門鑑を立っている白服にかえして前の往来へ出ると、ひどいぬかるみへ乱暴に煉瓦の破片をぶちこんで埋めたまま乾きあがっている埃っぽい地面とギラギラした白雲との間から、蒸れかえった暑気が道子の小柄な体をおし包んだ。
永年その一画には高い高い煉瓦塀が連って空の一方をふさいでいた、そこが、昨今急に模様変えになって、高さに於ては元よりも高いコンクリート塀が旧敷地の奥の方へ引込んで新しく建てめぐらされたので、周囲の風景には印象深い都会の貧と荒廃とが露出しているのであった。
刑務所の塀に沿うた町筋などに軒を並べて来た連中の暮しのほどは、およそ推察されるのであるから、急に大きな塀がとりこわされて無くなってしまった後には、

道子が同じ路を二時間ばかり前に来た時には、その荒れた広っぱのひとところで数十人の白服が列をつくって並んだり、分列したり、動いていた。
道子は小さくきちんとたたんだハンカチで、ベレーをかぶった額や小鼻の汗をふきながら、むらのない歩調で歩いた。こまかく光る金網のむこうで道子を見て、どうしたい、と笑った啓三の顔や、あつそうに片手で単衣の袖を肩の上へたくしあげた啓三の身ごなしが道子の眼へというよりはうち向っている心にまざまざとのこされた。良人に面会した後は単純にうれしかったなどと云い切れない苦しい感情が、いつも道子の気分にのこされるのであった。益々底深い鬱然とした気分、その一方では、まあよかったとぼんやり自分から自分を云いなだめている気持、それが錯綜するのである。きょうは、何かそういう気持のからみ合いがきつく感じられた。
大通りの古着屋の前に停留場がある。道子はそこから麹町の勤めさきへゆくに便利な省線の駅までバスにのった。駅前で降りると、折からストップになった四辻のプラタナスの街路樹の下にセイラア服の女学生が四五人かたまって、
「困っちゃったわねえ」
「あのひと覚えてやしないわよ、だから嘘ついたと思われちゃうわ||やだなあ」
などと云いながら、ピケの白い帽子をおかっぱの頭からぬいで、当惑そうにむこうを眺めている。視線の先は駅の入口で、そこには乳呑子を背負った二人の中年のおかみさんが、必死の面持で通行人をつかまえては、
「一人だっておんなじ人が縫ったら駄目になっちゃうっていうんですもの||」
その女学生たちは、ゆきに同じ処でそのおかみさんの千人針を縫ってやったものらしい。帰りに同じひとがまだいる。又たのまれたら二度一人が縫うことになるし、断れば信じまいと、真面目にこまっているのであった。七月このかた、市中の人出の多いところは到るところで千人針がされていた。両国の川開きのなぐれで、銀座が押すように雑踏していた晩、道子が社用でその間を擦りぬけながら通っていると、新橋の方からバンザーイ、バンザーイという叫びがだんだん近づいて来た。見ていると一台のバスが、日の丸小旗を手に手に振りかざして窓から半身のり出しバンザーイと叫んでいる女車掌を満載して、疾走して来た。ああ、職場から誰か出征するのだ。背筋を走る感動とともに道子がそう思った瞬間、紅をぬった口々をあけて声を限りバンザーイと舗道の群集の流れに向って叫んで行く婦人車掌の間に挾まれて、軍服を着た若者が、手の小旗を振ろうともせず、騒ぎに包まれてぼんやり無意味な善良な微笑をたたえて立っている姿が目を掠めた。その男の呆然としている顔の上を、夏の夜の色々なネオンの光りが矢継早に走った。間をおいて、もう一台バスが同じような叫びを盛って上野の方へ走った。バンザーイと亢奮した声の嵐と小旗のひらめきの只中で、ぼんやりした微笑をこりかたまらしていた若者の顔を、道子は容易に忘れることが出来ないでいるのであった。
赤坊を背負ったおかみさんは、気のたかぶっている眼の端に道子の来かかる姿をとらえると、自分の手を持ちそえて一人の若い女に縫って貰っている最中だのに、
「あ、ちょっとすみませんが願います」
と気ぜわしく呼びとめ、前のひとが赤糸の丸をしごく間ももどかしそうに、
「おねがいします」
