一
大戦後の好景気に煽られた星浦製鉄所は、昼夜兼行の
汽鑵場の裏手に在る庭球場は、直ぐ横の赤煉瓦壁に静脈管のように
しかしその淋しい審判席の近くに、誰が蒔いたかわからないコスモスの花が咲乱れる頃になると、十月十七日の起業祭が近付いて来るので、
秋日のカンカン照っているテニス・コートの上で、
つまり
二
十月十日の水曜日の午前九時頃のこと。汽鑵部の夜勤を
中央に立って歩いて来るのは、この製鉄所切っての怪力の持主で、名前は又野末吉、
その大股にノッシノッシと歩く又野の右側から、チョコチョコと
「ああ。やっとこさ話の
「まったく······あのスチームの音は
三好が振返って冷笑した。「会社全体が、あの通り調子付いていやがるんだからな」
「シッカリ働け。ボーナスが大きいぞ」と又野が巨大な肩をゆすぶって見せた。三好が今一度冷笑した。
「テヘッ。当てになるけえ。儲けとボーナスは重役のオテモリにきまってらあ。働らくものはオンチばかりだ」
「この野郎······」と又野が好人物らしく笑いながら拳固を振上げた。三好が一間ばかり横に飛び
「アハハハ。その代り起業祭の
「インニャ。俺あ今年や角力取らん」
「エッ」二人とも驚いたらしく又野の顔を左右から見上げた。又野は真剣な||しかし淋しそうな顔をしていた。
「馬鹿な······オンチだなあ······みんな期待しているんじゃねえか。鼻の先に
「ウウン。それじゃけに俺あ取らん。キット取れるものをば毎年、取りに出るチウ事は、何ぼオンチでも
といううちに又野はモウ赤面しながら苦笑した。正直一徹な性格が、その苦笑の
「惜しいなあ。みんな君の力を見たがっているんだになあ」
と三好が
「アッ。きょうは十日······俸給日じゃろ」
「アハハ。いよいよオンチだなあ。だからこうして事務室の方へまわっているんじゃねえか」
「俺あ徹夜が一番、苦手じゃ。睡うて腹が減って
又野が毛ムクジャラの手の甲で顔をゴシゴシとこすった。ほかの二人も立止まった。
「ハハハ。俸給を忘れる奴があるかえ」と、笑いながら三好がポケットからバットの箱を出した。
「俸給は十時から渡すんだっけな」と戸塚もカメリヤの袋を出しかけた。
「······オイ······あれを見い······」
と又野が突然に
鉄屑の堆積越しにコスモスのチラチラ光るテニス・コートの向うから、事務員風の男が来かかっている。
その
「ヘヘッ。······初めやがった。どこの工場だろう」
と三好が朗らかな口調で云った。三人は黙って見ていた。
そのうちに事務員風の男が、自分の影法師を踏み踏み、コートの真中あたりまで来たと思うと、その
「アッ。
と又野が引返して駆出そうとするのを、三好と戸塚が腰に抱き附いて引止めた。
「······馬鹿······まあ見てろ······」
「······何······何かい······」
行きかけた又野が青くなって振返った。歯の根をガタガタいわせていた。
「······ヒ······人殺しやないか······」
三好が白い歯を
「アハハ······馬鹿だな。よく見てろったら······あれあ芝居だよ。芝居の稽古だよ。第三工場の奴かも知れねえ」
又野が太い溜息を
テニス・コートの上の菜葉服は、黒い棒を投棄てた。それは重たい鉄棒らしかったが、直ぐに事務員風の男の頭の処に走り寄って、顔を覗き込んだ。すると思いがけなく事務員風の男が半身を起して、
「ソレ見ろ。芝居じゃねえか」
「しかし真剣にやりよるのう」
「何だろう······探偵劇かな」
大急ぎで汗を拭いた覆面の菜葉服は、コートの上に投出された鞄を引っ抱えるとキョロキョロとそこいらを見まわした。遥かに三人の姿を認めたらしく、白い軍手を揚げてチョット帽子を冠り直すと、そのまま第三工場の鋳造部附属の木工場の蔭へ走り込んで行った。
コスモスが風に吹かれて眩しく揺れ乱れた。
