はしがき
この一文は目下、
当時、中欧最強の新興国として、現在の日本と同じように、全世界の砲門を
オルクス・クラデル氏は、欧洲大戦終了後、一時長崎の某外科病院(日本人経営)に
筆者は
さて最後に、彼が嘗て軍医として活躍したにもかかわらず、戦争の問題になると、徹頭徹尾戦慄と
一
······おお······悪魔。私は戦争を
戦争という言葉を聞いただけでも私は消化が悪くなる。
戦争とは生命のない物理と化学とが、何の目的もなしに荒れ狂い吼えまわる事である。
戦争とは蒼白い死体の行列が、何の意味もなく踊りまわり跳ねまわる中に、生きた赤々とした人間の大群が、やはり何の興味も、感激もなしにバタバタと
その劇薬化させられた感情の怪焔······毒薬化させられた道徳の異臭に触れよ。戦慄せよ。······一九一六年の一月の末。私が二十八歳の黎明······
その林というのは砲火に焼き埋められた大森林の残部で、そこにはヴェルダン要塞を攻囲している我が西部戦線、某軍団所属の衛生隊がキャムプを作っていて、
勿論、私は到着するがするまで、自分がどこに運ばれて行くものやら見当が附かなかった。市役所で渡された通過章に書いて在る訳のわからない符号や、数字によって、輸送指揮官に指令されるまにまに運ばれて来たので、そこがヴェルダンの後方の、死骸の大量蓄積場······なぞいうことは到着して後、暫くの間、夢にも知らずにいたのであった。ただ自分の居宿に宛てられた小さな天幕の外に立つと、直ぐ向うに見える地平線上に、敵か味方かわからないマグネシューム色の痛々しい光弾が、タラタラ、タラタラと入れ代り立代り撃ち上げられている。その青冷めたい光りに照し出される白樺の幹の、
しかし夜が明けると間もなく、程近いキャムプの中から起出して挨拶に来た私の部下の話で一切の合点が行ったように思った。
私の部下というのは、私とは正反対に風采の
||我が独逸軍は二月に入ると間もなくヴェルダンに向って最後の総攻撃を開始するらしい。目下新募集の軍隊と、新鋳の砲弾とを、続々と前線に輸送中である。そうして貴官······オルクス・クラデル中尉殿は、その
||我が独逸軍の一切の輸送は必ず夜中に限られているようである。仏軍は、そうした我軍の輸送を妨げるために、昨夜も見た通り毎晩日が暮れかかると間もなくから、不規則な間隔をおいて、強力な光弾を打上げては、大空の暗黒の中に包まれた繋留気球に仕掛けた写真機で、独逸軍全線の後方を残る
||だからあの光弾の打上げられている方向がヴェルダンの要塞の位置で、
||新しく募集した兵卒は戦争に慣れないから、死傷者が驚くべき数に達することは、今から十分に予想されている。
コンナ話を聞かされている
しかしイザとなると私は、やはり神経障害的ではあったが、案外な勇気を振い起すことが出来た。零下十何度の殺人的寒気の中に汗がニジム程の元気さで腕一パイに立働く事が出来た。
その二月の何日であったか忘れたが、たしか総攻撃の始まる前日のことであった。私たちの居るキャムプまで巡視に来た衛生隊司令官のワルデルゼイ軍医大佐は、例の
「······クラデル博士。ちょっとこっちへ来て下さい。僕がコンナ話をした事は秘密にしておいてもらいたいですがね······ほかでもないですがね。大変に失礼な事を云うようじゃが、
その時も私は妙に気持が重苦しくなって、胴震いが出て、吐気を催したものであったが······。
そうしてイヨイヨ総攻撃が始まった。
昨日までクローム色に晴れ渡っていた西の方の地平線が、一面に紅茶色の土煙に蔽われていることが、夜の明けるに
その紅茶色の雲の中から併列して
その地殻のドン底から鬱積しては盛り上り、絶えては重なり合って来る轟音の層が作るリズムの継続は、ちょうど日本の東京のお祭りに奏せられる、あの悲しい、重々しい BAKA-BAYASHI のリズムに似ている······。
私は日本の東京に来て、はじめてあの BAKA-BAYASHI のリズムを聞いた時に、殆んど同時に、大勢の人ゴミ中でヴェルダン戦線の全神経の動揺を想起して戦慄した。あの時の通りの吐気が
そのオルケストラの中から後送されて来る演奏済みの楽譜······死傷者の夥しさ。まだ日の暮れない
中央の大キャムプと、その周囲を取巻く小キャムプは無論超満員で、溢れ出したものは遅く上って来た半
戦後、我独逸軍の衛生隊の完備していたことは方々で耳にして来たものであるが、そんな話を聞く
