一
昭和×年四月二十七日午後八時半······。
下関発上り一二等特急、富士号、二等寝台車の上段の

私は短刀をピッタリと鞘に納めて、枕元に突込んだ。
電燈を消して静かに眼を閉じてみると、
今朝······四月二十七日の午前十一時頃の事、雨の音も静かなQ大医学部、大寺内科、第十一号病室の
······妙な奴だ。私は寝台の中から半身を起した。
私とは正反対のスラリとした痩型の弟である。永い間、私の月給に
私は又、その弟と正反対に小さい時から頑丈な体格で頭が
「どうしたんだ一体······」
「兄さんッ。僕は······僕はホントの事を云います」
激情に満ち満ちた声で叫んだ弟はイキナリ私の
「······ナ······何だ。何をしたんだ」
「兄さんの
「······ナ······なあんだ。そんな事か······アハハハハ······」
私は
「フウーン。やっぱり胃癌だったのかい」
弟は私の肩に縋り付いたまま青白い顔を
「······モット······モット恐ろしい物なんです。兄さんの心臓に大きな大動脈瘤が在るんです」
「フーム。大動脈瘤······」
私は動脈瘤の恐ろしさを知っていた。
俺は
「······兄さんのは······非常に······ステキに大きいのです。こんな大きいのは見た事がないって内藤先生も云っておられました」
弟は青褪めた顔でオズオズと笑った。両眼に溜まっていた涙がハラハラと両頬を伝わった。
私は熱に浮かされたような気持になった。魂が肉体から離れたような気持で笑い笑い云った。
「アハハハハ。済まん済まん。余計な心配かけて済まん。俺の動脈瘤は満洲直輸入だ。大原大将閣下の護衛で
弟はモウ立っている事が出来なくなったらしい。私の頸に一層深く両手を捲付けてオロオロと泣出した。
「馬鹿。泣く奴があるか。見っともない」
私は寝台の枕の下から白い封筒に入れた札束を取出した。念のため数えてみると十円紙幣が七十枚ある。その中から四十枚だけ数えて新聞紙に包んだ。
「いいか。ここに四百円ある。これは俺達が病気した時の用心に貯金しといた金だ。俺の葬式をした残りはお前に遣る。大寺教授と相談してどこかの病院に奉公しろ。······な······わかったか」
弟は私が押付けた紙幣の包みを手にもとらずに大声をあげた。
「いやですいやです。兄さん。死んじゃ厭です。······生きて······生きてて下さい生きてて下さい······」
私はとうとう混乱してしまった。セグリ上げて来る涙を奥歯で
「馬鹿······俺が自殺でもすると思っているのか。馬鹿······俺は一週間でも一時間でもいい、残っている
「ハイ······」
弟は
「それから何でも冷静にするんだぞ。どんな事があっても騒ぐ事はならんぞ」
「ハイ······」
弟は湯気の立つタオルの中でうなずいた。
弟が出て行くと直ぐに私は大急行で寝巻を脱いで、永年着古した背広服に着かえた。手廻りの品々をバスケットに詰めた。夜具を丸めて大風呂敷に包んだ。その風呂敷の上にピンで名刺を止めて万年筆で小さく書いた。
「俺は
大寺教授の自宅に「退院御礼」と書いた菓子箱を置いて博多駅前のポストに学部長宛の辞表を投込んだ私は、間もなく着いた上りの急行列車に風呂敷包を一つ
私の最後の目的というのは一つの復讐であった。
私には義理の
伯父はそうした異国趣味のエロ商売で、日本に亡命して来る
私の知っている事実は、そればかりでない。
その位な伯父、須婆田車六のそうした財産は、私の父親を殺して奪い取ったものである事も、私はチャンと察しているのだ。
私の父親は日露戦争当時から、日本の軍事探偵となって、満洲
それは私が子供心にも美しいと思った位であったから余程美しい評判の婦人であったろうと思う。親類たちは妙にこの婦人を白い眼で見て、「あんまり年を
この義母の弓子が今の弟、友次郎を生むと間もなく、父がその若い母を愛する余りに、その金鉱の事を何気なく打明けた。近いうちに軍事探偵を廃業して、ここに砂金を採りに行くのだと云って、満洲の地図に赤い印を附けてみせたものである。これがそもそもの間違いの初まりであった。