その時に、あとに残った事務員風の男は、すこしばかり身動きしかけたようであったが、そのままグーッと
「アッ······本物だっ······」
三人の職工は誰が先ともわからないまま
しかし、すべては手遅れであった。事務員風の男は頭蓋骨をメチャメチャに砕かれていたが、その悽惨な死に顔は、
そのうちに両眼に涙を一パイに溜めた又野が、唇をワナワナと震わした。感情に堪えられなくなったらしくグッと
「······ミ······見い······これが······芝居かッ······」
又野の両頬を涙がズウーと伝い落ちた。火の付くような悲痛な声を出した。
「······わ······わ······
二人は恨めしそうな眼付で、左右から又野の顔を見上げた。しかし今にも飛びかかりそうな又野の、烈しい怒りの眼付を見ると、何等の抗弁もし得ないまま一縮みになってうなだれた。申合わせたように自分自分の影法師を凝視しつつ、意気地なく帽子を脱いだ。
それを見ると又野も、思い出したように急いでお釜帽子を脱いだ。死骸の顔を正視しつつ軍人のように上半身を傾けて敬礼した。何事か祈るように両眼を閉じると熱い涙をポタポタとコートの赤土の上に落した。
「······すまん······済みまっシェン······」
遥か向うを通る四五人の職工が、
その間に死骸の顔の血を、自分の
「······ウワアッ······西村さんだっ······」
「ナニ。何だって······」
とほかの二人······又野と三好が顔を近寄せて来た。スチームの音で聞こえなかったらしい。
「事務所の西村さんだよ。俸給係の······」
「何だ······俸給がどうかしたんか」
「馬鹿ッ。この顔を見ろッ。俸給係の西村さんだぞッ。俺達の俸給が持ってかれたんだッ」
と早口に叫んだ戸塚は、ほかの二人が
しかし戸塚は、そのまま帰って来なかった。
木工場と鋳造場と、その向うの
三
警察はちょうど
田原警部はチエッと舌打をした。直ぐに小使を呼んで名刺の裏に鉛筆で走り書きをして海岸に走らせた。
「楠君。君、署長に電話をかけてこの男の話を取次いでくれ給え。製鉄所の公会堂で武道試合を見ている筈だから······多分、非常召集になるだろう。遣り切れんよ全く······」
騒ぎがだんだん大きくなって行った。盗まれた現金が十二万円という大金で、且つ、被害者の西村というのが、非常に評判のいい好人物だったせいでもあったろう。一つには死骸が二人の職工の手で事務室へ抱え移されていたために、現場の模様が全くわからなくなったので、取調べがだんだん大仕掛になって行って、犯人が逃込んだと思われる、木工、鋳造、薄板、第一工場の全部の職工が一人一人に訊問されたせいでもあったろう。
もちろんその時には星浦警察署と町の青年の全員が工場の周囲を
製鉄所の裏門から銀行へ行って、製鉄所の資金の一部と、職工の俸給の全部を受取った西村は、札束の全部を、いつもの通りに黒ズックの鞄へ入れて、いつもの通りに銀行の前から人力車に乗って製鉄所の裏門の前まで来た。それから矢張り、いつもの通りの近道伝いにテニス・コートを通り抜けて、事務室へ帰る途中を要撃されたものに相違ない。むろん西村はあのテニス・コートが、そんなに恐ろしい処と知らなかったであろう。八方に見透しの利く安全無比の通路と思って通ったものであろう。同時に犯人は、工場内部の事情に精通している職工の一人に相違あるまい······という警察側の見込らしかった。
三人が警察の門を出た時には
その
「オイ」
「何だい」
三人が揃って黒板塀の間に立佇まった。三好が帽子を脱いで頭を掻き掻き云った。
「俺は何だか大切な事を一つ警察で話し忘れて来たような気がするがなあ」
「何だい。すっかり話しちゃったじゃねえか」と戸塚が眼をパチパチさせた。
