昭和×年の十月三日午後六時半。
下関の桟橋へ着いた七千
ボーイ連も何となく彼の姿を奇妙に感じたのであろう。高い
朝鮮紳士はソンナ事を気付かぬらしくサッサと桟橋を渡って下関駅の改札口を出た。そのままコソコソと人ごみの蔭に隠れると何気もない
「レコード」シモノセキツク」フジニノル」
打電先は東京銀座尾張町×丁目×番地、コンドル・レコード商会古川某であった。
打ってしまうと朝鮮紳士は自分の
山陽ホテルの駅前街路を見晴らす豪華な一室に、立派な
「ヤア。御苦労御苦労。どうだったね。結果は······」
人相の悪い紳士は苦笑いと一緒に頭を下げた。
「満洲に這入ると直ぐに憲兵司令に命じまして、
「旅券を持っていなかったのか」
「持っておりましたが私がその前に
「買収してみたかい」
「テンデ応じませんし、ホントウに何も知らないらしいのです。仕方がありませんから××領事へ紹介して旅券の再交付をして立たせましたが、チットも怪しむべき点はありません」
「そんな事だろうと思った。大抵の奴なら君の手にかかれば一も二もない筈だがね」
「それがホントウに何も知らないらしいのです。ただタイプライターが上手で、日本文字に精通しているというだけの
「ウム。君の着眼は間違いない。
「成る程」
「その赤化宣伝工作に関する重大なメッセージか何かを、
「昏睡させておいて
「何だ······」
「ただ一つ······」
「何がタダ一つだ······」
「あの老人を
「ウムウム。あの男なら監視させておるから大丈夫じゃが······その電文の内容は······」
「レコード着いた。富士に乗る······というので······」
「しめたぞッ······それでええのじゃ」
支那人風の
「エッ」
人相の悪い紳士は眼をパチクリさせた。
支那人風の
「ハハハ。イヨイヨ人間レコードを使いおったわい」
「エッ······人間レコード······」
「ウム。
「人間レコード······人間レコード······」
「ウム」
支那人風の
「アハハハ。モウ手配はチャントしてあるよ。君の手におえん位の奴ならモウ人間レコードにきまっとるからのう。ハハハ」
山陽線の
展望車に接近した特別貸切室の
そこへ
「持って来ました」
青年ボーイは眼を青白く見開いて冷やかに笑った。無言のまま毛布と、黒い毛糸で包んだガス発生器らしいものと、ゴム管を一まとめにして毛布の中に丸め込んで弟分のボーイに渡すと、車掌用の合鍵とネジ廻しを使って迅速に
赤茶気た室内電燈に照らされた寝台の中には最前の小柄な瘠せ枯れた白人の老爺が、
青年ボーイが少年ボーイを振返った。
「列車の中に相棒は居ないね」
少年ボーイが簡単にうなずいた。青年ボーイが今一度冷笑した。
「フン。ここまで来れば東京まで一直線だからね。人間レコードだと思って安心していやがる」
「エッ。人間レコード······」
少年ボーイがビックリしたらしく眼を丸くした。青年ボーイの凄味に冴えかえった顔を見上げて唇をわななかした。
「ウン。この
「人間レコード······」
少年ボーイはさながら生きた幽霊でも見るかのように、暗い逆光線をゲッソリと浮出させた老人の寝顔を見下した。
「ウン。今見てろ。このレコードを回転させて見せるから······」
青年ボーイの手が敏活に動き出した。老人の胸を掻き開いて、肋骨の並んだ乳の上に無色透明の液二筒と茶褐色の液一筒と都合三筒ほど、慣れた手付で注射をした。そのまま窓を閉めて
「ヘイ。お待遠さま」
「アリガト」
そう云った口紅、頬紅の
「マア······キレイ······お月様······」
老婦人が
青年ボーイはニッコリと笑って
一等車のボーイ室では少年ボーイが、山のように積上げた乗客の手荷物を片付けていた。トランク、
「馬鹿······見付かったらドウする」
少年ボーイは顔を真赤にした。慌てて受話器をズック鞄の中へ返したが、その眼は好奇心に輝いていた。
「何か聞こえるかい」
「ええ。あの
「コードの連絡の工合はいいな」
「ええ上等です。あの豆電燈のマイクロフォンも、この部屋へ連絡している人絹コードも僕の新発明のパリパリですからね」
「ウン。今度のことがうまく行けばタンマリ貰えるぞ」
「ええ。僕は勲章が欲しいんですけど······」
「ハハ。今に貰ってやらあ······オット······モウ十分間過ぎちゃったぞ。それじゃもう一回注射して来るからな······録音器は大丈夫だろうな」