私たちの愚かな母親弓子は当時
間もなく砂金採掘の用意をして渡満した父は、
抜目のない伯父は妹の弓子に一万円の生命保険をかけておいたので、その金も自分のものとしてしまった。そうして私たち兄弟に、僅か千円ばかりの葬式の費用を投与えたきり、砂金の採掘権を支那人に売渡して、
私の母親弓子が発狂した時に口走った事実を綜合すると、そうした伯父の非道な
しかし私の
私はいつの間にか眠ってしまったらしい。
翌る日は久し振り汽車に乗ったせいか、
富士が嶺 は吾が思ふ国に生 り出でて
吾が思ふごと高く清らなる
コンナ和歌が私の唇から東京駅で降りて築地の八方館という小さな宿屋に風呂敷包とバスケットを投込むと直ぐに理髪店に行った。頭を真中からテカテカに分けて、モミアゲを短かくして、鼻の下の無精鬚をチョッピリ剃り残すとスッカリ人相が変ってしまった。それから夕方になるのを待ちかねて銀座に出て、ズラリと並んでいるカフェエや酒場を新橋の方からなし崩しに
私は何とかして不意打に伯父に会わねばならぬ。ズバリと
カフェ探訪の最初の晩は大馬力をかけて廻ったので十四五軒程片付いたが、それでも左側の軒並二町とは片付いてはいなかった。
しかし私は
そのうちに金はまだイクラカ残っているがカンジン・カナメの二週間の日限が切れそうになって来た。伯父の経営する店を発見しない
二週間がアト一日となった五月十一日は
何も私の大動脈瘤の寿命が四月二十七日からキッカリ二週間と、科学的に測定されている訳ではなかったけれども、起上ってみると妙に左の肋骨の下が、ドキドキドキと重苦しく突張り返って来るような気がした。
私は見違えるほど痩せ衰えた自分の顔を洗面所の鏡の中に覗いてみた。心臓を警戒して久しく湯に這入らなかったせいか皮膚が鉛色にドス黒くなって睡眠不足の白眼が
私の仕事の範囲はもう残り少なになって来た。
京橋際に近いとある洋品店と
私は間もなく
正面の頑丈な木の
「イラッシャアイ······」
耳の傍で突然に奇妙な声がしたので私はビックリした。
私の眼の前······空地のマン中に、天から降ったような巨大な印度人が突立っている。
私は一歩
二
体重三十貫近くもあろうかと思われる
私は何だかここいらに伯父の巣窟がありそうに思えたので、その印度人に握手する振りをして十円札を一枚握らせると、印度人は私の気前のいいのに驚いたらしい。
毛ムクジャラの両手を胸に当てて、最高級の敬礼をした。直ぐ
私は青い光りに照されているマット敷の階段を恐る恐る降りて、突当りの廻転
私は恐ろしく緊張させられてしまった。早稲田在学当時、深夜の諏訪の森の中で決闘した当時の事を思い出させられたので······。
ところが、そうした樹の茂みの中を、だんだんと奥の方へ分入ってみると驚いた。決闘どころの騒ぎでない。
詳しい事実は避けるが、さながらに極楽と云おうか、地獄と形容しようか。活動写真あり。浴場あり。洞窟あり。劇場あり······そんなものを見まわしながら
私は何がなしにホッとしながら
女はオズオズと私の前にプレン・ソーダのコップを捧げていた。
栗色の夥しい
私は指の切れる程冷めたいソーダ水のコップを受取った。
「君の名は何ての?」
「アダリー」
女の両頬と顎に浮いた
「いつからこの店に出たの」
「今日から······タッタ今······」
「今まで何をしていたの」
「妹のマヤールと一緒に日本の言葉習っておりましたの」
「どこに居るの、そのマヤールさんは······」
「二階のお母さんの処に居ります」
「フウン······お父さんはどこに居りますか」
私の言葉が自然と
「私たちのお父さん、印度に居ります」
「イヤ。そのお母さんの旦那様です。わかりますか」
「わかります。私の印度に居るお父様が、西洋人から領地を取上げられかけた時に、私たち
「そうです。その方の名前は何と云いますか」
「二階のお母さんの旦那様です。須婆田さんと云います」
私の胸は躍った。
「そうそう。その須婆田さんです。どこに居られますか。その須婆田さんは······」
「表に居なさいます」
