一
一九一七年に、世界は一つの新しい伝説を得た。「ロシア革命」。当時、そのロシアに住んでいた者は、物心づいた子供から、
レオニード・グレゴリウィッチ・ジェルテルスキーはやっと商業学校を出たばかりの青年であった。彼の父親は小さい町の工業家で、革命の時、理由あってか、多くの間違いのうちの一つの間違いによってか殺されて、河の氷の下へ突込まれた。ジェルテルスキーは、それから、母親を五日鶏の箱へ詰めた経験、真直自分の額に向けられた拳銃の筒口を張り飛したので、
一九二九年、ジェルテルスキーは彼の東京で二度目の冬を迎えた。勤めている或る週刊新聞社は、赤坂の電車通りに面して建っていた。水色のペンキで羽目板を塗り、白で枠を取った二階建ての粗末なバラックであった。階下が発送部で、階上が編輯室だ。誰かが少し無遠慮に階段を下りると、室じゅうが震えるその二階の一つの机、一台のタイプライターを、ジェルテルスキーは全力をつくして手に入れたのであった。
薄曇りの午後、強い風が吹くごとに煙幕のような砂塵が往来に立った。窓
「フッ! 何という
「||············」
誰も返事しなかった。編輯員の一人は、片手で髭を引っぱりながら熱心に露文和訳をしていた。向いの机で、邦字新聞から経済記事を他の一人が抄訳している。黒ビロードのルパシカを着たジェルテルスキーは、最も窓に近い卓子で露字新聞を読んでいた。彼は、社長の独言から、何という埃だ。利かないもんかな、などと云う言葉を理解した。小心なジェルテルスキーはその場合、一番彼に近くいる位置の関係から云っても、何とか一言親しみある言葉を与えたかった。然し、彼には適当な日本語が見つからない。||つまり彼も黙って、タイプライターを打ち始めた。
「最近地方図書館は著しき発達を遂げた。現在に於て地方図書館の数は六千五百を数えられている」
外の往来をトラックが通るひどい音がし、ブルルル新聞社の建物全体が震動した。一人が思い出したように立って、室の隅の水道栓のところで
階子口のところへ、給仕娘の顔が出た。
「ジェルテルスキーさん、御面会ですよ」
「だれです?」
「御婦人の方がお二人で下に待っていらっしゃいます」
ジェルテルスキーは長い椅子からたちながら、金髪をかき上げ、水のような
「来ます?」
「ええ直ぐいらっしゃいます」
腰をかがめてその声の方を覗き、ジェルテルスキーは意外さと漠然とした当惑とで、
「おお」
蒼白い顔を少し
「ああ、レオニード・グレゴリウィッチ! お目にかかれて何て仕合せだったんでしょう。さ、どうか早く下りて来て私共の相談相手になって下さい」
交際で、ジェルテルスキーはもうブーキン夫人を取扱うこつを心得ていた。彼は、内気そうな、同時に頑固そうなところもある微笑を浮べながら、先ず黙って、さし出された対手の手を握った。
「いかがです」
次に彼は、
「ねえ、レオニード・グレゴリウィッチ、マリーナ・イワーノヴナが何ともお気の毒なことになりましてね、私、御相談を受けて友達甲斐にお見捨てすること出来なくなったんですよ、マリーナ・イワーノヴナ、よくレオニード・グレゴリウィッチに事情をお話しなさいませよ、若い人の心は寛大だから、きっと貴女の御満足の行くように計らってお貰いになれますよ」
発送掛の小僧や事務員、さっきの給仕娘まで今は一斉に仕事をやめ、深い好奇心に輝いて、ジェルテルスキー自身にもまだ訳の分らない話を眺めている。彼は、
「失礼ですが、此方に椅子がありますから」
と、二人の女を応接間に通した。がらんとした白壁の裾には、荒繩で束った日露時報の返品が塵にまみれて積んである。
「レオニード・グレゴリウィッチ、どうか貴方、可哀そうなマリーナ・イワーノヴナの忠実な騎士になって上げて下さい、ね、お拒みなさりはしませんわね」
ジェルテルスキーは、黒い洋袴を
「
「まあ本当に! 私、いつも熱中するとこうなんですの、そしては宅に