「ええ。一パイの十キロにしておきました。心配なのは鞄の内側の遮音装置だけです」
「ウム。毛布でも引っかけておけ。モトの通りに荷物を積んどけよ」
「聞いちゃいけないんですか。人間レコードの内容を······」
「ウン。仕方がない。こっちへ来い」
「モウ
「構うものか。五分間停車ぐらい‥‥」
二人はそのまま以前の特別貸切室に這入った。内側からガッチリと掛金をかけると、青年ボーイがポケットから注射器を出して、無色透明の液を一筒、寝台の上の老人の腕に消毒も何もしないまま注射した。
老人はモウ全くの死人同様になっていた。全身がグタグタになって、半分開いた瞼の中から覗いている青い瞳が
それから少年ボーイは枕元の豆電燈の
列車の速力がダンダン
「小郡イ||イ。オゴオリイ||イ」
と怒鳴って行った。
青年ボーイが身動きしないまま
「今のも録音機のフイルムに感じたろうか」
「感じてます。器械を列車の蓄電池と繋ぎ合わせて
「フフフ······」
二人は又、沈黙に陥った。青年ボーイは所在なさに紙巻を
少年ボーイが闇の中で手を出した。
「僕にも一本下さいな」
「馬鹿。フイルムに感じちゃうぞ」
「構いませんから下さい」
「
「バットなら持ってます。
「よく知ってるな。ハハア。匂いでわかったナ」
「イイエ。見てたんです。さっき注射なすった時にあの
「シッ。フフフ······」
突然列車が烈しくガタガタと揺れた。小郡駅構内の上り線ポイントを通過したのだ。車室の中が又真暗くシインとなってしまった。
すると突然に列車の動揺にユスリ出されたような奇妙な声が、寝台の中から起って来た。それはカスレた金属性の、低い、老人の声で、しかもハッキリした日本語であった。夢のようにユックリと落付いた口調であった。
「日本の·········、······、······、······、·····················諸君よ······諸君、民衆の民族的······のために······せよ······諸君······日本の············が······土地······に目ざめ、成長する事を······のである」
「わかるかい」
と青年ボーイの声······。
「わかります。ソビエットの宣伝でしょう」
と少年ボーイの緊張に震えた声······。
「
「エッ片山潜······」
「そうだ。日本で××××運動をやって
「どうしてわかります」
「この前コイツの宣伝レコードが日本に紛れ込んだ事がある。そいつを機密局の地下室で聞かせてもらったことがあるが、声までソックリだよ。人間レコードって恐ろしいもんだね」
「呆れた
「ウン。あんまり学問をし過ぎちゃって頭が普通でなくなっているんだよ。医学上でヒポマニーという精神病だがね。普通の人間以上のことをしていなくちゃ生きていられないようになっているんだ。そいつを知らないもんだから日本の×の連中は片山潜といったら神様みたいに思っているんだ。ソイツを利用してソビエットが宣伝に使っているんだ」
「つまりこの声をレコードに移して、片山潜の肉声だと云って配るんですね」
「そのつもりらしいね。
人間レコードの声は、なおも本物のレコードさながらに続く。
「······英仏の帝国主義政府は、日本のこの皇道精神の発露を公然と妨害しているが、これは単に自己の強盗的利益のために······支那分割の過程に割込んで新しい地域を掴む機会を得んとしている準備工作に過ぎない。
帝国主義戦争を製造する国際聯盟、及びリットン報告書が、日本を裡面より如何に煽動し、中国の国際管理と分割を如何に執拗に提議しているかは、欧洲政局の裡面が最よく見透かされ得るモスコーに居なければわからないであろう。
米国の汎アメリカニズムと×××××××の矛盾は益々増大しつつあると、中国国民党の
これ等の工作の全部を一挙に
起て。奮起せよ。武装せよ。
全世界を×××××の治下に置け。
××××万歳。
×××××××万歳。
××とソビエットの×××万歳。
(一九三×年九月×日党、団、中央)」
「何だ。お前、ふるえてるじゃないか」
「ふるえてやしません。ソビエット帝国主義の宣伝の
「アハハ。ソビエット帝国主義はよかったナ。この宣伝に欺されてうっかりソビエットの治下に這入ったら最後、その国の労働者農民は、今のソビエットと同様に、運の尽きだからね。資本主義の国が人民から
「しかし支那人は直ぐにソビエット主義に共鳴するでしょう」