初めて見る負傷兵もモノスゴかった。
片手や片足の無い者はチットモ珍らしくなかった。臓腑を横腹にブラ下げたまま発狂してゲラゲラ笑っている砲兵。右の


夜が深くなって来るに連れて······負傷兵が増加して来るに連れて······一層、仕事が困難になって来た。傷口を診察するタヨリになるのは蛍色の月の光りと、木の枝の
私がソンナ風に仕事に忙殺されている
軍医大佐は足の踏む処も無く並び重なっている負傷兵の傷口を一々点検しているらしい恰好である。その傍には工兵らしい下士卒が入れ代り立代り近附いて来て、大佐が指さした負傷兵を手取り足取り、引立てながらどこかへ連れて行く様子である。
私は軍医大佐の熱心ぶりに感心してしまった。
昼間見た時の同大佐はヒンデンブルグ将軍を小型にしたような、イヤに
そうしたワルデルゼイ大佐の精励ぶりを見ると同時に私は、私の良心が、私の肺腔一パイに涙ぐましく張り切って来るのを感じた。そうしてイヨイヨ一生懸命になって、追い立てられるように、次から次へと負傷者の手当を急いでいたものであったが、間もなく私の間近に接近して来たワルデルゼイ軍医大佐は、私がタッタ今、
それを見ると私は多少の不満を感じたものであった。
······それ以上の手当は現在の状態では不可能です······
という答弁を、腹の中で用意しながら、
「······や。クラデル君ですか。ちょっとこっちへ来て下さい」
そう云う軍医大佐の語気には明らかに多少の毒気が含まれていた。しかし私は勇敢に軍医大佐の側に突立って敬礼した。
ワルデルゼイ軍医大佐は砲弾の穴の半分埋まっている斜面に寝かされている、まだウラ若い候補生の
「この小僧は眼が見えないと訴えているようですが真実ですか」
その候補生は鼻の下と
その横顔を見ている
「ハイ。この候補生は前進の途中、後方から味方の弾丸に
「ウム。それで貴官はドウ診断しましたかな」
「ハイ。多分戦場で陥り易い神経系統の一部の急性痲痺だろうと思いまして、出来るなら後退さして頂きたい考えでおります。時日が経過すれば自然と回復すると思いますから······視力の方が
「ウム。成る程成る程」
と軍医大佐は
大佐はそれから何か考え考え腰を
「立てッ······エエ。立てと云うに······立たんかッ······」
と大喝するのであった。
私は昨日の昼間のワルデルゼイ司令官の言葉を思い出した。それは、
······死んだ奴は魂だけでも戦線へ
という宣言であったが、それ程の
その悲惨そのものとも形容すべき候補生の不動の姿勢を、軍医大佐は怒気満面という態度で見下しながら宣告した。
「······ヨシ······俺に
「······ハッ
「まあいい。ほかの連中がどうにか片付けるじゃろう。······来てみたまえ。
「······ハッ······」
と答えて私は不動の姿勢を取った。
軍医大佐はそうした私の眼の前に、

その背後から候補生が、絶大の苦痛に価する一歩一歩を
「······ありがとう······御座います。クラデル様······」
候補生が大地に沁み入るような暗い、低い、痛々しい声で云った。白い水蒸気の息をホ||ッと月の光りの下に吐き棄てたがモウ泣いているらしかった。
二
私たちの行程は非常に困難であった。
私と連れ立った候補生は、途中で苦痛のために二度ばかり失神して、あまり頑強でない私の
しかし二人とも大佐には追附き得なかった。大佐は途中で二度ばかり私を振返って、
「ソンナ奴は放っとき給え。早く来給え」
と噛んで吐き出すような冷めたい語気で云ったが、私の頑固な態度を見て諦めたのであろう。そのままグングンと私たちから遠ざかって行った。そうした理屈のわからない残忍極まる大佐の態度を見ると、私はイヨイヨ
候補生はホントウに目が見えないらしかった。その眼の前の零下二十度近い空気を凝視している
私は遥かの地平線に散り乱れる海光色の光弾と、中空に
候補生も何か感じているらしく、その大きく見開いた無感覚な両眼から、涙をパラリパラリと落しているのが、月の光りを透かして見えた。
私は
「軍医大佐殿とはモウ余程離れておりますか」
「······ソウ······百
候補生は答えないまま空虚な瞳を星空へ向けた。血の気の無い白い唇をポカンと開け、暫く何か考えているらしかったが、やがて上衣の内ポケットから小さな封筒大の油紙