と二足ばかり小走りによった。
道子は、ハンドバッグを腋の下へ押えこんだ不自由な手頸の動かしかたで縫いながら、
「御主人ですか?」
と訊いた。
「ええ、そうなんですよ、あなた。子供が三人いるんですよ」
真岡の袂でのぼせあがっている顔をふきながら、おかみさんは、
「すみません」と礼を云った。
省線の窓からも、号外売りが腰の鈴をふりながら、街をかけて行くのなどが見下せる。道子のとなりに腰をかけている若い二人づれが、自分たちの興奮を気軽さにすり代えた高調子で頻りに喋った。
「小田さんところへ禁足命令が来たってじゃないか。そろそろ僕らの順だぜ」
「出るとなりゃ、ピストルを買わなけりゃならないね、一体どの位するもんだい」
今はもうそう汗が出ているというのでもなかったが、そんな会話をききながら、道子はいよいよ小さく堅くかためたハンカチで頻りに顎のあたりを拭いた。
道子の働いている医療機械雑誌関係の用で、或る外科の大家を訪問したとき、時節柄千人針の話が出た。千人針を体につけていて弾丸に当ると、弾丸はぬくことが出来ても、こまかい糸の結びの目と布とが傷の内部にくいこんで危険だということであった。人間の腕力だけでふるわれた昔の素朴な武器にふさわしいそういうお守りを、今日もやっぱり縫って、せめては身につけて行かせようとする家族の心持というものが、道子に惻々と迫って来て、それがただ心持の上だけのものとなっているだけ一層切ない街上の風景なのであった。
新橋駅の北口から、道子は急いで地階はモータア販売店になっている事務所の階段を三階へのぼって行った。広告をとりに歩く時間を利用して、道子は良人の面会もしているのである。
「おそくなりました」そう云いながらベレーをぬいで壁の釘にかけ、すこし気づかわしげに、
「もうあと何枚ですみます?」ときいた。
「もうこれでおしまいですの」
「それはよかったわね。||どなたか来ましたか?」
「いいえ」
水色のワンピースを着た千鶴子はいいえと云って首をふりかけて、
「あ、すみません、一人いらっしゃいました」
おかしそうにすこし
「とても髭の特徴のある方が見えましたわ。よくいらっしゃる方||」
その日は午後一時から関係者の定期集会がある日なのであった。
「髭の特徴がある人って||誰かしら」
千鶴子は
「一番ちょいちょい見える方||会計の方じゃありません?」
「豊岡さん? あのひとならそんな髭なんかないわ」
「あらア、だってあったんですもの」
「だってあの人の顔なら私もう二年も見てるのよ」
「そうかしら||たしかにあの方だと思うんですけど。あの髭······」
いかにもそれは特別な髭という調子なので、道子も、云っている千鶴子もとうとうふき出した。
「まあいいわ、又来るって云ったんでしょう」
「ええ」
「じゃあ今度こそよく見とこう」
千鶴子はくすくす笑っている。
その狭い事務室には内外の専門雑誌とカタログとが、各部門別のインデックスで整理、陳列されていた。会議室は、もう一階上の四階を賃借りしてつかうのだけれど、準備の間はもとより集会の間にも道子は幾度かそこを上から下へと往復しなければならないのであった。大テーブルのぐるりに三十人近い頭数だけ、雑誌の最新号と議題を刷ったものと維持員名簿をもふくめた参考資料をキチンと並べ終って道子が、
「大体よさそうね」
その辺を見廻している時、ドアを開ける拍子にノックする内輪のものらしさで、
「やあ」
入って来たのは、ぬいだ上着を手にもち、カンカン帽をもう一方の手にもっている太った豊岡であった。
「ひどい暑気ですなあ、フー、そとはやり切れたもんじゃない」カンカン帽で風を入れながら、
「ここも扇風機がたった一つじゃ無理だね、お偉がただけふかれて、こっちまでは当らん」
さっさと上座の方へ行って白塗の扇風機のスウィッチを入れた。それと一緒にテーブルの上へ並べた書類が飛びそうになった。千鶴子が、
「あら!」
それを押えながら、やっと今まで呑みこんで辛棒していた笑いを爆発させる公然の機会とでもいう風に肩をよじって笑い出した。