何故この夫人ばかりは、ナデージュタ・ペトローヴナと呼ばれず、マダム・ブーキンと云うのか誰も理由を知らなかった。
彼女は名刺にマダム・ブーキンと刷らせた。ジェルテルスキーが、上海で始めて彼女に紹介された時、彼女は、何か特種な称号でも云うように、
「ええ、私マダム・ブーキンと申しますの、どうぞよろしく」
と紅をさした頬で
非常に豊富な間投詞と詠歎との間からジェルテルスキーが得た知識は、マリーナ・イワーノヴナが、夫のエーゴル・マクシモヴィッチと激しい夫婦喧嘩をしたこと、その原因はエーゴル・マクシモヴィッチがマリーナから借りて返さない三百円の金にあること、もう二度と帰らない決心で家を飛び出して来たと云う事実であった。
「もう絶望のどん底で私のところへ今朝いらっしったんですの、一緒に泣いてしまいましたわ。ねえ、マリーナ・イワーノヴナ、私も女ですよ、あなたの辛いお心がひとごととは思えませんわ。||それでね、レオニード・グレゴリーウィッチ、お願いと申しますのはね、あなた当分、この不幸な方を保護して上げて下さいませんこと?」
ジェルテルスキーは、
「私の力にかなうことなら
が、そう云い終ると同時に、彼の艶のない白っぽい眉毛の生えた額際を我にもあらず薄赧くした。たった一間しかない住居のこと、彼の
彼が赧くなると、マダム・ブーキンも一寸上気しながら、大仰に吐息をついた。
「私、出来ることなら切角来て下すったんですもの、家へ幾日でもいていただきたいと思いますわ。どんなにまた仕合せにおなりになるまで、傍にいて慰めてお上げしたいでしょう。||でも······」
マダム・ブーキンは若い娘のような身振りで膝の上に擦れた手提袋の紐を引っぱった。
「ああ、みんな元のようではないんですものね、それに私のところには小さいものもいますし||」
ジェルテルスキーは、これまで下手にばかり自分の身を置いてつき合って来た二人の年長の女たちの間に挾まれ、進退
マリーナ・イワーノヴナは、殆ど一口も物を云わないでかけていた。物を云ったら太った体じゅうの悲しみと絶望が爆発するのを恐れて唇を結んでいるようであった。ただ、目をはなさずジェルテルスキーの顔を見守った。何とつよく見ることだ。充血した二つの目と蒼黄色く荒れた二つの頬とで、彼女は答を待っている。||マダム・ブーキンもすべて云うだけの事は云ってしまった。そして、彼の口許を見た。||ジェルテルスキーは、そのように押しづよい女の四つの目で見つめられる自分の口許に髭の無いことが、変に気になった程、沈黙は脅威的であった。彼は遂に、
「では
と云った。
「ダーリヤ・パヴロヴナに一度都合をきいて見ませんとどうも||若し彼女にさしつかえないようだったら、勿論私共は悦んでお宿致します」
マダム・ブーキンはちらりと素早い
二
数ヵ月のうちに母親になろうとする体のダーリヤ・パヴロヴナは、狭い部屋の中を
往来に面した窓の外を、ここでも今日は砂塵が、硝子を曇らして舞い過ぎた。ダーリヤは自分独りの時は石油ストウブを
||二十度近くも室内散歩を繰返えすと、ダーリヤは、窓の前の卓子へ戻った。その辺の畳へ、細かい羅紗の裁ち屑が沢山散らばっていた。彼女はさっきまで子供外套の裁断をしていたのだ。産科医の注意で、彼女は一日のうちに幾度かそうやって、かけていれば立って歩く、たっていればかける、或は体を長くのばして横わる。いろいろ姿勢をかえる必要があるのであった。それが書き物机にもなるし食卓にもなる机から布をかたづけているうちに、ダーリヤは少し疲れを覚えた。頬杖をつく。||風が吹きすぎる毎に思わず
「神よ、護り給え||」
然し、愛するリョーニャと自分の可愛い可愛い子と三人の暮し、その行末||その先の行末||。ダーリヤの妻から母になろうとする若い胸には、こう考えて来ると、いつも、永久に消え去る一条の煙の果を眺めるような
