テルモンド市の
今宵は外の舟と同じやうに、グルデンフイツシユも休んでゐる。太い綱で繋がれてゐる。午後七時には、もう舟の中が暗くなつたが、横腹に開いてゐる円い窓からは、魚の目のやうに光る
ネルラ婆あさんが戸を開けて這入つて来た。其跡から亭主のトビアス・イエツフエルスが這入つた。これが持主シツペから舟を預けられてゐる爺いさんである。
部屋の中から若々しい女の声がした。「おつ母さん。わたしあの黒い
「さうかい。だがね、お前、窓に明りが附くのを、そんなにして長い間見てゐるのではないだらう。ドルフが帰るのを待つてゐるのだらう。」
「おつ母さん好く
「それは、お前、おつ母さんでなくつて、誰が御亭主の事を思つてゐる若いお上さんの胸が分かるものかね。」
かう云ひながら、婆あさんは炉の蓋を開けて、鍋を掛けた。炉はそれが嬉しいと見えて、ゆうべ市長さんの
部屋は小さい。


この一切の
今の処では此女の両方の頬が、炉の隙間を漏る火の光で、干鮭の切身のやうに染まつてゐる。そして
「おつ母さん。難有うよ。わたくしこれでお
「なんだつて。あのお妃様のやうだつて。まあ、お待よ。今にわたしが林檎を入れたお菓子を焼いて食べさせて上げるからね。その時どんなにおいしいか、どんなに好い心持がするか、その時さう云つてお聞せ。おや。ドルフが桟橋を渡つて来るやうだよ。粉と、玉子と、牛乳とを買つて来てくれる筈なのだよ。」
がつしりした体の男が、此部屋の赤み掛かつた薄暗がりの中へ這入つて来た。物を打ち明けたやうな、
男は帽子を部屋の隅に投げ遣つて、所々の隠しの中から、細心に注意して種々の物を取り出して、それを卓の上に並べてゐる。
やつと並べてしまふと、母が云つた。「ドルフや。牛乳を忘れやしないかと思つたが、矢つ張り忘れたね。」
ドルフは首を肩の間へ引つ込ませて、口を
母はそれには気が附かずに、右の
「まあ、お待なさいよ。今わたしがリイケの椅子の下から、魔法で牛乳を出したらどうでせう。おつ母さん、キスをして下さいますか。さあ、どうです。早く極めて下さい。一つ。二つ。」
母はよめに言つた。「どれ、立つて御覧。でないと、お前の御亭主にキスをして遣つて好いか、どうだか、分からないから。」
ドルフはリイケの椅子の下にしやがんだ。そして長い間何やら捜す真似をしてゐた。それからやつと手柄顔に牛乳の罐を取り出して、左の拳で腰の脇を押さへながら云つた。「さあ。誰がキスをして貰ふのです。えゝ、おつ母さん。」
母は云つた。「ドルフや、矢つ張りわたしよりリイケにキスをするが好いよ。蠅は蜜を好くものだからね。」
ドルフは
リイケはそれでは不承知と見えて、振り向いて唇と唇とを合せた。
ドルフは云つた。「ああ、旨かつた。ミルクで煮たお米のやうだつた。」
此時これまで黙つてゐた爺いさんのトビアスが婆あさんに言つた。「おい、己達も若い者の真似をしようぢやないか。己はこいつ等が中の好いのを見るのが嬉しくてならん。」
「えゝ/\、わたし達も丁度あの通りでしたわねえ。」
トビアスは婆あさんの頬にキスをした。婆あさんが返報に爺いさんにキスを二度して遣つた。丸で
ドルフが云つた。「リイケや。こつちとらもいつまでも中好くしようぜ。」
「わたしあなたと中が悪くなる程なら、死んでしまふわ。」
「さうか。己はお前より二つ年上だ。お前が十になつた時、己は十二だつたが、今思つて見れば、己はもうあの時からお前が好だつた。それは今とは心持は違ふが。」
「あら、それはよして下さいな。わたしとあなたとの識合になつたのは、五月からの事にして下さらなくては厭。それより前の事は、どうぞ言はないで下さいね。どうぞ五月より前の事は言はないとさう云つて頂戴ね。でないと、わたし恥かしくつて、あなたと中好くすることが出来ませんから。」かう云つて、リイケは夫の胸に縋つた。そのとたんにリイケが少し身を反らせたので、