「や、これはすみません。これならよかろう」
ファンの向きをかえている豊岡に、道子が、
「さきほどお見えになったんですか」ときいた。
「ああ。あなたが見えていなかったんで、ちょっと私用を足して来たんです」
千鶴子は遂におかしさを辛棒出来なくなったらしく、水色の背中を丸めて室の外へ足早に出てしまった。道子は笑いもせず、全く我が目をうたがうように眼を見ひらいて豊岡の顔を見直した。この平凡な、下瞼にふくろの出来た五十ばかりの小勤人の鼻の下には、こうして今見れば紛うかたなき髭があった。しかも、全く千鶴子の云ったように一度見たら忘れられない下向きの、温良極りない大きな
道子にはこの二年間の自分の日暮しの感情に
一時半頃から道子はテーブルの一番末席にいて、会議の要点をノートにとった。それから、自分の直接責任である維持会員からの入金工合と、雑誌刊行の状況について、詳しく説明した。この四月以来紙代や印刷代が
協会の事業を縮小するか、逆に積極政策でのり出すかということが決定されるきょうは重大な会で、会計報告がされたとき、
「こんな小っぽけな団体で、人件費が案外かかっているんですな」
と云ったものがあった。ノートをとっていて道子は顔を動かさなかったけれども、覚えず呼吸が速くなった。雑誌の編輯全部をやって広告とりまでして、道子の月給は五十円である。それは貰いすぎているといえる金額であるだろうか。千鶴子は二十五円である。千鶴子を入れるとき、常任幹事は半分本気で、
「文化学院あたりの卒業生かなんかなら、手弁当でもいいっていうのが相当いるんだろう。一つそういうのをめっける位の手腕があって然るべきだね」
と云った。道子はそういう娘たちにタイプを打つのは少いからとがんばって、千鶴子を入れることを承知させたのであった。工場でも役所でも、きりつめるというと人件費に目をつける、そのことではここも同じなのであった。会長が創立五周年の記念に千円出し、更に維持員をつのることで、雑誌も続刊されることに決定したのは、六時近くであった。
今そこから彼等が出て来たうなぎ屋の数本の高い竹の葉が、夜に入って少しそよいで来た風に微かな葉ずれの音を立てている。パナマをぬいで、上着のふところへその僅かな街頭の涼風をはらませるようにしながら信一が昼間のままのなりで傍に立っている道子を顧みた。
「さて、||どうしますかな」
「お
「ああ今夜はひとつゆっくり話もしたいと思っていたから||同じことなら、じゃ河岸っぷちへでも出るとするか」
尾張町の角から、築地河岸の方に向って二人はぶらぶら歩き出した。おでこから頸のまわりへ真白く汗しらずを塗られた浴衣姿の小さい男の子が手に赤い豆提灯をぶら下げたまま、婆さんにおんぶされて涼んでいる姿など、いかにも下町のこの辺らしい。
事務所から疲れ切って道子は義兄と会食の約束があった竹葉へかけつけ、折角であった御馳走も今
「こう云って来てもいるしするからね」
六十八になっている信輔の手紙を見せた。それには、道子にとっては思い設けないことに、もし我々二人の老人が上京することが道子どのの生活が落付いてよろしいと申すならば、よろこんで出京致すつもり云々と書かれている。
「そちらから何とかお手紙をお出しになりましたの?」
「どうもその方がよかろうと考えてね。あんたも一人じゃなかなか楽じゃあるまいと思うし······」
両親にたいして特別やさしい感情をもっている啓三が、親たちを呼びたいと云っていたのは二三年来のことであった。
「お呼びすることは啓さんも云っていたことなんだけれど||どうかしら||何しろ私は御承知のとおり朝九時頃からおそいときは夜まで外なんですものね、お年よりのお世話をして上げたくても、とてもまわらないので却って悪いと思うんですけれど······」
信一は、
「ハハハハ」と、闊達そうに白ズボンの膝をゆすって笑った。
「何もそう嫁さん気質を出さんでもいいじゃないですか」
「そういうわけじゃないけど」