彼女は敦賀行汽船の最低甲板から海を眺めていた。海はあの埃をかぶったスレート屋根の色をしていた。タブ······タブ······
ダーリヤの、どこまでも続く思い出を突然断ち切るように、階下で風に煽られたように入口が開いた。
「あら、これ、家の娘さんですの、悧口そうな眼つきだこと······何ていう名なのお前さん」
「我々の言葉を理解しないんですよ、ちっとも」
レオニード・グレゴリウィッチのそれは声だ。ダーリヤは、いそいで階子口の襖をあけて下を覗いた。ブーキン夫人が真先に靴をぬいで階段に足をかけ、彼女に向って身振沢山に手を振った。
「おお、おお、あなたは本当に仕合せものよ、可愛いダーシェンカ! こんな天気に外を歩いて来て御覧なさい」
次いで、マリーナ・イワーノヴナ、最後にジェルテルスキーの長い脚が、左右、左右、階段の上に隠れるのを見届けると、下の小さい娘は自分達の部屋へかけ込み、息を殺して、
「お婆ちゃん、三人、異人さん」
と報告した。
三
長火鉢をはさんで
「だからさ、そりゃ私みのるさんの覚悟が悪いって云ったのさ。義理にもせよ阿母さんだと思えばこそ、善ちゃんが自分の稼ぎで寒いめもさせないんだからね。孫の看病位お前······」
「おばあちゃん!」
うめは、祖母の黒繻子の
「三人ですってば、異人さん」
「分りましたとさ」
長火鉢の向う側から、志津が云った。
「いい門番さんがいるのねえ、おばあさんとこ」
せきは、長火鉢の縁で
「おかしな子ったらないのさ、異人さん異人さんって大騒ぎさ。もうちっと大きかったらとんだ苦労だ」
「ふふふ、まさか!||珍しいんだわねえ、うめ坊」
うめは、祖母の横に坐り、上眼づかいで伯母を見上げながら、にっとはにかみ笑いをした。おかっぱで、元禄の被布を着て、うめは器量の悪い娘ではなかったが、誰からも本当に可愛がられることのない娘であった。蒼白い顔色や、変にませた言葉づかいが、育たないうちにしなびた大人のような印象を与えた。年寄りの祖母に、遊び仲間もなく育てられているうちに、うめは、六つで、もう年寄りになりかけているのであった。志津は、甘えて横座りしているうめを愛情と焦立たしさの混った眼で眺めながら、
「うめちゃん、何て名? お二階の異人さん」
と訊いた。
「ジェリさん」
「||本当? お菓子みたいな名なんだねえ」
「違うんだよ、ジェル何とか云うんだそうだけえど、あんな長い名覚えられるもんじゃあない、名なんぞ呼ぶ用がありゃしないよ」
「||二階に人がいると、でも淋しくなくっていいわ。そろそろ下駄片づけちゃどう」
せきは、薄い苦笑いを洩らした。いつか志津が遊びに来た時、
「まあ、どうしたのあの上り口の下駄ったら、何人家内です、こちらさん」
と云ったことがあった。するとうめが、とても声をひそめて伯母に説明してきかせた。
「あの下駄はね、本当は誰にも云っちゃいけないんですけれどね、わざと置いとくの。うち、おばあちゃんとうめだけで不用心だから」
志津は、田丸屋のかき餅をつまみながら、
「いくらで貸してるの」
と尋ねた。
「二十四円さ」
「おばあさん一人のお小遣いだもん結構だわ」
暫く黙っていたが、せきは
「作も仕様のない人間さ」
と呟いた。仕事の為とは云いながら、小さい孫を押しつけて旅先に暮らすことの多い作造に不満を抱いているのだろうと志津は思った。全く、婆さんだけの家というのは、何故変に湿っぽいようで、線香のような
「作さんも、おかみさん貰えばいいのに||」
「ふん||何してるんだか||なに、この家だって、第一変てこれんな洋館まがいになんかしないで、小気の利いた日本間にしといて御覧、いくらバラックだって、この界隈のこったもの、女一人位のいい借り手がつくのさ。||仕様がありゃしない、半年も札下げとくの、第一外聞が悪いやね」
「だって書生さんなんかより異人さんの方がよかないの、金廻りがいいそうだもの」
せきは、
「どうして!」
と、顔じゅう顰めて首を振った。