「表に······? 表のどこに······」
「印度人になって立っていなさいます」
「アッ。あの印度人ですか。僕は
「須婆田さんはホントの印度人です」
「成る程成る程。
「嬉しい。抱いて頂戴······」
と叫ぶなりアダリーは私の首に両腕を巻き付けた。異国人の体臭が息苦しい程私を包んだ。誰に仕込まれた嬌態か知らないが私は急に馬鹿馬鹿しくなった。
「馬鹿······ソレどころじゃないんだ。入口へ案内してくれ給え」
「······あの······会わないで下さい。どうぞ······」
アダリーは早くも私の顔色から何か知ら危険な或るものを読んだらしい。
「イヤ。心配しなくともいいんだよ。お前を
「······ミウケ······」
「そうだ。お前を俺が伯父さんから買うのだ」
「エッ。ホント······?」
「ホントだとも。俺は果物屋の主人なんだ。お前を店の売子にするんだ。いいだろう」
「嬉しい。
「歌なんか唄わなくともいい。二階のお母さんていうのは雲月斎玉兎っていう奇麗な人だろう」
「イイエ。違います。ウノコ・スパダっていう人です」
「おんなじ事だ」
こんな会話をしているうちにアダリーは私を導いて、暗い地下室の階段を登り詰めた。右手に狭い暗い木の階段が在る。ちょうど玄関の用心棒連が腰をかけている
「二階へ行くのはこの階段だろう」
「ハイ。あたしここより外へは出られません」
「ヨシ。あの部屋に帰って待ってろ。今に主人の須婆田さんが呼びに行くから······」
玄関には最前の通り用心棒らしいタキシード男が三人、腰をかけて腕を組んでいたが、外へ出て行こうとする私の顔を見ると三人が三人とも一種の
樫の木らしい重たい玄関の
最前の巨大な印度人が
印度人は私を振返る余裕もないらしい。右手に小さな銀色のピストルを持ち、左手に分厚い札束を
暴力団の中央の無帽の巨漢がステッキを左手に持ち換えた。右手を上衣のポケットに突込みながら怒鳴った。
「天に代って貴様等を
それは真に
しかしこれに反して印度人の態度は見上げたものだった。よしんばそれが卑怯、無残な伯父の変装であるにしても、私は今更に伯父の性格を見直さなければならないかな······と思ったほど堂々たるものがあった。六人もの
「ヘヘヘ。大きな声はやめて下さい。貴方がたのお世話で商売しておりません」
ステッキの巨漢が怒りのためにサッと青くなった。ほかの五人もその
「ナ······何だっ。貴様はこの家の主人か」
「主人ではありませぬ、印度の魔法使いです」
「魔法使い······?······」
「そうです······わたしの指が
「························」
スッカリ気を呑まれたらしく
「······サア······どうです。一体いくら欲しいのですか。君等は······」
「······サ······三千円出せ」
「アハハハ。そんなに出せませぬ。今ここに八百五十円あります」
「畜生······そんな
「ヘヘヘ。ここはビルデングの奥です。わかりましたか。ここはビルデングの奥ですよ。ピストルを撃っても往来までは聞えません。どんな取引でも出来ます。サア······お金か······血か······どちらがいいですか」
「血だッ······」
と叫ぶと同時にステッキを提げた巨漢が右のポケットから黒い
その一
巨漢は面喰ったらしい。ピストルを持ったまま一歩
しかし私はソレ以上に面喰った。
アダリーを
「何だ貴様は······」
私は冷然と笑った。その私の前後左右に
その
「······ウヌッ······」
と怒髪天を衝いた巨漢が、私の耳の上に一撃加えようとするのを、私はヘッドスリップ式に首を
その手からピストルを奪い取って膝を突いたまま見まわすと、ほかの連中は巨漢を残して狭い路地口を押合いヘシ合い逃げて行った。その後から
アトを見送った私は倒れた印度人の死骸に向って頭をチョット下げた。
「自業自得です。
と黙祷すると、落散った紙幣を、一枚一枚悠々と拾い集めてポケットに入れた。それから
地下室の豪華
私は一渡り前後左右を見まわすと、その廊下の突当りに向って突進した。