しかし私は受取らなかった。彼の手と油紙包みを一所に握りながら問うた。
「これを······私に呉れるのですか」
「······イイエ······」
と青年は頭を強く振った。なおも湧出す新しい涙を、汚れた脱脂綿で押えた。
「お願いするのです。この包を私の故郷の妻に渡して下さい」
「
「······ハイ。妻の
「中味の品物は何ですか」
「僕たちの財産を入れた金庫の鍵です」
「······金庫の鍵······」
「そうです。その
と云う
「とにかく······話して御覧なさい」
「······あ······有難う御座います······」
「サアサア······泣かないで······」
「すみません。済みません。こうなんです」
「······ハハア······」
「······僕の先祖はザクセン王国の旧家です。僕の家にはザクセン王以上の富を今でも保有しております。父は僕と同姓同名でミュンヘン大学の教授をつとめておりました。僕はその一人息子でポーエル・ハインリッヒという者です。今の母親は継母で、父の後妻なんですが、僕と十歳ぐらいしか
「成る程。よくわかります」
「僕が継母に
私は太い、長い、ふるえたタメ息を腹の底から吐き出した。最初は不承不承に聞いていたつもりであったが、いつの間にか一も二もなく候補生に同情させられていた。
「成る程······
「······でしょう······ですから僕は、僕の財産の一切を妻のイッポリタに譲るという遺言書と一緒に、色々な証書や、家に伝わった宝石や何かの全部を詰め込んだ金庫の鍵を、戦線に持って来てしまったんです。ちょうど妻が
「成る程。よくわかります」
「それだけじゃないのです。私の出征した後で帰って来た妻は、私の母親と弁護士に勧められて、
「それあ
「······怪しからんです······しかし妻は、僕から離別した意味の手紙を受取らない限り、一歩もこの家を出て行かないと頑張っているそうですが······私たちは固く固く信じ合っているものですからね······」
候補生は一秒の時間も惜しいくらい迅速に、要領よく事情を説明した。恐らく彼が鉄と、火と、毒
「どうぞどうぞ後生ですから、この鍵を
私は思わず
見も知らぬ人間にこうした重大な物品を委托するポーエル・ハインリッヒ候補生の如何にもお坊ちゃんらしい純な、無鉄砲さに呆れ返りながらも、無言のままシッカリと油紙包みを受取った。
「······ありがとう御座います。ドウゾドウゾお願します······僕は······この悩みのために二度、戦線から脱走しかけました。そうして二度とも戦線に引戻されましたが、その三度目の逃亡の時に······
「···············」
「······しかし······しかし
そう云う
「······見えませぬ。······見えませぬ。神様のような貴方のお顔が見えませぬ······ああ······残念です······」
私は思わず赤面させられた。私は自分の顔の
「ナアニ、今に見えるようになりますよ。失望なさらないように······」
候補生は真黒く凍った両手で、私の
「僕はモウジキ死にます。遅かれ早かれヴェルダンの土になります。······その前にタッタ
私はモウすこしで混乱するところであった。
死のマグネシューム光が照し出す荒涼たる黒土原······殺人器械の交響楽が刻み出す氷光の静寂の中に、あらゆる希望を奪い尽くされた少年が、タッタ一つ恩人の顔だけを見て死にたいと

しかし地平線の向うでダンダンと発狂に近付いて来るヴェルダン要塞の震動に、凝然と耳を傾けていた候補生は、間もなく頭を強く左右に振った。ヨロヨロと私から退き離れた。
「ああ。何もならぬ事を申しました。さあ参りましょう。軍医大佐殿が待っておられますから······疑われると
私はここでシッカリと候補生を抱き締めて、何とか慰めてやりたかった。昂奮の余りの超自然的な感情とはいえ、この零下何度の殺気に
しかし候補生は何かしら気が
私は神様に命ぜられたような崇高な感じに打たれつつ
三
やがて二
その僅かに二三尺から、四五尺の高さに残っているコンクリートや煉瓦塀の断続の間に白と、黒と、灰色の
もうスッカリ麻痺していた私の神経は、そんな物凄い光景を見ても、何とも感じなかったようであった。候補生を肩にかけたままグングンとその死骸の山の間に進み入った。ガチャリガチャリと鳴る軍医大佐の