「とてもだよ。出たり入ったりにうめの顔飽きる程見てたって、キャラメル一つ買って来るじゃないからね」
間をおき、更に云った。
「第一、気心が知れやしない」
志津は、
「ほーら、そろそろおばあさんの第一が始まった」と笑った。
「本当だよ、嘘だと思ったら見て御覧、我々なら大抵まあその人の眼つきを見りゃ、腹で何思ってるか位、
「ふふふふ、おかしなおばあさん、二階で
「ちょっと! 来ますよ」
と警告した。成程、誰かが階子を一段ずつ念入りに降りて来る
「ふふふふ······」
婆さんも釣込まれて薄笑いしながら、新しい煙草をつめ始めた。うめは、障子の隙間から板敷を覗いている。その後姿を見、志津はやがて、
「あーあ」
小さい
「もう何時?」
と云った。
「日が短い最中だね、四時一寸廻った頃だろう」
うめが、二人の前に顔をさしつけて、
「女の異人さんですよ、よその」
と云った。が、誰も答えず、志津が、立ち上って腰紐を締めなおしながら、
「どう、おばあさんお
と云った。せきは、上の空で、
「そうさねえ」
と応じながら、熱心に志津の八反の着物や、藤紫の半襟を下から見上げた。
「||その着物、さらだね」
「おばあさんにゃ、十度目でもさらだから始末がいいわ||ね、本当にどうする? 私これからかえったって仕様がないから、冷たくってよかったらお鮨でも食べようじゃないの」
「いつもお前にばっかり散財かけてすまないようだね」
「水臭いの。||じゃ一寸云って来るわよ」
ごたごた、主のない下駄まで並んでいる上り口で、自分の草履をはきながら、志津は珍らしそうに、そこにぬいである女靴を眺めた。
「まあ、細い靴、よくあの体でこんな靴はけるもんね」
「子供んちから締めてあるのさ||見かけばかりでは仕様がありゃしないよ」
せきは、軽蔑するように囁いた。
「はばかりから出ても手を洗うこと一つ知らないんだからね」
「||······いい塩梅に風が落ちた······」襟巻をきゅっと引きつけ志津は街燈のついた往来へ出て行った。
四
明るい冬の日光が窓からさし込んで室内に流れた。土曜日だ。もう往来で遊んでいる子供の声が、彼等の二階まで聞えた。ダーリヤ・パヴロヴナはゆったり長い膝の上に布をたぐめて、縁とりをしている。向い側に、髪をもしゃもしゃにしたままのマリーナ・イワーノヴナが茶色のスウェタアに包まれ、頬杖をついてダーリヤの指先の動きを眺めていた。彼女の前に、白と桃色の毛糸で編みかけの嬰児帽が放り出してある。彼女がこの二階に来てから五日経った。ダーリヤも、マリーナも、その五日を実にはっきり数えて過して来たのだ。||
「アーニャ、何ぐずぐずしているんだろう」
マリーナが、その日何度目かにぶつぶつ云い出した。
「あの
ダーリヤは落付いた調子で答えた。
「子供ですものまだ何と云ったって||でも本当に年より役に立っていますわ」
マリーナは朝から、養女のアーニャが麻布の夫の家から使に来るのを待っているのであった。
「私に充分正当の理由のある衝突でこうやっているのに、
彼女は、自分のところへ来た注文はどんな小さいものでも、洩れなくアーニャにダーリヤの二階まで運ばせた。彼等夫婦の間には他人の理解出来ない特別の諒解があると見え、そんな持続的の喧嘩をしつつ、エーゴル・マクシモヴィッチの方も、妻の稼ぎに対しては咳払い一つしないらしかった。そんなことは、ダーリヤの常識には変に思えた。喧嘩が本気なのかどうか疑わしい心持になった。マリーナにとっても、夫のそういう態度は不満であった。自分一人の口過ぎさえしていれば、エーゴル・マクシモヴィッチにとって自分はどこに暮していようとかまわない存在なのか。三百円返す気はないのか。異様な不安が、彼女の厚い、ややじだらくな胸を掻き廻すのであった。ダーリヤは、彼女の自信のない心の底を見透して、或る時は哀れに、或る時は若い女らしい皮肉を感じた。けれども、何も見ないつもりにしている。マリーナも、それについては沈黙を守っている。騒ぎやのマリーナ・イワーノヴナに対して、ダーリヤは