「ウン俺も何か知らん、一番大切な事をば云い忘れて来たような気がしてならん」
又野が街燈の光りを仰ぎながら初めて微笑した。戸塚が、その顔を振返りながら不安らしく云った。
「何も忘れた事あねえぜ。西村さんが殺されてよ······軍手をはめた手でなあ」
「そうよ。あの鉄の棒は警察で引上げて行ったろう。四分の一
「ウン。犯人は地下足袋を穿いとったって俺あ云うたが······」
「ウン。俺も地下足袋だと云ったがなあ」
「犯人が木工場へ這入るとコスモスの処を風が吹いたなあ」
「馬鹿。そんな事を云ったのかい」
「見た通りに云えと云うたから云うたてや」
「アハハハハハ犯人とコスモスと関係があるのかい······馬鹿だなあ」
「アッ。そうだ。あの菜葉服の野郎が白いハンカチで汗を拭いたって事を云い忘れてた」
と云ううちに三好が唇を噛んで警察の方向を振り返った。
「ウン。そうじゃそうじゃ。そういえば俺も思い出いた。云うのを忘れとった。四角に折ってあったなあ」
又野が、悪い事をした子供のように肩を
「アハ。汗を拭くのは大抵ハンカチにきまってるじゃねえか」
「ウン。それもそうじゃなあ」
「しかし出来るだけ詳しく話せって云ったからな」
「ウン。それあそう云ったさ。しかしハンカチ位の事あ、どうでもいいだろう」と戸塚が事もなげに云い消した。三好が頭を掻いた。
「そうだろうか」
「そうだともよ。ナアニ。じきに捕まるよ。指紋てえ奴があるからな」
「木工場も鋳物工場の奴等も、
「ウン。慌てていたせいか、鋳型を一箇所
又野が大きな
「ああ睡むい。帰ろう帰ろう」
しかし三人の職工の予期に反して、この犯人はなかなか捕まらなかった。
二千人以上居る職工の身元の全部が、
新聞では盛んに書き立てた······白昼の製鉄所構内で衆人環視の
西村の葬式は会社葬で執行された。職工たちの俸給はそれから二日遅れただけで、
起業祭も
そのうちに一箇月経つと警察もとうとう投出したらしく「遂に迷宮に入る」という新聞記事が出た。「十二万円の金の
四
「なあ又野······戸塚の野郎が、何か大事な事を云い忘れているってこの間、警察署を出てから云ったなあ······暗い横町で······」
「ウン。云うとったが······それがどうかしたんかい」
「イヤ。別にどうって事はねえんだけど······」
菜葉服の三好と又野が、テニス・コートの審判席の処に
瘠せっぽちの三好は神経質らしく、
「戸塚の野郎は、俺あ赤じゃねえかと思うんだがなあ」
逞ましい腕を組んでいた又野が血色のいい顔を不愉快そうに撫でまわした。
「どうしてかいな」
「どうしてって事もねえけど、何だかソンナ気がするんだ。第一、
「ウン。そう云うてみれあ、そげなところもあるなあ。あれから
「なあ。そうだろう。俺も見たんだ。だから怪しいと思ったんだ。そうしたらこの頃はチョットもここいらへ姿を見せなくなった代りに、
「ウン。そらあ俺も気は附いとる。しかし何も、それじゃけに戸塚が、赤チウ証拠にゃあなるめえ」
「ウン。それあ証拠にゃあなるめえさ」
と三好は慌てて鼈甲縁をかけ直した。
「証拠にゃならねえが······俺達が味方にならねえと諦らめて、ほかの処へ同志を
そう云ううちに三好は、菜葉服のポケットからバットを出して、又野にも一本取らせて火を
二人はコートの端の草の上に尻餅を突いた。工場の上を
「恐ろしい疑い深い人間やなあお前は······」
又野はイヨイヨ不愉快そうに顔を撫でた。その横頬を熱心に見ながら三好は笑った。
「ハハハ。まだあるんだぜ。戸塚があの死体を西村さんと云い出すなり、直ぐに俸給泥棒と察して、追かけて行った時の素早かった事はどうだい。
「あの男は頭が
「それがあの時は特別だったような気がするんだ。何もかも最初から知り抜いていたような気がするんだ。この頃になってやっと気が付いたんだが」
「フーン。そげな事が