事務室に居るという雲月斎玉兎女史こと、本名須婆田ウノ子を逃さないためだ。
廊下の突当りに事務室と刻んだ真鍮板を打付けた青ペンキ
「アナタの伯母さんを殺してはイケマセン······」
私は
私の舌が狼狽の余り
「馬鹿······ホントの······ホントの伯母さんじゃない。毒婦だ」
アダリーはイヨイヨシッカリと私の腕に絡み付いた。栗色の
「チガイマス······善い人です。私たちの恩人です」
私は呆れた。同時に狼狽した。左手に握っていた八百五十円の札束をイキナリ、アダリーのワンピースの襟元に押込んだ。
「さ······これを遣る。放してくれ」
「アッ。イケマセン」
とアダリーは叫んで、慌てて札束を取出そうとした。その
そこは意外千万にも真紅と黄金の光りに満ち満ちた王宮のような居室であった。
煙突の掃除棒みたようにクシャクシャに乱立した頭髪。青黒く痙攣した顔面筋肉。引き
部屋の中には誰も居ない。大暖炉の横の
「ホホホホホホホホホ」
思いがけない方向から思いがけない女の笑い声が聞えたので、私はビックリした。その方向に向き直ってキッと身構えた。
部屋の右手の隅に七宝細工かと思われる贅沢な寝台が在る。金糸でややこしい刺繍の紋章を
玉虫色の夜会服を着た妖艶花のような美人······噂に聞いた······ブロマイドで見た······銀幕で見た······否。それ以上に若い、匂やかな生き生きした艶麗さ······私は、私の大動脈瘤が描きあらわす一つの幻覚ではないかと思った。コンナ素晴らしい幻影が見えるのは、黴毒が頭に来ているせいじゃないか知らんと思ったくらい
「オホホホホホ。初めてお眼にかかります。
私は
「ホホ。最前からの御様子はここから拝見しておりました。お美事なお手の
「ハイ······」
返事の声と殆ど同時に私の横手の
その
二人は自分達の夫であり、主人である伯父の死体が玄関前に横たわっているのを知っておりながら平気で私を取巻いて、この上もなく冷血な芝居をしている。アダリーが私を
私は、そう気が付くと同時に
「オホホホ。まあ落付いて下さい。どうぞ印度のお紅茶を一つ······実はあなたに御相談したいことがありますの」
「この上に落付く必要はないです。眼が見えます。耳が
「······まあ······随分性急ですね、友太郎さんは······」
だしぬけに名前を呼ばれて、私はビックリした。しかし、それを顔には出さず、咳払いをした。
「止むを得ません。時日がないですから」
「まあ······時間がない、どうしてですか」
「僕はもう二三日中に死ぬのです。大動脈瘤に
「まあ······大動脈瘤と申しますと······」
「前月の二十七日にQ大学で心臓をレントゲンにかけてもらったのです。そうしたら僕の心臓の大動脈の附根に
私がそう云ううちに、伯母の化粧した顔色が眼に見えて変化して来た。幾十歳の老婆のように皮膚が張力を失い、唇がわななき、眼の中に一パイ涙ぐんで来た。カップを持つ手がわなわなとふるえ出した。
「ですから御相談に来たのです。······サア······弟をどうしてくれますか」
「そ······それはもう
「口先ばかりではいけませんよ伯母さん。僕の眼の前でチャンとした方法を立てて下さい」
「待って······待って下さい。伯父様に一度御相談しないと······」
「馬鹿······その手を喰うと思うか。······この毒婦······」
「エッ、妾が······毒婦ですって······」
「毒婦だ毒婦だ······貴様は俺の伯父を
「アッ······そ······それは大変な貴方の思い違いです」
「ナ······ナニを今更ツベコベと······覚悟しろ······」
「アレッ······」
と叫ぶと同時に玉兎女史は、私の振上げた短刀の刃先をスリ抜けて、寝台の中に飛込んだ。玉虫色の羽根布団を頭から引っ冠ったが、私はこの羽根布団の下の人の形の胸のあたり眼がけて、グサッと短刀を突込んだ。
だが、不思議や羽根布団がビシャンコになってしまった。慌てて羽根布団をマクリ上げて下を覗いて見た私は、アッと叫んで