ダーリヤが、縁取りの三分の二も進んだ頃、やっと下で、
「
と呼ぶ、アーニャの細い、神経質な声がした。
「やっと来た!」
ずしり、ずしり降りてゆき、マリーナが、
「迷児にでもなったんだろう? 馬鹿だから······ふーむ、まあいい、いい。||それで?」
切れ切れに云う声が聞える。突然彼女は大声で笑い出した。
「ハハハハ何ておかしいんだろう! ダーシェンカ! まあ一寸来てこの様子を御覧」
その叫びで、十三の痩せて
「とんだお嬢さんだね、ハハハハハ貴女の親切な叔父さんが似合うと仰云いましたか?」
例によって、入口が開くと同時に顔を出したうめが、階子のかげから異常な注意をあつめて、この光景を観ていた。アーニャの色艶のない小さい顔が泣きそうに赧くなる。元通りそれが白くなる。やがて、片脚をひょこりと後に引く辞儀をして土間から出て行く迄、うめは動物的な好奇心とぼんやりした敵意とを感じながら見守った。
「どうでした?」
マリーナは答えのかわりに、両腕を開いて見せた。当にしていた注文が流れたのであった。彼女は、元の椅子にかけた。が、
「あああ」大きな吐息をついた。
「あんたなんぞ本当に仕合せだわ、ねえ、ダーシェンカ、ちゃんとリョーナにたよって暮していられるんだもの。私なんぞ
「だって||貴女お金持じゃありませんか」
何心なく云ったダーリヤの言葉は、思いがけない反響を呼び起した。マリーナは、
「ね、
心臓でも
「どうか私がただの
ダーリヤは唐突真情を吐露された間の悪さと一緒に少なからず心を動かされた。
「それは、マリーナ、あなたにはあなたの十字架があるのはお察ししています」
マリーナは嬉しそうにダーリヤを見て合点合点をした。
「本当にそうよ、十字架!||ね、ダーシェンカ、あなたにはまだまだ私位の年になった女がどんな恐しい心持で将来を見るか想像も出来やしないわ。保護して呉れる国もない、若さもない、夫もない。||エーゴルは、死んだって、生きかえった時を心配して墓まで金を縫い込んだ
ダーリヤは思わず優しく静脈の浮き上った指先の短いマリーナの手を撫でた。
「きっと今にエーゴル・マクシモヴィッチはお返しなさいますよ、ただ約束の日にかえせなかったというだけですよ」
「||エーゴル・マクシモヴィッチは、どうしてああ慾張りなんでしょうねえ、私が殺すと思ってこわがるなんて||ダーシェンカ、あのひとは、アーニャに飲ませてからでなけりゃ
それは、エーゴル・マクシモヴィッチの家庭を知っている者の間に評判の事実であった。
五
「エーゴル・マクシモヴィッチだって、元からあんなではなかったのにねえ」
マリーナは、追想に堪えぬように云った。
「私共だって、あんた方のように若い気軽な夫婦だった事もあるのよ、ダーシェンカ。大きな
マリーナの、下瞼の
「世の中のことは、何だって訳なしに起るもんじゃないから、店位とられたことは私も諦めますさ、自分の知らない罪で雷に打たれて死ぬ人さえあるんだものね。でも、私たった一つ諦められないのは、エーゴルをあんな恐しい男にしてしまってくれたことよ、ダーシェンカ。······元を知っている私にはやっぱり離れられない······私共はね、ダーリヤ・パヴロヴナ、二十二年一緒に暮して来たんですよ······」
しんみりしたマリーナの話をきいているうちに、ダーリヤはこれまで知らなかった深い悲しみがマリーナの心にあるのを知った。彼女はそうとも知らず他の友達と茶をのみながら、
「さ、アーニャ、お前のみなさい」
「はい、叔父さん」
エーゴル・マクシモヴィッチと哀れな姪の真似をして大笑いした自分達を
「マリーナ・イワーノヴナ、だあれもあなたがそんなに悲しい方だとは知らないでしょう、きっと。||若し、私、あなたに思いやりのないことをしていたら許して下さいね」
マリーナは、合点合点をし、ダーリヤの