「そればかりじゃないんだ。
「ハンカチの話かな」
「ウン。あのハンカチの一件は一番カンジンの話なんだが、戸塚の野郎が
「疑い深いなあ······お前は······」
「まだあるんだ。あの時の犯人は新しい地下足袋を穿いていたろう。コートの湿めった処に太陽足袋の足跡が、ハッキリと残っているのを君も僕も見たじゃないか。西村さんを抱え上げた時に······」
「ウン······見たよ」
「あれを戸塚が見やがった時に気が附きやがったに違いないんだ」
「何を······」
「犯人がインテリだって事を······」
「インテリたあ何かいな······インテリて······」
「学問のある奴だって事よ。知識階級······つまり紳士って意味だね。ねえ。そうだろう。あんなに真白い、四角く折ったハンカチなんか菜葉服の野郎が持つもんじゃねえ。タッタ
「お前のアタマの方が、戸塚の頭よりもヨッポド恐ろしいぞ」
「アハハハ。冷やかすなってこと······アタマは生きてる
「フーム······」
又野はバットを
「お前もインテリじゃなかとな」
三好は又野に睨まれてチョット鼻白んだ。
「インテリじゃねえけども······あれから毎日毎日考えてたんだ。だからわかったんだ」
「犯人の見当が付いたんか······そうして······」
「付いてる」
「エッ······」
「チャンと犯人の目星は付いてるよ」
又野はジロリとそこいらを見まわした。真正直な、緊張した表情でバットの灰を
「戸塚が犯人て云うのか······お前は······」
「プッ······戸塚が犯人なもんけえ。俺達と一所に見てたじゃねえか。犯人なもんけえ」
「誰や······そんなら······」
又野が突然にアグラを掻いて、真剣な態度で三好の方向に向き直った。バッタが驚いて二三匹草の中から飛上った。
三好は答えなかった。事務室の方向を鼈甲縁越しにジイッと見ていたが、そのまま非常に緊張した、
「誰にも云っちゃいけないぜ。懸賞金は山分けにするから······」
「そげなものはどうでも
三好はやっと振り返った。
「それよりも、もし戸塚が万が一にも赤い主義者だったら大変じゃねえか。君は在郷軍人だろう」
「ウン。在郷軍人じゃが、それがどうしたんかい」
「どうしたんかいじゃねえ。
「ウン。それあそうたい」
「腕を貸してくれるな······君は······」
「ウン。間違いのない話ちう事がわかったら貸さん事もない」
「そんなら耳を貸せ」
三好は又野の耳に口を当てて囁いた。
「その犯人が今ここに来る」
「エッ······」
「見ろ······今事務室の方からテニスの道具を持った連中が五人来るだろう。あの中に犯人が居ると俺は思うんだ。いつでもここでテニスを遣りよる連中だ。ここで何度も何度もテニスを遣って、ドンナ大きな声を出しても、ほかに聞こえない事をチャンと知っている奴が、思い付いた事に
「サア······」
そう云う又野の表情が、いくらか緊張から解放されかけた。三好の推測が、すこし
「オイ。いけねえいけねえ。あの中に戸塚が居やがる」
「······ウン······居る。あの奴もテニスの連中に眼を付けとるばい。······不思議だ······」
又野が深い、長い溜息を吐いた。
「不思議どころじゃねえ。早く隠れるんだ。俺達二人が揃っているのを戸塚に見られちゃ面白くねえ。······こっちに来たまえ」
三好と又野は慌てて草の中から立上った。二人とも何気なくバットの吸いさしを投棄てて、薄暗い汽鑵場へ
ネットはもう張られていた。
第一製鋼工場の副主任の中野学士と、職工の戸塚と、事務室の若い人間が三人来て軟球の乱打ちを初めていた。中野学士と戸塚が揃いの金口を
「オイ、三好。中野さんと戸塚の野郎は前から心安いんか」
三好が仄白い光りの中で片目をつぶって笑った。