私は一杯食わされたのだ。雲月斎玉兎女史一流の手品で逃げられてしまったのだ。が、腹を立てても追附く話でない。私は血に染んだ短刀を掴んだまま、ぼうっとしかけたが、落着いて見ると、表の方で時ならぬ声がする。
立って寝台の向うの窓から覗いて見たが、騒がしい筈だ。狭い路地口には真黒い警官がつめかけていて、この家の
そのうちに
「動くな。貴様だろう。犯人は······」
私は静かに寝台の上に突立った。
「そうです。お手数はかけません」
「死骸はどこに隠した······この
「知りません」
私は内心唖然とした。警官が片附けたのでなければ消え失せるよりほかになくなりようがない筈だ。
「おのれ······
というなり、先に立った警官が飛びかかって来た。私は
馳け降りると一つの
三
私は割り切れない不思議な出来事の数々を考え考え
この上もない卑怯者と思い込んでいた伯父が、この上もなく勇敢に死んで行った事実。その死体が、いつかの間に消え失せた事実。アダリーが私の正体を知っている不思議さ。伯母が私の名前を知っている不思議さ。伯父の死に無関心な伯母とアダリーの白々しい芝居。この伯母が、私の動脈瘤に寄せた深刻な同情······それからあの寝台のトリック······この抜け穴······理窟に合わない事ばかりだ。夢に夢見るような不思議な事ばかりだ。よく私の心臓がパンクしなかった事と思う。今日か
部屋の片隅の洋服掛に美事なタキシードが掛けてあって、その上下にベロア帽とカンガルー皮の靴と銀頂のスネーキウッドの杖が置いてある。
私はあの玉兎女史の血でよごれた古背広を脱いで、躊躇もなく大急ぎでその服と着かえた。帽子を冠る時に女の髪の臭いがプーンとしたので、これはあの毒婦雲月斎の変装用だなと気が付いた。帽子の大きいのと靴の小さいのには閉口したが、それでもどうにか
往来へ出ると同時に私は直ぐ横の煙草屋の
ところが、その中に私は自分の姿を認める前に驚くべきものを発見してしまった。すぐ私の
私は銀座の真中で幽霊に会った気持になった。急にタマラナク恐ろしくなって脱兎のように電車道へ出た。
「危いッ!」
と車掌が怒鳴るのも聞かずに走って来た電車に飛乗った。尾張町に来ると又飛降りた。
そのまま何気なく築地の八方館に帰ろうと思って
「······引続いて今晩の最終九時半のニュースを申上げます。今晩銀座×丁目二十四番地、印度人シャイロック・スパダ氏経営に依るカフェー・クロコダイルで世にも恐しい且つ奇怪なギャング事件が勃発致しました。襲撃致しましたのは過般銀座銀行を襲撃して満都を驚かしました国粋団の一味で、カフェー・クロコダイルの入口に立っておりました印度人シャイロック・スパダ氏を射殺し、尚も奥へ乱入しようと致しましたが、急を聞いて
同時に
但し、ここに一つの不思議な事と申しまするのは、その愛国団の一味のほかに今一人、一人の兇漢が、カフェー・クロコダイルの中に忍び込んでいたことで御座います。その兇漢は、混雑に紛れて同カフェーの二階に馳上り、二階事務室に潜んでいたスパダ氏の情人、有名な雲月斎玉兎女史を刺殺して地下道から逃亡しました。しかも最も不思議な事に、その怪漢の
しかし、その兇徒の人相風采は目撃者の説明によって詳細判明しておりますから遅くも明夜までには逮捕される見込みで目下東京市中は非常警戒網が張られているところであります。······以上······」
私はふらふらと真暗い材木
そのパッカードの中に黄色いルームに照らされて並んでいたのは疑いもなく私の弟と、アダリーではなかったか。しかも弟はリュウとした紺と茶縞の||彼の好きだと云っていた柄のサックコートに青光りするカンカン帽を冠っていた。アダリーは小さな黒い
ああ、私が九州を出て来て以来の出来事は何もかも一続きの悪夢の連続ではないか知らん。私は依然として東海道線の寝台車の中に睡っているのじゃないかしらん。否、弟が私の動脈瘤を宣告した事からして、私が常々心配していた事が夢となって現われたものに過ぎないので、私はまだQ大の十一号病室の寝台に横たわったまま、こうして悪夢から醒め得ないで