「さあ/\これからお菓子を拵へるのだ。」婆あさんは先に立つて、ドルフの買つて来た物を
此の時婆あさんが今一つの蒸鍋を出して、水に、粉に、チミアンに、ロオレルと其中へ入れてゐたが、最後に何やらこつそり出して、人に隠すやうに入れて、急いで蓋をして、火に掛けた。
ドルフは何を入れたのか見えなかつたので、第二の蒸鍋の蓋が躍つて、茶色の蒸気が立ち出すや否や、鼻を鍋の方へ向けて、
ドルフは笑つて云つた。「おつ母さん、駄目々々。わたしはちやあんと見ました。シツペの檀那のとこの古猫を掴まへて、魚蝋の蝋で煮てゐるのでせう。」
「さうだとも。今にあつちの焼鍋の方では、鼠を焼いて食べさせます。もうわたしに構はないで食事を拵へておくれ。」
ドルフはこそ/\部屋に附いてゐる板囲の中へ逃げ込んだ。そして糊の附いた上シヤツを
食事は出来た。水に映つた月のやうに皿が光る。錫のフオオクが本銀のやうに赫く。
婆あさんが最後に蓋を切つて味を見て、それから杓子を
ドルフとリイケとは行李を引き寄せて腰を掛ける。爺いさんは自分が一つの椅子に掛けて、今一つのを傍へ引き寄せて、それにネルラを掛けさせる。
婆あさんが卓の上へ、秘密の第二の蒸鍋を運ぶ。白い蒸気がむら/\と立つて、日の当たる雪の消えるやうな音がする。
「シツペさんとこの猫です。わたしにはすぐ分かつた。」ドルフは母親が蓋をあける時かう云つた。
皆が皿を出す。婆あさんが盛る。ドルフは自分の皿を手元へ引いて、丁寧に嗅いで見て、突然
爺いさんが云つた。「王様は臓物を葡萄酒のソオスで召し上がるさうだが、ネルラが水で煮るとそれよりも旨い。」
食べてしまふと、婆あさんが立つて、焼鍋を竈に掛けて、真木をくべて火を掻き起して、第一の蒸鍋の上の切れを取つた。菓子種はふつくりと
「早く皿をお出し」と云ふと、ドルフが出す。
菓子種は
ドルフが起つて、今日菓子屋が店に出してゐるやうな人形の形をした菓子を焼かうとする。最初に出来たのを、リイケの皿に取つて遣ると、まだ
トビアスはドルフに言ひ附けて、部屋の隅の木屑の底から、オランダ土産の葡萄酒を出させて自分と倅との杯に注ぐ。二
「リイケや。もう二年立つて此祭が来ると、あそこの烟突の附根の下に小さい木沓があるのだ。」かう云つたのはトビアスである。
「さうなると愉快だらうなあ」と、ドルフが云つた。
リイケの目の中には涙が光つてゐる。其目でドルフの顔を見てささやいた。「ほんとにあなたは好い人ねえ。」
ドルフはリイケの傍へ
リイケも臂をドルフの腋に絡んだ。「わたし、本当にこれまで出逢つた事を考へて見ると、どうして生きてゐられるのだらうと、さう思ふの。」
「過ぎ去つた事は過ぎ去つたのだ」と、ドルフは慰めた。
「でも折々はわたし早く天に往つて、聖母様にあなたのわたしにして下すつた事を申し上げた方が好いかと思ふの。」
「おい。お前が陰気になると、己も陰気になつてしまふ。今夜のやうな晩には、御免だぜ。」
「あら。わたしちよいとでもあなたのお心持を悪くしたくはないわ。そんな事をする程なら、わたしの心の臓の血を上げた方が好いわ。」
「そんならその綺麗な歯を見せて笑つてくれ。」
「わたしなんでもあなたの云ふやうにしてよ。わたしの喜だの悲だのと云ふものは、皆あなたの物なのだから。」
「それで好い。己もお前の為にいろんなものになつて遣る。お前のお父つさん、お前の亭主、それからお前の子供だ。さうだらう。少しはお前の子供のやうな処もあるぜ。今に子供が二人になるのだ。」
リイケは両手でドルフの頭を挾んで、両方の頬にキスをした。丁度
ドルフは誓の手を高く上げた。「天道様が証人だ。己の血を分けた子の様に可哀がつて遣る。」