「可愛いダーシェンカ、あんたは優しいいい娘さんですよ、||どうか立派な児供が生れますように」
妊娠のために感じ易くなっているダーリヤはマリーナを
三時過て、レオニード・グレゴリウィッチは勤め先から帰って来た。先ず帽子を脱ぎ、マリーナ・イワーノヴナに挨拶をし、彼は、ダーリヤの手ミシンの蓋をはずして畳に立て、
「どうです? 何か面白いことでもありまして?」
金髪をかき上げながら、ジェルテルスキーは喉音で、
「なんにも。毎日同じ顔||同じ仕事です」
と答えた。彼は妻だけであったら、その後へ、
「相変らず碌なことはない」
とつけ加えたかったのを堪えたのだ。今日、昼食を食べて煙草を吸っていると、不意に松崎が上って来た。
「やあ、どうです、やってますね」
編輯員の誰彼に愛嬌を振りまきつつ、彼はジェルテルスキーの机の横へ椅子を引張って来た。
「大分暖いですね、今日は。奥さんお達者ですか? 一寸通りかかったもんで、どうしていられるかと思ってね」
松崎はちらちらジェルテルスキーがタイプライターで打ちかけている草稿を覗いたり、積みかさねてある新着の露字新聞を引き出して目を通したりしていたが、
「ああ、近頃何でもルイコフ君の細君が貴方のところへ行っているそうじゃありませんか」
と云った。彼は、全体小柄で丸い胴の上にのっている健康らしい顔に、他意なさそうな笑いを
「一体どうしたんです? ルイコフ君迎えにも来ないんですか?」
「······マリーナ・イワーノヴナが考えている程に重大に思っていないんでしょう。大方」
「へえ||何でそんなに衝突したんです? ルイコフ君、浮気でも始めたかなハハハハ」
ジェルテルスキーは、聞き手がもうすっかり知り抜いているに違いないのに、改めて、極めて自然に質問するので、礼儀上からでもそれに答えなければならない不愉快を忍びつつ、大略を話した。猫背に見える程ベルトを高いところで締めたアメリカ型の外套を着たまま椅子にかけている松崎は、陽気にふき出した。
「なあーんだ! ハッハッ愚にもつかないことでいい年をしながら
「大変です、寝床低い、それだけ石油沢山いります」
日本語で云って、ジェルテルスキーは額を赧らめ、内気に笑った。マリーナが来てから、寝台を二人の女に譲って、彼は畳の上で寝ていた。布という布をかけても、冬のとっつきの寒さで眼が覚めた。誰が代を払えるのか当のつかない石油がそれ故夜
「いつまで置くんです?」
「さあ||今に帰るでしょう」
「どうも、何だな、そういう点が日本の女と外国の女との偉い違いだな、君、日本の女だったら自分の夫に立て替えた金が返らないって、友達の家へころげこむ者は無いですよ、それに、置いてやるものもまあ無いね、私だったら、どやしつけて帰してやる。ハッハッハッハ、君は、義侠心が豊富だとでも云うのかなハハハハ」
「||私は頼まれると断れない気質です||弱い||気が小さいです」
||外事課高等掛を友人に持つというのは、然し、何と
ダーリヤが、ビスケットの皿や砂糖を卓子に出すのを眺めながら、ジェルテルスキーは、
「今日、松崎さんが来たよ」
と云った。
「へえ||」
「うるさいこと!」
マリーナ・イワーノヴナが、大仰に顔を顰め、両手をひろげた。
「もう私がこちらにいることでも嗅ぎつけたんですよ」
六
三人は茶を飲み始めた。
「リョーニャ、明日お休み?」
「ああ」
「二週間ぶりね」
マリーナは黙って砂糖をかきまぜ、その
「ああどうも有難う。||この頃の新聞は電報みたいですね、略字で端から端まで一杯だ」
マリーナは、それを拡げた。ダーリヤは、ゆるやかな紅がちな縞の部屋着姿で、卓子にゆったり両肱をのせ二杯目の茶を
皆が飲み終る頃、二階じゅうを揺り動かして、羅紗売りのステパン・ステパノヴィッチが、巨大な、髭むしゃ顔を現わした。
それを見るといきなり、マリーナ・イワーノヴナが飛びかかるように、
「いかがです、貴下の五十三人目の恋人の御機嫌は」