私は何が何やらわからなくなったままスタスタと歩き出した。同時に左右の
だが、私は東京市中の交番の配置がこれ程までに巧妙に出来ていようとは思わなかった。
私は曾て長い事、東京に住んでいたし、東京の裏面にもかなり精通しているつもりであるが、交番の前を通り抜けずに東京市外に出る事が絶対に不可能である事を、この時に生れて初めて知った。それ程に東京市中の交番の配置は巧妙に出来ているのであった。
私は行く先々に白い交番が新しく新しく出来て行くのじゃないかと思い思い、抜け裏を潜ったり交番の前を電車の陰になって走ったりして、ヤッとの思いで両国の
私は進退
私は悠々と流るる河の水を眺めた。星の光りと、灯の
「旦那。行きますか」
不意に私の
私は黙って飛乗ったが、乗ってみると驚いた。運転手は女で、粗い縞の鳥打帽。バックミラー越しにチラリと見えたその下に私と同じの黒色鏡がかかって、ヤモリ色をしているその顔が私をチラリとニッコリと笑った。
「ドチラへ参りましょうか」
「どこでもいい、郊外へ出てくれ」
「エッ郊外······」
女運転手が可愛い眉をひそめた。どこかで見たような女だとは思ったが、この時はどうしても思い出せなかった。
「郊外は駄目なのかい」
「いいえ。何ですか、きょうは銀座で騒ぎがありましたのでね。非常線が張ってあるんです。私は横浜の免状を持っておりますし、車も横浜のですから帰れるには帰れるんですが。旦那が無事に通れますかどうか」
「アハハハ、馬鹿にするない、俺が殺したんじゃあるまいし」
女運転手はニヤリと冷たく笑った。
「何とも知れませんわねえ。······でもあなたさえよかったら、方法があるんですが······」
「······フーム。どうするんだい」
「その腰かけの下へ寝るんです」
「何······この下へ······」
私はソロソロ動き出して車の中で立上って座席のクッションを持上げてみた。
······何と······座席の下はチャント革張りの寝床になって、空気枕さえ置いてある。四方が金網張りで、空気が、自由に出入りするようになっているところを見ると、この車は尋常の車でない。そう気が付くと同時に私は一瞬間色々な想像を頭の中で急転さしたが、この際躊躇している場合でないと思った。
で、思い切ってこの中にモグリ込んで、
「ホラ十円遣る」
「ありがとう御座います。後から頂きます」
といううちに運転手は猛然とスピードを出した。ブンブンいうエンジンの音を聞いているうちに、疲れ切った私はとうとうウトウトしかけて行った。眠ってはならぬと思いながら。
「旦那様······まいりました」
耳元で呼ぶ声がする。
「オイ来た」
反射的に私は身を起した。女運転手は冷笑しいしい、クッションの下から這い出した私の腕をとらえて、コンクリート造りの大きな西洋館に連れ込んだ。
表柱の標札を見ると天洋ホテル、伊勢崎町と書いてある。いつの間にか横浜へ来たのだ。
女運転手は私を二階の十二号の特等室に案内した。
「ちょっとここでお待ちになって下さい」
と云ったまま、サッサと出て行ってしまった。靴を脱いで、私はスッカリ眼が冴えたままベットの上に長くなった。豆の出来た足を揉み揉み女運転手が帰って来るのを待った。
十分······二十分······三十分······。
私はイヨイヨ彼女が来ない事がわかると又もジリジリと緊張して来た。さてはイヨイヨインチキホテルだな。この俺を捕まえて変な真似をしやがったら、それこそ運の尽きだぞ。どっちにしても冥土の道連れだ。東京で失敗した埋め合わせだ。どうするか見やがれ······といったような気もちで手を伸ばすと枕元のベルを二つ三つ押してみた。
翌日出帆の
「何か御用ですか」
私はすっかり張合が抜けてベットに長くなって寝たまま金を渡した。
切符を買って来たボーイは妙にニコニコしながら両手を揉んだ。
「御夕食後御退屈ならホテルのダンスホールにおいでになりませんか。すぐこの下ですが」
私は十二分の好奇心をもって、夕食もソコソコに階下のダンスホールにいって見た。そこで何事か起るに違いないといったような予感に打たれたが、しかしダンスホールには何等変った事がなかった。しかも東京の騒動が利いていたせいか、踊る客人は極めて僅少で、ただ一人若い医者らしいスマートな男が、一人で
