表の人物
Aemilius Florus 主人
Mummus 老いたる奴隷
Lukas 無言の童
Gorgo 田舎娘
Calpurnia 主人の友の妻
老いたる乳母
差配人
医師
獄吏
跣足の老人
従者等
裏の人物
Malchus 賊
Titus 商人
赤毛の女
兵卒等
Aemilius Florus 主人
Mummus 老いたる奴隷
Lukas 無言の童
Gorgo 田舎娘
Calpurnia 主人の友の妻
老いたる乳母
差配人
医師
獄吏
跣足の老人
従者等
裏の人物
Malchus 賊
Titus 商人
赤毛の女
兵卒等
一
エミリウス・フロルスは同じ
往つたり返つたりしたのに
「僕が今君に告げようとする事件は、君には児戯に類するやうに感ぜられるだらう。併し此
二
医師は暫く黙つてゐて、そして問うた。
「一体あなたの、その体の工合はどんな場合に似てゐるのですか。」
「わたしは牢屋に入れられた人の体の工合は知りません。併しどうもわたしの体の工合はさう云ふ人に一番似てゐるらしいのです。こなひだ中からは自由行動が妨げられてゐるやうで、猶自由意志までも制せられてゐるやうです。歩きたいのに歩かれない。息がしたいのに窒息しさうになる。詰まり一種の隠微な不安、不定な苦悶があるのです。」
フロルスは疲れたらしい様子で口を
「事によるとわたしの
「はあ。夢を見ましたか。」
「えゝ、手に取るやうな、はつきりした夢を見たのです。そして不思議にもその夢がいまだに続いてゐるやうなのです。若しわたしがさうしようと思つたら、わたしは疑も無くその夢を今でも見続けてゐて、
「その夢をお話になるには、ひどく興奮なさる
「なに、なに」と、主人は忙しげに反復して云つて、額に出た玉の汗を拭つた。そして努力して、忘れた事を想ひ出す人のやうに、きれ/″\に話し始めた。話の間に声が叫ぶやうに高くなるかと思へば、又
「あなたに丈は今話しますが、誰にも言はないやうにして下さい。どうぞ
これまで話して、フロルスは口を閉ぢた。そして力の脱けたやうに
医師は「お休なさい」と云つて部屋を出て、差配人に主人の容態を話した。無言の童は目を

夕方にフロルスは年の寄つた乳母を呼んだ。乳母はフロルスの前にしやがんで、お伽話や、小さい時の話をしてゐたが、それが種切になつてからは、自分の
「坊つちやん。二三日前の事でございますがね。港の関門の所で人殺しを見ましたよ。ですけれど、こはい顔はしてゐませんでした。ほんに光つた目をしてゐました。髪は黒うございました。丸で小僧つ子のやうな男でございました。わたしの亭主の兄弟で、商売をしてゐますチツスさんが掴まへたのでございます。」
フロルスは一声叫んで、婆あさんの臂を攫んだ。
「こら。廃せ。すぐに帰つてくれ。チツスだと。お前チツスと云つたな。魔女奴が。」
叫声に驚かされて無言の童が駈け附けた。
三
数日間煩悶が続いた。病人は度々「もう我慢が出来ない、己の力に余る」と、繰り返して云つた。陰密に心髄に食ひ込んでゐる苦痛のために、今までも蒼かつた顔は土色になつた。目の縁には黒い
病人は或朝日の出る前に起きた。そしてどこかへ往く気と見えて、帽と外套とを出させた。老人の奴隷が用心して何も問はずにゐると、主人は奴隷の目を見て、無言の問に答へた。
「お前附いて来るのだ。」
主人はいつもの楽な、軽らかな足取で歩く。窪んだ頬の上に薔薇色の
「檀那様。ここへお這入なさいますか。」
「さうだ。」
主人の声は苦労の無ささうな声である。二人は監獄の門に入つた。
財産があり、身分のあるフロルスであるから、獄吏は別に面倒な事も言はずに、客の要求を容れた。勿論心附けは辞退せずに受けた。フロルスは
フロルスは隅々まで気を配つて、しかも足早に監獄を見て廻つて、最後の地下室をも
「囚徒は皆内にゐるのですね。今見たのより外にはゐないのですね。」
「はい。あの外にはゐません。きのふ一名逃亡しました。」
「逃亡者がありますか。名前は。」
「マルヒユスと云ふ奴です。」
「マルヒユスですか。目の光る、日に焼けた、髪の黒い男ぢやありませんか。」名を聞いて耳を
「はい。仰やる通の男です。」獄吏は頷いて答へた。
監獄の門を出た時、フロルスはこれまでになく晴々した気色をしてゐた。子供のやうに
「どうだい。ムンムス