「戸塚は中野さんの世話で
「そうじゃったかなあ······忘れた······」
「中野さんの処へ戸塚の妹が、女中になって住込んでいる。その縁故なんだ」
「そうじゃったかなあ······なるほど······」
「中野さんは九大出の秀才で、柔道が三段とか四段とか······」
「うん。それは知っとる。瘠せとるがちょっと強い。一度、肩すかしで投げられた事がある」
「この頃、社長の星浦さんの我儘娘を貰うことになっているんだ······中野さんが······」
「知っとる。あの孔雀さんちうモガじゃろ」
「ウン。それで社長から海岸通りに大きな地面を貰っているんだが、結婚前に家を建てなくちゃならんし、自動車も買わなくちゃならねえてんで、中野さんが慌て出している。相場に手を出したり、高利貸から金を借りたりしているっていう戸塚の話だ」
「戸塚の妹が
「そうらしいよ」
コスモスの向うの中野学士はほかの四人の
「戸塚ッ······お前はどこでテニスを遣ったんだっけね」
「中学で遣ったんです。後衛でしたが」
「スタートが遅いね。我流だね。ホラホラ······」
「ええ。この拝借した地下足袋が痛くって······」
「ハハハ······俺の足は小さい上に、足袋が新しいからね」
「これ······太陽足袋ですね」
「ウン······
「いつ頃お求めになったんですか」
「···············」
「非常に丈夫そうですが、どこでお求めになったんで······」
「···············」
中野学士は返事をしなかった。直ぐに真向うの事務員の一人を叱り飛ばした。
「馬鹿······そんな遠くからトップを打ったって利かん利かん······ソレこの通り······ハッハッハ······」
と高笑いをするうちに、その事務員の足の下へ火の出るようなヴォーレーをタタキ返した。その得意そうな
三好と又野は壁の穴から身を
「······そうかなあ······
セカセカと眼鏡をかけ直しながら三好はうなずいた。又野は茫然となった。
「そうかなあ······ヘエーッ······」
「まだ疑っているのかい。タッタ今、自分で犯人だって事を自白したじゃねえか」
「······フーム······」
「又野君······」
「···············」
「今夜、俺と
「どこへ······」
三好の眼鏡が場内の電燈を反射してキラリと光った。命令するように云った。
「どこへでもいいから一所に来てくれ。六時のボーが鳴ったら俺が迎えに行く。俺一人じゃ出来ねえ仕事だかんな」
又野が黙って腕を組み直して考え込んだ。三好が冷然と見上げ見下した。
「嫌になったのかい。それとも怖くなったんかい······」
「ヨシッ······行く······」
「きっとだよ」
「間違いない」
「大仕事になるかも知れないよ」
「わかっとる」
「
「ハハハ。わかっとるチウタラ······」
五
星浦製鉄所はさながらの不夜城であった。
第一製鋼工場の平炉は今しも、底の方に沈んでいる最極上の鋼鉄の流れを放流しつくして、不純な鉱石混りの、俗に「

暗黒の底に
その数百坪に亘る「

その
「返事はどうですか······中野さん······」
「···············」
「ここで返事すると云ったじゃありませんか······ええ······」
「···············」
「
中野学士が微かにうなずいた。それから悠々と金口煙草を一本出してライターを
「······あっしを······それじゃ······オビキ出すために、あんな事を云ったんですか······ここまで······」
戸塚は
「暑いじゃないですかここは······丸で
「······フフン······百二三十度ぐらいだろうな······この空気は······フフン······」