「ウン。非常な共鳴のし方だ。ドエライ勢で新疆方面に拡がっているが、しかし支那人の考えている共産主義は、ホントウのソビエット主義とはすこし違うんだよ」
「ヘエ。ドンナ風に違うんですか」
「ホントの共産主義は要するに『他人のものは我が物。わが物は他人のもの』というんだろう」
「そうですね。まあそうですね」
「ところが支那人のは違うんだ。『他人の物は我が物。我が物は我が物』というんだから」
「アハハハハ」
「ワハッハッハッハッ」
「シッ······フイルムに残りますよ」
「······オヤ······。人間レコードが黙り込んだね。モウ済んだんじゃないかな」
「さあ、どうでしょうか。フイルムは三田尻まで大丈夫持ちますよ」
「号外号外。号外号外。号外号外。東都日報号外。吾外務当局の重大声明。ソビエット政府に対する重大抗議の内容。外交断絶の第一工作······号外号外」
「号外号外。売国奴古川某の捕縛号外。ソビエット連絡係逮捕の号外。号外号外。夕刊電報号外号外」
この二枚の号外を応接室の椅子の中で事務員の手から受取った東京
老人は受取って眼鏡をかけた。ショボショボと椅子の中に縮み込んで読み終ったが、キョトンとして巨大な大使の顔を見上げた。
その顔を見下した××大使は見る見る鬼のような顔になった。イキナリ老人にピストルを突付けて威丈高になった。ハッキリとしたモスコー語で云った。
「どこかで
老人は椅子から飛上った。ピストルを持つ毛ムクジャラの大使の腕に両手で
「ト······飛んでもない。わ······私は人間レコードです。ど······どうしてメッセージの内容を······知っておりましょう」
「黙れ。知っていたに違いない。それを知らぬふりをして日本に売ったに違いない。タッタ一人残っている日本人の連絡係の名前と一緒に······」
「ワッ······」
と云うなり老人は宙を飛んで
その
「まあ。どうしたの。アンタ」
「ナアニ。レコードを一枚壊したダケだよ。ハッハッハ」
ちょうどその頃、東京駅入口階上の食堂の片隅で、若い海軍軍医と中学生が紅茶を啜っていた。
ゴチャゴチャと出入りする人の足音や、皿小鉢の触れ合う音に紛れて二人は仲よく
「馬鹿に早く手をまわしたもんですね」
「ナアニ。
中学生が光栄に酔うたように顔を真赤にして紅茶を啜った。
「君の発明したオモチャが大した働きをした訳だよ。勲章ぐらいじゃないと思うね」
「······でも僕は気味が悪かったですよ。途中で怖くなっちゃったんです。あの人間レコードの声を聞いた時に······人間レコードって一体何ですかアレは······」
海軍軍医は左右を見まわした。一段と少年に顔を近付けて紅茶の皿を抱え込んだ。
「イイかい。絶対秘密だよ」
「大丈夫です」
「わかってみれば何でもない話だがね。つまりアンナ風な各国語に通じた正直な人間を
先ずアンナ風に何も知らない人間を、
「ヘエ。その薬を貴方が発明したんですか」
「発明なんか出来るもんじゃない。盗んだんだよ。ペトログラードのネバ河口に在る信号所の地下室にこの人間レコード製造所が在ることを日本の機密局では大戦以前から知っていて、苦心惨憺して、その遣り方を盗んでおいたんだ。ところが露国は今まで、日本に対してだけこの手段を使ったことがない。つまり取っときにしといたのを今度初めて使いやがったんだ。一番重大なメッセージだからね」
「何故取っときにしたんでしょう」
「日本の医学は世界一だからね。怖かったんだよ。その上に人間レコードに度々なる奴は、なればなる程、注射がよく利いて、レコードの作用がハッキリなる代りに、薬の中毒で妙な顔色になって瘠せ衰えるんだ。気を付けていると直ぐに普通の人間と見分けが付くんだ」
「つまりアノ
「そうだよ。永い事、
「若島中将······誰ですか。若島中将って······」
「日本の機密局長さ。支那服を着た立派な人だがね。僕等の親玉なんだ。君を海軍兵学校に入れてやるというのはその人さ······」
中学生は今一度真赤になった。
「でもあの小ちゃな爺さんは気の毒ですね」
「気の毒ぐらいじゃない。きょうの号外を見たら××大使に殺されやしまいかと思うんだがね。裏切者という疑いで······」
「エッ。殺されるんですか。何も知らないのに······」
「殺されるとも。ソビエットの唯物主義の奴等は血も涙もないんだからね。政治外交上の問題で少しでも疑わしい奴は
「残酷ですなあ」
「ナアニ。レコードを一枚壊すくらいにしか思ってやしないだろう。ハハハ」