そこは戦前まで村の中央に在った学校の運動場らしかった。周囲に折れたり引裂かれたりしたポプラやユーカリの幹が白々と並んでいるのを見てもわかる。その並木の一本一本を中心にして三方に、四五
その広場の中央に近く、やはり数十の負傷兵が、縦横十文字に投出されたように寝転がっていたが、しかしこの負傷兵たちが、何のために白樺の林から隔離されて、コンナ陰惨な死骸の堡塁の中間に収容されているのか私はサッパリ見当が付かなかった。しかもこの連中は比較的軽傷の者が多いらしく、村の入口らしい、石橋の処で待っていた大佐と、私たちとが一緒になって中央に進み入ると、寝たまま半身を起して敬礼する者が居た。それは特別に軍医の注意を惹いて、早く治療を受けたいといったような、負傷兵特有の痛々しい策略でもないらしい敬礼ぶりであった。
しかしワルデルゼイ軍医大佐は、そっちをジロリと見たきり、敬礼を返さなかった。直ぐに私の方を振返って、
「その小僧をそこへ突放し給え」
と云ったがその鬚だらけの顔付の恐しかったこと······月光を背にして立っていたせいでもあったろう。地獄から出張して来た青鬼か何ぞのように物凄く見えた。
私が候補生を地面にソッと寝かしてやると、軍医大佐は苦々しい顔をしたまま私を身近く招き寄せた。携帯電燈をカチリと照して、そこいらに寝散らばっている負傷兵の傷口を、私と一緒に一々点検しながら、無学な負傷兵にはわからない
「この傷はドウ思うね······クラデル君······」
「······ハ······
「普通の貫通銃創と違ったところはないかね」
「銃創の周囲に
「······というと······どういう事になるかね」
私はヤット軍医大佐の質問の意味がわかった。
しかし私は返事が出来なかった。······自分の銃で、自分の
大佐は鬚の間から白い歯を
「そんならこの下士官の傷はドウ思うね」
「······ハ······やはり上膊部の貫通銃創であります。火傷は見当らないようですが······」
「それでも何か違うところはないかね」
「······弾丸の入口と出口との比較が、ほかの負傷兵のと違います。仏軍の弾丸ではないようで······近距離から発射された銃弾の貫通創と思います」
「······ウム······ナカナカ君はよく見える。そこでつまりドウいう事になるかね」
私は又も返事に困った。前の時と同じ理由で······。
「この脚部の
「弾丸の入口が後方に在ります」
「······というとドンナ意味になるかね」
「························」
「それじゃ君······コッチに来たまえ。この腕の傷がわかるかね」
「わかります。弾丸の口径が違います。私は
「何の弾丸だったね。それは······」
「························」
「味方の将校のピストルの
「························」
「······ハハハ······もう大抵わかったね。ここに集めて在る負傷兵の種類が······」
「······ハイ······ワ······わかりました」
私は何故となくガタガタ震え出した。
しかしワルデルゼイ軍医大佐は、依然として「研究」を中止しなかった。なおも次から次へと私を引っぱりまわして、殆んど百名に近いかと思われる負傷者の患部を診察しては質問し、質問しては次に移って行ったが、いずれもその最後は、私が答える事の出来ない質問に帰着する種類の負傷ばかりであった。
悽愴極まる屍体の山と石油臭の中に隔離されている約一小隊の生霊に、モウ間もなく与えられるであろう軍律の制裁······或る不可知の運命を考えさせられながら、その不名誉この上もない······
「······そこでクラデル君。これらの全部の負傷兵の種類を通じての特徴として、君は何を感じますかね」
「······ハッ······。皆、味方の銃弾か、銃剣によって
「······よろしい······」
吾が意を得たりという風に云い放った軍医大佐はピタリ顔面の摩擦を中止した。満足げに

その時に姿勢を正したワルデルゼイ軍医大佐は、三方の屍体の山を見まわしながら真白い息を吐いて
「······皆ア······立て||エッ······」
アッチ、コッチに寝転がっていた負傷兵が皆、弾かれたようにヒョコリヒョコリと立上った。中には二三人、地面に凍り付いたように長くなっている者も在ったが、それは早くも軍医大佐の命令の意味を覚って、失神した連中であったらしい。
