どこか遠くで一つか二つか鳴るボンボン時計の音を聞くと、
屋根裏の窓に引っかかっている春の夜の黄色い
······この頃来なくなっている玲子の家庭教師の大学生、中林哲五郎先生に
中林先生。早く玲子を助けに来て下さい。
今のお母さんが去年の十二月にいらっして、先生が私の家 に来て下さらなくなってからというもの玲子は泣いてばかりおりますの。先生がよく玲子にお話して聞かして下すった西洋の探偵小説とソックリの怖い怖い悲しい悲しいことばかりが玲子の家 の中一パイに渦巻いております。
去年からコカイン中毒になって弱っておいでになったお父様が、二三日前に急に思い立って信州へ鳥の研究にお出かけになってからというもの、そんな怖い悲しいことが急に私のまわりに殖えて来ました。ですけども詳しいことは書いている隙 がありません。
玲子の家 に泥棒が這入 りそうですの。そうしてお母様を殺しそうですの。私どうかしてお母様を助けて上げたくてしようがありませんけど、とても怖くて怖くてそんなことが出来そうにありません。
今朝 、学校に行きがけに怖い顔をしたルンペンの小父 さんから手紙を一通ことづかりました。お父様の所番地にいる根高弓子という女の人のアテナになっております。それを誰にもわからないように、お前のお母さんに渡せ······うまく渡さないとお前は、お母さんに殺されてしまうぞって言って怖い顔をして睨まれました。
うちのお母様は根高弓子なんていいません。大沢竜子っていうのですから、あたしどうしようかと思って、休みの時間に手紙をいじりまわしておりますといつの間にか封筒の下の方の糊が離れて中味が脱け出して来ましたの。そうして悪いことはわかっていたのですけど、あんまり心配ですから玲子はその手紙の中味を読んでしまいましたの。
玲子はビックリしてしまいました。そうして十二時の休みの時間に大急ぎでこの手紙を書きました。お友達からお金を借りて速達で出します。
そのルンペンの小父 さんから貰った手紙には先生からお話に聞いた探偵実話ソックリの怖い怖いことが書いてありました。玲子の今のお母様のズット前のお婿さんが北海道の監獄から逃げ出して来て、久し振りにお母さんに出す手紙なのでした。
中林先生。あたし、どうしたらいいのでしょう。どうぞどうぞ直ぐにいらっして下さい。玲子にどうしたらいいか教えて下さい。かしこ。
三月二十二日今のお母さんが去年の十二月にいらっして、先生が私の
去年からコカイン中毒になって弱っておいでになったお父様が、二三日前に急に思い立って信州へ鳥の研究にお出かけになってからというもの、そんな怖い悲しいことが急に私のまわりに殖えて来ました。ですけども詳しいことは書いている
玲子の
うちのお母様は根高弓子なんていいません。大沢竜子っていうのですから、あたしどうしようかと思って、休みの時間に手紙をいじりまわしておりますといつの間にか封筒の下の方の糊が離れて中味が脱け出して来ましたの。そうして悪いことはわかっていたのですけど、あんまり心配ですから玲子はその手紙の中味を読んでしまいましたの。
玲子はビックリしてしまいました。そうして十二時の休みの時間に大急ぎでこの手紙を書きました。お友達からお金を借りて速達で出します。
そのルンペンの
中林先生。あたし、どうしたらいいのでしょう。どうぞどうぞ直ぐにいらっして下さい。玲子にどうしたらいいか教えて下さい。かしこ。
大沢玲子より
中林先生様 御許に······
巨大な旧式洋館の大沢子爵邸内の春の夜はヒッソリ
玲子はその時計の針を見ようとしたが、近寄れば近寄るほど背が低くなって駄目なことがわかったので、思いきってその時計の横のスイッチを
その覗き窓の直ぐ下に大きなペンキ塗の犬小舎の屋根が月あかりに見えていた。それはズット前のこと、大沢家に泥棒が
しかしその時に玲子は別段にアムールの名を呼ぼうとはしなかった。ただ一心にその犬小舎の周囲を取巻く軒下の暗闇を見守っているきりであった。二時半を打っても三時を打っても······片割月が西側の森に隠れて、そこいらがすこし暗くなりかけても、一心に窓際に掴まっていた。そうして東の空が、ほのぼのと明けかかって来ると、玲子はほっとタメ息を一つして廊下を引返して玄関に出た。足音を忍ばしてまだ真暗な二階のサロンへ上って来た。
