むなぐるまは古言である。これを聞けば昔の絵巻にあるような物見車が思い浮かべられる。
すべて古言はその行われた時と所との色を帯びている。これをそのままにとって用いるときは、
これは窮屈である。さらに一歩を進めて考えてみると、この窮屈はいっそう甚だしくなってくる。なぜであるか。いまむなぐるまということばを擬古文に用いるには異議がないものとする。ところで擬古文でさえあるなら、文の内容がなんであろうと、古言を用いていいかというに、必ずしもそうでない。文体にふさわしくない内容もある。都の
この調和は読む人の受用を傷つける。それは時と所との色を帯びている古言が濫用せられたからである。
しかしここにいう所は文と事との不調和である。文自体においてはなお調和を保つことが努められている。これに反して仮りに古言を引き離して今体文に用いたらどうであろう。極端な例をいえば、これを口語体の文に用いたらどうであろう。
文章を愛好する人はこれを見て、必ずや憤慨するであろう。口語体の文は文にあらずという人はしばらくおく。これを文として
以上は保守の見解である。わたくしはこれを首肯する。そして不用意に古言を用いることを嫌う。
しかしわたくしは保守の見解にのみ安住している窮屈に堪えない。そこで今体文を作っているうちに、ふと古言を用いる。口語体の文においてもまた
そして自分で自分に
わたくしの意中にいわんと欲する一事があった。わたくしは紙を
空車はわたくしの往々街上において見るところのものである。この車には定めて名があろう。しかしわたくしは不敏にしてこれを知らない。わたくしの説明によって、さすところのなんの車たるを解した人が、もしその名を知っていたなら、幸いに
わたくしの意中の車は大いなる荷車である。その構造はきわめて原始的で、大八車というものに似ている。ただ大きさがこれに数倍している。大八車は人が挽くのにこの車は馬が挽く。
この車だっていつも空虚でないことは、言をまたない。わたくしは白山の通りで、この車が洋紙を

わたくしはこの車が空車として行くにあうごとに、目迎えてこれを送ることを禁じ得ない。車はすでに大きい。そしてそれが空虚であるがゆえに、人をしていっそうその大きさを覚えしむる。この大きい車が大道せましと行く。これにつないである馬は骨格がたくましく、栄養がいい。それが車につながれたのを忘れたように、ゆるやかに行く。馬の口を取っている男は背の直い大男である。それが肥えた馬、大きい車の霊ででもあるように、
この車にあえば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。
そしてこの車は一の空車に過ぎぬのである。
わたくしはこの空車の行くにあうごとに、目迎えてこれを送ることを禁じ得ない。わたくしはこの空車が何物をかのせて行けばよいなどとは、かけても思わない。わたくしがこの空車とある物をのせた車とを比較して、優劣を論ぜようなどと思わぬこともまた言をまたない。たといそのある物がいかに貴き物であるにもせよ。
大正五年五月