何の反響も与えない三方の屍体の山が、云い知れぬモノスゴイ気分を場内一面に横溢させている。
「皆、俺の前に一列に並べ。早く並べ······何をしとるか。倒れとる奴は引摺り起せ」
声に応じて二三人の負傷兵が寄り集まって、長くなっている仲間を抱き上げようとしたが結局、無駄であった。正体のなくなっている酔漢と同様にグタグタとなって何度も何度も戦友の腕から辷り落ちるのであった。真実に気絶しているらしいので、凍死しては
「······放っとき給え······ほっときたまえ······凍死する奴は勝手に凍死させておけ。そんな者はいいから早く並べ。······ヨオシ······皆、気を附け······整頓······番号······」
「二、三、四······八十······八十一ッ······」
「八十一か······」
「ハイ。八十一名であります」
最後尾に居るポーエル候補生が真正面を向いたまま答えた。
「よろしい。寝ている奴が三人と······合計八十四名だな」
「そうであります」
今度は候補生の一つ前に居る中年の軍曹が答えた。ピストルで腕を撃たれている男だ。肩から白い繃帯と副木で綿に包まれた腕を釣っているのがこの場合、恐ろしく贅沢なものに見える。
「······よろしい······」
軍医大佐が又も咳一咳した。
「······馬鹿······誰が休めと云うたか······銃殺するぞ。馬鹿者
死骸の山を背景にして、蒼白な月光に正面した負傷兵の一列の顔はドレもコレも生きた色を失っていた。死人よりも力ない······幽霊よりもタヨリない表情であった。その生きた死相の行列は、一生涯、私の網膜にコビリ付いて離れないであろう。
「······汝等は······何故に普通の負傷兵から区別されて、ここに整列させられているか、自分で知っているか」
軍医大佐の言葉が終らぬ
ツルツルと一筋、つめたい汗の玉が背筋を走ったと思うと、私も眼の前の光景が、二三十
倒れた仲間を振返って見る者は愚か、身動きする者すらいなかった。皆、蒼白い月の光の中に氷結したようにシインと並んで立っていた。······その時の彼等がドンナ気持で立っていたか、私には想像出来なかった。ただボンヤリと
「わからなければモウ一つ質問する」
軍医大佐は一歩前進して自分の背後を指した。
「眼を開いて汝等の正面を見よ。あの物凄い銃砲の音と、火薬の渦巻を見よ。あれが見えるか。あれは一体、何事であるか······わかるか······」
「···············」
誰も返事をしなかった。返事の代りに又も二三人バタリバタリと引っくり返っただけであった。
「······よろしい······それから······廻れエ、右ッ······」
皆、器械のように決然と廻転した。
「よしッ。汝等の背後に山積して在る汝等の同胞の死骸を見よ······これはイッタイ何事であるか汝等の同胞は何のためにコンナ悲壮な運命を甘受しているのか······わかるか······」
思い出したように
光弾が······仏軍のマグネシューム光がタラタラと白い首筋の一列を照して直ぐに消えた。
「······よろしい。廻れエ、右ッ······整頓······。わからなければ今一つ尋ねる。ええか。······イッタイ吾々軍医なるものは何のために戦場に来ているのか汝等は知っているか」
「···············」
「······ただ自分達の負傷の手当のためにばかり来ていると思ったら大間違いだぞ。汝等のような売国奴同然の非国民を発見して処分するのが俺達、軍医の第一、第二、第三の責務である。負傷の手当てなどいうものは第四、第五の仕事という事を知らないのか! エエッ!」
そういう
ワルデルゼイ軍医大佐は更に強く咳一咳した。声がすこし
「······ええか······よく聞け······軍医の学問の第一として教えられることは
「···············」
「······現在······汝等の父母の国は、汝等の父母が描きあらわした偉大な民族性の発展を恐れ憎んでいる全世界の各国から撃滅されむとしつつ在る。学術に、技芸に、経済政策に、模範的の進取精神を輝かして、世界を掠奪せむとしている吾々独逸民族に対して、卑怯、野蛮な全世界の未開民族どもが、あった限りの非人道的な暴力を加えつつ在る。英、仏、伊、露、米、等々々は皆、吾々の文化を恐れ、吾々の正義を滅ぼそうとしている旧式野蛮国である······わかったか······」