「やー、どうも失礼しました」
ヒョッコリと私に向って頭を下げた。何のわだかまりもない
「ありがとう御座います。しかし頂きません」
私がこう云って頭を下げると相手の男は見る見る妙な顔になって、私を見た今までの快活さはどこへやら、暫くの間ジイッと顔の筋力を
「ハハアー、貴方は心臓がお悪いですな」
私の心臓が大きく一つドキンとした。
「エッ······ど······どうしておわかりになりますので······」
「アハハ、お顔色でわかります。大動脈瘤でしょう」
「···············」
私はもうすこしで気絶するところであった。その私の眼の前へ、男は名刺を差出した。受取って見ると、「レントゲン専門医学士
「ハハアー。レントゲン専門の方で······」
「そうです。大動脈瘤なら私の処へ毎日のように押しかけて参りますので、皮膚のキメを一眼見るとわかる位になれているのです。皆無事に助かる人が多いのでね。押すな押すなという景気です、ハハハ······」
古木学士はポカンと口を開けている私を見い見い言葉を続けた。
「イヤ。何でもない治療法なんです。私の秘薬でね、ブシリンという植物質のアルカロイドがあるのです。この薬を飲んでいるうちに血管がスグと柔らかくなって血圧が低くなるので、容易にパンクしないのです。ですから、その薬を差上げながら動脈瘤の病源である黴毒を根治するために、六百六号を注射しておりますと、動脈瘤がだんだん小さくなって、普通の丈夫な血管に回復するのです。しかもその膨れていた処には、丈夫な石膏の壁が残るために、二度とそこからはパンクしなくなるのです。私の処に見えた患者で助からなかった人は十人に一人しかありませんよ」
私は世にも意気地もなく椅子から
「どうぞ、僕に、その薬を頂かして下さいませぬか。お助け下さいませぬか」
「アハハ。お易い御用です。まあおかけ下さい。この薬です。カプセルに這入っている白い粉末ですが、アイヌが矢尻に塗るブシという毒薬から採った薬です。これをお飲みになれば少くとも二十四時間はどんな劇烈な運動をしても心臓はパンクしません。······オイ! オーイ! この方にプレンソーダを一杯持って来て差上げろ」
私は夢に夢みるような気持になった。
「しかし······先生のような方が······どうしてコンナ処に······」
「アッハッハッハッハッ。貴方の御運が強いのですね。······実はコンナ処へでも来て息を抜かなくちゃ遣り切れないほど儲かりますのでね。ハッハッ」
「やはり······その動脈瘤の治療で······」
「ナアーニ。動脈瘤の方はタカが知れておりますよ。例の深透レントゲンが大繁昌でね。有閑マダムや有閑令嬢の秘密をワンサ握っているもんですからね。コレで商売が繁昌する世の中はロクな世の中じゃありませんよ。ハッハッハッ」
私はソーダ水に酔払ったような気持になった。私は古木学士に手を引かれてダンスホールに出た。女を三人も縋り付かせて水車の如く廻転さしてみせた。それから女どもに取巻かれて古木学士と抱き合いながら踊っているうちに、部屋中の
四
フッと眼をさますと私は見慣れない病院の一室に寝ている。緑色の壁と薄紫のカアテンに囲まれた静かな、暗い、
「······アッ······」
という小さな叫び声が私の枕元から聞えたので、ビックリして振り返ってみると、栗色の髪をグルグル巻にした黄色いワンピースの少女、眼の大きい、唇の赤い、鼻の高い、憂鬱な
「アダリー」
アダリーは返事の代りに大きな瞬きを一つした。印度人特有の表情の一つであろう。
「きょうは何日······」
「······五月······ジュ······サンニチ······」
「エッ······十三日······ほんとか······」
「······ホント······です······」
と云ううちにアダリーは壁際の小
「ここはどこ······」
「古木レントゲン病院······」