炉の火が音を立てゝ燃える。短くなつた蝋燭がぷつ/\云ひながら焔をゆらめかす。今度はネルラ婆あさんが心を切ることを忘れてゐたので、燃えさしが玉のやうに丸くなつて、どろ/\した、黄いろい燭涙が長く垂れた。トビアスの赤くなつた頭が暗い板壁をフオンにしてかつきりと画かれてゐる。其傍にはネルラが動かずに、明りを背にしてすわつてゐる。たまに頭を動かすと、明るい反射が額を照すのである。
「おや、リイケどうした」と、突然ドルフが叫んだ。リイケが蒼くなつて目を
「あの、けふなのかも知れません。午過から少し気分が悪かつたのですが、なんだか急にひどく悪くなつて来ました。あの、子供ですが、若しわたしが助からないやうな事があつても、どうぞ可哀がつて遣つて。」
「おつ母さん。どうも胸が裂けるやうで」と、云つた切、ドルフは涙を出して溜息をしてゐる。
トビアスは倅の肩を敲いた。「しつかりしろ。誰でもかう云ふ時も通らんではならぬのだ。」
ネルラは涙ぐんでリイケに言つた。「リイケや。おめでたい事なのだから、我慢おしよ。貧乏に暮してゐるものは、お金持より、子供の出来るのが嬉しいのだよ。それに復活祭やニコラウス様の日に生れるのは、別段に難有いのだからね。」
トビアスが云つた。「おい。ドルフ、お前の方が己よりは足が達者だ。プツゼル婆あさんの所へ走つて往つてくれ。留守の
ドルフはリイケの体を抱いて暇を告げた。桟橋が急いで行く足の下にゆらめいた。
「もう往つちまやあがつた」と、トビアスが云つた。
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夜が大鳥の翼のやうに
「あの影はそれを買ひに往く
それでも霧の中の瓦斯燈が葬の行列の蝋燭のやうに見えることは、前の通である。その上其火が動き出す。波止場の方で、集まつたり、散つたり、往き違つたり、入り乱れたりする。丸で大きい蛾が飛んでゐるやうである。「どうも己は気が変になつたのぢやないか知らん。あの
忽ち人声が耳に入つた。岸近く飛びかふのは
忽ち叫んだものがある。「ドルフ・イエツフエルスを呼んで来い。あいつでなくては此
「丁度好い。ドルフが来た。」ぢき傍で一人の若者がかう云つた。
ドルフは此の時やつと集まつてゐる人達を見定めることが出来た。皆友達である。船頭仲間である。
ドルフは俯して暗い水を見た。岸辺の松明を見た。仰いで頭の上にかぶさり掛かつてゐる黒い夜を見た。それから周囲に集まつて居る友達を見た。「済まないが、けふはこらへてくれ。女房のリイケが産をし掛けてゐる。
「さう云ふな。おぬしの外には頼む人が無い。」かう云ひさして爺いさんは水の滴る自分の着物を指さした。「己も子供が三人ある。それでももう二度
ドルフは周囲の友達をずらつと見廻した。「いく地がないなあ。一人も助けにはいるものはないのかい。」
爺いさんが又ドルフに
川へ松明を向けてゐる人達が叫んだ。「や。又あそこに浮いた。手足が見えた。早くしなくちや。」
ドルフはいきなり上着をかなぐり棄てた。「好し。己がはいる。その代り誰か一人急いでプツゼル婆あさんの所へ往つて、グルデンフイツシユの桟橋迄あれを案内してくれ。」それから空中に十字を切つて、歯の間で唱へた。「人間のために十字架に死なれた主よ。どうぞ憐をお垂下さい。」
ドルフは裸で岸に向つて駆け出した。
「それ又浮いた」と人々が叫んだ。
「リイケ。勘辨してくれ。」どん底がさつと裂けた。流は牢獄の扉のやうに、ドルフの背の上に鎖された。
群集の中から三人の男が影のやうに舟にすべり込んで

能く人を殺すエスコオ川は、永遠なる「時」の瀬の如くに、滔々として流れてゐる。
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ドルフは水面に二度浮かんで、二度共又潜つた。夜の不慥な影の中に、ドルフの腕が動き、其顔が蒼ざめてゐるのが見えた。
