愛とは創造であり、創造とは対象に
自己を知ることはやがて他人を知ることである。私達が私達の魂がみずから達した高さに応じて、私達の周囲に次第に多くの個性を発見してゆく。自己に対して盲目な人の見る世界はただ一様の灰色である。自己の魂をまたたきせざる眼をもって凝視し得た人の前には、一切のものが光と色との美しい交錯において
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この書物はその性質上序文を必要としないであろう。ただ簡単にその成立について後記しておけば足りる。このノートは、「旅について」の一篇を除き、昭和十三年六月以来『文学界』に掲載されてきたものである。もちろんこれで終るべき性質のものでなく、ただ出版者の希望に従って今までの分を一冊に
附録とした「個性について」(一九二〇年五月)という一篇は、大学卒業の直前『哲学研究』に掲載したものであって、私が
昭和十六(一九四一)年六月二日
三木 清