「···············」
「これを憤ったカイゼルは現在、吾々を率いて全世界を相手に戦っている。汝等の父母、同胞、独逸民族の興亡を
「························」
「その戦いの勝敗の分岐点······全、独逸民の生死のわかれ目の運命は、今、汝等の真正面に吠え、唸り、燃え、渦巻いているヴェルダンの要塞戦にかかっているのだ。その危機一髪の戦いに肉弾となって砕けた勇敢なる死骸は······見ろ······汝等の背後にあの通り山積しているのだ。······その死骸を見て汝等は恥しいとは思わないのか」
「···············」
「汝等はそれでも人間か。光栄ある独逸民族か。世界を敵として正義のために戦うべく、父母兄弟に送られて来た勇士と思っているのか」
「···············」
「······下等動物の
「···············」
「汝等は戦死者の列に入る事は出来ない。無論······故郷の両親や妻子にも扶助料は渡らない覚悟をしろ。ただ汝等の卑怯な行為が、汝等の父母、兄弟、朋友たちに絶対に洩らされない······軍法会議にも渡されない······今日只今限りの秘密の
私はモウ立っている事が出来ない位ふるえ出していた。眼の前の負傷兵の一列が、どうして身動き一つせずにチャント立っているのだろうと不思議に思った位であった。
ワルデルゼイ軍医大佐は、演説を終ると同時に右手を唇に当てて、呼子の笛を高らかに吹き鳴らした。その寒い、鋭い音響が私の骨の髄まで沁み
それは輜重隊の大行李に配属されている工兵隊の一部が、程近い処に伏せて在ったのであろうと思われる。かねてから打合わせて在ったと見えて一小隊、約百名ばかりの
その列の後方から小隊長と見える一人の青年士官が、長靴と、長剣の鎖を得意気に鳴らして走り出て来た。軍医大佐の前に来て停止すると同時に物々しく
折からヴェルダンの中空に辷り昇った強力な照明弾が、向い合った味方同志の兵士の行列を、あく迄も青々と、透きとおる程悽惨に照し出した。
その背後の死骸の山と一緒に······。
四
若い小隊長は白刃を捧げたまま切口上を並べた。
「フランケン・スタイン工兵聯隊、第十一中隊、第二小隊カアル・ケンメリヒ中尉······」
「イヤ。御苦労です」
軍医大佐は巨大な毛皮の手袋を
「この犬
「······ハッ······ケンメリヒ中尉は、この非国民の負傷兵等をカイゼルの
後方勤務でウズウズしていた若い、忠誠なケンメリヒ中尉は、この使命を勇躍して待っていたらしい。今一度、私等二人に剣を捧げると靴音高らかに、活溌に廻れ右をした。
トタンに照明弾が消えて四周が急に青暗くなってしまった。網膜が作る最深度の灰色の暗黒の中に、何もかもグーンと消え込んで行ってしまった。
「······軍医殿······ワルデルゼイ大佐殿······」
という悲痛な叫び声が、照明弾の消滅と同時に負傷兵の一列の中から聞えた。それは
······と思ううちに忘れもしない一番右翼に居た肩を負傷した下士官が、青暗い視界の中によろめき出て来て、私たちの足下にグタグタとよろめき倒おれた。起上ろうとして悶えながら、苦痛に歪んだ半面を斜めに、月の光りの下に持上げた。そのまま極めて早口に······殆んど死物狂いの意力をあらわしつつハッキリと云った。
「······ミ······皆を代表して申しますッ。コ······ここで銃殺されるよりも······イ······今一度、戦線へ返して下さいッ。イ······一発でも敵に向って発射さして、死なして下さいッ。戦死者の列に入れて下さいッ······アッ······」
いつの間にか駈け寄って来たケンメリヒ中尉が、恐ろしく憤激したらしく、半身を支え起している軍曹の軍服の背中を、
「エエッ。卑怯者ッ。今更となって······恥を
「アイタッ······アタッ······アタアタッ······サ······晒します晒しますッ。ワ······私は······故郷に居る、
「ええッ。未練者······何を云うかッ······」
「アタッ。アタッ。わかりました。······もうわかりましたッ。何もかも諦らめました。ヴェルダンの火の中へ行きます······喜んで······アイタッ······アタアタアタアタアタッ」