私は唖然となった。しかし間もなく吾に帰ると飛び上って叫んだ。
「オイ大変だ大変だ······先生······古木先生を呼んで来てくれ」
私の
予定の日数よりも三日ほど生き伸びている。心臓に手を当ててみると、相も変らずハッキリした流れをトクントクンと打っている。······冗談じゃない。
訳がわからぬまま、クシャクシャになった頭を掻きまわしたり、鬚だらけになった顎をゴリゴリ撫でまわしたりしているところへ
「ヤア。醒めましたか。頭が痛くないですか」
「そう云われてみると成る程頭が痛いし、胸がすこしムカムカするようだ。イヤ、大丈夫です。先頃はどうも······」
「アハハ。イヤ失礼しました。ビックリなすったでしょう。無断でコンナ処へ連れて来たもんですから」
「実は驚いているんです。どうしたんですか、一体これは······」
「先ずこれを御覧なさい」
古木先生はすこし真面目になって
「この白いものが貴方の心臓なのです」
「僕の心臓······」
「そうです。よく御覧下さい。ここが心臓の右心室でここが左心室です。ここから出た大動脈がコンナにグルリと一うねりして重なり合っているでしょう。おわかりになりますか」
「わかります。ゴムの管みたいに『の』の字形に曲って重なり合っているようですね」
「そうですそうです。僕はこの写真を撮るためにあなたに痲酔を利かせてこの病院に運び込んだのです。そうしてあの晩のうちに五枚ばかり瞬間写真を撮ってみたのですが、その中でも一番ハッキリ撮れたのがこの一枚です」
「ヘエッ。何のために······」
「何のためって、貴方の伯父さんに頼まれたのですよ」
「エッ。僕の伯父さん。あの須婆田の······まだ生きているのですか」
「ええ御健在ですとも。伯母さんの玉兎女史と一緒に
私は眼をパチパチさした。古木学士はいよいよ眼を細くして
「何だか······僕にはわかりません」
「アハハハ······。僕にも深い御事情はわかりませんが、貴方の伯母様ですね。雲月斎玉兎嬢ことウノ子さんは
私は今一度室内の調度を見廻した。
「わからない。不思議だ||奇遇だ······」
「イヤ。奇遇じゃないのです。貴方が伯父様と伯母様の計略におかかりになったのです」
「計略に僕が······」
「そうです。私はよく存じております。伯父様と伯母様はよく右翼団体から狙われておいでになるので、いつも
私は生れて以来コンナに赤面させられた事はなかった。お前は馬鹿だよ······と云われたよりもモット深刻な恥辱を感じた。
「ちょうど四月二十九日の
「エッ。僕の弟······どうして」
「貴方が福岡を御出発なさるのを停車場で発見されて、跡をつけて御上京なすって、伯父さんと伯母さんに一切を打ち明けて御相談になったアトに、伯父様と伯母様は東京中の私立探偵を動員して貴方の御宿を探らせてやっと判明したのが、五月の十一日の午後、貴方が一足違いで築地の八方館をお出かけになった
「アッ。それではあの運転手がアダリー······」
アダリーは真赤になって古木学士の蔭に隠れた。
「アハハハ。貴方も
「エッ
私は又暗い気持になりかけたが、古木学士はそうした私の悲哀を吹き飛ばすように笑った。
「ハッハッ、御心配なさらずとまあお聞きなさい。私はその時に伯母様から貴方をこの病院に入れて三日間睡らせておいてくれろ。その間支度を整え印度へ逃げるからという御命令でね。で、その治療の結果を私が御報告申し上げたらお
「······安心······」
「ハイ······御安心で
古木学士は白い治療着のポケツから白い横封筒を取出して私に渡した。見忘れもせぬ伯父の筆である。
『前略。俺の過去の罪悪を知っているのはお前一人だ。そのお前が俺の
「そうして······そうして······」
私は真青にふるえながら古木学士の顔を見た。
「そうして······そうして僕の動脈瘤はどうなったのです」
「アハハハ。動脈瘤じゃありませんよ。その写真の通り血管の
私は後の説明が聞えなかった。ただアダリーがキアーッと叫んだ悲鳴が聞えただけである。気が遠くなって寝台の上に引っくり返ってしまったのだから······。