小ぢんまりした素顔に道子も苦笑を浮べた。
「やっぱり私だっていらしたからには、御満足のゆくようにしたいと思うのは自然ですもの||」
「啓さんも、あっちへの手紙にそんな
「············」
啓三は、単純な又それが当然である簡単さで、日頃から両親のものわかりのよさを語っていた。道子が独りで暮すよりは、
「朝も手だすけして貰えるし、つかれてかえればちゃんと食事の仕度を母がして待っていてくれるようだったら、君も疲れないですむだろうし、時間も出来てきっと勉強にも好都合だと思うがどうだろう」そう、道子への手紙に書いてもよこした。啓三の人物のこだわりなさがこの文面に滲み出している。そう思うとともに、妻である道子の感情には、おのずから啓三がそこに描いているとは違った内容を直感させる嫁としての現実が映って来るのであった。現在の日本の家庭で、その家の娘であるということと嫁であるということとの間には、決して同じでないものがある。しかもそのことをはっきり実感としているのが女だけだということは、何という気まずさや不便やけちくさいような困却があることであろう。道子にしろ、啓三にその気持だけとり立てては云えまい。
信一は、ちょっと立ちどまってチェリーに火をつけたりして、暫く自分ひとりの考えにこもって歩いている風であったが、やがて思い出したように、
「どういうことにしますかね、さっきの話は||」
小柄な道子の額のあたりへ視線を向けた。
「さあ、何しろ五年の間まるっきり別々な生活でやって来ているのですものね」
「だからなお今がいい機会とも云える」
「啓さんがおれば私何も心配はないと思うんです、お年よりがいらしったって。二人で今までより働いて、女中さんおけばいいんだから。今は、私一人でかつかつなんですもの」
「あっちは経済的にあんたの心配を受ける必要はいらんだろう」
道子は、不図思いついて少し皮肉に、
「じゃいっそお義兄さんのとこへおよびになったら?」
と云った。
「御長男でいらっしゃるし生活は立派に確立していらっしゃるし、一番よろしいわ」
「そりゃ駄目だ」
狼狽を語調に出して信一は早口に拒んだ。
「そりゃまずい。どだい、うちの奴とおっかさんとがうまく行くもんじゃない。両方を知っているからはっきり僕にゃわかっている||絶対駄目だよ」
「私とはうまく行くってわかっていらっしゃるんでしょうか」
ふーむと煙草の烟を目で追うようにしながら、
「君と親父とはどうかしらんが、母親とはまあうまく行くだろう。女同士が円滑なら家の内は丸く納ってゆくもんさ」
今両親を呼びよせろと云い出している信一の、総領としての世間体や気の弱い良人としての気働きが、案外のところに動機をもっていたのが問わず語りにわかったようで、道子は思わず、
「あなたのお考えと啓さんの考えとは、すっかり同じというわけでもないんですね」
勝気な気性を出して云った。
「御両親のためにお迎えするのなら私としてはお義兄さんに願うしかないし、もし私のためなら、私は一年や二年こうやって働いて、出来たら勉強もしている方が自由です」
「||啓さんは、じゃどう思っているのかね」
「啓さんには私の気持がわかっています。きょうも会って、話して来たんですもの」
「あんたの気持は、しかし、目下の場合贅沢じゃないか」
良人が不自由な生活におかれている間、勤めて自分の生活と良人の生活とを守り、勉強もしてゆきたいと希うはりつめた女の気持の、どこに贅沢があるのであろう。
「贅沢って||よくわからないけれど」
道子はそう云ったまま、河岸のコンクリートの杭にもたれた。同じ河岸の二三間さきのところに一台オープンにした自家用らしい自動車がテイルまで消して止っていて、柔かい桃色の装をした若い女が車の踏段のところに腰かけて涼んでいるのが見えた。わきにすこし離れて、白いシャツを夜目に浮立たせ、パイプを
夜の水の深い匂いや、聴えるか聴えないに石垣を洗っている潮ざいは、だんだんに道子の神経をなごました。型にはまった男の気持から、弟の妻までを