四
別荘の居心の好い家を、フロルスは朝嬉しげに出て、街道や小径を遠方まで散歩する。老人の世話をしてくれたゴルゴオは物静な、詞少なな、従順な、澹泊な、小牛の様な娘である。日に焼けた肌をなんの面倒もなく、さつぱりと任せる。留守居をする時は、古い小唄を歌つてゐる。
無言のルカスは呼ばれぬに主人の跡を慕つて来て、主人の往く所へどこへでも附いて行く。疲れたやうな、
主人はいつも山の

主人は髭の伸びた、まだ
一日一日と過ぎて行く。譬へば飾の糸に
或暮方の事である。フロルスは暢気に遊び戯れてゐた最中、突然沈鬱な気色になつた。俄に敵に襲はれたやうな態度である。急に
「どうしたのだらう。どうしてこんなに暗くなつたのだ。牢屋ぢやないか。」
フロルスは低い
そこへゴルゴオがそつと這入つて来て抱き附いたが、フロルスは顧みずに、押し退けるやうにして云つた。
「お前誰だ。知らない女だ。今は行けない。気を附けろ。錠前の音がすると、番人が目を醒ますぜ。」
ゴルゴオは黙つて
無言のルカスが狗のやうに這ひ寄つて、寝台の縁から垂れてゐる主人の手に接吻した。
五
主人の寝部屋の外で
忽ち空気を切り裂くやうな、叫声が響いた。人の声らしく無い。此世のものでないものが、反響のするやうに「死」と叫んだかと思はれた。
家来共は躊躇しつゝ戸を敲いた。無言の童が内から戸を開けて入れた。童の顔は、いつもの子とは見えぬ程、恐怖のために変つてゐる。そして童は、つひに物を言つたことの無い口で、あらあらしく「死だ、死だ」と繰り返して云ふ。

フロルスは寝台の上に、
恐怖の使は医師と差配人との許に走らせられた。

フロルスは項を反らせて、真つ黒になつた顔をして動かずにゐる。手が一本だらりと寝台の縁から垂れてゐる。
医師が来てフロルスの体を検査した。フロルスは慥に死んでゐた。医師は驚きながら差配人に死骸の頸の痕を指さして見せた。くるりと帯のやうに、黒ずんで腫れ上がつて、皮の下には血が出てゐる。なんとも説明のしやうの無い痕である。
フロルスの死目に逢つた只一人のルカスは、恐怖のお蔭で物が言はれるやうになつて、吃りながらかう云つた。
「死だ、死だ。又縛られなすつたのだ。そして歩いて歩いて、とう/\がつかりなすつて、床の上にお倒なさる。わたしにはなんにも仰やらない。わたしは飛び附いた。すると咽をぜい/\云はせながら、目を
死骸の始末などのために、人々はルカスの事を忘れてゐた。
翌朝やつと明るくなる頃、
老人は

「内の檀那の亡くなつたのを、お前知らずに来たのかい。」
「いゝえ。知りません。だがそれはどうでも好いのです。わたしは只言ひ附けられた用を済ませさへすりやあ好いのです。」
「誰が言ひ附けたのだ。」
「マルヒユスさんです。」
「それは誰だい。」
「今は此世の人ではありません。」
「亡くなつたのかい。」
「きのふの朝おしおきになりました。」
「内の檀那を知つてゐた人かい。」
「いゝえ。知らないのですが、宜しく言つて、そして死んだことを知らせてくれと云ひました。それからこちらでは

「うん。己はもう物を言つてゐる。」これはルカスが駆け寄つて、老人の手に接吻しながら言つたのである。
「お前檀那の死顔が見たいのかい」と、差配人が問うた。
「なに。それには及びません。ひどくお変になりましたか。」
「うん。ひどくお変になつた。」
「マルヒユスさんも
「まだ何か言ふことがあるかい。」
「いゝえ。もう往きます。」
「わたしは一しよに往くよ。」これはルカスが優しい声で云つたのである。
もう日が
此訳稿の