ところが玲子が三階の物置へ通ずる狭い板梯子へ片足を踏みかけようとした時に、サロンの天井に吊された美事なキリコ
「あら······お母様······」
サロンの片隅の寝室に通ずるカーテンの蔭から美しい婦人の姿が徐々に現われた。それは三十四五かと見える前髪を縮らした美しいマダムで、全身が
「何をしているのです」
その声は低くて力があった。小柄な、
「······はい······」
「はいではありません。子供の癖に真夜中に起きて
マダムの口調は憎しみにみちみちていた。玲子はモウぽとりぽとりと涙を
「はい······あの······あの······泥棒が······」
「······泥棒······何が泥棒です······」
「あの······あの······このごろ······アムールが御飯を食べなくなりましたので······」
マダムの薄い唇に冷笑が浮かんだ。
「ほほほ。利いた風なことを言うものではありません。泥棒が
「···············」
「ハッキリ返事をなさい」
「······ハ······ハイ······」
「何がハイです。うちのアムールは、そんなに手軽く
「···············」
「ハッキリ返事をなさい」
「ハイ······ハ······ハイ······」
「あると言うのですか」
「···············」
「あなたは······どうしてソンナにしぶといのですか」
そういううちにマダムの
玲子は、それを見るなりグッタリと力を失ってしまった。今にも気絶しそうに左手の柱に掴まると、右手で懐中から一通の封筒を取出してマダムの方向へ差出した。ガックリとうなだれて涙をハラハラと流しながら······。
その封筒の文字を、遠くから一目見ると、マダムはハッと顔色を変えた。しかし又すぐに何も知らぬ白々しい顔になって冷笑した。
「ホホホ。神経過敏にも程があるわねえ、この
といううちにツカツカと近寄って来てその手紙を引ったくって無造作に封を破った。中味を拡げるとシャンデリアの方向に向けて読み初めた。
玲子は今にも鞭が降り落ちて来るかのように、その前にペタリと坐って両手で顔を蔽うた。
「ホホホ。この手紙がどうしたんですか······何ですって······『弓子、久し振りだなあ、よもや忘れはしまい。俺は十五年前に別れたお前の夫、
「···············」
「どうやらお前さんの知っている人らしいわねえ。こんな手紙を持っているところを見ると······ええ······と······『俺はお前のために俺の旧悪を密告されて、
「···············」
「ええと······『それでも俺はお前を怨まなかった。こうして苦心惨憺して三年前に脱獄してからというもの、それこそ
「···············」
「······きっと脅迫してお金にしようと思っているのよ、この男は······『けれども俺は、お前の今の仕事の邪魔をしようと思っているのじゃないから安心しろ。その代りにこの手紙を見た瞬間からお前が、俺の命令に絶対に服従しなければならぬことだけは、もうトックに覚悟しているだろう。一銭五厘のねうちが、どんなに恐ろしいものか、知り過ぎるくらい、知っているだろう。そうして俺の眼が、
ここまで読んで来ると
玲子はその声に耳を澄ましているうちに、いつの間にか氷のような冷静さに帰っていた。春の夜の明け方の静けさにみちみちた大沢邸内のどこかに、
しかし手紙の方に気を取られていた大沢竜子はソンナことに気がつかないらしく、なおも平気な声をよそおいながら、玲子に聞えよがしに手紙の文句を読み続けて行った。
「『俺はお前に命令する。お前の
「···············」
「ああ。やっとわかったわ。ねえ玲子さん。この男はこの根高弓子の財産を横取りしてから、弓子を殺して高飛びするつもりよ。トテモ恐ろしい悪党よこの男は······呆れた······『念のために言っておくが、お前は今の娘の家庭教師の何とかいう若い大学生に惚れているようだ。お前が主人の留守中にあの大学生に何かイヤらしいことを言ったので、あの大学生が、お前の