ドルフは氷のやうな水層を蹴て、河のどん底まで沈んで行つたのである。忽ち水に住む霊怪の陰険な
此時ドルフの目に水を

岸の上の群は騒ぎ立つた。「ドルフしつかりしろ」と口々に叫んだ。
「こつちへ泳ぎ附け、ドルフ、こつちだ。我慢しろ。今一息だ。」大勢の声が涌くが如くに起つた。
ドルフはやう/\岸に泳ぎ附かうとしてゐる。最後の努力をして波を凌いで、死骸のやうになつた男の体を前へ押し遣るやうにして、泳いでゐる。焚火の赤い光が、燃える油を
ドルフはふと傍を漂つてゐる男の顔を見た。そして拳を揮つて一打打つて、水の中に撞き放した。口からは劇怒の叫が発せられた。其男はリイケを辱めて
ドルフは其男を撞き放した。併し撞き放されて、頭に波の
ドルフの心のうちから、かう云ふ叫声が聞える。「死ね。ジヤツク・カルナワツシユ奴。お主とリイケの生む子とは、同じ地を倶に踏むことの出来ない二人だ。」
併しドルフの心のうちからは、今一つかう云ふ叫声が聞える。「助かれ。ジヤツク・カルナワツシユ奴。己にもお主の母親の頭を斧で割ることは出来ない。」
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グルデンフイツシユの舟の中では、一時間程持つてゐた娑あさんネルラが叫んだ。「おや。あれはドルフがプツゼル婆あさんを連れて帰つたのでせうね。」
果して桟橋が二人の踏む足にゆらいだ。次いでブリツジを踏む二人の
二本
プツゼル婆あさんが梯を降りる。跡からは若い男が一人附いて来る。
爺いさんが声を掛けた。「あゝ。プツゼルさんですか。あなたが来て下すつて、リイケは
「えゝ。トビアスをぢさん、今晩は。ドルフさんは途中で友達に留められなすつたので、わたしが代りにプツゼルをばさんを連れて来て上げました。」
「それは御苦労だつた。まあ這入つて一杯呑んでから、ドルフのゐる処へ帰りなさるが好い。」
ネルラ婆あさんが
背の低い、太つたプツゼル婆あさんは云つた。「皆さん、今晩は。ではもうぢきにグルデンフイツシユで洗礼の御馳走がありますのですね。ねえ、リイケさん、これがはじめてのですね。ネルラさんはコオフイイを一杯煮てさへ下されば好いのですよ。それからわたしに
若い男がリイケに言つた。「わたしは頼まれてプツゼルをばさんを連れて来て上げたのです。ドルフさんを途中で友達が留めて、連れて往つたものですから。なんでもあなたの苦しがつてお出のを、ドルフさんが見るのは好くないから、一杯呑ませて元気を附けて上げると云ふことでした。」
「あゝ。さうですか。皆さん御親切ですわねえ。わたくしもあの人が傍にゐて下さらない方が却つて元気が出ますの。」リイケはかう返事をした。
トビアスは焼酎を一杯注いでルカスの前に出した。「さあ、これを呑んでおくれ。呑んでしまふと、風を
ルカスは杯を二口に乾した。最初の一口を呑む時には、「皆さんの御健康を祝します」と云つた。二口目には黙つてゐたが、心の中でかう思つた。「これはドルフの健康を祝して呑まう。だがそれは命を取られないでゐた上の事だて。」呑んでしまつて、ルカスは「難有う、さやうなら」と云ひ棄てて帰つた。
ルカスが帰つた跡で、炉の上で湯が歌を歌ひ出した。そして部屋一ぱいにコオフイイの好い匂がして来た。ネルラ婆あさんがコオフイイの臼を膝頭の間に挾んで、黒いコオフイイ豆を磨りつぶしてゐるからである。
プツゼル婆あさんは黒い大外套の襟に附いてゐる、真鍮のホオクを
婆あさんはそんな時往つてリイケの頬つぺたを指で敲いて遣つて、こんな事を言ふ。「しつかりしてお出よ。自分の生んだ子が産声を立てるのを聞くと云ふものは、どの位嬉しいものだか、お前さんまだ知らないのだ。天国へ往くと、ワニイユの這入つた、