「······あっちに行って話しましょうよ。もっと涼しい処で······」
「······イヤ。僕はここに居る。ここで考えなくちゃならん」
「何をお考えになるんですか」
「この

「この火の海のですか」
「ウン······この

「今も考えているんですかい」
「ウン······重大なヒントが頭の中で閃めきかけているんだ。暫く黙っていてくれ給え」
戸塚は
「チエッ······いい加減、馬鹿にしてもらいますめえぜ。十二万円の話はドウしてくれるんですか」
「十二万円······何が十二万円だい」
「···············」
「十二万円儲かる話でもあるのかい」
戸塚は唖然となったらしい。狭いデッキの上で、すこし中野学士から離れた。
「······呆れたね······」
「そんな話は知らないよ僕は······夢を見ているんじゃないか君は······」
戸塚の眼が眼鏡の下でキラリと光った。菜葉服の腕をマクリ上げかけたが又、思い直したらしく、鳥打帽を脱いで頭を下げた。
「······イヤ······中野さん。決して無理は云いません。四半分でいいんで······ねえ。それ位の事はわかってくれてもいいでしょう。貴方は大学を一番で出た
中野学士の眼鏡が反撃するようにピカリと赤く光った。
「······失敬な······失敬な事を云うな。西村を
戸塚は冷然と笑った。
「ヘヘヘ。その証拠は······」
「九月の末に、お前と三好と俺とでテニスを遣った事があるだろう」
「ありましたよ。三好が、あっしに勧めて貴方にお弟子入りをしようじゃないかと云い出したんです。三好が、一番下手なんで、貴方が三好ばかりガミガミ云ったもんだから、あれっきり来なくなっちゃったんですが······」
「ウム。あの時に会計部の西村がコートの横を通りかかったろう」
「ヘヘ。よく
「今度の事件で思い出したんだ。······あの時も半運転だったからスチームの音がしなかったが、その西村の顔をジロリと見た貴様が······イヤ······三好だっけな······スチームが一パイ這入ってれあここで鵞鳥を絞め殺したって、生きながら猿の皮を剥いだって大丈夫だ······てな事を云ったじゃないか」
「そんならそれを聞いた貴方と、三好と、あっしと、三人の
「俺はソンナ事をする必要はない」
「必要はなくても貴方に間違いないですよ」
「何······何だと······」
「ヘヘヘ······あの時に貴方の仕事を、ズッと向うの事務所の前から拝見していたのは、あっしと三好と、又野の三人ですぜ。貴方は近眼だからわからなかったんでしょうけど······貴方は警察に呼ばれて話をしたのが又野一人と思っていらっしたんですか。又野が一番正直者ですから代表に名前を出されただけなんですぜ。ヘヘヘ······貴方にも似合わない
「···············」
「ねえ。そうでしょう。立役者は何といったって貴方一人だ。貴方にはチャンとした必要があったんだ。だからあの話から思い付いて、万が一にも抜目の
「···············」
「ねえ。そうでしょう。今貴方がお穿きになっているその新しい太陽足袋ですね。そいつがきょう、テニス・コートで物をいっちゃったんでさあ。あの話は、ほかの連中もみんな聞いているんですからね。あっしが出る処へ出れあ、証人はいくらでも······」
「よしッ。わかったッ。もう云うな······半分くれてやる」
「エッ。半分······」と戸塚が叫んだ。
「······ヘエッ······半分ですって······」
「同じ事を二度とは云わん。テニスの道具を
戸塚は茫然となって相手の顔を見た。相手の顔はニコニコしていた。
「······馬鹿······何をボンヤリしているんだ。その新聞紙包みをここに持って来いよ。分けてやるからな。テニス倉庫の鍵はこれだ。ホラ······」