と云って笑い出した。
「いや、どうも||マダム。||いつも貴女のお口は鋭い」
ステパン・ステパノヴィッチは、先ずダーリヤの手を執ってその甲に
彼は絶えずけちな情事ばかり追い廻していると云うので、皆の物笑いになっている独り者の男であった。羅紗を売るのを口実にして、よその細君のところへ入り込むことも有名だ。マリーナ・イワーノヴナは、彼がどんな女にでも惚れるのを馬鹿にしながら、憎んでいないのは明らかであった。彼女の浮々した毒舌に黙って微笑しつつ、ダーリヤは、新しく来た客のために茶を注ぎ、寝台の上へ引込んだ。彼女は、自分の前で
「ねえ、ステパン・ステパノヴィッチ、この頃、どなたか、私共の仲間の奥さんにお会いでしたか」
「一昨日、マダム・ブーキンにお目にかかりました||いつも美しい方だ||実に若やかな夫人です」
マリーナは肱で、ダーリヤの横腹を突いた。
「あの方は一遍、活動写真に映されてから、御自分の美しさに急に気がつきなすったんですよ」
一つの角砂糖を噛んでステパン・ステパノヴィッチは三杯の茶を干した。
「ああ結構でした」
彼は、ジェルテルスキーに向って頭を下げながら何か小さい声で云った。するとジェルテルスキーは、例の手つきで髪をかき上げ、間の悪い曖昧な笑いを浮べてちらりと妻の方を見た。マリーナが忽ちそれを捕えた。
「え? 何ですって? ステパン・ステパノヴィッチ、古いキャベジがいるからお茶が
「まるで反対です、美しい夫人がたとこの幸福な御家庭に祝福あれと云ったのです。然し、神はこの頃の流行でないから小さい声で云わなければなりません」
ステパン・ステパノヴィッチは暫くもずもずしていたが、軈てジェルテルスキーを引っぱって台所へ入って行った。
「何だろう、え? 何だろう」
立って覗きそうにするマリーナを、ダーリヤは苦々しげに止めた。
「あとで、リョーニャが話してくれますよ」
障子の彼方側の板の間で、石油鑵に足をぶつけながら、ひどく恐縮してステパンが上衣の内
「||実に恐縮です、実に厚かましい願いですが、今朝この手紙を受けとったまま悲しいことに読めません。貴下にすがって一つ読んでいただくわけには行きますまいか」
ジェルテルスキーは、意外な秘密に引きこまれる苦笑を洩しながら手を出した。封筒は桃色で四つ葉のクローヴァの模様が緑色で浮き出している。ジェルテルスキーはその模様を指した。ステパンは髭面を動かして
「オナツカシキペテロフサマ、
ソノゴオカワリモアリマセンカ、ユウベ、マテイタノニキテクダサイマセン、ナゼデスカ、シドイシト、ワタシノココロモシラナイデ。アナタ、ホントニアタシガカワイイナラ、コノテガミツキシダイ、ヨルノ七時マデニ、イツモノトコロヘキテチョウダイ、キット、キットヨ、デワ サヨナラ
コイシキコイシキソノゴオカワリモアリマセンカ、ユウベ、マテイタノニキテクダサイマセン、ナゼデスカ、シドイシト、ワタシノココロモシラナイデ。アナタ、ホントニアタシガカワイイナラ、コノテガミツキシダイ、ヨルノ七時マデニ、イツモノトコロヘキテチョウダイ、キット、キットヨ、デワ サヨナラ
ペテロフサマ シブヤにて
アナタノトヨ子
」
それは、いかにも滅多に手紙など書く必要のない女の字であった。それも長いことかかってひどい万年筆で書いたと見え、桃色の、やはり四つ葉のクローヴァのついた書簡箋が、ところどころ皺になってさえいる。ジェルテルスキーの読む間、心配を面に表わして待っていたステパンは、

「レオニード・グレゴリウィッチ、どうぞこのことだけは誰にも云わないで下さい。||実に馬鹿気たことだ。私のようなこんな男が今更若い娘に夢中になるなんて||実に馬鹿気たことです! けれども、レオニード・グレゴリウィッチ、我々は、キリストを追放しつつレーニンの肖像を祭る。私にもマドンナがいる||マドンナ······ね、貴下は私の心がわかって下さる」