お前のこれからの一生涯の幸福は、お前の財産全部を持って俺と
いつの間にかほかのことばかり······中林先生のことばかり一心に考えていた玲子はビクッとして顔から手を離した。シャンデリアの下に美しく微笑んでいるマダム竜子の顔を見上げた。
「おまえこの手紙を通りがかりの人から
玲子は黙ってうなずいた。
「どんな人だったの······」
母親の顔が今までに一度もないくらい優しい、柔和な、親切にみちみちた顔だったので、玲子は思わずホッとタメ息を
「······あの······ルンペンみたいな人······」
「いくつぐらいの人だったの」
「······あの······よくわかりませんでしたけど、四十か五十くらいの
「ホホホホ。まあ呆れた人ねえ玲子さんは······あなたはねえ。きっと雑誌の小説ばかり読んでいるお蔭で、あたまが変テコになっていんのよ。だからコンナ手紙を貰うと、すぐに探偵小説みたいなことを考えて、夜中に起きたり何かして心配すんのよ」
「···············」
「この手紙はねえ。玲子さん。このごろ
「···············」
「お母さんがいなかったら玲子さんは大変なことを
玲子は眼をパチパチさせながら半分無意識にうなずいた。それでも何だか急に淋しくて、悲しくなって来たようなので、両手を顔に当ててシクシクと泣き出した。マダムの竜子はその背中を優しく撫でてやった。
「泣くことなんかチットモないわよ。玲子さん。あなたはこの手紙の中味を盗み読みしたり、先生に話したりはしないでしょうね」
玲子はお
「ホホホ。意気地がないのねえ。あんまりアナタが神経過敏すぎるからよ。······ね。玲子さん······よござんすか。よしんばこの手紙が全部ほんとうで、お母さんが根高弓子という恐ろしい毒婦だったとしても、あなたはチットモ心配することはないのですよ。あたしの戸籍はチャントしていて、正しいアナタのお母さんに違いないのですからね。こんなケチなユスリにかかってビクビクするような子爵夫人じゃないんですからね。チェッ。馬鹿にしてるわよ。ホントニ······」
マダム竜子のこうした言葉尻は、貴夫人に似合わない下品な、毒々しい調子であった。玲子も両手を顔に当てたままビクッとした位であったが、竜子は直ぐに言葉を柔らげて今一度、玲子の背中を撫でてやった。
「サアサア玲子さん。モウじきに夜が明けますからね。早くおやすみなさい。
玲子は思いがけなく変った母親の、親切この上もない態度に
「おやすみなさい」
と言って顔を上げたが、その時にはもうマダム竜子は寝室に入ったらしく、入口のカーテンが微かに揺らぎ残っているだけであった。
玲子はまた急に悲しくなりながら、サルーンの電燈を消して、ギシギシと鳴る階段を手探りの足探りにして三階の方へ上って行った。
それから何分か、何十分か······ホンノちょっとばかり三階の寝床の中でウトウトしたと思ううちに突然、下の二階あたりから
けれども玲子は寝室の中へ一歩を踏み入れかけると同時にハッと立止まった。寝室の中の光景を一目見ると、入口の柱に
ツイ今しがたまでピンピンしていたマダムの竜子が、派手な寝間着のまま、寝台から床の上に引きずり
そのほかには誰も居ない。
玲子はもうハアハアと息を切らして眼が
「お母さまッ······」
と叫んで走り寄って、血だらけの胸に
······と思ったがかの時遅くこの時早く、玲子はその屍体の一歩手前で、背後からシッカリと抱き止められていた。
そう気がついた玲子は、全身の血が一時にピッタリと冷え凍ったように思った。抱き止められたまま、またも石のように固くなって、手足を縮み込ませていた。その時に背後から抱き止めた人が声をかけた。それは静かな優しい声であった。
「玲子さん。屍体に触っちゃいけません。もうジキ警察の人が来ますから······」
「アラッ······中林先生······」
そう叫ぶと同時に玲子は緩んだ中林先生の腕の中でクルリと向き直って制服姿の胸に顔を埋めた。シッカリと縋りついたままワッとばかりに泣き出した。