戸塚は何という事なしに、慌てて頭を一つ下げた。鍵を受取ってポケットに入れようとしたが、その一
「アッ」と叫ぶなり戸塚はモンドリ打って火の海へ落ちて行った。
「ボオオ||ンンン······」
それは十海里も沖で打った大砲のような音であった。火の海の表面から湧き起った
ただ、それだけであった。
六
中野学士はポケットから白いハンカチを出して顔を押えていた。それでも
その
板張りのデッキへ帰る三尺幅ぐらいの鉄の橋の向うに一人の巨漢がこっちを向いて仁王立になっている。火の海の光りを反映した、その顔は怒りに燃えているようである。高やかに組んでいる両腕の太さは普通人の股ぐらいに見える。
中野学士は思わず半歩ほど後へ
中野学士はジリジリと身構えを直しながらも左右の
相手の巨漢は動かなかった。「俺は汽鑵部の又野という
「知っている。······職場以外の人間がこのデッキへ上る事は厳禁だぞ。俺はここの主任だぞッ」
中野学士の語尾が少し
「知っとる······貴様は今、何をしよった。俺の仲間の戸塚をどうしたんか」
「戸塚は自分で辷って落ちたんだ」
「······嘘
「
中野学士は相手が自分を殺すような乱暴者でない事を確信していたらしい。同時に自分の柔道の段位にも、相当の自信を持っていたらしく、イキナリ真正面から又野を突き
「エベエベエベエベエベエベ······」
という奇妙な声を上げたと思うと中野学士は、背中と尻のふくらみを又野の両手に掴まれたまま、軽々と差上げられていた。
又野は怒りの余り、中野学士を火の海へ投込むつもりらしかったが······トタンに、それと察した中野学士が無言のままメチャクチャに手足を振まわし初めたので、又野は思わずヨロヨロとなってデッキの端に立止まった。
その時に誰かわからない真黒い影が、突然に平炉の蔭から飛出して来た。又野の腰を力一パイ突飛ばすとそのまま、後も見ずに逃げて行った。
「アッ······」
と又野は前へのめったが、振返る間もなく中野学士を掴んだままギリギリと一廻転して、
しかし又野は下まで落ちて行かなかった。
ちょうど又野の両足の間に、鉄板の腐蝕した馬蹄型の穴が在った。そこに又野の左足の
「······ガガアーッガガアーッ······助けて助けてッ······」
金剛力に掴まれた中野学士の服地がベリベリと破れ裂け初めた。
「
又野も絶体絶命の涙声を振り絞った。
「オーイ。誰か来いッ。誰かア······誰か来てくれエエーイッ。オオ||オオ||イッ。あばれちゃいかん。あぶないあぶない······」
「何だ何だ」という声がデッキの上の闇から聞こえて、ガタガタと二三人走って来る足音がした。
しかし中野学士の耳には這入らないらしかった。火焔と同じくらいの熱度を
「ギャアギャアギャア······ギャギャギャギャッ······」
と人間離れのした声を立てた。その背中を掴んでいる又野も、絶体絶命の赤鬼みたような表情に変った。自分の踵がポリポリポリと砕けて脱け落ちそうな苦しみの中に、息も絶え絶えになって喘いだ。
「ハッハッハッハッ······あばれちゃ······いかん······ハッハッハッハッ······
折柄起った薄板工場の雑音のために、その声は掻き消されて行った。
その時に中野学士の胸のポケットからハミ出していた白いハンカチが、フワリと火の海の上に落ちてメラメラと燃え上った。トタンに中野学士が人間の力とは思われぬ力と声を出した。
「······グワ||アアッ······」
中野学士のお尻の処の
近付いて来た足音が、その上で立止まった。
「ここだここだ。ワッ。臭いッ」
「ウア||。大変だ。人間が焼け死によるぞッ」
七
暁の光りと、明け残った半月の光りが、雪のように真白な大地の霜を、静かに照していた。