月光に濡れた工兵中尉の剣光がビィヨンビィヨンと空間に
「······ナ······何を
「アツツツツツ。アタッ。アタッ、待って······待って下さい。皆も······皆も私と同じ気持です。同じ気持です。どうぞ······どうぞこの場はお許し······お許しを······アタッ······アタッ······アタアタアタッ······ヒイ||ッ······」
可哀そうに軍曹は熱狂したケンメリヒ中尉の軍刀の鞭の下に気絶してしまった。私は衝動的に走り寄つて、メントール酒の瓶を軍曹の唇に近附けたが、瓶は
その時にワルデルゼイ軍医大佐は、なおも懸命に軍刀を揮いかけているケンメリヒ中尉を
「······待ち給え。待ち給え。ケンメリヒ君······皆がこの軍曹の云う通りの気持なら、ここで犬死にさせるのも考え物ですから······」
そう云った軍医大佐の片頬には、何かしら······冷笑らしいものが浮かんでいるように思ったが······しかしそれは極度に神経を緊張させていた私の錯覚か、又は
不平そうに頬を
十
同じように不動の姿勢を執っている負傷兵たちの頬には皆、涙が流れていた。その涙が光弾のゆらめきを蒼白くテラテラと反射していた。
しかしその中にタッタ一人、列の最後尾に立っている候補生の美しい横顔だけは濡れていなかった。······のみならず何かしらニコニコと不思議な微笑を浮かめて真正面を凝視しているのが、さながらに天国の栄光を仰いでいる使徒のように
けれども大佐は候補生の微笑に気付かなかったらしい。今度はハッキリした軽い冷笑を片頬に浮かめながら今一度、一同を見廻わした。
「何だ。皆泣いているのか。馬鹿共が······何故早く拭わぬか。凍傷になるではないか······休めい······」
負傷兵たちが一斉に頭を下げてススリ泣きを初めた。各自に帽子や服の
ケンメリヒ中尉が背後の工兵隊を
「立てえ銃······休めえ」
「気を附け······」
と大佐が負傷兵たちに号令した。右翼の兵卒が二名出て来て、気絶している軍曹を抱え起して行った。
「皆わかったか」
「······わかりました······」
と全員が揃って答えた。生き返ったような昂奮した声であった。
大佐も幾分調子に乗ったらしい。釣込まれるように両肱を張り、両脚を踏み拡げて、演説の身構えになった。
「······よろしい······大いによろしい······現在の独逸は、数百カラットの宝石よりも、汝等に与える一発の弾丸の方が、はるかに
「わかりました」
大佐の演説の身振りがだんだん
「······よろしい······もうすこし云って聞かせる······近い
「わかりました」
大佐は演説の身ぶりをピタリ止めて、厳正な直立不動の姿勢に返った。右手を揚げて列の後尾を指した。
「······よし行け······その左翼の小さい軍曹······汝の負傷は一番軽い
「······ハッ······陸軍歩兵軍曹······メッケルは負傷兵······八十······四名を引率してヴェルダンの戦線に帰ります。軽傷でありましたから帰って来ましたと各部隊長に報告させます」
「······よろしい······今夜の事は永久に黙っておいてやる······わかったか······」
「······わかりました。感謝いたします」
「······ヤッ······ケンメリヒ中尉。御苦労でした。兵を引取らして休まして下さい。御覧の通り片付きましたから······ハハハ······」
そんな風に、急に気軽く砕けて来た軍医大佐のあたたかい笑い声を聞くと同時に、私の全身がゾオッと
それは今の今まで、この鋼鉄製の脳髄を持った軍医大佐から、あまりにも真剣過ぎる超自然的な試練に直面させられて、ヘトヘトにまでタタキ附けられている私の脳髄が感じた一種の弱い、しかし強く鋭い一種の幻覚錯覚であったかも知れない······。
······ワルデルゼイ軍医大佐は元来、非常な悪党なのではあるまいか。西部戦線の裡面に巨大な巣を張りまわして、こうした方法で出征兵士の生血 を啜 っている稀代の大悪魔なのではあるまいか。大佐は出征兵士の故郷の人々から金を貰って色々な不正な事を頼まれているのではあるまいか。