ジェルテルスキーは、自分にぴったり喰いついて熱心に光っているステパンの眼をさけるようにして頷き、境の障子をあけた。彼はステパンをどう扱ってよいか決心がつかず、いつも自分が彼とは全くかけはなれた者だと対手に思わせるような態度をとるのであった。
寝る前、マリーナが
「リョーニャ、月曜日に行けたらエーゴル・マクシモヴィッチのところへ行ってらっしゃいよ、ね?」
七
ジェルテルスキーの二階から、ギターとマンドリンの合奏が聞えている。マリーナは、寝台の上で膝に肱をつきその手で頭を支えながら、陰気にマンドリンを弾くエーゴル・マクシモヴィッチを眺めていた。卓子は室の中央へ引出されて、上にパンや、腸詰、イクラを盛った皿が出ていた。底にぽっちり葡萄酒の入っている醤油の一升瓶がじかに傍の畳へ置いてある。ルイコフが、彼のマンドリンと一緒に下げて来たものだ。ルイコフとマリーナはさっき大論判をしたところであった。栗色の髪の薄禿げた、キーキー声を出すエーゴルは、ジェルテルスキーの言葉で、妻を迎えに来たのであった。
「レオニード・グレゴリウィッチにもお気の毒だから、一先ずお帰り、||これこの通り、
エーゴルはジェルテルスキー夫婦の前で卓子の端から端へ十円札を十五枚並べた。
「いやです、あんたのてですよ、誰がだまされるもんか、これだけで、あと半分はふいにしようと云うんです」
「返す、きっと来月中にはかえす」
「じゃそれまで待ちましょう。本当に、
「じゃあ、どうでもするがいい」
エーゴルは憤ってマンドリンをとり上げ、彼の声のように甲高な
「さ! レオニード・グレゴリウィッチ、久しぶりでどうです」
ジェルテルスキーは、戸棚からギターを出し一つ一つの響きを貪欲にたのしみながら調子を合わせ始めた。間に、エーゴルは妻に向って呟いた。
「あとの責任は私の知ったことじゃないぞ」
マリーナが、夫の意味を諒解して、はっとする間もなく、
「さ一つ『雪の野はただ一面』」
雪の野はただ一面白い······白い
灰色の遠い空の下まで。
||灰色の遠い空の下まで······
ボロン、ボロン、ギターの音の裡から、身震いするように悲しげなマンドリンの旋律が、安葡萄酒と石油ストウブの匂いとで暖められた狭い室内を流れた。
私はきのう窓から見た
一人の旅人が、黒く行く姿を
足跡が深く雪に
階下の六畳では、
長く引っぱって呻くように唄う言葉は分らないが、震えながら身を揉むようなマンドリンの音と、愁わしげに優しい低い音で絡み合うギターの響は、せきの
「全くやんなっちゃうねえ」
思案に暮れた
「全くやんなっちゃう」
今日風呂へ行くと、八百友の女房が来ていた。世間話の末、
「おばさんところの異人さん、いつお産です? なかなかこれで二階をお貸しなさるのもお世話ですねえ」
そう云われた時、せきは自分の耳を信じられなかった。
「え?」
「あの様子じゃいずれ近々お目出度でしょうねえ。||でも西洋人の赤坊、キューピーさんみたいで可愛いそうだから、おばさん却ってお慰みかもしれませんよ」
せきは、自分の
||けれども、せきの困るのはここであった。どうして体よく追い払おう。せきは、始めて言葉の通じない不便を痛感した。日本語でなら、うまく気を損ねないように何とでも云う法がある。男の異人の眼の碧さ、あの通り碧い眼をして、ひよめきをヒクヒクさせるだろう赤児を思うと、せきは異様な恐怖さえ感じるのであった。
もう締めて横になろうとした時、計らず一つ妙案が浮んだ。自分の家の物干だあもの、洗濯物の金盥を持って、水口から登ろうと、二階から出ようと誰に苦情を云われる義理はない訳ではないか。
二階から聞えて来る合奏は、いつか節がかわった。葡萄酒が少し廻って来たジェルテルスキーとエーゴルは、互の楽器から溢れる響に心を奪われ、我を忘れてマズルカを弾いていた。ダーリヤとマリーナの頬は燃えた。二人の女は寝台に並び、足拍子を踏みつつ、つよく情熱的に肩を揺って手をうった。