猿と云ふものは元から溜まらない程己に気に入つてゐる。第一人間に比べて見ると附合つて見て面白い処がある。それから顔の表情も人間よりははつきりしてゐて、手で優しく搦み付くところなぞは、人間が握手をするよりも正直に心持を見せてゐるのだ。それから猿の一番好い性質は、
猩々やシンパンジイの猟をしたドユ・シヤイユウは人を避けて穴居してゐるこの猿共の性質の面白いことを報告してゐる。この男は平気で、なんの不思議な
己はいつか昔一しよに住つてゐて、黒パンを分けて食つた子猿の話をした事がある。ジユヂツク夫人はリユウ・ド・ラ・フイデリテエに住んでゐた頃、この猿を知つてゐた。外へ出た
エヅアアル・ロツクロアはきつとまだ覚えてゐるだらう。なぜと云ふに、あの男は物を忘れると云ふことがないからである。あの男がリユウ・ド・ヲシントンに住つてゐる時、猿を飼つてゐた。或る日曜日に己達はその家で、窓を開けて昼の食事をしてゐた。その時窓のムウルヂングの上に蹲つてゐた猿は、何か旨い物を貰はれさうなものだと思つて待つてゐるらしかつた。それが突然食卓から目を放して中庭を見下した。そして非常に早くロツクロアの読み書きをする机の上に飛び上がつて、インクの
その時ロツクロアが云つた。「己にはあの意味が分かつてゐる。この間己の使つてゐる家来が、この猿を散歩に連れて出た時、この家に住つてゐる或る奴が、見つともない畜生だなあと云つた。それを猿が悟つて、忘れずにゐて、今好機会を得て復讐をしたのだ。あの皿の中の沙でその
猿と言ふものはこんなものだから、あの「アリスチイド・フロアツサアル」と云ふ諷刺的の名作を出して、その癖もう殆ど世に忘れられてゐるレオン・ゴズランが猿の国への旅を書かうと思ひ立つたのも無理はない。「ポリドオル・マラスケンの冒険談」と題した文章がジユウルナル・プウル・ツウに出て、その插画をギユスタアフ・ドレエが書いた時には、己達は面白がつてそれを見たものだ。あの文章は諷刺を以て書いた哲学的研究で、ゴズランはその中で、既往に於てはスヰフトを回顧し、未来に於ては動物を主人公にする作者としてジユウル・ヱルヌ、ヱルス、それから主にラヂヤアド・キプリングの
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或る日M提督が己に猿の話をして聞かせた。その話は深刻な小説の材料にでもなりさうである。提督がまだ艦長でゐた時、恐ろしく敏捷な、小さいシンパンジイを連れてゐた。それは放して飼つてあつて、
然るに或る日金剛石を嵌めた指輪がエツヰに入れた儘で紛失した。それの置いてあつた室の戸が開いてゐた時、戸口にゐたのを人に見られた一人の水兵が嫌疑者にせられた。そこで其水兵の挙動に注意する事になつた。水兵は周囲の人に目を付けられるのを悟つて、艦長の前に出て無造作にかう云つた。
「艦長殿、わたくしがダイアモンドを盗んだと思はれてゐるのでありますか。」
艦長は答へた。「さうさな。兎に角猿が取つたとは誰も思つてゐないやうだ。」
この詞を聞いた時、水兵の頭に或る考が浮かんだ。水兵は探索の手掛かりを得たやうに思つた。エドガア・アラン・ポオの小説にリユウ・マルグの
二三日立つて、水兵は石炭庫に
水兵は忽ち工夫して、猿の腕首を掴んで、エツヰのあつた所へ連れて行かうとした。ところが石炭庫が近くなればなる程、猿が震え出した。丁度犬が自分の糞をした所へ連れて行かれるのを嫌ふやうに、軍艦の猿は石炭庫へ行く事を嫌つた。とう/\
それから水兵は
そこで水兵は艦長の前へ出た。「艦長殿。
猿はこの詞が分かつたらしい様子をしてゐた。分からぬまでも、この場で何事が訴へられ、又聞き取られてゐると云ふことを悟つてゐたに違ひない。猿は途方に暮た様子で頭を
「さうか。この役に立たず奴をどう処分して遣つたものだらうかなあ」と、艦長が云つた。
評議の結果、猿を取調べて、いよ/\有罪と極まつたら、窃盗をした水兵と同じ刑罰に処するが好からうと云ふ事になつた。航海は退屈なものだから、何か慰みになるやうな事があると、誰でもその機会を捕へようとするのである。取調べは一種の軍法会議を組織して行ふことになつた。猿の辯護をする役人も出来た。そこで中世風の裁判をして、刑罰に処するか放免するかになるのである。
水兵仲間の一人は、この様子を見てゐて、
「難有い
猿はとう/\有罪と極まつた。法廷の手続きは一々規則通りに遂行せられた。猿は数人の判事と辯護士とを代る代る見て何事か分からずにゐた。此分からずにゐたと云ふのは平気でゐたのではない。軍艦中で可哀がられてゐた猿の為には此見馴れない法廷がひどく窮屈であつた。猿はどんなに
「とう/\銃殺か、ジヨツコオ奴。可哀さうに。」誰やらがかう云つた。
窃盗をしたからには、銃殺せられるのは当前である。併し刑の執行は真似だけにして置かうと議決せられた。金剛石の持主は赦免の請求をしたが、この請求は銃口を猿に向けた上で採用するが好からうと云ふことになつた。
この銃殺の真似を水兵共は楽みにして待つた。毎日同じやうにしなくてはならぬ操練に飽きてゐるので、こんなことも楽みになるのである。いよ/\その日の朝になつて、猿はブリツジへ連れて行かれた。そして銃を持つた水兵等の自分の方へ向いて来るのを見てゐた。士官一同、乗組水兵の全部が集つてゐる。
ふびんな猿は途方に暮れた目をして一人一人の顔を見た。こんなに大勢の人に見られてゐることは今が始めである。一人の水兵が進み出て
「撃て」と云ふ号令が掛かると、ふびんな猿の全身は電気を掛けられたやうに震えた。此場の危険が分かつたのだらう。布で目を隠されてゐても、銃口を自分に向けられてゐることは知つてゐた。そこでその銃に弾薬が込めてあるかも知れぬと云ふことも、本能的に分かつたかも知れない。この獣も忽然「死」と云ふ暗黒な秘密を感じたかも知れない。
猿は両手を縛られてゐた繩を引きちぎつた。頭の
「やあ、海へ這入つた。猿が海へ這入つた。」かう云つて大勢が舷へ駆け寄つた。水兵の中には猿を助けに続いて海へ飛び込まうとした者もある。「ボオトを卸せ」と云ふ者もあつた。
この騒は無駄であつた。ふびんな猿は一瞬間水面を泳いで、波と戦つてゐたが、とうとう沈んで見えなくなつた。
M提督はこの話をしてしまつて云つた。「言ふまでもなく、それから先の航海はなんとなく物悲しかつたのですよ。こんな事を言つたら、あなたは笑ふでせうが、猿が溺れてからは、艦内で笑声はしなくなりました。丁度親類か友達の死んだ時のやうに、何物を見るに付けても、ふびんなジヨツコオの事が思ひ出されてならなかつたのです。」