······戦争がその背後に在る国民の心を如何に虚無的にし、無道徳にし、且 つ邪悪にするかという事実は、吾が独逸の国民史を繙 いてみても直ぐにわかる事である。しかも近代的な唯物観から来た虚無思想と、法律至上主義によってゲルマン民族の伝統的な誇りとなっていた吾が独逸国内の家庭道徳が、片端から破壊されつつ在る今日に於て勃発した戦争である以上、こうした崩壊の道程に在る家庭内の不倫、不道徳が、独逸軍の裡面に反映しない筈はないのである。
······出征兵士の中には、あの美少年候補生が話したような家庭の事情のために、是非とも殺されなければ都合の悪い運命を背負っている若い連中が何人、混交 っているかわからないであろう。その気の毒な犠牲候補たちが、万一にも負傷して後送される事のないように······又はソンナ連中が、故郷の事を気にかける余りに、自傷手段で戦線から逃出して来るような事がないように、大佐は平生から沢山の賄賂を貰って、シッカリと頼まれているのではあるまいか。
······だから、あんなに熱心に患者を診察して廻わったのではあるまいか。そうして、そんな連中を何でもない普通の自傷兵とゴッチャにして、あんな風に脅迫して、無理矢理に戦線へ送り返しているのではないか。······だから、私を利用して、その計略の裏を掻いた候補生が、あんなにニコニコと微笑しているのではなかろうか······。
······といったような途方もない、在り得べからざる邪悪な疑いが、······戦争がその背後に在る国民の心を如何に虚無的にし、無道徳にし、
······出征兵士の中には、あの美少年候補生が話したような家庭の事情のために、是非とも殺されなければ都合の悪い運命を背負っている若い連中が何人、
······だから、あんなに熱心に患者を診察して廻わったのではあるまいか。そうして、そんな連中を何でもない普通の自傷兵とゴッチャにして、あんな風に脅迫して、無理矢理に戦線へ送り返しているのではないか。······だから、私を利用して、その計略の裏を掻いた候補生が、あんなにニコニコと微笑しているのではなかろうか······。
そうした私の疑惑を打消すかのように、向い合っていた二条の一列横隊は、私たちの眼前で同時に、反対の方向を先頭にした一列縦隊に変化した。そうして一方は元気よく、勝誇ったように······一方は
その別々の方向に遠ざかって行く兵士の行列をジイッと見送っている
······彼等は一体、何をしに行くのであろうか。
······戦争とは元来コンナものであろうか。彼等はホントウに戦争の意義を知って戦争に行くのであろうか。彼等が戦争に行くのは国のためでも、家のためでもない。ただワルデルゼイ大佐に威嚇されて、死刑にされるのが厭 さにヴェルダンの方向へ立去るのではあるまいか。
私はいつの間にか国家も、父母も、家庭も持たない、ただ科学を故郷とし、書物と器械と、薬品ばかりを親兄弟として生きて来た昔の淋しい、空虚な、一人ポッチの私自身に立ち帰っていた。······戦争とは元来コンナものであろうか。彼等はホントウに戦争の意義を知って戦争に行くのであろうか。彼等が戦争に行くのは国のためでも、家のためでもない。ただワルデルゼイ大佐に威嚇されて、死刑にされるのが
······自分は伯林 を出る時に、カイゼルに忠誠を誓って来るには来た。しかし、それでも本心をいうと自分は、真実のゲルマン民族ではないのだ。彼等兵士とも、眼の前に突立っているワルデルゼイ氏とも全然違った人種なのだ。自分自身でも自分が何人種に属するかわからない単なる一個の生命······天地の間に湧き出した、医術と音楽のわかる小さな一匹の蛆虫 に過ぎないのだ。
······その三界 無縁の一匹の蛆虫が、コンナにまでも戦慄し、驚愕して、云い知れぬ良心の呵責をさえ受けている原因はどこに在るのだろう。
······一体自分はここへ何しに来ているのだろう。
私はこの死骸の堡塁の中で、曾ての中学時代に陥った記憶のある、あの虚無的な、底抜けの懐疑感の中へ今一度、こうして深々と······その
······一体自分はここへ何しに来ているのだろう。
そう思えば思うほど、そうした戦争哲学のドン底に渦巻いている無限の疑惑の中に私はグングンと吸い込まれて行った。見渡す限りの黒土原······ヴェルダンの光焔······
そう思い思い私はフト大空を仰いだ。
······あの大空に白く輝いている、割れ口のギザギザになった下弦の月こそは、そうした戦争に対する疑惑の凝り固まった光りではなかったか······氷点下二百七十三度の疑惑の光り······。