中林先生は、その逞ましい腕に、泣いている玲子を軽々と抱き上げるようにして、サルーンへ連れて来た。そこのロココ式の長椅子の上に腰を卸して、泣き沈んでいる玲子のお
「可哀そうに······苦労させましたね、玲子さん······」
玲子は中林先生の肩に縋りながら一層烈しく泣き出した。
「玲子さん······僕は今のお母さんが初めてこの
「イイエイイエ。先生。先生を怨む気持なんか······あたし······あたし······」
「まあまあ落ちついて聞いて下さい。あなたが、それでもあの女をホントの母親のように思って心から慕い、敬っていられるのを見て、僕がドンナに感心したことか······そうしてドンナに心配したことか······ね。玲子さん。わかって下さるでしょう、僕の心持は······」
「ええ。ええ。あたし先生ばっかりを、おたよりに······」
「そればかりじゃありません。毎日のようにお講義を聞いている大沢先生が日に増しお顔色が悪くなってゆかれるのに気がついた僕がどんなに気を揉んだことか······大沢先生は世界に知られている鳥の学者ですからね。いつまでもいつまでも生きていて頂かなければならぬ日本の国宝ともいうべき貴い方ですからね······それで思い切ってある日のこと大学校で大沢先生にお眼にかかって聞いてみると、大沢先生が御自分はお気づきにならないまんまにあの女から毒殺されかけておいでになることが、僕にハッキリとわかったのです。大沢先生は去年の秋口のある晩のこと、蒲団が薄かったので鼻風邪を引かれたのです。それで鼻が詰まってしまってアンマリ不愉快なので学校を休もうかと思っていられるところへ、あの女がすすめてコカインの
玲子は眼を大きく大きく見開いて中林先生の顔を見上げて
「ところが悪いことは出来ないものです。それ以来、僕が毎日毎日あの女の行く先を探っている
何もかも忘れて聞き惚れていた玲子はハッと気がついて、心からうなずいた。
中林先生の深い深い親切と智慧に、驚いて、感心してしまいながら、その乱れた
「けれども玲子さん。お父さんのことは心配しなくともいいです。大沢先生が信州へ行かれたのは嘘なのです。先生は今東京の大学病院に這入ってコカイン中毒の治療をしておられるのですよ。そのうちに元気になって帰っておいでになるでしょう」
「まあッ······ホント······」
玲子は思わず中林先生の肩にかじりついた。その襟筋に熱い熱い感謝の涙を落しかけた。
中林先生も声をうるませた。
「ほんとうですともほんとうですとも。僕が附添って入院させたのですから。そうして何もかもお話しておいたのですから御心配に及びません。その時に何もかもおわかりになった大沢先生は僕の手を握って、玲子のことを頼む頼むと何度も言われましたから、僕も一生懸命になって気をつけているところへ、思いがけない
玲子は恐ろしかったその時のことを思い出して今更のように
「あの時のあの女の度胸のよかったこと······あんなにも恐ろしい手紙を読みながら平気の平左で、即座に玲子さんを欺して、この僕をオビキ寄せさせようとした、あの智慧の物すごかったこと······僕はあのルンペン男の背後に隠れて聞きながらゾッとしてしまいましたよ」
と言いさして中林先生はホッとふるえたタメ息をした。玲子もまたガタガタふるえ出しそうになったのを中林先生の腕に縋ってやっと我慢した。
「けれどもあの時にあの女がアノ手紙を読んだり、その文句を冷やかしたりさえしなければ、あの女は殺されなくともよかったのでしょう。『
玲子は唇の色までなくしたまま中林先生の顔を見上げてうなずいた。
中林先生も一層、微笑を深めてうなずいた。
「それならばイヨイヨ大丈夫です。······何なら警察の人が来る前に今一度あのルンペン男の顔を見ておいてくれませんか。
しかし玲子はうなずかなかった。フト······たまらないほど心配なことを思い出したので、そのままスルリと中林先生の腕を抜けて一散に階下へ走り降りて行った。廊下の切戸を開く
「おお。アムールや。よくまあ無事でいてくれたのね」