トビアスはいつも寝台にする、長持のやうな大箱を壁の傍に押し遣つて、自分の敷く海草を詰めた布団を二枚其上に敷いた。海草の香が部屋の内に漲つた。ネルラが其上に粗末な麻布の、雪のやうに白いのをひろげて、襞の少しもないやうに、丁寧に手の平で撫でた。オランダの鳥の毛布団のやうに軟く、敷心地を好くしようと思ふのである。
夜なか近くなつた時、プツゼル婆あさんが編物を片附けて、目金を
そのうちリイケが両手の指を組み合せて、叫び出した。「プツゼルをばさん。どうかして下さい。」
「それはね、をばさんもどうもして上げることは出来ません。我慢してゐなさらなくては。」プツゼル婆あさんはかう云つた。
トビアスが傍で云つた。「もう夜なかだ。料理屋にゐる人達も内へ帰る時だ。」
リイケは繰り返して云つた。「あゝ。ドルフさん。なぜまだ帰つて下さらないのだらう。」
ネルラがリイケを慰める積で云つた。「
併しドルフは容易に帰らない。
夜なかを二時過ぎた時、リイケはひどく苦しくなつたので横になつた。プツゼル婆あさんは椅子を寝台になつてゐる大箱の傍へずらせた。ネルラは祈祷をしようと思つて、珠数を取り出した。それから又二時間
「あゝ。ドルフさん。わたし死にさうなのに、どこにお出なさるのでせう。あゝ。」
トビアスは折々舟の梯を登つて、ドルフが帰つて来はせぬかと見張つてゐる。それにドルフは帰らない。もうこのグルデンフイツシユの窓の
その時舟の中で赤子の泣声が聞えた。丁度
「リイケ。リイケ。」遠くからかう呼ぶのが聞えた。桟橋からブリツジへ、ブリツジから小部屋へと駆け込むのは誰だらう。別人ではない。ドルフである。うつら/\してゐたリイケが目をあいて見ると、ドルフは床の前に跪いてゐた。
トビアスは帽子を虚空に投げ上げた。ネルラは赤ん坊の口をくすぐつてゐる。プツゼル婆あさんは膝の上に載せてゐた赤ん坊をよく襁褓にくるんで、そつとドルフの手にわたした。ドルフはこは/″\赤ん坊に二三度接吻した。
ドルフは「リイケ」と呼び掛けた。リイケは両手でドルフの頭を持つて微笑んだ。そして寐入つて、明るくなるまで醒めなかつた。ドルフも跪いた儘、頭をリイケが枕の傍に押し附けて朝までゐた。二人の心臓の鼓動が
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或る朝ドルフが町へ往つた。
葬式の鐘が力一ぱいの響をさせてゐる。其音が丁度難船者の頭の上を鴎が啼いて通るやうに、空気を裂いて聞えわたる。
長い行列が寺の門の中に隠れた。寡婦の目の涙のやうに、黒布で包んだ
寺の石段にしやがんでゐる女乞食にドルフが問うた。「町で誰が死んだのかね。」
「お立派なお内の息子さんです。お金持の息子さんです。ジヤツク・カルナワツシユと仰やいます。どうぞお冥加に一銭戴かせて下さいまし。」
ドルフは帽を脱いで寺に這入つた。そして円柱を楯にして、銀の釘を打つた柩の黒いキヤタフアルクの下に隠れるのを見送つた。
「主よ。御身の意志の儘なれ。わたくしがあの男に免したやうに、御身もあの男に免し給へ。」
会葬者が手向の行列を作つた。ドルフは一人の歌童の手から、燃えてゐる蝋燭を受け取つて、人々の
「主よ。どうぞわたくしにもお
祈祷してしまつてドルフは寺を出た。そして心のうちに思つた。「もうこれで世の中に、あのリイケの生んだ子を己の子でないと云ふことの出来るものは、一人もなくなつた。」
河岸の方から「おい、ドルフ」と呼ぶ声がした。見ればジヤツクを救ひに河に這入つたのを見てゐた仲間達である。皆気の荒い男ではあるが、ドルフが水に潜つた時は、胸が女の胸のやうに跳つた。そしてドルフが無事で
ドルフは笑つた。「いや。己は又こなひだの晩に生れたリイケの赤ん坊の健康を祝して、お主達と一杯飲まずには、どうしても死ぬることが出来ないのだ。」