星浦駅前の砂利だらけの広場に、淡い影法師を落しながら、鼈甲縁の眼鏡をかけた三好がスタスタと遣って来た。とても職工とは見えないスマートな茶縞の背広服に黒い冬オーバーの襟を深く立てて、左脇に四角い新聞紙包みをシッカリと抱えている。
一番汽車に乗るつもりであろう。暗い待合室に這入ったが、まだ時間が早いし、切符売場の窓が
改札口に近い右手の片隅には、青いネルの
その反対側の入口に近い処に、全身を繃帯で真白に包んだ、スバラシク巨大な大入道が、腰をかけていた。その左足には石膏か何か
三好は、あんまり意外千万な人間の姿を見てビックリしたらしく
三好は思わずドキンとした。白い大入道の中味が、生きた人間である事を発見したので······そうしてその眼の光りが、何となく見覚えがあるようで······しかも何かしらニコニコと笑っているような気はいに惹き付けられて、真正面からソーッとその暗い、繃帯の穴を覗き込んでいたが、忽ちハッと全身を
「ウワアッ」
と三好は夢中になって
「ダアッ······ガワガワガワガワ······ウガ||ッ······」
三好の叫び声を聞いた駅夫や駅員と、あとから人力車に乗って来た乗客が二三人、近寄って来たが、あんまり奇妙な光景なので、茫然として入口に突立ったまま見ていた。
その時に白坊主が、三好の耳に鼻の穴を近づけた。カスレた声で囁いた。
「······俺が誰か······わかるか······」
「ウア||ッ······ウワア||ッ······」
と三好は悲鳴を揚げて
「······幽霊だあッ······ウワア||ッ······」
「幽霊じゃない······」
白坊主が底力のある声で云った。
「貴様に焼き殺され損のうた又野たい。死んだ三人の
「ウワーッ。助けてくれ······俺が悪かった。俺が悪かった。十二万円遣る······ホラ······」
三好が投げ出した新聞紙包みが、白坊主の肩を越して、
「ハハハ。十二万円ぐらいじゃ足らん」
白坊主の声がだんだん
「······十二万円ぐらいの事でここまで来はせん。······俺は五体中を
そう云ううちに白坊主は、相手の返事を聞くべく、すこしばかり両手を緩めた。
「ウワ||ッ。違う違う······皆さん。こいつの云う事は皆嘘です。キチガイです。どぞ······どうぞ······助けて下さい。僕を殺しに来ているんです。キチガイ病院から抜け出して······」
「ハハハ······何とでも云え······今度の事件は皆、貴様がたくらんだ事じゃ。戸塚に智恵を附けて、中野学士をそそのかして西村を殺させた。それから俺を
「ウハアッ······違う違う。タ、助けて下さい。皆さん助けて下さい。······コイツはキチガイ······」
「畜生······まだ云うかッ······」
白坊主は三好を抱えたまま腰かけの上に坐り直した。両腕にグッと力を入れ初めた。
「ギャアギャアギャアギャアギャアギャア······」
それは鳥とも
「ギャギャギャギャ、ギイギイギイギイッ······」
往来を通りかかっていた人が皆、走り集まって来たので待合室の中が急に、暗くなった。
その中で三好の左右の肩骨がゴクンゴクンと折れ離れる音がした。
「ダダッ。ガガッ。ギイギイギイ||ッ······」
青鬼のようになった三好の両眼が、
余りの恐ろしさに見物人がドロドロと
「どこだ······どこか······」
「ここです」
「ここで絞め殺されよります」
と店員風の若い男が二人を
「アッ」
と云って棒立ちになった。
その巡査の眼の前の
「酒田さん。私は
「······何だ······又野か······」
巡査はホッとしたらしかった。そうして
「
白坊主の又野は眼を細くしてその光りを仰いだ。嬉しそうな、落付いた声で云った。
「十二万円は私の
そうして気力が尽きたらしく、両手を前に突出したまま、見物人の中央にバッタリと倒おれた。